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2013年11月22日 (金)

2248 理論に閉じ籠る

小さい頃は科学がとても好きでした。長じて技術屋になってからも、一応科学的(≒合理的)思考を尊重し、技術を信頼してもきました。しかし、還暦を超えて生きてきて思うのは、科学者や技術屋は「理論に閉じ籠っているのではないか、ということです。具体的に言えば、科学者や技術屋はあまりにも「モノ」やそれに関わる「原理」に向かい過ぎている様な気がするのです。と言うよりも。その中に閉じ籠ろうとしている様にも見えるのです。

理論に閉じ籠るとは、結局ある理論が正しくて、その他の方便は全てナンセンスだと言う姿勢を意味します。素粒子の探求を例に挙げてみましょう。その研究のためには、巨大な粒子加速器が必要なのだとか。ヨーロッパのCERNでは事足りず、今度は日本に数十キロもの長さの直線の加速器を建設するとの事。それが何に必要かと問えば、宇宙の起源に「限りなく迫る」事が出来るのだそうです。限りなくと言う事は、今度の加速器で全てが明らかになる保証もない訳です。つまりヒッグス粒子より更に小さな素粒子が存在するかも知れないからです。これはつまりは素粒子理論への閉じ籠りに他なりません。

そうではなくて、そろそろ素粒子や宇宙の起源などは、人間の自由な想像力に任せたらどうでしょう。H-キンス博士は、車いすに座ったままで、あんなにも想像力を駆使しているではありませんか。究極の素粒子を発見したから、あるいは宇宙の起源を解明したから、あるいはそれでノーベル賞を貰ったからと言って、それで放射能が消せるわけでも、食糧問題や環境問題、あるいはエネルギー逼迫の問題が解決できる訳でもありません。理論に閉じ籠るとは、別の言葉で言えばタコが自ら蛸壷に入り込んで、安心してしてしまう状況にも似ています。~屋という呼び方がありますが、それは取りも直さずある事に専念するあまり、他事が見えなくなってしまったタコ人間を揶揄する言葉なのです。投稿者は、技術屋という蛸壷を這い出して、やっと世の中が広く見渡せるようになった気がしています。自分では、今は「環境屋」を名乗っていますが、人にはそう呼ばれない様にはなろうと思っています。

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