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2012年5月31日 (木)

1738 オオキンケイギク

良く通る堤防道路の両側は、この季節「オオキンケイギク」の花畑になっています。数年前は、道路端だけに、たぶん種まきされたのでしょうが、細長く咲いていただけなのですが、今や堤防の法面全面どころか、さらにその先の平らな部分にも進出し続けています。誰が無責任に種まきを指示したのかは把握していませんが、この花は間違いなく海外から移入された外来種です。これが、はびこっていると言う事は、逆に言えば在来種が駆逐された事を意味します。

在来植物の駆逐の影響は、その植物自身の絶滅に留まりません。何故なら、その在来種に依存して暮らしていた昆虫、さらにその昆虫をエサとしていた鳥や小動物の生存にも関わるからです。つまり、新たに移入された植物により、それまで微妙につながっていた、「微環境」における連鎖が、バッサリ断ち切られる事になると言う事です。

この様な外来種による連鎖の破壊は、勿論植物だけに留まりません。心無い飼い主によって環境に捨てられた、外来ペット動物、あるいは不十分な検疫で持ちこまれた雑草や有毒昆虫など枚挙にいとまがありません。明確な意思を持って、これらをこの国の環境から駆除しない限り、環境中の連鎖の切断は、やがてはヒトにも影響を与える事態になる筈です。具体例としては、外来種の雑草によるアレルギーなどが挙げられます。その意味では、外来種の小麦によって引き起こされる小麦アレルギーもそれに加えるべきかも知れません。米アレルギーと言う言葉を殆ど聞かないのは、米も外来種とは言いながら、数千年の年月が、それをこの国の「環境作物」に替えてしまったからだと言えそうです。ここでも、「環境作物」と言う新しい言葉を勝手に定義してしまいました。これについては項を改めます。

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2012年5月30日 (水)

1737 エネルギー年齢

1736に書いた、エネルギーの古さ(新しさ)加減を、改めて「エネルギー年齢」と名付けて、定義しておきます。つまり、石炭や石油は、数億歳であり、ウランなどの核燃料に至っては、地球が出来た時からあるのでしょうから数十億歳になります。一方、樹木などのバイオマスは数十年、菜種やバイオアルコールなどのバイオ燃料は、収穫と加工と流通にたぶん1年ほど掛かるでしょうから1歳、水力発電で使われる水は、数か月前に降った雪や雨なので1歳未満、太陽光や太陽熱の利用は、今現在の太陽エネルギーなので生まれたてのゼロ歳です。

一般的な原則として、年齢が若い程、持続可能性が高いと言っても間違いではないでしょう。何故なら、エネルギーは古い程「ストック」であり、若いものほど「フロー」の要素が大きくなるからです。ストック(蓄え)は、使えば無くなる筋合いのものですが、今流れているものをその瞬間に利用するフロー利用へのアプローチは、それが太陽光である限りは、事実上無尽蔵だからです。

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2012年5月29日 (火)

1736 太陽産業(エネルギーの古さ加減)

この言葉も以前に定義した様な気がしますが、重要なKWなのでもう一度確認しておきます。今私たちが使っているエネルギーのほぼ全ては、今のあるいは昔の太陽光エネルギーに依存しています。食糧に関しては、その割合が100%だと言い切っても良いでしょう。例えば化石エネルギーです。石炭も石油も元を質せば化石時代に生きた植物や微生物のなれの果てでしょうし、そこから醸し出された天然ガスも同様です。水力も風力も波力や潮力さえも、太陽の活動に伴って生ずるエネルギーです。

植物は太陽光無しに光合成をおこなう事が出来ないので、穀物を含め食糧は100%太陽依存です。その植物を食べさせて育てる動物からいただく食糧こそ、もっともっと太陽に依存していると言えます。この様に、太陽光に依存して成り立っている産業を、このブログでは「太陽産業」と呼んでいますが、間接的な利用を考えれば、世の産業のかなりの部分が太陽産業なのかもしれません。その意味で、大規模に地面に太陽光が当たるのを妨げるメガソーラーなどは、植物(食糧)と太陽光を巡る、太陽産業同士のせめぎ合いの現場だと言えます。既存の建物の屋根を利用する太陽光発電や太陽熱利用は、この意味では「セーフ」です。

さて、今の産業構造のシフトを考える場合、一体何時の時代の太陽エネルギーを利用しているのか、をよくよく考えてみる必要があるでしょう。何億年も前に固定された太陽エネルギー(化石エネルギー)は、今後ドンドン涸れていくでしょうから「衰退する太陽産業」です。一方で、今年や昨年の太陽エネルギーを使っている農業などは、持続可能なビビッドな太陽産業です。その意味では、数十年間の太陽エネルギーの蓄積である樹木や木材を利用した産業も、世代をまたがってはいますが、持続可能性は高い産業だと言えるでしょう。たった今の太陽光で発電している太陽光発電は、製造するための原料を吟味しさえすれば、最も持続性の高い産業といえるかもしれません。つまりは、ある太陽産業の持続可能性は、その産業が依存している太陽エネルギーの新しさ加減で評価出来そうです。

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2012年5月28日 (月)

1735 腐臭

生ものが腐敗すると、嫌な臭い(腐臭)が発生します。世の中に流通するに足るだけの、お金は確かに生きていますが、一方で無用に「吹き溜まったお金」は、もはや死にかけているお金で、それはやがて腐敗を始めます。お金における腐敗とは、お金が自分自身を動かす事でお金を生み出そうとする、利の連鎖が始まる事をさすと定義しておきましょう。銀行が事業主にお金を貸して、適正な利息を受け取るのは、勿論お金の腐敗には当たりません。

問題は、余ったお金を債権などのお金に替える事が出来る紙(債権)に投資し、その値上がりに期待する「濡れ手に泡」の行動なのです。実際は、それでもお金が余るので、更にお金持ちはモノ(先物市場)にも資金を注ぎ込みます。適当な期間寝かせたお金は、やがて醗酵して、役に立つ使われ方されるという期待もできますが、そうではない欲の泡にまみれた資金は、結局はその泡も消えて、紙屑になるしかないのです。バブル崩壊やリーマンショックなどと言う「お灸」も、時間が経過して熱さを忘れれば、またぞろお金の腐敗に陥るかもしれません。

私たちは、お金が醸し出す腐敗臭に敏感になっておく必要がありそうですが、考えてみれば自分がささやかに銀行に預けているお金さえも、お金の腐敗の一部を加速しているかも知れない事を考えれば、当座預金は別にして、必要以上のお金は、タンスの中にでもしまい込むか、世の中の役に立つ寄付でもしてさっぱりした暮らしを心掛けよう、と改めて自分の暮らし方を振り返っています。

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2012年5月27日 (日)

1734 風でモノは生まれない

今色んな風が吹いています。例えば、電力削減という省エネルギーの風、新エネ拡大の風、脱原発という風、あるいはリーマンショック後から吹き続けている金融不安という気味の悪い風や、あるいは政治不信などという、吹いてほしくない風もあります。20世紀末には、バブルショックというエポックはありましたが、基本的には景気は右高上がりになるものであり、そうでない局面でも、政府がてこ入れさえすれば、やがては景気も上向くものだと言う神話が生きていました。

しかし、風には景気を押し上げる順風もあれば、それを妨げる逆風もある筈ですが、これまでは逆風に対しては身を低くして耐えていれば、やがては順風が来るであろうという、「待てば海路の日和あり」式の対応で押し通せた時代でもありました。

