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2013年10月31日 (木)

2227 知るより考え・行動する

似たようなタイトルが誰かの「哲学読み物」のタイトルにあった様な気もします。それはさておき、ここでは投稿者なりの言葉で書いてみる事にします。知る事は、決して難しくはなく、どちらかと言えば簡単です。先生に聞く、本で読む、メディアで情報を仕入れるなどの多くの手段があるからです。理解が難しくても、繰り返し聞けば徐々にでも知識は深まるでしょう。しかしながら、知ることが全てではありません。知っていてもそれが役立つとは限らないからです。

例えば、地震のメカニズムやその結果引きこされる津波の被害に対する知識があったとしても、それが実際に自分の身を守ってくれる訳ではありません。いざという時の行動を定めておき、リハーサルを行うと言う行動が伴わなくてはならないし、何よりそれを実行する判断力が必要です。事態の変化を察知し、適正に行動できる能力を「行動知」などとも呼びますが、それは取りも直さず、脳の判断を即行動に結びつける手順を上手く組み立てられる能力でもあります。災害の時、危険な方向を短時間に察知し、反対方向に逃げる能力を指します。それは、結局は人類が生き延びるために、脳の奥深くに刻まれた能力でもあった訳です。しかしそのせっかくの能力が、安穏すぎる生活の中で弱まったか、あるいは埋もれてしまった様なのです。

一方、知識とは異なり、考え・行動する事は自分の中だけで完結します。確かに知識は、考えるための材料にはなり得るでしょうが、レシピを作り(考え)料理(行動)に結びつけるのは、自分の「頭」以外にはないのです。考えるのは大変です。投稿者の様に、(ブログを)書きながら考えるのも一つの方法ではあります。文章を書くには、起承転結が必要となるので、書き出したら、多少こじつけでも結論に結びつけざるを得ないからです。また、ある現象なり、他の人の行動を目撃した時、自分ならどう考え、行動しただろうかと振り返ってみる事も同様に有効でしょう。

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2013年10月30日 (水)

2226 カテゴリー・ミステイク

敢えて日本語にすれば、「筋違い」とでもなるのでしょうか。例えば、今流行の「似非脳科学」や「似非心理学」に見られる様な、脳を知れば、人間のココロ(行動)も全て理解できる、といった風潮を指します。脳そのものの研究としては、それこそ脳科学や解剖学といった様に、種々の機能野の地図や脳構造そのものあるいはその中を走る信号(あるいはホルモン分子)などを対象にした、いわば脳の物理・化学的な側面を観察する学問群があります。

一方、その結果起こる人間の行動は、いわゆる認知行動学や心理学などといった、脳の働きの結果に注目した学問群も存在します。確かに、人間や動物の行動は脳の中に流れた「信号」ネットワークの結果である事は間違いありません。しかし同じ様な信号の流れで、別の人が同じ行動をすると言ってしまうのは、実は誤りあるいは誇張というしかありません。

そもそも、脳の器質を探求する学問と、その結果の行動を観察する学問とは、そもそも異質でありテゴリーが異なる分野なのです。カテゴリーが異なるものを、無理やり関連付けて、さもそれが強い因果関係を持つように言い立てるのが「似非~学」であると言えるでしょう。例えば、人間の感情をつかさどる脳の部位がありますが、そこは強い喜びでも、あるいは強い悲しみでも同様に興奮すると言う事実があります。また、人間には思い込みや錯覚(錯視、幻視、幻肢、誤解なども含む)がありますから、そもそも外部からの同じインプットで、全ての人が同じ行動をするはずがないのです。いわゆる心脳問題は、永遠の課題であり、そもそも脳が自身をリアルタイムでモニターできる筈もないのです。何故なら、モニターするためには脳の信号を何らかの形でモニター回路に流す必要があるので、その行為自体が信号に影響を与えずには置かないからです。

結局、ココロは脳の中で生ずる機能ではありますが、それは紙の表裏と考えるべきで、同時に見る事は出来ない相談なのです。辛うじてできそうなのは、それを透かして眺め、ある程度の相関関係を推察すること程度でしょう。近いうちに、この見方を環境問題にも敷衍してみようとも考えています。

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2013年10月29日 (火)

2225 ホドホドの経済

Aベノミクスが目指しているゴールが何処にあるかはさっぱり分かりませんが、そのゴールにたどり着いたとしても、誰も満足はできないでしょう。前回あの椅子に座って居た短い期間、彼は「美しい日本」という抽象的な言葉を繰り返し、しかし挫折しました。それではAベノミクスが具体的かと問われれば、各論で見れがやはり抽象的だと言うしかありません。景気回復やデフレがおさまれば、全ての人が幸福になれるかと言われれば、分配の方法一つ誤っても、今の政策は即失敗に終わるでしょう。つまり、格差が拡大する方向の如何なる政策も失敗すると言う「法則」には例外が無いからです。

一方で、先進国を追随する、C国やK国やIンドなどは更にAベノミクス先を行こうとするでしょうし、どこまで行っても熾烈な国際競争は収束する事は無いのです。唯一その様な行動が止まるのは、地球の地下資源が実質的に枯渇したことが明白になった時かも知れません。自分たちの生活を何とは維持しなければならない局面では、誰もすっかり生産高が減ってしまった製品を輸出しようなどとは考えないからです。

そうなると、地下資源を掘るのは止め、すでに地上にある資源をリサイクルして使うしかありませんし、昔の様に地上資源の有効利用に戻るしかありません。この国では、再生可能な資源やエネルギーで維持できる人口は、概ね3千万人と言われていますから、急速な人口減少はそこに向かって進むのかも知れません。問題は、そこに至る過程です。間違っても、いま国が進めている様な経済拡大政策を選択してはならないでしょう。軟着陸するためには、エンジンンの出力を下げ、徐々に高度を下げていく必要があるからです。この国には素晴らしい教えが残っています。例えば「足るを知る」、「勿体ない」などですが、ここでは「ホドホド」という形容詞?を挙げておきます。ホドホドの経済、ホドホドの食生活、ホドホドの暖房、ホドホドの~といった具合に、全ての行動の前にこれを付けてしまいましょう。これを敢えて別の言葉に置き換えれば「自己抑制」とでもなるのでしょうか。

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2013年10月28日 (月)

2224 夏からいきなり冬型

北国は今季最初の冬型の天気で北西風が冷たく吹き付けています。台風が、北の寒気を引き込みながら日本近海を北上したからの様です。今年は秋が異常に熱く、その名残として例年より多い数の台風が日本を襲い、その結果秋は殆ど満喫できないまま冬に入る様です。最近の傾向として、この傾向(つまりは四季ではなく二季風の気候)がますます顕著になった様な気がします。南の国では、二季つまりは乾季と雨季しかありませんが、この国の緯度でも夏と冬の間に、短い春と秋が申し訳程度に挟まっていると言う「二季」に近づいているのかも知れません。何しろ少し前の10月初旬は確かに30℃を超える真夏日の地域も多かった訳ですから。秋らしい日は僅か10月の2週間ほどしかなかった勘定になります。どうやら9月は「夏」になった様なのです。

以前からその原因を考えていますが、北極の温度変化が大きい事を疑っています。つまり、北極海の氷が薄くなり開水面が増えた結果、太陽が沈まない夏場に海水が熱を貯めこみ易くなり、結果として冬場の浮氷の厚みが小さくなると言う悪循環が生じていると思われるのです。開水面が大きくなると、アルベド(太陽光の反射率)が小さくなり太陽熱が蓄積して北極圏の気温が上昇する一方、秋分を過ぎると急速に気温が低下して、海表面は薄く結氷する事になります。暖かい海水面にたとえ薄くても氷の蓋がされると、気温も急速に低下し北極気団(冬将軍)の勢力が勢いを増す事になります。

