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2013年3月31日 (日)

2031 手続き主義批判

手続き主義という言葉があります。国語辞典に載っているかどうかは別にして、例えば行政の考え方や仕事ぶりを眺めていれば、どの様な状況を指すかは容易に想像できるでしょう。手続き主義を済々と進めるには、何より「手続きマニュアル」が必要です。元になるのは法令や条例であり、それを適用した判例、範例がマニュアルの下敷きになって、最終的には多くの手続きマニュアルが作られていきます。

従って、新しい事態(例えば想定外の災害)に遭遇した「手続き主義者」は、前例が無いため、取り敢えずはマニュアルの中に、それに近い事例は無いか必死に探すか、あるいは単に右往左往するしかありません。お役所化した大企業でも状況はそんなに変わらないでしょう。T電が陥った状況もまさにその典型だったと言えるでしょう。彼らには、「通常時の緊急マニュアル」しかありませんでしたから、それが未曾有の災害に遭遇しては全く無力だった事が証明されてしまった訳です。原発内に信じられない程の長さに張り巡らされた配管、それをコントロールする数万におよぶ発電所内のアクチュエータやバルブの関連性や非常時のバイパスルートなど、熟知している人は殆ど居なかったのです、なぜなら、あの福一を設計し、作り上げた技術者は、とっくに退役したか、下手をすればお隠れになっているからです。残された図面を眺めても、システムのつながりは何とか理解出来るにしても、例えば配管の太さや非常時に使えるかどうか、何よりプラントの何処にそれがあるか、停電状態でどうやって操作するかなど、誰も指示を出す事が出来なかった筈です。

これに対する適当な言葉が見つかりませんが、敢えて言えば「現場・現物・現実主義」になるでしょうか原発のオペレータは、きっと空調が効いていて快適で、微量と言えども被ばくの危険性が低くなる様に遮蔽されている、中央制御室から外に出る事は殆ど無かったでしょう。現場の簡単なメンテナンスや点検作業は、(たぶん)下請けの業者に任されていたからです。そうではなくて、技術者でもあるオペレータは、配属された直後は図面を持って実際の配管やバルブの位置を確認してプラント内を歩き回らなければならなかったのです。それが「現場・現物・現実主義」の第一歩です。然る後に、それらのプラントをコントロールする「演習」も重ねておく必要もあるでしょう。古いプラントでは、ある筈のバイパス弁を動かそうとしても錆びついていて、ビクとも動かないなどと言う事態は茶飯事だからです。発電所に限らず、今絶対的に不足しているのは、現場を熟知している「メンテナンス技術者」なのです。加えて必要なのは、マニュアルが役に立たなくなった想定外の事態への対処方法を決めておくことです。それは、多分紙に書いたものではなく、システムを最も良く知っている数人の話し合いによる合議制の様なものになるでしょう。

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2013年3月30日 (土)

2030 限界集落の利

続きです。さて、人口減少と高齢化が極限まで進んだ地域を「限界集落」と呼んだりします。何の限界であるかは、にわかには理解できませんが、ここではこの言葉を裏返して眺めてみたいと思います。この様な地域では、集落の全員が顔見知りで、その中の何人かは多分同級生でしょう。この様な地域では、自分たちが食べるだけのコメは十分取れるでしょうし、都会の息子や娘には新米を送るだけの余裕もあるでしょう。裏の畑で野菜を作り、庭には何本かの果樹もあり、季節ごとには山に入って山菜などの折々の大地の恵みも手に入るでしょう。集落内には小川が流れ、小型の水車が動かせ、川魚や沢蟹が採れるかも知れません。里山で勝手に萌芽再生する雑木を少しずつ切り出せば、冬場の薪や炭焼きの材料も手に入るでしょう。

とここまで考えると、ここ秋田や東北で人口が減って限界集落になっても何も恐れる必要はありません。山里は、いわば「現代の桃源郷」だと言い切れるほど豊かだという事に気付くからです。これらの資源を上手く使い、持続可能な地域を作りさえすれば、都会の生活に疲れた若者を引付ける魅力もかなり強いはずです。まずは、限界集落を楽しむ工夫を積み上げましょう。それをマスコミに露出し、情報発信すれば、その手の雑誌もいくつか刊行され、テレビの取材も入り、ボチボチ日帰りツアーも始まるでしょう。

そうこうしている内に、宿泊体験ツアーやロングステイプログラムが作られれば、若者の定住者も増える事でしょう。何しろ、山里は最高の子育て環境である事は間違いないからです。問題は、働く場所を作ることと、お金は可能な限り地域で回し、石油燃料や電力料金として外部に出ていくお金を絞るという課題です。外からいくばくかのお金が入ってくる仕掛けが出来れば、申し分ないでしょう。要は、山里の暮らしが如何に楽しいかの証明を自ら実践し、それを見せびらかす事です。限界集落からの脱出は、お年寄りにも強い生き甲斐をもたらすでしょう。お年寄りに、寝たきりになったり、ボケたりする暇なんかを与えてはなりません。数週間程度の短期間でも楽をさせれば、人はすぐ寝たきりになったり、ボケたりするからです。どちらが本人の幸福かは自明です。

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2013年3月29日 (金)

2029 人口減少社会への準備

国が立てた人口動態の予測では、2040年までに、今住んでいる秋田では人口がなんと2/3に激減するのだとか。何らかの手は打たれて、チョッピリは歯止めが掛かるのかも知れませんが、大筋の数字はこの通りになるのでしょう。そんな「予測」を立てなくても、事実として直近の5年間に1割程度人口が減った地域は、ここ東北ではザラに目につきます。

同時に進むのは、間違いなく高齢化です。上記の予測でも、秋田では高齢化率が50%に近づくのだとか。その中に自分も入っているのかと思うと複雑な気持ちです。いずれにしても、高齢者は死ぬまで自分で動き回り、若い世代に迷惑を掛けないという「強い決意」が必要でしょう。何故なら、動けなくなったら助けてくれそうなご近所さんも、やはり歩くのがやっとである可能性が高いからです。

しかし、それまでに準備して置くべき事も多いと思うのです。何より、今の断熱性の悪い住宅は早急に改善すべきでしょう。今のままでは冬季には、いくら暖房費をつかっても、暖かい居間と、縮み上がる廊下やトイレや風呂場の大きな温度差を作るだけだからです。その結果、冬場に倒れてしまう老人の如何に多い事でしょう。安く施工できて、効果の高い外断熱材の開発は必須です。その上で、冬季の高齢者の生活をどうやって支えるかも考えて行かなくてはなりません。何より、豪雪地帯での孤立は絶対に避けなければなりません。一つの方法としては、孤立が予測される地域の高齢者には、「冬季合宿所」などの仕組みを作って、1ヶ所に集まって貰うのも良いかもしれません。この合宿では、しっかり筋力も増強するプログラムと頭の老化を防ぐ刺激的な学習プログラムも準備します。多分続きます。

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2013年3月28日 (木)

2028 究極はオフグリッドで

2027では何も市民ファンドが悪いと言いたかった訳ではありません。順番として、先ず「脱エネ」でエネルギー使用量を徹底的に絞った後に、市民ファンドであれ他の方法であれ、再エネを最大限取り込んで、化石エネルギーに頼る割合を大幅に下げ、原発には全く頼らない社会を目指すべきだ、と考えているだけです。しかし、最終的には、それが可能な地域で、という前提にはなりますが、是非「オフグリッド」を目指して貰いたいのです。オフグリッドとは、電力会社の電力網から完全に縁を切った、エネルギーの完全自給を指します。大型の太陽光発電システムと、同じく大容量のバッテリーシステムを組み合わせれば、いますぐにでも可能なのでしょうが、いずれのシステムでも1戸建てでもそれぞれ数百万円の投資が必要でしょうから、合わせればその倍になります。

