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2013年11月25日 (月)

2251 事実=注意を要する仮説

私たちは、深く考えもしないで「事実」という言葉を使います。しかし、その多くは伝聞やテレビで見た映像を指して、さながらそれが実際に起こった、信じているに過ぎないでしょう。事実を伝える方法としては、映像や音声あるいは書き物(記事)などがありますが、少なくともそれらが提供されるまでには、何らかの「編集」がなされている筈です。編集とい言葉を「フィルター」を呼び替えても良いかも知れません。つまり、私たちが事実だと「思っている」事の多くが、あるフィルター越しに「見せられている虚像」かも知れないのです。テレビ報道などでも、演出や軽度のやらせは日常茶飯事でしょう。テレビ番組では、視聴率を取るためには先ずは「絵にならないといけない」からです。

一方、科学者たちが日夜研究を進めて、ある時期に論文などで成果を公表するのですが、そこに書かれている実験データに基づいたと主張するものは、やはりまだ事実と呼ぶには時期尚早な「仮説」だと言えます。100人の人が追試して、99人がそれを確認したとしても、たった一人の追試結果に疑問符が付いたとすれば、やはりそこで立ち止まって確認してみる必要があるでしょう。つまり、この理論は99%の確率の元での事実だったかも知れないからです。同様に、多くの科学者や技術者は、ある理論が一度打ち立てられると、以降はそれを鵜呑みにして使ってしまう傾向にあります。○○の定理やXXの公式などと言うモノを、私たちは日常的に引用しているでしょう。

しかし、私たちは先人の打ち立てた業績で事実とされたものを鵜呑みにするのではなく、人間の本来兼ね備えている「直観」で吟味してみる必要もあると思うのです。脳は、その持ち主が可能な限り危険を回避して、生き延びるためにこそ存在している「器官」ですから、その脳が度々発する信号=直観に注意を払ってみる必要があるでしょう。投稿者の直観は、今私たちが普通だと思って過ごしている、この国の社会システムや政治やあるいは諸外国との関係に、何やら危うい雰囲気を直感的に感じてしまいます。何が事実であるかは、結局自分の五感を使って確かめるほかはないのです。

今日から、3週間ほど欧州旅行とその後の仕事移動などで休稿で、12月中旬以降に再開予定です。どうせ、あまり読んでくれる人も多くない独り言ブログですので、休んだからといって気づく人も少ないのでしょうが…。

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2013年11月24日 (日)

2250 思考停止

2249の続きです。手段の目的化が進んで、システムが硬直化してしまった後は一体何が起こるのでしょう。それに続くのは、たぶん「思考停止」ではないかと疑っています。思考停止とは、そのそも前例だけに従いながら、盲目的に物事を進めるか、あるいは一応考えるのですが、結果として堂々巡りを繰り返すか、いずれかの状態を指します。前者の例は、行政組織のあり様を観察すれば十分でしょうし、後者の例は、国会中継などを短時間視聴すれば直ちに理解できる筈です。国会では「議論もどき」はしていますが、どう贔屓目に見ても「もどき」の域を脱しては居ません。本当の議論など、そもそも中継などできない筈だからです。現実は、質問者の党名は変わってもほぼ似たような質問を繰り返し、答弁者も役人が書いた玉虫色の答弁書を読み上げるのが国会です。しかし、国会の外の講演会などではつい口を滑らせて、本音を吐露してしまう結果、後日再び国会やマスコミによってそのほころびを突っ込まれます。この構図は、政治が安定化した「システム」となって以降延々と繰り返されても来ました。

私たちは、そろそろ本気でこの国の行く末を「考え」なくてはならないでしょう。考える事を止めた途端に、世界中に仕組まれてしまったシステム群のイナーシャ(慣性)に押し流されてしまうからです。今の文明を、1日に喩えれば、すでにとっぷりと日が暮れて、自分のたどり着くべき家の場所さえ良く見渡せない夕闇の時間帯に入っている様な気がするのです。  

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2013年11月23日 (土)

2249 手段の目的化

2247の続きなのですが、これも言葉を替えただけの繰り返しになりかも知れません。2248で述べた閉じ籠りは、実はある目的を果たすための手段が巨大化してしまったために起こってしまったと見ています。科学や技術は、厳しい自然の中での人間の暮らしを快適にするために生み出されてきた筈です。食糧を安定的に収穫するために遺伝学を起こして、品種改良が繰り返されてきましたし、早く快適に移動するために、馬⇒馬車⇒汽車⇒自動車⇒電車⇒航空機などと移動「手段」を工夫してきました。それが、今はロケットまで飛ばして、宇宙空間まで足をのばす時代になった訳です。

経済の仕組みも、かつての物々交換時代を経て、小さくて軽い金属製の通貨が発明され、それが現在の紙幣文化まで進んできたのです。しかし、価値の交換を容易にするための手段であった貨幣や紙幣(=お金)は、ある時期以降富の蓄積に使われ始め、結局は貧富の差を広げ、それを効率的に集める(=稼ぐ)事が主な生きる目的の社会になってしまった様なのです。いまや、お金は自身が自己増殖する手段を獲得し、日々その絶対量は増え続けているのです。

しかし、どこまで行ってもシステムが巨大化すればするほど、手段はそれ自身の維持のために目的化の袋小路に入る運命にあるのです。例えば、車産業を考えてしてみましょう。この産業は、いくつかの大企業とその系列下にある多くの中小企業が、ピラミッド状のサプライチェーンを形成しています。しかし。そのサプライチェーンはあまりにも強固過ぎて、最早完全に硬直化している事でしょう。つまり、親会社は1次下請けからの組立品を自社で作った車台に載せ、出荷しますが、そのサプライチェーンの一部でも機能低下すれば、直ちに在庫量が減り、ラインを流れる車の台数もそれに応じて減らさざるを得ません。それがJIT生産のオキテだからです。親会社は、まだ売れても居ないのに、次年度の生産計画を立て、下請けに設備投資を促す訳です。

多くの巨大システム(例えば車産業)は、完全に自動化(つまりは、真の需要にあまり左右されず自分で前に進んでいく状態)され、しかし一方ではひどく硬直化している事は明白です。何故なら、前年度を延長した柔軟性の少ない生産計画に従って運用されているからです。人間を快適に移動させるための手段を提供するビジネスに過ぎなかった車産業は、いまやその存続自体が目的化し、巨大な「慣性力」を伴って、兎に角前進するしかないシステムになってしまったのです。同様に、人々が社会を形成して、お互いに摩擦を少なくして平和に暮らす手段であった筈の、行政組織や政治の世界も、完全に硬直化しているのは日々ニュースで目にするところでもあります。

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2013年11月22日 (金)

