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2012年7月31日 (火)

1799 新産業興し

故郷である秋田に、40年ぶりに帰ろうと思ったきっかけは、地元の産業界が、次世代の産業として「航空機産業」への参入を考え始めという情報が入り、昔取った杵柄で、航空機の生産技術に関してのセミナー講師として、数回秋田に出かける依頼を受けたことでした。しかし、本音の想いは、地の利の無い東北の地で、新たに航空機産業の基盤を築くのは至難の技だと言うものでした。仮に各企業が10年間の赤字を覚悟して(つまりは無理をして)それが達成出来たとしても、その頃にはたぶん石油が高騰して、バカ高くなった航空運賃(サーチャージ料金)を払ってまでは、誰も海外旅行など行かなくなっているかも知れません。どの様な道筋で考えても、この産業も「持続可能ではない」事は明らかなのです。

同様に東北で盛んな電子産業や精密加工等の大企業の下請け産業も、今では海外メーカーにシェアを食わる形で殆ど全てが下向きとなり、やはり持続可能ではない事が証明されてしまいました。国が、どの様な「新」成長戦略を掲げようと、東北の地で、いわゆる最先端の科学技術を使った新たな産業など興せそうもない様なのです。

では、どうすれば良いかですが、残された数少ない選択肢としては、新たな「持続可能型産業」を興す事しかないとの結論になってしまうのです。しかも、この新たな産業は、お金を中心に据えたものであってはならないでしょう。そうではなくて、地域でモノやお金が回り、雇用を生み出す事こそ中心に据えなければならないのです。この産業で回る「お金」は、実際のお金でなくても良いのです。地域通貨と言う選択肢があります。地域通貨の本質としては、物々交換あるいは、労働とモノの地域限定の交換と言う意味合いもある訳です。

いずれにしても、中央政府や大企業や海外市場には左右されない、どっしりとして揺るぎがない、地域産業を興してみようと言うのが、投稿者のたぶん今後10年をかけた挑戦なのです。さて本日秋田への移動に掛かるので、明日以降の投稿が一時途切れるかもしれません。

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2012年7月30日 (月)

1798 どれだけ捨てられるか

秋田移動前の最後の整理に掛かっています。5年以上も借りていた、今の事務所を引き払うに当たって、先ず知らないうちにモノが増えていた事に驚きました。僅か十数畳の広さの、和室の事務所によくこんなにもガラクタが詰まっていたものです。そこで、引っ越しに当たって移動の際の入れ物の大きさを限定しました。今回移動に使うステーションワゴン型の小型車の中に納まるだけのモノしか持っていかないと言うルールを決めた訳です。

モノの多くは、資料やカタログなどの書類でした。紙は重たい物質です。何故なら、紙の中には顔料としてタルクが混ぜ込まれているので、ぎっしり詰まった紙は「石の様に」重たいのです。そこで、可能な限り時間を掛けて書類を電子化しました。スキャナーで読み込んだのです。しかしながらそれも時間切れで、多くの書類は紙のままで持っていくはめになりそうです。

次に、パソコンや仕事関係のモノが増えていました。液晶が壊れたノートパソコン、安かったが1年しか持たなかったデスクトップパソコン、余ったスピーカやキーボードなどなどです。仕事関係で買い集めた計器類も結構なボリュームになりました。各種、エネルギーや環境測定器具、熱画像カメラ、プロジェクター、省エネ型照明器具のサンプル等などです。それに加えて、登山の関係装備がありました。かなりのものは捨てましたが、愛着のあるモノも多く、と言うよりモノを捨てられない性格故に、結局移動に使う車は、運転席以外はモノで埋まってしまいました。

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2012年7月29日 (日)

1797 変わらない幸せ

ラジオ番組でT中優子の話を聞きました。江戸にまつわる雑談の中で、ココロに残った言葉は、「明日が今日と変らない幸福」と言うものでした。江戸学者?である氏の江戸時代の見方は、確かに江戸時代は文化的には花開いたが、生活レベルが向上した訳ではない。むしろ、庶民は今日が昨日と変わらず、明日も変わらない事こそが幸福な事だと考えていた、というものです。

それに引き替え、戦後、とりわけこの50年の変り方は、激変と呼んでもおかしくない程です。食うや食わずの戦後から、今ではまだ十分に口にする事が出来る食べ物を捨て、一家の全員が車を乗り回し、庶民が気軽に飛行機で海外旅行に出かけ、暑いと言っては原発で作りだした電力を使って冷房をガンガンかけ、結果としては巨大な「国際市場」や「金融システム」などと言う、それを作った自分たちでさえ制御できないモンスターを作り上げ、今やそのシステムに押しつぶされそうになっている訳です。

投稿者の50歳の時の選択は、「もう山を降りよう」と言うものでした。近代装備を使って登り詰めた山の頂上には、実は人工の建物である山小屋(都市)しかなかった事に気が付いてしまった訳です。山小屋(都市)には、里から(田舎や海外から)運び上げた食糧や、お金を積み上げて麓に作った発電所から送られる電力で支えられる「人工的な生活」しか見つかりませんでした。この10年ほどの間、山をゆっくり下りながら見えてきたものがあります。第一に、変わらない(大分変ってはしまいましたが)田舎にこそ、私たちが失ってしまった「変わらない幸せ」が見つかりそうだ、との予感があります。もう一つ、化石エネルギーや地下資源で築き上げられた、産業革命以降築いてきたいわゆる科学・技術文明にさえ固執しなければ、田舎には(自然から得られるだけで)持続可能な暮らしを支える食糧や資源やエネルギーが十分に存在するという言う点です。これらを上手に生かして、持続可能なシステムを再構築できれば、「変わらない幸せ」ももう一度手に出来ると思うのです。

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2012年7月28日 (土)

1796 遮蔽・除染ではなく

「放射能」と言う害悪に対しては、「遮蔽」という言葉が対で使われます。それは、放射能は明らかに人体や生き物に対して危険であるから、それを遮らなければならないと言う必然性があるからです。その危険性は、大まかに言えば放射能による細胞や遺伝子を傷つけたり、もっと強烈な被ばくでは、細胞死や遺伝子を決定的に破壊したりする点にあります。

問題は、低レベルの被ばくにおける遺伝子の、部分的な破壊がもたらす健康被害や遺伝病です。直接的には、一定期間経過後に発症する多様な部位のガンや、卵子の中の遺伝子が傷つく事による正常ではない子供が生まれる危険性などが挙げられます。それを阻止する手段として、我々には「遮蔽」しかないと言うのは如何にも寂しいものがあります。つまり、毒があるからそれを遠ざけたり(つまりは人工密度の低い地域に原発を立地させる)、あるいはそれを遮ったり(圧力容器や格納容器で覆う)、あるいは除染と称してそれを洗い流して薄めたりするしか対抗手段が無いと言う現状なのです。

Eインシュタインには、核の持つ強大なパワーを証明すると同時に、ぜひその際に発生する放射能を無害化する原理や技術も併せて発明して貰いたかったものです。例えばプルトニウムを何らかの操作で、外部に殆ど放射線を出さないで、短期間に「鉛」に替える技術です。原発事故で環境にまき散らされた放射性物質を、単に洗い流すとか、ゼオライトなどの物質に吸着させる除染技術ではなく、毒を完全に中和(無害化)する技術こそが欲しい訳です。そのためには、国や電力会社はどれだけの研究費を注ぎ込んでも惜しくないはずなのです。吸着による除染は結局のところ、吸着物質の放射性レベルを上げて、さらに地下か人里離れた場所に、隔離してしまう操作に過ぎません。その意味では、吸着処理や遮蔽は結局後ろ向きの対策でしかないのです。

