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2012年2月29日 (水)

1649 不可逆変化

自然界の殆どの現象は不可逆の変化だと言えます。例えば、毎年葉を付け、実を結ぶ営みが繰り返されている様に見える木々や植物も、当然の事ながら前の年とは異なっています。木々は少し成長し、一年草は昨年とは異なる種から育ったからです。ましてや、全ての動物は、生まれ落ちた直後から老化に向かって戻ることの出来ない変化を開始する事になります。毎年全く同じように陽光を降り注いでいる様に見えるお天道様さえ、燃料である水素が燃え(核融合し)、ヘリウムを生み出す不可逆変化の過程にある筈です。

そう考えれば、今現在目の前で起こっている事象のなんと儚く、なんと愛おしい事でしょう。そう思って周りを眺めて見る時、あの「方丈記」の書き出しの言葉が心に浸みます。現象は、いわば悠久の時の流れに浮かぶ泡だとの長明の言葉の適切さは、他に替える事は出来ない完璧さです。

その意味で言えば、悪化させてしまった環境を、フィルムを逆転させる様に、元のきれいな環境に戻す事は絶対に無理だ、という悲しい結論になってしまいます。ここ十年ほど、環境に関してそれなりに勉強してきた立場で言っても、やはりそれを否定する事はできません。出来る事はといえば、精々悪化のスピードを少しだけ減速する程度です。だからこそ、次に踏み出す一歩は、後戻りのできない一歩だと、思い定めなければならないでしょう。たった今、政治の世界で繰り返している不毛な議論の様に、今日明日の(まして自分のファクションの)利益だけを考えて、今後の政策や社会システムの行く末を決めてはならないのです。

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2012年2月28日 (火)

1648 ナノ粒子

遅まきながら、ナノ粒子の取り扱いに対しての規制が検討され始めた様です。世の中では、ナノ粒子こそありふれてはいませんが、ミクロン粒子であれば、驚くほど多くの種類が出回っていて、かつ空気中にも浮遊しているとみています。例としては、各種の顔料や色素、産業から出る磨耗粉や研磨粉、ディーゼル車や焼却炉などから出る浮遊粉塵など枚挙にいとまがありません。これらの粒子で特に危険なのは、直径が5ミクロン以下の微粒子と、その形状や物質そのものに人体(とりわけ肺胞)に付着した場合、ガンなどの細胞変異を誘発する粒子です。

最近の報道でも、大きさが2.5ミクロン以下の、いわゆるPM2.5が、幹線道路沿いなど多くの地域で基準量を超えているとか。基準値そのものも、それ以下なら果たして健康に全く影響が無いかどうかについての研究もあまり進んでいないと思われ、恐ろしい話ではあります。生体には、異物が体内に入ると、それを組織で包み込み、影響を最小限にしようとする防御反応が備わっており、肺胞に付着した微粒子も細胞組織に包み込まれて固定化してしまうわけです。その微粒子が、もし生体に馴染まない物質や形状であった場合、包み込んだ細胞組織がガン化する場合もある訳です。良く知られた例では、青石綿繊維がこれに当たります。

さてナノ粒子です。いくつかの動物実験では、すでにナノ粒子の発ガン性が報告されています。もしそうであれば、ナノ粒子の扱いは慎重の上にも慎重を期さなくてはなりません。つまりは、負圧に保った場所(ハンドリングチャンバー内等)で扱い、人はナノ粒子を通さないマスク(事実上その様なマスクは開発されていませんが…)を着用し、衣服に着いたナノ粒子はエアシャワーで払い落とすなどの行動が必要となります。何に使えるか分からないナノ粒子は、どんな悪さをする物質なのかもまだ良くわかっていない物質なのです。

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2012年2月27日 (月)

1647 形而上学っぽい話

モノ・カネを超える議論をする場合、形而上学っぽいものに少しだけ足を踏み入れない訳にはいきません。もちろんそのための十分な見識も無いので、ややこしい哲学の迷路に入り込む気は毛頭ありませんが、それでも唯物主義の欠陥については、触れない訳にはいきません。唯物主義を投稿者なりの言葉で解釈すると、結局は全ての物質や現象を細かく切り分け、分子原子レベルまで分けて理解しようとする「還元主義」に他ならないと思えるのです。技術屋としての教育や訓練では、まさにこの還元主義に徹する事を叩きこまれた様な気がします。全ての装置や機械は、それを構成する要素(エレメント)に分ける事が出来、それらがお互いに作用しあって、全体としての機能を発現する、という教えです。

しかし、それらの教育や訓練では、何故その装置や機械が必要で、それが全体としての環境の保全や人類の幸福にどう結びつくかについては、まったく何も教えてはくれませんでした。つまり技術屋としてのノウハウは教わりましたが、そのノウハウを使う「目的」に関しては、避けて通ってきたとしか見えません。それが、企業や社会システムを動かすのに最も「効率」が良かったからでしょう。それが何の効率かと更に突っ込めば、それは「経済効率」という事になるでしょう。

1646でも書いたように、経済に理が無いと仮定すれば、経済効率にもやはり理は無いとの結論になります。投稿者の言いたい事は、このブログの全体的主張でもあるのですが、「環境効率」にこそ理があり、それを全ての経済活動の基準に据えるべきだ、というものです。どの様な道筋で考えても、環境効率を高め、現在のマイルドな地球環境の持続性を高める行動には、絶対的な理があるとの思いを日々強めています。続きます。

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2012年2月26日 (日)

1646 経済にも理は無い

技術に理が無いと同様に、経済にもやはり理はない筈です。何故なら、経済こそモノの流通・交換の方便であり、経済がまだ存在しなかった時代の物々交換を、便宜的に決めた価値のシンボルである通貨を絡めて、少し便利にした「手段」に過ぎないからです。あるシステムが、目的かあるいは手段であるかのチェックは比較的簡単です。目的は唯一無二ですが、手段は目的に至るための方便ですから、いくつものオプションが存在する事で確認できるでしょう。

さて、経済は間違いなく手段ですから、単純に考えるだけでも、通貨や為替に拠らない取引という手段もありそうに思えます。例えば、物々交換やバーター取引と呼ばれる形態がその一つです。しかし、物量が大きくなり過ぎた現代社会では、それではあまりにも不便だし、モノの価値の基準が国や地域によってバラバラでもあり、利便性を追求した結果、不完全ながら今日の経済システムにたどり着いたのでしょう。

しかし、今の経済システムの状況をながめてみるに、明らかに理想の姿からは逸脱し、かつ歪みきっている様に見えて仕方がありません。地下資源をせっせと掘り出して生まれた価値(お金=例えばオイルマネー)が、地上にドンドン蓄積しついには雪崩をうって、あるいは洪水の様に、私たちに襲いかかって来ている様に思えます。目的を見失い、手段に振り回される構図は、歴史的にも何度も繰り返されてもいます。それを維持するために作られたはずの手段に押しつぶされて、結局は凋落してしまった文明や国々のなんと多い事でしょう。手段としての経済にもやはり理は存在しないと結論するしかありません。そうでないと言い張る経済学者は、「経済倫理」を私たちの前に示さなければならないでしょう。

 

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2012年2月25日 (土)