2248 理論に閉じ籠る

小さい頃は科学がとても好きでした。長じて技術屋になってからも、一応科学的(≒合理的)思考を尊重し、技術を信頼してもきました。しかし、還暦を超えて生きてきて思うのは、科学者や技術屋は「理論に閉じ籠っているのではないか、ということです。具体的に言えば、科学者や技術屋はあまりにも「モノ」やそれに関わる「原理」に向かい過ぎている様な気がするのです。と言うよりも。その中に閉じ籠ろうとしている様にも見えるのです。

理論に閉じ籠るとは、結局ある理論が正しくて、その他の方便は全てナンセンスだと言う姿勢を意味します。素粒子の探求を例に挙げてみましょう。その研究のためには、巨大な粒子加速器が必要なのだとか。ヨーロッパのCERNでは事足りず、今度は日本に数十キロもの長さの直線の加速器を建設するとの事。それが何に必要かと問えば、宇宙の起源に「限りなく迫る」事が出来るのだそうです。限りなくと言う事は、今度の加速器で全てが明らかになる保証もない訳です。つまりヒッグス粒子より更に小さな素粒子が存在するかも知れないからです。これはつまりは素粒子理論への閉じ籠りに他なりません。

そうではなくて、そろそろ素粒子や宇宙の起源などは、人間の自由な想像力に任せたらどうでしょう。H-キンス博士は、車いすに座ったままで、あんなにも想像力を駆使しているではありませんか。究極の素粒子を発見したから、あるいは宇宙の起源を解明したから、あるいはそれでノーベル賞を貰ったからと言って、それで放射能が消せるわけでも、食糧問題や環境問題、あるいはエネルギー逼迫の問題が解決できる訳でもありません。理論に閉じ籠るとは、別の言葉で言えばタコが自ら蛸壷に入り込んで、安心してしてしまう状況にも似ています。~屋という呼び方がありますが、それは取りも直さずある事に専念するあまり、他事が見えなくなってしまったタコ人間を揶揄する言葉なのです。投稿者は、技術屋という蛸壷を這い出して、やっと世の中が広く見渡せるようになった気がしています。自分では、今は「環境屋」を名乗っていますが、人にはそう呼ばれない様にはなろうと思っています。

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2013年11月21日 (木)

2247 持続可能性への諦め?

サラリーマンを早めに辞して以降、一応「環境保全を織り込んだモノづくり」とか、持続可能性社会構築への寄与などという言葉を掲げて環境人間への脱皮を図りながら生きてきたつもりです。しかしながら、ここに来て、投稿者の中でもかなりの程度諦め感が漂ってきた様な気がします。科学や技術の本質を考えると、結局は豊かな社会を作るための「手段」であった筈の、地下資源や化石エネルギーを駆使して、より便利でモノに囲まれた社会を作る事が、今や完全に「目的化」してしまった感があります。円滑なモノやカネの移動の手段であった筈の経済は、巨大なインフラや製造・物流システムを前提に、それを間断なく動かし続ける事自体が目的になっています。

それは、大災害などでインフラやメーカーの生産や物流が短期間止まるだけで、(都市の規模が大きい程)大混乱に陥る事でも証明されています。都市には、殆ど「ストック」などと言う「余裕」の仕組みは作られていないのです。物流が完全に止まるだけで、大都市のささやかなストックは数日で底をつく事でしょう。つまり、現代の社会においては、モノやカネが、一時も休むことなく動き続ける事が常態であり、その流れに乱れが生ずる事が異常事態なのです。経済活動や物流の流れは十分に大きくそれなりに慣性もあるのですが、その乱れや瞬断には非常に弱いのです。安定的なストックをする余裕もなく、激流の様にモノやカネが流れるのが日常であるシステムが、持続可能である筈もありません。

私たちは、経済活動を加速し、規模を拡大する事で、持続可能性を次々に切り捨ててきたと思うのです。自前の食糧やエネルギー資源を切り捨てて、工業製品を売って得たお金でそれらを海外から買ってくる事によって、この国の持続可能性は極端に低くなってしまったと、深く反省する必要があるのでしょう。それがなかなか出来そうもない社会状勢を見るにつけ、投稿者の諦め感はますます強くなるのです。たぶん続きます。

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2013年11月20日 (水)

2246 今後のエネルギー

同様のタイトルで何度か書いてもいるのですが、最近小文をまとめたので、そのエッセンスを少々。

先ず前提ですが、今後持続可能に入手できる、または使えるエネルギー源としては、地熱や潮汐など、特殊なものを除けば、「太陽光起源のエネルギー」しかない筈です。もちろん、広い意味では化石エネルギーも太陽光起源ですが、その生成や蓄積には億年単位の時間が必要であり、当然除外されます。当面のつなぎエネルギーとして頼りにされていた原子力は、イザトいう時に、私たちには到底制御不能で、しかも環境に放たれた放射能は、薄く拡散させた上で自然崩壊による減少に任せる以外に方法が無い事も、Fクシマで改めて証明されてしまいました。従って、残されたエネルギー源としては、数十年スパンの太陽光利用である木材(植物)バイオマスや1年単位の太陽光利である農業残渣や水力の利用、あるいは数日単位の太陽光の利用技術である、風力や太陽熱・太陽光発電程度しか残されていないと言う事になります。

しかし、現在行政がFIT制度を使って主導しようとしている枠組みには、問題が多過ぎます。例えばメガソーラーです。FITを当て込んで、各地で計画されたプロジェクトの多くがとん挫しかけています。何故なら、電力会社が色々な理由を付けて買取りを拒もうとしているからです。FITによる買取りは、間違いなく電力消費者の負担増につながりますし、送電線などのインフラ負担も増加するでしょう。メガソーラーから送り込まれる「気まぐれな電力量」もコントロールし辛い要素となります。つまり、総じて言えばメガソーラは切り札にはなり得ないのです。当然の事ながら、これが設置される「空き地」は、元をただせば放棄された農地や工場予定地であった筈です。

また、洋上風力を含めた沿岸部への大型風力発電所(ウィンドファーム)も同様の問題点を抱えている上に、それらが設置される地域にとっては、僅かな地代や固定資産税程度しか入らず、雇用や収入につながらない事も問題です。つまりは、重工や商社やゼネコンの売り上げ増加にしか寄与しない訳です。

