« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2013年7月31日 (水)

2147 人と向き合い過ぎ2

一方大人の世界でも、パワハラやらセクハラやら、あるいは過酷な業務や上限関係などからのプレッシャーによるウツ傾向などで、正常に仕事を続けられないケースも増えている様です。これも、根は子供のイジメやイジメラレとあまり変わらない様な気がします。完全に人工的な都会空間に住んで、これも完全に人工的な仕組みである企業に、100%完全な人工の交通手段である電車やバスや車で通勤して、ヒトの精神衛生に良いはずがありません。つまり、人工物や人との過度な接触は、間違いなく人にとってのストレスにつながる思うのです。

せめて、通勤を自転車にして暑さ寒さや雨風を体感し、休日には近くの河原に出かけて、少なくとも「水切り遊び」や水辺の生き物の観察や、出来ればカヌーなどを使って体で「遊ぶ」べきでしょう。これらの遊びは、人工的なモノから離れるほど精神を解放するでしょうから、投稿者が絶対的におススメする登山などは絶好の自然と向き合う遊びの一つとなる筈です。少し過酷な登山を終えて、膝ガクガク、ヘトヘトになって下山しても、最寄りの温泉で汗を流せば、もはや心には、ストレスの「ス」の字も残っていない筈です。

つまりは、人工と自然(あるいはジネン)の間を往ったり来たりを繰り返して、精神のバランスを取る事こそが、現代社会を生き抜く知恵だと言い切っておきます。その極端な例が、お隣のY県で盛んな山伏修行でしょうか。数日の修行で、どうやら人は生まれ変われる様なのです。それは大げさでも、間違いなく一皮剥けて、脱皮は出来るかもしれません。その意味で、日常的に自然に囲まれた環境で、農林漁業などに勤しんでいる人たちには、人工環境からのストレスなど、かけらも無いのでないかと想像しています。もちろん、まれに自然は牙を見せる事もあり、時には自ら与えた恵みを取り上げる事もあるのでしょうが、それは「自然の成り行き」ではあって、「諦め」と言う名の受け入れが可能でしょうし、ストレスとはならないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月30日 (火)

2146 人と向き合い過ぎ

2145の続きです。これも、自然からの乖離の悪影響の一つかも知れないのですが、いわゆる「イジメ」の多発する遠因として、今の時代あまりに人と人が密に向き合い過ぎる事があると、M崎駿だったかY老孟司だったかその対談だったかで言っているのを思い出しました。そういえば、投稿者の子供時代は、日が暮れるまで田畑や川や裏山で遊ぶのが仕事だったので、日々変わる自然に向き合うのに忙しく、イジメなんかを「考えている暇が無かった」様に振り返っています。一方、大人も空き地があれば野菜を育て、秋になると町内総出で、近くの里山(財産区と呼んでいた入会林)に入って、冬場にストーブで燃やす薪の採取作業に勤しみました。つまり当時は子供も大人も、暮らしの中で自然に向き合う事(向き合わざるを得ない事)の割合がかなり多かったのでした。

しかし、人の興味が周りの人「だけ」に集中すると、つい自分との僅かな違いや考え方の違いに注意が向かい、その違いを理由に仲間外れを繰り返す事にもなるのでしょう。それがエスカレートすると身体的な違いでイジメたり、興味の違いでイジメたりと、たぶん時には攻守を変えて限りなくイジメの連鎖が続く事になるのでしょう。

この向き合い過ぎは、例えば政治の季節での政党や候補者への向き合い方や、あるいは不景気の時の経済やお金への向き合い方でも観察されるのです。人間は、企業に所属し、可能な限り高いサラリーを受け取って、安定的な生活を送る事だけが目的で生きている訳では決してなく、過不足なく食糧が手に入り、取り敢えず住むところがあれば、結構余裕をもって人生をエンジョイできる筈なのです。毎日同じ散歩コースを歩いてさえ、土手に生えている雑草たちにも変化が観察されます。イジメの対策は、例えば小さい内に芽を摘むなどの後ろ向きの対策ではなくなりません。

そうではなくて、子供の興味を自然に向けさせることだと言っておきます。取り敢えずは、学校の周りを草ボウボウにして、たくさんの昆虫を育み、水たまりを作っては、サカナやアメンボウを飼い、晴れた日には教室に残ってはいけない決まりを作って、校庭を走り回らせる様にすべきでしょう。一方、体が弱い子には、詩や俳句や短歌を作る事を奨励し、モノづくりが好きな子には工作室を開放すべきでしょう。教室の中で、人だけと向き合う割合を減らせば、間違いなくイジメ行動は劇的に減るでしょう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年7月29日 (月)

2145 曲線と直線

子供の頃は結構平気だった様な気がしますが、最近ヘビを見ると小さいものでもゾッとします。確かに技術屋として暮らした長い年月の間、日常目にするモノはといえば殆ど直線で構成された機械類や部品であり、その中に円や楕円などの幾何学的な曲線が混じっているだけでした。日常目にする事の多かった船の船体でも飛行機の機体でも車などでも、曲線(面)では構成されてはいますが、しかしいわゆる「自由曲線(面)」を見る事はついぞ無かったのでした。それらの機械の外側を作っている金属板の曲線(面)は、実は流線形という「人工的な曲線(面)」だったからです。

しかし、ヘビの胴体は単純な円筒形が緩やかに変化したものなのですが、その動きは完全に自由曲線(スプライン)なのです。どうやら、それを見慣れていない者にとっては、自由曲線に強い違和感を感じてしまう様なのです。それは、道路に落ちている自由曲線のロープを見ても同じ様な反応(つまりは、近づくまではどうしてもそれが死んだヘビに見えてしまう)を起こすことからも間違いないでしょう。

これは、たぶん殆ど全ての都市に住む人たちに共通の反応だと想像しています。直線だらけの都市空間には、田舎にあるワインディングロードはほぼ除外されています。例外的に、公園の中の小道にその痕跡が見られるくらいでしょう。それだけ、私たちは「自然」から遠ざかった人工空間での生活に完全に順応してしまったのだと感じています。そして、それが私たちの精神にも多分、丹らかの形で陰を落としている事も間違いないでしょう。実は、いくつか思い当る事もあるので、次稿に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月28日 (日)

2144 トンボの避暑

先日、山形・新潟県境の大朝日連峰と飯豊連峰に続けて登った時の話です。2000m級のこれらの山々には、この季節多くの花々が咲き乱れていますが、それは同時に数多くの昆虫を養ってもくれる植物群でもあります。その昆虫の中で圧倒的に多かったのは、実はアブでもハチでも蝶でもなく、トンボだったのです。尾根を歩けばトンボが顔に当たるほど無数に飛び交っていました。それれは多分、数週間前に里の田んぼや河原で見かけたアキアカネ(まだ全く赤くはありませんが)などが、山に登ってきたものである事は確かです。何故なら、今の時期里ではトンボを1匹も見かけないからです。

彼らが山に登る理由ですが、トンボはどうやら暑さに弱いらしいのです。里は温暖化の影響からか、陽が差せばすぐ35℃以上の猛暑日になるこの頃ですから、トンボは避暑のために山に登るしかないのだと想像しています。また、昆虫の敵である除草剤や殺虫剤などが何度か散布される田んぼに比べれば、その点安全な山には結構小さな昆虫も多いので、一つの山に何万匹いるかは分かりませんが、トンボたちもエサには困らない筈です。

これは、子供の頃のボンヤリした記憶ですが、夏場といえども里にはもっと昆虫が多かった様な気がしています。他の昆虫も避暑に行っているのか、あるいは遠くまでいけない昆虫は数が減ってしまったのか、定かではありませんが、40年前とは確かに「気候が変化」している事は間違いがなさそうです。彼らは、しかしその中でしぶとく子孫を残そうと、彼らなりの戦略で生き残りを図っているのでしょう。何十年も同じ地域で昆虫採集を続けている「昆虫中年」と知り合いになって、採れる昆虫の種類の変化の様子を、ぜひ聞いてみたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月27日 (土)

2143 国益?

