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2012年9月30日 (日)

1857 オーダーメイド社会

オーダーメイドがお金持ちだけの特権になったのは何時からでしょうか。きっと、大量生産の技術が発展し、それなりに品質の高い製品がドンドン工場から生み出される様になってからに違いありません。そうなると、お金持ち以外の人は誰も高いお金を出して、それも長い時間待たされてまで、職人にオーダーしようとは思わなくなった事でしょう。

しかし、その結果何が起こったかと、「それなりの品質」の製品が標準になり、誰も「高い品質の製品」がある事をすっかり忘れ、それを手に入れようなどとは思わなくなったのでしょう。そうではない事に拘ったのは、いまブランド品などと呼ばれる、バカ高い製品群のメーカーでしょう。ヨーロッパでは職人の高い技術は、ドイツのマイスター制度等に代表される様に、連綿と引き継がれ長く変わらない品質を保ち続け、安物の量産品で満足的できない、一定以上の収入を持つ人びとを引き付けてやみません。

更にそれが、世界に一つしかないオーダーメイド品であれば、その魅力は無限に大きくなるでしょう。同じ材料から作られながら、量産品は買いたたかれ、オーダーメイドのブランド品には、プレミアまでつく訳です。何か、私たちは目指すべき方向を、「ある時から」間違ってしまったのでないかとの想いが、最近ますます強くなっています。設備さえあれば、安く大量に作れる様な、雑な技術やモノづくりに明け暮れ、その間に職人技を捨て去ってしまったのだ、としか言えません。私たちは、もう一度オーダーメイド社会を復活させなければなりません。そのためにも、職人技を、それを持っている人たちが生きている内に引き継がなけれなならないでしょう。オーダーメイドによりモノづくりでは、利益の足を引っ張る製品在庫が必要ありません。精々、質の良い材料の在庫が必要なだけです。お金(付加価値)は、職人の手の中から彼が(彼女が)生きている限り、生み出し続ける事も可能なのです。

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2012年9月29日 (土)

1856 1次情報

ラジオから流れてきた「1次情報」と言う言葉に耳が反応しました。そう言われてみれば、確かに自分が参照している情報の殆どが、誰かが加工した2次情報あるいはn次情報に過ぎないのでは、と改めて感じたからです。情報の加工とは、1次情報の一部だけを参照するとか、要旨を括るとか、酷い場合には表面の言葉だけを利用するとか、さらには発信者の意志を無視して、結論を捻じ曲げるとかの行為を指します。

情報は、その全てを体に入れた上で、それが発信された背景までも考慮して、正しく利用しなければなりません。端的な例が、テレビの報道番組です。彼らは、他社に先駆けて最新の情報を発信すべく、時にはスクープを焦るあまりフライングも犯します。しかし、第一報の興奮が冷めてから、改めてその背景や第一報で報道されなかった裏画面、さらには足を使った綿密なインタビューを含めて、掘り下げた特集番組などを見ると、第一報がかなりバイアスのかかった報道である事が判明する事も多いのです。近くは、C国における反日デモの報道と、その背景などが挙げられるでしょう。

1次情報とは、例えばこのデモに参加した人たちの、偽らざる肉声であり、デモに便宜を図った政府側の行動の動かぬ証拠映像などがそれに当たります。インターネット映像は、殆どの場合事実の一部であったり、事実の都合の良い部分だけを切り取ったものが殆どです。それは、映像を移す側に明確な恣意が入るからです。つまりポジティブに捉えた情報か、あるいはネガティブキャンペーンのための映像かによって、移すサイドが完全に異なるからです。デモで言えば、例えば映像を、デモ隊側から映すか、あるいは機動隊側から映すかの違いです。つまり、公平な1次情報は、その場に居合わせて客観的に雰囲気を捉え、あるいは当事者であった人々からの肉声を聞く中でしか伝えられない筋合いのものなのです。私たちは、日々メディアから飛び出す第一報は、決して1次情報ではない事を銘記すべきでしょう。

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2012年9月28日 (金)

1855 時間を買う

時間も姿も形も無く、お金を出しても買えないものの一つ様に見えますが、しかし一方では私たちは時としてお金を出して時間を買っているとも言えるのです。例えば、かなり遠くに旅行する必要が出た場合、車で行くのか電車で行くのか、あるいは飛行機を使うのか、と言った決断を迫られます。お金がある時や、あるいはお金にかまっていられない緊急事態では、私たちは余分なお金を出して飛行機の切符を買うでしょう。でもまあ、お金で買える時間はたかが知れているとも言えます。鉄道と飛行機でも所要時間の違いは、精々数時間程度です。余り良いコストパフォーマンスとも言えない様です。

人間の寿命と言う時間はどうでしょう。お金を出せば、より良い医療が受けられ、お金の無い人たちより長生き出来るのでしょうか。しかし、実際はそうはなっていません。長生き遺伝子も勿論あるにはあるのでしょうが、概して言えば、あまり金持ちではなく、腹八分目の食生活を送り、天に召されるまで適度に働いているくらいのライフスタイルの人が長生き人の典型だろうと思われます。寿命と言う時間はどうもお金では買えそうもありません。

いずれにしても、時間だけは金持ちにも貧乏人にも全く同じに流れますが、あまりお金を持っていない方が、概して時間を有効に使う事が上手そうに見えます。お金があって、暇を持て余す不幸などは、体験しようにも絶対にできませんが、彼のブータン国の国民は、一生を通じて幸福に暮らしているいる様ですから、きっと良い時間を使っているのでしょう。彼らに比べて、お金がある代わりに、忙しくて時間を買わなければならない上に、ストレスが多い私たちの暮らしは、果たして幸福だと言えるのでしょうか。反省・・・。

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2012年9月27日 (木)

1854 買えない価値

世の中には、いくらお金を積んでも買えないものがいくつも存在します。例えば、去年の震災後注目される様になった、人と人の絆、愛情、信仰心など、つまりは目には見えないものがその代表です。勿論目には見えていても買えないものも沢山あります。いくらお金を積んでも、例えば国宝に指定されたモノは買えないでしょうし、所有者が合法的に決まっていて、持ち主が売らないと決めているものも買えないでしょう。

勿論、このブログで言わんとする買えないものとは、回復不可能なほど壊されてしまったかつての美しい環境だ、となりそうです。絶滅してしまった生物や動物も、もはや無から復活する事はない訳です。戦後蔓延してしまった拝金主義で、私たちの感覚はひどく麻痺してしまった様な気がしてなりません。豊かな時代に育った世代では、何となくでしょうが、この世にお金で買えないものは無いと、大多数の人が思い込んでしまっている様なのです。

買えない価値は、概していえば金で買えるものを手放す事によってのみ手に入れる事が出来るとも言えそうです。喜捨と言う言葉がありますが、喜んで自分が持っているモノやカネを手放すとき、何か目に見えない褒美が手に入るかも知れません。それは、満足感や達成感など言う、秤や物差しでは測れない筋合いの感覚ではありますが、実はそれこそが本来の「ヒト」の行動の原動力である筈なのです。

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2012年9月26日 (水)

1853 北極の浮氷と酷暑

数日前のニュースで、NASAのデータによるとこの夏の北極海の浮氷面積が過去最小になったとか。しかも、長い間蓄積された多年氷の面積は年々減少の一途となっているとのこと。20-30年後は、北極海の浮氷は全て1年氷になり、夏場は全て消失していまい、夏場は船の行き来が出来る様になるでしょう。これで、この夏の残暑も、最近の台風や豪雨の過激化も説明がつきそうな気がします。