しかしながら、やはり北極海の氷の上の気温は、以前ほど下がらなくなっているのも事実のようで、結果として寒気団は陸上、つまりはシベリアや北米の陸上に溜まり続ける事になります。これが北極圏の気温が上がっても、緯度の高い陸地や、その影響を受ける日本の北国などの冬が厳しくなった理由だと見ているのです。今年の冬も、昨年同様寒さが厳しく、積雪が多ければ(つまりは日中の融雪が少なければ)、この傾向が定着したことがますます明確になったという証拠でしょう。

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2013年10月27日 (日)

2223 卵かニワトリか

日曜日ごとにラジオから流れてくる政治座談会を聞くともなしに聞いています。嫌になるのは、何年経っても中身が与野党の足の取り合いの応酬であることです。例えば、経済問題です。先ずデフレから脱却できないのは、長い間政権にあったJ民党の所為だ、いやM主党政権の間に更に悪化したのだ、と言った応酬から始まります。そこから抜け出すためには、減税で経済を活性化すべきだ、しかし福祉を削らないためには消費税を上げなければならない、とJ民党。いや、景気回復のためにはまず賃金上昇ありきだ、だから企業の内部留保を放出して、可処分所得を大きくしなければならないと野党。

サラリーマンを早めに卒業し、それなりに社会を観察してきた立場とすれば、実はどっちにも賛成できません。人口が減り、製造業という稼ぎ頭が磨いてきた輸出競争力が後ろから強力な合い上げにあって鈍化している今、どんな矢を放とうが、トレンドを変えるのは難しいでしょう。問題は、富の分配方法にあると思うのです。地道に働きさえすれば、人並みの生活が送れる社会が実現できれば、人々はココロ豊かに暮らせる筈なのです。一つのモデルは、北欧の様な高福祉高負担社会でしょうか。内部留保は吐き出させるが、窮地には救いの手を差し伸べる。億万長者からはしっかり年貢を取り立てるが、お金の掛かる教育は大学まで無料にするなどの諸制度を検討すべきでしょう。いきなりそこへ向かうのが無理であれば、例えばこんご20年かけて刻むマイルストーンを打ち立て、それを国民的合意の元で20年間有効な法律として確定すれば、それを道標として国も企業も市民も行動計画が立てられるでしょう。今の様に、たった3年や5年の中期計画を作っても政権が代わればご破算になる制度では、誰も本気にはならないでしょうし、預貯金や企業の内部留保も絶対に出てこないでしょう。

揺るがない長期計画と、しっかりした持続可能な制度設計を行えば、誰も使う予定もない余分なタンス貯金やいざという時(例えば新たな経済危機)に備えた内部留保を抱え込もうとは考えないでしょう。卵が先でもニワトリが先でもないのです。(命が循環する)持続可能な社会制度そのものこそ先ず話し合われるべきでしょう。

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2013年10月25日 (金)

2222 タコツボ技術

少し前、ガラパゴス製品などと言うあだ名の製品が揶揄されました。それは、デファクトスタンダードを無視した、タコツボ市場のタコツボ製品だからです。タコツボ市場やタコツボ製品は、間違いなく狭い視野から生れます。携帯電話で言えば、国内市場の売れ筋商品を視野に入れると、どうしても流行に敏感な若い世代を想定した製品を作ってしまいがちになるのでしょう。つまり見映えの良さや多機能である事に集中して開発してしまう訳です。

そうならない方法は、広い視野から開発すべき製品を絞っていくアプローチが考えられます。つまり、出発点は「将来の通信の方法は如何にあるべきか」という問いになると思うのです。固定電話の長い時代が続き、その後爆発的に携帯電話の洪水が起こり、今はそれがスマホに置き替わりつつあるわけですが、20年後、30年後のあるべき通信の姿については有用な提言をしていない様に見えます。この場合の提言とは、現在からの外挿ではなく、あるべき理想形への提言を意味するのです。それは、結局は人と人とのコミュニケーションは本来如何にあるべきか、という根源的な問いに応えなけれならないので厄介です。

ヒトの進化の過程を振り返れば、仲間とのコミュニケーションは間違いなく、単純な発声と身振り手振りで始まった筈です。それが現在では言葉、それも電子メールという書き言葉に置き替わりつつあるわけです。そこに現代のストレスが生まれる余地があると見ています。携帯電話の将来、というより広く将来のコミュニケーションのあり方を考える時、ガラパゴスではない本質的な意味での製品が提案できるのでしょう。電子技術者は、決してコミュニケーションの専門家ではなく、むしろ電子回路や無線通信というタコツボに住んでいると言うしかありません。携帯電話の開発者はタコツボから出て、先ずは広い年代のユーザーや言語学者や民俗学者や心理学を修めた人たちと、広くコミュニケーションを図り、ねばり強く意見を聞く必要があるでしょう。もちろん、携帯電話は、タコツボ市場やタコツボ製品=タコツボ技術のホンの一例に過ぎません。

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2013年10月24日 (木)

2221 植物食(菜食)

誰も見たわけではありませんが、地球に最初に生まれた生物は、海の中の単細胞の植物(藻の様なもの)であると言われています。それがミトコンドリアという「細胞内エンジン」を得て、他を捕食する様な単細胞生物へと「進化?」したのでしょう。

最初に地上に進出したのも多細胞に進化した植物だったのでしょう。かなり遅れて、それをエサとする動物も追いかけて上陸しました。もちろん、動物の方が進化に時間を要したため、上陸は植物よりはずっと後の時代になりました。植物をエサとしていると言えば聞こえは良いのですが、結局動物は植物に依存している、という方が正しいのでしょう。つまり、植物⇒草食動物⇒肉食動物という食物連鎖と、植物と昆虫(あるいはカビやバクテリア)の様な共利・共生関係があって、初めて現在の様な循環する生物相が形成されている訳です。

長い時間が流れて、現在地上を席巻しているのは人間を頂点とする動物の様にも見えますが、動物の植物異存の構図は実は何も変わっていないのです。私たちヒトも、一見雑食で、植物に対する依存度が低そうに見えますが、逆にその依存度は高くなってしまったのでした。つまり、家畜(食肉)への依存度が増したと言う事は、植物(穀物など)を直接摂食する場合に比べ、一人が必要とする植物の量は、飛躍的に増加してしまったのです。

ならば、逆に植物食を主体に食生活を組み立てれば、私たちの世界の持続可能性は増すと考えて良いのでしょうか。答えはYesです。牛肉1㎏を得るために、飼育農家は家畜に穀物を10㎏は与えなければなりません。と言う事は、肉食を諦めれば同じ穀物量で、今の10倍の人口を支える事が出来ることを意味しているのです。私たちは、健康に生きるために、より良い方法での植物食の文化を再構築するべきなのです。その結果、平均寿命が多少短くなったとしても、死ぬ直前まで健康に生きられるのであれば、何らの問題もないでしょう。

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2013年10月23日 (水)

2220 十年ひと昔

十年ひと昔と言います。確かにこれは結構考えやすい年月でもあると思います。生まれた赤ん坊も、10年経てばいっぱしの理窟をこねる子供になるでしょうし、その子供も10年経てば成人する事になります。その成人も順調に行けば10年後には結婚していて、かなりの割合で親になっている可能性があります。つまり、10年という期間は、竹で言えばその節に相当するものであり、であればこそ、それを重視する必要もあると思うのです。