政治の季節に飛び交った、国益という言葉をここで改めて少し掘り下げてみます。その前にですが、国体とは一体何なんでしょうか。アフリカが人類発祥の地だとして、私たちの祖先は多分中国を通って、朝鮮半島や南の島伝いにこの島国にたどり着いたのでしょう。その間に黒かった肌の色が薄くなり、黄色がかった現在の私たちの肌色や目の色になってしまったのでした。幸いなことに、深い海に守られて、比較的単一な特徴を持った民族によって構成されているこの島は、長い戦国時代や鎖国時代を経て、その後の開国や数度の大戦をくぐり抜けて、第二次戦後の現在の国体を作ってきた筈です。

確かに明治初期に「国をつくった」人々は、進んだ?諸外国の制度に学び、国の行く末を案じつつ、国の骨格を作り上げてきましたが、戦後は投稿者自身も目撃者ですが、実は国づくりを怠ったまま、経済基盤だけを拡大しつつ、固めてきた様に思えてなりません。その意味で、戦後の国の姿は、つまりは、特にB国との関係を維持する中で、いわば「成り行き」で出来上がってきたものだと振り返っています。成り行きで出来上がった国は、確かに経済力はそれなりに強くはなりましたので、国際社会では「経済援助だけ」は期待されながら、しかし決して尊敬はされず、政党は離合集散に明け暮れ、1年ごとにリーダーが椅子取りゲームを繰り返す呆れた国になってしまったのでした。

国益の前に、先ずは「国体≒国の体裁」を整えるべきでしょう。いったい何に、国のあるいは国民の価値観を置くのか、そのための国へあるいは国民へ求める応分の責任とは何か、それを実現するための社会システムはどの様なものが理想なのか、「そもそも論」から起こしていく必要があると思うのです。結局国益とは、決して経済的メリットではありません。それは、国民の幸福感を満足させながら、諸外国からの尊敬を集める様な生活スタイルを実現し、結果として国際社会ではバランス感覚を維持しながら、国を運営していくことからしか生まれないと思うのです。それは「たった3本の矢」程度程度の生易しい努力では、絶対に届かない高みにしか見つからないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月26日 (金)

2142 しかし全体として見れば

2138の続きです。還元主義が、「科学」の寄って立つ基盤である事は間違いないでしょう。因果関係の明確でない考え方は単なる推論に過ぎず、結果として定理や原理や理論の組立には使えないからです。しかし、還元主義が結果として偏狭な視野をもたらす事は、常に気を付けている必要があります。

例えば、最新の電子顕微鏡で病巣の細胞を観察しても、その病気の原因を特定する事はできません。変わり果てた細胞の写真は病巣を構成している部分ではありますが、病気の原因は患者の全体的としての生活習慣や各種の検査指標も総合しなければ特定はできないでしょう。これが還元主義の最大のリスクなのです。同様に政治の世界でも、たとえば選挙結果還元主義や経済指標還元主義、あるいは省庁還元主義(縦割り主義とも言います)が蔓延り続けている例を挙げる事が出来そうです。

やはり必要な視点は、「しかし全体として見れば…」でしょう。J民党が大勝したとして、では全体として見れば、国が栄えて民が疲弊するのか、あるいは省庁が栄えて市民が苦しむのか、誰かがしっかり監視し評価を下さなければならないでしょう。そういえば、昔は強面の政治評論家なる人たちが居て、大きな影響力をもって世論を動かしていましたが、最近はその様な影響力を持った人たちを見かける事もなくなりました。というより、民衆が経済Issueには関心を示すものの、政治Issue殆どに反応しなくなったと言うのが真実かもしれません。

しかし、私たちは「全体として見てこの国をより良い方向」に近づけなければならないです。当面の選挙結果やその後の椅子取りゲームしか頭に無い人たちに期待するのはもう止めましょう。先ずは、個人としてあるべき社会像を描きながら、その中で自分の役割を自覚していけば、全体として見て、より良い方向に動いていくと思うのです。その目標は決して10年や20年で達成出るものではないのでしょうが、たぶん数世代後の子孫の幸福を考えれば、自ずと答えは見つかる筈なのです。必要なのは、決して部分の最適ではなく、より大きな視点での全体最適です。具体例に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月25日 (木)

2141 節電所

新しい言葉か既に誰かが使っているか分かりませんが、ここでは「節電所」という言葉を定義しておきましょう。あるセミナーで紹介された事例として、Y県の公設試が、地元企業の電力測定と見える化を積極的に支援し、結果として中小取り混ぜて200社程度の平均で、10kw弱のデマンドカット(省エネ)を達成したとの報告がありました。これを、全県の企業(例えば2000社)に水平展開すれば軽く10Mwを超え、いわゆるメガソーラや大型風車10基分に相当する分の電力が削減できることになります。

これは、デマンドを現在のままとして、新たにメガワット級のPV発電所を10か所程度新設するのと結果的に同じになりますので、その「無駄な」設備投資無しに、ピーク電力やデマンドをスマートにカットできる事を意味し、節減分の発電所の新設が抑制できる事になります。これが「節電所」です。ネガワットなどと呼ばれる事もあるのですが、節電所の方が日本語として分かりやすいでしょう。

さて、メガソーラの建設費用は、1kw当たり30-40万円程度でしょうからざっと数億円レベルに上るでしょう。10か所では数十億円にもなってしまうのです。しかし、P Vは一度建設してしまえば、メンテナンスは殆ど必要ないので、地元の雇用増にもあまり貢献しません。しかし、「節電所」は、省エネ状態を維持するためには、結構人手も掛かりますし、更なる節電のためには知恵と工夫も求められます。つまりより人手を必要とし、結果として雇用増や安定にもつながる事でしょう。数十億円あれば、より本格的な省エネ設備も導入も可能になり、例えば2-3割程度の大幅な省エネと言った数字も期待できるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月24日 (水)

2140 今日は短め

今日は今から仙台まで出かけるので短めです。昨年8月に秋田にUターンしてから、時間がゆっくり過ぎていることに気が付きました。山には10回以上登り、たくさんの東北人と会って、10年来の友達の様に話をして、往く先々では絶景を目にし、温泉や旨いものを楽しみました。僅か1年足らずでこんなことが出来たのも、時間の進み方がゆっくりしているからに間違いありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月23日 (火)

2139 モノとコト

山歩きでぐったりして、アップがこの時間です。 簡単に「物事」と言ってしまいがちですが、モノとコトは分けて考えるべきだと思っています。投稿者は、いわゆる技術屋として育ってきたと思っていますが、残念ながら技術屋はモノから離れられません。つまり、材料があり、それを加工して部品を作り、然る後にそれを組み上げて装置やプラントを作る訳ですが、仕様の作成から始まって製造図、組立図を準備し、材料がモノに変っていく過程を追いかけていくため、全くもってモノから離れる訳にはいかないのです。しかし、これは時には困った事も引き起こす事にもなります。

例えば、世の中が不景気になった時、技術屋バリバリの叩き上げ経営者が先ず最初に考える事は、稼働率がガクンと下がってしまった機械を眺めて、この機械を使って作れる別のモノは無いか、と必死に考えるのです。同じ様な機械は世間にはゴマンとありますから、どこかの企業が一つ成功例を作ると、他の企業もすぐに後追いを始め、結局は価格競争を演じてしまい、元の木阿弥の不景気に戻ってしまう事になるのです。