つまり、夏場は白夜の北極圏では太陽が沈みませんから、浮氷の減少した北極海の緑の海水にはたっぷり太陽熱が蓄積されます。海面や陸地の太陽光の反射率を「アルベド」と呼びますが、これが大きいと地表の温度は下がり、小さいと上昇します。氷は、真っ白なのでアルベドは、例えば06-08と大ですが、海水はたった0.1しかないので、太陽熱は夏中北極海の海水に蓄積され続ける事になります。従って、夏が過ぎて彼岸に近づくにつれて、北極点に陽が差さなくなって初めて、北極の海水温が下がり始める事になります。北極の寒気団の縁を回る風がジェット気流ですが、北極の海水温の上昇によって、夏場にはその輪が年々小さくなっている事が疑われます。象徴的に言えば、北極海は北半球のラジエータであるが、その性能が段々落ちている様なのです。

ジェット気流は、寒気団と熱帯の暖かい(熱い)湿った気団との境目でもありますから、夏場にこれが小さくなって北上すると言う事は、熱帯の気団が北に上がって来やすい気象条件を形成する事になります。つまりこれは、日本の様な温帯の国々の気候が、熱帯に近くなる事を意味し、絶対湿度が高まる結果、雨を伴う諸気象が過激化する事にもつながります。秋になって、北極海にその年の氷(1年氷)が出来始めると、暖かい海に蓋が出来ますので、冬は急激に来る筈です。この傾向が、毎年繰り返される事が確認されれば、地球の温暖化は動かしがたい「事実」になってしまうでしょう。

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2012年9月25日 (火)

1852 トリクルダウンは無い

トリクルダウン(trickle down)とは、上流の活発な経済活動は、やがて社会の下層で暮らす人々にも、おこぼれが回り、社会全体が豊かになると言う理論?です。日本語らしく言い直せば「波及効果」とでもなるのかもしれません。しかし、この時代、水(お金)は、乾いた土に吸い込まれ、大地全体を潤してはくれそうもありません。お金の量が足りないのでは勿論ありません。それどころか、お金は日々増え続けているのです。少なくとも石油や、地下資源を掘り出した量や大地から農産物が生み出された分に見合うだけお金は増えているでしょうし、債権市場などと言う訳の分からない空間では、その何倍ものお金が生まれているかもしれません。

しかし、そのお金は真水ではなく、塩水かあるいは1850で述べた様に、激しくかき回された結果水蒸気か陽炎の様になったものなので、大地(社会全体)を潤す事などはとても出来ないのです。海で遭難し救命ボートで辛うじて命拾いした人たちが、ついに飲み水が無くなってしまい、しかたなく海水を飲み始めた結果、命を縮めてしまうなど言う話も、やや似たような比喩かもしれません。

さて、景気浮揚のためにお金をたっぷり印刷して流通させても、その波の及ぶ範囲は、地表のごく表面に過ぎません。植物の根っこにまでは届かないのです。届かせるためには、さらに水を流すのでではなく、土地を耕して水が浸透しし易く、水持ちの良い「団粒構造」に、社会や経済構造を変えていく必要があるのです。もう、陽炎を見て踊り、霧に脅かされてビクビク暮らすのは止めにしなくてはなりません。やるべきは、先ずは足元の土を耕して、実態のある植物を育てる事です。象徴的ですが、植物は土壌と水と太陽光と空気の4つが必要ですし、逆にこの4つさえあれば立派に育ちます。では、社会や経済活動において、水はお金に対応するとして、土壌や太陽光や空気は一体何に相当するのでしょうか。いずれにしても、今の硬直した社会や経済の構造のままでは、税金(=借金です)をいくら注ぎ込んだとしても、社会全体へのトリクルダウンなどとてもとても期待できないでしょう。

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2012年9月24日 (月)

1851 ボラティリティ

現代の時代は、数年先も見通せない混沌の時代となってしまいました。それは、さながら液体から立ち上る蒸気の様に蠢き、実態の無いものの様に見えます。それを経済現象に当て嵌めるのであれば、経済のボラティティ(Volatility)現象とも呼べる訳です。実態経済(液体)から立ち上る蒸気は、実態の無い債権や株や電子マネーと言う事になるのでしょう。その蒸気は、世の中の流れによって、漂い、立ち消えになり、あるいは激しい渦となって国々に襲い掛かり、そして目も当てられない被害だけを残して、次のターゲットに向かう事になります。

そうではなくて、私たちは先ず実態を見据える必要があると思うのです。実態とは、例えば私たちの日々の暮らしに根差した実態としてのニーズと、それを支える実態のあるモノづくりと、それを動かす実態経済を指します。実態の無い儲け話に耳を傾けてはならないのです。実態が無いと言う事は、例えば製造業であれば、それは顧客からの確定発注に基づいた製造ではなく、市場の動きから予測した、見込生産と言う事になりますし、金融業であれば、それが実体マネーの裏付けのない、空買いや空売りと言うことになるのでしょうか。

しかし、空気や陽炎を掴む様な、実態の無い生産や経済活動は、今後可能な限り縮小していかなくては、私たちはやがて先の全く見えない霧の中で道を失い、途方に暮れる事になるでしょう。と言うより、今まさにその様になりつつあるとも言えそうです。その証拠に、この国はかなりの程度見透しの効かない霧の中を彷徨し始めているではありませんか。私たちは、どんな状況でも方向を見失わないための羅針盤か「指南車」を必要としています。それは何処にあるのでしょうか。このブログでも、それについて5年以上も考え、書き続けていますが、本当に難しい問題で、ボンヤリした方向しか見えていません。

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2012年9月23日 (日)

1850 廃棄物はた迷惑論

廃棄物は、今の時代では厄介者であり、それを出されて何らかの被害を受ける側は「はた迷惑」なものと受け止めています。少し難しい言葉で言えば、廃棄物処理(費用)の外部化です。出す側は、お金を払って行政なり処理業者に処理して貰っている訳です。その費用は、通常の経費の外としてカウントされるため「外部費用」となるわけです。しかし、経済活動=消費活動、特に現在の様な形で続ける限り、廃棄物の発生は避けられないのです。ゴミの出ないパッケージの(つまりは段ボールに詰めない)商品は、今の流通の仕組みでは殆ど無理でしょうし、修理の出来ない使い捨て設計を変えない限り、売った数量と同じ量の廃棄物が発生する筈なのです。

一方、現在の廃棄物処理の方法はと言えば、リサイクルし易い部分だけは原料に戻しますが、経済的に引きわない残りの廃棄物は、細かく砕いて(あるいはそのまま)燃えないゴミとして埋め立て処理するだけです。例えば、車はエンジンや電線を外して、油を抜いた後、巨大なシュレッダーで裁断され、鉄クズとその他の金属程度に分けられ、残った屑(つまりはシートや内装や吸音材やガラスなど)は、シュレッダーダストとしてまとめて埋め立てられる訳です。しかし、発生させたこれらの産廃を、都市の近くで処分すると大きな反対運動が起きる事は目に見えていますし、東京湾の埋め立て地にしても無限に使える訳でもありません。

私たちは、廃棄物処理を内部化していく努力を怠ってはならないのです。そうでなければ、自分たちの出したゴミの中で暮らす、いわゆる「ゴミ屋敷」状態で暮らすしかないからです。廃棄物の処理での理想は、不要物の100%をリサイクルする事です。とりわけ、パッケージゴミは限りなくゼロにする努力が必要ですし、耐久消費財に関しては、100%分解してリサイクルする仕組みが必要です。それは、作ったメーカー自身による「リサイクルの内部化」によってしか達成できないでしょう。何故なら、今のメーカーの繁栄は、廃棄物処理の外部化によって、はた迷惑を受けるいわゆる過疎県の犠牲によって支えられているとしか言えないからです。

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2012年9月22日 (土)

1849 不時着祈願??