1645 技術に理は無い

環境問題から技術や経済問題へとブログの枝葉が伸びていますが、環境悪化の真の原因は、技術と経済の暴走にあると思っていますので、もう少し辛抱して貰うしかありません。さて、中間技術の前提ともなっていると思いますが、そもそも「技術とは何か」について、更に掘り下げてみます。技術とは、人が持っていた手ワザを体系化したもので、元々は、安くて誰でも手に入れられ、小さな規模で応用でき、人間の創造力を発揮させる様な、いわば補助的手段であったはずです。

しかし、産業革命(これは畜力・人力からのパワー革命でもあった訳ですが)以降、とりわけいくつかの近代戦争を含む近年は、その技術が社会を先導する様な、いわば逆転現象が常態化している様な気がします。核物質の濃度を高める技術が、核爆弾の製造を可能にし、その爆弾を持った国と持たざる国のパワーバランスが、極端に歪められてもいます。また、真空管を代替するために開発されたトランジスタが、「0」と「1」の2値を電気的に保持する「フリップフロップ」機能も持つことが確認されて以降、電子計算機(これも古い言葉になりました)に組み込まれ、この数十年で、信じられない様な長足の進歩を遂げたわけです。しかし、技術はそれ自身では倫理を抱合していませんので、誰かが「IT力」に関しても、核力と同様に如何なるモンスターを編み出すか、予断を許さない状況に至っています。ツイッターやフェイスブックの社会的影響力は、その望ましくない出現を強く懸念させます。

結局、技術は確かに物理科学(化学)の原「理」は応用してはいますが、ではそれを実際に人類の幸福のために使っても良いのか否かについては、何度も書いている様に、現在の技術の適用には倫理(技術倫理)への完全な無視があまりにも目につき過ぎます。

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2012年2月24日 (金)

1644 中間技術

シューマッハが提唱する「Small is beautiful」の中で、彼が言う「小ささ」の中心となるコンセプトは「中間技術」と呼ばれているものです。これは、現在、世界の大企業と呼ばれている企業群が、下請けや孫請けなどの裾野を巻き込んで展開している技術を「巨大技術」と呼び、家内工業や手工業的な技術を「小型技術=手仕事」と呼ぶならば、それに対比されるべき概念です。分かり易く言えば、中小企業が単独で、或いは何社か協力して枠組みを作れば、市場に製品を投入できる様な技術サイズで、しかもその製品へのニーズは企業が立地していている地域=足元にある事が前提になります。つまりは、それは決して華々しい輸出産業ではない、というタガも嵌っています。もし、輸出を考えるなら、その中間技術や工場自体を、必要とする国にそっくり移転する事になります。市場は、それぞれの国内にある訳ですから、異なる国でまったく同じ製品を作ったとしても決して競合状態になる事はない筈です。

さて、具体例を考えてみましょう。中間技術は、先ずは中小企業の手におえる規模でなければなりませんし、しかもその企業1社か精々数社の協力で全てが完結できる範囲の技術レベルである必要がありますから、製品価格としても数百万円から数千万円程度であると想定されます。現在世の中で見られる具体的なBUの例で言えば、中小規模の風力や水力利用、太陽熱・太陽光利用、バイオマスの利用技術などが挙げられるでしょう。ただし、それらは一般家庭に設置される、個別のソーラーシステムや常夜灯を灯す程度の小型風車などを指す訳ではありません。それらを、もし大企業が大きな工場で大量産をするなら、それは巨大技術になってしまうでしょうし、それを個人企業が手作りするなら、単なる手仕事になるからです。中間技術は、あくまでも中小企業として取り組むにピッタリのBUサイズである必要があります。

更に言えば、地域には、エネルギーや食糧や住宅や衣服(衣食住)に関しての基本的なニーズが存在する筈ですから、先ずはそれらの基本的なニーズ充足に寄与するために、第一優先として「地域の資源・エネルギー」に着目する必要があります。エネルギー源としては、太陽光が全ての基本になりますし、水が豊かな場所ではその活用も不可欠です。農業地帯や中山間地なら、バイオマスがその主役になり得ます。

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2012年2月23日 (木)

1643 刷り込み

ローマクラブの資源枯渇予測や環境悪化の予言、R・カーソンの指摘した静かな環境汚染、或いはシューマッハの予言がズバリ的中したエネルギー危機(石油ショック)や20世紀型経済の破綻など、彼らの予言や指摘に対して、投稿者が殆ど100%納得しているのは、自分で考えた事が彼らの思索と重なったと言うわけでは勿論ありません。そんな洞察力が備わっているのであれば、とっくの昔に何冊かの著書をモノにしているでしょうし、こうなる前に社会のオピニオンリーダーとなって、いくらかマシな方向に誘導できたかもしれません。

順序は全く逆で、投稿者は若い頃に彼らの著作を読んで、その論旨や考えが単純に刷り込まれたに過ぎないのです。メーカーのサラリーマン技術屋として長年暮らし、結局その立場に疑問を感じて、そこを飛び出さざるを得なかったのは、他の人とは少し違って、「刷り込み文字」が、年齢を重ねるに従って、段々濃くなってきただけなのだと振り返っています。その刷り込み文字は、バブルの崩壊やその後の経済低迷、石油価格の乱高下などを経て、更にくっきりと浮き上がってきたのでした。21世紀に入って間もなく、矢も盾もたまらず技術屋から環境屋に脱皮せざるを得なかったのは、彼らの深い洞察が、まさに本物だった事をますます確信したからでした。

取り分け、シューマッハの「私たちは、科学や技術で何をどうするかというノウハウは持っているが、それが一体どの様な目的に基づくものかを知らない」というメッセージは、その頃技術=ノウハウこそ重要だと考えていたノウテンキな一技術屋の目を覚まさせる強烈なパンチとなったのでした。たぶんその頃から、世の中を見る際には「目的と手段」という二つのフィルターと、鳥の目と虫の目を使い分けなる事を始めた様な気がします。一方では、単なる本や聞きかじりの知識の受け売りだけは止めようとも思いながら、暮らしてきたつもりではあります。この長たらしいブログでも、これまで仕入れた知識に自分自身の経験を織り交ぜた想いを、堅いスルメをしゃぶる様にクチャクチャト反芻しているという訳です。

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2012年2月22日 (水)

1642 創意工夫を取り戻すには

では、すっかり目減りしてしまった創意工夫の能力を取り戻す方法は無いのでしょうか。先ずは、知恵と知識を分けてかかる事が必要です。ネット上に蓄積された、或いは日々蓄積されつつある膨大な情報は、単なる「知識」であり、それ自体が何か物事を為すときの指針を与えてくれる訳ではありません。ましてや、よくよく吟味しないと間違った知識さえすましてアップされてもいます。喩えて言うなら、知識とはダムに溜まった水の様なものです。

しかし、知恵とはその水をどう使うかという、いわば知識とは次元の異なるものだと言うしかありません。つまり、ダムに溜まった水で、水車を回して電気を起こすのか、或いは用水路に流して農作物を育てるのか、或いはダム湖畔に宿を建てボートを浮かべてレジャー施設とするのか、はたまたダム湖で淡水魚を養殖して内陸漁業を始めるのか、水=知識の使い方はそれこそ無限にあり得ると言う事になります。その際、ダムに貯めた水を使って何をするかという発想ではなく、このダムが立地するエリアでは、一体何が求められ、何に特に困っているのかを、掘り下げて考えてみる必要があると思うのです。困っても居ない事に水=知識を使うのは、それこそ濫用というものです。水=知識は、両刃の剣でもあるので、時には洪水も起こすでしょうし、知識を間違って使えば武器や原爆だって作れる訳です。