それを防ぐには、私たちはコトに注目しなければならないのだと思っています。ある機械は、それが実現できるコトによって、市場価値が生まれ、産業が持続できるのですが、実は時代と共に社会が求めるコトは変り続けてもいるのです。例えば、車に出来るコトは、歩いたり自転車で行くよりは十数倍早く目的地まで移動できる手段を提供する、というものですが、決して私たちは車自体を所有する事は望んでいない訳です。もし、何時でも、数多く作られたカーロットから自由に、リーズナブルに使えるレンタカーの提供が受けられれば、多くの人が車の所有を放棄するでしょう。家には車庫が不要になりますから、庭には菜園を作る事も可能となるでしょう。原則という意味では、レンタカーはコンビニ程度の密度で配置されているのが理想ですから、いっそコンビニに数台のレンタカーを置くと言うビジネスモデルもあり得る筈です。残念ながら、技術屋もそれを売り歩くセールスマンも、なかなかモノから離れられず、こんなコトは夢にも思いつかないのでしょう。これからの時代、もっと社会が必要としているコトに注目する必要がありそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月22日 (月)

2138 還元主義

別の投稿の言い直しかもしれません。「~は~に過ぎない」、という還元主義の見方によれば、あるモノはそれを構成するより小さな要素に過ぎないと考えます。その結果還元主義は、ある現象の原因は、別の現象が引き起こした結果に過ぎないと主張する「因果論」を導きます。それの何処が悪いかといえば、これでは単眼的思考と結果としての誤謬(つまりは強い思い込み)につながる可能性が高くなります。とは言いながら、科学ではまさに因果律こそが最重要の原則である事も間違いないのです。だからこそ2131で述べた様に複雑系の問題に、科学が手も足も出ないと言う事態が生じてしまう事にも陥るのです。

かと言って、全体しか見ないホーリズム(統合主義)だけで物事を見ると、「森を見て木を見ない」事態に陥り、結果として何も理解できない結果につながってしまうでしょう。その様な視点に立てば、例えば政治の世界での「政党」を見て、議員や個別の政策を見ないホーリズムでは、結局好き嫌いでしか投票行動が出来ない事にもなり兼ねません。

これを、何に喩えれば良いのか考えると、たぶんカメラによる撮影に近いと言えそうです。つまり、実体である被写体に近づき(ズームインI)過ぎてしは、被写体の部分しか映らないでしょう。昆虫の顔を写せば、それは世にも恐ろしい怪獣にも見えてしまうでしょう。一方、背景まで映り込む様にズームアウトすれば、その昆虫が生息する環境まで見えるので、被写体をより深く理解できる事になるでしょう。政党を見る時は構成する人を見て、人を見る時はその人の寄って来る場所や背景を見るべきなのでしょう。それにしても、見えないのはこの国の行方です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月21日 (日)

2137 ルールベース

ルールベースとは、投稿者なりの理解では、ある事象なり出来事に当てはまりそうな、一定のルールを見出し、それによって他の現象を分析したり将来起こり得る類似の現象を予測したりする手法を指します。これに対するのが、反意語でありませんが、多分「知識ベース」あるいは「モデルベース」になるでしょうか。

実際の場面では、例えばプラントの事故原因を推定しようとする場合、後者はプラントの構造が分かる図面や運転方法が掛かれているマニュアルなどを参照しながら理詰めで事故原因を特定していきます。一方前者は、専門家の知識を動員し、時には関係者のインタビューなども交えて、事故に至った大元のルール(=原因)を推定する方法である、と言えそうです。事象のルールは、人間が決めた法律や規則などとは異なり、その底流だとも言える訳です。

さてFクシマの事故などのプラント事故ですが、古いシステムになればなるほど、そのプラントの構想段階から携わったであろう、成り立ちを隅々まで知っていたエキスパートは既に退役していますから、事故が起こった場合どうしても知識ベースの原因究明に陥りがちになります。知識ベースの原因究明には、目に見えるモノや図面やマニュアルなどしか拠り所は無いので、どうしても浅い掘り下げに留まってしまいがちです。一方、ルールベースのアプローチでは、ヒューマンエラーや玉突き現象など、より深く広い視野で原因に迫るので、より深いレベルで真実に近づけるでしょう。たぶん理想を言えば、この2つのアプローチを、必要により切り替えて使い、事象を立体視する事なのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月20日 (土)

2136 背景ノイズ

情報とは受け取る側にとって「何らか役に立つ信号」であると定義できます。一方、ノイズとは役に立たない、どちらかと言えばランダム(でたらめ)な信号になります。しかし、ノイズが全く役に立たないかと言われれば、たぶんそうではないでしょう。例えば、まったくの無音状態にコントロールされた部屋に閉じこめられた場合、人は強いストレスを感じ、長時間に及べば幻聴が始まりさらには精神への異常をきたす危険性すら出てきます。それは、脳は常に「刺激を要求し続ける器官」だからでもあります。耳は(脳は)単にある意味のある音をだけを聴いているのではなく、背景音(背景ノイズ)も聞き、それを含めて心地よいと感ずるのでしょう。波の音やせせらぎの水音、風の音などには多くの周波数のノイズが含まれ(いわゆるホワイトノイズです)、注意を注いでいる音を際立たせます。

視覚についても全く同じ事が言えるでしょう。もし、目に入るものが漆黒の闇と、光が当たっている注目しているモノである場合、コントラストは最大になりますが、目は(脳は)きっと悲鳴を上げるでしょう。目は、見ているモノと同様、目に入ってくるモノも均等に眺めている筈です。何故なら、背景の視野の片隅に危険な情報(例えば藪の中でクマが動いている映像やスマホを見ながら自転車に乗っている若者)が映しこまれているかも知れないからです。

その意味で、重要な情報を汲み取ろうとする場合、私たちはもっと背景ノイズにも注目しなくてはならないのでしょう。例えば、ニュースなどで流されるアンケート調査(や世論調査)の結果ですが、通常の場合背景ノイズはカットされた状態で報道されます。しかし、それが何時、どの様な手段で、何人程度を対象として、どの様な設問で調査されたか、など付帯的な情報も大きな意味を持ちます。最悪の調査手法は、答えるのが簡単なYes or Noクエスチョンで回答を求めるもので、中間的な意見はノイズとして省かれてしまい、極論だけが残る事になります。

同様な事は、「異常気象」が問題となる様な議論でも起こり得ます。つまり、その現象はどのくらいのタイムレンジで眺めて異常なのか、その異常さはどの程度の確度でそう言えるのか、他に別の角度やデータで傍証する必要はないのか、どの様な統計手法でノイズを取り除いたのかなど、背景情報無しに導く短絡的な結論には意味がありません。それは温暖化の議論でも同じことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月19日 (金)

2135 氏か育ちか

この表題でもかつて一二度書いた様な気もします。つまり、人間は「氏」(生まれる=遺伝子)によってその能力や人生が決まるのか、あるいは「育ち=環境」に依存しているのかという議論です。ヒトゲノム解析技術が進んだお蔭で、状況はかなり変化してきたのも事実です。遺伝子検査技術の発展は、広範な遺伝子病の出征前検査を可能にしましたし、多くの「生まれながらの能力に関係した」遺伝子セットの「発見」も取りざたされる様になってきました。一人っ子政策の浸透した隣のC国では、子供の能力を遺伝子検査によって診断し、恵まれている(と診断された)能力、たとえば運動能力とか芸術に対する能力とかなどを、集中的な習い事で磨かせる、とも報道されています。

確かに、身長が高いとか、色が白いとか、アルコール分解酵素の多寡など身体的な特徴は、遺伝的な要素が支配的なのでしょう。そうでなければ、肌が黒いだ、白いだ、いや黄色だなど取り沙汰する、つまりは人種差別などという前近代的な行動が問題になる筈もありません。しかし、身体が発現する運動能力、あるいは脳が発揮する能力に関して言えば、これは後天的な要素で、鍛えられる部分も非常に大きい事は間違いないでしょう。これらの能力に関して言えば、氏が何%育ちが何%と決められるものではなく、むしろ「氏X育ち=能力」という掛け算で表現されるべき筋合いのものだと思っています。骨や筋肉は適当な負荷により、太く強力に出来る筈ですし、俗に言われる反射神経や動態視力などについても、訓練によってかなりの程度高められる筈なのです。