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2012年7月27日 (金)

1795 熱供給公社

水道局がほぼ100%自治体によって運営されているは何故でしょうか。水は、毎日の生活に不可欠だと主張するなら、ガスも電気だって公営にしても良さそうです。加えて、寒い地域では熱供給、暑い地域では「冷熱供給公社」だって存在してもおかしくない訳です。他の例では、ローカル鉄道やコミュニティバスなどは、自治体(第三セク)が経営に当たっている例も多い昨今です。

さて、熱です。熱は、給湯や炊事、あるいは寒い時期の暖房など、基本的な生活に欠かせないエネルギーの形態だと言えます。電気が無い場所でも、炊事をしない訳にはいかないでしょうし、きれい好きで有名なこの国の人々は、たぶん最低でも一日おきには入浴したがるでしょう。寒い地域なら温水による暖房こそが快適さにおいて理想的なものとなります。ならば、公社がお湯を作って、パイプで配送する「熱供給公社」が存在しても良さそうです。事実、北欧や旧ソ連地域では、立派な熱供給公社や組合が存在します。と言うより、温水暖房が殆ど唯一の暖房手段であるこれらの地域では、お湯の供給は「命の綱」でもある訳です。従って、これを営利目的の株式会社に任せておくわけにはいかない訳です。

これが、先ほどの疑問の答えの一部になっているかも知れません。つまり、水や寒冷地の温水供給は、直接命に関わる部分なので公営とすべき必然性があり、電力やガスは、嫌なら他の手段(ランプや薪炭?)が存在しますので、株式会社の運営も許されると言う理窟はこねられます。熱供給公社は、日本で言えば北海道辺りでしか、本気で検討は出来ないかも知れません。少なくとも本州では、寒さが原因で凍死者が出たと言うニュースは殆ど耳にしませんので…。そうではあっても、町ぐるみの熱供給ではなく、狭い地域での熱供給事業であれば、組合などの公的運営に馴染みそうな気もします。まして、田舎で高齢者が多いコミュニティにおいては、温水は最も安全なエネルギーの供給形態である事は間違いないでしょうから。真夏の熱い話題でした。

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2012年7月26日 (木)

1794 ライチョウの戦略

7月2123日は南アルプスのど真ん中に入りました。南アのほぼ中心に鎮座しているのは荒川岳です。荒川東岳は3100mを超えるピークですが、周りの山々も殆どが3000mクラスです。この山への往復で、今回も何度かライチョウを目撃しました。と言うより、登りの登山道では、しばらく5mほど先を歩いてくれたりもしました。北アルプスでも同様の経験をしましたが、ライチョウを見かけるのは、例外なくハイマツの密生している高山帯です。しかも、ハイマツの樹高は精々30センチ程度の場所に限られます。ハイマツも場所によっては、人の背丈くらいには伸びる植物ですが、積雪が多く気温が低い場所では、高く成長出来ないのです。

さて、ライチョウがハイマツに依存して暮らしている事は明白です。食料でもあるでしょうし、隠れ場所や営巣場所でもあるでしょう。ハイマツ帯には大型の肉食動物は登ってきません。たまに猛禽類が上昇気流に乗って飛来する事もあるでしょうが、ハイマツにじっと隠れていれば、保護色でもあり捕食される心配もないでしょう。他の天敵はと言えば、心無い人間だけですが、幸いにも山に登る人にライチョウをいじめる様な人は居ません。(と一応断言しておきます)

ところでハイマツは握って樹液を出すと、えも言われぬ芳香を出します。(いつもこの匂いに癒されます)揮発性の油分を多く含む植物だと思われます。もしこれを食べて代謝できる酵素を持っているなら、かなりの高カロリーの食べ物となる筈です。ライチョウは、天敵が多く危険な里から安全な高山に逃げ登る過程で、その能力を身に着けたと想像できます。自分も山に登り、ライチョウの安寧をやや乱す事もしてきましたが、ライチョウと接触した際には、出来る限り距離を取るようにするか、驚かせない様にゆっくり行動する事を心掛けています。何より、人間が持つ雑菌などを彼らに移したくないからです。今回も、ライチョウに幸多かれと祈りました。

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2012年7月25日 (水)

1793 サラリーマン宇宙飛行士

最近の宇宙飛行は「出張」なのだそうです。確かに、数日程度の宇宙飛行だと、一つの飛行ミッションになるのでしょうが、数か月の滞在は、職業宇宙飛行士の彼らにとってみれば宇宙への出張感覚なのでしょう。と言う意味では、彼らは選ばれた国費サラリーマンに成り下がってしまったとも言えそうです。宇宙出張が、仕事になってしまったのであれば、よくよく考えてみなければならない時期に差し掛かったとも言えます。つまり、宇宙出張が仕事であるならば、出張経費と出張中に成し遂げた成果を天秤にかけて、出張成果を評価してみる必要があるからです。そういえば、彼らの出張報告書を目にした事はありませんでした。

つまり、いくらお金を掛けて(税金を使って)どれだけの、成果を宇宙から持ち帰ったのか、実のところ誰も評価した形跡が無さそうなのです。宇宙に宇宙飛行士を送る事が、国威発揚であった時代は終わったと言えます。(お隣の国では、まだまだそうは思っていない様ではありますが…。)であるならば、そろそろ宇宙出張の、費用対効果の算盤を弾いて見なければならない時代に入ったと考えるべきです。そうでなくとも、財政がひっ迫したこの時代、興味本位の宇宙実験や学生が作った小型衛星(オモチャ衛星でない事を願っていますが)を、宇宙に放り出す事が、今絶対に必要なミッションとも思えません。しかも、それが数か月も掛けなければならない事もすぐには納得できません。

宇宙ステーションも、初期の役割が終わったのであれば、別に空き家になってしまっても良いではありませんか。作って打ち上げるには、目方当たりでは純金などより大分割高についてしまった宇宙ステーション本体ですが、地金に戻したらただ同然のアルミの塊に過ぎないのですから。宇宙飛行士の皆さんには、せっかく訓練していただいたので、今度は深海艇に乗り換えていただいて、海溝部の資源探査でも行っていただきましょうか。ロボットアームの操作技術もしっかり役立ちます。

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2012年7月24日 (火)

1792 スペース冷暖房ではなく

現在のエアコンは、基本的にスペース冷暖房です。つまり、部屋なりスペース全体を、冷やしたり、暖めたりしているシステムです。その際の、コントロール要素は、主として「気温=空気の温度」だけです。何故なら、コントローラに組み込まれているセンサーは、温度センサー(場合によっては湿度センサー併用)だけだからです。夏であれば、空気温度が高ければ冷やし、それがおる程度冷えたら、コンプレッサーの負荷を下げる制御が行われています。

しかし、考えてみれば、必要な制御は、そのスペースにその時間に居た人の「体感温度」を不快でないレベルにキープする事がエアコンの目的ですので、高い天井を持つスペース全体を、冷やしたり暖めたりするのは、エネルギーの無駄使いの典型に見えてしまいます。夏場に、床付近の気温が必要以上に低くなっているのは、センサーが高い場所にあるからです。逆に冬は、頭の上から天井付近が暖かく、足元は冷え冷えしている訳です。