一方で、地域ぐるみででそれを達成している所も、少数ながら存在する事も事実です。例えば、四国の中央部にある、旧別子山村には、立派な水力発電所があり、地域全体の電力を賄っていました。かつての村長と森林組合の英断で、共有の水力発電所を建設したのです。発電所は長い間維持されていた様ですが、町村合併後はどうやら電力会社に吸収された様です。とは言いながら、現在でも数十戸程度の地域であれば、水力発電をベースにしたオフグリッドシステムの構築も決して夢物語ではない筈です。

一方、戸建てのオフグリッドも、工夫次第では十分可能だと考えています。PVと蓄電システムそれぞれに数百万円掛かると書いたのは、光熱システムををオール電化で賄う場合の話です。一方で、先ず可能な限り電力に頼らない生活スタイル変えた上で、電力としては、照明と僅かな動力と小さな家電程度に抑えるアプローチが考えられます。補助エネルギーとしては、太陽熱、地中熱で基本的な冷暖房や給湯負荷を担います。煮炊きに関しても、可能な限り太陽熱を利用します。つまりはソーラークッカーの活用です。小型の非常用発電機もイザトいう時のために準備しておきましょう。同じく小型で動力の不要な石油ストーブも非常用としては必要かも知れません。あくまで非常用として。冷暖房用途のエネルギーの転換と、小型のPVと蓄電システムに加え、小型の非常用発電機を加えても、多分車1台分く

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2013年3月27日 (水)

2027 再エネ市民ファンドよりは

各地で、新エネ、再エネ投資に向けて市民ファンンドを組んで、地域電力会社「~電力」を設立する動きが活発です。具体的には、投資額が1億~数億円にも上る再エネ発電所を、市民が投資ファンドを作って大型風車やメガソーラを建設しようと言うものです。既に北海道や東北各地では、風車での実績を作ってきていますし、メガソーラでもやや遅れて同じような動きになっています。

ここでの大きな疑問は、「エネルギー問題をお金の問題にすり替えても良いのか」なのです。確かにお金さえ出せば、再エネ発電所が作られ、「これまで通り」の便利な電化生活が保証されます。オール電化の家に住み、電気自動車を動かす生活です。しかし、再エネを推進すれば、この国のエネルギー問題が解決すると言うのは、間違いなく幻想です。再エネでいくら頑張っても、今のエネルギーデマンドの1-2割を賄うのが精一杯だからです。もちろん、国が法律を作って、全てのビルや建物の屋根前面にPVを上げる事を義務化すれば、それは3割といった割合に跳ね上がるとは思いますが、再エネの実力は所詮その程度なのです。しかもPVは、屋根を使わない限り、間違いなく動植物の生存や農業(食糧)と利害が対立を引き起こします。メガソーラのサイトでは最早農業などできないからです。

そうではなくて、このブログでも再々書いている様に、私たちはエネルギーに頼らない「脱エネ」を目指さなければならないと思うのです。脱エネにお金は1円も掛かりませんが、大きな努力と、たくさんの知恵を寄せ集める必要はあります。普通の掃除をするにも、電気掃除機のスイッチを入れる代わりに、まずホウキとチリトリを買って、しかる後にねじり鉢巻きをして、窓を開け放ってから掃除を始める必要があるからです。今のガソリン車を電気自動車に買い替える前に、体を鍛えて、雨の日用の快適な雨合羽を買って、しかるのちに軽快な自転車を買って通勤を始める必要がある訳です。エアコンのスイッチを入れる前に、まだ高いですがバイオマスを使ったペレットストーブでの暖房を検討し、夏であれば太陽熱を利用した冷房(例えばデシカント冷房)で、脱化石エネ、脱電力の冷暖房を工夫するのです。その結果、もし電力や化石燃料の使用量を現在の半分に出来れば、自動的に再エネの割合は倍に跳ね上がる訳ですから、殆どお金を掛けずに「再エネ先進国」に名乗りを上げる事が出来るでしょう。これをこのブログでは「脱エネ」と呼んできました。

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2013年3月26日 (火)

2026 原理主義

「~は~ねばならない」と主張する人々を「原理主義者」と呼びます。でも「~は~でも良い」と考える人の呼び名は「場当たり主義」や「ご都合主義」と切り捨てる事には賛同できません。所詮、人間が色を付けたものや文明は何らかの原理主義に基づいている筈です。世界にいくつあるか分からない宗教だって、ある意味では原理主義の典型と言えるでしょう。まして、それが他の宗教を排斥するものであればなおさらです。今世界の各地で起こっている種々の紛争の根源こそ、原理主義の為せるワザでしょう。

原理主義の切ないのは、その原理主義者が「原理」とするモノ以外は一切認めないと言う頑なな態度です。しかし、その原理といえども、一人の人間が頭の中で考えた、一つの考え方に過ぎない事に私たちは思い致す必要があります。つまり、それも「一つの考え方」でしかない訳です。それに比べ、この国のご先祖様たちは世界でも稀に見る寛容さを持ち合わせていました。それは、この世界には「八百万の神々が居られる」と考えた訳です。山の頂にも、巨石や巨木のみならず、一木一草や一寸の虫にさえ五分の魂が宿ると考えたのでした。これほどの寛容性や奥ゆかしさを持った人々が、この世界にどれほど存在するでしょうか。どこの国に行けば、山々の頂に祠が置かれているでしょうか。あるいは、どこの国に行けば数百年を経た巨木や巨岩にしめ縄が巻かれているでしょうか。これこそが原理主義の対極だと言っても良いでしょう。

そこで原理主義の対句として、ここでは「自然(又は環境)主義」を勝手に定義しておきたいと思います。つまりは、事象に対面してあるがままに考え、あるがままに振舞う態度です。その場合の判断基準はあくまで「持続可能性の高さ」に置かなければならないのは、このブログでクドクドと書いてきた通りです。自然主義で考えれば、原発継続の是非など、たった1秒で結論が出せる筈なのです。

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2013年3月25日 (月)

2025 不自然な時代

Y老孟司の言葉を借りれば、都市とは「脳化」した場所なのだそうです。つまりは、人間の脳だけで考え、作り出した人工物だと言うわけです。確かに、天然自然に直線の構造物や造形は存在しません。水平線だって球面に近い曲線の一部でしょうし、流れ星の軌跡だって実は放物線を描いている筈です。自然の洞窟で暮らしていたご先祖様がそこから這い出してきて、ピラミッドや万里の長城を築くだけの「脳力」を持ち出して以降、文明と呼ばれる脳化社会を連綿として作って来たわけです。

さて、田舎に移り住んで周りを見回しても、実は天然自然などと言うものにはお目にかかれません。人の手が入って平らに整地された田畑、蛇行が真っ直ぐに削り直された川の流れ、里山に入ってもそこはご先祖様が、山菜や薪炭を得るために有用な樹木を植えた場所でもあったでしょう。しかし、少なくともそこは、非常にゆっくりと改変された場所であるが故に、自然の営みも追随出来たと想像しています。しかし、列島改造とは何次にも亘る全国総合開発計画の結果、この国は隅々まで脳化されてしまったのでした。いま、この国で天然自然を見ようと思えば、2000m以上の高い山に登るか、かつて人の済んだ歴史が無いまったくの無人島に上陸するしかないでしょう。

天然自然とは、その環境が自律的に物質が循環し、多分何千年も変わらない、あるいは気候の変動に伴って自然に、非常にゆっくりと変わる場所だとも言えるでしょう。それを維持する立役者は、微生物であり、それに助けられ成長する植物である訳です。その植物に依存して生きている鳥や昆虫から始まる食物連鎖の頂点に、私たちヒトが鎮座しているのですが、悲しい事に私たちは、自然を改変しなければ一日も暮らせない種になり果ててしまったのです。それを進化と言うか、退化と言うのかは、どこかで地球を観察している全能のあの人が判断を下す事でしょう。いずれにしても、私たちは「不自然な脳化世界」に棲んでいる、滅びゆく種なのかも知れません。取り敢えず田舎に移り住みましたが、これから更に山懐に移ろうとボンヤリと考えています。