ちょっと過激な内容です。航空機が何たるかを一応知ってしまった立場として、Oスプレィの構造には全く納得ができません。ローターをチルトさせる際に、機体の姿勢を保つ仕掛けが付けられていないからです。ロータをチルトさせた場合、必ずそれを打ち消す反対のモーメントが生じますので、機体は前後に傾こうとします。本来であれば、機体の安定のためには、尾翼部分にヘリのテールロータを90度回転させたような、「姿勢制御ローター」が必要なのです。現状は、それをパイロットの技量(あるいはそれを助けるコンピュータ)だけに頼っている訳で、彼らの操縦時の負荷は、通常のヘリや固定翼機の比ではなく大きい筈です。まして、輸送機の場合、積み荷の状態(重量や機体内のバランス)はミッション毎に大きく異なるのです。それを頭に入れた上で操縦しなければならないのですから、これまでの墜落や不時着の原因が、機体には問題はなく「全て操縦ミス」であった、と言う報告書を何冊積み上げられても、当のパイロットを含め誰も納得はできないでしょう。彼らがクレームしないのは、自分たちが職業軍人だからに過ぎません。

飛行場からすぐ海上に出られる、比較的安全な岩国で試験飛行を開始した12機の内、たった1機で良いので、ぜひ海上に不時着して、操縦の難しさをもう一度証明して貰いたいものです。それも、住宅に囲まれたあの危ない普天間に部隊が移動する前にです。勿論、これが本当に起こると後味が悪いので、パイロットには無傷で生還して貰うと言う条件付きですが…。

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2012年9月21日 (金)

1848 インフラ維持業

今メーカーは作るものが無いのだとか。そうであれば、メンテナンス業への進出はどうでしょう。この国には900兆円ものインフラが作られてしまったのだそうです。しかし、それらはメンテナンス作業なしには寿命を全うできません。投稿者が住んでいた岐阜県の最南部と愛知県の間には、有名な犬山橋が掛かっています。何故有名かと言えば、それは珍しい鉄道と道路の併用橋だったからです。今は別の道路橋が掛けられたために鉄道(名鉄)専用になってはいますが…。驚くべきは、この緩やかな3個のアーチを描くトラス橋は、90年近く前に掛けられたという事実です。しかし、手入れが行き届いている事も腐食も殆ど進んでおらず、まだまだ現役で行けそうです。

一方、高度成長期に掛けられた国道橋のいくつかに、トラスが腐食で破断した例がいくつか報告されるようになってきました。適正なメンテナンス(腐食検査と再塗装)を怠った結果です。同じような事例は他のインフラ、つまりは建物や水道やガスなどのインフラ、企業が持つプラントや設備などにも観察されるはずです。長期化する不景気ムードの中で、行政も企業もすっかり貧乏になってしまった事が原因です。しかし、完全に壊れてから修理するとか、あるいは寿命半ばで更新するとかの大きな無駄を考えれば、毎年あるいは定期的にメンテナンスを行う事は、コスト的にも合理性があります。

東北にも、海岸沿いに何十機も風車が立っていますが、新設後の数年の間に適正なメンテナンスが行われなければ、本来30年以上の寿命が期待されるものでも、使いっ放しだと例えば10年余りで主要な部品にガタが来てしまう恐れもある訳です。ならば、地元の企業は自腹を切ってでも、従業員を風車メーカーに派遣して、メンテナンスのノウハウを獲得し、今後のメンテナンス作業を引き受ければ良いのです。これが、メンテナンス業またはインフラ維持業の一例です。

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2012年9月20日 (木)

1847 大規模化のムダ

大規模化について書けば、例えば1970年代には「大きい事は良い事だ」などと言うCFのキャッチコピーにもあった様に、社会的には是とされてきました。ここでは、発電所を例に挙げて、それは「環境的には間違いであった」事を検証しておきたいと思います。その昔(戦後すぐ辺りの時代です)、電力のデマンドは小さく、地域に分散していた水力発電所でどうにか賄える程度でした。しかし、戦後の復興が進み、お隣の半島での戦争特需が高度成長を加速する時代になると、チマチマした水力だけではデマンドが賄えず、各地に石炭や石油火力発電所が建設されました。戦後の財閥解体で分断された重工でも、造船業が本格的に復活すると、大型タンカーで安定的に中東原油を輸入する事が出来る様になって、本格的な大規模石油火力発電所が林立しました。同時にモータリゼーションも急速に進み、20万トンクラスの巨大タンカーで運ぶ多量の原油も、この国ではたった2-3日で燃やしてしまうまでの石油消費大国になったのです。

発電所は、その後(S40年代後半-50年代に掛けて)より大型化されると同時に石炭→石油→LNGの燃料転換が進み、さらに原発が多数立地する様になって、今の電力網がほぼ完成したのでした。勿論、この国の最大の過ちは、東西で5060Hzに分かれていた電力周波数を統合する事に失敗したことです。とは言いながら、国内のどの地域でもスイッチを入れさえすれば、潤沢に電力が使える環境は整ったのです。しかしながら、都市のすぐそばに、大規模発電所、とりわけ原発の立地する事が嫌がられたため、殆どの発電所は大都市からはかなり離れた周辺県に建設されたのです。

その結果、いわゆる「送電ロス」も送電距離に比例して増加する事になったのでした。送電線で生ずるジュール熱によるロスは、電線の長さに比例するからです。加えて電力消費地から遠く離れた発電所の立地による最大のロスは、実は発生熱量の60%にも上る「熱ロス」である事は、殆ど忘れられています。もし、消費地と発電所が同じ地域にありさえすれば、「熱電併給」により発熱量の70-80%かそれ以上が活用可能でしょう。つまり、小型分散化、熱電併給化により、化石燃料を現状より30%以上削減可能である事を意味します。事実、大都市で新しく再開発された中心部では、ビル群の冷暖房と給電が、地下に設置されたLNGを使った「地域熱電併給設備」を使って、高い効率が実現されているのです。つまり、かつては是とされた大規模化、集中化された発電は、今は最低の効率しか達成できない古いシステムだとしか言えません。大規模火力や原発システムは、すでに高度成長期の「遺物」になりつつあります。

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2012年9月18日 (火)

1846 豊かさの代償

豊かさの定義は、時代背景や社会的背景、取り分け経済的背景によって大いに違ってくるものだと思います。しかし、一般的に言えば、食うや食わずの生活をスタート点とすれば、それに加えてそれなりの「贅沢」が出来る様になる事を指すのでしょう。その贅沢は、年に数回なのか、それとも今この国の人たちが享受している様に、毎日の生活がかなり贅沢になった事を指すのか、それはやはり時代背景によってかなり変わってきたはずなのです。例えば、数十年前(投稿者の子供の頃)、バナナはとても高い果物で遠足や運動会のタイミングなどでしか、ケーキに至っては年に1回しか口に入らない食べ物でした。それが、今はコンビニやスーパーに行きさえすれば、特にお金持ちでなくても毎日食べる事が出来ます。