この節目は、それなりにそれ以前の10年を振り返るに良いタイミングでもあります。何も考えずに過ごした10年は、結構早く経過し、あっと言う間に年齢が10歳増えてしまうでしょう。投稿者の場合も、ある時期以降自分の人生を振り返り「~時代」と名付けて括ってみる事を始めました。都合が良い事には、二十歳で社会に出て、最初の10年は造船屋、次の20年は航空機屋をしながら人生を過ごしてきました。50歳過ぎに企業を卒業して、一時中小企業に席を置きながらフリーランスとして約10年過ぎた訳です。この10年は、自分の人生の振り返りであると同時に、自分が生きた20世紀後半の総括もしてきたつもりです。

さて今後の10年ですが、自分としては健康を維持しながら、持続可能性の高い社会の実現に向けて走り回るつもりです。その一部は間違いなく再生可能エネルギーの利用の拡大ですが、大きく見れば社会システム全体として、地下資源やエネルギーへの依存度を急速に下げなければならないのです。それを確認するためのフィールドとしては、食糧自給率が高く、多くの「地上資源」がある東北はうってつけなのです。

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2013年10月22日 (火)

2219 合理性・合目的性

合理性という言葉があります。科学や工学、あるいは経済の原理原則に則った方向を指します。これは、科学・技術における結論を導きますし、社会においても、例えば企業戦略も方向づける考え方です。それは、いわば科学や技術が確立されるに従って、ますます私たちの行動規範として強まってきた様に思えます。それ以前は、たぶん物事をわきまえた長老が、経験とカンを頼りに進むべき方法を決めて来たのだと想像しています。

一方、合目的性という言葉もあります。辞書の定義はさておき、私たちはこの言葉をもう一度テーブルの上に置く必要があると思っています。つまり、目的が明確ではない状況で、いくら合理的な判断をしようとしても、それは無理な相談だからです。進むべき方向が見えないのに、そちらに進む合理的に最適な方法を問われても、答えは出ないのは当たり前だからです。

経済を含む社会システムと、その活動においても全く事情は同じでしょう。デフレ克服と経済の活性化のために三つほどの政策を打ち出して、一応合理的アプローチに見せたAベノミクスも、それが合目的であるか否かについては、何らの答えも準備していないのです。つまり、デフレを克服し、景気を良くするのは一体誰のためで、どの様な幸福のために行う行動であるのか、最終的な「目的」が示されていないのです。一体、ややインフレ傾向の経済で、物価もサラリーも少しずつ上昇し、景気(=お金)の循環さえ良くなれば、多くの国民が幸福になるのか、これまでどの哲学者も政治家も明確には指し示してはくれませんでした。実は、過去に賢い哲学者が、抽象的な言葉で言及していたのかも知れませんが、少なくとも私たち凡人には、誰もそれについて説明してくれていません。私たちは、ここらで私たちが「何のために生きるのか」つまりは、人生の目的、日本と言う社会の進むべき方向を、立ち止まって熟考する必要があると思うのです。

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2013年10月21日 (月)

2218 相対主義⇒代案主義

絶対的な評価基準を持たない私たち凡人は、判断しなければならない局面に立たされた時、相対的基準で結論を出しがちになります。例えば、選挙で候補者を選ばなければならない時、私たちの物差しは「どっちがマシか」になってしまいます。それは、世論調査などによく現れる「他の内閣より良さそうだから」に多くのスコアが集中することでも容易に想像できます。しかし、それでは世の中が今よりマシになる保証は生まれないのです。人々の選択はブレるので、理想的な社会がもしあるとして、そこに至る道はジグザグにならざるを得ません。ジグザグでも前に進めばまだしも、時には後戻りも多いのです。例えば、今の政治がいわゆる50年体制と呼ばれる時代から前に進んだかを振り返っても、はっきりYesと断言できる人は少ないでしょう。相変わらずの椅子取りゲームと、B国頼みの外交、ステークホルダー(=業界)へのバラマキ、一部有権者(つまりは地元民)への媚び、相変わらずのお役所への依存、決められない議論、などなど時代が進んでも体質は全く変わっていないと言うしかありません。

とは言いながら、このブログは「批判すること」が目的ではありませんので、何らかの提案を出したいのです。ここでは一つの方法として「代案主義」を提唱しておきます。例えば、増税反対、TPP反対、原発反対、憲法修正反対、・・・何でも反対ではなく、ではその代案はどうあるべきかを具体的に提案しなければ無責任だと思うのです。代案を出すのは、しかし難しい作業ではあります。というのも、増税に代わる方法があるとして、それは単に租税の仕組みの改善だけで解決する問題ではないからです。それは気の遠くなる様な、多元方程式を解く作業になるでしょう。

しかし、その根っこの根っこを掘り続けると、結局は「より多くの国民を幸福にするにはどうすれば良いか」、という単純な課題に行き当たる筈です。先ずは、その課題の中にある「国民の幸福」の定義が必要なのでしょう。それは、今の政治家が考えるモノカネの充足による幸福ではない事は明らかです。ヒマラヤに抱かれた小国の国民幸福度が世界で最大である事は、何も偶然ではありません。相対的な物資的充足が、決して幸福の物差しではない事の一証明に過ぎないのです。つまりは、私たちはモノカネではない絶対的な幸福の羅針盤と物差しを作らざるを得ないのでしょう。その羅針盤と物差しを、種々の社会システムにあてがえば、進むべき方向と行動の程度が見えてくるのではないかと考えています。

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2013年10月20日 (日)

2217 盲信

現代社会には情報が溢れ、殆どの情報がネットで入手できるため、あらゆる点で透明性の高い社会だと思われがちです。しかし、それは逆で、情報量が多いが故に、一般人はそれに溺れ、重要な情報は見えていない様に見えるのです。もちろん、ネットに流れてはいけない情報は、それを持っているか作り出した側は必死に隠そうとします。それが、例えばある国とウィキ何とかとの確執にもなっている訳です。

さて情報を手にし、それを利用する側から見ると、情報の質は非常に重要です。例えば、Fクシマ原発の内部は、一部分しか立ち入れないが故に、その情報を持っている側のプレス発表と、たまに入るマスコミからの情報がその殆どを締めているでしょう。足りない部分は、専門家や情報を受け取る側が想像し、補完するしかありません。とは言いながら、その際不正確な推定や、勝手な想像により真実はかなり変質する事が避けれません。従って、表面上の原発反対、原発持続論議も上滑りな水掛け論になっていしまいがちになるのでしょう。更にアブナイのは、間違った想像や推定が、さながら事実の様に流布していまう現象です。これは、特にネット社会では起こりがちな雪崩現象です。つまり、Retweetの連鎖が、推定や想像が「さも真実の様に」固化していくのです。

私たちはぜひ盲信を避けなければなりません。そのためには、事実を丁寧に掘り出し、それを再構築する力を持つ必要もあるでしょう。それは難しい事ですが、決して専門家ではない一般人に不可能であるという訳ではありません。例えば公害との戦いや、薬害など種々のケースで被害を受けた人たちは、その後座して沙汰を待っていたのでなく、出来る限りの手を尽くして裁判などで権利を勝ち取るための「検証作業」を行ってきた筈です。つまり、盲信を避ける手段は、情報に接した時、常にその情報の出所を当たり、検証(又は裏付けを取る)する姿勢しかないと思うのです。その意味で、情報は「第一報」をそのまま受け取るのでなく、少し時間を置いた「解説情報」、さらにはかなりの期間経過した後の「検証情報」などにも注意を払っていく必要もある筈です。

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2013年10月18日 (金)