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2013年3月24日 (日)

2024 合成の誤謬

2023で鳥瞰云々と書いたのは、実は、「合成の誤謬」と言う言葉が頭に引っかかっているからでもあります。つまりミクロ的に見れば、A問題の答えはA´で、B問題の答えがB´であったにせよ、AとBを同時に解決しなければならない場合、答えは決してA´+B´にはならないと言うことを指した言葉です。

最近の例で言えば、原発事故(≒エネルギー)問題と景気浮揚問題は、多分その答えが真っ向から対立するでしょうから、簡単には答えが見つからない可能性も高いでしょう。しかし、それはエネルギー問題と景気浮揚と言う次元の違う問題を、並べて連立方程式で解こうとムダなあがきをするから解けないのであって、例えば「何が将来世代の幸福につながるのか問題」に還元して考えれば、答えは一つしか出ない筈なのです。今の世代に課されている義務は、そのたった一つの答えに向かって、では今の世代は何を為すべきか、と言う問いに真摯に向き合えば良いだけです。

そう考えれば、原発の火事場で途方に暮れているT電や、既に処理に困り果てるほど溜まってしまった各原発の放射性廃棄物の山(ではなく大プールですか)を目の前にして、私たちは最早これ以上原発など動かすべきではないという結論は、誰の目にも明らかなはずです。また、返済に何世代掛かるか分からない膨大な国の借金を目の前にすれば、近視眼的に明日明後日の景気の良し悪しを議論する暇などなく、子孫が世界の中で何を生業にして生きていくべきか、と言う鳥の目の国家百年の議論をしなければならない時代だと考えるべきです。今の世代が利便性の中毒になっている飛行機だって車だって、やがて石油が無くなればただのアルミや鉄の箱に過ぎないのですから。

何度でも言いたい事は、合成の誤謬を避けるためには、将来世代の幸福を考えた、「持続可能な答えを求め続ける事」しか無い、と言う一点なのです。

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2013年3月23日 (土)

2023 鳥瞰

長いスパンで時代を眺める時、高い場所から俯瞰する事が重要です。かといって、例えば宇宙に浮かんだ人工衛星から地表を眺めても、徒に広い地域が目に入るだけで、そこに暮らす生き物や人間の営みまでは見えてきません。その意味では多分、鳥の目くらいが丁度良いのかも知れません。具体的に言えば、例えば古代から現代までの歴史を眺めても、そこから学ぶべきものは多いとは思われません。逆に今現在の前後数年を眺めても、時の流れの「渦巻き」だけが目に入り、その底流や本質を押さえる事は出来ないでしょう。結局時代の物差しで言えば、人間の一生か精々前後世代の事を眺め、論ずるのであれば、そこから見えてくるものもありそうな気がします。

もう一つ、鳥の目には特徴があります。それは、自分自身が移動しながら地上を眺めているという点です。例えば、自分が止まろうとする木に近づきつつあるとき、木は単に一方向から確認するのではなく、飛びながら刻々と異なる角度から見ているので、木を立体的に把握でき、自分が止まるべき枝もしっかりと確認できる事になります。よく観察すると、鳥は一直線に木に向かうのではなく、止まる前に少し旋回してから最終的なアプローチに入ります。もし直線的に近づくのであれば、対象は近づくに従って、形は変わらず大きさだけ大きくなるだけで、自分と対象の距離感が取りにくい筈なのです。人間やサルこそ、同じ方向を向いた二つの目からの位相差で距離感を図る能力を持ち合わせていますが、鳥を含め多くの動物は、移動しながら変化する対象の変化からしか距離が計れない(と思う)のです。

時代の流れを眺める時、自分が例えばある企業の中からだけ観察しても、実は得られる情報は少ない筈です。しかし、自分の立場を変えながら(つまりは異なる位置からの視点で)同じ対象を見る事が出来れば、立体的な把握が出来ると思うのです。さて、今の日本をどの様な目で眺めれば良いのでしょうか。是非鳥に聞いてみたいものです。投稿者はといえば、取り敢えず50過ぎに企業を卒業して世の中を眺め、還暦を過ぎてからは居を中部地域から東北に移して、眺めているところです。

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2013年3月22日 (金)

2022 お上と領民

この国には、まだ「お上」といった封建社会の名残の意識が色濃く残っている様に感じます。その時代お上は、領民から年貢を取り立てました。領民としても決して納得していた訳ではないのでしょうが、農地はご先祖様から引き継いだ預かりものとも感じていましたし、それを力にモノを言わせて自分のものだと主張する領主さまには所詮かなわないので、仕方なく長いものに巻かれて年貢を献上し続ける事になってたのでしょう。

さて現代の年貢(税金)とお上(行政)は、領民(国民)にどう意識されているのでしょうか。多くの領民はきっと、この国の年貢は「高い」と感じているのでないかと想像しています。しかし、ヨーロッパには、所得の半分以上も税金として持って行かれる国々がある様ですが、どっこいそれらの国の国民は、必ずしもそれが高いとは感じていないとの調査もあるのです。何が、この国と彼の国々が違うのかですが、それは「お上(政府)」に対する信頼性の有無だけだと思うのです。高い税金を負担しても、教育が全て無料で、しかも老後の心配なども全く無いとすれば、しかもそれがお上に対する信頼性の上に成り立っているとすれば、高い税率も決して負担とは感じないでしょう。

一方、この国の領民は、元々お上を信頼していないので、世界的な相場から見てささやかな税率でさえも、高く感じてしまうのではないか、と想像できます。これはつまり、この国の領民はお上(政府)は自分たちが作って、自分たちが支えていると言う意識が非常に希薄である事がこの不信感の背景にある様なのです。確かに政治家は領民の選挙で選びますが、行政府とお役人は連綿としてそこにあり、政治家はいわばそれに担がれるお神輿的な存在であるとも言えるかもしれません。その「お神輿お上」への不信感(あるいは信頼度)は、くるくると入れ替わるリーダーと政局のドタバタに加え、震災や原発事故への対応と、それにも増して脱原発まで翻そうとする新リーダーの態度を見るに至って、いまや最高潮(あるいはどん底)に達しているのかも知れません。たぶん続きます。

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2013年3月21日 (木)

2021 原子炉自冷?

廃炉が決まっているFクシマの原子炉ですが、今回の様に停電の都度、肝心要の冷却システムが止まってしまっては、私たちの子孫も未来永劫原発が冷却停止による暴走への心配の種がなくなりません。その意味で、原子炉には「自冷」システムを開発して付けて貰いたいのです。メルトダウンした原子炉や燃料プールは放って置いてもドンドン熱を発生し続けます。この熱エネルギーを取り出して、自分自身の冷却水ポンプを動かすアイデアです。今ある技術でも、例えば「熱電素子」などを使って、熱を電力として取り出す事はそんなに難しい話ではありません。やがて原子炉や使用済み燃料棒が冷えてきて、核分裂から発生する熱量が小さくなれば、必要な冷却水量も減らせる訳ですから、パワーの低下は問題にはならないでしょう。

上手く設計すれば、原子炉や使用済み燃料も、外からのパワー供給無しに、長期間に亘って自律的に冷やす事も可能になる筈なのです。Fクシマの原子炉は、今や1ワットの電力も発電していないばかりか、外部から大きな電力を送り続けなければ、最低限の安全さえも確保できない、厄介な場所になってしまいました。その厄介を、次世代にそのまま負わせる訳にはいかないでしょう。電力をジャバジャバ使って便利な生活を享受してしまった。現世代の債務として、生きている間に有効な手を打っておかなくてはならない責務があるからです。