最低限レベルの生活を確保するのは、それほど大きな犠牲を払わなくても可能ですが、贅沢を続けるためには、何らかの犠牲(代償)が必要となります。通常の意味では、経済的に豊かでないとそれは実現不可能です。つまり、贅沢を実現するためのお金の裏付けの事です。極端な例ですが、自給自足の時代、寝る間も惜しんで働いて、他人より多くの食料を得て、たらふく食う贅沢を実現しようとする人は少なかったと想像できます。しかし現代社会では、他人より少しだけ上手く立ち回る事さえできれば、楽してお金を得る事も可能でしょう。上手い投資先を見つけるとか、株で一山当てるとか、宝くじで一発当てるとか、楽して儲かる業界に就職できたとかのラッキーを指します。

しかし、私たちは豊かさの裏側に隠された、犠牲を想いやる想像力が必要だと思うのです。社会の経済が右肩上がりで順調に膨張している時代を除けば、基本的に債権や株の売り買いは「ゼロサムゲーム」になります。笑いが止まらないWinnerが居れば、その何百倍ものしょんぼりしたLoserが存在する筈なのです。宝くじ長者の裏には、晩のおかずをケチってクジを買った星の数ほどの庶民がいた事でしょう。それはしかし人間社会の中だけの犠牲に過ぎませんが、一方では社会からは見えない様に隠された「環境の犠牲」については、殆どの人が気にも留めていません。このブログで警告を発し続けているのは、まさにこの点なのです。続きます。

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1845 サービスの缶詰

最近、世の中で売られている製品が、さながら「缶詰」の様に見えてきました。それぞれの製品の外観は、ピカピカ光るブリキ缶に絵柄がきれいに印刷された缶詰の外側の様です。車は、デザイナーによって複雑な曲面形状に加工された鉄板が色とりどりに塗装され、きれいな内装に取り囲まれた室内は、さながら応接室の様です。しかし、考えてみればすぐ分かるように、私たちは缶詰の缶自体が欲しい訳ではありません。私たちは、缶詰の中に詰め込まれている食べ物が欲しい訳です。

その食べ物の事を、このブログでは「機能」と呼んでいます。車は、それを運転したり同乗している数人の人を、天候を気にせずに、かなりのスピードで道路上を移動させると言う「機能」を持っています。機能さえあれば、所有する面倒くささを考えれば、アメリカ辺りで盛んなリース落ちの中古車の再リースと言う仕組みもOKな訳です。しっかりした車でも月額2-3万円の結構安い値段でした。

何時までも、モノに拘るのはやはり得策ではありません。サービスと言う中身だけ買うと言う選択肢をもっと増やしていくべきでしょう。そうなれば、さほど必要としないモノを買って、使い込まないうちに捨てる結果出るゴミも減る筈です。そう考えれば、世の中で必要とされる機能(ニーズ)を満たす中身だけのサービスを提供するビジネスも、まだまだ提案できそうな気がします。そんなものを思いついたらまたブログに書いておくことにします。

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2012年9月17日 (月)

1844 タイムラグ

現象の原因と結果には、必ず時間的な遅れが生じます。これをタイムラグと呼びますが、人々は移ろいやすく、その事に疎いのです。勿論、たった今起こった原因で、自分の利益が侵されると知れば、お隣の国の様に騒乱も起こるのでしょう。しかし、結果が数年後あるいは数十年後になる事に関しては、殆ど無関心のままです。温暖化がまさにその典型でしょう。気候変動は、非常にゆっくりと進みます。温暖化の速度で言えば、例えば年に10㎞程度と想定されます。つまり、10㎞南の地点の昨年の気象が、今年のこの地点の気象になるといった程度の進み方です。100㎞進むのに10年掛かる訳ですから、人々はそれに慣れてしまうのです。

ここ秋田でも、9月半ばの秋祭りの時期だと言うのに、気温は32℃にも上昇しました。これは、多分2-30年前ならば九州か四国辺りの気温だった様な気がします。つまり、ここ数十年で温暖化が数百キロ北進したとも考えられます。人間はエアコンで何とか耐え忍んでいますが、植物はそうもいきません。米は高温障害ため、今の品種では九州での栽培は厳しくなってきましたし、ミカンの産地でも同様の問題が報告されています、一方、日本では長野が南限のリンゴは、日照り続きでの日焼けのため、商品価値が落ちて出荷出来ないものが多くなってきました。ここ秋田もかなりの面積でリンゴを栽培していますが、今年は約10%が日焼けの被害を受けた様です。

いずれにしても。私たちは、ご先祖様たちがそうしてくれた様に、まだ見もしない子孫の幸福を考えて行動する必要があると思うのです。彼らは、つらい労働に耐えて山の際まで開墾し、それでも足りなくて山の上まで棚田を刻み、さらに水源確保のために上流に広葉樹を植え、子孫の財産になる様に針葉樹も植えてくれました。これらの行動は、同じタイムラグでも、後世にプラスの効果をもたらします。一方で、私たちの世代は、原発から出る使用済み燃料にしても、減った原発を火力発電でカバーすべくより多くの二酸化炭素を出すにしても、多くのマイナスの遺産を子孫に押し付け続けている訳です。全く情けない世代です。

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2012年9月16日 (日)

1843 4Rの再定義

これまでの4Rとは、3R+R、つまりReduceReuseRecycleに加えて、Refuseなどと定義されていました。しかしながら、今後求められる持続的な社会を展望する時、やや後ろ向きの3R+Rでは、対応しきれないとも思うのです。何故なら、これらの対策は、なるべくモノの消費を抑えて、廃棄物の発生を抑える効果しか期待できないからです。

このブログでは、来たるべき時代に向けての新しい(あるいは古いが新しい)産業を興す事も提案していますので、もう少し前を向く必要もあると言いたいのです。新しい4Rの提案とは、RepairReadjustmentReuse、とRecycleと定義してみます。後ろの2つは、今の4Rと重なっていますが、優先順位は上に並べた通りです。つまり、何が何でも壊れたものは修理し、使いっ放しにしないで最大の性能(最小のエネルギー消費)になる様に微調整し、用済みになったモノでも再利用し、最後に使えなくなったものは素材としてリサイクルすると言う順番になります。

そのためには、頑丈で、修理が容易で、最後もしっかり素材に戻せる様に、設計から考え直さなければならないでしょう。今作られている製品は、数十年前の製品とは全くと言ってよい程作り方が違っています。プラスチック部品を多用し、ネジを殆ど使わず、組立が容易で、見栄えが良い事を重視した結果です。これを根本から変えるには、やはり全ての使用済みの製品をメーカーに引き取らせる仕組みが必要でしょう。製品を作ったメーカーは、構造から素材まで熟知していますから、分解や部品の再利用も容易でしょう。コピー機などでは、それが行われていますが、他の全ての製品で実行する訳です。この仕組みで仕事が少なるなるのは、廃棄物処理業などでしょうが、代わりに製品を分解する新たな産業が生まれます。業界の名前が、「使用済製品分解業」に変り、メーカーの横にその分解工場を作る事が必要なだけです。

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2012年9月15日 (土)

1842 グローバル化の愚

これも何度目かの表題です。EUの躓きにもかかわらず、相変わらずTPPやらFTPやら、グローバル化の議論が引きも切らない状況です。この国は、貿易立国の様に言われて、国民もそのように思い込まされていますが、そう言っているのはB国だけで、実態の輸出比率はドイツや韓国などに比べれば、信じられないくらい低いのです。B国の言う事を真に受けて、国策として輸出産業に力を入れてきた(入れ過ぎた)お隣のK国は、50%前後まで行ってしまいましたが、その相手国であるB国やEUが落ち目になってきたので、今後景気の落ち込みがどの程度になるか、素人には想像もできません。