その意味で、投稿者も人生のある時期以降は、持って生まれた体や頭で親を恨んだ事は無いと断言しておきましょう。その時期は、30代の半ばででしたが、脳や遺伝などに関する本を、多分100冊以上固め読みして、何やら「人間」というものがかなり分かりかけた(と感じた)時期でもありました。勿論、それは全くの勘違いであり、いまや還暦を超えても、やはり人間を理解するのは難しい事だと、改めて感ずる事も多い日々なのですが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月18日 (木)

2134 技術で勝って商売で・・

日本の技術は大したものだ、とよく言われます。確かに、先人(投稿者たちより上の世代)は良く努力を重ね、戦後の「無」の状態から復興し、モノづくり大国と言われるまでにこの国の産業力を引き上げてくれました。しかし、単に技術力を磨き、量産能力を強化するのは、むしろやり易かった作業ではなかったかと振り返っています。それは、ある意味で「ちから技」でもあったからです。方向が決まっていて、力だけを出せば済む時代は、単純明快で、国が掲げた「所得倍増」などというキャッチフレーズもしっかり機能していたような気がします。

しかし、残念ながら戦後の復興を実現した世代は、将来に向けた方向性をしっかりとは示すことなく、隠居してしまった様な気がします。右肩上がりの時代には、国のリーダーも経営者も、ただ旗を振っていれば業績が上がり、経済規模も拡大しましたから、それを手柄として上に居座っている事も出来ました。しかし、右肩が徐々に下がっていくこれからの時代、企業は何を道標にして生きていくべきか、また国は世界情勢の中でどの様な立ち位置を取るべきか、ゼロから再定義して示していく事が必要になっています。失われた20年は、それを怠り続けてきた時代でもあった訳です。

技術で勝ち続けてきたこの国の産業界も、家電や弱電や建設や造船などではいまや負けが続いており、車も今は何とか息をしているものの、今後電気自動車が主流になると(=大物家電になると)、この産業も家電の二の舞に陥る事が容易に想像できます。より広い産業分野で、またぞろ「技術で勝って、商売で負け続けると言う悪夢」が繰り返されそうなのです。たぶん私たちは、つい楽をしたくて、その時は儲かる「ブーム産業」や「二匹目のドジョウ産業」だけを追い求め過ぎたのでしょう。私たちは長続きする大儲けの種などは無いのだ、と思い定める必要があります。そうでなくて、先ずはあるべき持続可能な社会の姿を提案すべきなのです。そこに技術を正しく用いるなら、最終的に世界の合意や尊敬を集める事が出来、自然な追い風に乗れるでしょう。もちろん、その追い風は強風ではなく、長く続く緩やかな「そよ風」のはずなのです。これを取り敢えず「そよ風産業」とよび具体例に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月17日 (水)

2133 科学⇒軍需⇒民需?

たぶん2130の続きです。私たちは、倫理チェックをすっ飛ばしながら、科学の知見やそれを利用した基本技術を、先ずは軍事に用いるための応用技術を開発し、ついではその技術を民需(産業)に転用してきました。枚挙に暇はありませんが、刀剣製造技術(銅鉄の精錬技術)、銃砲製造技術しかり、造船技術しかり、航空宇宙技術しかり、通信(ネット)技術しかり、エネルギー技術しかりでしょう。

逆に、純粋に人々の幸福のためだけに開発された科学・技術には何があったかを考えてみても、殆ど見当たらない事に愕然とせざるを得ません。平和目的に見える農業分野の技術でさえ、それは例外ではないでしょう。中世や戦国時代に遡れば、農業生産高(石高)は、その国(藩)の戦力そのものでした。幕府が決めた見かけの石高より反収が高ければ、裕福な藩になりますから戦争をしても兵糧で優位に立てますから、各藩はこぞって農業技術の向上を奨励した事筈です。同じ面積の農地からより高い収量を上げる事は、その国や地域のより長期に亘る存続の問題でもあった訳です。

しかしながら、表題の様に科学⇒軍事⇒民需と順調に移行するのであれば、それは結構なことかもしれませんが、残念な事に現実は、一度軍需産業が成立すると、それは確実に儲かるので、その規模を維持あるいは更に拡大しようとする「慣性」が働いてしまうのです。その結果、軍需産業は更に性能の高い武器を開発し、さらに国際間の緊張を高める事につながって来たのでした。これは、取りも直さず負のスパイラルであり、その行き着く先が、核兵器の異常なまでの数量の蓄積だった訳です。つまり現在蓄積されている量は、地球全体を何度も壊滅させてしまうだけの量になっている訳で、兵器産業が産業の維持のために国を騙して作り続けてたとしか思えないのです。しかし、もし今は秘匿されている軍事技術を公開し、それを民需に応用出来るのであれば、多くの新たな産業の創出も可能となる事は明らかです。例えば多くのリモートセンシング技術や高エネルギー利用技術などです。おっと今回は、何やらCムスキーの言い方の様になっていますが、いま彼の著作をまとめて読んでいるところなので、だいぶ影響されてしまったようです。単なる受け売りはこのブログの本意ではありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月16日 (火)

2132 TCVN反対は当然としても

選挙の争点は、大きくはTTPPへの参入)、CConsitution=憲法改正)、VVAT=消費税率アップ)、NNukes=原発)の4点の様です。しかし、そんな事は既に自明のことなのです。TPPは間違いなく食の安全保障を壊すでしょうし、憲法改正でよその国の紛争に巻き込まれるのはまっぴらですし、消費税率アップの前に政府が為すべきことは数多いでしょうし、今後原発の新設はあり得ませんから黙っていても30年もすれば自動的にゼロにはなる訳です。

問題は、野党には、TCVNへの反対は当然の事として、「ではその上で何を考えているのか」、与党には「ではこの国を一体どの様な国にしていきたいのか」を直球で訴えて貰いたいのです。だからこそ、上げ足取りに終始する党、あるいは捻じれ解消だけしか主張しない党には、4割もの大衆がソッポを向いている訳です。党派の主張は、そのグループが持っている(筈の)政治理念で戦わして欲しいのです。とは言いながら、そんな高邁な思想をもって政治家になった人は少ないでしょうし、最初は少しはあったにしてもやがては党派の主流、傍流の流れに巻き込まれてそれを失ってしまった人が殆どだと想像しています。

残念ながら、その様な高邁な主張を行う党もそのための議論の場も殆どありませんし、それに関心を示している有権者も少ないのが実情でしょう。時間がたっぷり出来て、国会中継なども結構見たり聞いたりはするのですが、建前論と官僚作成の答弁書には相変わらずウンザリします。結果として、今回もこれまで通りの馴合った選挙が行われ、勝った負けたの空騒ぎが収まれば、元の木阿弥になるのでしょう。しかし、そうではあっても私たちは、真面目にこの国の将来を展望しながら前に進まなければならないことだけは間違いありません。なにも難しく考える必要はなく、数十年後の自分たちの子孫に後ろ指を指される選択だけはすべきではない、と決意するだけです。必要な事は、誰かを選んで(無責任に)それを託すのではなく、自分が額に汗して行動し「それ」を実現するための努力を傾ける事だと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月15日 (月)

2131 複雑系の問題

複雑系という言葉を前にすると考え込んでしまいます。原因があって結果が生ずる、因果関係のはっきりした現象は単純系であり、問題が生じた際には、原因の特定が容易ですが、そんな現象は多分、げんていされた限られたエリアである工場や企業などといった環境でしか役に立たない考え方だとも言えるでしょう。一方、人間が作ってしまった巨大な社会システムや地球規模の気象現象、何より私たち自身の意識の座である脳の中で起こっている現象、併せて体の中で起こっている種々の代謝や代謝異常(病気)の仕組みについては、あまりにも複雑過ぎて、人智をかなり超えてしまっているシステムだと言えそうです。