2216 現代文明の足かせ3

足かせについて書いていると、もう一つありそうな気がしてきました。それは、今の文明が持っている持ってるイナーシャの様なものです。これを言葉にするのはなかなか難しいのですが、逆にそれこそが文明の本質そのものだとも言えるかも知れないのです。文明の恩恵にどっぷりと浸かってしまうと、そこから離れて暮らすのはかなりの勇気のいる事になります。例えば、郵便屋さんが郵便物を配達するのさえ苦労する、町から遠く離れた山里で暮らすのは、そこに先祖代々暮らしてきた人たちか、あるいは重大な決意を持って移り住んだ人達くらいしか耐える事が出来ないでしょう。

たぶん普通の人が山間地で上手く暮らせないのは、自給自足の暮らしを支える知恵や技が無い事もありますが、文明から離れる事への怖れや離れた時の飢餓感が大きな障害になるだろう事が想像できます。つまり、文明から大きな恩恵を受け取ると同時に、私たちは文明への依存度を高めてしまう訳です。いわば文明中毒とも言えるかもしれません。一度文明の蜜の味を知ってしまうと、それ無しには生きていけなくなると言う事なのでしょう。

これこそが、実は最大最強の足かせであり、都会の暮らしに慣れた人間が、未開の地で自給自足をする事など夢にも想像できないのです。だからこそ、フィクションの中だけになりますが、無人島に不時着、または漂着した主人公のサバイバル映画で、繰り返しそれを疑似体験する事に興奮する訳です。または、非常に短期間にはなりますが、山や海でキャンプという数日の疑似サバイバル体験を通じて、その一端を知ろうとするのでしょう。投稿者の事を振り返ってみても、山に入って、自然のなかのトレイルを辿りながら、まだ人の手の殆ど入っていない自然に触れる中で、この足かせからの暫しの解放を求めているのだと思います。

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2013年10月17日 (木)

2215 現代文明の足かせ2

続きです。2214でも書いた様に、現代文明の足かせの元凶は科学・技術でありますが、結果としてそれを利用して動いている経済(=お金)が直接的な足かせとなっているのです。今の時代、よっぽど田舎にでも行かない限り、お金無しには一日も暮らせません。一駅の区間電車に乗るのでさえ、例えば市場で売り買いすれば180円分になるコメを、それを育てた農家の人が袋に入れて差し出しても、駅の改札口は通れません。でも、お金の価値がそれほど重要ではなかった時代(例えば江戸期)には、コメは立派な価値交換の代価でした。農民は税金をコメで払い、武士は給料をコメで受け取っていました。比較的最近の話でも、戦後の混乱期は貨幣が意味を失い(低下させ)、物々交換が横行した時代があった筈です。

しかし、高度成長期を経て、大多数の普通の人がそれなりの現金収入を得る事が出来る勤め人になった結果全てのモノがお金だけで交換される様になったのでした。これも、間違いなく現代文明の強い足かせになっているでしょう。その足かせによって、人々が生きる上で最も需要な資源である筈の農業生産物でさえ、科学・技術の産物である工業製品と同じ俎板の上に載せられて、国際間のたたき売り合戦の材料にされているのです。

残念ながら地上のお金は天文学的規模で増え続けています。何故なら、科学・技術の成果を支えるために、日夜大量の地下資源やエネルギーが掘り出されて、その代価が支払われていますので、それはさながら地下からお金が掘り出されているのと同じだと言えるからなのです。つまり私たちの足かせは、日々強靭になりつつあると見えるのです。

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2013年10月16日 (水)

2214 現代文明の足かせ

コペルニクスやニュートンあたりに始まる、科学における革命期以降、科学や技術の成果を利用して、確かに現代文明は繁栄している様に見えます。T塚治虫が描いた様な21世紀や一般人が自由に宇宙旅行が出来ると言った、戦後世代が刷り込まれた未来像には程遠いものがありますが、それでもスイッチを入れれば電化製品が動き、普通の人が一人1台の携帯電話を持ち、車を乗り回す時代にはなりました。それは確かに科学・技術の成果であり、恩恵と言うしかないでしょう。

しかし、逆の見方をすれば、私たちはその科学・技術からの強い圧力に晒されているとも言えるのです。つまり、現代に生きる人間は、日常生活において多かれ少なかれ、科学。技術の成果を(お金を払って)使うように強要されているとも言えそうなのです。例えば、数十キロ離れた目的地に、歩いて行くなどと言い出せば、かなり変人だと思われるでしょう。普通の人は、車か、バスか、鉄道を使うといういくつかの選択肢の中から「選ばざるを得ない」のです。自転車でさえも、ささやかながら科学・技術の成果をいくつも使っている筈です。公共交通機関との違いは、自転車を使えば、科学・技術の使用代価、この場合は交通費を支払わなくて済む点だけでしょうか。

結局、現代文明の足かせとは、その社会に生きる人間は、否応なしにそれを使う事を強要され、その代価を支払わなければならないと言えるでしょう。それを、裏側から見れば、現代文明とはひたすら科学・技術をお金に換える努力を重ねてきたものだったと、言えなくもありません。お金にならない科学(例えば理論物理学)などは、取り敢えずは税金と言う形でお金を集めて、科学者にはその成果を出来る限り早い時期に、その成果をお金になる様に努力する事を強要する事になります。彼のNーベル賞ですら、科学・技術の分野では、お金につながる成果に対する褒章であることは間違いないでしょう。科学・技術分野においての人類に対する貢献とは、結局科学・技術の成果を、お金を払ってくれた人だけに役立てる事を意味するのです。それは、科学者や技術者への圧力であると共に、それを最終的に利用する私たちにとっても、暗黙の圧力(足かせ)になっている筈なのです。

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2013年10月15日 (火)

2213 工業材料としての木材

あまり抽象的な事を書き連ねるのもつかれますので、今回は思いっきり具体的なテーマです。さて、どんな鉱物資源もそれを掘り出すためには機械を使って土を取り払い、苦労して運びだし、それを膨大なエネルギーを使って精錬する必要がありますので、高いものについてしまいます。例えば、鉄であればキロ当たり100円前後、航空機などに使われるアルミ合金に至っては、キロ当たり600円前後の値段になるでしょう。

しかし、人間が世話をして育てたとはいえ、地上に生えている樹木を切りだして、木材という材料にした場合、切り出し搬出、製材、乾燥まで入れても、たぶん市場価格はキロ当たり10円程度に過ぎないのです。なんと安価な材料でしょう。それは、なんといっても素材が地上に存在するからなのです。これを利用しない手はないでしょう。問題は、木材がいくつかの欠点を抱えた材料である点です。例えば、水分量が変動する結果、寸法が変化したり狂ったりする点、虫や腐朽菌などによって蝕まれるという点、あるいは長手方向には強いが、幅方向には割れやすいと言う点などです。

もちろん、いくつかの技術を使えば、それらの欠点をカバーする事は可能です。例えば、木材にプラスチックを含浸させれば、プラスチックの強度に加えて木材の繊維(ファイバー)が加わり、複合材としてバージョンアップ可能です。もちろん、その場合単価はビックリするほど跳ね上がりますが…。もう一つの有効な「改質」手段としては、木材の圧密技術があります。木材を180℃前後の水蒸気雰囲気の中で圧縮しながら30分程固定し続けると、木材は圧縮されたまま形が固定されてしまいます。天然の木材には、維管束と呼ばれる細かいパイプ状の空洞があります。この空洞が木材が軽量である理由でもありますが、同時にそこには水分が入り込み、湿潤や腐朽の原因にもなっているのです。圧縮固定された木材(圧密木材)はその維管束が潰されて密着しますので、水分が殆ど侵入しなくなります。同時に密度も、強度も格段に向上する事になります。理論的には、木材は密度で言えば1.6(つまりは純粋なセルロースの密度近づき、強度もアルミニウム並みまでアップすると言われているのです。ここまでくれば、木材も立派な工業材料になり得るでしょう。