しかし、ここにきてそれでは立ち行かない事が明らかになってきた様に思います。つまりは右肩下がりへの対応方法を、誰も考えてこなかったのです。経済規模の縮小、化石エネルギー産出量の漸減、さらには少子高齢による人口減などの、これまで殆ど経験してこなかった事態への対応策が、今の世代の辞書には載っていない様なのです。もちろん、1930年代の世界大恐慌を、リアルタイムの経験として持ち合わせているリーダーが居るはずもありませんし、現代の恐慌(あるいは困難)は、過去の時代のそれとは、質も量も全くと言って良いほど異なるでしょう。

そうであれば、私たちはあらぬ限りの知恵を出し合って、それを克服ための方法を編み出さなければならないのです。しかし、見回してもそれを為し得るリーダーも見当たらない様な気がします。それにも増して、例えば企業のリーダーにしても、追い風の存在には気が付いているにせよ、ではそれをどう利用したらよいかについては、未だ右往左往しているだけの様に見えます。追い風が掴めるかどうかは、やはりアイデアを形にしてTry & Errorを繰り返してみる必要があるわけです。高度成長期のリーダーたちは、確かにそれを実行していました。風は、それ自身はモノを風化させる事はできますが、何かモノを創り出す力は無いと思い定めるべきでしょう。意志を持って物事を為すのは、(神以外では)ヒトにしかできない芸当なのです。

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2012年5月26日 (土)

1733 田んぼという微環境

微環境とは、このブログで定義した言葉です。(だと思っています)草原の様に、広く連続した環境とは異なり、田んぼは畦道に囲まれた、半人工の狭い環境(微環境)だと言えるでしょう。しかしそこには土壌があり、水が張られると浅い沼地に似た環境となり、畦道には草が茂って、その横には細いながら水の流れもあるでしょう。つまり、小規模ではありますがかなり多様な環境要素が揃っている面白い場所だと言えそうです。

土壌だけ、草地だけなどいった単調な場所は、そこで生きていける植物や、それに依存する昆虫や小動物など生物相も単調になります。しかし、田んぼにはカエルといった、結構大きな動物が生息できる環境もあるため、それを狙う大型の鳥や蛇といった更に大型の動物も併存できる訳です。

つまり、生物の多様性を育む理想的な「環境」が備える条件としては、大きな面積で、しかも手つかずの環境である必要はなく、とにかく多様な環境条件(土壌環境、水環境、樹木や生物環境)が、微妙なグラデーションを描いて存在するだけで良いのです。生物の多様性は、そのグラデーションの中で自然に育まれる事になります。土壌の中には、植物の種や微生物や昆虫の卵など、既に多様性は仕込まれているはずですし、鳥や小動物がそれらを運んでも来ます。とりわけ、微環境における水環境の多様性は、最重要と言っても良いでしょう。浅い水辺や、湿潤な渚や、乾燥した草地を併せ持つ環境、例えば干潟や、河原や、湿地帯が多様な生物を育む所以です。

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2012年5月25日 (金)

1732 つる植物

毎日通る新しい道路の横の歩道には、手すりが設置してありますが、この手すりが「つる植物」に占領されています。つる植物は、樹木の様に幹を太くする事には頓着せず、ひたすらつるを伸ばし続けます。もちろん「彼ら」にも名前はあるのでしょうが、残念ながら元技術屋をしていた投稿者の語彙では「つる性の雑草」としか説明できません。

つる植物は、樹木や茎のしっかりしている他の植物、あるいは電柱の支線や手すりなど、なんでも空に向かって立ち上がっている物体にしがみつき、それより上になる様につるを伸ばし続けます。それもこれも、可能な限りの太陽光を集めるための戦略です。高い場所に葉を広げるほど、朝から晩まで、一日中日光を受ける事が可能になるわけです。しかも、葉で作った物質は、茎を太くするためではなく、もっぱら子孫を残すための花や実を付ける事に利用できるので、他の植物に比べて、びっしりと実を付け、周辺にばらまきます。

もう一つの彼らの戦略は、土壌が殆ど必要ない事です。種は、コンクリートの割れ目の数ミリの隙間にさえこぼれれば、そこから根を伸ばし、成長が可能です。茎が太くないので、隙間があれば、十分に成長が可能な訳です。加えて、コンクリートの下は、水分が蒸発しにくいので、乾燥した日が続いても、根は吸い上げる水には困りません。というわけで、つる性植物は、一夏でその勢力を広げて、他の植物を抑え込んでしまったのでした。秋には一度枯れてしまいますが、この季節になると、ムッとするくらい生い茂り、勝利を主張する事になります。この歩道は、朝晩には、悠々自適らしい年配の人たちが、ゾロゾロと散歩していますが、彼らには小さなハサミでも持って歩き、毎日何本かのつるを切って貰いたいと思いながら、その傍を自転車で通勤しています。

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2012年5月24日 (木)

1731 マグロ的人生?

あっちこっち動き回るのが好きです。国内は言うに及ばず、世界も(アフリカ大陸にはまだ足を踏み入れていないものの)、直近のカザフスタンの仕事では中央アジアにも足跡を残したので、G-グルマップで足跡に☆印を入れると、結構世界中に星が散らばっています。

それもこれも、どうやら「マグロ的生き方」の為せる技かも知れない、とぼんやり考えています。マグロは、海中で口を大きく開けて高速で泳ぎ回る事によって、自分が作り出した速度で、海水と餌を押し込みながら、呼吸と摂食を同時に行います。たとえ短時間でも泳ぐのを止める事は、彼らにとっての死を意味します。投稿者も、バタバタと動き回った結果、新たな人間関係がつながる事や、仕入れた雑情報に混じっている有益な情報を得る事に、何かしら生きているという実感が生じます。

これまでの人生を振り返ると、故郷秋田での成長期、就職してからの短い神戸時代、10年余りの坂出時代、その後現在までの岐阜時代と別れと出会いを積み重ねてきましたが、近い将来にはまた故郷の東北に戻って、新たな産業起こしに寄与したいと目論んでいます。東北は、山(森林や雪解け水)、海(豊富な海洋資源)、里(食糧自給が可能な農地)に加え、冬季の季節風や豊富な地熱等、ローカル資源やローカルエネルギーの宝庫でもあります。そこに腰を据えて、残りの人生を掛けて走り回れば。きっと何某かの結果(生きてきた証)を残せると思うのです。

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2012年5月23日 (水)

1730 ツバメ増やし隊2

借りている事務所の1階は吹き抜けになっている駐車場ですが、その天井のコンクリート梁には、数か所ツバメが巣を掛けた跡があります。その全部が、壊されて欠けているのは近所のカラス山に棲むカラスの悪行です。昨年も2組が巣作りをしましたが、投稿者が留守の間にカラスの「空爆」を受けた様で、下に巣の破片が散らばっていました。問題のカラス山は、風光明媚な木曽川の河畔にある岩山で、すぐ下には撮り鉄の間で有名な、名鉄犬山線のクラシックな鉄橋が掛かっている場所です。かつてはその上に展望台や料亭があったようですが、今は廃墟となっており、「カラスの勝手」し放題です。彼らは、そこを根城に付近の住宅やマンションのゴミ置き場で生ごみをあさっている訳です。しかし、最近は生ごみ袋置き場にカラス除けのネットを掛ける様になったため、食糧不足状態に陥っている様で、かなり個体数は減った様な気がします。その事もあって、逆にツバメの卵やヒナは、彼らの攻撃目標になり易くなった可能性もあります。