創意工夫能力を呼び起こすための投稿者の提案とは、先ずは困ってみる、という状態に自らを置く事です。たった今困っていないなら、模擬的に困った状態を作り出しましょう。元電源のブレーカを落としてみれば、電気の有難みが疑似体験できるでしょう。携帯電話やパソコンや、身近な電化製品を一度押し入れに入れてみて何が、どの様に不便か、或いは車を車庫に入れっぱなしで1週間暮らしてみて、何が困ったかをながめてみれば良いのです。もし、あまり困らなかったら、それは今後とも必要のない道具でしょうし、確認のために使わない期間を1か月に延ばしてみれば、更に念が入るでしょう。ひどく困らない限り、ヒトの知恵も工夫も湧いてはきません。その意味で、原発が知識の間違った使い方であったのか、或いはそれが本当に必要な道具であったのか、これから夏場までの間にしっかり吟味されるはずです。 

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2012年2月21日 (火)

1641 創意工夫の放棄

ヒトには、他の動物には無い「知恵」という能力が備わっています。数少ない例外としては、チンパンジーなどの類人猿に、簡単な道具を使う「知恵らしきもの」が観察される程度です。さて、その知恵ですが、いまや殆どの「知識」がネット検索でき、或いは便利過ぎる道具が日々生まれている現在、ドンドン目減りしていっている様に思えて仕方がありません。必要は発明の母であって、困り事は工夫の父である事は論を待ちません。その意味で、現在の私たちの暮らしには、殆ど「重大な」困り事は無くなってしまった様なのです。衣食住がほぼ満ち足りた現在、暮らしの中に、お年寄りの持つ古くからの知恵などは入り込む余地を失ってしまった様なのです。

戦後にひもじい思いを経験した団塊以上の年代は、少なくとも空腹を満たすのに必死になった時代を通り抜けてきました。隙間だらけの住居で、大家族が身を寄せ合って暮らしていた時代、毎日が工夫の積み重ねだったと、自身の経験を通じても断言できます。子供は日々遊びの工夫をし、親世代は子供や自分の衣食住を少しでも改善するために、工夫を重ねていたと思うのです。1970年代の初めの頃に職を得た投稿者ですが、1970年代半ば以降は、食や生活物資がドンドン豊かになっていく過程しか記憶にありません。

電気仕掛けの便利製品が次々に市場に投入され、交通手段として車が爆発的に増加した社会の中で、人は新しいモノを受け入れ使いこなす事、そのモノを買うために1円でも多く金儲けをする事しか頭に無くなってしまったのかもしれません。他の人が作った便利な道具を、マニュアルを見ながら使いこなす事に知恵や工夫は必要ありませんし、金を稼ぐには少しばかりずる賢く立ち回るか、それが苦手な人はしっかりと体を動かせば良い訳です。自動化された工場では、体を動かすことすら必要なく、単なる監視で済む事さえ珍しくない光景になりました。続きます。

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2012年2月20日 (月)

1640 目的の無い技術

これまでも、「技術の目的」などのタイトルで何回か書いたような気がしますが、最近目に付く目的の無い技術について、改めて書いておきます。というよりも、そもそも科学や技術に目的など無かったのでないかとも思っています。科学とは、結局はヒトの好奇心の発露として知り得た事実を体系化したものに過ぎないでしょうし、技術に至っては目的の欠片もない「完全なる手段」だと言うしかありません。

例えば、車ですが、カーキチ諸氏がなんと主張しようとも、車は単なる陸上の移動手段に過ぎないのです。今の車の姿はといえば、現在の科学・技術で到達可能な移動手段そのものなのです。車以前の移動手段としては、種類は結構少なく、H田総一郎が作ったエンジンのついた自転車=原動機付き自転車があり、その前は自転車や鉄道や馬や馬車があっただけです。100数十年前にダイムラー・ベンツやフォードが実用化した車ですが、その後は他の陸上移動手段が発明されなかったので、仕方がなく私たちは車の改良を重ねて現在に至った訳です。もし、スターリングさんが、もっと効率の高い「すごい外燃機関」を実用化していたなら、或いはフォード車に鉄に替わる強靭で軽い素材が採用されていたなら、或いはダンロップさんがゴムタイヤではないスマートな動輪を発明していたなら、車の姿は今と似ても似つかない形になっていた可能性もあります。

その他の「新しい技術」と言われるもの、たとえば航空機やエレクトロニクスなどついても全く同じ事が言えるでしょう。あらゆる技術は、ある特定の機能を実現するための手段でしかないと断言できます。技術に理や目的を与えるのは、結局は倫理しかないのだと思います。それを「技術倫理」と呼んでおきますが、では原発に理はあるのかと問われれば、アインシュタイン以降、原子力は兵器であれ、原発であれ、度々の国際緊張や強いエネルギー需要の元で、結果としては技術倫理の網を掻い潜ってきたのだ、としか言えません。少なくとも、ヒトやあらゆる生物にとってこれほど危険なエネルギーを、たった二重か三重になった入れ物に入れただけで、1基100万kwもの出力を出し続ける様な危ない使い方を、一体誰が許したのか、という問いには答えは返ってこないでしょう。それは、産業政策を推し進め、人々の生活を快適にすると言う大義名分を実現するための「手段」でしかなかったと言うしかありません。

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2012年2月19日 (日)

1639 化石燃料という資本

前項の続きです。化石燃料が、人間社会のシステムを支える資本の一つだとして、それを食いつぶさない方法を更に考えてみます。人間が、勝手に使っても良いエネルギー源は、資本である化石エネルギーやましてや危ない原子力エネルギーではない事は、今後あるべき社会の大前提です。地下から勝手に湧き出てくる地熱エネルギーは、ギリギリでセーフだと言えます。

では何が絶対的にセーフなエネルギー源かといえば、言わずもがなですが太陽からのエネルギーしかないことは明らかです。これは、人類が存続しようが絶滅してしまおうが、今後何億年、何十億年に亘って地球に降り注ぐ「天からの恵み」だからです。これを、少しいただいて、人間社会を少しばかり快適に保つのは、自然の許容性というもう一つの資本から考えても許される範囲です。具体的には、太陽光発電、太陽熱利用、風力、水力、バイオマスなどの利用がこれに当たります。しかし、どの自然エネルギー=再生可能エネルギーを利用するにも、何らかの形の仕組み(ハードウェア)が必要となります。たとえば、太陽光発電におけるシリコンの精製やモジュール化、風力利用における風車や水力発電のためのダムや水車などです。

もちろん、これらのハードウェアやインフラを整えるためには、多大な資源や建設エネルギーが必要となる筈です。ここに、資本としての化石エネルギー(や地下資源)を役立てる局面が生じる訳です。したがって、単なる利便性やアメニティのためだけに使われるエネルギーは、これを最大限に抑制(我慢)して、自然エネルギー利用のためのハードウェアやインフラの建設の建設に、それを振り向けていく必要があると言う事になります。これが、シューマッハの言う資本の食いつぶしを防止する、唯一の方法だと言えるでしょう。

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2012年2月18日 (土)