ここでの提案は、冷暖房は可能な限り、個人個人の体に纏わりついている空気(極端に言えば衣服の中の空気)だけを、冷やしたり暖めたりすれば、最も省エネの冷暖房ができると言う点なのです。宇宙で活動するための宇宙服の中は、まさにこの方法で空調されています。溶鉱炉の前の作業者も似たような服を着ているはずです。宇宙開発に多額の税金を使うくらいなら、その技術やお金のホンの1%だけでも、この目的に振り向けてくれるだけで、この国の冷暖房エネルギーは、少なくとも半分以下には出来るはずなのです。

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2012年7月23日 (月)

1791 エネルギーの多様化

エネルギーの多様化やベストミックスなどと言う言葉が、毎日のマスコミを賑わしています。その論調は、もっとも使いやすいエネルギー形態である電力を、どの様な手段で生み出すかに集中しています。かつての水力発電主体から、戦後は石炭や石油を燃やす火力、その後急速に伸びた原子力や近年はLNG火力へと、この国のエネルギー政策も変遷してきました。原発の稼働率が数%に低下した今、残された発電手段と、慌てて伸ばしつつある再生可能エネルギーをどの様に組み合わせるかが国や専門家の焦点なのです。

しかし、この論点が完全にずれていると思うのは、エネルギーの用途に殆ど触れていない事なのです。電気エネルギーをそのまま電気として利用しているのは、精々電灯やテレビやパソコンくらいのものでしょう。家庭やビルでは、空調や給湯と言う「熱負荷」が大きいでしょうし、工場ではモーターやコンプレッサーを動かす「動力負荷」が概ね2/3かそれ以上を占めている事でしょう。従って、例えば風車や水車で発電するのではなく、油圧ポンプを動かして動力を作る「発動」や、それを使って熱を発生させる「発熱」なども視野に入れる必要があると思うのです。動力や熱は、実は貯めて置くのは非常にたやすいエネルギーの形態でもあります。回転力であればフライホィール、圧力であれば蓄圧器、熱であれば水や蓄熱材を使えば良いのです。

太陽光を使ってPVでの発電だけしか想定出来ないというのは、あまりにも安直で知恵が足りません。そうではなくて、太陽光は重要な熱源と思い直すべきです。何故法律を作って100%の家庭の屋根に「太陽熱温水器」を上げさせないのでしょうか。何故、太陽熱を使った冷房機を実用化させないのでしょうか。その前に、何故冬晴れの日に石油や電気を使って暖房するのでしょうか。エネルギーの多様化は、その用途を含めての検討を行わなければ、重症の「電気中毒」からは脱却できないでしょう。

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2012年7月22日 (日)

1790 安全なのはエタノールだけ?

N経エコロジーの8月号は、化学物質の特集号でした。その中の記事にあった、ある企業の化学物質削減計画の中に、メタノールと言う文字が見えました。化学物質(人工合成された物質)には、環境に負荷を与えるものや、人体や生き物に悪影響を与えるものも多く、最近でも印刷インクのクリーニング溶剤の胆管癌へのリスクがニュースになっています。

さて、メタノールに如何なるリスクがあり得るのかですが、確かにメタノールを飲用した場合は、重篤な中毒症状を呈します。その昔、酒類にメタノールが混入され、多くの中毒事件を引き起こしましたし、それは現在でもアジアの国々では時々ニュースになります。しかし、揮発したメタノールの吸引による悪影響に関しては、あまり重要視されていないきらいがあります。飲んで体に悪いものは、当然吸引して肺胞から吸収されても悪影響を与えるはずです。

ところで、エタノールは、実は化学物質ではありません。現在でも殆どの場合、微生物によるアルコール発酵で醸造されているからです。エタノールを車で焚いているラッキーな国であるブラジルでさえも、エタノールは、サトウキビの絞り汁を醗酵させて作られています。つまり、エタノールは自然物であり、一方で長年の飲用による「人体実験」も完了している数少ない安全な物質だとも言えそうです。

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2012年7月21日 (土)

1789 公の部分

T島実朗によると、現代は官と民の時代なのだ、そうです。本来は、その間に「公」が存在しなければならないのでしょうが、今では多分多くの地域では、緩い自治会程度のものが存在するだけでだと想像しています。その自治会が決めるのは、年に数回の地域清掃や、やや活発な自治会でも夏祭りの企画程度になります。自治会に出席できた退職後の年配者と主婦の中から、やや自動的に年配者が自治会長に祭り上げられ、その年の自治会の活動が始まるのです。

しかし、公の部分をこんな状態に放置してお茶を濁してはならないでしょう。官の部分は、戦後一貫して拡大してきました。優秀な人材は、こぞって官僚となり、国土省(後の国交省)は列島を改造し、通産省(後の経産省)は国の産業政策を引っ張ってきました。文科省はロケットを飛ばし、防衛庁(後の防衛省)は、軍備をCDPの1%も使いながら拡大してきました。しかし、世界的な信用不安や未曾有の震災に加えての原発事故を前にして、今や官は「完全に立ち尽くしている」様に見えます。税金が集まらず、政治家と官僚が対立し、政界は相変わらずの足の引っ張り合い、それを横目に見ている国民の政治不信が蔓延し、誰もがネガティブ思考に陥っている様に見えます。

その中で「公」の部分は、震災と言う好ましくない経験を通してですが、確実にその力を取り戻してきたとの感触もあります。震災地でのNPOやボランティア組織の活躍は、頼もしさをズンズン増してきましたし、力を出せない人たちは、それなりに経済的なサポートに回りました。それは、まったく官的ではない、公の部分だった訳です。官が竦んで、立ち尽くしているのであれば、何はともあれ「公」が乗り出すしかなかったとも言えます。再生可能エネルギーの拡大などは、まさに公の活躍する場として絶好の舞台に見えます。再エネに関しての官の知恵は、精々メガソーラーや大型洋上風力発電程度しか無い事ははっきりしてきました。その中で、固定価格買取制度は、遅きに失したとはいえ、やっと動き出しました。しかし、そんなお国の制度や助成金など当てにしない、先ずは市民レベルの再エネを、地域でモノもお金も回る形にする必要があるでしょう。その様な例は、実は欧州には多数みられます。第三セクターや組合による「熱供給公社」などはその典型です。続きます。

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2012年7月20日 (金)

1788 タマムシ

何時もの裏山の登山道で、一匹の虫を見つけました。5-6センチの細長い形で、羽は見事な虹色の甲虫です。帰って検索すると、タマムシ(玉虫)だとの事。玉虫は、字面からもっと丸い甲虫かと想像していたのでやや意外でした。そういえば、中学時代の歴史の教科書に「玉虫厨子」の写真が載っていた様な気もしますが、たぶん白黒写真だった様な…。昔の人は、この虫の虹色に魅せられ、厨子の彩色に使ったのかも知れません。コンクリートの道にじっとしていて、弱っているのかと思い、そっとつまんで近くの草むらに置いてやりました。

少し歩くと、今度は小さなトカゲに出くわしました。胴体は褐色ですが、尻尾の部分はドッキリするくらい鮮やかな金属的に光る青色の虹色でした。タマムシの色彩の美しさは、例えばこのありふれたトカゲの尻尾の美しさとも共通するものがあります。有機物から金属光沢をどうやって生み出すのか、人間も少し真似すると面白い技術になるかもしれません。(バイオクロミック?)