原発事故後にココロに固く抱いた筈の「原発ゼロ」の国民の決意は、喉元過ぎればすぐ熱さを忘れてしまうこの国の国民性故に、事実上反故にされそうになっています。「原発は20世紀の古い遺産技術」である、との明確な認識を再確認すべきでしょう。その遺産は、保存する価値があるものとは決して言えないでしょう。ならば、最も安全で、しかしあまりお金を掛けないで、徐々にですが深く静かに眠って貰うしかないわけです。核分裂の熱を冷まし続ける有効な自律的な手段が絶対に必要とされる所以です。

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2013年3月20日 (水)

2020 電力システムの弱点

元発(元の発電所?)で、停電が起こり、冷却システムが動かないと言う事故が時々起きている様です。さて歴史上に色々な発明家が出て、色々な曲折があったにせよ、今の電力万能時代を作り上げた立役者は、エジソンと彼の作った会社であるGEがあった事は疑いがありません。GEは、今や原発を含む電力関連設備(重電)のみならず、航空機エンジンや畑違いだった金融の世界でも、まさに「巨人企業」になりました。しかし何も、GEの歴史を振り返りたい訳ではないので、ここでは電力システムの弱点について考えてみようと思います。

電力システムの弱点は、実は電力の持つ特徴それ自身だと思うのです。電子は、導体の中をそれこそ光速に近い速度で走り回ります。しかし、その最大の欠点は慣性があまりにも小さいがために、特に重電においては制御が結構難しいのと、そのトラブルは瞬時に起こる(例えばショートサーキット事故)、更に言えばそのエネルギーの蓄積に有効な手段が見つかっていないと言う点だと思うのです。バッテリーが短絡すれば、瞬間的に焼損してしまいますし、停電が起こればモーターは瞬間的に停止し、ポンプは冷却水を送り出す事が出来なくなってしまう訳です。

つまり、全ての電力システムは、システム自体の中に殆どバッファーを持たない、瞬間瞬間のバランスで成り立つ「脆い」システムだと言うしかありません。スイッチさえ入れれば、何百キロ先の発電所から需要家まで瞬時に電力は届きますが、次の瞬間変電所に落雷があれば、大停電が生じてしまう危険性も同時に電力システムには抱合している訳です。先の元発事故は、まさにこの弱点が露呈した事故でもあった訳です。原発事故で露呈した、原子炉のシステムが、全て電力システムだけで作られていたと言う事実は、元技術屋としては殆ど信じられませんでした。何故、原子炉を冷却するポンプは数台の電動のモノしかなかったのか、何故原子炉自身が内部に持っている蒸気で駆動されるタービンポンプが無かったのか、何故ディーゼルエンジンで直に駆動されるポンプを準備して置かなかったのか…。バックアップの発電機があることが二重安全なのではなく、電動ではない異なる原理で動く二つのシステムがなければ、そう呼んではいけないわけです。これらの疑問への答えも無しに、やはり原発再稼働はすべきではないでしょう。

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2013年3月19日 (火)

2019 変曲点

更に続きです。例えば自動制御系においては、何らかの形で現状を数値化して把握し、それに対しての変化(外乱)を検知した上で、系を安定させるための制御量を決め、実際に系に働きかけて修正するための制御を行います。多くの単純な系では、出口で計測可能な状態量を検知し、設定値に対する変位を検知した上で、修正を加えるいわゆるフィードバックシステムにより系を安定化させます。

それは、系が安定する時間(時定数)によって、多少フラつき(オーバーシュート)が発生するものの、系は単純で分かり易い仕掛けだと言えるでしょう。ヒトにおいても、基本的にはこのシステムを採用はしていますが、機械や他の動物よりはやや高級な仕組みである、意志や予測と言った機能も活用しながら予め修正量を加減する術も心得ている点、それなりに進化したシステムだとは言えるでしょう。

しかし、如何に進化したシステムだとしても、外乱に予測不可能な変曲点(例えばスパイク信号)を含む場合、自動制御系は混乱を起こしてしまいます。これは、スポーツの動きで例えるならば「フェイント」に相当するでしょうか。つまり、上半身や顔は右に行くと見せかけて、足は逆方向に向かう様な、対応する側にとっての意外な動きを指します。この結果、スパイク変化を含む外乱に対しては、制御系は事態の把握ができず、間違った方向の修正や、あるいは過大な制御量を送ってしまう事にもつながります。これを回避する最も簡単な方法は、時定数を可能な限り長く設定する事でしょうか。つまり外乱が来てもいきなり反応するのではなく、事態の推移を把握するための十分な時間を置く訳です。人間の判断力に関わる行動で言えば、少し前に話題となった「鈍感力」がこれに当たるのかも知れません。結局、短い時間に生ずる外乱に右往左往するのではなく、より長い時間軸の中で眺めれば、外乱の幅自体は結構小さい場合も多いのです。その意味で、最近の政治家の外乱に反応する時間軸が、極端に短く感ずるのは、投稿者だけではないでしょう。何しろ、ここ数代の国のリーダーの平均在任期間がたったの1年間ほどしかない訳ですから。

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2013年3月18日 (月)

2018 セミリタイア2

一見危なっかしいセミリタイヤを別に積極的に勧める訳ではありませんが、精神的にメリットが大きい事は強調しておく必要がありそうです。最大の効果は、その「連続性」にあると言っておきます。人間の脳は、生存を脅かす外部の変化に対応するための情報判断・処理器官であると言えます。人間にとって最大の危機は多分生業を失う事だと言えるかもしれません。望まない失職(つまりはレイオフです)は、最も大きな危機になり得るでしょう。自分が望んだ訳ではない失職は、明日からの生活の不安と共に、自分が最早必要とされなくなったと言う無力感に同時に襲われるからです。

この両方のストレスに対処するのは、実は結構大変です。サラリーマンは、日々のルーチンワークは、能率よく処理する訓練が出来ていますから、最大限の能力を発揮できますが、予期しない大きな変化に対しては、かなり無力です。それは、かなり極端な例とは言えますが、あの原発事故後の混乱を報道などで知るだけでも十分過ぎるでしょう。サラリーマンにとっては、予期していたイベントはいえ、定年退職も失職同様に大きな変化ではある訳です。生活のリズムが完全に変りますし、準備をしていない変化は、実は体調にさえ大きな影響を与えます。仕事は、長年の訓練によって既に生き甲斐ともなっているので、それを失う事は健康にも悪影響を与えずにはおかないからです。

しかし、セミリタイヤは自分でその変化に対応するための準備が出来ますし、加えて変化の引き金は自分で引く訳ですから、ショックは非常に小さいのです。つまり、通常の定年退職の様にある日を境に、生活スタイルを180度変える必要はないのです。多分小さな変化をゆっくり積み重ねて心と体を追随させる事も出来るでしょう。これは、変化を曲線にたとえるなら、「変曲点」を回避する事に通じます。ヒトに限らず、(自動制御)システムで最も危険な事は変化そのものではなく「変曲点」の存在だと断言できるからです。それはつまり、脳やシステムは変曲点においては、一時的とはいえ完全にコントロールの手段を失ってしまうからだと言えます。更に続きます。

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2013年3月17日 (日)

2017 セミリタイア

投稿者の様なライフスタイルを「セミリタイヤ」と言うのだそうです。つまり、結構早めに勤め人を辞めて(投稿者の場合52歳)、少ない収入でボチボチ暮らしていく生活を選択する暮らし方を指す言葉です。そういえば、イギリス辺りでは別に珍しくない人生の様な気もします。かつて、会社人間だった若い頃、1年間英会話を習っていた先生(夫婦で来日)は、イギリスの田舎に買った中古の家のローンを払うため、二人で日本で英会話の教師をしていましたが、そのクラシックバイクレースに出たり、夫婦で国内の旅行も楽しんだりといったマイペースな暮らし方には、何となく憧れたものです。