1638 三つの資本

シューマッハは、化石燃料を、地球からのプレゼント=「所得」として見るのではなく、「資本」として見るべきだと主張しています。彼の見方では、私たちは資本であるべき化石燃料や地下資源を、さながら天からの授かりものの所得の如く「食いつぶしている」と言っているのです。確かに、2代目か3代目の経営者が初代の築いた資本(財産)を食いつぶした企業が長続きする筈もありません。その意味では、彼の主張には全面的に賛成できます。しかし、金属などの地下資源はさておき、燃やせばなくなる化石燃料は、資本として一体どう考えたら良いのでしょう。つまり、ことエネルギーに関しては、私たちは将来に亘って大事な財産を食いつぶすしか方法が無さそうにも見えます。

彼の言いたい事を想像して補えば、私たちは石油がまだある内に、次世代の持続可能なエネルギー源を開発しそれを確保しておきなさい、と述べている様に思います。石油は、賦存量の半分は既に消費してしまったので、その意味では残された時間はそんなに長くはないでしょう。エネルギーインフラの代替わりには、少なくとも数十年の時間を要するからです。取り敢えず化石エネルギーから絞り出す水素や、LNGやましてメタンハイドレートは、次世代エネルギーの候補リストから外さなければなりません。これについては、次項に続きます。

さてシューマッハは、エネルギー(を含む地下資源)資本と同じ意味で、三つの資本があると言っています。地下資源以外の残りの二つの資本とは、自然の許容性、人間自身なのだそうです。もちろん、彼は人間の社会を考えていた訳ですから、他の生き物を除外しているのは、仕方がないとは言えるでしょう。しかし、環境おじさんを自認する投稿者としては、ぜひ「彼ら=全ての生き物」も持続可能性の仲間に加えるべきだと主張しておきます。

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2012年2月17日 (金)

1637 製品のリストラ

企業の大型赤字決算が目白押しですが、これらの企業には、先ずは「人のリストラ」に走るのを思いとどまって貰いたいものです。その前にやるべきことは、製品のリストラだと思うのです。誤解を招くといけないので、製品のリストラを、ここでは「製品のバージョンアップ」と呼び換えておきます。ITの世界では、どんなハードウェアもソフトウェアもバージョンアップの努力を重ねているのは、誰もが知っている話です。IンテルのCPUも、Mイクロソフトの基本OSも、この十数年の短い間に、一体何世代の代替わりや小改良を繰り返してきた事でしょう。

振り返って、例えば家電の代表であるテレビ一つを取ってみても、ブラウン管を使った第1世代から、今はやっと2代目の液晶テレビに代替わりしたばかりです。近い将来に、膜が自身が発光する有機ELになってやっと3代目になる訳ですが、これにはたぶん更に10年程度の実用化開発と普及期間を要するでしょう。これまでメーカーが、そのパワーを注いできたのは、その時代に主流となった方式の製品コストを1円でも下げ、時間当たりの生産量を1台でも増やす努力でしかなかった訳です。

そうではなくて、メーカーにはより少ない資源やエネルギー消費で、より高い機能を実現する仕組みを日夜工夫して貰いたいのです。例えば、家電の代表選手であるテレビについて言えば、歯止めの効かない画面の大型化路線ではなく、どうせひとり一人がバラバラに番組を視聴する時代ですから、メガネの様に身に着けるモニター画面があっても良い訳です。これだと、超省エネが実現できるでしょうし、資源の使用量も最小で済みます。同様に車産業について言えば、今の半分の重量(資源使用量)で、逆に燃費は倍になる(リッター当たり50㎞以上)乗用車を開発して貰いたいのです。何しろ省資源かつ省エネで、目方当たりの単価が高い製品の提供こそが、資源小国であるこの国の産業が、国際社会で生き残る唯一の道なのですから…。

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2012年2月16日 (木)

1636 逆人口ピラミッド

人口構成は、一般的にはすそ野が広く、上に行くほど死亡率が高くなる結果少なくなり、ピラミッドの様な三角形になるところから人口のピラミッドと呼ばれてきました。しかし、教育水準が上がり、並行して出生率が低くなるにつれて「釣鐘型」に移行し、更に少子化が進めばこの国が悩んでいる様に、若い世代の割合が極端に小さい「樹木」型になると言う事の様です。何しろ、この国が「高齢化レース」では世界のダントツを走っている訳ですから、先進の他国も同じようになるかどうかは分かりませんが、いずれにしても問題の根は深いと思われます。

しかし、ものは考え様で、投稿者の提案はこの国の人口ピラミッドを逆さにしてしまおうというものです。逆人口ピラミッドでは、人は年を取っても元気で働ける限り、人口ピラミッドの底辺で、若者や社会を支え続けると言う考え方です。節制をしていたにも関わらず、病気やけがで動けなくなった高齢者は、このピラミッドの上に乗っても良いでしょう。つまり、元気な人は何歳であれ、支えを必要とする人口のサポートに回る社会構造を意味します。しかし、不摂生(例えばヘビースモーキングや深酒やメタボ)が直接の原因で病気になった人には、お灸をすえる意味で高い負担をしてもらうしかないでしょう。

さて、底辺の大人やお年寄りに支えられて、若い世代は懸念無くしっかり働けるでしょうし、新たに生まれた赤ん坊は、ピラミッドの頂点で国の宝になる訳です。つまりは、単に年齢で層別するのではなく、社会を支える能力の有無でピラミッドとして積み上げる訳です。これを、例えば国の制度とする「上から目線政策」では所詮民意の賛同は得られないでしょう。そうではなくて、これは若い世代には今以上の負担は掛けられないと言う、元気な団塊以上世代の「やむにやまれぬ善意」から生まれる制度でなければなりません。その意味で、投稿者より上の世代には、新聞の精読や、だらだらとしたウォーキングや、頻繁に出かける目的の無い旅行などで暇を潰している場合ではないと、褌の緒を締めて貰いたいのです。

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2012年2月15日 (水)

1635 延長線上ではなく

お役人は優秀であればあるほど、現在の延長線上の外挿で考え、判断を下す存在だと言えます。よく言われる様に、過去の実績に胡坐をかいて、「実績主義」での将来計画を立てる訳です。しかし、例えば地震が断層やプレート境界に起こる、不連続でしかも不可逆な現象であるように、たとえばリーマンショックや国や銀行などの経済破綻の多くも、不連続かつ不可逆であると言う点においては、地震と変わるところはない様に見えます。何故ならお金を持っている人や機関投資家は、鵜の目鷹の目で、次なる儲け話を探してはいますが、少なくともバブル崩壊を経験した世代が居なくなるまでは、たぶん同じ分野でギャンブルを仕掛ける事も無いでしょう。

さて、現象が不連続である限り、その対策も過去と現在の延長線上に存在する可能性は低くなります。具体的な例を挙げれば、破綻した、または破綻しかけている国があったとして、その国を立て直すのに、従来の経済的政策(例えば国債発行や他国からの支援による資金を注入しての景気刺激策)では、事態が好転しない事は明らかです。何より破綻の原因は、その国の経済が「持続可能ではなかった」事が原因ですので、対策はその問題の根っこに注目する必要があるからです。