ではどうすれば良いかですが、まず太陽光発電は1ヶ所当り、50kw程度の規模に留めるべきでしょう。これならば、特別な変電設備は不要で、パワコンからいきなり電柱のトランスにつなぎ込む事が可能となります。設置場所も、倉庫や工場や公共施設及び住宅の屋根、あるいは道路の防音壁や道路の法面など、農業と競合しない場所に場所に分散させて設置すべきでしょう。中小型の風車も利用すべきですが、住宅地に近い場所では、騒音の大きなプロペラ型やダリウス型ではなく、効率は低くても抗力型を選択sべきでしょう。しかも、発電目的ばかりでなく、風力発熱もあり得るでしょう。全体的に言えば、太陽熱、太陽光、風力、バイオマスなどを地域の事情によって上手く組み合わせた多面的なエネルギーシステムを構築すべきでしょう。もちろん、これらのシステムは、地域の中小企業がそれなりに参加できる「分散型の中小型システム」である必要もあるでしょう。

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2013年11月19日 (火)

2245 還元主義という単純化

これも何度か書いたテーマの様な気がします。還元主義とは、「○○は××に過ぎない」というステートメントで説明されます。例えばそれは、不景気は、経済活動の低下の結果に過ぎないとか、政治の混乱は、時の首相のリーダーシップ欠如の結果に過ぎない、とかいった類のものです。この様なステートメントを発するには、実は極端な単純化が前提となっている筈です。

今の不景気には、高度成長期から安定経済への滑らかな移行の失敗、国際情勢の中でのこの国の役割や位置づけの変化、国民のマインド変化、モノの充足による市場(デマンド)の変化、大規模な災害とその復旧、リーダーの目まぐるしい交替、極端な少子高齢化社会への移行などなど、原因として考えられるものは数多くありそうです。それを、何本かの矢で景気を浮揚させさえすればすべてが解決するなどと主張するのは、あまりにも「経済還元主義」に陥っているとしか言えません。

リーダーが毎年コロコロ代わった政治ゲームの季節も、上記のいくつかの時代背景のもとで、既に明白になっていた「50年体制」の終焉を、彼ら自身が認めてこなかった事に主な原因があるのでしょう。つまり、問題の原因は一つではないのです。問題の原因(=その解答)がたった一つというのは、例えば理想的な数学や物理の問題などでしか存在しない筈なのです。その意味で、科学やそれを応用した技術の多くは、還元主義的なアプローチの代表だと言えるでしょう。

では経済や社会システムとそれに付随する問題はどうでしょう。これらの問題を複雑にしているのは、たぶんモノではなく人間だと思っています。経済にも一応の原理原則というものもあるのでしょう。しかし、数学や物理の様に必ず1+1=2になるのなら、たぶん不景気や景気循環などと言うものは存在しないでしょう。人間が介在するからこそ、そこに目論見とか、期待とか、落胆だとか、諦めだとか、欲張り過ぎなどが渦巻き、結果としてドロドロとした欲望の海が出来るのでしょう。結局、還元主義で単純化できないものの代表が人間だと言う事ができそうです。

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2013年11月18日 (月)

2244 予測とコントロール

コントロールの本質を考えると、それを実行するためには先ずは、制御すべき変数を予測しなければなりません。制御量を計測するだけでは不十分です。単に制御量を計測し、それにフィードバックを掛けるだけの制御系では、必ず制御の行き過ぎ(オーバーシュート)が発生するからです。最も理想的な制御法は、少し先の状況を予測し、予め制御量を加減するフィードフォワードを行う事なのです。そのためには、確実な予測の技術が欠かせないのですが、システムが複雑になればなるほど、制御すべき量の種類が増えて、正確な予測は難しくなります。

さて、国の舵取りというコントロールを考えてみると、あまりの制御量の数(変数)の多さに、気が遠くなる様な気がします。マツリゴト(政治)内部の椅子取りゲームは勿論ですが、経済の舵取り、外交の舵取り他、大臣の数だけある省庁の舵取り、国民意識のトレンドを読む事、それを報道するマスコミへの対応などなど、政治家はよく気が狂わないものだと感心するしかありません。というより、実は彼らは極端に鈍感なのかも知れません。そうでなければ、三月で気が狂っている筈だからです。

これは、実は制御系には重要な要素でもあるのです。つまりは、制御系の感度(ゲイン)が敏感過ぎるとコントロールが不安定となり、ちっとも静定しないのです。これをハンチング状態と呼びますが、一度この状態に入るととシステムがバタバタ踊り出し、大きな故障の原因にもなるのです。制御系でも政治でも、実は鈍感力がモノを言うのかも知れません。

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2013年11月17日 (日)

2243 問題の解決?

最近思うのは、問題などと言うものは、完全には解決などしない方が良いのでは、という事です。問題は解決してしまった瞬間に、もはや問題ではなくなり、結果として人々の脳裏から忘れ去られていまうからです。例えば公害問題です。この国では、公害問題は解決され、克服された問題である、と一般には信じられています。しかし、それは公害が「公害防止法」という規制法体系の元で、人体には殆ど影響がない程度に、有害物の排出濃度が抑え込まれているという状況しか意味しないのです。確かに、例えば産業で水銀が使われる事は無くなりましたが、乾電池や蛍光灯には未だに含まれており、一応回収システムは作られてているとはいえ、時々一般ゴミに廃棄水銀が(故意に?)混ぜられて捨てられてもいるのです。また例えば、PCBなど人体に著しい中毒症状を引き起こす物質の製造や流通は禁止されてはいますが、古いトランスなどを含み、すでに環境に残留してしまったPCBの濃度ば、まだ高いままで放置されている例も多いのです。

私たちは、問題が一応解決されてしまうと、その問題があったことをすっかり忘れてしまうと言う悪癖をもっていますので、問題をあるレベル以下に抑え込む事に成功したとしても、解決とは呼ばない方が良いのです。むしろ、時々顔を出す問題の尻尾を積極的につかまえて、マスコミでも積極的に取り上げ続けるべきなのです。

エネルギー問題も同様でしょう。かつての石油危機の時、石油燃料の価格が一気に2倍に上昇しました。その後、省エネルギー技術を磨き、石油の備蓄量を積み増し、原発を50基以上に増やして、私たちはエネルギー問題は「解決されたと勘違い」し、その後の再生可能型エネルギーへの転換努力を放棄してしまったのでした。しかし、一部のヨーロッパ諸国は、その問題意識を捨てず、風車の大型化やバイオマスの積極利用で成果を積み上げてきた訳です。その意味では、この国はそれらの国々からは多分10-15年位は後ろを走っている筈です。

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2013年11月16日 (土)

2242 勿体ないオバケ

別にテレビのCMの事を話題にする訳ではありません。人は、たとえ進む方向が間違っていたとしてもなかなか引き返したり、方向転換が出来にくい存在の様です。何故なら、それまでに費やした努力が大きければ大きい程、それまでに流した汗が愛おしく、「勿体ない」と感じるからなのでしょう。