セミリタイヤ生活の収入や、消費スタイルを「登山」に喩えると、登頂を目前にして、8合目くらいからサッサと下山を始める事に似ています。どうせ、山の頂上にはゴツゴツとした岩が並んでいるだけなので、そこに登ってみたとしても、良い景色が眺められるだけかも知れませんし…。増して、努めている企業が不景気風にでも吹かれた場合には、絶景どころかガスに巻かれて「五里霧中」にもなり兼ねません。

その点、然るべき準備期間を設けて、食うには困らない仕掛け(例えば、借金を整理し、自分で年金をセットするなど)さえしておいて、少しだけ収入のある仕事さえ見つかれば、結構ゆとりのある暮らしも実現できるでしょう。その際の仕事は、時間の自由が利き、かつ自分の好きな中身であれば、殆ど天国の様な暮らしが出来そうな気がします。投稿者の場合、セミリタイヤ後の仕事を環境屋に定め、還暦後は「再エネ屋」になったつもりですので、ほぼ会社を辞する時に思い描いた人生を送っていると思っています。そう「思える」だけでも、結構幸せな人生なのでしょう。

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2013年3月16日 (土)

2016 カスタマイズ

大量生産、大量消費システムにおいて、最も苦手とするのはたぶん「カスタマイズ」でしょうか。個々の顧客が求める多様なニーズに応えるために、大手のメーカーほど製品のレパートリーを広げ、幅広いチョイスを提供している筈です。しかし、それらのチョイスも、選択できるのは精々サイズと製品の色程度でしょう。もし、顧客の求めに応じて、形(デザイン)や機能の中身まで変えようとすれば、それこそ生産ラインの担当者や在庫の管理者は発狂してしまうからです。それを防止する手段もあります。限界はありますが、車メーカーで行っている、JIT生産による混流生産もその一例でしょう。

もう一つ有効な手段としては、ベース製品とオプション部品によるカスタマイズ法が挙げられそうです。しかも、オプションの着脱を容易にして、販売店や望ましくは顧客に任せてしまうのです。能力を変える部品や外装デザインや色を変えられるオプションを多種類準備しておけば、世界でたった1台の製品に仕立て上げる事も出来るでしょうし、修理や生活スタイルの変更に伴って模様替えをすることも容易になります。

しかし、大量生産、大量消費システムでは結局は「押し込み生産」になってしまう事が最大の問題だと言えます。例えば、昔のテイラーメイド(注文)生産においては、素材を含めて在庫などと言うものは殆ど必要無かった筈です。顧客の要望を詳しく聞き、必要な寸法を採取し、高額なものであれば前金をいただいて、製造に必要な材料を発注し、1か月かそこらでじっくりと作れば良かったからです。贅沢に慣れた顧客は、メーカーの都合なんかは一瞬たりとも考えたりはしません。店頭に展示されている製品かカタログを眺め、「遅くも1週間以内」には手に入れたいと店員にムズカルでしょう。しかし、そうやって手に入れた製品や商品は、ありふれた大量生産品なので、すぐに飽きてやがてはゴミになってしまう運命にあります。しかし、細かく好みを伝え、数か月待って手に入れた「自分用にカスタマイズ」された製品には、非常に強い愛着が湧くはずなのです。もしそれが故障しても、修理してまで使い続けたいと思うでしょう。つまり、それは単純な性能への評価ではない、製品が持つクオリアに対しての愛着だからです。顧客の細かく深いニーズに寄り添わずして、製造業の復活は無い、と断言しておきます。3Dプリンターが注目される所以です。

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2013年3月15日 (金)

2015 メタハイ頼り?

愛知沖のメタンハイドレート層から、ガス化したメタンハイドレートガス(以下メタハイ)を取り出す事に成功したとか。この地域だけでも、この国の使用量の10年以上分に相当する埋蔵量があるとの報道も。しかし、これでこの国のエネルギー問題が軽減されるなどと考えるのは早計というよりぬか喜びと言うしかありません。何より、メタンガスは最強の温暖化効果ガス(GHG)でもある事を忘れてならないでしょうし、せっかくそれが海底深くに眠っているものを安易に揺り起こしてはならないでしょう。それは、大気中に放出された時の影響を考える時、核物質か出る放射能ほど激しくは無くても、この星の気象には甚大な影響を与えずには置かないからです。環境に殆ど漏らさずに、上手く回収できる技術が出来たとしても、何の気休めにもなりません。もちろん、その燃焼から出るCO2も、更なる温暖化を加速するでしょう。その燃焼によるCHG効果は、石油を燃やすよりは「ややマシ」と言った程度だからです。

そうではなくて、石油や天然ガスが「まだ」ある内に、私たちは今太陽光から出ているエネルギー(つまりはPVや風力や太陽熱です)、あるいは数年・数十年と言う時間軸で、その時代の世代がコントロール可能な水力やバイオマスなどで、エネルギーの殆どを賄わなければならないのです。化石時代に近くに蓄えられたエネルギーを掘り出す事は、そろそろ切り上げなければなりません。増してや、原発の再稼働などは大停電が予想される様な「非常事態」に限るべきでしょう。既存の原発や火力発電所は、電力会社やこの国の財政が、何とか回っている内に、再エネ発電所に作り替えるべきでしょう。何度も書きますが、いま原発に溜まっている使用済み燃料の搬出先など、この国の中には何処にも無いからです。

そんなにメタンガスが欲しかったら、農業残渣や下水汚泥や生ごみや廃棄食糧及び家畜し尿などから発生させれば良いでしょう。詳しく試算したことはありませんが、多分この国のメタンガスの消費量の数%程度を発生させる事は十分可能だ思うのです。これらは、放って置けば微生物や発酵菌によって分解されて、無為にメタンガスを大気中に飛散させていますのです。それを、人工的に加速させ、補足して活用すれば、二重の意味で温暖化を防止できるのです。エネルギー資源は、海底から掘り起こすのではなく、地上の有機廃棄物の活用こそ最優先させるべきなのです。その方が、技術的にも容易で(つまりは中小企業でも取り組めて)、投資が小さいため経済的にも有利であり、加えて雇用機会を増やすと言う点でも、大きく社会に貢献できるでしょう。

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2013年3月14日 (木)

2014 インフラ検査業

「国土の強靭化予算」云々とか言って、取り敢えずお金だけ積み上げた補正予算や新年度予算が歩き始めています。しかし、それに必要な地元でしか作れない「生もの」でもある生コンプラントも無しに、しかも設備や人を減らしてしまった建設業界のマンパワーの裏付けも無しに、真っ当に強靭化が進むととはとても思えません。必要な事は、先ずはインフラ自体の老朽化についての正確な診断の筈なのです。コンクリート構造物のコンクリート自体や鉄筋の健全度、鉄骨構造インフラの腐食進行度、建物全体の耐震強度などを、先ずは非破壊で可能な限り正確に診断する技術の研鑽が必要なのです。

コンクリートであれば、超音波トモグラフィーや打音エコーによる内部の健全性診断、あるいは磁力線による鉄筋の診断、熱画像による水分浸透やクラックの診断などが考えられます。鉄骨構造で言えば超音波による部材残肉厚の評価など、建物で言えば加振による動的強度の診断などが考えられるでしょう。これらの診断技術を磨いて、一つの産業に育て上げれば、インフラの予防的診断やその補修も効率的に行うことが出来、ひいては税金の無駄使いも防ぐ事が出来るのです。