さて、こんな目立って鳥に見つかり易そうな虫が、この山で命を繋いでいる事にも感動しますが、一方では一見自然が豊かに残っている様にも見えるこの里山も、意外に虫の密度が薄い様にも思えるのです。もっと手つかずの山に分け入ると、手で払うのが煩わしいくらいの虫がまとわりついてきますが、この山では少し歩かないと虫に出会いません。虫の密度は野鳥の密度に比例するはずですので、この山にはたぶん野鳥の数も少ないのでしょう。

残念ながら「タマムシ色」とは、この国ではある時期以降、悪い意味で使われる政治用語なのですが、それは一体誰の罪だったのでしょうか。

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2012年7月19日 (木)

1787 Oスプレィの危うさ

これに関連するテーマでは、書くのは3度目かも知れませんが、今回は更に丁寧な解説を試みます。先ず、この飛行機?(ヘリ)に構造的な欠陥は無いと仮定しましょう。(実は、大いにあると思うのですが話がややこしくなるので今回はパスします。)

この飛行機の危険性の核心は、操縦の困難さだとも書きましたが、ここでは具体的な数字を挙げましょう。例えば、旅客機が離陸するために最も重要な条件は、先ずは離陸速度でしょう。時速で言えば、百数十キロ程度ですから、馬力の大きな車であれば十分到達できる速度です。たとえ話にはなりますが、車にだってある程度の大きさの羽根を付ければ、容易に離陸できます。さて、問題は、離陸の際の重量と翼面積(つまりは揚力です)の関係です。つまり、ワンボックスカーの様に重たい車と、軽自動車の様な軽い車では、離陸するために必要な翼面積が異なるであろう事は(文系の人にも)直感的に理解できる話です。もし、構造的に同じ面積の翼しか付けられないとした場合、重たい重量の車は、離陸スピードを、軽自動車に比べ例えば5割増しの200㎞位に上げる必要がある事も直感的に頷けます。

しかしOスプレィは「輸送機」なので、空荷の状態とフル載貨状態では、離陸重量が実際にも倍近くは差がある訳です。この飛行機が、ヘリモードから固定翼機モードに移るには、固定翼が機体重量をしっかり支える必要がありますが、上の車の例で分かる様に、離陸スピード=固定翼機モードに入るスピードは、積み荷次第で例えば50/時ほども差がある訳です。この感覚の差が、完全にパイロットの身につくまでには、たぶん何千時間もの飛行訓練が必要だと思うのです。しかも、その途中の段階は、プロペラが斜め上方に推力を向けて、その角度を変えていると言う、不安定な「遷移モード」を必ず通過しなければなりません。その様な困難で危ない訓練を、例えば家並に囲まれた普天間基地で行うなどと考えるのは、やはりキチガイ沙汰と言うしかないでしょう。この飛行機の発進場所は、絶対に空母上とするか、航路からも外れた離島である必要がありますので、島持ちの日本としては適当な無人島を1個くらい貸してやれば良いでしょう。間違っても、人家が存在する空域などを訓練飛行させてはならないのです。

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2012年7月18日 (水)

1786 変スゴ人

S口恭平のZERO PUBLICの提案は、なかなか刺激的です。彼が、天才か奇人あるいは変人であるかについては意見の分かれるところでしょうが、今風に言えばたぶん「変スゴ(変だけど凄い)」人間なのでしょう。

彼が変なのは、例えば建築家でありながら、基礎のある建物を否定していると言う点でしょうか。基礎は、土地所有者が自分の土地に建物を建てる際に、必ず必要なものと思われてきました。そうでなければ、建物が風で飛ばされたり、地震で動いてしまったりするからです。しかし、彼は基礎のある建物や土地所有制度を否定的な視点から批判します。土地は、一体誰が所有しても良いと決めたのでしょう。たぶんそれは律令制度などが生まれた、いわゆる中央政権の誕生(=封建時代の始まり)からかもしれません。それまでは、人々は自然発生的に群れて暮らし、コミュニティ内に住居を建てました。建て主が死ねば誰かがそれを承け次いで流用し、もし権利関係のトラブルがあれば群れの長老が裁定していたのでしょう。しかし、律令制度は現在の土地登記制度に引き継がれ、かつて土地は全て領主の持ち物でしたが、現在は地主の所有権が認められているという違いだけです。しかし、幾度もの戦乱や最近では第二次大戦の戦後の混乱期に、上手く立ち回った人と、モノ言わぬ静かな人との間には、土地所有権にも大きな差が出来てしまった事でしょう。

S口恭平は、直感的にそれを疑問視し、否定してしまった点が凄いのかもしれません。彼は、路上生活者の段ボールハウスにヒントを得て、殆どタダで作れる移動式住宅を作ってしまった点もやはり凄いのでしょうか。そして、ついに銀座の一等地にある猫の額ほどの「誰のものでもない土地」を発見し、自らを首相に指名した「国」の首都にしてしまった点はもっと凄いかもしれません。誰のモノでもない土地と言うのは、そこが何故か「登記簿上の隙間」となっていたためです。全く愉快な話ではありませんか。ZERO PUBLICに幸あれ、です。

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2012年7月17日 (火)

1785 ブレーキだけのシステム

脱原発の集会が盛んです。今の原発を冷静に眺めてみれば、止める事の出来ない、強力なエンジンを積んだ暴走自動車が、ブレーキ操作だけで公道を走る状態に似ている様に見えます。高い濃度に濃縮した放射性物質を、集めた状態にして放置すれば、自然に強烈な熱核反応を起こして、爆発的に崩壊します。核爆弾の原理はまさにこの原理によるもので、小分けにした核物質を、火薬の力で瞬間的に1ヶ所に集中させる仕掛けこそが核弾頭である訳です。

一方、ペレットに加工してジルコニウム合金(だったと思いますが)の鞘に入れたものが燃料棒ですが、これを単に原子炉内に収めただけで、自然に熱核反応が起こり、メルトダウンする筈です。それを、制御しているのが、減速材としての水と鞘と鞘の間を遮る制御棒なのです。つまり、暴走しようとウズウズしている暴走車(原子炉)を抑えているブレーキとしては、水と制御棒「しかない」とみるべきなのです。制御棒だけで、暴走を止める事が出来ない事は、フクシマの事故で証明されましたし、それ以前でもスリーマイルやチェルノブイリでも証明されていたはずです。

そうであれば、最強で最後の砦でもある水を絶対切らさない仕掛けを施さない限り、原発を二度と動かしてはいけないわけです。電源が失われ、非常用電源の燃料が切れて場合も、最低限でも自分が持っている蒸気だけで動かせる「蒸気タービンポンプ」を備える事は必須でしょう。それ以外にも、大量の水を高台にあるタンクに蓄え、重力だけで原子炉を冷やせる様な仕掛けも加え、少なくとも三重の補助ブレーキを備えない限り、少しかさ上げしただけの防潮堤などで、対策終えりと誤魔化すことは、絶対に許されないでしょう。金曜日ごとに集まって原発に反対する人たちの、抑えきれない不安とは、結局はいざという時には、人間の力などでは止め得ない事が判明してしまった、強大な暴走自動車への不安だと言えます。

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2012年7月16日 (月)

