« 1997 意識の問題 | トップページ | 1999 田舎パワー »

2013年2月24日 (日)

1998 外挿ではなく

この国のシステムの殆どが実績主義によって次年度や中期計画を立てられます。つまり、この仕掛けでは、未来は過去の延長線上でしか計画できない訳で、まったく不自由で「外挿的」であると言えます。このブログで、タイトルを替え言葉を替えて述べているのは、そうではない内挿システムなのです。内挿をするためには、実は望ましい到達点が見えて(あるいは想定出来て)いる必要があります。予め「望ましい未来の青写真」を描いておく必要があるのです。そのゴールに向かって、来年、さ来年とステップを進めていくわけです。ゴールがはっきりしているので、途中のステップにもブレが少ないはずなのです。

今の延長線上での議論であれば、これまでのこの国政治の様に外的要因(例えばITバブルやリーマンショックの様な)小さな外乱によって右往左往することによって、その時取った場当たり的な対策が、結局は時間が経過する程、ブレ量が大きくなる訳です。赤字国債は、確かにその場の状況で判断すれば、一つの手段であったでしょう。O渕さん一人を悪者にする事は簡単ですが、問題は赤字の累積が全く止まる気配もなく一貫して増加してきた事実なのです。H本さんなどの数少ないリーダー達が遠慮がちにブレーキを踏んだ事もあった様な気もしますが、ブレーキを踏んだ途端に彼らは不人気になり、その都度はじき出されて来たのでした。その意味で、Iタリア辺りで、国の財政を傾けさせたあの大盤振る舞いリーダーが、人気を回復している構図と、実は中身はそれほど変わらないでしょう。この国と長靴の形をした国が、度々比較される所以です。

さて、内挿システムのあるべき姿ですが、実はバラ色ではありません。それは、お金やモノと言う物差しを使う限りにおいて、との注釈がつけた場合の話なのですが…。それは当然の事で、エネルギーやモノは「有限」ですので、それを狭い地球上の生き物が分け合うと考えた場合、途上国の人口増と豊かさを求めるパワーと言う背景の元では、不自由になるのは当然だからです。モノと経済の右肩下がりの一方、ココロの豊かさをバランスさせた、あるべき姿の青写真は一体誰が描いてくれるのでしょうか。取り敢えずは、自分の人生でそれを実行してみようと考えて、投稿者はサラリーマンの階段を降りたのでした。

|

« 1997 意識の問題 | トップページ | 1999 田舎パワー »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/185422/56828805

この記事へのトラックバック一覧です: 1998 外挿ではなく:

« 1997 意識の問題 | トップページ | 1999 田舎パワー »