課題はあります。現在の技術では、このプロセスに高価はオートクレーブ(ステンレスの圧力釜)が必要となり、加熱・加圧するための蒸気を作るボイラや重油も必要です。もし、これを大気中でより少ないエネルギーで、つまりは安価に加工できれば、木材の用途は格段に広がる筈なのです。当面の目標としては、先ずは鉄以下の価格でそれを実現することでしょうか。

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2013年10月14日 (月)

2212 ベテランの活用

2211の続きです。適切なメンテナンスのため問題点は、お金(予算)に加え、もう一つの重大なものがあります。それは、実は「人」である事は軽視されがちです。つまり、全てのインフラは、それを作った当時の設計者や施工者の知恵が結集された「作品」であるという点が見過ごされていると思うのです。その結果、いま起こっている事は、メンテナンスを行おうにも、その中身を十分には知らない人たちがそれを行わざるを得ないという危うい状況に陥っているのです。例えば、コンクリート構造物の外側の形状は、何らかの形で図面が残されているし、現状を実測しても把握できます。しかし、その中に配置されている鉄筋の太さや配置は、建設当時の施工図を見なければ把握できない筈なのです。そのコンクリートも、配合された時に同時に採取され、強度試験が行われたサンプルは当然廃棄されていますし、鉄筋の配置を示した詳細図なども、保管が大変なのでやはり処分されているでしょう。

つまり、適切なメンテナンスや修理を行おうにも、詳細な図面の多くが処分され、実際の中身を知ろうにも、それを設計し施工した人々は既に現役を退いていると言う二重苦が存在するのです。

インフラや設備やあらゆる製品を作って売った人には、そのインフラや製品が寿命を全うするまで、何らかの責任があると思うのです。もちろん適正なメンテナンス費用は使用者に負担して貰うとしても、少なくともそれを安全に運用し続けるられるだけの、メンテナンスマニュアルは準備して置く義務もある筈です。言葉や絵で伝える事が現実的でないのであれば、その建設や設計・製造に関わったベテランを、何らかの形でつなぎとめておく必要があるでしょう。具体的には、軍隊で言うところの「予備役」の様な制度です。ベテランンは、ボランティアで、自分が関わったインフラや設備や製品を、時々は手で触って、その感触を確認しておく必要もあります。まだまだ元気で活動できる60歳過ぎのベテランを、無理やり退役させるなんて暴挙は、この国を「ボケ(たもん)勝ち」社会にするだけだと思うのです。

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2013年10月13日 (日)

2211 メンテナンス費用

仕事を貰ったのでバスで浜松に出かけました。秋田⇒東京⇒浜松と言う経路です。秋田出発は夜ですから外の景色は見えませんが、東京からは昼便なので、周りの景色を楽しみながらの旅になりました。富士が見える側の席を予約したのですが、残念ながら天気が悪く、その姿は拝めませんでした。仕方がなく、高速道路沿道の景色を眺めていましたが、東名道からは場所によっては接近して建設されている第二東名が良く見ことも結構ありました。普通高速道を走っていて目に入るのは、対向車線やガードレールや防音壁程度なのですが、並んで作られた新たな高速道は、その土盛りや陸橋や古い道路道路よりもっと高く設置された防音壁などが、しっかり観察できます。かなり前に建設された旧高速道は、主に土盛りで高低差を小さくしていますが、新しい道路は、陸橋やトンネルを多用して建設されている事がよく分かります。建設コストを、暗算で見積ると、たぶん新しい方は、2倍くらいになっているのではないかとも感じました。

さて、心配なのは40-50年後です。今は新しいコンクリート橋や鉄橋がもしかすると寿命に近づくかも知れないからです。コンクリート構造物は、大気中の物質、例えばCO2NOxやSOxなどが溶け込んだ酸性の雨水で劣化し、鉄鋼構造物も同様に酸性の雨水や海から運ばれる塩分で、確実に腐食が進みます。つまりは、どんな種類のインフラであっても、寿命は必ず尽きてしまう運命にあるとうことになります。問題は、、寿命はメンテナンスの良否によって、大きな幅で長くなったり。逆に短くなったりすると言う点です。実際、高度成長期に作られた多くのインフラの多くが、いま寿命を迎えようとしています。コンクリートはボロボロになって剥離・落下し、鉄鋼構造物は腐食で板厚が減少し、安全余裕が極端に小さくなっています。中には、実際に構造が破断した鉄鋼橋も出ているのです。

鉄鋼構造物は、普通は塗膜によって保護されています。塗膜は、化学物質(例えばポリウレタンなど)の連続した膜なので、鉄鋼を腐食の原因となる水分や空気(酸素)を遮断できます。しかし、塗膜は紫外線によって徐々に劣化が進むので、結果として例えば完成後10-15年ほど経過すると、再塗装が必要となるわけです。ところが、昨今は国も地方自治体も十分なお金を持っていません。予算を今日明日に必要な建設や修理に使ってしまうと、10年後20年後を見据えた計画的なメンテナンスに振り向ける予算など何処からも捻出できないのです。結局、現状の様にとうとう壊れてしまったものを、後追いで直すイタチごっこの繰り返しに陥る事になってしまいます。メンテナンス費用は、最低でも毎年建設費の2-3%は掛けなければ、その性能は維持できない筈なのです。

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2013年10月12日 (土)

2151 何のための豊かさ?

私たちは、ある時期以降(たぶん高度成長期以降)豊かさという幻想を追い求めてきたような気がします。幻想とは、それを掴もうとしても掴めないものを指します。しかし、具体的なモノであれば掴めるではないか、という突っ込みが来そうですが、モノによる豊かさは、結局は見かけの豊かさでしかなく、その豊かさもやはり幻想に過ぎないと思うのです。モノに囲まれ、病気になるほどの肥満になる、あるいはダイエット番組が常に高い視聴率を取るほど食べ続ける事が果たして豊かなのか、私たちは何度でも考えてみる必要があります。

浅学な投稿者が今更こんな事を書くまでもなく、既に1950年代に社会学者のD.リースマンが見事に指摘していたのでした。彼は、都市に住む人々の生活や社会を観察して、それを「他人指向型」社会と名付けました。つまりは、他人の生活を過度に意識して暮らす社会の事です。他人が何を持っているか、何を着ているか、どんな家に住んでいるかを過度に気にしながら暮らす社会であると言う事なのです。没交渉の都会の生活でも、他人の生活の情報はドンドン入ってきます。隙間なく並んだ都会の住宅では、隣家の生活は手に取る様に見えたり、感じたりすることが出来ますし、より豊かな生活ならテレビのスイッチを入れれば、これでもかこれでもか、という様に絵が出てきます。その結果、私たちは他人を羨み、その生活に近づくために、先ずはそこに見えていたモノを買い集めるのです。しかし、望みのモノを手に入れたととしても、実はそれは欲求不満の始まりに過ぎないのです。何故なら、もっとお金を持っている人(他人)は、もっと高級なモノを複数持っている筈だからです。つまり、節約してお金を貯めて、ちょっと高級な車を手に入れたとしても、もっと高級な車や外車を「見てしまう」と、それは新たな欲求に火を着ける訳です。

その欲求のスパイラルから逃れるには、実のところ欲求から距離を置く、というか手放すしかないとも思います。具体的には、贅沢なモノを見ない、あるいはやや贅沢と思われるモノを手放し、質素と思われるモノに徐々に換えていく、事などが考えらえそうです。それには、私たち自身がものの考え方を、リースマンが言う「他人指向型」ではなく、「内省型」にシフトしていくしかないとも思うのです。今の生活が他人の生活に比べてどうこうではなく、(生き物としての)ヒトでなく、(社会的な)人間として、自分は「良く生きている」か否か、が内省型の幸福の物差しの様な気がします。良く生きるとは、結局は持続可能な社会の仕組みを確実なものとして、将来世代に引き継いで、寿命を全うする事に他ならないのでは、と60年余りを生きてきて、しみじみ感じている今日この頃です。