余り引き合いに出したくはないのですが、いまそれなりに注目を浴びていますので、宇宙ステーションを俎板に上げてみましょう。今の姿の宇宙ステーションの姿になるまでに、何度シャトルを打ち上げて、それにどのくらいの費用が掛かったのか、あまりに巨額過ぎて考えたくもありませんが、日本モジュールを維持するだけで年間400億円ほど掛かるとか。これは、あの狭い筒型の部屋の「家賃」という事になります。その上、年に1-2回程度は、宇宙飛行士の往復「運賃」を、独占宇宙タクシー会社であるRシアに支払ってもいるでしょう。これが400億円に含まれているかどうかは、大きな問題ではありません。しかし、無重力下のメダカへの影響を調べるだけにしては(勿論それだけではないでしょうが)、明らかに高すぎる研究費です。

あの宇宙ステーションを計画した時の理念は、たぶん新たな惑星探検ミッションの中継基地や無重力下での薬品や合金の製造(宇宙工場)のひな形とするなどがあった様に記憶しています。しかしその青写真は、その後の計画の大幅な遅れや時代の流れですっかり変わってしまったに関わらず、宇宙長屋を「空き家」に出来ないのは、間違いなく「勿体ないオバケ」の所為なのです。何千億円か掛かった宇宙長屋の建設費用が勿体なくて、それを支払った国民に(一応)申し訳なくて、すでに目的を失った宇宙ステーションを捨てられないのです。半年間もアリバイ作りをさせられるW田さんは、また骨がヒョロヒョロになって来年帰還するでしょう。ある意味では勿体ないオバケの犠牲者と言えるかも知れません。しかし、このオバケは宇宙ステーションだけではなく、例えば着工済みのダム工事や、すでに役割を終えたインフラの維持や、企業の研究開発投資などでもごく普通に現れてもいるのです。このオバケに惑わされて、撤退の決断が遅れたプロジェクトが過去にどれだけ存在したことでしょう。ある時期以降、個々のプロジェクトの粒が大きくなり過ぎてもいるので、このオバケはますます頻繁に現れることでしょう。

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2013年11月15日 (金)

2241 柳の下の・・・

柳の下には一体何匹のドジョウが居るというのでしょう。ハイブリッド車(HV)と言えば、どのカーメーカーも右習えでHV、自動ブレーキ車と言えば、軽自動車まで装着し、スマホと言えばどの会社でも似たようなスマホの発売・・・。その横並びの流れは、殆どの商品、サービスは言うに及ばず、ビジネスモデルに至るまで、柳の下の何匹目かの獲得を求めて、広がっている様に見えます。似たような事は、家電業界でも、IT機器関係でも、流通業界は勿論、外食産業に至るまで同じ事情です。

メーカーとしても、省エネで、ITを活用し、多機能を追求すれば良い時代は終わりつつあります。デザインや手ざわりが良くて、シンプルで使い勝手の良い製品が、もっと見直されても良いはずです。結果として、使用材料が少なく(資源の消費が少なく)、軽量であるが故に省エネでもあるでしょう。何も、無理をして右習えで設備投資を行い、市場投入後は激しいシェア争いを繰り広げ、最後は安売り合戦の結果、製品の寿命は極端に短くなり、慌ただしく次なるドジョウを探し回る事になるのでしょう。

私たちはもうソロソロ20世紀型のビジネスモデルを「卒業」する必要があると思うのです。しかし卒業するためには、新たなステージでのビジネスモデルを必死で考えなくてはならないでしょう。それがどの様なものになるかはハッキリとは分かりませんが、兎にも角にもそれは持続可能である必要があるでしょう。形容詞を連ねるなら、今後のビジネスや製品は、ささやかで、愛らしく、慎ましく、シンプルで、かつ自然なものである必要があるでしょう。モノであれば、それは地下資源は殆ど使わず、地上にあって、持続可能に利用できる資源で作られる必要があります。植物。つまりは草や木、動物の不要な部位(例えば骨や皮など)、少量の金属などなど。何やら江戸時代の産業に似ている様な気もしますが、あの時代のクラフトは決して稚拙なものではなかった筈です。機械も無い時代だったという事を差し引けば、素晴らしい職人ワザを駆使していた訳です。カラクリ人形や時計など、今の機械には逆立ちしても作れないでしょう。ところで何の話を書いているんでしたっけ。そうそう、ドジョウの話でした。

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2013年11月14日 (木)

2240 科学=新たな疑問の泉

科学とは、ある疑問に対し、「誰が追試しても全く同じ結果になる様な理論」を打ち立てる学問である、という言い方が出来ます。例えば、原子核の構造が、核(陽子+中性子)とその周りを回る電子(の雲)である事が解明された時、科学者は物質の本質がついに解明されたと歓喜したことでしょう。しかし、中間子が提唱され、クオークが見つかり、その他多くの素粒子が発見されるに従って、物質の本質は、逆にますます混沌の度を深めてきた様にさえ見えます。

分かる事(理解)とは、分けることに始まるので、科学を突き詰めれば突き詰めるほど、細部に入り込まざるを得ないでしょう。その結果何が起こるかと言えば、細部の先には微細部があり、その先にはミクロやナノがあり、その先には分子や原子があり、さらにその先には素粒子の世界が「広がって」いる訳です。しかし、理解のために細分化すればするほど「全体は見えなくなる」でしょう。そこが、科学の弱点でもある訳です。科学論文は、毎年数えきれないほど提出されてはいますが、その中に見出される新たな発見や知見は、想像するに数えるほどでしょう。研究者は、重箱の隅をつついて、そこにこびり付いたモノを穿るしかない訳です。大くくりに見れば、地球上に誰も踏み込んだ事の無いフロンテイアはもう殆ど無くなりました。宇宙は広いので、無限のフロンティアでありますが、一番近くの惑星である火星にさえ、大きなリスクを背負って出かける勇者は出ないでしょう。何年もの間、宇宙船という閉所に閉じ込められて、まともな精神状態を保てる超人など何処にも居ないからです。

火星に到着すればしたで、新たな疑問が生まれる筈です。人間の能力には限界があるので、森羅万象を理解しようなどと考えるのは、所詮無駄な努力と言うしかありません。そうではなくて、自然の摂理を前にして、謙虚にそれを学ぶと言う姿勢こそが必要だと思うのです。もし、究極の素粒子を「発見」出来たとしても、では誰がそれを「創った」のか、という疑問には到底答える事は出来ないでしょう。理解できない事は出来ないとして横に置き、いまヒト(人類)として為すべき事を出来る範囲で粛々と為すべきだと思って、暮らしています。

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2013年11月13日 (水)