その意味で、複雑なシステムの中で行き詰ってしまったこの国の経済の沈滞に、「たった三本の矢」で挑もうとする無謀なリーダーには全く賛同できないと言うしかありません。企業が投資を躊躇するのは、投資すべき対象(製品やサービス)がボヤけてしまっているからです。それは、消費者のニーズがもっとひどくボヤけてしまったからに他なりません。しかし、ニーズがボヤけてしまった真の原因は、複雑過ぎて(投稿者自身が消費者でもあるのですが)想像すらできません。言える事は、間違いなく原因は少なくとも三つ程度ではない事は明らかで、たぶん主要なものだけでも100個くらいは数えられると思うのです。その中の一つを想像して見れば、私たちにはモノや食糧は十分に行き渡ってしまい、もはやローンを組んでも買いたいものなど無くなった事が挙げられるかも知れません。

同様に、イジメや自死などの問題も、温暖化と呼ばれる「異常な気候変動」も、更には多くの免疫異常と呼ばれる難病も、複雑系の代表である「脳の過剰な活動」が作り出してしまった、と言えなくもない現象に思えます。つまり、脳が単に生存のための判断器官であった時代には、とても考えられなかった複雑系の諸問題は、結局は「脳が作ってしまった問題」だ言い換えてもそれほどの間違いではないでしょう。でも何やらY老孟司の様な言い方になってしまった様なので、本稿をここで閉める事にします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月14日 (日)

2130 科学と工学の境

科学とは物事の本質を知ろうとする行動であり、工学とは科学の知識を応用して、何らかの役立つモノを作る行動であると言えます。そこに使われるのが技術であると定義できそうです。さて、IPS細胞を作る原理を考え、それを作り出すまではたぶん「科学」と呼べるのでしょうが、それを使って体外で臓器(の元になる細胞)を作って、体内に植え込むなどという段階は、完全に科学の応用(実用)の段階に入っているのであり、既に工学の分野になってしまいます。敢えて呼ぶなら「医療工学」でしょうか。同様に、遺伝子の構造を解析するのは科学分野と呼んで構わないのでしょうが、ある特定の遺伝子構造が、俗に遺伝子病と呼ばれる病気の原因となっている事を突き止め、それを回避するために対外から健全な遺伝子を送り込むなどの治療も、もはや工学(テクニック)の問題に転換していると思われます。

ここで強調したいのは、真実を知るための科学には、人や環境に害を及ぼさない限り、殆どの行為が許されるとは思いますが、しかし工学にはそれを行使する際には「倫理のチェック」が欠かせないという点なのです。倫理とは、文字通り解釈すれば「人と人との間の理」という意味ですが、近年は「ヒトと環境の間の理」まで指す様になってきています。一体、持って生まれた体質や形質を「勝手に」作り替える事は許される話なのでしょうか。命を救うためならどんなことをしても許されるのでしょうか。倫理チェックとは、これらの問題に、大方の人たちが同意できる何らかの答えを出して前に進む事を意味します。

私たちは、科学から工学への壁を、あまりにも迂闊に、あるいは安易に乗り越え過ぎてきた様に思うのです。だからこそ、物質や元素の本質を追求する過程で見つけてしまった放射性物質を、戦争という異常事態の中で、チェックを省いてしまって、先ずは史上最強の武器である原爆に使ってしまったのでした。また、戦後の冷戦構造の中で、やはりチェックを行わずに原子力潜水艦という冷戦用兵器にも応用してしまったのでした。原発は、実のところ原子力潜水艦に積まれた原子炉のスケールアップ版に過ぎない技術から生まれたもので、初期の発電用原子炉は安全性という面から見れば、危険な艦載型原子炉とあまり変わるものでは無かった筈です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月13日 (土)

2129 パーティの後始末

多くのイベントやパーティで目にするのは、その最中は確かに楽しく盛り上がり、喜びが溢れていますが、それが終わって「お開き」になった時、食い散らかされ、汚く食べ残しが残された料理皿やこぼれた飲み物などで汚されたテーブルクロス、会場に残されたゴミの山でしょうか。それらは、誰か(多くは主催者側のスタッフ)によって整理され、掃除され、ゴミ箱に放り込まれるのでしょうが、それで終わりではありません。そのゴミを運ぶ業者が、どこかのゴミ焼却施設に運び込んで、身やされてやっと後始末が完了する事になります。

もちろん望ましい姿は、イベントの参加者が自分が出した食べ残しは全て持ち帰り、使った椅子やテーブルを格納場所に戻し、散らかったゴミをホウキで掃けば、会場はイベント前の状態に戻る事になります。しかし、私たちがこれまでそれを実行出来ていたかと振り返ると、忸怩たるものがあります。何時の頃からか、人々はゴミは誰か(自治体)が回収して燃やすか埋め立てるものだと信じて疑わず、少しでもルーズになるとすぐさま役所に文句をねじ込む様にもなりました。まだ十分使える家具や大型家電でも、燃えない粗大ゴミとして、平気で放り出し、あるいは山間の谷に投げ込む輩まで出る始末です。電気は使いますが、そこからでる核のゴミは、誰も自分が住む地域で引き受けようなどとは言いださないでしょう。

私たちは何時から自分の後始末を他人に押し付ける様になったのでしょうか。振り返れば、たぶん高度成長期を経て、大量生産、大量消費による「モノの一方通行」が激しくなった時期以降である事は間違いないでしょう。それまでは、田舎だったとはいえ、住宅がつながった地域に住んでいた投稿者の家では、生ごみは近所の養豚業者が引き取ってくれ、それを大きな鍋で煮ると、豚の理想的な餌に姿を変えたものでした。金属は貴重で、特に銅やその合金などは高値で取り引きされたため、小さな部品でさえ捨てられる事はありませんでした。私たちは、次世代のためにもパーティの後始末を怠るべきではないでしょう。その仕組みを改めて確認しておく必要があります。「廃棄物とは間違った場所に置かれた貴重な資源である」というドイツのキャッチフレーズを思い起こせば、どんな種類のゴミでも完全に分別さえできれば、元の資源に戻せる筈なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月12日 (金)

2128 いまさら火星旅行?

2015年に新たな日本人宇宙飛行士が、空き部屋になっている宇宙下宿(国際宇宙ステーション)に入るのだとか。同時に、B国人の宇宙飛行士も、火星旅行に向けたデータ取りのために半年ばかり滞在するのだとか。勿論使うのはRシアのタクシーです。それ(火星旅行)がもし本気だとしたら、彼らの正気を疑わざるを得ません。火星への往復に一体何年掛かるか知りませんが、その間宇宙飛行士は、宇宙船の金属の壁を容赦なく尽き抜けてくる宇宙線の雨に晒されるでしょう。宇宙線は即ち放射線と同じですから、その被ばく量たるや想像を超える量に上る筈です。それよりなにより、密閉された空間である宇宙船に数年間閉じ込められる恐怖を考えれば、どんなに強靭な精神を持ってると言い張る宇宙飛行士でも、とても正気を保てるはずはないからです。密閉された空間で、しかも孤立無援の宇宙空間での孤独は、想像を超えています。数年分の食糧や燃料や生命維持装置の重量は相当な目方になる筈ですし、アポロ計画に比べても多分一桁大きなサイズの宇宙船の開発も必要となるでしょう。

ガンか不治の病で余命が宣告されてしまった元宇宙飛行士が、火星を自分のグレイブヤードと定めて、ボランティアで出かける事までは止めませんが、少なくとも体力のある若い宇宙飛行士など送るべきではないでしょう。それが分別というものです。