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2013年10月10日 (木)

2209 時は金ではない

「時は金(貨幣)である」と言ったのはB.フランクリンだった様な気がします。彼が言った本心は計りかねますが、言葉通りに受け取って、時間=金(価値)である事を意味していたのであれば、おそれながら異議を唱えたいと思います。仮に、人間の一生は短く、時間は貴重だから、お金同様大切にしなさい、といった前向きの意味であったにしても、それでもやっぱり賛成できません。確かに、人間の寿命は短いのですが、それでも動物の中では最長の部類でしょう。むしろ、人間が生きる事によって環境に与える大きな負荷を考えるのであれば、時間をうんと使って、環境負荷を可能な限り下げる(つまりは殆どの作業を人力でこなす)事も、結構有意義なのではないかと思ったりもします。

時間は大切にしようがしまいが、全ての存在の上に均等に流れます。であれば、それを大切にするあまり、逆に時間に追われる生活というのも考え物でしょう。たぶん、お金持ちほど時間の流れに強迫観念を感じているのでないかと同情します。例えば、投資で大儲けをしている人(や投資を任されている人)は、投資のタイミングを図るために、秒単位の暮らしを余儀なくされる事でしょう。のんびりお茶を飲むため、あるいはトイレに立つために席を外している間に、買いや売りのタイミングを逸すれば、莫大な損害を被る事もあるからです。

お金から離れれば、時間なんかはいくらでも手に入る筈です。むしろ、人は時間を捨てる事にさえ熱心になれる存在でもあります。人々が何故苦しい巡礼の旅をするかを考えてみれば、その一端が理解できるかも知れません。日本で言えば四国遍路、海外で言えばスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼旅などがその代表例でしょうか。その旅で、人々は何も求めていないでしょう、足の痛みや、寒さや暑さに耐えながら、ひたすら自分の時間を捨てる事に専念する事になります。誰も褒めてはくれませんし、何の得にもなりませんが、目的を達した時には、たぶん自分で自分を褒める事になるのでしょう。その達成感は、自分の時間を使って、大きなお金儲けをした時よりは、比べものにならない位大きいと想像しています。

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2013年10月 9日 (水)

2208 時代の前のめり

ブログを書いていて、ある考えを煮詰めるて行くと、どうしても抽象的になってしまいます。別に哲学に走ろうと思っている訳ではなく、このブログでは、環境問題に絡めて出来るだけ具体的に書こうととは思っていますが、気が付くと抽象と具体の間を行ったり来たりすることになってしまいます。それはさておき…。

さて最近前のめりという言葉が気になります。前のめりとは、つまりは行き過ぎ。またはやり過ぎの事です。自分の足元より体や頭が前に出る結果、下手をすれば転んでしまいます。この国のお役人は決して前のめりにならない人種でした。むしろ、やる事が遅過ぎ、あるいは必要な事さえ、前例が無いと言う理由で手を出さない存在でもありました。一方、政治家には前のめり人間が多い様に思えます。それが出来るのは、彼らはホンの一時期大臣や首相の椅子に座るだけなので、前のめりの政策がたとえ失敗しても、その椅子を明け渡せば済む話だからです。大失敗しても、代議士の座まではなかなか離さない姿は、見るに耐えないものではありますが…。

まあ政治家の一般的な性向を揶揄しても始まりません。この前のめり傾向は、何も政治の世界だけではない様な気もするのです。例えば経済です。経済の世界では、他社に先んじる事が、市場のシェアを増やす最良の戦略と考えられているので、誰かが上手い製品やサービスを考え出すと、我先にそのビジネスモデルを真似て、あるいはそれに乗っかって、利益を増やそうと全力をあげる事になります。深く考えずにコピーされ、瞬く間に市場に溢れる製品・サービスの何と多いことでしょう。50数基もコピーされた原発、節操なく進展している高速道路や新幹線、辻つじに立つコンビニ、際限なく生み出されるゲーム機やゲーム、渋滞や大気汚染を生み出すだけの過剰な車社会、注文すれば翌日には届くネット商品、便利過ぎる電化製品やOA機器などなど。これらは、時代の前のめりの例になるでしょう。

私たちは、足元を見ながらそのつま先が前に進んだ時、それに呼応する新たな製品やサービスに目を向けるべきでしょう。それ無しに、新しいものに飛びつく時、前に転んでしまうのです。人が転ぶのは仕方がないにいても、社会全体が躓く事だけは避けたいものです。

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2013年10月 8日 (火)

2207 文明のアポトーシス

生き物やそれを構成している細胞、というよりその中心となっているDNAは、自身の終わりを決める仕掛けを内蔵しています。つまり、どんな細胞もそれ自身の寿命を決めるプログラムを内蔵しているのだと言えます。その仕組み(プログラム死)やその働き自体をアポトーシスと呼ぶ様ですが、投稿者はそれを文明に敷衍して考えています。そんな事は、たぶん大昔の賢人が何度も指摘している事かも知れませんが、如何せん浅学の身としては、同じ事をもっと低いレベルで考え、書いてみる事しか出来ません。

さて、文明を一つの生物に喩えると、それを構成する個々の人間が細胞に相当すると考えても良いでしょう。個々の人間は、家族を作りコミュニティを作り、コミュニティが集まり国を作っています。部族間や国同士の争いは、人間の体で言えば部分的な炎症に相当するかもしれません。いわば頭痛や胃炎や皮膚炎や筋肉痛みたいなものです。しかし、全体として文明はそのおわり終末に向かって進んでいるとしか思えません。それを加速するのはいわゆる情報やITであるのは皮肉と言うしかありません。例えば桃源郷の様な山里があったとして、そこに立派な道路が出来、やがて光ケーブルが引かれて、大量の情報が流入するまでは、貧しいながら持続可能な自給自足の生活を送っていた事でしょう。

しかし、あらゆるモノがインターネットで注文出来、翌日か翌々日には手元に届くIT時代、山里にも多くの情報の洪水が押し寄せ、結果より多くの現金収入を必要とする様になってしまったのです。実のところ、今日では山里も都会もあまり変らない生活を送る事も可能になっています。IT回線が繋がってさえいれば、オフィスワークなら田舎でも何ら問題なく遂行できるでしょう。しかし、オフィスワークでは食糧は作れませんから、それで現金収入を得て、食糧は都会の食品工場でパッケージングされたモノを買うしかないのです。隣の大国では、いま何億という途方も無い数の農民を、都市労働者に転換しようとしています。農地を潰して工場を建てて、一体これ以上何を作ろうとしているのか。確かに今の文明は、着実にアポトーシスへの道を歩んでいるとしか思えないなのです。今の文明が向かっているアポトーシスは、たぶん私たちが工業製品に囲まれ、しかし食べ物や飲み水に事欠く様な社会が、地球上の至る所に出現した時に現実のものとなるのでしょう。

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2013年10月 7日 (月)

2206 進歩と退歩

現代の我々は、常に進歩しなければならない、という強迫観念に支配されている様に見えます。科学や技術や医療を進歩させ、経済を成長し、スポーツ記録を伸ばし、芸術のレベルを極めて、個々人の能力すら前世代より高まっているとさえ錯覚しています。しかし、冷静に考えてみればそれは幻想であると言う事が分かります。文献やモノや機械や楽器の種類が乏しかった時代の科学者や発明家や手工芸や音楽家のレベルは間違いなく今より優れていた部分が大きかった筈です。昔は小柄で筋力も非力であったスポーツ選手ですら、乏しい食糧や身体能力の低さに比べれば、その記録は「相対的」には今と今のトップアスリートに決して引けは取らないでしょう。