従って、取るべき対策には、将来に向かって「本来あるべき姿」を描いた上で、そこに向かって現状からアプローチすると言う、いわゆる「バックキャスト」の手法が必要となる訳です。しかし、上に述べたように、実際に計画を立てる官僚はと言えば、相変わらず実績・実例主義でしか絵が描けませんので、いまこの国が陥っている様に、長いトンネルに入ったまま、或いは堂々巡りを繰り返す羽目になる事になる訳です。ケインズさんから連綿として続く経済屋さんにも、やはり将来ビジョンを描くのが得意な人をあまり見かけないのは偶然ではなさそうです。いずれにしても、金儲けの方法しか頭になく、金勘定しかできない人に、持たざる人や国の借金の清算を、ましてや人々の最大幸福への道などを相談するのは、所詮時間の無駄というものでしょう。ケインズ経済学を超える経済学(シューマッハの言葉を借りれば超経済学)の出現が待たれます。

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2012年2月14日 (火)

1634 選択と集中

右肩上がりの時代が終わりに近づいた時期に、大企業の経営者の口癖は「選択と集中」でした。つまり、今後とも利益が見込めるビジネスユニット(以下BU)には、経営資源(人、モノ、金)を集中させ、その事業の拡大と利益率の確保を狙った戦略だった訳です。一方で、その時点で収益率の低いBUは、たとえそれが社会的に必要とされ、将来の展望があったとしても、商売にならないものは切り捨てる方向に走ったのでした。しかし、当然の事ながら、競争相手も同じ様な事を、ほぼ同時期に考えていたはずです。何故なら、お互いに市場調査は怠りなく行っていたはずですし、所詮国やシンクタンクからの同様な情報インプット下での結論は似てくるものだからです。

その好例は、かつての重工業や重電機で、現在はエレクトロニクス業界や自動車業界に見る事が出来るでしょう。例えば、造船がK国やC国の追い上げでじり貧になってしまった局面で、重工は、航空機や新幹線や環境機器(それらはゴミ焼却炉など公害を防止する後ろ向きの設備ですが)などに活路を見出そうとしました。しかし、それもいまや必ずしも十分に成功しているBUとは言えない分野に成り下がりました。また典型的な設備型産業である、エレクトロニクスや太陽光発電パネル(PV)などは、積極的な設備投資を行った「追い上げ組」に対し、古い設備の更新に出遅れたこの国の企業は守勢に回り、結局は追い越されてしまったのでした。

投稿者が見るに、この方向は「再転換」しなければならない時代に入った様なのです。つまりは、多様なニーズに対する、多様な製品を提供しなければ、今後の時代には20世紀型企業として取り残されてしまうからです。一方で、各BUのサイズは可能な限り小さくしておかなければならないでしょう。何故なら、多様なニーズがそれぞれ要求する量(デマンド量)もますます小さくなると思われるからです。今後、多品種・小ロット生産体制に移行できなかった企業は、大きな設備を抱えて路頭に迷うしか道はなくなるだろうと見ています。この時代の流れに柔軟に対応できるのは、実は自動化設備などではなく、自分の頭で考え行動できる人間力だと言う点も重要なポイントです。

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2012年2月13日 (月)

1633 救いか呪いか

EF・シューマッハの「スモールイズビューティフル」を読み返していますが、1970年代に、これほど見事に現在を含む未来を見通した著書も少ないと、しみじみ感じ入りました。1632に投稿者の浅はかな感想で、原発再稼働には気は進まないながら目先のエネルギー危機を乗り切るためには、しっかりチェックした上なら当面の稼働は仕方がない、という様な事も書きましたが、この著書の「救いか呪いか」の項を読み返すにつけ、原発にはやはり未来永劫静かに眠って貰うしかない、と思い直した次第です。

シューマッハの論点は明快です。ウランという単純な放射性物質から、核分裂の結果、おびただしい種類の危険な放射性物質が生まれ、かつその処理に有効な方法が見出されていない結果、今後も永く環境に蓄積され続ける、という恐怖感を述べている訳です。しかも、それを長期間保管すべき、完全に安全な場所など存在しないと言う点も指摘しています。地震列島であるこの国にもまさに、放射性物質を燃やしたり、保管したりするに安全な場所など存在しない事は、昨年の震災で100%証明されてしまいました。保管期間は、しかも放射能が「事実上危険でなくなるレベル」まで、という前提が着きますので、長い半減期のその何十倍も長い期間に亘る訳です。

もちろん彼の結論は、放射能は明白な呪いであるというものです。加えて、その膨大なエネルギーを武器という最悪の方向に使うと言う危険な可能性を持つ限り、やはり放射性物質には、再び地下深くにお隠れになって貰わなければならないでしょう。というわけで、1632に書いたシブシブながらの原発再起動の条件は取り下げて、改めて強い反対派に回ることといたします。

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2012年2月12日 (日)

1632 徹底比較

1631の続きです。福島第1と第2は、ほぼ同条件の場所に所在し、同様に津波を被りましたが、片方は辛うじて冷温停止移行に成功し、片方は残念ながらメルトダウンという最悪の事故を起こしてしまいました。しかし、まだ津波や原発事故の記憶が生々しい内に、是非しておくべきことがあります。それは、福島第1と第2の徹底比較です。第2でも津波後は同様に電源が失われ、一つの原子炉ではメルトダウン直前まで追い込まれた様です。しかし、ここではそれを切りぬけ、しかし第1ではそれに「失敗」した訳です。事故原因には、大きく分けて設備の構造的な弱さとヒューマンエラーによる人為的なもの、或いはその複合があります。

そこで、専門家にこの二つの原発の比較表を作って、徹底的に比較をしてもらいたいのです。ここでの専門家とは、単に原発の専門家だけでは事足りません。事故には間違いなくヒューマンファクターも大きく関わっていたはずなので、心理学者には双方の原発スタッフの行動や、心理的な葛藤までも比べて貰いたいのです。

その徹底的な比較表で、結果を分けたハード面と行動面のファクターを取り出し、既存の他の原発のハード、ソフト面の改善に適用すれば、少なくとも福島第1の二の舞は防げるはずなのです。その説明をすれば、投稿者としても再起動にはあまり気は進みませんが、消極的ながら再起動を考えている原発立地自治体の理解もそれなりに得られると思うのです。コンピュータによる地震・津波ミュレーションや、その計算のための境界条件を与えた、(再起動ありきの)色着きメガネを持った原発メーカーの「専門家」が作った検証結果を、そのまま鵜呑みにせよと言っても、それは無理な相談というものです。その際少なくとも、上で述べた公正で客観的な比較表は、説得力を持った判断材料にはなり得ます。

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2012年2月11日 (土)

1631 机上のテスト

コンピュータの中で、原発の安全性がテストされたのだそうです。その結果が安全なら、国としても「取り敢えずは」再起動OKとの結論を出すのでしょう。しかし、ちょっと待ったです。誰が、現物のハードウェアを確認したのでしょうか。数日前の新聞記事で、同じく津波を被ったものの冷温停止中の福島第2原発で、圧力容器の下部構造などを公開したと報道されていました。同様に、全国のほとんどの原発が冷温停止している今の時期こそ、徹底的な横断的ハードウェア点検の好機だとも言えるでしょう。原発は、電力各社がそれぞれに建設し、メンテナンスされているため、原子力村の専門家を除けば、マスコミや「村」関係者以外に設備の裏側(バックヤード)を公開する事はほぼ皆無でした。

しかし、実際に燃料棒を上下する機構や冷却水ポンプの設置状況や、バックアップシステムの緊急時のマニュアル操作の仕組みを、原子力の専門家ではない、一般の設備の専門家が覗き見るだけでも、多くの問題点が浮かび上がってくるのだと想像しています。というのも、設備には故障が付き物ですので、その道の専門家であれば、トラブルが起きそうなポイント(ハードウェアの弱点)は、一目で見抜く事が出来ると思うからです。