グローバル化を極端に進めて、持続可能である筈がない事は、誰の目にも明らかです。何しろ、国際分業を徹底的に進めて、ひたすらモノを移動させる訳ですから、輸送エネルギーの量も半端ではありません。モノが動く反対方向にはお金が動き、人が動き、もっと激しくは実態の無い債権もビュンビュン飛び回る訳です。グローバル化で、活発になるのは金融業界だけであり、製造業は安い労働力を求めて海外に出る事により空洞化し、デフレを加速してさらに閉塞感を高める事になります。

ここらで、もう一度国内の基本的な需要と、それを充足させるための、基幹産業の立て直しを考えなくてはならない時期ではあります。それを、1841ではオータルキィと呼び、別の言葉ではデグローバリズムと呼びますが、それはとりも直さず、ゆっくりとした時代の後ずさりを意味します。私たちは、家を離れて遠くに足を延ばし過ぎたのかも知れません。立ち止まって考え、そして少し後ずさりをしてみる必要があると思うのです。勿論、目だけは前に向けながらです。

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2012年9月14日 (金)

1841 オータルキィ(Autarky)

敢えて日本語に直せば「自給自足性」などとなるのでしょうか。現代社会は、徹底的に分業を進め、オータルキィからは、最も遠い社会を築こうとしてきた様に思います。それは、全ての価値を、兎に角お金で換算して評価する社会でもあります。お金で計れない価値は、即ちその様な価値が存在しない様な錯覚に陥る社会でもあります。例えば、優しさ、居心地の良さ、笑顔、思いやり、達成感、生き甲斐、連帯感(絆)などなどです。最後のKWは、昨年の震災・津波後はかなり見直された感はありますが、しかしその価値の再評価までは至っていない様な気もします。

 

それはさておき、今後これらの今はお金で計れない価値を見直す時のKWがオータルキィになると思うのです。その理由ですが、自給自足を基本とする社会では、価値の物差しは人が働いた時間に加えて、その努力や工夫の程度になると思われ、もっと言えば衣食住の基本的なニーズに対して、それを充足させるための「貢献度」になると思うからです。例えば、農産物を作る農業の価値は、今はその市場での売値x生産高でしか評価できませんが、ではそのお金で何人の人の生命が維持できるか、一方その農産物で一体何人の命が繋げるのかを考えてみれば、後者の方が何倍も多い事が容易に想像できます。

 

つまり、オータルキィの度合いを上げれば上げるほど、この地球上では多くの人口が養え、逆に換金作物を作れば作るほど、飢える人が多くなるカラクリは、それほど深く考えなくても理解できる話です。しかも、例えば効率を上げるために、土地に施す大量の化学肥料や農薬と、大型農業機械を使い、深層の地下水(化石水)を汲み上げ続ける近代農業に比べれば、伝統的な自給自足農業は、明らかに環境への負荷が小さく、持続可能性は飛躍的に高まる筈なのです。勿論、ここで言いたいのは、何でもかんでも自給自足でなければならないと言う事ではなく、極端な国際分業や専業化は、不安定になった時代には必ず破たんする事になるので、両者のほどほどのバランスが必要だと言っているだけです。続きます。

 

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2012年9月13日 (木)

1840 最小資源設計

これまで、製品や設備を設計する場合には、一定のコストの制約条件の中で、最大の性能を与えるための設計を最適設計と呼んでいた様な気がします。製品や設備の売値はある程度決まっている訳ですから、より高い性能を引き出せれば、結果としてコストが下げられ、利益率がアップするからです。

しかし、今後の製品設計や設備設計の考え方は、「最小資源設計」にシフトせざるを得ないでしょう。しかも、それは製造時だけではなく、その製品や設備の寿命が続く期間を全て勘案して決定される必要があります。一般に言われるLCALife cycle Analysis)設計に近い考え方ではありますが、ここではさらにSustainability)の要素を加えます。たとえ、軽量化され、使用中のエネルギー消費率が低い(例えば省エネ型製品)だとしても、そこに使われているある資源の賦存量が小さく(例えばレアアースなど)、かつ使用後の資源の回収率が低い製品や設備は、この観点からは不合格と言わざるを得ません。今のHVEVは、この観点から再評価されるべきでしょう。

どの様な道筋で考えても、最小資源設計の「基本のき」は、間違いなく軽量化設計と言えるでしょう。軽量化すれば、使う資源は少なくて済むでしょうし、それを動かすに当たっても、より少ないエネルギーしか食わない筈です。例えば、現在の車の設計基準ですが、あまりにも重すぎます。例えば、車体を構成する鋼板ももっと軽くできるはずです。鋼板を薄くすれば、剛性が下がりますので、ペコペコした安っぽい車になるでしょう。しかし、見栄えの問題を度外視すれば、例えばビード(連続する凸凹)を入れる事により、その問題は回避できるでしょう。腕利きのデザイナーにかかれば、デザイン性を考えた、美しいビードだって考えられる筈です。続きます。

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2012年9月12日 (水)

1839 放射線と正しく付き合う

原発事故や、その他の放射線被ばく事故を肯定するつもりは全くありませんが、低レベルの被ばくへの過度の恐怖は、ストレスになって別の意味での身体的ダメージを受けるかも知れない事は、指摘しておく必要がありそうです。放射線は、遮蔽が簡単なα線を除けば、基本的には物質の電離(イオン化)を引き起こす「電離放射線」だと言えます。細胞内で電離が起これば、いわゆる各種のラジカル(とりわけ活性酸素)を発生させ、結果として細胞組織を傷つける事になります。活性酸素は、各種の身体的ストレスや、精神的ストレスでも発生する事が知られており、つまり放射線被ばくで発生しようが、通常のストレスで発生しようが、結果として引き起こされる身体的病理は両者に差は無い、とも極言できそうです。

さてストレスですが、実のところ適正なレベルのストレスは、健康維持には必須である事も良く知られた事実です。その事実に従って、人は各種のトレーニングによって、体にストレスを加え、ある程度の活性酸素を敢えて発生させ、抗酸化物質(SOD)を活性化させる力を蓄える訳です。

放射線被ばくに対しても、私たちは知らず知らずの内に、弱いストレスを加える知恵を身に着けていた様です。例えば、ラジウム温泉です。天然のラジウムを微量含む温泉への入浴は、ストレスに対する抵抗力を強める方法として、生活の中に定着してきました。日本で、かつてウランを採掘していた広島県の人形峠と、ラジウム温泉として名高い鳥取の三朝温泉が、背中合わせで所在する事は、象徴的な事実です。

放射線や医学に素人である投稿者に、例えば「適正なセシウム被ばく量」のレベルについて提示すべくもありませんが、ごく僅かな放射線量の多寡に、一喜一憂し、ましてやそれに怖れおののいて、室内だけで暮らさなければならない精神的なストレスの結果、大幅に増えるであろう活性酸素量を考える時、ほどほどの対応が必要だと言うしかありません。私たちは、大気圏内での核実験が信じられない程盛んだった時代、既に今より何桁も高かった放射線量の中でも、酷い大気汚染の中でも、各種の有害とされる食品添加物入りの食物を毎日食べても、何とか「健康に」生き延びてきたではありませんか。一方で、精神的なストレスが原因で、一体何人の人が潰瘍やガンになったり、ココロを病んだりして死んでしまったかについても、しっかり考えてみる必要はあります。結局、放射線被ばくと、身体的・精神的ストレスとは、体内に発生する活性酸素と言う指標で等価だったと考え直すべき時です。

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2012年9月11日 (火)