2239 得るもの≒失うもの

人は、あるものを得る代償として、ほぼ同価の何かを失う事を忘れない様にしたいものです。端的な例が買い物です。ある商品を買うためにお金を支払いますが、そのお金は何時間か、何日か、あるいは何か月か自分の時間を売って得た価値と同価です(と今の社会では暗黙の内に決まっています)。商品を得てお金を手放すのです。全く別の例ですが、例えば結婚です。人は結婚によって、たぶん精神的な安定と、新しい家族と、彼らと過ごす楽しい時間を得る事が出来ます。一方で、独身時代に謳歌していた自由な時間や好きな活動の多くと、お小遣い以外の収入の大半を差し出さなければなりません。

また例えば、人は便利な電化製品や車などの便利な移動手段を得る代償として、お金以外の何を失ってしまうのでしょうか。それは、たぶん器用さや身体能力だと想像できます。パソコンを使いこなせば、文字を書く能力を低下させ、スペルを忘れてしまうでしょう。計算(筆算・暗算)能力も勿論低下します。車を多用する人は、腹筋・背筋はもちろん歩いたり、走ったりする時に使う全ての筋肉の低下を覚悟しなければなりません。

さて、上での「人」を「社会」に敷衍してみたらどうなるでしょう。社会は、多くのインフラを得てきました。道路網、鉄道網、電力網、通信網、水道網、ガス管網、下水道網、輸送網、航空路網、ネット網などなど。書いてきて気付くのは、それらが偶然ではなく「網」になっている事です。もしそれらが正確に網になっていればまだマシなのでしょうが、インターネットを除けば、殆どが端末では単路になっているのです。即ち上流で事故があれば、そのインフラの下流では悲劇が起こるでしょう。何故なら、人々はその利便を享受する代償として、それに代わる手段を放棄してしまったからです。昔は、田舎では町内毎に井戸を掘っていましたが、今日では断水時は即給水車の出動要請につながるでしょうし、停電に至ってはひたすら懐中電灯とロウソクで耐えるしかありません。インターネットが動かなくなった事態を、人は殆ど想像などできないでしょう。つまり、私たちは便利なインフラを得た代償として、全ての人が「インフラ依存症」に罹患する異常な事態になったのでした。

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2013年11月12日 (火)

2238 文系・理系・自然系

人の職業選択における向き不向きでよく議論されるのは、文系か理系かの分類ではないでしょうか。投稿者の場合は、機械弄り・壊し(手にする全てのガジェットを弄って壊してしまう事です)が好きで、理系の道を進んでしまいましたが、今立ち止まって改めてこの事を考えてみると、理系とはモノにこだわり、文系とは人にこだわる性癖を持った人種なのだと気づきます。物理・科学や技術は、対象となるモノを抜きにしては絶対に成り立ちません。何もなしに、頭の中で物事と人の関係を考えるのは、哲学などと呼ぶ立派な文系学問の一分野ですから。モノは五感で感ずる事の出来る対象であるため、好奇心の塊でもあるヒトは、モノが大好きなのです。モノの本質を探索し、それを利用して色々な道具や、それらを組み合わせた機械を作るのも、そうした性癖の為せるワザなのでしょう。

しかし、文系と理系の分け方には明らかに欠けているものがあります。何故なら、この世界はモノと人ばかりではなく、それら全体を抱合する「自然」を忘れてはならないからです。理系が扱うモノの中には、勿論人間が作ったモノばかりではない自然物も含まれます。しかしながら、そこで扱うモノはやはり人間に役立つか否かで、選別されている事は間違いないところなのです。例えば、微生物を扱う学問でも、人間を病気にする細菌やウィルス、あるいは有用な酵母やバクテリアなど、いずれにしても人間側から見たアプローチしか為されていない筈です。

ここで、文系と理系に加えて「自然系」というでも呼ぶべきカテゴリーを付け加えたいと思うのです。自然の中には、森羅万象が含まれ、当然の事ながら人間に何の関わりも無かったために無視されてきたものも含まれます。何しろ、これまで全くと言ってよい程注目されなかった、自然ですから、そのデータすら殆ど無いでしょう。それらは、農耕に利用される土壌の下に広がる地中深くの世界であったり、深海であったり、海底火山の火口付近であったり、あるいは南極の氷の下の湖であったり、あるいは目には見えない昆虫に寄生している微生物だったりが含まれるのです。それらは、ごく一部の「変わり者」の研究者が注目している程度の世界ですが、今私たちが知っている自然に比べれば、何倍も大きな世界ではあります。自然系の人々は、決して自然と戦うんではなく、あくまで謙虚に、巧妙な自然の仕組みをひたすら学ぶという姿勢を持たなければならないでしょう。

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2013年11月11日 (月)

2237 レイヤー

CADや描画ソフトでは、必ずレイヤーが設定されています。一つのレイヤーに書かれた基準線や下書きに、その次のレイヤー図形や描画を行い、さらにその上のレイヤーでは色彩を載せると言った具合に利用します。基準線と葉、小説で言えばプロット(筋書き)、映像作品で言えば絵コンテになるでしょうか。小説や映画やアニメで、一体製作者は何を訴えたいのか、それがしっかりしていない作品は売れない駄作に陥るだけでしょう。

その意味で、この国の社会の基準線とは一体何なのか時々考えます。それが経済的繁栄だけならば、あまりにもさみしい国だと言うしかないでしょう。日本に追いつき追い越せとばかり、経済優先政策に突っ走り、リストラや外資導入と成長産業への極端なのめり込みに専念した隣のK国に何が起こっているかを見れば、経済優先の末路が見えそうな気がします。経済活動は、社会を形成するより多くの人々が、幸福に暮らすための「手段の一つ」でしかないのです。その手段が目的化する事が、進むべき方向を見失わせるのです。今の、あるいは過去の政治リーダーに、黒澤や宮崎が持っているプロット能力を持っていそうな人は多分殆ど居なかったのだと思います。だからこそ、数回の戦争を引き起こし、あるいは椅子取りゲームを繰り返しながら、経済優先の政策しか打ち出せなかったのだと想像しています。

私たちは、C国やK国経由で、文字を始め多くの文化を導入し、それを島国のメリットを最大限に生かして消化し、熟成させてきた歴史を持っている国なのです。モノが極端に少なかった社会では、それを上手く分け合い、少ないエネルギーを利用する工夫を重ねながら、精神的なものに重点を置く文化を作り上げてきたではありませんか。この混迷の時代にあって、これからの時代にあった新たな文化を発明し(あるいは改良し)それを逆輸出する事こそが、真にクールな国になれる条件でしょう。レイヤーからは少し脱線しましたが、更に続きます。

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2013年11月10日 (日)