もう一つのポイントは、緊急冷却システムなどの絶対に停まってはならない装置は、単にバックアップ(スタンバイ機)が設置されているだけでは十分ではないと言う点です。バックアップのバックアップシステムは、作動原理の異なるシステムである必要があるのです。電動ポンプのバックアップは、電動以外に、蒸気ターピンやディーゼル直結駆動など、複数のシステムで構成されている必要がありますし、当然の事ながら設置場所も、別区画である必要もあるのです。そうでなければ、いかなる場合も安全であると言うフェイルセーフ(Fail Safe)の考え方とは程遠い、危ないシステムだと切り捨てるしかないのです。

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2012年2月10日 (金)

1630 無重力実験

少し延期にはなりましたが、またぞろ宇宙ステーションに人を送るとか。スペースシャトルが引退したいま、交通手段は今度もばか高いRシアの「宇宙タクシー」を使わなければなりません。その意味で、せっかく作った「宇宙の小部屋」を、空き室にしておくのは勿体ないなどと考えるのは、まったくの筋違いです。空き家にしておいてもお金は掛かりませんが、人を送るためには食糧や水や補給物資を含め、タクシーの他にも別の貨物便も必要となります。もうそろそろ、超健康な宇宙飛行士を、自力では動けない状態になるまで、小部屋に閉じ込める愚は再考すべき時期だと言っておきます。

無重力空間で、各種の実験が必要なら、精工に作られたロボットこそその任に最適でしょう。「彼(又は彼女?)」は、太陽電池が働いている限り、それこそ不眠不休で働いてくれるはずです。船外活動だって、電線さえつながっていれば宇宙服などは不要なのです。実験機材を送り込むだけなら、それこそこの国がお得意の超小型ロケットや遠隔操作技術が100%役に立つでしょう。

それよりなにより、無重力下でなければ各種の高度(と呼ばれる)実験できない理由など、殆ど無いのだと言えるのです。完全無欠な合金や、重力下では合成が難しい医薬品だって、数秒間の無重力であれば地面に掘った立坑を使えば十分可能ですし、疑似的な無重力なら、航空機を使っての数十秒間の持続も可能です。不要不急の宇宙実験に、「天文学的」な予算を費やすくらいなら、それを再生可能エネルギー技術の開発や実用化に注ぎ込んでもらいたいのです。地上の暮らしの問題解決こそ、最優先されるべき課題でしょう。何度でも繰り返しますが、宇宙開発で手に入る資源としては、真空と無重力と暗黒しか存在しないのですから…。

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2012年2月 9日 (木)

1629 「公」を考える

経済学者は、経済活動を論ずる際、たびたび経済合理性を振りかざします。例えば、ある市場においては、需要と供給から市場価格が決まり、一定レベルの経済活動が回っていくなどと表現します。需要と供給のバランスが崩れた時に、市場価格が変動し、新たな価格に落ち着くと言った経験則を、この傾向に合わせた後付けの数式に表したりもします。

しかし、実のところこの経済合理性に市場を任せた結果、今の経済システムの混乱が生まれ、環境の悪化も加速した訳です。結果的に見れば、20世紀型の経済合理性に「理」は無かったと言う事にもなりそうです。それでは、どこで間違ったのかの反省こそ必要です。どう考えても、国を挙げて拙速な経済成長主義に走り、しかも欲の皮の突っ張った拝金主義を奨励した事に根がありそうです。アメリカンドリームが現実であった時代は、20世紀前半のテキサスの石油王や、後半ではAップルやMソフトなど「IT鉱脈」を掘り当てた人たちが、ビジネスの第一線から退場した時点で終わったのだと思います。

今後の経済合理性は、やはり「持続可能性」にその根拠を求めなければならないでしょう。それは、富やモノが社会の一か所(例えば機関投資家やお金持ちの銀行口座です)吹き寄せられるのではなく、社会の隅々まで万遍なく回る仕組みを必要とします。元々地面に埋まっていた資源を掘り出したものが、資本を出したとはいえ誰かの独占的所要物である筈がありません。かなりの部分は、公共の財産と考えるべきでしょう。誰かが主張するように、世の中は官と民に分けられるのではなく、その間にある「公」の部分の拡大こそ今まさに必要とされる行動であることに同意します。なおここでは、「公」とは、顔の見える助け合いを意味すると定義しておきます。それは、今は狭い意味で使われている「結い」やNPO活動が、社会活動の大きな部分を占める様になる事を意味します。共同で手に入れたものを、関わった人たちが平等に分け合うわけです。自然エネルギーの利用などは、この「小さな公」の仕組みにピッタリの対象になり得るはずです。

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2012年2月 8日 (水)

1628 赤字合戦

大手企業が赤字決算の額を競っている様に見えます。数千億円規模などと言う赤字は、そう簡単には生まれないだろうと、そんな天文学的な額のお金を想像すらできない投稿者はため息をつくだけです。庶民の想像の範囲は、精々宝くじの当選金額くらいでしょう。そういえば、それも最近は5億円にスケールアップしたとか。経済のデフレと、射幸心のインフレは相反する現象の様です。

さて、赤字になる理由はシンプルで、ビジネスプランが当初計画通りに回らない事にあります。単純な見込み違いの場合も多いのでしょうが、数千億円規模ともなるとやはり経営者は、為替変動や地震・津波や水害や市場の冷え込みなどの悪化原因を持ち出して、株主に言い訳をしたくなるでしょう。しかし、水害や地震・津波を除けば、それらの変動は起こるべくして起こったと言うしかないのだと思います。かつてこの国のバブルが「弾けるべくしてはじけた」様に、債券市場の不安定化や為替の大幅変動は、後知恵にはなりますが、それが必然だったとしか見えません。

20世紀型の、ビジネスモデルはそろそろ終わりにしなくてはなりません。では、21世紀型のビジネスモデルはどうあるべきかと突っ込みが来そうですが、何度も書いている様にそれは、基本的な衣食住に依拠したものである必要があると見ています。いわゆる先進国では、もはやそんなものは充足しているとの反論もあるかも知れませんが、これも何度も書いている様に、それらの殆どが「持続可能な仕組み」とはなっていない事に早く気づくべきです。例えば、化石エネルギーを使った機械力や化学肥料や化石水に頼り切った大型農業が持続可能ではない様に、大量の地下資源を採掘し、大型船を使っての輸送し、集中的な工業生産と、出来た製品の世界規模での交易も、まったく持続可能ではない事が、近年の経済システムの歪に顕著にあらわれている様に見えます。つまりは、真のニーズと実際の製品とその生産量に、すでにかなり大きなミスマッチが生まれている様なのです。一方で、「短気なお金」は、電子化された結果、実際の経済不具合が起こる前に先回りする事が出来、逆にそれが不具合を拡大する現象も引き起こしています。大手企業の赤字合戦は、それらの兆候の一つかもしれません。

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2012年2月 7日 (火)

1627 北極振動

ヨーロッパやアジアは、近年まれにみる低温状態にあり、日本では併せて豪雪にも見舞われていますが、他方で北米は異常な高温に見舞われている様で、緯度の高いニューヨーク辺りでも20℃を超える気温を観測している様です。コリオリの力によって極気団の縁を回るジェット気流は、寒気と暖気の境目でもありますが、北極気団そのものも北極振動と呼ばれる強弱を繰り返している事と、ジェット気流のクローバ型の歪みなどによって、同じ程度の緯度の地域でも、寒暖には大きな差が出る様です。