冷戦の時代は、軍事技術を磨くと言う意味でも宇宙開発競争も意味があったのでしょう。しかし、無人機によって、火星は赤茶けた荒涼たる世界である事は既に明らかになってしまいました。火星に人までを送り込んでこれ以上一体何を調べると言うのでしょう。そんなに火星の土に足跡を残したいのなら、人型ロボットでも送り込めば良いではありませんか。それなら、宇宙線被ばくも食糧も生命維持装置も心配する必要はありませんので、目いっぱいのミッションを与える事が出来るでしょう。ロボットには火星の土になって貰うとして、地球に戻すのは、ロボットが採取したデータやサンプル程度で済むので、往還機もハヤブサの様な小さなもので済むでしょう。、しかしこのブログでも再々書いている様にそんな無駄なお金が使える位なら、すぐにでも解決しなければならない「地上の問題」は数限りなくあるはずだ、と再度書くしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月11日 (木)

2127 太陽光利用効率

これまでにも、科学や工学上で色々な「効率」が提示されてきましたが、ここでは太陽光利用効率を定義したいと思います。太陽光は、一般的に1㎡当たり約1kw相当のエネルギーを持っているいると言われています。それに対して、例えば太陽光発電(以下PV)では、変換効率18%だとか20%を達成したとかでメーカーが鎬を削っている訳です。しかし、考えて見なければならないのは、たった1㎡に降り注ぐ太陽エネルギーの変換効率だけを指標にしては、道を誤るのでないかと見ています。

と言うのも、太陽光は建物や家の屋根だけではなく、野原や田畑や森林や道路や法面や、海面などまで万遍なく降り注いでいるからです。植物はその意味では、進出できる場所には漏れなく進出し、そこに降り注ぐ太陽を、非常に高い効率で利用している生き物だと断言できます。例えば、樹木は自分が所在する緯度を正確に把握していて、低緯度地方では樹冠を大きく広げた樹形をしています(例えばH立グループのこの木何の木の木です)し、高緯度地方の針葉樹は、緯度に応じて見事な円錐形をしていて、最も効率よく光合成が行える様に進化しています。広葉樹では、葉と葉が微妙に重なりながら、しかし完全には重ならない様にして、どの葉でも効率よく光合成が進む様に配置していますし、針葉樹も同様に長い夏季の日照時間を有効に使って高い光合成の割合を実現しながら、葉を細く厚くして冬場の凍結から身を守ります。

つまりは、太陽の利用効率は、単に狭い範囲の利用効率だけを追い求めては、徒に工学的効率を追い求めてコストの高いシステムになるだけに陥りますから、太陽光を「立体的に利用」して、総合的効率を考えて行かなければならないのです。たとえ20%のPVを設置しても、その下で植物を育てる訳には行きませんが、10%の効率のPVでも、半透明ならそれを温室の屋根に使えば植物同時に植物を育てる事も可能となるでしょうし、PVを冷やすために水冷にすれば、暖まった水を温水として利用する事も可能となります。その結果、例えば太陽光の25%を利用出来たとすれば、総合的な利用効率はPVに勝る事になります。徒にメガソーラだけをベタベタと並べて、その下に草も生えない荒地を増やしてはならないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月10日 (水)

2126 自由と繁栄だけ?

A倍のミクスが危うく見えるのは、単に借金の上積みに頼った金融・財政政策でムード作りだけを先行させているからだけではありません。何かが足りない、何か方向性が違う、と多くの人達が感じているからだと見ています。その何かを、投稿者なりの視点で掘り出してみると、それは、今の時代のリーダーがあまりにも「自由と繁栄」だけを価値判断の基準に据えているからの様な気がするのです。確かに自由の国であるB国では、自由が何物にも勝る権利であり、Aメリカンドリームの実現により、将来は今より豊かになって繁栄すると言う前提で国づくりや人々の暗黙の人生設計が成り立っている事でしょう。

しかし、何かが欠けています。それは多分「克己心」や「足るを知る」努力といったものの様な気がします。B国にも、例えばアーミッシュと呼ばれる宗教的で自制的な暮らしを守っている人たちは少数ですが存在します。しかし、大多数の人たちは欲望のままに、動くのが辛くなるほど、あるいは本当にベッドから動けなるほどタラフク食べて太る事を止めませんし、景気が少し良くなれば、やはり排気量が何リットルもある大型車を乗り回したくなるのです。さながら、ブレーキの利きが悪い車が暴走する様に、自由で豊かではあるが、自制が効かない社会はやはり行きつくところまで行くしかないのかも知れません。

それに打ち勝ち、それを防ぐにはやはり自律心、自制心が必要なのです。自分を律するには、確固たる価値観とそれを守り抜く強い意志も必要です。国際的な学力水準をあれこれ議論する前に、子供たちの自律心・自立心を如何に育むかを議論すべきでしょう。自分を律する事が出来る子供がイジメなどする事はあり得ないからです。A倍のミクスの三本の矢の上に載せる重石として、100年後を見越した「自律」をプレゼントしたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 9日 (火)

2125 経済と地震

経済と地震のアナロジーが気になります。つまり、古くは70年代に起こった石油ショックに誘発された不況や、近年ではバブルの崩壊やリーマンショックなどの激しい景気変動と、間に起こる小さな景気変動が、さながら自然界に起こる地震の様に、稀に激震となって社会を揺さぶる事になります。自然界のカタストロフィーである地震や火山噴火などと、経済のカタストロフィーである急激な不況が似ているのは、たぶん目には見えない部分に「歪」が蓄積する点が共通するからである様な気がします。

先ず自然災害ですが、地殻変動や火山でいえば、大陸プレートと海洋プレートの相対運動によって、その境界に歪が溜まり、あるいは地下にマグマが溜まり、それが地殻の弾性限界を超えた時に強大なエネルギーを一気に放出する事になります。

一方で経済活動でも全く同様の動きが観察されるのです。何度も書いている様に、地下資源を掘りつづけている限り、その売買のために地上で動くマネー量は増え続けます。日常的に回転しているマネーは、経済活動上で必要なものなのですが、問題は使う予定のない余剰マネーです。それを預かった金融機関やファンドは、その資金を「運用」して利息分以上のものを稼がなければなりませんから、色々なカラクリを作って儲ける算段をするのです。しかし、まともな、例えば製造業に対する融資ではなく。無から有を生み出す「ゼロサムマネーゲーム」ですから、誰かがババを引き受ける必要があるのは間違いありません。株の世界で言えば、高い時期に買わされた一般投資家や動きがとろい金融(保険)機関かも知れませんし、土地売買でも同様でしょう。つまり、皆が欲を出して買い続け、値が上がりきった状態が、まさに大地震前夜の様に歪が最大限に溜まった状態と同じになるでしょう。

誰もが強気で動いている時、ホンの一人か一握りの人間が、ふと弱気に転じた時に、経済のカタストロフィーの引き金が引かれる事になります。地震や火山の余地が、単なる歪計のデータだけでは余地できない様に、ある人の突然の弱気を予知する事は出来ないでしょう。その原因は、あるディーラーの朝食の際の夫婦喧嘩だったかも知れないからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 8日 (月)

2124 重箱の中心

科学や技術がここまで高度に発達すると、たぶん人間の知恵の限界に近づいたため、研究開発(RD)も、残された重箱の隅をつつくしか道が残されていない様なのです。最近の科学上の重要な発見で言えば、IPS細胞くらいしか思い当りません。その前だと、1950年代のワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の発見くらいまで遡らざるを得ません。従って、物理学者が「究極の素粒子」の発見に血道を上げる理由がそこにある訳です。もう一つ残っている科学上の未開の世界は、私たち自身の脳とそこにある筈のココロの問題程度しか残っていないと思われます。

一方、科学を実用化する技術・工学の世界でも、CAD.CAMの世界が、3Dプリンタの実用化で、現実の世界にやっとつながった程度が最近のトピックスでしょうか。ロボットの世界では、自律型では精々「案内ロボット」や「話し相手ロボット」が実用に近づいた程度です。小型高出力のエネルギー源とアクチュエータの開発の遅れは、T塚の夢であったアトム型ロボットの実現など100年遅れの22世になっても実現はおぼつかないかもしれません。何故なら、未だに動力源はバッテリーであり動力は電動モーターの域から脱する事が出来ないからなのです。ヒトや動物の様に、化学的エネルギーを利用して、筋肉様のアクチュエータが発明されていない現状では、介護ロボットの実用化など夢のまた夢でしかありません。