1784 新成長戦略

何が「新しい」のか分かりませんが、「新」成長戦略なるものが独り歩きしています。いずれにしても、お役人の作文なのでしょうが、作った彼らにしても、マツリゴトを取り仕切っている「つもりの人たち」にしても、悲しいかな、彼らには事業をゼロから興した経験が無いという事実は認めるしかありません。つまり、いかなる戦略を立てたとしても、彼らに実際的な「戦術」は作れない訳です。

戦術の無い戦略なんぞは、教科書を読めば誰にも書けるものだとも思います。とは言っても、20世紀型の起業家が、ラッキーな高度成長期の成功体験から得た戦略や戦術を振りかざしても、この時代にはやはり大きなリスクとなりそうです。時代は既に変わってしまったからです。問題の核心は、今や私たちは20世紀型の価値観を捨てて、来たるべき時代の新たな価値観(たぶんそれは、長く続いた過去の伝統的な価値観に非常に近いと想像していますが)を打ち立てなければならないと言う点なのです。

少なくとも、それは「観光立国」や「医療・介護」などの他力本願や、後ろ向きの高齢者対策であってはならない筈です。科学技術を極めたとされる理工学系の博士号を持人材の活用もその中に謳われてはいますが、その前に彼らに何を開発して貰うかについての記述すら無さそうなのです。つまり、この戦略には目的や将来社会の青写真さえ、ろくに示されていないのです。グリーンイノベーションの中で農林水産業の振興を掲げてはいますが、それらは食糧自給と言う国の基盤でなければならない筈です。抽象的な戦略で、何百万の雇用を生み出すと言われても、殆どの人がそれを真に受けては居ないとも思うのです。

先ずは、中身の無い作文を作る前に、この国の行く末を真剣に議論し、国民が幸福に暮らすために共有すべき価値観はどの様なものになるのか、そのためにはどの様な国にしなければならないのか、1655にも書いた「五権分立」で議論する必要がありそうです。

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2012年7月15日 (日)

1783 やってはいるが結果が出ない

環境経営システムの審査も仕事の一つとして引き受けています。審査を通じて、多くの業種・業態の事業所を観察してきましたが、環境改善への取組みが長い事業所には共通した「病」が蔓延します。それは「マンネリ病」とも呼ばれます。当年度の取組み計画はと言えば、前年度の「コピペ」に近いものであり、目標は昨年度のマイナス1%程度であり、それと実績の数字を並べて、○×△で評価をしているだけに見える事業所が非常に多いのです。つまり、見かけ上は「環境経営」をやってはいるが、効果がちっとも出ていない状態なのです。

理由は、いくつか考えられますが、システムの進捗には、実は「フェイズの切り替え」が必要な事に気が付いていない事が主な原因として挙げられるでしょう。つまり、システムを動かし始めの初期段階は、当然ながら「兎に角やっているフェイズ」にならざるを得ません。しかし、それも数年を経過すると、「これまで通りやっているフェイズ」のままで推移してしまいます。フェイズの切り替えとは、つまりはやり方や評価の仕方を変えて、より大きな成果を狙う新たな段階に入る事を意味しますので、それまでのフェイズの徹底的な総括が必要です。つまり、計画の良し悪し、実行部隊の取組み状況、結果の評価基準や評価方法などを、根柢から見直す必要があります。

結果として、多くの場合最初のフェイズは、実は「トップダウンフェイズ」であった事に気が付くはずです。多くの決め事をして、手間を掛けてマニュアルなどと言う誰も読まない手順書を作り、何やらチェックリストで出来不出来を評価すれば、何となく恰好はつきます。しかし、立ち止まって見直すべきは、取組みの「目的」なのです。環境経営の目的は、負荷を継続的に下げながら企業経営を行う事であって、決して「認証登録証」を応接室に飾る事ではなかったはずです。ならば、本来の目的に向かってより大きな成果を出すためには「次にどの様な手を打つべきか」、そのために従業員からの「ボトムアップの力」をどうやって引き出すか、などの新たなアイデアを引き出す必要があるのです。続きます。

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2012年7月14日 (土)

1782 20世紀型製品

ここでは悪い意味でこの言葉を定義します。20世紀、とりわけその後半は、長い人類の歴史の中で眺めても、たぶん異常な時代だった、と将来の歴史学者は振り返る事でしょう。何より、その異常な人口の増加率であり、それに輪を掛ける異常なエネルギーの消費率においてです。世紀の中間点から20世紀末までの半世紀で、人口は約25億から、約61億と2.4倍になった一方、エネルギー消費はと言えばざっと5倍程度には伸びたはずです。

人口の伸びの2倍のスピードでエネルギー消費が伸びたのは、20世紀(の後半)型製品の多くは、実はエネルギー多消費型製品であった事の証左です。つまり、単純に言えば人々は、歩きや鉄道などでの公共の移動手段から、自家用車と言う「個の移動手段」を提供する製品に走り、家庭生活の多くの部分も、いわゆる電化製品に囲まれて暮らすライフスタイルへと、急激にシフトしていった訳です。工場はと言えば、同時進行で、手作業を主体にした作業から、大量生産を指向した自動化=省人化設備の導入により、量の拡大とコストの低減を目指したのでした。工場の中は、多量のモーターや油圧機械や自動化機械で埋まり、その間で人間様は小さくなって、ランプやメーターを監視するだけの存在になってしまいました。

さて、この20世紀型の「近代化」プロセスの何処に問題があって、何が間違っていたのでしょうか。もしそれが、正しかったとすれば、今のこの閉塞感は何処から来るのでしょうか。敢えて問題を提起するなら、それは立ち止まって反省する暇とて無い、一方通行のプロセスであった事に原因が見つけられると思うのです。何かが間違っていれば、それを修正すべきなのでしょうが、何人かの人がそれに気が付いても、忙しく動き回る人々には、気づきもされなかったでしょう。ある時は「清貧」などと言う言葉が、マスコミで注目された事はあっても、すぐに情報の洪水に押し流されてしまったのでした。私たちは、いま経済的不安や震災による停滞期(踊り場)に立っていますが、このタイミングで一時立ち止まり、忙しかった時代をじっくり振り返る事に使いたいものです。先ずは20世紀型製品をじっくり見つめ直してみましょう。

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2012年7月13日 (金)

1781 ねむの花

週末ごとに登る裏山の登山道に、きれいなピンク色の花をつけている木が二本並んでいました。葉は小さな楕円なので、たぶん「ねむ」なんだろうと思いました。帰って調べてみると、間違いなくねむの木、ねむの花でした。誰かが植えた風でもないので、たぶん豆の様な実を、野鳥がばらまいた内の2本なのでしょう。可愛らしい花の割には、意外に荒地に強いパイオニア樹として知られている樹木で、乾燥しがちな山の稜線にもしぶとく生き抜いている様です。考えてみれば、この木は、日本でも広い地域に分布しています。

そういえば芭蕉さんも、旅先の秋田でねむの花を愛でていました。雨の中の句なので、季節も多分今頃と同じ梅雨の頃なのでしょう。句は「象潟や 雨に誓子が ねむの花」だったでしょうか。この木を含め、一般にマメ科の植物の多くは、逞しい繁殖力を持っている様な気がします。子孫を残す手段として、固い殻を持つ豆を作って、その豆を鳥や獣に運んでもらえば、分布範囲を、海を越えて広げる事も可能です。原産地は大陸かも知れませんが、渡り鳥にとって日本海など塩辛い湖に過ぎないでしょう。