1838 パッシブシステム

再生可能型エネルギーの殆どはパッシブシステムであるとも言えます。これに対して、アクティブシステムとは、地球環境に働きかけて地下深くに眠っていた化石エネルギーや資源を掘り出し、それを使って、2次的なエネルギーや工業製品を産み出す仕組みを指します。パッシブとは、受け身や待ちの姿勢を指す言葉ですが、例えば太陽光に由来するエネルギー(太陽光、太陽熱、風力、波力、バイオマスなど)は、強烈な太陽光のホンの一部が地球に降り注いでくれているからこそ、その恩恵に与れるわけで、農業も含めて伝統的な営みの全てはお天道様頼みのパッシブシステムであったと言える訳です。

パッシブなシステムの利点として、決して太陽光の恵みのノリを超える事はないので、その利用が環境に影響を与える様な度を超す心配が無い事が挙げられます。一方、アクティブシステムでは、資源の枯渇や過度の消費による自己中毒(公害や廃棄物の横溢や温暖化など)が必ず付きまといます。つまり、経済が許す範囲内においては、歯止めが掛からない危険なシステムであるとも言えるのです。

パッシブシステムは、しかし知恵や工夫を求めるシステムでもあります。何故なら、太陽光は広く、薄くしか手に入らないからです。それを集めるにしても、例えば数多くの反射鏡を並べるとか、レンズやパラボラで集光するなどの限られた方法しか見つかりません。そうでなければ、山に降った水を集める(ダム)とか、あるいは植物が固定した太陽光を利用する(バイオマス)とか、あるいは太陽光の偏在の結果生ずるエネルギー(風力など)などの様に、時間的にエネルギーを貯めて利用するしかない訳です。とは言いながら、今は無為に消えている、あるいは利用されていないエネルギーを、パッシブに利用する事は、今後のエネルギー利用を考える上では、トップ・プライオリティとして政策に据えなければならないでしょう。その意味で、例えば全ての家々の屋根に、太陽熱給湯器を設置する法律が作られていないのは、エネルギー小国の日本としては、摩訶不思議な話だと言えるかも知れません。

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2012年9月10日 (月)

1837 バックヤード

原発事故に限らず、ニュースになる様な大事故は、その事故の背景や現場の裏側(バックヤード)をしっかり見せてくれます。例えば、原発には巨大なプールが併設されています。使用済みの燃料棒を入れておいて、水で冷やすための「燃料プール」です。事故で改めて明らかになった事は、この燃料棒を運び出す先が無いと言う事実です。プルーサーマル(使用済み核燃料のリサイクル)も、実は燃料節約目的ではなく、原発から使用済み燃料棒を運び出すための方便だった事が白日の下に晒されてしまいました。現在のところ、再処理のためにはヨーロッパの再処理工場に持ち込むしかありません。国内の再処理工場稼働のスケジュールが全く見えていないからです。

この方便も、ヨーロッパにソッポを向かれると、まったく八方塞がりになるでしょう。何とか、カネで相手の頬を張りつづけるしかない訳です。使い切った燃料棒が取り出せない事態になれば、原発を動かし続ける訳にはいかないでしょう。その意味で、嫌がる電力会社や政府や産業界に、無理に原発ゼロを迫る必要はないでしょう。ヨーロッパのF国もE国も、国内世論に逆らっていやいや再処理を続けている訳で、これが出来なくなり、六ヶ所村が「単なる使用済み燃料の保管場所」になるのを拒否しさえすれば、早晩原発は燃料切れで「自動的に停止」するからです。

今回の原発事故は、確かに深刻な事態を引き起こし、それが今後も永く続く事にはなってしまいましたが、原子力村に秘匿された、数多くの秘密や矛盾を暴露してくれた事は、酷い災いの中では一つの救いとはなりました。これ(燃料棒を原発から出さない算段)をテコにすれば、一気に原発ゼロが加速するでしょう。原発によっては、あと数年で燃料プールが満杯になり、新たな燃料棒がチャージできなくなる原発もいくつかある様です。それよりなにより、この国にはヒロシマ、ナガサキから連綿として続く、核への根強いアレルギー反応もあるではありませんか。

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2012年9月 9日 (日)

1836 ニーズのレベル

日本の産業の屋台骨の一つであった、家電メーカーの後退が顕著ですが、同様に戦後の日本経済を支えてきて、いまだ頑張っている自動車メーカーとの差を考えてみます。PナソニックやSニーやSンヨーなどの製品とモノづくりが、TヨタやHンダのそれと何が異なるかですが、視点を引いて眺めてみれば、それは消費者のニーズのレベルだと言うしかありません。つまり、消費者は家電メーカが発売する新しい家電への必要性はあまり感じませんが、古くなった車を買い換えない事には、すっかり遠くなってしまった買い物場所=大型ショッピングセンターへ買い物にも出かけられない訳です。歩いて行ける距離にあった近所のお店は、殆どがシャッターを下ろしているからです。

スマホで動かせる洗濯機や何とか機能付きのデジカメや、ワンセグも見れるオーディオ機器などが無くても快適に暮らせますが、車が無いと食料の買い出しにも困る訳です。つまり、今や車は衣食住と言うより基本的なニーズに近い製品ではあると言えそうです。しかし、自転車があればどうにか5㎞離れたショッピングセンターには買い出しに行けそうなので、もっと景気が下振れて石油価格が上がると、勿論車への需要もガクンと下がる筈です。何故なら、車の所有はそれ自体が「目的」ではなく、生活の中の移動「手段」だからです。人々が車移動から離れると、多分また街には市が立ち、歩きや自転車で移動する人の流れが戻るのでしょう。

更に付け加えれば、最も根源的なニーズは何かと考えてみると、一般的には「生存欲求」となりそうですが、もしかすると実はそれは「健康」かも知れないと最近思うようになりました。つまり、フラフラ長く生きていても、健康でなければ生きる意欲も湧かないでしょうし、健康で活動レベルさえ高ければ、多少モノが不足していても楽しく暮らせるはずだからです。モノを作っても売れないと嘆く家電メーカーには、例えばTニタの様に、健康に暮らすための製品を開発し、提案して貰いたいものです。高齢化が急速に進むこの国で求められるのは、動けなくなった老人向けの介護製品や介護産業ではなく、介護産業が不要な、活動レベルの高い健康老人を増やすための製品なのです。人口ピラミッドの太い世代を考えれば、市場は巨大です。

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2012年9月 8日 (土)

1835 安全の質

航空機の製造に関わった経験から、原発の安全性について改めて考えてみました。航空機を始め、世の中にある交通手段や機械設備などを設計する際に必ず導入されるファクターに「安全率」と言うものがあります。安全率は、通常の設備ででは、例えば2.0程度が使われますが、航空機で2.0を採用すると、重すぎて離陸できないか、あるいはお客を殆ど乗せられない旅客機になってしまいます。仕方がないので、色々な理窟をつけ、実際に試験も行って、安全率をギリギリまで下げる事になります。そのギリギリの限界は、物騒な話をすれば、飛行機が落っこちた時の乗客の数と、命の値段を計算して、それにバランスするだけの安全に掛けるコストを、誰かが算盤を弾く事になります。勿論、命の値段が決まっている訳ではありませんが、安全のために掛けられるコストは、所詮飛行機の1機の売値の範囲内のある値でしかありません。

しかし、原発の安全率をこれと同一視する訳にはいかないでしょう。もし、Fクシマが、チェルノブイリ以上を大きく超える悲惨な事故になっていた事を想像すれば、直接に放射能を浴びた人々、またそれらの人の子孫にまで影響を与えかねない放射能の恐ろしさを考えれば、安全率は事実上「無限大」に設定せざるを得ないからです。勿論、そんなものが経済的に成り立つはずもなく、原発などは本来作るべきではない事が、安全率の点からの考察だけでも明白です。

