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2013年1月15日 (火)

1958 正解を探す

自分達が受けてきた教育を振り返って見る時、その教育成果を評価する指標としてテストや試験だけが異様な熱意を以って行われてきた事に気が付きます。例えば中間テストや期末試験と言った手段で、子供達の理解度(=教師の教え方の手際でもありますが)を評価した訳です。しかし、考えてみなければならないのは、その中身です。試験の中では、子供たちは○を付けて貰える「正解を探す」事に没頭したでしょう。正解以外は「不正解」なので×になります。○を足し合わせた点数が評価基準の全てとなります。それが、個人の理解度やクラス・学校の平均点や偏差値の根拠の全てだったのです。

さて、このような試験制度の弊害かも知れませんが、この国の(国民の)特質として、何時の頃からかは分かりませんが、「正解主義」が蔓延してしまった様なのです。数学の計算問題を除けば、多くの問題(や課題)への答えとしては、不正解から正解(らしきもの)との間に多くの「グラデーション解」があっても不思議はないのです。つまりは多くの実際の問題においては正解は、既に何処かにあってそれを見つけるものではなく、最も正解近い答えを考え続ける中で作り上げていくものでなくてはならない筈です。

経済の縮小均衡やデフレが、果たしてこの国の問題であるのか否か、その正解らしきものが経済刺激策とその結果としての経済成長の持続しかないのか、と頭を冷やして考えれば、今度のリーダーのあの「一辺倒の答え」の押し付けには大きな疑問符が付きます。何が今日の問題(もしそれが大きな問題だとして)を生み出した根であるのか、それを正して将来向かうべき国の姿はどうあるべきかの議論を抜きにして、この夏の選挙結果だけしか頭にない政策など、一顧だにする価値は無いでしょう。

問題根っこの分析と将来の青写真を描き、国民の同意を取り付ける事が出来れば、そこに向かっての正解(らしきもの)への道筋は、自然な議論の中で形成されるはずのものでしょう。実際の問題に向かって立つとき、先ずは首を垂れてその足元を観察し、然る後に次に踏み出すべき「最初の一歩の方向」を見定める必要があると思うのです。

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