今年は、巣の下に棚板を取り付けて、巣の材料や糞が下に落ちない様に対策し、新たな「店子」を待っていましたが、昨日今年の番(つがい)がウロウロしたと思うと、巣の材料を運び始めました。ところが、せっかく棚板を取り付けた場所の隣の古巣を修理しているので、仕方なく棚板を移動しました。大家主から事務所を借りている、「店子家主」としては一応、「孫店子」の勧誘には今年も成功した様です。

今年は、カラスの影を見かけたら、新規開発の武器(ゴム鉄砲)で容赦なく攻撃し、ビルに近づかない様に気を使っていまが、間もなくこの事務所も引き払う予定なので、居なくなる前に子育てが終わる事を願っています。ツバメは本当に愛らしい生き物です。ツバメは人間に好かれている事を上手く利用し、住宅の軒先に巣作りをすることで、天敵から守られると言う賢い適応も果たしています。

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2012年5月22日 (火)

1729 日食

昨日は人並みに日食を観測しました。専用のサングラスを準備していなかったので、事務所を見回して、アルミを蒸着させたフィルムを発見しました。これは、事務所の窓に日よけとしてぶら下げているものの切れ端です。一見、アルミ箔の様に銀色で、不透明の様にも見えますが、実は透明フィルムに、小さなアルミのスパッタ―を付けているだけなので、太陽光はある程度透過させます。しかし1枚では透過する光が強すぎるので、結局は3枚重ねにしました。4枚だと太陽は全く見えませんでした。

これを通すと肉眼で直接見ても大丈夫で、デジカメのレンズの前に付けても撮影可能でした。岐阜南部は、金環食の中心線から少しずれているので、やや偏ったリングでしたが、それなりに感動しました。事務所の近所に飼われている犬は、何時になく興奮して吠えていた様です。

さて、日食で思う事は、お天道様のありがたみです。食になって、外に出てみると、気温が「スーッと下がった様に」感じました。しかし、数十分間程度の短時間で「気温=空気の温度」そのものが大きく下がる訳ではないので、それはあくまで体の感じ(=体感温度)なのです。下がったのは、太陽からの輻射熱で、それを受け取っている体の皮膚が、その量が減った事を感じていただけなのです。植物も、動物も太陽から紫外線も可視光も赤外線も含めて全部受け取っているはずです。とはいいながら、植物も動物も最も頼りにしている太陽光の成分は、光合成を活発にするために気温(葉の温度)を上げ、あるいは動物の体温を維持させるための赤外線や遠赤外線と呼ばれる熱線である事は明らかです。日食とは、その有難さを全ての生き物に再確認させるための、お天道様が執り行う「儀式」でもあるのでしょう。

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2012年5月21日 (月)

1728 悪あがき

日本を含め、いわゆる自由主義経済を標榜する国々においては、一見企業の経済活動や人々の間の競争の機会は平等に与えられている様に見えます。しかし、よくよく考えてみれば、それぞれのプレイヤーのスタート地点はバラバラで、つまりはハンディキャップ付きの自由競争となっているはずです。例えば、資本力のある起業家と、そうではなくてアイデアはあるが資本は借りてスタートせざるを得ない別の起業家とは、そもそもスタート点は異なるでしょう。単に、例えば自由貿易の原則を振りかざして前に進むだけでは、結局は勝ち組と負け組の差を広げるだけに陥ります。

同じような事は、国でも、企業でも、個人でも言えそうな気がします。そこで重要となるのは、実は「手加減」という思いやりなのかもしれません。もちろん手加減をするのは、上位に立っている勝ち組側になります。もちろん、企業が競争相手のために、自社のシェアを手放すなど言う「美談」は今の世の中では期待できるはずもありません。何故なら、いま勝ち組側に立っている企業さえ、過酷な国際競争の中では、少しの油断で負け組に押しやられるリスクを抱えているからです。

たとえそうではあっても、勝ち組はやはり節度を守らなければならないでしょう。企業における節度とは、適正な利益を確保する形でしか実現できそうもありません。つまりは、儲け過ぎを慎むということです。しかし、多くの企業では儲けを投資に回し、見かけ上の資産を少しでも増やそうと「あがき」ます。そうではなくて、為すべき事は、儲けが出ている時には、その儲けの一部でも顧客満足の充足のために使っておけば、その後に景気の落ち込んだ時期でも、顧客が助けてくれて売り上げや利益の低下を最小限に留める事が出来ると思うのです。つまり、企業の節度は、世の中の景気変動幅や要らぬ混乱を最小限に抑える事が出来るという事です。今の社会は、しかし全く逆の行動をして、その結果に右往左往している様に見えてなりません。

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2012年5月20日 (日)

1727 まだ宇宙ビジネスですか?

初の海外衛星の、H-2Aでの打ち上げに目出度く成功したとか。しかし、このブログでは、それこそ何度も何度も宇宙ビジネスに疑問を投げかけています。ロケット部分だけでも約100億円、衛星部分を加えればその倍も掛けて、一体宇宙空間から今以上何を得ようとしているのか、投稿者には全く理解が出来ません。地球の水分布を知りたいのであれば、成層圏(高度20㎞程度)にいくつか気球でも上げれば、その目的は十分達成できるでしょう。気球であれば数億円も掛ければ御の字で、目方が嵩む立派な観測機器も搭載できます。気球は、自然にガスが抜ければ高度が落ちますが、別の気球で迎えに行って回収するか、上手くいけばガスを再注入すれば、再利用も可能です。

36,000㎞もの高さの静止軌道に重量物を打ち上げるためには、莫大なエネルギーが必要であると同時に、用済みになった古い衛星は、その瞬間に宇宙ゴミとなってしまいます。運が悪ければ時々地上に落下すると言う危ない凶器にも変身します。古いタイプの衛星のエネルギーには、小型の原子炉(想像するに自然崩壊する核物質の放出エネルギーを利用する単純なモノなのでしょうが…。)が搭載されていますので、さらに物騒でもあります。

必要な技術は、大型ロケットでも数トンもある巨大な人工衛星でもなく、単にコンパクトな観測機器を、一定の期間高い高度に留めておく技術なのです。ヘリウムを詰めた気球でも十分その役目を果たせるのです。夜間に風で流される(成層圏には風はありません。自転による地表との相対的な位置ズレがあるだけですが。)分は、昼間に膜状の太陽電池で発電して、小さなプロペラを回して、定位置に戻せば良いだけです。いくつかの中小企業が手を組めば手が届きそうな、安くて将来性も有望な「成層圏ビジネス」が、一向に俎上に載らないのは、何故なのでしょうか。宇宙・ロケット技術者や宇宙企業の既得権保護のための陰謀としか思えません。(やや言い過ぎですかね?)