私たちの能力はいわば、先人が履かせてくれた下駄の上でこそ高まっている様にも見えますが、あくまでもそれは「見かけ」に過ぎないのだと言えます。それは、初代が残してくれた貯金を手にして、自分が金持ちだと信じているノウテンキな二代目の姿にも似ています。私たちは、たまたま先人の残してくれた財産(データや知識)を使いながら、さながらそれを自分が獲得した知識の様に使っているだけなのです。

私たちが真に進歩を成し遂げたと胸を張れるのは、私たちが私たち自身の力で、先人が積み上げてきた知識に、持続可能性を高める新たな知見を加える事が出来た時でしょう。如何なる「進歩」と呼ばれる知見や製品やシステムであっても、それが資源やエネルギーの持続可能性を縮めるものであるならば、それは直ちに「退歩」と呼び直さなければならないのです。結論的に言えば、持続可能性を高める知見やアイデアや社会システムは「進歩」と呼んで良いでしょうが、如何なる優れた発明であっても、資源やエネルギーをより多く消費するものは退歩と呼ぶべきなのです。具体例を一つ上げるなら、使い捨てのロケットで通信衛星を打ち上げるのは「退歩」としか呼べなくて、成層圏に再利用できる気球を上げて、通信サテライトとするSPF(成層圏プラットフォーム)の実用化こそ進歩と呼ぶに相応しい、断じておきます。

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2013年10月 6日 (日)

2205 対策と言う後手3

対策という言葉自体がすでに後手に回っていると言う事は間違いのない話ですが、実のところこれまでは、それでもどうにか社会は前に進んできたとも言えます。つまり問題が起こってから対策を打ち、再発を防止するための規制法を作っても、どうにか間に合ってきたのでした。それは、システム(例えば社会システムや企業の)サイズ自体がそんなに大きくなく、対策(法)でもどうにかコントロール出来て来たからです。その膨大な例は、六法全書を眺めてみれば理解できるでしょう。それらは、問題が起こってから作られた対策法の塊だからです。

しかし、今やそれ(対策)では追いつかなくなってきているとみなければなりません。国の借金が1000兆円を超え、人智では如何ともしがたい原発事故を抱え、プレイヤーの多い国際紛争や貿易自由化問題に直面し、世界の巨大エネルギーシステムの中でもがき、日々天文学的に湧いてくるマネーに溺れている現状を、正直に言えば誰もコントロールできなくなっているのでないか、と危惧しています。コントロールできないと言う事は、結局先手が打てないと言う事を意味します。それは、システムの急速な巨大化の一方、それをコントロールする側(例えば各国の政府)の規模が、相対的に小さくなっている事を指しています。法律でカバーされている範囲を、実体がもの凄いスピードで追い越しているのです。

従って、その巨大システムで生じた問題を規制するには「古い対策法」では全く無理ですし、かといって巨大システムでの問題は、常に新たなトラブルを生み続け、国やお役人には手に余る問題ばかりになっているのです。国民は、巨大システムで起こった問題の収拾を国に期待しますが、その規模や複雑さが彼らの能力をかなり以前から上回り始めているのでしょう。そのギャップは、ますます拡大していますので、国や行政としても、成り行き任せの中で、小手先の対策を打つしかないのでしょう。つまり私たちは大きくなり過ぎたシステムの重さに押しつぶされ、増えすぎたお金の海中で溺れかかっている様に見えるのです。

さてそれでどうするかですが、投稿者が知っている唯一の手段は、それらから出来るだけ距離を置くことくらいです。

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2013年10月 5日 (土)

2204 対策という後手2

折角良さそうなタイトルを思いついたので、さらに続けます。ここでは、Fクシマの汚染水「対策」をもう少し掘り下げてみます。汚染水は増え続ける運命にあります。汚染された土壌を通過して海に流れ続ける地下水(例えば1000トン/日で、内400トンが建屋に流入)、一方でメルトダウンした燃料や燃料プールを冷やし続けるため、回収された汚染水(例えば400トン/日)が出てくるからです。もちろん、放射能レベルが高いのは後者ですが、前者も場所によってはそれなりに高いレベルもものも含まれるでしょう。しかし、いずれにしてもそのままでは海に放水できない中身である事は間違いありません。

それは動かしがたい事実なのですが、今取られている「対策」はと言えば、数百トン程度の組み立て式タンクがなんと1000個も設置されていると言うのです。組み立て式である理由は、工からトレーラで運べるサイズで作り、現地で組み立てる様にしているからです。現地で直接溶接で組み立てるためには、放射性レベルの高い区域で多数の作業者が働く事になり、現実的ではないからでしょう。しかし考えてみなければならないのは、1000個のタンクには1000系統の配管がつながっており、何万か所もの継手が存在すると言う点です。タンクを組立てた継ぎ目と、配管の継ぎ手が、何年間も漏れる事なしに使用に耐え続けると言うのは、普通の技術屋が考えても、不可能である事は自明です。

しかも、これらのタンクは失礼ながらゼネコンさんが作っているらしいのです。もちろん、そこからの発注でどこかの鉄工所が作っているのでしょうが、全ての継ぎ目や継手は現地施工なので、完ぺきな漏れ試験が出来るとも思えません。テストではOKでも、余震が頻発する現地では風前の灯の様なものです。

何故、1個の数十万トンクラスの「浮かぶタンク」を作る事を考えないか全く不思議でなりません。10年使った中古のタンカーでもその役目は十分果たせます。タンカーの寿命は20年位はありますから、今後10年間は使用に耐える事は期待できます。今のタンカーは全て二重底になっているので、タンクから漏れる恐れは全くありません。タンクに入れる配管も1系統で済むので、その継手からの漏れもしっかりチェックできる筈です。つまり、ここでのポイントは、「後手の対策」ではなく、汚染水増加を見越した先手を打たなければならないと言う事なのです。中古のタンカーなどたった10-20億円も出せば買えるのです。全くの新造でも日本の造船力を持ってすれば3か月もあれば十分でしょう。なんせこのタンク船にはエンジンなど要りませんから。

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2013年10月 4日 (金)

2203 農業は産業ではなく

TPP交渉も閣僚交渉の段階に入り、今後は机の下の取引もバンバン行われるでしょう。しかしこの交渉の前提がそもそもが間違っている事は指摘しておく必要がありそうです。つまり、農業も産業であるという認識そのものです。農業は、その地域の人々が飢えない様に、必要でかつ十分な量の食糧を確保するために営々として築かれてきた「業(なりわい)」ではあっても、決して産業ではなかった筈です。然るに、例えばこの国では高度成長期に外貨を稼いできた各種の工業製品を売り捌く際の「人質」として、農業が俎上され、その多くを国の管理下に置いたのでした。B国の圧力により、小麦に関しては国がほぼ全量を輸入し麦価を決めてから市場に流していますし、米価も仕掛けはやや違いますが、米価の水準を維持するために減反政策という名で多額の税金が使われています。

時代はかなり遡りますが、封建時代においてもコメ(米作)は幕府や藩によって厳格に管理されては居ました。しかし、現代と決定的に異なるのはコメはお金と同等の価値を持って扱われいた点です。例えば、藩の経済力は領地で作られるコメの量(石高)で決まっていましたし、藩士の給料もコメで支払われていました。つまりコメは食糧であると同時に価値交換の手段でもあった訳です。これを敷衍すれば、農産物とりわけコメを換金作物として、お金で価値交換し、他の工業製品と同じ俎板に載せる必要もない、という考え方も出来るでしょう。つまり、農産物(例えばコメ)と他の価値、工業製品やサービスと直接交換する仕組みが出来ても良いと思うのです。実際にコメを移動させるのは大変ですから、「全国共通コメ券」みたいなものを作り、それをお金代わりに流通させれば便利でしょう。