固い殻は、中の種子をしっかり守ります。乾燥期が続いても、種子に含まれる最低限の水分を保持しますが、しかし一旦水を含むと殻は割れ、中の種子が芽を出します。つまり、豆の殻は種子のシェルターとなっている訳です。そういえば、雑草のかなり多くの種は、豆状の実を付けている様な気がします。豆果は、その意味では植物の偉大な発明なのかもしれません。

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2012年7月12日 (木)

1780 涼しさを勧める

最近の蓄熱材(剤)(Hot Pack)や保冷剤(Cold Pack)の進化は目を見張るものがあります。例えば弁当を数時間60℃に保温するとか、食材を数時間10℃に保つなんて言う芸当は朝飯前です。ならば、それを積極的に利用する仕組みがもっと広がりを見せても然るべきでしょう。つまり、これらの材料を使えば、電力のピークシフトなど簡単にできるはずなのです。氷を蓄冷剤として使った「エコアイス」は、ある時期それなりに増加しましたが、やや伸び悩んでいます。深夜電力で作った氷で、昼の間の冷房を行う仕掛けです。

伸び悩んでいるのは、それが業務用に限定されていたからです。しかし、もし保冷剤を使った、家庭用の「エコアイス・パック」が作れるのであれば、現在の冷房電力のピークは随分なだらかに出来そうに思えます。涼しい内に、アイスパックを冷やして置き、昼過ぎから夕方までの冷房負荷のピーク時に吸熱して室内空気を冷やし、コンプレッサー電力を抑える訳です。

逆に冬場は、昼の太陽熱を蓄えて置き、夜や朝方の暖房に使う訳です。つまり、蓄熱材や保冷剤は、小規模なシステムのエネルギーのバッファー材として十分位置付ける事が出来るはずなのです。小型のバッテリー駆動の扇風機と保冷剤を組み合わせれば、卓上型のクーラーも簡単に作れるでしょう。サービス業を想定すると、それを接客の時に客に勧めれば、この業態で多分半分近くを占めると思われる、冷暖房に関わる光熱費(電力)も、ずいぶん小さくできると思うのです。ハイテクなどは不要です。ちょっとしたアイデアや工夫と、客を思いやるホスピタリティこそが、サービス業の本質だからです。

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2012年7月11日 (水)

1779 民を守り、国を滅ぼす

何やら国のマツリゴトが騒がしくなってきました。やれ国民との約束事は絶対守らないといけないとか、減税をしなければならないとか、自治体の権限を拡大しなくてはならない、などなど…。その際の決まり文句は「国民の生活を守る」であるのは、いずれのFactionでも同じになっています。しかし、彼らの視線で欠落していると思うのは、長い目で見て「国を守る」という点の様な気がします。将来の国を支えるのは、今の子供やまだ影も形も無い、その子供たちの子供、つまりは将来世代です。彼らの生活の安寧を願うのであれば、今の世代はできる限りの辛抱を重ね、その礎になる覚悟も必要でしょう。

まずは国の重石になっている、膨大な額に膨らんだ国の借金減らしが急務ですが、その借金を作った際に利益を享受した世代こそ、積極的にその返済に関わるべきでしょう。第一線を退いた人やお年寄りも、自分の今後の最低限の生活さえ保証されるのであれば、喜んで(渋々?)財産を放棄するでしょう。国債などを買っている元々「余裕のある人」は、償還の部分的放棄などという形でも協力も可能です。

現在のこの国の生活レベルは、例えば高度成長期の真っただ中の頃に比べても、雲泥の差があると言えるでしょう。勿論今の生活が雲の上です。家が狭くなるほどモノに囲まれ、一人1台の車を乗り回し、季節感の外れた野菜や果物を口にし、年に数回の旅行を楽しむ生活が、今よりかなりレベルダウンしても、まだ見ぬ世代の事を考えれば、まだまだ辛抱できるはずです。相変わらず政治家(屋)は、今の世代に媚を売って票を集めようと画策していますが、そんな誘いに乗ってしまえば、結局は国を滅ぼす結果になるのだとの、覚めた見方を失ってはならないのです。借金の上積みに胡坐をかいた安寧を受け取るくらいなら、多少ひもじい思いをしながら、将来世代を思いやる行動する方が、どれほど人生の感じ方を豊かにしてくれるか、敢えて念を押すまでもないでしょう。

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2012年7月10日 (火)

1778 ピンピンコロリ

新たな雇用や産業興しや雇用創出と言えば、行政やオピニオンリーダ達からはつい医療や介護と言った言葉が最初に出てきがちです。しかし、医療や介護を考える前に、先ずは病気にならない(しない)産業こそが考えられて然るべきでしょう。フィットネス産業もそれなりに伸びてはきましたが、単なる運動オタクになっても理想的な健康維持からみると、やや偏り過ぎています。「心身の健康」と言われる様に、心と体のバランスこそが最重要だからです。

 

生活や社会に不安がある中で、いくら体を鍛えても健康にはなれないのであれば、ココロを鍛える場所が出来ても良い時代かもしれません。変な宗教は困りますが、環境に殆ど負荷を与えない、伝統的なお遍路や山伏修行やお寺さんでの座禅などは、まさに、ココロを鍛える修行には理想的なものになるのでしょう。その他にも、自然発生的なボランティア活動なども、同じ程度にココロの鍛錬や、達成感を得るには理想的な行動かもしれません。

 

さて、ココロが健康で、自分に為すべき事が残っていれば、人生の終わり頃に至ってもピンピン生きられるはずです。加えて、バランスの良い食事と、早朝散歩の日課が加われば、亡くなる前日まで活動レベルを維持できるはずなのです。それを指して、真の「ピンピンコロリ」と呼ぶべきでしょう。自分の事だけを考えても、寝たきりになって100歳まで生きても、人生を全うしたとは言いたくありません。死ぬ前日まで何かしらの(社会的な)活動をして、ぜひ前のめりになって人生を終わりたいものです。

 

 

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2012年7月 9日 (月)

1777 オニヤンマの狩り

毎週末2回裏山にジョギングで登ります。400m弱ありますが、流石にこの歳になると最後の胸突き八丁は歩きになります。七夕の土曜日も午後から天気が回復したので登ってきました。頂上からの下りで、汗を乾かしながら歩いていると、道路にオニヤンマがとまっていました。比較的小型です。しばらく観察していましたが、そのオニヤンマの前を小型の蝶が横切った瞬間です。オニヤンマは信じられないくらいの飛翔力で、空中でその蝶に飛びかかったのでした。蝶も必死に逃げた様ですが、勝負は0.1秒ほどで決まってしまいました。0.1秒ほどと書いたのは、正直目にも止まらぬ速さだったからです。その直後には、口に蝶をくわえながら、いつもの悠々とした飛び方で去っていきました。

これを見ていて、何故かサバンナでの猛獣の狩りを連想してしまいました。弱者は植物をエサとし、強者はその弱者を捕えて、エサにする食物連鎖です。確かに、この小高い山では、オニヤンマは昆虫の頂点には立っていますが、しかし彼らも野鳥の前ではホンの弱者に過ぎません。その野鳥でさえも、猛禽類の前では・・・です。その猛禽類は、しかし人間の活動範囲の拡大によって、絶滅の危機に瀕しています。という事は、人間こそが地球上で最も「危険な猛獣(あるいは害獣)」と言う結論になってしまいそうです。オニヤンマからのトホホな連想でした。

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2012年7月 8日 (日)