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2012年5月19日 (土)

1726 期待と幻滅

期待の大きさと、結果として生じた幻滅のひどさ加減の絶対値比例する、というのは一つの法則になりそうです。言わずもがなですが、期待値を+、幻滅を-と考えれば、絶対値を取る必要があるでしょう。もちろん、偉い先人はもっと洒落た表現で、その様な名言を残しているはずです。今の政府に対する期待、原子力を活用した全電化社会への期待、世界に冠たる技術大国になって更に外貨をガッポリ稼ぎ続けると言う期待はことごとく裏切られました。今この国を支配しているムードは、強い幻滅とそれに引き続いての諦めかもしれません。

良い決断と悪い決断があるのでしょうが、決めない事は混乱と不安を煽ると言う意味においては、悪い決断より更に悪質な場合さえあるかも知れません。悪い決断は、誰の目にも明らかなので、それに対する何らかの形で修正力が働きますが、決まらない状態は箸にも棒にも掛からないものです。人間は、宙ぶらりんの状態に長く置かれる事に関しては、忍耐力は強くありません。蛇の生殺し状態に対しては、「どっちでも良いから早く決めてくれ。」との叫びが大きくなるでしょう。しかし、その声も届かない場合、もはや期待も幻滅も消えて、諦めムードに支配される事に陥ります。

人間の脳の癖として、自分が環境に向かって働きかけて、然るべき時間内にその結果を求める傾向が強い様に思えます。それが、その人間が思う「良い方向」であれば、達成感や効力感を感じ、更に前に向かう力が湧いてきます。しかし、諦めムードからは何も生まれません。何を働きかえても、まったく何も変わらなければ、やがて人間は働きかけを止めてしまうからです。さて、今のこの国の状況は、幻滅と諦めの間のどの辺りを彷徨っているのでしょうか。早く前に進み始めない事には、長く深い沈滞ムード(Depression)に落ち込んでしまう可能性すらあります。ここから這い上がるには、過去の歴史を振り返っても、長く続く辛抱強い努力を傾けるかあるいは、これは二度とあってはならない事ですが、大きな戦争などの強いきっかけ(Trigger)が必要となるでしょう。

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2012年5月18日 (金)

1725 ズレの修正

「あるべき姿」と現実にズレが生じた場合、「あるべきシステム」は修正を始めるはずです。自然の仕組みや、私たち自身の体にもその様なシステムが組み込まれています。これをフィードバックとかホメオスタシス(恒常性)と呼んだりします。年々繰り返される季節(気候)や、生き物たちの活動にも明確に確認できるものがあります。例えば、気候が短期間に変動した場合や更に中長期で変動した場合でも、生き物はそれに対応して、自分たちの棲家を移動したり、気候変動に耐えうる様に準備をしたりします。植物には足がありませんが、どうにかして彼らの子孫を残すためには動物の助けを借りてでも移動し始めます。ありふれた樹木でも、毎年1㎞程度の速さでなら十分移動できるものです。まして、足のある動物や昆虫などは、毎年の気候変動にも敏感に対応している事でしょう。

私たちも、あるべき姿とのズレにはそれなりに気が付きます。例えばメタボな体を鏡に映して反省した場合、食べ物を控えたり、運動を始めたりするでしょうし、血圧が上がったり、血糖値が基準より高い時には、医者から節制を言い渡されます。ズレの修正を始める時期は、実のところ早ければ早い程、苦労無しに修正が実行できるはずなのです。ズレの修正は、変化を捉えた情報(フィードバック情報)として確認する事がスタートです。変化量に応じた「修正量」を加えて(あるいは引いて)やれば、ずれた軌道は元に戻る筈です。

しかし、人間がここ数百年(とりわけ戦後の数十年掛けて)作り上げてきた、社会システム・経済システムは、もはやズレの修正すら殆ど効かない巨大なものに膨れ上がってしまった様に見えます。為替水準や、経済指標のあるべき姿からのズレに対し、今や一政府の誘導政策などでは、数時間~数日しか効果が続かなくなってしまいました。いくつかの国や地域が力を合わせてさえ、修正する力は限定的です。それほど、実態の伴わない経済という「魔物」は、社会システムは、増長し、肥大化してしまった様に見えます。

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2012年5月17日 (木)

1724 型に収まる

モノには、形がありますが、その形は入れ物である型に依存すると言いきってしまえば、1723と矛盾するかもしれません。では、その入れ物の形はどの様にして決まったのか?という終わりの無い循環問答になるからです。しかし、それでもモノはその入れ物となる型に依存すると言うしかありません。

例えば、形の無さそうな海の水でさえ、地殻に出来た窪みの形に従って溜まります。生き物の細胞はDNAによって定められるその細胞膜に、つかみどころのない雲だって対流圏の温度分布や、地表に出来た凸凹によって生ずる風や、水面からの水の蒸発の量によって形を変えます。人間が、工業製品を作る場合であっても、まずはデザイナーが形(外形)を決めない事には、中身を設計する技術者は動けません。車も先ずはマーケティングによって消費者受けする形を決めて、その中に居住空間や走行メカニズムを詰め込むと言う順番です。

さて人間はどうでしょう。生まれた環境や育った「環境という入れ物」で、人格は決定されるのでしょうか。もし、そうならお金持ちで高い教育を受けた両親に育てられた子供は100%両親の様な子供に育つでしょう。そうはならないのは、人間の中に何か自律的な規範があり、環境の影響はそれなりに受けるものの、場合によってはそれを乗り越える場合も多いのではないかと想像しています。よく「型にハマらない人間」と呼ばれる一握りの人たちが存在しますが、彼らがそのサンプルなのかも知れません。

そう考えると、形と中身は、微妙な相互干渉によって、今ある姿に「収束」してきたのだと言うのが正しいのかもしれません。では、それが何の役に立つのかと言われれば、形を観察し、その中身を知る事の助けくらいにはなるでしょう。それが、自然物であれ、人間であれ、形と中身は常に興味深い観察対象ではあります。

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2012年5月16日 (水)

1723 形から入る

このブログでは、先ずタイトル(キーワード)を決めて置いて、時間が空いた時に本文を書き加えます。このタイトルも1月程前に考えて決めてあったのですが、残念ながらその時何を考えていたのかすっかり忘れてしまったので、改めてこの言葉を噛みしめてみます。さて、モノには、必ず形があります。形の無い、例えばスピリチュアルなものは、勿論モノではありません。モノの形には、そうあるべき必然性があった筈です。特に、それが自然物である限りにおいては、その可能性は100%でなければなりません。そうでなければ、そのものが自然のその場所に、その形で存在し得なかったからです。それは、有機物である自然の中の一木一草や山の斜面に引っかかっている無機物の岩に至るまで、例外はありません。

一方、それが人間によって手を加えられた自然ではあっても、その時の人の側のやむにやまれぬ必然性があり、手を加える事に関わった先人は、それなりに考えて行動した事でしょう。有機物は、その循環の節理やDNA情報に従って、また無機物は地殻変動や気象による風化や堆積のメカニズムによって、その形を変えてきたはずです。とは言いながら、戦後の闇雲な自然の改造(=列島改造論)に、必然性があったとはとても思えませんが…。

ここで言いたいのは、今私たちが見ているモノには、その形になった必然性と歴史が読み取れるに違いないという事です。子供の頃、飽かずに海や川で小石を拾い集め、昆虫や魚を捕って遊んだのも、モノの観察眼を養うのに、少しは役にたっていたことでしょう。しかし、大人になって忙しさにかまけ、道にしゃがみ込んで昆虫を観察する時間が無くなって以降、あるいは常識という名の底の浅い知識で目が曇り、モノの形に隠されているはずの自然の摂理が、殆ど見えなくなっている事は、実に悲しむべき事態です。田畑を守り、里山に分け入って、自然の恵みをいただいている様な人たちは、しっかり木々や野菜や山菜やその周辺に棲む生き物の形に対し、敏感なセンスを持っている事は間違いないでしょう。

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2012年5月15日 (火)

1722 ツブラジイの底力(萌芽再生)

数年前に、かつては行き止まりであった家の前の道の先の谷に橋が掛かり、その下にバイパスが通りました。新しい道を通した道の先には、小さな里山に切通しが出来ました。それまでは、人が入れないほど雑木が密生していた山ですが、切通しの出来た面に顔を出した木々は、それまでの「日陰の身」から、突然日当たり良好の場所に飛び出した形です。それまでは、葉に陽を受けるためにひたすら樹高を伸ばし続けたので、その高さはゆうに20mに達しています。しかし、1717にも書いた様に、特にツブラジイの幹の途中には一本も枝が出ていない、異様な樹形をしていました。