もちろん農家としては、コメ券とコメを交換して、コメ券を集めれば、換金するよりもより多くのモノと交換できないと意味が無い訳で、誰かが公平に交換レートを決める必要はありますが、もし食味が良く、しかし数量が少ないコメは必然的に交換レートは高くなるでしょう。ここで言いたいのは、その様なシステムの中身ではなく、農業は、他の産業と同列で国際貿易交渉に俎上すべきものではない筈、と言いたいのです。生業は、単純にお金で計算し、評価する事には馴染まない営みなのです。

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2013年10月 3日 (木)

2202 対策と言う後手

行政や政治のリーダーたちや経営者たちは「~対策」という言葉を良く使います。いわく、景気対策、いわく赤字対策、いわく売上拡大対策などなど。しかし、考えてみれば対策が必要となるのは問題が発生しているからに他なりません。つまり、対策とは常に後出し(後手)にならざるを得ないのです。問題は、対策を打つべき問題の拡大の放置です。リスクへの対処に置いても、その拡大への防止策を予め検討しておいて、リスク発生の兆候が表れた場合、間髪入れずに手を打つのが「基本のキ」であると教えているところですが、国や企業のおいても同様に考えなくてはならないでしょう。

しかし、特に行政や大企業に於いては、素早い動きが苦手です。あらゆる法案は国会審議が前提ですし、大企業に於いても役員会(場合によっては株主総会)の承認が必要です。理由は、発生するかも知れない諸問題とそこから生ずる筈のリスクの想定が殆ど出来ていない事にあります。というより、それを担っている立場の人たちが殆ど居ないと言うのが実態なのだと想像しています。国で言えばリスク管理官の様な人たち、企業で言えば役員会直属のリスク管理室の様な組織です。この様な組織では、日頃から経済や国同士の紛争などの状勢を分析しながら、想定されるリスクと、その対策、対策を打つタイミング(トリガー)をセットで作っておくことになります。それが出来ると、リスクが拡大してから対策を立てる場合に比べ、いわゆる「問題」が燃え上がる前のボヤの内に火を消す事も可能となります。もちろん、国会や役員会の承認が必要な重要な対策案については、予め審議して承認を得ておくのは言うまでもありません。

この様はリスク想定は、直近のものの他、中長期的にも準備しておく必要もあります。国の財政赤字拡大のトレンドや、企業に於ける市場調査による特定商品の売れ方の分析でがはかなりの程度、トレンド予測が可能です。一方で、それに相関する別の要因もやはり同様にトレンド予測が出来るでしょう。それらを1枚にチャートに時系列に並べると、今度は要因の相互干渉による別のリスクも見えてくるはずです。景気の変動には、直接的な経済指標の他に、比較的小さな国の経済危機、あるいは産油国付近での紛争、さらにはこの国の様に少子高齢化や大きな震災などが強く影響してしまいます。一方、とりわけ行政組織に於いては、それぞれの現状分析はタテ割り組織で行われており、それでなくとも遅い対策も同じ組織で立てられますので、対策が実際に打たれた時には、「時すでに遅し」となる訳です。「先手必勝」は、いかなる時代に於いても有効な原理です。

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2013年10月 2日 (水)

2201 経済か命か

お隣の大国の大気汚染が止まりません。この時期(夏場)は、偏西風を太平洋高気圧がブロックする事もあり、汚染物質が「拡散」されにくい事も悪化に拍車を掛けている様です。しかし、間もなく偏西風が汚染地域を吹き抜け、この国の上空にもPM2.5がしっかり到達する事になります。一体、彼の国は人の命をどう考えているのでしょうか。とは言いながら、この国でも昭和40年代は、石油コンビナートからの排煙や、排出ガス規制の無かった車の排気ガスで、四日市や川崎や阪神地区などでは深刻な大気汚染を引き起こしていた事を思い起こせば、あまり大きなことは言えそうもありませんが…。

それにしても、彼の国もそろそろ人の命の重さを考えるべき時期に差し掛かっているとは言えるでしょう。大気汚染による重篤な健康被害に関しては、この国でも多くの人々の犠牲の上に貴重な体験が蓄積されている筈です。C国では、たぶん国がそれらの情報を十分には知らしめないどころか、逆に秘匿している可能性もあります。しかし、多くの犠牲者が出てしまってからの情報公開では、それでなくとも不満の火種を抱えている国民に油を注いでしまう可能性が否定できません。そろそろ、経済成長率優先から、人の健康を考慮する政策への転換が必要な時期ではあります。隣の国の、空気がきれいな田舎で心配していても始まらない事ではありますが…。

とは言いながら、この国にも程度の差こそあれ、同様な(命より経済の)事例がまだまだ多いのも事実です。Fクシマ事故の収束の過程もその例でしょうし、薬剤の試験データのメイキング、あるいは鉄道レールの異常放置などなど枚挙に暇がありません。経済か命は?という問いに対する答えは万人が命と答える筈なのですが、企業や経済の軛は容赦なく命の上を乗り越えていきます。

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2013年10月 1日 (火)

2200 子孫のために

温暖化の予測が悪化傾向であるとのIPCCの報告が提出されました。今度の報告では、温暖化やそれに伴う気象の激甚化に対して、それは明らかに人為的なGHG排出の結果でであると因果関係を明確にし、しかも前回の予測よりそのスピードが「加速」しているとして、より強い言葉で警告を発しています。人は、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」存在である事は否定できません。ブラジルでの会議やその後の京都会議では、確かに温暖化防止の機運が盛り上がりましたが、その後の経済減速で、GHGの排出量にもブレーキが掛かると、そんな問題など無かったかの様に、景気回復に血道を上げてきたのでした。

結果としては温暖化防止の活動どころか、BRICSと呼ばれる諸国の経済成長に乗っかる形で、GHGの排出量拡大も加速してきたのでした。CHG、とりわけ二酸化炭素は、大気中に放出されても、海水への溶解や植物吸収やあるいは有機塩としての取り込みなどで、相関関係は高いにしても、排出量と大気中の濃度は直接的には比例しないか、あるいは時間的な遅れが生じてしまいます。私たちは、ここで次の2つの点で、改めて褌を締め直す必要があると思うのです。

第一は、言わずもがなですが、これ以上の温暖化≒気象の激甚化を防ぐためには、二酸化炭素の排出量を抑制する必要があります。当面の目標は半減ですが、そのためのライフスタイルの見直しが必要です。今は猛烈な大気汚染で悩んでいる隣の国の首都も、かつては自転車の街で、秋晴れの青い空が自慢だった筈です。何故人間は苦しい方向に戻る勇気が弱いのでしょうか。何故、今の自分が苦しくても、将来世代が楽になる方が良い、と考えられないのでしょうか。もう一度よく考え直してみる必要があります。

第二は、資源の温存の観点です。辛抱できない温暖化の影響の出現が先か、あるいは化石燃料の枯渇が先かという点で見れば、石油産出量が減っても、経済界はLNGや石炭で補完しようと考える筈ですから、当然前者が先となるでしょう。しかし、再生可能ではない化石燃料は、やはり子孫に分け前を残すべき貴重な資源と考えるべきなのです。それ(ガソリンや灯油など)を、ペットボトル入りの水より安い価格で「ガブ飲み」すべきではないでしょう。「子孫のために」をキーワーとして掲げ、今の「便利で楽過ぎる」生活スタイルを改めるべき時期ではあります。

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