現在の原発の設計基準は、勿論ある想定の範囲内で、それなりの安全率を掛けてなされ、製造されたはずですが、製造ミスや材料欠陥、あるいはオペレーション上のミスや何より「想定以上のストレス」に対しての、追加の(余裕の)安全率は明らかに不足していた事は、あの事故でいみじくも証明されてしまった訳です。新たな、ストレステストを行おうが、首相の一存で原子力規制委員を任命しようが、根本的な余裕の安全率の不足している原発は、まだ50数個が国内に厳然として立地し続けている訳です。

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2012年9月 7日 (金)

1834 サンマ缶

旬に入った秋刀魚が食べたくなって、スーパーに行ってみましたが、考えてみればアパートに魚を焼く手段が無い事に気が付きました。つまり、ロースターやその機能のあるガスコンロが無いのです。ふと思い立って缶詰売り場に行ったら、ありましたありました、サンマ缶です。水煮、味付け、甘露煮など数種類並んでいます。値段も、安いものならナント100円以下で買えます。

早速水煮と、味付けしたものを買い求め、開缶してみました。まな板に並べてみると、ほぼ秋刀魚1匹分の量が入っていた上、ラッキーな事にまったく火を使わずに食卓に出せます。一人分としては量が多いので、レタスと一緒にサラダにして、1缶を2食分として美味しくいただきました。缶詰の魚は、皮も骨もヒレも全部食べる事が出来、魚の命も無駄になりません。

調べてみると、通常の缶詰の製法は、殆どの場合、生の材料と調味液を詰めて、封をしてから加熱調理するのだとか。(缶詰に出会ってこの方?、勝手に煮てから詰めるのだとばっかり思いこんでいました。)つまり、魚の油やエキス(DHAEPAなど)も含めて、素材の100%が缶の中に詰まっている事になります。缶詰売り場には、他にも魚や貝や肉類からコーンやトマトや野菜などの食材缶、さらには果物缶まで、結構広いレパトーリーのものが並んでいます。それらは、今後の自炊生活の頼もしい味方になりそうです。これからは、オカズに困った時の「缶詰頼み」になりそうです。ただし、中身は今年の旬の秋刀魚ではなく、去年のサンマである事はご愛嬌です。

それにしても納得できないのは、缶の蓋がアルミで出来ていて、缶の本体が鉄で出来ている事です。メーカーは缶のリサイクルを考えてくれていません。缶切りを使うのを嫌がる消費者に媚びた結果なのか、最近の缶詰はほぼ全てがプルトップなのです。リサイクルのために溶解した時、鉄はアルミにとっては強度を低下させる非常に有害な不純物ですし、逆もまた言えるからです。それを考えると、缶詰を手に取るのがやや躊躇われます。

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2012年9月 6日 (木)

1833 アキアカネ

ここ数日、急にアキアカネが飛び始めました。これまで、ジョギングコースの堤防で見られたのは、殆どがコノシメトンボだけでしたが、アキアカネは飛び方が全くコノシメとは違います。先ず高度が違います。やや高いところをビュンビュン飛ぶのです。活動レベルも、コノシメより高いらしく、見るからに元気そうに飛んでいます。

そういえば、もう少し秋が進んで、比較的標高の高い山にまで登ってくるのは、きっとアキアカネに違いありません。このトンボは、飛翔能力が高いのかもしれません。しかし、あの細い体のどこにそのためのエネルギーを蓄えているのか、まったく不思議です。

もう一つの感動は、生き物の棲み分け術です。同種の生き物であれば、狭い地域でも水辺と草地などに分けるか、あるいは孵化する時期をずらして、生きる時間帯を分け合って、その結果生まれたニッチを埋め合います。コノシメトンボが夏の終わりに、草地に近い低い場所で生きれば、アキアカネは、秋の初めから活発に動き出し、空の高い所を飛んで繁殖を行うのでしょう。この自然の仕組み(あるいはオキテ)は、全ての植物や動物の関係に当てはまるのでしょうから、自然の調整力は偉大です。何しろ生物が生まれてから何億年もの間、今の生物種が生まれてからでも何万年も掛けて作り上げてきた仕組みなのでしょうが、それをたかだか数百年のキチガイじみた、しかも慌ただしい経済活動で乱しつつある(あるいは既に不可逆的に乱して)、人間の営みのココロ無さに、いつもながら悲しくなります。

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2012年9月 5日 (水)

1832 生命系の経済学

大分前に買って、斜め読みして積んでいた、P.エキンズ編の「生命系の経済学」を読み直しています。これは、E.F.シューマッハの流れを汲む、TOES(The Other Economic Summit)の参加者の講演や提案をまとめたもので、かなり難しい中身となっていいます。しかし、読みたい時に読み直すと、その中身がすっと入ってくるような気がします。

総じていえば、シューマッハが言っていた様に、右肩上がりの経済の巨大化や歯止めのないグローバル化や先進国と途上国の不均衡な関係などを批判的に討議する会議ですが、1980年代後半に、今の時代の混沌を見事に予言してる点では、やはり世界の頭脳が集まった会議だったのだと思います。この会議が、今も続いているかは定かではありませんが、願わくは今の時代こそ、彼らにこの暗いカオスの世界を導く光を放って欲しいものです。

さて、右肩上がりの経済成長モデルこそ、国を国際経済の未来を明るくする唯一の手段であるとする現代の「グローバル経済学」に対し、彼らは1)そこには、目的(人類の幸福)と手段(経済活動=モノ・カネ)の混同がある。2)地球の資源が有限である事の無視。3)インフレと失業(あるいはデフレと失業)に対して、正しい解決策を提供できない。と言う3点を挙げて、強烈に批判を加えています。その理由としては、今の無秩序の自由主義経済モデルは、いわゆる富の適正な再配分が苦手である事と、人類の幸福度を織り込んだ経済モデルが作れない事などを挙げています。仕方がないので、取り敢えずカネとモノをその代わりに立てて、幸福度の様に数値化できない指標を避けて、GNPやGDPなどと言う、数値化や数式化が「容易な」指標を掲げていると責め立てます。この20年も前のこれらの指摘は、今日の欧州の苦しみやこの国のていたらくを見れば、スンナリ納得できるものではあります。

さらに付け加えて、今の経済学では、人類が生きていく上で基本的なニーズ(例えば基本的な衣食住)と、戦後経済(学)によってこの数十年で作り上げられたニーズ(例えば車や電化製品などの工業製品)を切り分ける事が出来ないと言う、致命的な欠点も挙げているのです。その結果として、いわゆる伝統的な(持続可能な)生活が破壊され、物質的には豊かに見えるが、不安定な社会を作ってしまったとも主張するのです。イタクナットク。続きます。

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2012年9月 4日 (火)

1831 目的と手段

このタイトルも数回目の様な気がします。自分の行動も含め、常に目的と手段の混同や逆転が無いか吟味したいものです。ここでは原発を引き合いに出して考えてみます。原発の「目的」を考えてみれば、それはそれによって恩恵を受ける地域の企業や住民の利便性やアメニティの向上のため、となるのでしょう。確かに、一度動き出せば、安定的に発電し、しかも動いている間は、基本的には温排水を海に捨てるだけで、「見かけ上クリーン」に電力を産み出し続けます。Fクシマでも、もし震災と津波が来なければ、利便性と温暖化防止のシンボルとして、動き続けていたはずです。

しかし、あの事故です。パンドラの箱から放出された「害悪」は、今後も長い間私たちを苦しめ続ける事は間違いないところです。この害悪を目の前(目には見えませんが)にして、私たちはもう一度エネルギーを使う事の「目的」を考え直してみる必要があると思うのです。エネルギーを使う目的は、生産であり、流通や移動であり、日々の生活の利便性の確保である事は間違いはないのですが、ある時期からその「手段」である2次エネルギー(ほとんどが石油製品と電力です)の産出そのものが「目的化」してしまったのでないか、と言う疑いが消えません。つまり、原発の建設や運用に関わる原子力村ができ、そこの「村民」の福利厚生の手段として、次々と不要不急の原発が建設されたのでないか、との疑いです。

実際に、原発の火が完全に消えた時期においても、この国の経済は何とか回っていましたし、今年の夏も事故前に比べて、マイナス10%以上の省エネモードで、社会は立派に動いています。原発再稼働の必要性を、国も電力会社も産業界も口を揃えて叫んではいますが、生活者である国民の声は全くの逆向きです。つまり、既に目的化してしまった原発の再稼働を、事故後に改めて「エネルギー供給手段」としての位置付けを考えてみれば、「原発は全く好まくない手段」だと言う結論が直ちに出るはずなのです。何しろ、私たちはそこから出てしまった放射能の害悪を「消す手段」を全く持っていない事が証明されてしまったのですから。今も、今後も私たちに出来る事は、除染と言う気の遠くなるような、「洗い流し作業」を繰り返して、半減期も見方にして害悪を徐々に弱める方法だけなのです。個々のエネルギーの使い道をしっかり吟味し、必要かつ十分な量のエネルギーをその目的に叶う様に、太陽熱や風力やバイオマスや水力を、きめ細かく組み合わせながら利用する知恵こそが、目的に叶った正しい手段を提供するのだと思っています。

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2012年9月 3日 (月)

1830 東北の背骨

秋田県と宮城県がしっかり県境を接してしたことに始めて気が付きました。仙台に車で出かけたのですが、今回は高速道路を使わず、敢えて最短距離の国道108号を辿り、山間地を抜けてみました。朝5時に出て、仙台に入ったのは9時前でしたが、まさに東北の背骨を通り抜ける道でした。このルートは、秋田(由利本荘)を出ると、先ずは鳥海山の麓を巻くように走り、横手・湯沢盆地には入らずにその南をかすめて、今度は鬼首峠を通って栗駒山の近くを抜け、鳴子温泉経由で大崎市に出るのです。古川ICからは高速道路に乗り、仙台宮城ICで市内に入りました。距離は、200㎞余りしかありませんので、秋田から北上に抜ける高速道路を使うルートに比べれば、3割ほど近いのです。

このルートは感激します。いくつもの温泉場を抜けて走るルートだからです。秋田県内にも湯沢から鬼首峠(標高800m強)までの間にもいくつかありますし、峠から鳴子温泉に掛けても温泉場がつながっています。今回はルートを走り抜けるだけだったので、どこにも立ち寄っていませんが、今度は出直して、ぜひ山と温泉の梯子をしたいと思いました。途中の鬼首には、歴史の古い地熱発電所もあるので、その見学もこの梯子には加えたいものです。

もう一つ感動的な風景は、その山の深さです。走っても走っても、標高が低い場所では人工林が続き、標高が高い場所ではブナなどの手つかずの自然林が広がります。やはり、東北は木材資源の宝庫であるとしみじみ思いました。勿論、ブナ(目に入る木々の名前は殆ど知りませんので取り敢えず広葉樹の代表です)などの広葉樹は、分厚い林床を持っているので、天然のダムとしての役割ですが、人工林も一応手入れはされている様なので、上手く利用すれば、大きな資源となり得ます。これに加えて、殆ど無尽蔵の地熱です。それでなくても冬の雪が深くて、人口密度の薄いこの地域は、多分バイオマスと地熱だけで、エネルギーのかなりの部分が自給できそうな気がします。今後の活動フィールドの一つにしようと思いました。

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2012年9月 2日 (日)

1829 風水力発「熱」

エネルギー源として、低温度の熱の使い道が結構多いなら、太陽の出ていない時期や時間帯で、どうやってその熱を手に入れるかも考えておかなくてはなりません。夜や、雨の日や、冬場にもやはり熱が必要ですが、設備費やスペースの制約もあり蓄熱だけに頼る訳にはいきません。つまりは太陽熱のバックアップシステムが必要なのです。

都合が良い事に、太陽光が無い、あるいは弱い時には多くの場合風が吹いているケースが多いのです。日射時間と風力の相関は、各地域の気象台からのデータで確認できるでしょう。つまり、太陽熱と小型の風車を組み合わせる事により、より安定的に熱を得る仕組みが出来ると思われます。この場合、風車は発電目的ではないので、高価で高速回転のプロペラ型やダリウス型でなくても十分で、サボニウス型などの安価でシンプルな、いわゆる「抗力型風車」で十分です。このタイプの風車は、風切り音も小さいので、住宅地の近くに設置した場合でも騒音問題は小さい筈です。太陽熱と風力発熱による熱を、作動油や水に貯えておくことにより、熱の利用がより安定的に可能となるでしょう。

しかし、風があまり期待できない山間地では、例えばせせらぎを使った小水力発「熱」がバックアップになり得ます。この場合も、発電目的ではないので、ゆっくり回る昔ながらの下掛け水車で十分でしょう。これなら流れを堰き止める必要もないので、水利権の問題も発生しません。それでも足りないなら、中山間地ではやはり間伐材や林地残材などのバイオマスでも十分補完できるでしょう。

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2012年9月 1日 (土)

1828 太陽熱を貯める

1次エネルギー利用の最右翼は、やはり太陽熱の直接利用しかないでしょう。勿論、太陽光をレンズや鏡で集めれば、数百度、集光面積を大きくして、上手く設計すれば数千度の高温を得る事も出来ますが、日常生活で必要な温度は、精々100℃以下で十分です。この温度で暖房も出来るでしょうし、給湯や入浴にも十分です。80℃を超える温度では、デンプンのα化も進みますので、煮物用途であれば調理過熱にも使えるはずです。

また、太陽熱を水に伝えておけば、太陽熱を簡便に蓄える事(蓄熱)も容易です。周りを、適当に断熱したタンクさえあれば良いからです。上手くタンクを覆う断熱材を設計すれば、数日間は有効に太陽熱を蓄える事が出来るでしょう。太陽熱を集めるには、冬場の雪国でも諦める必要はありません。冬は、太陽の高度が低いので、屋根で太陽熱を集めるのは実は効果的ではありませんし、寒冷地では積雪もあるでしょう。しかし、集熱を垂直の壁で行えば問題はありません。その名もずばり「ソーラーウォール」と呼ばれている製品も既に市場に出ています。これは、北米発ですが、寒冷なアメリカやカナダの内陸部では、省エネでも大きな効果を上げています。例えば、ある自動車工場では、実績として冬場の暖房費の50%を削減した様です。

蓄熱された太陽熱は、例えば穀物乾燥(例えば籾の乾燥)や食品の乾燥(例えば干物製造)などにも有効に使えるでしょう。この場合は、個体のデシカント(乾燥剤)装置と組み合わせます。適度な低温度の熱で水分を追い出し、さらにデシカントで吸湿する訳です。太陽熱だけで乾燥させた米や食品は、灯油やガスなどを使った強制乾燥に比べれば、間違いなく味も格段に良くなる事は請け合いです。省エネで、しかも品質が上がるとすれば、取り組まない訳にはいかないでしょう。

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