南米沖のエルニーニョやラニーニョ現象との関連もあるのでしょうが、北米の高緯度地域でのこの時期の20℃は、やはり超が付く異常気象とみなければならないでしょう。しかし、いずれにしても目先の、しかも地域限定の低温や高温等の「異常気象」に注意を奪われてはならないとは思います。本当に有害な「気候変動」が発生しているかどうか結論は、長期的なトレンドを見通してしか見えてこないからです。

ところで、北極振動は、エルニーニョやラニーニョ現象と同程度に注目すべき現象ではあると見ています。どちらも数年から十数年の周期での不規則な振動を繰り返していますので、相互に干渉し合っている現象である可能性は高いと想像できます。知りたいのは、その不規則性の「規則性」です。気象現象は、何らかの自然現象の引き起こす原因と結果によって生ずるはずですから、不規則な現象にもやはり何らかの理窟があり、規則があると思うのです。しかも、気象現象のリアクションには、海水温度が関わる場合数年のヒステリシスもあるため、時間遅れにより現れる現象は一見複雑になりがちです。とは言いながら、素人がでたらめに想像しても仕方がないので、結論は頭の良い気象学者の観測と今後の研究に待つことにしましょう。

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2012年2月 6日 (月)

1626 新経済モデル

20世紀を通じてこの国の経済発展モデルは、いわゆる途上国型でした。つまりは、先進国の技術やシステムに学び、それを改良して、比較的に安い労働力と「カイゼン力」を利用して輸出で外貨を稼ぐ、というものです。思い出してみれば、このモデルが最も有効に機能していた時期には、海外からライセンスを買う件数が最も多かった時代でもありました。投稿者が在籍した企業でも、ロボット、ディーゼルエンジン、ガスタービン、航空機、船舶機器、LNGLPGのタンク構造、油圧機器などなど、矢継ぎ早に契約した技術導入案件には枚挙にいとまがありません。

しかし、ここにきてC国やK国などの追い上げに晒され、このモデルにもそろそろ壁が見えてきた様に見えます。その一つの顕われが、貿易収支の赤字転落という見方もできます。比較的競争力があると言われてきた、エレクトロニクスやOA機器産業や家電産業において起こっている、N社やT社やR社やC社の赤字決算や大幅な人員削減という名のリストラのきっかけもやはり、同根とみるべきでしょう。この国の貿易赤字への転落の原因を、ひとり欧州経済や震災による短期的な輸出の落ち込みだけに押し付ける事は出来ないのです。

低成長時代にマッチした、持続可能な新たな経済モデルがぜひ必要です。購入できる社会階層が限られる、車や電気製品やOA機器やましてや贅沢商品などは、もはやゲップが出るくらい普及しているはずです。一方で、そんな工業製品の存在や購入など夢想すらできず、いまだに食うや食わずの生活をしている南の国の人口のなんと多い事でしょう。私たちは、せっかく先進国の一員に成り上がったのですから、これらの人々に手を差し伸べ。寄与する技術開発と、それを使ったビジネスモデルを他の先進国に先駆けて確立する必要があると思うのです。それは、たぶん砂漠地帯でも持続可能な農業技術であり、太陽光の多面的な直接利用技術であり、海水の淡水化技術であり、水棲生物などによるバイオマス技術であり、加えて全ての技術開発に優先するのでしょうが「人工葉緑素」技術を使った食糧生産などになるのでしょう。

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2012年2月 5日 (日)

1625 メタンハイドレート

国産の化石エネルギーとしてのメタンハイドレートの試掘が始まる様です。資源の無いこの国にとっては、まさに夢のようなエネルギー源の様にも見えますが、投稿者の見方はネガティブです。メタンハイドレートが、どの様に生まれたかは諸説ありますが、生物由来にせよ地殻由来であるにせよ、メタンガスは、深海が折角閉じ込めた強力な温暖化効果ガスでもあった訳です。もし、これらのガスが大気中に存在したままであったと仮定すれば、今の地球は水星の様に灼熱地獄だったかもしれません。メタンガスそのままの放出ではないにしても、その眠っているガスを掘り出して、燃焼させればやはりCO2は更に増加するでしょうし、結果として温暖化も加速する事にもなるでしょう。

原発が止まって、エネルギー源が不足するからという理由だけで、安易に新たな化石エネルギーを探して掘り出すのではなく、原発に頼らなくても済むエネルギー消費レベルに下げていくのが、正しいアプローチだと言っておきます。何億年もの間地下に眠っていた、石炭や石油や放射性物質などの化石エネルギーを叩き起こした結果が、現在の環境悪化を招いている事を、私たちは再度確認しなければなりません。

何らかの自然界の必然性があって、せっかく海溝の底深くに、シャーベット状の水和物となって眠っているメタンを、土足で踏み込んで叩き起こす「無礼」を考えなくてはなりません。先ずは、それを掘り出す事についての事前評価(環境影響評価)が必要でしょう。本当に、深海の生き物や、海洋に影響が出ないのか、それを掘り出して燃やす事によって一体何が起こるのか、頭を冷やして考えてみる必要があるでしょう。もう、一つの方向だけにダッシュする事は止めましょう。エネルギー資源の新規開発ではなく、脱エネももう一つの大きな選択肢です。

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2012年2月 4日 (土)

1624 利雪・克雪

各地で大雪です。温暖化が進んでいるのになぜ大雪になるかはこれまでもいくつかの理窟を考えて投稿してきましたが、それはさておき、ここでは取り敢えず目の前の雪の利用と、克服の方法を考えてみます。

先ず利雪です。雪は、どう考えても白い事と、冷たい事くらいしか長所が思い当たりません。もちろん、空気を多く含む新しい雪は、それ自体が軽い断熱材でもありますが…。昔の人たちは、しかしこれらの利点をしっかり利用してもいました。例えば、白くて冷たいと言う特徴は、染めた布や和紙原料の漂白(雪晒し)として、最大限活用していたはずです。また、冷たくて、しかし保温効果ゆえに雪の下は凍っていないと言う特徴は、雪室などでの野菜や穀物の氷温貯蔵にうってつけでした。ならば、せっかく苦労して除雪した雪を川などに捨てるのでなく、古いトンネルや、新しく掘ったトンネルの中に放り込み、春先から夏場にかけての食料の貯蔵庫として使うのも有効な利雪方法でしょう。この雪室ではエネルギーが一切不要です。しかも、氷温貯蔵ですから、食糧やお酒などの熟成も適度に進み付加価値が上がるでしょうし、春先の野菜の端境期や初夏に冬野菜などを出荷すれば、より高値で売れるでしょう。

克雪には、結構知恵を使わなければならないと思われます。新雪は、結構フワフワで比重も小さいのですが、厄介なのは圧縮されて、いかも凍って重くなった雪です。そうなってからの除雪は、新雪に比べれば何倍も苦労する事になります。つまり、積もってから除雪するのではなく、前の晩に積もった新雪を、翌朝簡単に屋根から落とす仕組みが是非必要です。最もシンプルな方法は、屋根のこう配を急にすることですが、既存の建物ではそれも叶いません。次善の策としては、予め屋根の上にフレームを立てて、そこにシート状の雪落としの仕掛けをセットしておく方法が考えらえます。摩擦係数の小さなシートを使えば、特に屋根勾配を大きくしなくても、雪は滑り落ちてくれるはずです。もし必要であれば、シートに少しの振動を与えれば、より緩い勾配でも、更に滑りは良くなります。