しかし、この春それらの木々に大きな変化を発見しました。それは、幹の至る所から新しい芽が吹き出て、枝を伸ばし始めたのです。葉も広がってきたので、遠目には幹がまるで緑の毛で覆われはじめた様に見えます。つまり、木の脇芽の成長=萌芽が始まったのです。その昔、里山の雑木は薪炭として、定期的に伐採されていました。しかし、根が生きている限り萌芽を繰り返すのが雑木(シイやヤブツバキやナラやヤマザクラ等)の底力なのです。というより、萌芽を繰り返さない木は、ナラ枯れの例に見る様に樹勢が衰え、枯れてしまう事も多いのです。古い木は、光合成の活動も不活発になり、ただ森に立っているだけの存在になってしまう訳です。また放置された里山は、林床にも陽が差さないため下草も生えず、昆虫や小動物も棲めない、半分死んだ森ともいえ、しかも地面が露出してしまって保水力も低い森になっています。

必要な行動は、雑木を適当に伐採し、人や小動物が自由に往来できる状態に保つ事しかありません。樹木は萌芽再生し、人や動物は山の恵みを享受でき、見通しの良い雑木には、基本的には人を怖れるイノシシ等(しばしば害獣と呼ばれます)も近づかないでしょう。生き物の多様性も一気に増加します。それにしても、伐採した樹木の使い道が、現代社会には殆ど見当たらないのは悲しい現実です。これらを、炭やペレット燃料や薪等のバイオマス燃料や、木工製品や、その他の工芸品に活用する産業は、とっくの昔に廃れてしまっていますが、新しい技術で再利用する道が開ければ、小さいけれど「産業の芽も萌芽」する筈です。

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2012年5月14日 (月)

1721 ミモザ(フサアカシア)

家の前の道路に、街路樹として植えられているミモザの花が見ごろです。樹木には日頃なかなか目が向きませんが、花が咲く時期は彼らもその存在を強く主張するので、見上げざるを得ません。先日の、ウワズミザクラやツブラジイの項も、やはり花が目を向けるきっかけになりました。人間が、目を向けるくらいですから、紫外線を感ずる目を持つ昆虫は、もっと敏感に反応している事でしょう。ハチや蝶の活動が活発になり、それを狙う鳥の活動ももっと活発になっている様に見えます。毎日通る田圃のあぜ道や週末に登る裏山の散歩コースを通るたびに、スズメかホオジロの類が毛虫や青虫をくわえている姿を頻繁に目にします。茶色で、小さな鳥を見ても、スズメとかホオジロくらいしか鳥の名前が浮かばないのが、元技術屋の悲しいところですが…。たぶん子育ての最中で、巣で待つヒナのエサとして持ち帰るのでしょう。

これは、暖かい気温や日光が植物を目覚めさせ、葉を広げ、花を咲かせる事が、地面から虫を這い出させて、それが鳥を呼ぶと言う自然の循環が、今年も巡ってきたと言う、本当に心安らぐ「悠久のワンパターン」の繰り返しを目撃です。

いずれにしても、木々や草花を見るたび、昆虫や小動物や鳥を見るたび、自然の仕組みの巧みさと、その連鎖の絶妙のバランスに感動させられ、一方では人間の知恵の浅さに落胆してしまいます。もちろん、戦前までの(伝統的な)暮らし方の中には、伝承の素晴らしい知恵が引き継がれていたはずなのですが、それが底の浅い産業革命以降の科学・技術とやらの、目新しくもゴチャゴチャしたノウハウに駆逐されつつあるのは、なんともやりきれないところです。植物や昆虫や動物を良く観察する中で、彼らの知恵も学び、ご先祖様が積み上げた知恵を掘り起こす中で、どうにかこうにか将来世代にしっかりしたタスキをつなぎたいものです。さあ、日々勉強べんきょうです。

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2012年5月13日 (日)

1720 キリギリスとアリ

この国や欧米諸国が、軒並み財政赤字あるいは(及び)貿易収支に悩んでいる状況を見るにつけ、これは実は20世紀型経済モデルの終焉を見ているのでないか、との想いにとらわれます。20世紀型の経済モデルとは、非常に単純化すれば、地下資源(や化石エネルギー)を掘り出して、技術力を使いながら工業製品を安く、大量に生産し、外貨を稼いで自分の国を富ますと言うもので、いわゆる先進国はこのモデルで突き進んできた訳です。しかし、考えてみれば、このモデルでは、資源やお金の流れは一方通行になっており、長い目で見て「持続可能なモデル」ではない事は明らかです。自分の国の資源を掘り尽くした先進国は、途上国の資源を安く買いたたき、自国に持ち帰って工業製品を作り、外貨を稼ぎます。

一方で、資源を持っている途上国は、資源を売って得た外貨で、工業国から製品を買い続けます。しかし、それも資源が産出する限りにおいての一時のラッキーに過ぎないのです。資源を売り尽くしたラッキーな途上国は、もはや冬にさまようキリギリスになるしかありません。車や、便利な電化製品も、ガソリンや電気無くしては、ただのゴミに過ぎません。

そうなる前に、準備すべきはアリの作戦しか考えられません。つまり、体を動かしてチマチマとストックを積み上げ、来たる冬に備えるのです。資源は、これまでに掘り出したものを徹底的にリサイクルすれば、どうにかなりそうです。問題はエネルギー源です。石油や天然ガスなどの、いわゆる化石エネルギーも、元を質せば太古の太陽エネルギーのなれの果てです。私たちは、それを消費するだけでなく、少しずつでも貯める努力を傾けなければならないでしょう。山に木を植えて、数十年かのサイクルで、CO2を固定する方法もありますが、本格的には太陽光を使って、炭化水素を固定する「人工光合成」を形にするしかなさそうです。さてしかし、こんな夢物語を真面目に研究している人たちは、(想像するに)ホンの一握りしか居ない現状に対しては、暗澹たる思いに陥るしかありません。求む、アリ研究者といったところです。

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2012年5月12日 (土)

1719 ツバメふやし隊

ツバメが減っているとのこと。長い年月に亘って小学生による生息数調査を続けている福井県のデータでは、一時の1/3程度に減っている様です。夏鳥であるツバメは、子育てのために多くの飛んでいる虫を必要としますので、そのためにも先ずは虫の密度が高くなっている必要があります。虫が湧く場所は、草原か湿地(田圃)などですから、先ずは開けたその様な場所が必要です。加えて営巣の場所が必要ですが、いかんせん新しい住宅では、壁が汚れにくくするために、滑らかに塗装されており、泥で作る巣が掛けられない様なのです。

投稿者が借りている事務所ビルは、1階の駐車場には壁が無く、上に2階を支える梁が通っているため、これまでに4か所ほど巣を掛けた跡が残っています。このビルは、直線距離で田圃が集まっている場所まで500m位で、目の前は木曽川なので、餌取りの条件としてはまあまあといったところです。しかし、問題は直線距離にして200m位の場所に、小高い「カラス山」があるので、カラスの密度がかなり高い事です。昨年も、目撃した訳ではありませんがたぶんカラスに巣が襲われて、ヒナが奪われた様です。巣も半分ほど壊され、その後二度目の営巣は確認できませんでした。

そこで今年は「武器」を準備しました。買ったものは、平たいゴムバンドと自転車の虫ゴムに使うゴム管です。これで、鉄砲とパチンコを作りました。弾は、近所の家に当たっても問題が無い様に、木製のものとしました。これを使って、このビルに近づくカラスを片っ端から攻撃するのです。カラスは、賢い鳥なので、危険をしっかり学習する筈です。このビルがカラスにとっては危険で、ツバメにとっては安全であることが分かれば、たぶん今年も営巣してくれるのではないか、と密かに期待しています。

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2012年5月11日 (金)

1718 ローカリズム

ローカリズムの重要性は、強調してもしきれません。その対極がグローバリズムですが、その前段階として、システムの中央集中が起こりました。政治・経済活動・企業など、社会システムの殆ど全ての分野においてそれは起こりました。つまりは、日本で言えば東京一極集中、企業で言えば本社への機能集中などがドンドンと進んだのでした。毎日話題に上る電力網もその好例でしょう。電力会社は、見かけ上10社に分かれてはいますが、それぞれがその地域の独占企業で、その地域の全ての企業や家庭が、その電力網にぶら下がっています。これが中央集中でなくて、何をそう呼ぶべきでしょうか。

50年以上さかのぼり、電力会社が再編成される前は、国内には小さな地域発電企業が林立していました。しかし、日本の社会では鉄道を始めとして急速な電化が進み、それに対応するための大規模なダム工事や原発や大型火力発電所の建設には、莫大な投資も必要であったため、国の強力な指導の元、電力会社が再編成され、並行して電源開発が多額の税金も注ぎ込んで進められたのでした。黒四ダムに代表される発電目的のダム工事も、その後も治水目的に「矛先を取り換えて」、継続的に進められましたし、原発についても多額の交付金をエサに、各地の反対派を押し切りながら推進されました。

しかし、その政策も昨年の原発事故をきっかけに、大幅に見直さざるを得ない状況に追い込まれた訳です。今後の社会を再設計する上で、エネルギーや資源のローカライゼイションは絶対不可欠のキーワードです。ではエネルギーのローカリズムはどの様な道筋で実現可能かと考えてみるに、大型プロジェクトは絶対に馴染まず、飽くまでも「チリも積もれば山となる」作戦しか考えられないのです。何故なら、ローカルエネルギーは「広く、薄く」賦存していますので、それをかき集めるための大きな仕掛けは、あまりにも無駄が大きくなるからです。メガソーラーなどは、その最たる例になるでしょう。メガソーラーで日光を遮られたその下の土壌は、まったく何の役にも立たない「土くれ」になってしまいます。日光が当たらなければ如何なる植物も育たないからです。ソーラー発電には、例えば日光が当たって欲しくない住宅や工場やビルの屋根や、精々駅前の「立体ではない」駐車場などが、その適地になるでしょう。

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2012年5月10日 (木)

1717 ツブラジイ

近くの雑木林を眺めると、もくもくと湧いた雲の様なツブラジイの黄色(金色)の花が咲き、存在を主張し始めました。この高木は、岐阜市の市の木・花ともなっており、この木が多い金華山の名前の由来にもなっています。この木は、非常に高く成長できるので、まったく手入れが行われず(つまりは間伐されず)込み合った雑木林でも、樹冠を他の木より高く出して、たっぷりと日光を受ける事が出来ます。しかし、近寄って木自体を見ると、途中には10m程も全く枝が見られず、その上に樹冠だけを付けていると言う異様な恰好をしています。まるでスギなどで、しっかり枝打ちされ、良く手入れされた針葉樹を想い起させます。つまりは、これは何十年もこの山の手入れは行われておらず、ツブラジイは枝を伸ばすのを止めて、ひたすら上に伸び続けたと言う事を意味します。

良く手入れされた人工樹林の木と、まったく手入れされていない広葉樹が同じような樹形をしていると言うのは皮肉な景色です。たまたま早朝に聞いた公共放送のラジオ番組に出演していた、柳生博が、自分は「森の番人」だと誇らしげに言った言葉がしばらく耳に残りそうです。彼や彼の家族が手入れした(し続けている)、八ヶ岳山麓の雑木林をぜひ見てみたいものだと思いました。

さて、里山をこのままに放置しておいて良い筈はありません。昔を知る地元の人の話では、現在は名古屋のベッドタウンとして住宅団地に開発されたこの辺りの里山は、マツタケや山菜の宝庫だったとか。放置され、ただ込み合っているだけで、人も入れない里山には、その面影は全く見られません。この山を誰が所有し、かつては誰が手入れの音頭を取って、誰が実際に間伐などの仕事を引き受けていたのか、知りたくなりました。誰かがきっかけを作ってさえくれれば、その麓の道を、朝夕ひたすら歩くだけのかなりの数の高齢者ウォーカーは、たぶん喜んで山の手入れをしてくれると思うのです。

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2012年5月 9日 (水)

1716 ルリタテハ

家の裏山のジョギング・登山コースは、広葉樹の雑木林で覆われていますが、同時に昆虫や小動物の宝庫の様でもあります。(まだ遭遇していませんがイノシシも居る様です)稜線では蝶類も多く観察できますが、最近気になる蝶が飛び始めました。小型の蝶で、羽を閉じて止まると、迷彩色で目立たなくなりますが、羽を広げると黒地に鮮やかな瑠璃色の筋が入っているのです。苦労してネットの蝶図鑑を調べると、どうやらルリタテハ類の様です。

蝶は、種毎に幼虫が好んで食べる葉の種類(樹木の種類)が異なっていますから、蝶の観察が好きな人は先ずは、特定の蝶が好む特定樹木を知り、それが自生している場所を探せば良い訳です。この事は、生き物の多様性は、即ち植物の多様性無くしては実現できない事を連想させます。しかし一方で、足の無い植物の多様性は、種の繁茂のためには、その種自身に依存して生きている動物や鳥や昆虫に頼ってもいますので、植物と動物との関係は、何処まで行っても切れない「環境の鎖」と言っても良いでしょう。

従って、山々にパレットの様に種々の色合いの緑が入り混じり、その中を歩くたびに種々の昆虫や鳥に出会える場所は、間違いなく環境が上手く巡っている場所を意味しますし、逆に単調な植生で、生き物にもめったに出くわさない針葉樹の人工林などは、もはや自然環境とも呼べない「木材工場」内の敷地と呼ぶしかありません。まして、誰も手入れをしなくなって、陽も差さない放置林は、見捨てられた木材工場の跡地にしか見えません。蝶からの連想でした。

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2012年5月 8日 (火)

1715 原発全停止

原発の全停止は、震災で引き金が引かれた原発事故後の最大のエポックではあります。この国の原子力発電所の熱核反応が全て停止したというニュースは、何か大きな緊張が解けた時の様な安堵感をもたらします。それは、私たちが持っている原子力技術がまだ稚拙過ぎて、熱核反応を制御していると主張していたのは、実は単に水と制御棒を使って、核分裂を「減速」させる事であった、という事実に拠ります。その証拠には、野に放たれた放射性物質を「制御」し、放射能レベルを弱める技術すら持ち合わせていない事が暴露されてしまったではありませんか。除染作業の中身はといえば、単に放射性物質を洗い流して、濃縮して仮置き場に移動する作業を指すと言う情けなさです。

私たちが、真に核物質を制御出来たと胸を張れるのは、物質に対して自由に放射能を付与したり、逆にそれを消したりできた時だけです。つまり、それは例えば放射性のセシウム137を、放射能を持たないセシウムに自由に転換できる技術を指します。それが出来ない限りにおいては、不完全な技術にしかサポートされていない原発の再稼働は考えるべきではないでしょう。私たちは、半世紀を掛けて原子力を利用する技術は磨いてきましたが、一方で放射能の除染技術や「消染(Sterilize)」技術を磨く事をサボってきたとしか言えないです。

過去に何度もチャンスはありました、東西の核爆弾の実験場からまき散らされた放射性物質と、それから受けた人的被害、チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故、国内における大小の原発関連事故やJCO臨界事故などは、それらの代表です。これらの事故における対処としては、放射能を石棺に閉じ込め、人体や環境を洗浄し、あるいはヨウ素剤を服用して、放射能被害を薄める事しか出来ませんでした。原発の「一時再稼働」に必要は事は、古い原発の廃炉を含む、原子力のフェイドアウトの具体的な道筋と、それに代わる再エネの具体的なフェイドインの計画を国が示す事しかありません。

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2012年5月 7日 (月)

1714 再度ドイツに学ぶ

投稿者が10年ほど前に環境先進国と言われていたドイツを訪問した際、廃棄物を圧縮するいわゆる環境産業や、再生可能エネルギー分野などを見聞するにつけ、少なくとも日本の10年以上先は行っていると感じたものでした。事実、10年を経て、震災=原発事故のインパクトはあったにしても、この国でもここにきて再生可能エネルギー(再エネ)への取り組みが加速してきました。

しかし、学ぶのは良い点だけに限っては片手落ちです。いまドイツなどの環境先進国で起こっている問題点にも学ばなければならないでしょう。記憶では、02年の訪問時ドイツにおけるFIT(固定買取価格)は、売電価格の4倍もの高値に設定さており、風力や太陽光発電やバイオマス発電の増加を強力に誘引していました。4倍レベルの売電価格であれば、多くの再エネ分野で生み出した電力も十分算盤にのりますので、急激に増加させるインセンティブになり得ます。控えめな政策が好きな日本では、取り敢えずは2倍レベルでスタートする様ですが、インセンティブもそれなりに留まると予想されます。

勿論、お金をインセンティブに使う限りは、必ず限界や問題点も伴うのは自然の流れです。ドイツでも、今問題になっているのは、FIT価格が下がってきたのと同時に、再エネの設置適地が飽和してきており、多大な投資を繰り返してきた再エネ産業が、息切れを起こしている状況なのです。再エネ産業が持続可能となるためには、再エネ産業だけで作ったエネルギーで、しかも既に地上に存在する資源をリサイクルした材料だけを使って、永く産業基盤を維持できる場合に限られる事を考えれば、先進的と言われるドイツの環境産業といえども、未だ理想に向けての途上にあると、批判的に理解すべきでしょう。そこから、更に10年以上遅れて歩んでいるこの国の鈍さに対するもどかしさは、残念ながら10年前と全く変わっていません。モノマネではなく、この国独自の事情に対応する知恵出しが必要です。

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2012年5月 6日 (日)

1713 ウワズミザクラ

もう花の最盛期は過ぎつつありますが、毎週末1-2回登る400m弱の裏山に、白い羽毛のような花が咲く木があります。名前が知りたくて、ネットで調べると「ウワズミザクラ」だと出ていました。それにしても、技術屋を何十年もやっていた身としては、身近な樹木の名前さえ知らないと言う事に、改めて自分の知識の偏りを実感しています。そういえば、まとめて「雑草」と呼んでいる草花にも、それぞれ名前があって、先人はそれらを細かく分類した上で、自分の五感を信頼して、それらの一部を食用にしたり、あるいは薬草として活用したりしていた事を思うにつけ、すぐネットや図鑑に頼る、現代人の情けなさを思い知らされます。

それにつけても、数十万もの植物を採集して標本化し、そのうちの1500種類もの植物に新たに名前を与えた牧野富太郎博士の偉大さは、言葉にもできません。植物や生き物を分類すると言う作業は、先ずはそれらを詳細に観察し、小さな違いを見分ける事が必要です。植物や生き物は、長い時間を掛けて、その環境に適応すべく進化を重ねてきたので、僅かな環境の差異は、その違いと同程度の違いを個体の形態にもたらします。その違いが、一定以上のレベルに達すると、種の違いという事になるのでしょう。もちろん、遺伝子レベルではほぼ同じで同じ種だとしても、棲息している環境(例えば山間地なのか都市の公園なのか)によっても、色や形態に差が出ている可能性もあります。ある種の蛾には明らかにそのような傾向が確認できます。

さて、植物には足がありませんから、地下茎を使って勢力を拡大する竹などの一部の植物を除いて、彼らが頼りにするのは「風、鳥、獣」などになります。つまり、風に乗り易くするために種子を軽くして羽根や羽毛を備えるか、甘い果実をエサに鳥に種子を運んでもらうか、あるいはかぎ針を備えて獣の毛に取りつくか、などの戦略を磨いてきた訳です。その結果、手つかずの雑木林では、信じられない程の生物の多様性を確保している訳です。とは言いながら、人里に近い雑木林と(里山)には、薪炭採取や山菜採りなどの目的で、ほぼ100%人の手も入ってはいますが…。

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2012年5月 5日 (土)

1712 雑食系企業

企業は、その設立からの年数が長い程、徐々にある特定の分野に特化し、可能な限り市場のシェアを大きくしようと努力します。つまり、儲からない分野を切り捨て、利益がより厚い分野への集中度を高める訳です。たとえ話をするなら、それまでは何でも作って出す大衆食堂であった業態から、規模は大きくなったのに、イタリアンだとか中華だとかの専門店に衣替えする事に似ています。

しかし、そこには「ばっかり食べ」の危険も伴う筈です。つまり、日常の食生活を考えてみても分かるように、好きなものばかりを食べていれば、当然の事ながら栄養が偏り、やがて健康を害することになるでしょう。投稿者がかつて勤務した企業も、古くから総合重工業と言う看板を掲げていましたが、最近ではいくつかの看板を引っ込めてしまった様な気がします。同様に、総合電機と呼ばれる企業群も、かなりビジネスユニット(B/U)を集約してしまった様に見えます。このままでは、個別の企業もこの国全体の産業も、「偏食産業」と言うレッテルが貼られるかも知れません。

そうではなくて、人も企業ももっと雑食をしなければならないのです。それも食べ物(BU)を丸呑みするのではなく、良く咀嚼して味わう必要もあるでしょう。味わう事とは、そのビジネスユニットの成長により長く時間を掛けると言う意味になるでしょう。現代社会において多くの企業では、たぶん3年間も利益が出ないBUは、その時のサラリーマン社長の任期中にバッサリ切り捨てられるでしょうから、企業の体質はますます偏食にならざるを得ません。想像だけですが、今後の社会を担う新たなB/Uにおいておや、です。現在の多くの企業では、たった10年間でさえB/Uの芽が出させそれが成長するのを見守る余裕があるとはとても思えません。つまり、選択と集中する事しか能がない、偏食系企業は今後ますます増えて、バタバタと倒れるしかないのかもしれません。

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2012年5月 4日 (金)

1711 セミパラチンスク

これは、チェルノブイリやフクシマ以上に重たい意味を持つ地名です。多くの国々には、暗い過去が存在します。たぶんそんな歴史の無い国などは存在しないと言っても言い過ぎではないでしょう。このブログで取り上げたKザフスタンと言う国も例外ではありません。この国がニュースになるのは、バイコヌール基地から日本人や西側の宇宙飛行士が宇宙に飛び立つタイミングか、最近では、この国に豊富に存在する鉱物資源の権益を求めて、大臣や商社が詣でていると言った内容の報道程度しかありません。しかし、3月に短期間訪問した時はすっかり失念していましたが、この国には目を覆いたくなるような悪夢が存在したことを、偶然の機会に再認識しました。しかも、それは現在進行形だと言っても良いのです。