各種の非破壊診断技術の多くはは、実は既存技術の組み合わせで高度化する事が出来ます。例えば、超音波トモグラフィーは既にある超音波探傷の探触子を多数並べ、その反射波をコンピュータで可視化するものですが、もっと高度のものはかなり以前からPETMRIなどとして、人体の検診には多用されている訳です。問題は、それらの診断機器を携えて、如何に診断する対象物にアプローチするか、と言う基本的な課題だけなのです。つまり橋の裏側や、ダムやビルの高所、あるいは地下の基礎部分に、どうやってアクセスするかと言う単純ですが難しい課題を指します。高所に関しては、スパイダーマンの様に壁に張りつく高所ロボットや係留気球や長い腕とカメラを持つロボットアームの様なマニピュレータスタイルが有望でしょう。多分続きます。

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2013年3月13日 (水)

2013 逆U字曲線

ここでは、多くの(多分全ての)現象において一貫した右肩上がりの変化はあり得ないと言う原則について考えます。全ての変化は、良くて一定のレベルに収束する筈ですし、下手をすればピークを打った後には下降に転ずる事になります。前者の例ですが、人間の手技の習得や学習能力のレベルは頭打ちを示す、いわゆるラーニングカーブ(飽和曲線)として知られています。一方、後者に関しては、例えば石油や鉱物資源の産出量がその例として挙げられます。また、これまで地球上に存在して多くの文明の盛衰もその例でしょう。

さて、経済に関してはどうでしょうか。思い当る史実として、かつてドーバー海峡を挟む二つの大国、あるいはSペイン、Hランダなどが、世界規模で「力の経済活動」を展開し、栄華を極めた時代があった事が挙げられます。即ちアジアやアフリカに植民地を作り、そこから産出する資源や利益を根こそぎ自国に持ち帰って、自らの繁栄だけを謳歌した訳です。その名残は、未だアジアや特にアフリカには色濃く残っているにしても、それらの国の経済規模も、結果としてはある時点をピークに逆U字を描いて、今の規模に収束してきたはずです。一国の経済規模は、結局はその国自身が持つ資源と人口の推移によって制限を受けざるを得ないのです。資源産出に関しては、間違いなく埋蔵量には限界がありますので、間違いなく逆U字を描く事は自明です。

さて、あまり考えたくはないのですが、人口に関してはどの様な原理に支配されるのでしょうか。直接的には、生き物としてのヒトを考える場合、制限要素は間違いなく食糧になるでしょう。しかし、先進国では経済的豊かさと教育水準の進展と共に、自発的に人口に頭打ち現象が現れ、一方隣のC国においては、国策として人口抑制に突き進んだのでした。しかし、全体として地球上の総人口には未だ明確な歯止めが掛かっていない様に見えます。しかし、好むと好まざるとに関わらず、農業生産高が化学肥料や人工合成された農薬や石油で動く農業機械に依存している限りにおいては、近い将来に人口増加にもブレーキが掛かるとしか思えません。つまり、この「現象曲線」には誰も抗う事が出来ないと言うしか無さそうです。

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2013年3月12日 (火)

2012 還元主義

還元主義が蔓延し過ぎている様な気がしてなりません。還元主義とは、物事を要素に分解して、単純化した上で、解を得ようとする考え方です。植物が合成する複雑な物質も、還元すればCHOで表される炭水化物には違いありません。しかし、この考え方ではそれらが、セルロースやヘミセルロースやリグニンなどから成り、しかもそれぞれの化合物の分子量や構造や含まれる微量原子の働きなど、植物がそれを合成した必然性というか「本質」に目をつぶってしまうことにもなり兼ねません。

その愚を回避するには、多分ひたすら対象をそのままの姿で「観察」するしかないと思うのです。ファーブルが飽きもせず昆虫の「生態」を観察し、あるいはY老孟司がひたすら遺体を解剖しつつ脳の本質を知ろうとした様に、また南方熊楠がひたすら植物を採集して分類し続けた様に、対象をあるがままの姿で観察する事からしか、そのモノがその様な形になった必然性に思い至る事は出来ないと思うのです。2年前の地震で崩落した量販店の駐車場スロープ事故も、結局は部分部分の(還元的)強度は満足していたかも知れませんが、全体として眺めれば構造に不連続な部分があり、地震の揺れでそこに集中的な力が掛かった結果だとも言えるのです。全体設計図を机上に置いて、引いた目で眺めれば真っ当な技術屋であればそれに気づいたと思うのです。

さて、現代の社会を眺める時、あまりにもひどいマネー還元主義に絶望感さえ持たざるを得ません。マネー(お金)は、価値取引の手段に過ぎないのに、価値を裏付けるモノの量以上にお金を印刷し、債権を発行し続けた結果、私たちは自分たちが作り出した仕組み(経済)を制御する事すらできなくなってしまったと思うのです。私たちは、少し視点を引いて、今の社会の仕組みとそこに渦巻く問題を観察してみなければならないのでしょう。問題点さえしっかり把握できれば、その問題を解決するためのビジネスには追い風が期待できるでしょうから、持続可能な形でビジネスを展開する事も可能となる筈です。これが、取りも直さず1932の回で述べたCSVビジネスと言うことになります。

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2013年3月11日 (月)

2011 バイオ燃料

バイオ燃料とは、生物が主に太陽光と水と空気(Co2)を原料に作り出した(固定した)有機物を、燃料として利用するものだと言えます。皮肉な言い方ですが、石油や石炭も太古の昔に生物が固定したバイオマスが化石化したものである以上、広い意味では「化石バイオマス燃料」とも言えるかも知れません。しかし、勿論ここでは使えば無くなる資源である以上、除外しておきましょう。さて、再生できる範囲内で使っても新たに補充されるバイオ燃料を考えてみます。

資源として大きな部分を占めるのは、木材である事は疑いがありません。何故なら、広大な面積を占めている上、北の国でも南でも普遍的に手に入る資源の一つだからです。しかし、残念ながらそれを補充するには人々にしっかりとした労働(植林や森林の手入れ)を要求します。先人はそれを営々と続けてきたのですが、残念ながら近年焼畑農業や過剰な商業的伐採により、急激に減少してきたのがその持続可能性に水を差します。

もう一つの有望な分野が、ケナフや竹などの成長の速い「非木材植物」あるいは、藻などの水中生物の活用だと言えるでしょう。その利用方法としては大きく二つあります。一つは、乾燥させて固形化するいわゆるペレット燃料です。これは、技術的にも比較的単純で、この国では木材ペレットは既に実用化されており「普及段階」だと言っても良いでしょうから、原料を集める仕掛けを整備した上で、この流れをを推進するだけで済みます。

まだ道のりが長そうなのが、植物から得られる液体バイオ燃料の分野です。最も実用化が近いのが、菜種油から得られるバイオ燃料(バイオディーゼル油ですが、DMEなどのガソリン代替燃料を得るには、化学プラントが必要であり、実用化までには相当な時間が掛かると見ています。何よりの障害は、プラントの投資額の大きさと、原料となるバイオマスの集積だと見ています。バイオマスは、薄く広く分布する資源の代表だからです。続きます。

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2013年3月10日 (日)

2010 ベット・ヘッジング

本で新しい言葉を知りました。ベット・ヘッジング(Bet hedging)とは、つまりは両賭けと言うことでしょうか。金融の世界などで使われるリスク・ヘッジングと言う言葉と似ていますが、ややニュアンスは異なる様な気がします。つまり、後者は最悪の事態を避けるために、保険を掛ける状態に近いのでしょうが、前者は、何というかもう少し、前向きの感じがするのです。実は同じように使われる言葉かも知れません。投稿者だけの受け取り方かも分かりませんが、ここでは次のように分けて考えてみたいのです。

例えば、電力需給と言う状況を考えた場合、リスク・ヘッジングの考え方では、電力事情がひっ迫した場合のリスクを考えて、バックアップの発電設備を準備しておくか、あるいは発電能力に余裕を持たせるなどの手段が相当するでしょう。一方、ベット・ヘッジングの考え方では、国や電力会社は原発を建設する政策を進める一方で、同時に再生可能エネルギーにも応分の投資をすると言う状況を想定してみます。両者が決定的に異なるのは、リスク・ヘッジングが比較的近い将来のリスクを視野に入れているのに比べ、ベット・ヘッジングでは長い目で見た安定を考えている点だと言っておきましょう。