1776 移動しない工夫

何度も書きますが、20世紀後半の価値観は、とにかくモノを運んで、人を移動させてナンボというものだった様な気がします。原料やエネルギーを地下から掘り出し、鉱石線や原油タンカーやLNG船で運び、それを精製して鉄やエネルギーや化学製品や工業製品を作り、それをコンテナ船でアジアや欧米に運ぶ事によって、この国の繁栄は支えられてきたのでした。それに伴って、その昔には考えられなかった数の人が、海を渡って、あるいは国内でも、ゾロゾロ移動しています。

しかし、この価値観は変わらざるを得ない(変えざるを得ない)状況に差し掛かっているのは間違いないところでしょう。何より、運ぶためには絶対エネルギーのひっ迫です。現代社会は、輸送用のエネルギーのほぼ100%を石油エネルギーに依存しています。移動用車両のタンクに入れて持ち運ぶ事が出来、常温で液体なので加圧も必要なく、しかもバッテリーなどよりは「エネルギー密度の高い」ものとしては、今のところ石油類しか回答が無い訳です。それは、実のところ科学者や技術者の怠慢によるものかも知れません。もし、石油が20年後に枯渇する事が、科学的な根拠が明確な事実だとしたら、今の車産業は代替手段の開発に、寝食を忘れて取り組まざるを得ないでしょう。しかし、幸いにもと言うか不幸にもと言うか、石油の採可年数は、年々延長されて(というか常に30-40年で変わらず)来ています。

私たちは、移動する手段やそのためのエネルギー問題が生じた場合(又は生ずる事が予測される場合)すぐ、その代替手段を考えます。しかし、考えてみなければならないのは、「何故それを運ばなければならないのか」という基本的な点でしょう。モノを運ぶことで、そのモノ自体の価値は1円だって上がる訳ではありません。運んだ結果モノの売り値が上がるのは、単に運賃が上乗せされるからに過ぎません。輸送エネルギーの代替を考える前に、私たちには先ずは運ばない工夫こそが必要だと言いたいのです。

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2012年7月 7日 (土)

1775 地域循環

地産地消という言葉が、輝きを失いつつあるようなので、少し補強しておきます。この言葉を言い換えると「地域循環」となりそうです。つまり比較的狭い地域内で、より多くの物質を循環させる事を意味します。例えば、明治以前、そこまで遡らなくても戦後の高度成長期以前までは、確かにこの仕組みが機能していました。通常の消費物質は、大きな設備を必要とする工業製品以外は地元産が殆どでした。町では市が立ち、近郷の農家のバアチャン達が、荷車を押してきて運んだ新鮮な朝どり野菜を売ってくれました。街には、家内工業や職人の店があり、板金加工や木工業、あるいは鋳掛屋などが殆どの日用品を作りだしていました。

比較的、軒がつらなった街中に立っていた投稿者の家でも、冬場の暖房用燃料は薪で、秋になると近くの入会林に一家でリヤカーを引いて行って、冬場の薪ストックを行ったものでした。商売には自転車を使っていましたので、化石燃料の厄介になっていたのは、結局僅かばかりの電力だった訳です。

多くの場合、この国における地域循環とは実は川に関係していました。急峻な国土を持つこの国では、平地は河口に開けた比較的狭い沖積平野が殆どで、そこには町が出来ています。その少し上流や町の近郊は農業地帯で、更に山間地に入るに従って小規模な農家や林家やその兼業農家が増えてきます。つまりは、中小規模の河川は、それ自体が地域循環の軸であった訳です。ならば、石油にあまり依存しない事が前提となる、今後の地域循環も河川を軸にして考えて行く必要があると思うのです。これを、投稿者の言葉ですが「川筋循環社会」と呼ぶ事にしました。地域循環≒川筋循環というわけです。

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2012年7月 6日 (金)

1774 三世代同居社会

現代社会で闇の部分と言われる現象が拡大している事に関して、投稿者の見方を書いておきます。闇の部分とは、不登校、重大な結果をもたらす犯罪(殺人事件など)の増加、情緒不安定な(すぐカッとする)人々の増加、引きこもり、ニート、自殺者の増加、依存症患者の増加などなどです。

さてそれが何故増加を続けているかですが、スタート点は都市化と同時に急激に進んだ「核家族化」にあるのではないかとみているのです。何故核家族化が闇を拡大するかについては、幼少期に祖父母が近くにいたかどうかに大きく関わっていると思うのです。祖父母は、無条件に孫を受け入れます。子供が両親から否定された場合でも、逃げ場としての祖父母が居たはずです。つまり、三世代同居家族の中で、子供はその存在を全否定される事は殆ど無いだろうと思われるのです。

しかし、核家族の中で、お金には不自由させていないと言い張る両親に、自分の行動に関して口をそろえて叱られた(否定された)場合、子供には何処にも逃げ場が見つからないと想像します。理想的な人格とは、冷静な大人としての自分の人格の周りに、厳格な父(子供にとっては頑固な祖父の様な存在です)、優しさだけの母(子供にとっては祖母の場合もあります)、奔放な(我儘で悪戯好きの)子供、従順な子供、というサブ人格が存在し、計5つの人格が混在している場合を指すと言われています。つまり、核家族の中で育った子供の人格には、たぶん祖父母によって形成されるであろう、ブレの無い人生観や他人に対する優しさ(思いやりのココロ)が、大きく欠ける恐れがあると思うのです。決定的ではないにしても、現代的な家族の在り方では、少なくとも情緒の不安定な子供(成長すれば大人です)が激増しても何の不思議もありません。政治が進めるべきは、保育園や幼稚園の充実でなどではなく、三世代が住める質の良い住宅を増やし、その中で祖父母も関わって子育てが出来る社会の実現だとの確信は、日々強まっています。

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2012年7月 5日 (木)

1773 核と放射能

フクシマの放射能拡散で、国を挙げて放射能レベルのモニターを始めましたが、実は1960年代を経験している世代は、既に非常に高いレベルの放射能の被ばくを受けていたはずなのです。というのも、それまでは大気圏内で、それ以後も大気圏内と地下で多くの爆発実験が続けられてきたからです。その恐ろしい記録は、Hashimoto氏が作成したビデオ画像を下記のURLで確認する事が出来ます。1945年のアメリカでの最初の実験を経て、広島、長崎への人口密集地への原爆投下は論外としても、地元住民にはそれと知らせず繰り返されてきた原爆実験によって、1960年代半ばには、チェルノブイリ事故でまき散らされた放射能レベルよりはるかに高いレベルに達したのでした。その後は、国際条約によって大気圏内の実験は抑制されたものの、地下の核実験は現在も続行されている訳です。

http://www.ctbto.org/specials/1945-1998-by-isao-hashimoto/

1711で中央アジアの「セミパラチンスク」という地名の核爆弾の実験サイトを取り上げましたが、実験場付近の濃度は、周囲の村々で多くの奇形児を生み出すほど強力でしたが、実は放射性物質は広く大気中にまき散らされ、大気循環に乗って世界同時にかなりの放射能レベルでの被ばくを受けていたのでした。そのピークは多分1964年ごろと思われますが、その時点ではチェルノブイリ汚染より一桁(10倍)程度は高い被ばく量が観測されてもいました。私たちは、それと知らずに農作物を口にし、放射性物質の積もった山の斜面を流れ下った水を飲んでいた訳です。