その悪夢のキーワードは「セミパラチンスク」と言う地名です。ここは、Kザフ国北東部の乾燥地帯にあり、なんと旧ソ連時代の核爆弾の実験場があった場所なのです。東西の冷戦が華々しかった頃、東西の陣営はそれぞれ活発に原爆や水爆の爆発実験を繰り返しました。それも、地下核実験ではなくかなりの数は大気中で実験されたのです。西側でいえば、B国のネバダ砂漠での実験やF国のムルロア環礁での水爆実験などが思い浮かびますが、東側の実験は報道されないまま、信じられない回数の大気中実験が行われてきたのでした。その際にまき散らされた放射性物質は、爆発の直接的な影響(爆風や熱波)が届かないとされてきた、近隣の村や町に風に乗ってまき散らされたのでした。

B国でも、西部劇スターがロケで度々訪れたであろう砂漠には、原発実験の放射能が残留していたと思われ、その間接的な影響かガンで亡くなるケースが話題になった時期がありました。

しかし、Kザフではそんな程度では済みませんでした。強烈な強度の放射能被ばくは、射爆実験場の近くに住んでいた人々、とりわけ妊婦(=胎児)に多大な影響を与え、目を覆いたくなるような奇形児が次々と誕生してしまったのです。従って、悲劇は彼らが生存している限りは現在進行形と言う事になります。その記録や現状をネットで再確認するにつけ、人類が放射能を制御する事など所詮見果てぬ夢に過ぎなく、やはり原発などと言う仕掛けは「パンドラの箱」そのもので、その蓋を一日も早く固く閉じなければならないと、強く思うのです。

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2012年5月 3日 (木)

1710 670㎞と言う距離

昭和40年代の終わり頃、交通事故件数はウナギ登りに増加し、車は「走る凶器」とも呼ばれていた様な気がします。道路が整備され、信号や交通システムが整備された結果、事故件数や死者は確かに低下しましたが、ここにきて再び走る凶器と言う言葉を思い出される事故が相次いでいます。これだけ免許証を持つ人口が増えれば、本来は運転には向かない性格の人や、本来は運転してはいけない病気の人の絶対数も増加している事は十分考えられます。

更に言えば、身体的能力の低下した、いわゆる高齢ドライバーも日々増えているとの実感もあります。かつて、羽田での旅客機の着陸の際に機長が異常な操縦をして、多くの乗客が犠牲になった事故もあったと記憶していますが、飛行機のパイロットとバスの運転手の適正や身体的な能力には本質的な違いは無いでしょう。基本的には健康で、判断力が良好で、反射能力が普通以上で、アルコールの血中濃度が極めて低い状態で、しかも寝不足ではない一定レベル以上の覚醒状態で、操縦桿やハンドルを握る必要があります。その様な適性と健康な身体を持つバスドライバーが、飛行機のパイロットと同様の割合で存在して貰わない事には、今回の様な事故は減らないでしょう。問題は、長距離バスよりたぶん2~3桁は多い数の大型トラックも、日夜道路や高速道を疾走している事です。基本的には、これらのトラックドライバーについても、何らかの適正検査なり、体調のモニターが必要です。

ところで、投稿者の生まれ故郷は、いま住んでいる岐阜からは丁度700㎞離れています。冠婚葬祭のタイミングなどには、夜通しで車やバイクを転がして帰省する事がありますが、流石にこの距離を一気に走る事は無理です。3回くらいに分けて休憩し、そのうち1回は大休憩(仮眠)も必要です。先日、名古屋から仙台まで夜行バスを利用した際には、運転手が2名乗っていて何となく安心感がありましたが、やはり長い距離例えばそれが670㎞以内だとしても、その日の健康状態も確かめようがないたった一人の運転手に、大勢の乗客の命を預けるにはかなりの不安感が伴います。ましてや大型免許を取って日が浅く、しかも慣れない単独運転ではなおさらでしょう。

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2012年5月 2日 (水)

1709 儲からない技術

技術とは、そもそも企業や産業を支えるために、つまりは儲けるために存在しているはずです。従って、「儲からない技術」などと言うものは、存在し得ない種類のものかも知れません。しかしながら、敢えてここでそのアンチテーゼを持ち出したのは、それが今後の技術の方向を指し示すキーワードになると、心の隅で信じているからです。

その意味で、儲けるための技術と、儲からない技術では、出発点が違います。前者は、市場のニーズ(消費者は何が=モノ・サービスが欲しいか)と企業によるそれらの提供と得られる適正な(できれば最大の)利益などになるでしょう。しかし、後者は消費者の基本的ニーズ(生活をしていく上で、何が必要不可欠か)、環境に大きくインパクトを与えない技術と必要最小限の利益、とでもなるのでしょうか。

これまで、この国を含め世界中の国々(たぶんBータン国は違うのでしょうね)やそこの企業は、儲かる技術を使って、より多くの利益を稼ぎ出すために汲々としてきたはずです。しかし、それが持続可能ではない事が、種々の局面で明らかになっても来ました。従って、ここでの結論(と言うよりこのブログの一貫した主張ですが)、私たちは何が何でも儲からないが持続可能な技術を徹底的に磨いて行かなくてはならないのです。具体的には、それらはかつて50年以上前にはこの国にもあった、「地に足を付けた生活」やそれを支えた技術(というよりは手わざ)に例を見出す事が出来るでしょうし、それを新しい技術も少し活用しながら補強していけば良いでしょう。

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2012年5月 1日 (火)

1708 伊吹山

連休の初日、好天に誘われて伊吹山に登ってきました。朝起きてから思い立ったので、バイクを転がして、登り始めたのは10時を過ぎており、頂上に立ったのは12時を少し回っていました。山登りの鉄則ですが、頂上に立つのは午前中、出来れば朝早くが理想です。理由は、昼に近くなると日射で気温が上がり、同時に大気中の水蒸気量も増加するので、見通しが悪くなるからです。加えて、夏場は昼過ぎになると雲が湧いてきて、運が悪いと雷さんに追いかけられるからでもあります。さて昨日は、出足はやや遅れましたが、頂上では遠くは霞みながらも、御嶽や北アルプスも望め、まあまあの視界でした。

頂上付近には、まだかなりの厚みで雪渓が残っており、雪解け水がチョロチョロと流れ落ちています。頂上から下界を眺めると、殆どの田には水が張られ、キラキラと輝いていました。その面積は、伊吹山の麓から、丘陵地や市街地を除いて、びわ湖のすぐ近くまで広がっており、各々の水田に平均2030センチ程度の水が湛えられているとしても、合わせればかなりの水量に上る事は容易に想像できます。この時期に豊富になる、雪解け水を導いて田んぼで米を作ると言う、自然の仕組みを最大限利用した、最適の農業システムを弥生時代から確立していたと思えば、先人の巧みさに改めて感嘆してしまいます。

伊吹さんの麓に広がる関ヶ原は、交通の要所でもあるので、下には名神高速や東海道線や新幹線が、パノラマの様に走っていますが、一方では石灰岩の塊でもある伊吹山の北側は、平面的に削られています。某セメント会社が削った跡です。たぶん高度成長期に、下を通る高速道路や新幹線の高架の建設に使われたものでしょう。しかし、現在のセメント会社の工場は、山から石灰石を運んだ長いコンベアを含めて、錆びだらけの残骸となっており、この姿こそが「昭和遺産」か「高度成長期遺産」の典型だとも言えそうです。つまりは、高度成長期に作られたインフラと、それを支えた企業や工場の変わり果てた姿のコントラストを指します。

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