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2012年2月 3日 (金)

1623 人口予測

最新の予測では、50年後には、人口が今の2/3にまで減り、65歳以上の人口が4割になり、社会保証も肩車型になるとのだとか。政治家もその尻馬に乗っかって、50年後には全くその予測通りになる事を前提に、不毛な国会論戦を展開しています。将来「予測」などと言うシロモノは、お役人の好きな数字のお遊びに過ぎないのです。そんなヒマがあるのなら、そうならないためのアイデアの一つでもひねったらと心底情けなくなります。そもそも予測とは、単なる現状の追認と、直近の実績と傾向の外挿から導かれる算数でしかありません。好ましくない予測は、単にその数字を示すだけでなく、そうなった原因と、そうならないための方策をセットで示す必要があると思うのです。

上の予測の根拠が、団塊世代と団塊ジュニアの現実の人口であるにしても、高齢者がそもそも若者の肩車の上に乗ろうなどと考え、単純にそう予測するのでは全く能がありません。元気な高齢者が若者と協力して、元気を無くした高齢者を騎馬戦型でサポートする、現実的な仕組みを編み出さなければならないでしょう。取り敢えずは高齢者が、死ぬ直前まで元気で動けるアイデアを山ほど考えだし、出来るものを最大限実行する事が必要です。考え方は単純です。高齢者の肉体的能力を徐々に低下させるのは簡単です。仕事をさせないで、楽をさせて遊ばせておけば、自動的に筋力や骨が弱り、生活習慣病とも仲良くなれるからです。そうではなくて、高齢者も積極的に運動や筋トレをし、食にも気を付けて、生涯現役を貫く事を勧奨する社会の仕組みが必要です。

一方で、若い現役世代には積極的に子育てが楽しめる仕組みの準備も必要でしょう。彼らをサポートする応援団には、元気な高齢者たちにお願いしなければならないでしょう。幼稚園や保育園や小学校には、保育士や若い先生をサポートする高齢者応援団が多く関わるべきです。企業においては、多少の年金を貰いながらでもよいので、自分の得た知恵や技を若い世代に伝える企業ボランティア活動を推奨する社会のムードや仕組みも必須です。分かり易く、現代の徒弟制度を作るのも良いでしょう。心あるシニアは、ジュニアに知恵や技を伝えきるまでは、死ぬに死ねないと思い定めるでしょう。

この様な、アイデアを山ほど積み上げれば、算数や作文だけが得意のお役人の予測など、簡単にぶっ飛ばせるはずです。

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2012年2月 2日 (木)

1622 温故

最新の技術や知見を知る「知新」の前に、すべきことがあります。四字熟語の順番で言えば「温故」です。エネルギーのひっ迫が叫ばれている昨今、投稿者のお勧めは70年代の二度のオイルショック後に編み出された、省エネ・脱石油の知恵を学ぶことです。何しろ、この時は原油価格が数倍になり、ガソリンなどの石油製品価格も2倍になり跳ね上がり、つられて色々な商品の価格も上昇、しかもその傾向が右肩上がりだったため、国を挙げてパニックに陥ったものです。

しかし、戦後のモノ不足を経験し、生来の工夫好きでもあったこの国の人々は、これに対抗するために多くの工夫を重ね、多くの省エネ・新エネ技術を開発したのでした。タップリ時間のある人は、1週間くらい大きな図書館に通い、その頃の新聞記事を丁寧にスキャンすれば、多くの有用な情報やキーワードが見つかるはずです。国もサンシャイン計画やその後のムーンライト計画に、どれほどの税金が注ぎ込まれたかを考えると、その頃の成果をお蔵入りにさせるのは、その税金をドブに捨てるに等しいと思うのです。これらのプロジェクトから生まれた開発技術の中からは、太陽光発電の様に日の目を見た技術ももちろんありますが、多くは報告書やその試作品の製作程度で終わってしまったものも多い筈です。少し思い出すだけでも、風力発電、太陽熱発電、光触媒による水分解(水素発生)、潮汐発電、濃度差発電、熱電素子、波浪発電、小水力利用、バイオマス利用技術、パッシブ冷暖房住宅、地熱利用技術などなど、枚挙にいとまがありません。

最近これらの技術の再発掘やバージョンアップが、ボチボチ始まってはいますが、まだ限定的です。とりわけ、太陽光の直接利用(紫外光=エネルギーや光合成など、可視光=昼光利用など、赤外光=熱利用など)、とりわけ太陽光+光触媒による水素発生技術、さらにはバイオマスの高度利用については、優先度を上げた開発の加速が必須です。これらのアイデアを報道した新聞記事から、その特許公報や論文などに当たれば、今の技術を組み合わせて、比較的短期間で実用化することは十分可能でしょう。もちろんその頃の特許権などはとうの昔に切れていますので、まったくフリーで使えるでしょう。

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2012年2月 1日 (水)

1621 人口減少

この国の人口がピークを打ったのは確か2004年の話ですが、今回の人口の将来予測で、急激な減少傾向が、念を押される形ではっきりしてきました。首都圏に近い千葉県においても、昨年度には減少が確認されたとの事。そういえば投稿者が住む団地や、近くのいわゆる新興住宅地でも、いまや「高齢者団地」の様相が顕著です。少し前、人口10万人を少し超える程度のベッドタウンで開催された高齢者大学の会合で、温暖化と省エネの話をするように頼まれたことがありました。大きなホールでしたが高齢者がゾクゾクと700人も集まった事にびっくりした経験があります。これらの人たちの子供は、成人し就職して別の場所に居を構えているため、たぶん夫婦二人だけの所帯が殆どになったと想像しています。彼らは、昭和50年代に急拡大した住宅地に、ローンを組んで夢の一戸建てを手に入れたであろう正真正銘の団塊世代なのです。

彼らに続く世代も、人口ピラミッドで見れば、結構太い部分が続きますので、当分はツリー型の人口ピラミッド構成は解消される事はありません。三世代同居が当たり前であった、昭和の前半までに対し、高度成長期以降に庶民の理想とされた戸建て、核家族化が、今となっては人口増加の壁になっているのは皮肉な話です。核家族で多子を育てるのは、経済的にも、体力的にも至難の技でしょう。一方で、温厚な祖父母同居で育てられた子供が、精神的にも安定であることは明白な傾向です。少子化社会で、しかもそこで育てられた若者のかなりの部分が、精神的不安定を抱えていると言う現実は、景気の浮揚などの議論の前に、真剣に考えるべき社会問題だと言えます。

また限界集落は、何も中山間地だけの問題ではなく、いまや都市近郊の住宅地でも普通に見られる都市問題でもあります。いま真剣に考えるべきことは、高齢者の社会貢献=生甲斐対策しかないと思うのです。まだ元気なこの世代が、旅行などのヒマ潰しに終始し、現役世代のお荷物にならないための生き方(生甲斐作り)への提案がぜひ必要です。人口減少=高齢化社会の真の問題は、お金の(医療費や税金・年金の)問題では絶対ないでしょう。

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