2236 腑に落ちる

腑に落ちると言うと言う言い回しがあります。人の言う事が、ストンと納得できた時に発する言葉です。しかし、日常よく感ずるのは、確かに理屈では納得できそうだが、何か腑に落ちないと言う状況です。それはたぶん頭では理解してはいるが、内蔵(Gut)では消化できなさそうだ、という感覚でしょう。三本の矢によって、この国経済を「良くする」事は、多くの人達にとって、たぶん良い方向だと一応は理解はされているのでしょう。そうでなければ、今の政権がこれほどの椅子を取り戻す事は無かったでしょうから。

しかし、景気が良くなって懐が暖かくなり、結果エネルギーの消費やモノの消費が増えて、GDPが増加しさえすればそれで全てがハッピーになるのか、肝心のそこのところがモヤモヤし続けている様な気がするのです。それは、経済が再度成長軌道に乗れば、以前より何故「幸福度」が上がるのかを、時のリーダー達は説明してこなかったと思うのです。何度も書きますが、それは幸福の尺度を示す事を意味します。Fクシマの状況の進展もなくして、果たしてオリンピック開催に浮かれていて良いのか、準備のためのそんな貯金があるのなら、そんな人材が割けるのなら、もっとやるべき事が残っていそうに感ずる「内臓」が、どうにも腑に落としてくれないのです。

リーダー達は、苦労が多い割に報われない地道な震災や原発事故の後始末より、将来に向けた前向き?で派手なな政策を打ち出したがります。それこそがリーダーの役割だと思っているからです。しかし、それは勘違いと言うものです。社会的問題や課題を解決・軽減に導くことこそが政治リーダーの役割で、企業の抱える課題を極小化する事が経営者の役割そのものだからです。目の前のハエ(小さな問題)を叩くのではなく、ハエが何処から湧いてくるのかを見極めて、その元を絶たない限り、問題は小さくできないのです。景気が停滞している事やデフレが問題ではなく、世界におけるこの国の立ち位置が既に大きく変わってきているのに、未だ20世紀の手法で対処しようと安易に考える事こそが大問題なのです。経済(お金やモノ)に代わる価値観を醸成し、必要最低限のソコソコの資源やエネルギーで、しかしココロ豊かに暮らせる社会システムの発明こそ、早急に行うべき「真の社会政策」だと思うのです。

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2013年11月 9日 (土)

2235 実は~である

投稿者も何気なく使ってしまいますが、「実は、~は~である」と言い回しを使ってしまいます。これは、意識しているかどうかは別にして、「~は~に過ぎない」という還元主義的な表現に陥っている証左とも言えます。一方で、「~は~でもある」という言い方がありますが、こちらは物事をより広く捉える視点での表現であり、より好ましい立場だとも言えるでしょう。実は、大気中の二酸化炭素の増加は、温暖化の原因となっている、と言い切ってしまうのはあまりにも単純で、還元主義的見方になってしまいます。「~は~でもある」という見方は、「実は」物事を別の角度から見た、多面的な視点「でもある」とも言えます。

さて大気の循環や気候など言う地球規模の変動を、気温変化やその原因と言われる温暖化効果ガス(GHG)の増加に「還元」しては、あまりにも狭い視点でしかないと言うしかありません。この見方に立てば、GHGの6割を占めていると言われるCO2の排出量さえ減らせば、問題が解決(あるいは縮小)すると言う短絡的な議論に陥るのです。環境問題は、勿論GHGだけではありません。資源の枯渇、繰り替えられる途上国での公害、廃棄物の処理、消せない放射能汚染、海洋汚染、大気中のNOxゃSOxやPM物質の増加、資源産出国での鉱害などなど、枚挙に暇がありません。

温暖化問題だけでも、単眼的視点であるGHGだけでは把握しきれず、海洋の熱塩循環、大陸や海洋のアルベド、関連しての森林や砂漠の消長、太陽活動の変動、地球時点の歳差、火山活動や海洋からの火山灰やエアロゾルなどなど、同時に考慮すべき事項が山ほどあります。これに上記の視点を加えた多元方程式など、どんなスーパーコンピュータを使っても解けない難問だと言えるでしょう。しかし、問題を解決するのは困難だとしても、その根は結構単純かも知れません。つまりは、多くの問題の根は地上に増えすぎた人口と、その人々の膨らみ続ける欲望の掛け算で生ずる、2次カーブで増加する環境負荷である事は間違いないでしょう。環境負荷は一種類ではないので、この結論は「単眼的」ではありません。

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2013年11月 8日 (金)

2234 CO2発生装置

別の言葉では「車」とも呼びます。これを長年作り続けている企業であるT社が、リーマンショック前の水準に迫る利益を上げたとか。世界一の出荷台数を記録したとか、しないとか、T社もそろそろ目を覚まして欲しいものだとは思います。車がCO2発生装置の典型である事、それがエネルギー消費全体の1/4を占めている事は、いくらハイブリッド車を開発して、1台あたりの環境負荷をいくらか下げたとはいえ、動かし様の無い事実なのです。ましてやその台数は、毎年もの凄い勢いで増え続けている現状を見る限り、事業に専念して大きな利益を上げたからと言って、PリウスやAクアが免罪符になる筈もありません。

多くの人が移動したり、ひたすらモノを運び続ける事(つまりはホモ・モーベンスである事)が今の文明の特徴であるとするならば、この文明は多分その特徴故に滅びる運命にあるかも知れません。今の文明行き着く先にあるのは、たぶん極端な温暖化か、化石燃料の枯渇による厳しい生活だからです。古の文明を振り返れば、畑とするために森林を焼き払い、あるいは燃料や材木とするため山の木を切り過ぎた事により滅んでしまった例も多いでしょう。現代は、山の木どころか地下深くから、化石燃料を掘り出して、日夜多量に燃やし続けるいる訳で、この状態が未来永劫に亘って持続できる筈もありません。

知恵を使うべきは、燃費の良い車の開発ではなく、人が移動しなくても、モノをキチガイみたいに運ばなくても、私たちの生活が続けられる様な社会システムの構築なのです。スマホや各種の映像・通信技術で、私たちは容易に「疑似体験」が出来る様になったので、物見遊山の移動を少なくする事は出来そうな気がします。しかし、問題は物流です。国内に耕作放棄地を増やし、足りなくなった食糧を海外から大量に輸入する、という方向が、冷静に考えれば間違っている事は子供でも理解できるでしょう。地域で消費するものは可能な限り地域で調達する努力をすれば、物流の量はかなり抑える事が出来る筈なのです。同様に、例えばキャベツなどの野菜の産地を固定化して大規模に生産し、それをトラックで配送するなどというムダを考えれば、必要な多種類の野菜をその地域で生産する方が、理にかなったシステムである事は自明です。近くて少量ならリヤカーで運ぶ事も可能でしょう。CO2を全く出さないシステムだって、部分的な実現なら可能でしょう。T社やAオンなどが率先して、その様なシステムの実現に向けて努力するなら、これらの企業も少しは尊敬を受ける様になるかも知れません。

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2013年11月 7日 (木)

2233 防波堤の無い港

この国が貿易立国である事は認めざるを得ません。国の中でも、特に港という場所はまさに貿易活動の象徴であると言えるでしょう。さて、その港は波静かな入江の奥に位置し、必要であれば更にコンクリートの防波堤を築いてもいるでしょう。港では、船は安全に着岸できる様に出入りの航路が決められ、しかし大きな波は入ってこれないような構造になっています。

さて、これを貿易活動全体の縮図として眺めれば、いま国が進めようとしている貿易の自由化の本質が見えてきそうな気もします。つまり、貿易の自由化とは、港の防波堤を取り払ってしまう様な動きだと見る事が出来るでしょう。防波堤を取り払えば、それまでより大きな船が入る事が出来るので、港での荷扱い(貿易量)も増えるでしょう。同時に、輸出する際にもより利便性が向上し、港の貿易量は格段に増加するでしょう。これが、貿易自由化推進論者の言い分です。

しかし、一方で考えてみなければならない視点が抜けています。その港は、防波堤を取り払った事で、外海の荒波に直接晒されるリスクも格段に増加してしまう事にもなる訳です。荒波で済めばまだマシですが、時には台風(経済の大きな変動?)や高潮(長期の為替の高止まり?)、更に言えば100年に一度の津波(あのリーマンショックより大きな、例えばお隣の国が立ち行かなくなるC国ショック?)も起こり得るでしょう。今のリーダーは、平時の判断基準で自由貿易拡大を標榜していますが、そこにはリスク管理の「リの字」も感じられません。それが、私たち国民にはソコハカトナイ不安として引っかかるのだと思います。関税を含む、貿易における種々の障壁は、ある意味では防波堤でもあり、戦いにおける盾でもある訳です。丸腰になった資源小国が、どれほど(政治的あるいは経済的な)危機に弱いか、私たちは近い将来にその結末を見る事になるかも知れません。

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2013年11月 6日 (水)

2232 語彙=自分

語彙とは、ざっと言えば辞書に載っている語や、ある人が使える言葉の数を指します。投稿者の語彙は、精々このブログに書いている程度のものなので、決して多いとは胸を張れないのですが、幸いなことに少ない語彙を組み合わせて新たな言葉を作る(定義する)ことは、結構得意そうなので、6年以上にも亘って、毎日のように結構な長さの小文を書き続ける事が出来ている様なのです。

言葉はそれ自体は、脳の状態を記述するための記号に過ぎませんが、しかしそれに「意味」を載せる事によって、多様に変化させる事が出来るシロモノなのです。何故なら、言葉では、同じ言葉を使っても、全く別のニュアンスを伝える事が可能だからです。例えば、「君は良い人だね」という言葉を発しても、君は好い人で本当に好きだ、と言う気持ちも表現できるでしょうし、一方であなたはお人好しで社会の中では貧乏くじを引きやすいタイプだね、と言ったニュアンスにもなるでしょう。しかし、「君は、誰にでも優しく出来て好い人だね」と言葉を組み合わせて言えば、その言葉を発した人の気持ちにより近い言葉になるでしょう。

この意味で言えば、現代社会の誤謬は、気持ちを短いメール分で伝えようとする無駄な努力を日々積み重ねている事にあると見ています。面と向かって、気持ちを添えた言葉を発すれば、喩え下手な言葉でも、気持ちは届くと思いますが、単なる記号である言葉をぶっきら棒に投げつける事によって、多くのトラブルの引き金を引いてしまう訳です。気に入らなければ拳銃の引き金を引いてしまう、銃社会にも似ています。まるで言葉の銃弾の様だからです。従って、このブログでは出来るだけ単なる批判は避けて、何らかの提案で終わる様にしている積りです。

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2013年11月 5日 (火)

2231 環境問題における筋違い

カテゴリーミステイクの続きです。これを環境問題に敷衍した場合を考えてみます。2226では脳とココロの問題を例に挙げてみましたが、環境問題とは結局、環境の許容できない環境変化と、そこに住む生き物(最大の環境負荷を与えている人間社会)の住まい方=価値観の問題だと言う事が出来ます。例えば、大気中のCO2の増加が、温暖化と強い因果関係があるとのIPCCの報告がありますが、これはいわば測定可能な指標である訳です。つまり、大気中濃度が○○ppmになると、概ね平均気温がXX℃上昇すると言った、因果関係があるとの科学的知見が示せると言う事です。

ここでは、環境と経済という「異なるカテゴリー」を考えてみます。確かに、ファクター4とかファクター8とか、社会システムを維持するための資源やエネルギーを大幅に減らし、持続可能で環境との折り合いをつける新たな社会システムも提案されています。しかし、それを実現する具体的な道筋はボンヤリしたままです。というより、最近それは所詮無理な相談ではないかと思うようになってきました。70億にも増えてしまった私たち人間の「人口圧力」があまりにも大きいからです。一人ひとりの人間が、日々生きること自体が環境負荷である限り、人口が大幅な減少に移行しない限り、実質的な負荷の減少も期待できないと思うようになったのです。

結局、環境問題における筋違いとは、環境における語彙(キーワード)と経済活動における語彙を、混同して用いる過ちを正さない限り、その矛盾は拡大し続ける事になってしまいそうなのです。具体的な言葉にするならば、例えば「経済の持続的な成長」とか、「環境保全を織り込んだモノづくり」と言った語彙の筋違いを指します。告白すれば、後者を投稿者がサラリーマンを辞める時に旗印として掲げました。今は、その時の浅学を恥じております。環境問題は地球全体の問題であり、経済問題とはその上で暮らす(一生物種としての)ヒト社会だけの問題でしかないのです。その筋違いの問題が、人口があまりにも増えすぎたことで、大きく重なってきた事こそが問題だったのです。しかしそれが理解出来たとしても、その解決策を見出す事は絶望的です。精々頑張ってももその破局を遅らせる事が出来るくらいでしょうか。でも頑張るしかありません。

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2013年11月 4日 (月)

2230 knowing why

この国の教育(あるいは価値観)で最も足りないものを一つ挙げるとすれば、それは「knowing why」を教えない(考えない)事だと思っています。今学校で教えている事は殆どが「knowing how」ではないかと想像しています。1+1は何故2にしかならないのか、例えば水1とアルコール1を足しても決して2にはならないのに、あるいは人と人が協力する時にはたぶん2以上になる事は殆ど教えられていないでしょう。何故?を考えさせれば、水とアルコールの分子の大きさの違いにより混合液の体積が目減りする事、あるいは個々人の作業の足し算に比べて、共同作業や分業により、能率がかなり上がる事が何故そうなるのか理解できる筈です。

例えば、原発が何故行き詰まるのかは、単に事故を起こして深刻な放射能汚染を出した事ばかりではなく、使用済み燃料の処理方法や、古くなった炉の処理方法、あるいは放射能それ自体を消す(あるいは完全に遮蔽する)技術が全く開発されていないこと、更に言えば原子炉自体の制御方法が、本質的にブレーキだけのコントロールである事など、数多くの「未解決の問題」が山積であるとの前提に立てば自明です。しかし、感情論だけではまともな議論すらできないのです。

knowing why」で議論すれば、何故無理やり増税し、物価を上げて経済を活性化させなければならないのかに関しても、もっとマシな提案できるとも思うのです。あのリーダーは、なぜ物価が上がって経済活動が活発になれば人々が幸福になれるのか、そもそもモノやお金だけが幸福の指標なのか、あるいはGDPの増加だけが国を豊かにするのか、説明し尽さなければならないでしょう。「knowing why」のフィルターで物事を濾してみれば、その本質が見えてくると思うのです。その何故を5回くらい繰り返し、それにしっかり答える事が出来る行動や政策は、ほとんど問題はないでしょう。Aベノミクスは、増税し物価を押し上げて景気を底上げすれば、少し遅れて人々の平均所得も少しだけ増えるところまでは説明していますが、それが格差の縮小になるのか、あるいは果たしてそれが国民の「総幸福度」を上げてくれるのかは全く説明していない「knowing how」の政策でしかない、と切って捨てるしかないのです。

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2013年11月 2日 (土)

2229 水≠H2O

水は化学的に見れば、1個の酸素に2個の水素が固く結びついた化合物だと言うでしょう。しかし、それだけでは水の本質の1%も語ってはくれないでしょう。何しろ、水は、少なくともこの星の上では、生物進化に大きな影響を及ぼし、というより水無くして進化は生じなかった筈だからです。その意味で、各地にある滝や湖に「神」が住むと言う信仰は、納得できる祖先の行動でもあったと思っています。さて水が持つ本質は、ブログ程度の限られたスペースではとても語れない、というよりまだ解明されていない面も多いので、語ろうにも語れないのですが、いくつかのポイントを挙げてみます。

先ず、水は偉大な溶媒であると言う点があります。鉱物の様な固形物も、粘土の様に細かくなれば、チンダル現象によってさながら水に溶けた様に水中に漂いますし、そうでない有機物の破片はもちろん、金属でさえイオンとなって水に溶け込んでしまいます。この、「溶液」無くして決して生物は発生しなかったでしょうし、その後の進化も全く考えられなかった筈です。.

第ニに水は、偉大な運搬者でもあります。高い所から低い所へという制約付きではありますが、造山活動により繰り返して盛り上がる陸地を、気の遠くなる様な年月で風化し、平野や海へ土砂を運び続けてもきたのです。その働き無しには、人々の住む平野も出来なかったでしょうし、農業も成り立たなかったのです。

三つ目の作用としては、水は偉大な作動流体である事が挙げられます。水はほぼ0℃で固化し、液体の水に浮いて浮氷を作ります。あるいは雪氷や氷河となって長い時間陸上にへばり付いてくれます。これは貴重な真水の元となってくれます。一方、温度を上げていくと水は気体(水蒸気)となって大気中に入り、大気の一部を形成します。しかも、その蒸発の度合いは温度によって変化し、ほぼ100℃で最大に達し全て蒸発してしまいます。蒸発した水は、気温の加工に応じて凝縮し、雲になりやがて雨となって地上や海に戻ります。この水サイクルの原動力は勿論太陽光ですが、この偉大な作動流体無くしては成立し得ないのです。

ここでは、もう一つ4つ目の作用として、熱媒体・蓄熱体としての水の性質を挙げておきましょう。見過ごされ易い点ですが、水は目方当たりの比熱が最大の物質でもあります。体積当たりでみると、例えば比重の大きな金属に軍配が上がりますが、液体としては他を寄せつけない王様なのです。この性質故に、赤道付近から極地方に大量の熱を運ぶことが可能となり、しかもその熱を長く蓄積しておくことも可能となる訳です。たぶん続きます。

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2013年11月 1日 (金)

2228 必然

物事の成り行きにはもちろん偶然もありますが、全体的あるいは長期的視点に立てば、必然で進むと思っています。結果は、そうなるべくしてなったのでしょう。生物の進化も、今西錦司によれば、なるべくしてなったのだそうですから。さて、今の文明を生物の進化になぞらえて眺めてみます。15-16世紀の科学の黎明期に始まり、19世紀の産業革命以降に一貫して増え続けな資源の消費は、20世紀を通じて爆発的に増加してきました。工業力の発展により大量生産が可能となった事と共に、人々の消費レベルが上がったこともありますが、なにより人口の幾何級数的な増加が最大の圧力となっているのでしょう。それは、脳細胞の数が飛躍的に増加・拡大しヒトになった過程に似てもいます。

それが、この文明の(進化の)必然であるならば、それを受け入れるしかないのでしょうが、幾何級数的な増加の帰結は明白です。急増する人口を支えるために有限の資源を使って経済規模を拡大しようとする場合、そのスピードは一定期間後には必ず頭打ちになる筈です。ピークを打った膨張はやがて収縮に向かうことになります。それが需要と供給の(有限性の)必然と言うものだからです。その必然の結果を座して待つか、ささやかでも抵抗を試みるかが今私たちの前に置かれた課題だと思うのです。座して待つどころか、今の国のリーダーの様に、経済規模を更に拡大しようとしている人たちも少なからずいます。それが文明の寿命を確実の短くすることが自明であるにも関わらずです。

この文明が、人間の寿命にたとえると一体何歳くらいに相当するのかは、分かりませんが間違いなく壮年は通過し、もしかすると老いの坂に差し掛かっている可能性もあります。3本の矢で、更に馬力を掛けて「無理な運動」をするのは、いわゆる年寄りの冷や水になる様な気がします。そうではなくて、腹7分目くらいに食欲を抑え、軽いウォーキング程度の運動をこなし、雨の日は読書などたしなみ、晴れた日は自分が食べるくらいの農作業を行うといった、抑制の効いた生活スタイルが平安な国を作るのも、嵐の様な、しかし後半は祭りの様な、20世紀を通過してきた私たちの行動の必然でもあると思うのです。

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