違う例を挙げれば、金融の世界で為替リスクを回避するためには、投資家はリスクが高いがリターンも大きい通貨を買う一方、逆の値動きをする別の通貨の予約もしておくでしょう。リスク・ヘッジングの考え方では、例えば株の投資をするのと同時並行で、例えば新たな産業を生み出すための投資ファンドにもお金を預ける行動に相当するでしょう。つまりこの二つの投資は、リターンの時間軸が相当に違うと言えるのです。二股をかける事には違いがありませんが、将来の事、または社会へのより良い結果をもたらす行動を意識してかける二股は、より好ましい方向だと言えるからです。

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2013年3月 9日 (土)

2009 内需の取り込み

景気の動向が注目を集めています。金融政策だけで、それが簡単に浮揚するとはとても思えませんが、しかしAベノミクスの狙いは、景気浮揚で税収も上げ様とするものであることは明らかです。どうすればそうなるかですが、先ずは円安による輸出競争力の回復シナリオが頭に浮かびます。その結果として内需も拡大し、成長軌道にも乗れる、と一応主張しています。しかし、考えてみなければならないのは、少子高齢化+人口減少の結果すでに内需は飽和していると言う現実です。

最も簡単で安全な景気回復への処方箋は、実は「内需の取り込み」であると思うのです。この国は、殆どのエネルギー資源および地下資源と、半分以上の食糧を輸入し、それで製品を作り、衣食住の内需を満たしています。しかし、例えば20兆円余りのエネルギー輸入、例えば5兆円を超える食糧輸入の一部を、国産に振り切り替えるだけで、国内に数兆円規模の市場が広がる事になります。その輸入に費やしていた外貨も減らせますから、それほどシャカリキになって輸出産業をネジ巻きする事も必要なくなります。再生可能エネルギーの拡大は国内産業を直接的にドライブするでしょうし、耕作放棄地の復活も同様です。

その意味で電力会社は、原発に使っているお金の半分を、再生可能エネルギーの拡大に振り向けるべきでしょう。古い原発を動かさなければ、設備のメンテナンス費用も核廃棄物の処理費も、地元に対する補償金も、バッサリ半分に減らしても問題は出ないでしょう。替わりに、原発施設内にメガソーラを設置し、港湾側には洋上風力発電を設置するのです。そこに新たな雇用も生まれる筈です。

一方で、耕作放棄地は一般の新規就農者や企業に開放し、地場の農作物を増やせば良いでしょう。いったい誰が、中国産の葉物野菜やメキシコ産の野菜や果物を積極的に食べたいと思うでしょうか。誰もが、旬で国産の作物を口にしたいと望んでいる筈です。生産者の顔が見える作物が最も安全で、信頼できかつ美味しいものである事は疑いがありません。

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2013年3月 8日 (金)

2008 効力感

続きです。2007で述べた居場所の心地よさを保証するのが「効力感」であると信じています。効力感とは、自分が何かを働きかけた結果、何らかのプラスの結果を産み出し、誰かの役に立ったと言う実感の事です。効力感の物差しは、多分人によって目盛はかなり異なっている事でしょう。しかし、誰にせよ自分が働きかけた結果、何かが前に進めばそれなりの効力感は得る事が出来るでしょう。逆に、自分の働きかけがマイナスに作用した場合に、それが何度が続く様であれば人は「無力感」に襲われるでしょう。その意味で、効力感の反対語としては無力感が定義できそうです。

さて、どうしたら効果的に効力感を得る事が出来るかを考えてみます。それは、取り敢えずは日々の小さな目標を立てて、それを毎日クリアしていく様な「地道な行い」を積み重ねて、しかも時々それを振り返る事に尽きると思うのです。例えば、このブログです。毎日毎日1000字を少し超える程度の文章を書くのは、確かに骨が折れます。疲れて眠たい日も、風邪気味の日も、パソコンの前に座る事が出来る限り、2006年の夏から殆ど毎日書き続けてきましたが、それは自分がちょっと気の利いた内容の文章を書けた時の、小さな満足感に導かれての事だった様に振り返っています。もちろん大概は駄文ですが…。

それにしても、この効力感と言う言葉やその感覚はもっともっと重視しないといけないとも思うのです。実のところこの感覚こそが、何ものにも優越するヒトの生きる原動力だと思うからです。無力感に苛まれたどれほど多くのヒトが、生きる希望を失ってしまったかを思い出せば、それは納得できる筈です。巷の多くの人々は目立ちませんが、どれほど多くの作家や俳優たちが、人生のある時期に襲われた無力感故に、惜しまれながらお隠れになった事でしょう。しかし、一方では、イジメや体罰など弱い他者への攻撃も実は「疑似効力感」を与える場合があることには注意すべきでしょう。その勘違いだけは絶対に避けなければなりません。

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2013年3月 7日 (木)

2007 居場所

生き物としてのヒトの生き方(=目的)を考える時、それは結局一生を通じて、より快適な居場所の追求し続けることと言えるのかもしれません。つまり、自分の属するコミュニティの中に適当な居場所の確保する、と言うことになります。自分の日々の生活と直接関係の無い他のコミュニティは、確かにテレビや雑誌やネットなどを通じて、それなりに認識はする事はあるのでしょうが、結局は存在しない事とそんなに変わらないでしょう。

この国を眺めれば、お年寄りや若者にとって、最近ではその居場所がますます少なくなってきている事は否めません。それは2005にも書いた様に、お金にならない事は(やる)価値が無い、との風潮の蔓延に根っこがありそうな気もします。お金にならない事をしていても、何とかオマンマにありつけて、やっている事に生き甲斐ややり甲斐を見出す事ができる世の中は、一体実現できないのでしょうか。行きたい人のほぼ全員が大学に進学し、そこを卒業してみたものの「やりたい事」がないまま、無為に時間を潰す若者の何と多い事でしょう。一方、まだまだ働けるのに、定年制により無理やり企業を卒業させられて、毎日が日曜日になってしまった世代の人口の何と多い事でしょう。

しかし考えてみれば居場所があって、何とか食べていける地域社会の形は、僅か50年前ほど遡れば、全国至る所に存在したはずです。若者は、中学を卒業すれば、それなりの作業があてがわれて、親元から離れても暮らせましたし、お年寄りは生業が農家であれば荷車を押して市場にその朝に採れた農産物を運んで行っていくばくかの小遣いを稼ぐ事が出来ました。冬の農閑期には、種々の手内職や工芸品を作った事でしょう。街には、自分が子供時代に住んでいた町内を思い出しても、多くの職業、カバン屋さんやブリキ屋や鋳掛屋、あるいは石屋、畳屋、豆腐屋などなど、それぞれに生業(=生きるための居場所を確保するための仕事の事です)をこなしながら、地域コミュニティを形成していました。秋には、町内総出で近くの入会林に冬場に焚く薪を切り出しに出かけました。そこでには、子供にも若者にもお年寄りにも確かに居場所があったと思い返しています。多分続きます。

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2013年3月 6日 (水)

2006 スピードと広さ

つらつら眺めてみると、このブログもある時期を境に、「環境ブログ」から「随筆ブログ」に変化してきたような感じもします。でも、たかがブログですので…。

それはさておき、ある時スピードと距離(広さ)の関係に気が付きました。何がきっかけかは忘れましたが、多分かつて自分が勤務していた、だだっ広い工場の端の建物で開かれる会議に出るため、30分も掛けて急ぎながら歩いていた時かも知れません。自転車で行けば10分も掛からないのに、歩くと30分はかかる。地球を1周するのに80日間も掛かっていた時代もあったのに、いまや旅客機を乗り継げば2日もあれば十分です。つまりこれは、移動スピードが速くなった分だけ、地球が(相対的に)狭くなったと言うことを意味しします。

