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2013年11月14日 (木)

2240 科学=新たな疑問の泉

科学とは、ある疑問に対し、「誰が追試しても全く同じ結果になる様な理論」を打ち立てる学問である、という言い方が出来ます。例えば、原子核の構造が、核(陽子+中性子)とその周りを回る電子(の雲)である事が解明された時、科学者は物質の本質がついに解明されたと歓喜したことでしょう。しかし、中間子が提唱され、クオークが見つかり、その他多くの素粒子が発見されるに従って、物質の本質は、逆にますます混沌の度を深めてきた様にさえ見えます。

分かる事(理解)とは、分けることに始まるので、科学を突き詰めれば突き詰めるほど、細部に入り込まざるを得ないでしょう。その結果何が起こるかと言えば、細部の先には微細部があり、その先にはミクロやナノがあり、その先には分子や原子があり、さらにその先には素粒子の世界が「広がって」いる訳です。しかし、理解のために細分化すればするほど「全体は見えなくなる」でしょう。そこが、科学の弱点でもある訳です。科学論文は、毎年数えきれないほど提出されてはいますが、その中に見出される新たな発見や知見は、想像するに数えるほどでしょう。研究者は、重箱の隅をつついて、そこにこびり付いたモノを穿るしかない訳です。大くくりに見れば、地球上に誰も踏み込んだ事の無いフロンテイアはもう殆ど無くなりました。宇宙は広いので、無限のフロンティアでありますが、一番近くの惑星である火星にさえ、大きなリスクを背負って出かける勇者は出ないでしょう。何年もの間、宇宙船という閉所に閉じ込められて、まともな精神状態を保てる超人など何処にも居ないからです。

火星に到着すればしたで、新たな疑問が生まれる筈です。人間の能力には限界があるので、森羅万象を理解しようなどと考えるのは、所詮無駄な努力と言うしかありません。そうではなくて、自然の摂理を前にして、謙虚にそれを学ぶと言う姿勢こそが必要だと思うのです。もし、究極の素粒子を「発見」出来たとしても、では誰がそれを「創った」のか、という疑問には到底答える事は出来ないでしょう。理解できない事は出来ないとして横に置き、いまヒト(人類)として為すべき事を出来る範囲で粛々と為すべきだと思って、暮らしています。

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