見果てぬハイテク騒動はもう止めにしなければならないでしょう。宇宙には暗闇と真空しかありませんし、究極の素粒子を見つけても何の役にも立ちません。物質は、そこに厳然としてある実体なのです。宇宙線が雨あられと降る危険な宇宙ステーションに人を送るお金があるのなら、有能な人材をぜひ再生可能型エネルギーの研究や実用化に振り向けるべきでしょう。(ん?同じこと事は前にも書いた様な気が・・・。まいいか)重箱の真ん中は、化石エネルギーがまだある内に、持続可能な暮らし方の基盤を作り上げる事しか無いのです。そこのところを放ったらかしにして、役にも立たない隅の掘るのに、国民の税金など使って欲しくないものです。病気の臓器を取り換えるIPS細胞の実用化に多額の税金を注ぎ込む前に、お金を入れるべき医療分野の重箱の中心は、「病気にならない暮らし方の研究」でなければならないと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 7日 (日)

2123 トレードオフ

これも素人経済学の様な話かもしれません。ビジネスや政治の世界で「取引」が無い筈はありません。それどころか、「それ」しかないと言っても良いでしょう。例えば、日本が異次元の緩和策を行えば、間違いなく為替は円安に向かい、海の向こうでは再び日本からの輸出攻勢に晒され、国内の産業が打撃を受ける事を怖れ、これまでは(為替介入などの様な短期的な政策にも)すかさず釘を刺してきた筈です。しかし、何故か今回は諸外国はダンマリを決め込んでいます。特にB国のダンマリには何か裏がありそうだと疑わしくもなります。

TPPも「取引条件」の一つだったのかも知れません。この国の製造業には、既にC国ほどのインパクト力はなく、そうであれば金融政策に文句を付けるより、TPP交渉により関税や非関税障壁を引っ剥がした方が自国の農業団体に良い顔が出来る、と思ったと穿てみたくもなってしまいます。オフレコの世界では、信じられない様な外交取引が行われているのも間違いないでしょう。何しろ、戦後から一貫して連綿と続く親分子分関係は、色が大分薄くなってきたとはいえ、間違いなく続いていると思われるからです。

ビジネスや国際交渉の世界では、この国が何かを得ようとすれば、少なくともそれと同等の権利を手放す必要があるのです。よく戦略的互恵関係とかWin-Winの関係など、耳には心地よい表現が使われますが、お互いが得をして誰も損をしない事は、経済的にも、地理的にも拡大の余地が殆ど無くなった、つまりは有限なパイである地球上では最早起こり得ないと見るべきでしょう。残された選択肢は、そのの切り方だけなのです。パイの切り方が悪くて、分け前が少なくなっても、結局は世渡りが下手で、有利なトレードオフ交渉が出来なかった側の負けになるでしょう。残念ながら、お人好しの多いこの国では、謙譲の美徳などという価値観も残っており、交渉事では何時も「してやられ」てきたのは歴史が証明するところでしょう。むしろ、戦国武将の方が交渉のセンスが優れていたのかもしれません。満たされる事に慣れ過ぎて、もはやハングリー精神の薄れた、この国の多くの経営者や政治家には、たぶん戦国時代の歴史書でも愛読して貰う他はないのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 6日 (土)

2122 FITを蹴飛ばす

2121の続きです。FIT(固定価格買取制度)は、実はアメ&ムチ政策である事は意外に見過ごされがちです。つまり、FITに適合する再エネ施設を設置した者には、高い買取価格を与えて、投資の回収期間を縮める事を認める一方、エネルギーの消費者には否応なしに、広く薄く負担を強いるからです。アメをウンと甘くして、ムチは弱める代わりに多くの人を引っ叩く事になります。

それもこれも、この国の地域割による「一物一価」制度悪い面が出てい結果だと言えるでしょう。電力の消費者には、安い地域外の電力を買う自由は全く許されていないからです。

石油に関しても同様の事が言えるでしょう。地域の石油価格は、ガソリンスタンドが違っても、差は1リットル当たりでは数円に留まっています。流石に数円安いガソリンスタンドで給油するために何十キロも車を転がす人も居ないでしょうから、これも一物一価の代表だと言えるでしょう。気を付けなければならないのは、電力も石油も元々の原料(原油やLNGや石炭などを)加工した「2次エネルギー」であると言う点です。2次と呼ぶのは、それらが原料エネルギーを「加工」してあると言う意味です。

その壁を打ち破るキーワードは「1次エネルギー」であると見ています。つまり、加工するからそれは「商品=2次商品」になり、一物一価の市場価格で取引される事になります。しかし、バイオマス(例えば薪です)は、ホームセンターで買ってくれば切って、割って「加工」していますから、商品になっていいるものの、自分で山の雑木を整理して切って薪割すれば、市場価格とは無関係の価値を自分で付加できる事になります。ここにはFITも市場価格も一切無関係になりますから、結果として電気や石油ベースのエネルギーコストより、新たな再生可能エネルギー源を得るのに要したコストが少し低ければ、それは持続可能な枠組みになる筈なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 5日 (金)

2121 小金を回す

再エネの拡大にもいよいよ拍車が掛かって来たかにも見えますが、しかし中身を見れば手っ取り早い「メガソーラ」に集中しているのが現状です。しかも、高いFIT価格に群がり、申請先行で、稼働の実体はまだ10%にも満たないと言う。しかし、もっと隠れた問題でとしては、系統連系能力を超える電力の買取拒否もさることながら、作った電力で生まれるお金が、地元に回らないとい事実なのです。メガソーラの投資を賄えるのは、貧乏な地方ではなく、中央資本が殆どとなっているからです。つまり、お金はメガソーラを受け入れた地域の頭越しに、電力会社から中央資本へのリターンとなって飛び去る訳です。

それに歯止めを掛けるには、同じ再エネでももっと規模を小さくして、小金を回す仕組みを作らなければならないと思うのです。小金には大資本はあまり興味を示さない筈ですし、小資本であれば地域だけのお金で賄えます。小さな枠組みで生まれたお金は、短期日の内に地元で使われ小さな経済を回します。しかし、その回転数たるや、中央資本に比べれば、数分の1の期間で戻ってくるでしょう。経済規模は動いたお金と、それが一定期間内に何回回ったかの掛け算になりますから、小金もバカにはできません。というより。小金ほど回転数が格段に多いのです。

さて、この問題(地方にお金が回らない)の根は、再エネ=再エネ電力という公式の間違いにあります。特に北国の田舎の場合、エネルギー需要の大きな部分は、一家に何台もある車と、冬場の暖房や給湯の主力となっている灯油ストーブや灯油ボイラの燃料費、つまりは熱需要なのです。車の燃料は致し方ないにしても、暖房・給湯に関して言えば、豊富に存在するバイオマスや、「風力や水力の熱変換」なども活用すれば、地域が外から買う石油の量を大きく減らせる筈なのです。地域でエネルギーを生み出す訳ですから、これまで中央の石油会社に払っていたお金は、直ちに地域に引き戻せることになり、同時に地域でエネルギーを作るための雇用も生まれます。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 4日 (木)

2051 産業融合

高度成長期の時代は、モノづくりの世界に於いては、規模拡大と専業化の時代だったとも言えるでしょう。その方が大量生産が可能となり、結果としてのコスト削減には明らかに有利だったからです。しかし、市場が飽和し、しかも人口減少の確実なこれからの時代も、果たしてこのパラダイムが「真」であり続けるか、と問われれば「否」というしかありません。何故ならば、かなり以前からニーズの多様化とそれに対応する多品種少量生産も、行き詰まりの傾向にありますし、今後の時代には、これに変量生産技術も加えなければ、適正な生産とは呼べなくなるからです。何より、今作っている製品の品質そのものが、これからの時代も適正であり続けるとも言えないのです。