さて、この事を文明の進歩のスピードに置き換えたらどうなるでしょうか。20世紀の、特に後半の50年は、目覚ましく科学技術が進歩し、経済規模も信じられないスピードで拡大してきました。それらの現象多くは、既に人間の意志を超えて、さながら意志を持っているかの様に荒々しく暴れ回っている様にも見えます。科学技術は、戦争や紛争と結びついて毒ガスや地雷や核ミサイルなどと言う物騒なものを生み出し、一方で経済と言うモンスターは、一国の事情など踏み潰してしまう位の金融パワーを武器に闊歩しています。

この間加速してきたエンドレスの工業化は、多くの資源の可採年数を極端に縮めてもきました。つまり、科学技術≒経済規模の拡大は、同じスピードでこの文明の寿命を縮めて来たのだと考える事も出来そうです。宇宙的な物差しで眺めれば、ヒトが作った今の文明は、多分一瞬の輝きにも見えるのでしょうが、その輝きが強い程、輝きの持続時間は短い様に見える筈です。その花火の火薬の量が有限だとしたら、(宇宙創造の神様からは)線香花火では飽き足らなくなったヒトが、その残った火薬を筒(と言う科学技術や経済の仕組み)に無理やり詰め込んで、空高く打ち上げ様としている、様に見えるかも知れません。移動する時間や、発展のスピードを上げようとして、実は私たちはこの文明の寿命を縮め続けている様なのです。いまこの時代は、花火の最後の一瞬の煌めきなのでしょうか。投稿者は線香花火が好きです。

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2013年3月 5日 (火)

2005 お金だけのつながり

これは、特にバブル時代と呼ばれた時期以降、この国で顕著になってきた傾向だと言えそうです。つまり、この時期以降、それ以前に比べて物事を「お金で割り切る」場面が急激に増えたと振り返っています。高度成長を経て、例えば工業製品はもちろん、季節外れの食材や輸入食材、さらに言えば電力や石油などのエネルギーも、お金さえ出せば潤沢に手に入れられる時代になった訳です。

電力に関して言えば、発電すればそれだけ売れる時代になったため、各電力会社は札束で地元を宥めながら原発を大量生産したのでした。しかし電力に限らず、現代は供給側と消費者側は「お金だけ」で繋がっています。消費者が発電に関わっている訳ではないでしょうし、通常は製品を作る事に参加する事はないでしょう。お金を支払わなければ、間もなく電力は切られるでしょうし、お金が無ければ製品や商品も買えません。多くの消費者にとって、食糧の一部や飲み水でさえ、自分の力で調達することはできません。

つまり、今の世の中は、右を見ても、左を見てもお金だけのつながりだけしか目に入らない時代になってしまったのです。投稿者の子供時代までは、しかし事情は違っていました。家は商売を営んでいましたが、小さいながら畑を持っており、秋になるとリヤカーを引いて近くの入会林から薪を切りだしました。商売の客は、お金の代わりにコメや果物などの農産物を置いていく事も結構ありふれた事の様でした。季節になると、おやつは毎日の様に、イチゴだったり、ブドウだったり、梨だったりの日が続く事になります。つまり、人と人はモノで繋がっている割合が大きかったので、お金なんかはそんなに気にしなくても暮らしが成り立っていた時代だったとも言えるのです。

ここでの投稿者の提案としては、もっと「モノのつながり」を増やしませんか、と言うものです。そのためには、物々交換や労働力で支払う仕組みや、あるいは代価を求めない親切心の交換などと言った、お金以外の価値交換を少しずつでも増やしていく必要があると思うのです。

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2013年3月 4日 (月)

2004 真の豊かさ

このテーマについてもしばしば考えます。例えば食べ物です。全国チェーンのスーパーであれば、田舎の店舗にさえ季節外れの果物や野菜など食材が並びます。もちろん地場の野菜や生鮮食品なども並びますが、それは生鮮食品は水気も多いので、長い距離をトラックなどで輸送するのはコストの面で得策ではからと言う理由からです。

ところで、雪国で冬の間は野菜や果物などの生鮮食品は手に入らないと言うのは誤解です。野菜は雪の下に「氷温保存」が可能だからです。雪国でも、雪の積もらない形状に作られた温室があり、イチゴが栽培されていたりもするのです。意外な点は、実は氷温保存された野菜は、旨味が増して味が濃くて美味しと言う事実です。一方で、石油で人工的に温められた温室のイチゴが美味しい筈もありません。その味の違いは、昔ながらの知恵が上手く使われているいるかどうかにあります。先祖代々地元に住み、気候を熟知している人達は、野菜を植え付ける時期を絶妙に調整し、根雪になる時期を挟んで収穫する事により、畑に残った(残した)野菜を、冬の間中出荷する事が出来ると言う訳です。問題は、実は畑の雪を掘り返して「雪野菜」を収穫する人手が無いことなのです。毎日の散歩コース沿いにも、多くの畑がありますが、その殆どが冬の間掘り返された形跡がないのです。それもそのはずで、それらの多くは老夫婦が作付を行っている畑だからで、広い畑でも多くは雑草が生えたままになっている面積も多いのです。そうでなくても、この冬の様に多雪のシーズンの場合、殆どの農家が除雪しての収穫は諦めた可能性があるのです。

安いが、化学肥料や農薬を多く使った野菜より、地場の野菜が美味しいに決まっていますが、それを支える人たちが急速に高齢化して、数も減っている事にはその「ささやかな幸せ」も享受することが年々難しくなってきています。やはり私たちは、ここでぐっと踏みとどまって「真の豊かさ」とは何かを真面目に考えて、方向転換を試みなければならない時期だと思うのです。

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2013年3月 3日 (日)

2003 ビッグサイト雑感

28日に東京ビッグサイトで開催中の、風力発電、太陽光発電(PV)、二次電池、燃料電池(FCV)の四つの展示会を駆け足で見た雑感。

1)風力発電:相場は1kw当たり100万円。つまり1000kwクラスでは1億円が相場。風況が悪いこの国では、稼働率も10%を超える程度。これをビジネスにするためには、太陽光発電並みに単価を50万円程度まで引き下げるメーカー側の努力が不可欠。小型風車は、雨後の竹の子状態で参入が目白押し。勝負は構造アイデアと、コストダウンアイデアだけ。導入を考える場合、風況・気象調査はしっかり行うべき。カミナリに弱い風車については耐・避雷にも注意。

2)PV:海外からのメーカーが津波の様に押し寄せていた。特に中国、韓国、ヨーロッパ勢。展示会場の約半分はPVの架台メーカー。メガソーラーや10kw越えの小規模PV発電所を当て込んで、中小企業も参入した結果。シャープが、色素増感タイプで11%を超える効率を達成していた事に注目した。

3)二次電池:リチウムイオン電池のオンパレード。B787ではないが、発熱・発火対策はどうなっているか、詳しく振れたブースは見当たらない。いずれにしても、自然エネルギー(力)で発電し、それを電池に貯めて、何時でも使える様にするなどと利便性だけを追求するのは「変換ロス」の累積を生むだけ。二次電池の利用は、緊急用・バックアップ用など必要最小限に留めるべきかも。

4)FCV:FCVを実装した市販車の展示が目玉。しかし、何から水素を得るのか、目新しい提案は殆ど見当たらない。天然ガスや石油から水素を取り出すのであれば、水素ステーションから多量のCO2が出る事になる。何のためのバカ高いFCVか、目的と手段の見直しが必要。技術者は競走馬に似て視野が狭くなりがち。FCVの実用化が最終目的ではなく、脱化石燃料(温暖化防止)が目的なのだから。

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