しかし、そんな過酷な時代を過ごしてきた私たち以上の世代が、「たった3割しかガンで死なない」のは、ひとえに私たち自身が持っているDNA修復能力によるものなのでしょう。死因の残りは、感染症か生活習慣病が直接の死因でしょうから、一面ではフクシマ怖れるべからず、なのかも知れません。それは、結局は数十年後の疫学的調査でしか証明できないのでしょうが…。

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2012年7月 4日 (水)

1772 利権あるいは既得権

政治の世界を論評する際、利権や既得権などと言う言葉が、必ずと知ってよい程付きまといます。寄付習慣の弱いこの国では、結局は利権に結びついて多額の政治資金が集められるか、親の財産をたっぷり使える立場の御曹司しか、権力の座には座れなかった時代が長く続きました。今の政権になって、サラリーマン家庭出身の宰相が続いてその文化にも変化が生ずるかとの期待も抱かせましたが、どうやらそれも幻想に終わりそうです。

離合集散を繰り返すこの国の政治Factionは、一体この国を何処へ向かわせようとするのでしょう。取り敢えずは、20世紀型の古い政治家に引退願えば何かが変わるのでしょうか。しかし、H下さん一人に21世紀型政治を期待するには荷が重すぎとも思います。多くの若い政治家は、一度は政治主導と称して利権や既得権に立ち向かいますが、結局はほぼ全員がそれに巻かれてしまったからです。巻かれたくないと足掻いた人は、結局政治家を辞めるしかなかった訳です。

さて、その利権やあるいは既得権の正体ですが、それは取りも直さずこのブログでも書き連ねて来た、ダブついたお金(富)であると言うしかありません。人の体で、余った栄養分が皮下や内臓に溜まってメタボ体質を作るように、社会でダブついたお金の吹き溜まりが、更なるお金を求める場合に利権を生みだし、その恩恵に浴した人たちが、その心地よい状態を守ろうとする行動が既得権になるのでしょう。これを打開するには、やはり私たちは、戦後ほどではなくとも、ある程度のヒモジサをもう一度体験するしかないのかも知れません。

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2012年7月 3日 (火)

1771 原発20基分

ドイツの太陽光発電量が2MWを超えた様です。ざっと言えば、100万kwの原発サイズで言えば、20基分という数字です。日本では、まだニュースになっている「メガソーラー」が、ドイツでは既に2万個も設置された勘定です。このくらい再生可能エネルギーへの先行投資を行えば、例えば2020年に原発ゼロ、再エネ50%という数字もあまりホラには聞こえません。

一方、この国ではいまだに、原発を25%残すとか、いや15%だなどと、机上の議論を繰り返していますが、その間にも太陽光発電の分野では、経済危機と騒がれているスペインにも抜かれてしまった訳です。今月からの固定価格買取制度に応募があったのは、原発2.5基分くらいはあった様ですから、まあまあの数字にも見えますが、これは既に完成しているソーラー発電所の発電分を買い取ってください、という申請ですから、これからこれだけ加速できるかは、反原発という「反発力」を如何に利用するかに掛かっています。

課題は山積です。先ず、インセンティブによりPV(太陽光発電です)を増加させるためには、電力料金の大幅値上げを覚悟しなければなりません。もう一つは、ただでさえ狭いこの国の国土に、一体どれだけPVを並べられるかです。太陽光が遮られた土地は農業には使えませんから、荒地や未利用地に限られる訳です。救いはあります。ビルの屋上には室外機などで埋められているかも知れませんが、多くの工場の屋根は殆ど利用されていませんし、もし国が許可すれば、国道などの法面を利用する手もあるでしょう。何時も勿体ないと思うスペースに、駅近くの駐車場があります。ここに屋根を掛けてPVを設置すれば、かなりの面積が稼げるでしょう。それにしても、原発50基分への道のりは、かなり遠いとしか言えません。何かもっと知恵を出さなくては・・・。

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2012年7月 2日 (月)

1770 飢餓の日

人間ほど飢餓に弱い動物は他に見当たらない様な気がします。何しろ、毎日三度のオマンマを食べ、それでも足りずに間食をし、おまけに甘い飲み物をガブ飲みするのです。結果としての過食による生活習慣病で寿命を縮める人のなんと多い事でしょう。また、その治療のために使われているであろう天文学数字の医療費を考えれば、やはり割り切れません。

家庭や学校教育の中でも、ぜひ「飢餓教育」を取り入れる必要がありそうです。やり方は簡単です。ある日丸一日を「飢餓を体験する日」と定め、水以外のものを口にしないと決めるだけです。大人は二日間くらいにすべきかも知れません。この日の空腹感は、子供にとっても貴重な体験になるでしょうし、大人に取っては過食を戒める日にもなるでしょう。その反動で、明けの日に過食をするのも逆に危険です。空っぽの胃袋には徐々に食べ物を入れていく必要があるからです。

多くの動物は、飢餓と満腹を繰り返して暮らしています。肉食動物は、たぶん一度満腹になったら1週間くらいは何も食べないでしょう。田んぼで餌を取る大型の鳥でさえ、餌となるカエルやオタマジャクシなどのライフサイクルによって、食糧事情は大きく変動する筈です。動物は、餌が豊富な時期には繁殖したり、活発な行動をしたりしますが、餌が少なくなると行動を抑制し、省エネ型の生活サイクルに入る訳です。この様な、活動レベルのメリハリこそが、人間を含めた動物の本来の姿のはずです。一見豊かですが、単調で、常に満たされている食生活は、環境変化にも弱い体質を作り、一本調子でメタボ体質への道を進むだけでしょう。

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2012年7月 1日 (日)

1769 脱原発の軽さ

「脱原発依存」という言葉が、あまり軽く使われ過ぎています。(の様な気がします。)フクシマの事故前、原発の依存度は約30%強でした。誰かが脱原発依存を主張するなら、先ずは3割の省電力の見込みを立ててからにすべきでしょう。そうでなければ、不足する分を、すぐに間に合う非原発エネルギー=化石燃料への依存度を高めるだけに陥ります。脱原発依存=化石エネ依存になる訳です。原発を補う程度のレベルで再生可能エネルギーのインフラを整えるには、たぶん数十年は掛かると思われるからです。

従って、脱原発を振り回す前に、どうすれば電力使用量(特に電力ピークを)3割削減できるかのアイデア出しこそが必要なのです。知恵を出さずに、「原発に頼らない」とマイナスの発言をするのは簡単ですが、電力を3割削減するために「~をする」と行動の形を示さないのは、やはり無責任と言わざるを得ません。自分では汗もかかないで、再生可能エネルギーへの転換を叫ぶのも同様に無責任です。昨年関東では、緊急事態とはいえ、2割近い電力の削減が達成されたという事実は、強烈な説得力を持っているでしょう。取り敢えず踏ん張れば2割削減できるのであれば、知恵を出してそれなりの準備を行なえば、3割削減などそれほど高いハードルにはなり得ない筈です。

このブログでは、指が痛くなるほど、省エネルギーの知恵を書き続けてきたと自負しています。ただし、このブログでは節電などと言う言葉は使わず、「脱エネ」と呼んできました。この場合のエネルギーとは、言わずもがなですが地下から掘り出したエネルギー源を指します。そのための人力の有効活用についても繰り返し言い続けてきました。何より、その前に今何気なくスイッチを入れて使っている、エネルギーそのものの必要性の吟味については、もっと基本的な行動であるのは言うまでもありません。

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