この閉塞状態から抜け出す方法が無いかと、無い脳みそを絞ってみます。一つの方法が、産業の「再融合」だと思っています。つまり、高度成長に対応できる大量生産のために分業化が進んだのであれば、その歴史のフィルムを巻き戻してみれば、その逆の再融合化という事に思い至るわけです。具体的に言えば、今は親会社から受注した部品の加工だけを行っている下請け企業があったとして、需要が下向けば、受注量も減り、下手をすれば単価も切り下げられ、売上額も目減りするでしょう。しかし、もしその企業がある製品の全体の部品が製造でき、組立が出来る力量を持てば、それは自社製品とする事ができ、自社の営業努力次第では売り上げの低下も防ぐことができる可能性は出てきます。

別の例ですが、現代の農業は高度に分業が進んでいるとも言えるでしょう。農家は、土地を所有し農作業だけを行う一方、種苗から肥料や農薬果ては農業機械のための融資から出荷に至るまでJAに頼っているからです。確かに、農家が加工から販売まで行う6次産業化論もありますが、ここでは例えば農産物の出荷と、農業残渣(稲藁や野菜くずなどの出荷できない部分、あるいは家畜し尿など)から1次エネルギー(燃料等)を併せて生産する1+1次産業を提案しておきます。産業融合こそ、右肩下がりに強く、安定性を向上させる有効な手段の一つだと言えるでしょう。これも続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 3日 (水)

2119 取り敢えず目を持つ

技術屋は(たぶん)盲目です。自分がそうであったので、勝手に他人にも敷衍していますが、きっと当たらずしも遠からずでしょう。そうでなければ、給料を貰いながら原子爆弾などという大量に人を殺める事だけが目的の武器を作ったり、公害を出す事が分かっていて欠陥のある工場を作ったり、いざという時に自分達でコントロールできない原発などというガジェットを再稼働しようなどとは考えない筈だからです。全ての技術者の使命は、QCDに集約されていると思っています。つまりは、高い品質で、コストを抑えて、納期を守ってモノを作る仕掛けこそが、企業にとって最重要の課題だと、朝晩叩きこまれている集団なのです。

QCDの中には、残念ながらE(環境)もS(持続可能性)もM(モラル)も全く抜け落ちています。余裕のある企業だけが細々と、Eの必要最小限の条件であるISO14001に取り組んだり、環境活動報告書を公表したりしている程度です。Sが低ければ、やがて自分の所属する企業や社会の活動が立ち行かなる事を薄々知りながら、自分の時代にはそこまでは行かないだろうと思いつつ、Mについても必要最低限のルールである法令すれすれを狙い、時には設備の整備不良でそれを少し破りながら、なんとか仕事をこなしている訳です。技術屋にとってのQCDとは、つまりは競走馬の目隠し(何か専門の呼び方があるのかも知れませんが)の様なものだと言えるかもしれません。

投稿者が、早めにサラリーマンを辞めたのも結果として見れば、フリーランス(つまりは糸の切れた凧状態)というかフリーフォール状態で、広い視野が欲しかったからの様な気がします。確かに、自分の目で見、自分の足で歩かなければならなくなると、自分で足元をしっかり確認せざるを得なくなりました。このブログは、何を隠そうフリーになってから自分の目で見てきたことの記録でもある訳です。果たして「良い目」を持てたかどうかは別にして、自分の目だけで世の中を見ている事だけは確か、だと思っています。たぶん続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 2日 (火)

2118 製造業は重要だが

製造業がこの国の基幹産業である事は論を待ちません。かつては。製鉄、造船などの重工業、その後は家電や自動車などのコンシューマープロダクトがこの国の産業(=外貨獲得)を牽引してきました。しかし、ここ20年以上に亘る逆風と、その収縮は目に余るものがあります。投稿者の住む地位でも、地域を引っ張ってきた弱電・家電企業が疲弊し、その下請け産業には完全に閑古鳥が鳴いています。つまり、がらんどうになって使われなくなった工場建屋が増え続けているのです。

それがどこに行ってしまったかを考えれば、誰が考えても、力をつけてきたK国やC国や、親企業自らが進出した東南アジアの現地企業であることは自明です。いくら、この国のリーダーが三本目の矢で鼓舞したとしても、事態が大きく変わる訳でもないでしょう。それは時代の「流れ」でもあるからです。この国は、高度成長期に1次産業をほったらかしにして、製造業の拡大だけに血眼になりました。伸ばすべき産業には、政府は、産業政策といった間接的な誘導だけではなく、企業の借入金への利子補給などの「直接的」な支援も惜しまなかったのです。

さてこれからの製造業の行く末です。外向きの(輸出)産業は、既に先に述べたアジア諸国やBRICSと呼ばれる国々にシフトしてしまったと言えるでしょう。しかし、今多大な外貨を支払っているエネルギーや食糧や軽工業品に関しては、それを国内産業として再度取り込む余地は十分にあると見ています。例えば、再生可能エネルギー産業は現在に比べて何倍も拡大する余地が残っているでしょうし、食糧自給率も倍には出来るでしょう。何故なら、水田の4割は休耕していますし、埼玉県に匹敵すると言われている耕作放棄地は増え続けているからです。軽工業品に求められるのは、値段ではなくデザインや質感の良さです。一生手入れしながら使える日用品やいつまでも修理して貰える家電製品には愛着も生まれるからです。製造業に作るモノが無くなってしまったのでなく、彼らが「本当に時代の求めるモノ」を見失っているのが根っこの問題だと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 1日 (月)

2117 無理な実用化

科学技術に関する本を新たに読んだり、読み直したりしています。主に、科学技術が既に行くところまで行って壁に当たっていると言う論旨の本なのですが…。先ず科学です。身の丈サイズの世界ではニュートン物理を代表にした19世紀、20世紀前半の成果で十分でしょうし、化学の殆どの重要な発見や合成などは既に行われていて、今はこれまで困難とされてきたものを潰す作業を行っているのでしょう。一方、20世紀の華は、原子物理や素粒子物理あるいは宇宙の成り立ちを解き明かす宇宙物理などの、超微視的な世界や超宇宙的な世界を記述しようとする学問でした。また、DNAの構造が判明してからの、生命の起源の研究や、遺伝子操作が進歩し、実際にも作物の改良などに応用されてきました。

技術(産業)の世界では、科学の成果を一日でも早く実用化し、ビジネスに結び付けようとウの目タカの目で探していますから、一応原理が確認された科学や化学や物理の原理に飛びついてしまいます。そして、安全性や倫理的あるいは環境への影響を十分吟味されない製品を世に送り出してしまうのです。各種の薬害や、公害と呼ばれる汚染、あるいは農薬汚染などその例の枚挙に暇はありません。初期は、その影響も地域限定に留まっていたこれらの被害や影響も、産業の規模が拡大するにつれて、国境を越えて全地球的な広がりを見せてきました。オゾンホールの破壊や温暖化などがその例で、まだ確認されていない未知の環境影響もいくつか取沙汰され始めています。

そのトドメとなったのが、先の原発崩壊事故でしょう。放射性物質をコントロールする技術を十分に開発出来ないまま、核分裂という事象だけ先に実用化し。悪影響は単に「遮蔽」という受け身の技術だけに頼ったまま半世紀以上が経過してしまっていたのです。放射能自体の発錆を抑え、あるいは消す技術無しに、核分裂だけ濫用するする事の危険は、スリーマイル、チュルノブイリで警告され。Fクシマで完全に確認された筈なのです。原発は、先走った無理な実用化の例ですが、そのほかにも遺伝子操作やIPS細胞の応用などに、安全性や倫理面の課題が多く残っている状態で、実用化だけが日々推し進められている事に強い危機感を感じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »