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2013年12月31日 (火)

2272 年の終わりに2

勿論、今年起こった問題や現象はエネルギー問題に限りません。政教分離問題への過剰反応や多数の行方不明の子供達、あるいは食品偽装の連鎖などなど。しかし、背景には、いわゆる失われた20年から抜け出すための我武者羅な(経済優先)行動が見え隠れしている様な気がします。日いずる国としての勢いが落ち、長い停滞に入ったことには、それなりの原因が内在していた筈です。経済成長率やGDPや景気指標など、数字だけで判断してしてきた、あるいはそこにだけ価値観を置いてきた国や社会のあり方が果たして正しかったのか、長い停滞の時期に深く反省しなければならなかったと思うのです。その意味で、曲りなりにも「高度成長神輿」の棒の端っこを担いできた身として、ここ10年余りにわたって反省し、7年ほどはその反省文をほぼ毎日このブログに書き連ねてきたのでした。

必要な事は、何度も書きますが、私たちの価値観や生き方の見直しなのです。年も押し詰まってから食品への農薬混入事件が勃発しましたが、この事件の闇の本質は、C国のギョウザ事件と何ら変わるところは無いと見ています。私たちは、この事件の直接の犯人探しとは別に、「食品を工業製品化する事の是非」を改めて考えてみるべきだと思うのです。産地を吟味する事も無しに安い食材を大量に調達し、工業的に処理(調理)し、パッケージに詰めて冷凍倉庫に積み上げ、それをトラックで全国に配送する、食品産業のあり方自体が問われているのです。

食糧は(世界遺産も認めた様に)、旬の時期に主として地元で調達し、その旬の味を楽しみ、一時期に食べきれないのなら必要によって漬物や燻製や干物などの保存食糧とし、それを慎ましく食べ続ける、伝統的な食生活を維持する努力も必要でしょう。お金で食糧は買えますが、お金が無くなったり、食糧自体が品薄になるかも知れない時代には、いくらお金があっても何も買えません。私たち自身で調達できる食糧、私自身の工夫で手に入る循環型のエネルギーを、数多くの工夫を重ねながら、しっかり確保していく必要があると思うのです。投稿者が東北にUターンしたのも、それを実践してみようと思い立ったからでもあります。新しい年も、思い描いている事の一つで二つでも実現できる様に、ボチボチと活動していくつもりです。

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2013年12月30日 (月)

2271 年の終わりに

今年も色々な事がありました。個々の事件や出来事に対してコメントするつもりはありませんが、連続する時代の流れの中で、その変化を感じ取ろうとは思います。このブログでは、「環境」を中心に据えていますので、それに関わるいわゆる、大気や水や土壌などの質的変化、それらに大きな影響を与えるであろうエネルギー消費や廃棄物問題などに特に敏感にアンテナを張ってきたのでした。そのアンテナからのインプットによれば、やはりエネルギー問題が今後の時代の流れを変えるとの予感があります。

エネルギーに関する最近の話題と言えば、やはりこの国が福一事故後、再度原発再開に舵を切り始めた事が挙げられるでしょうか。それは、放射性廃棄物の始末を押し付けられる次世代の安全より、現世代の経済を優先した結果なのでしょう。世界的に見れば、すでに原発の半数の廃炉処理に着手したドイツ、放射性廃棄物の処理方法や処分地を決定したスゥエーデンなど、世界をリードする原発フェイドアウト政策を進めている国はありますが、事もあろうにこの国のリーダーは、自らがセールスマンになって、原発を輸出しようとさえしています。もし、それを無理やり進めたいのであれば、少なくとも放射性廃棄物の処理方法もセットで輸出しなければ、近い将来に「無責任国家」のそしりを受ける事になるでしょう。それは入口だけしかないトンネルを作ってお金を取る様な行為で、詐欺と何ら変わるところがないのです。

エネルギーのほぼ全てを輸入するしかないこの国が為すべき事は明確です。先ずは徹底して省エネルギーの推進でしょう。この国が省エネ大国であるなどというキャンペーンは嘘っぱちです。投稿者のみるところ、更に3割の省エネは十分可能だと見ています。車メーカーには、リッター当たり50㎞は達成して貰いたいところです。製造業でも、あらゆるテクニックや工夫を駆使すれば、同様の削減率が達成可能でしょう。事実、前のオイルショック後は、私たちは同程度の削減を実現したのです。再度、ねじり鉢巻きをして更なる3割の削減を実行しなければならないでしょう。それが出来れば、原発を全廃してもエネルギーの帳尻は合わせる事が可能なのです。続きます。

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2013年12月29日 (日)

2270 加工された情報

2269に書いた情報断食が必要な理由がもう一つありそうです。しかもこれが最大の理由かも知れません。それは、私たちが触れる情報のほぼ全てが「加工された情報」であると言う事実です。加工された情報とは、生の情報がいったん誰かの手で加工されてから私たちに届く事を意味します。かつては加工業者?の多くがマスコミでした。つまりは、新聞やテレビやラジオや各種の出版物です。それらが世に出るためには、必ず編集会議や編集者のフィルターを通過したものでなけばならないでしょう。さらに言えば、それらは放送倫理委員会?などの、公共的なフィルターも通過パスできるものでなければならないのです。

しかし、それらの加工やフィルターは、当然の事ながら生の情報は、切られ、煮られ、味付けされたモノとなっている筈です。例えドキュメンタリー番組であったとしても編集や演出の無い番組は考えられないでしょう。ましてカメラの後ろ側の情報(背景情報)は、決して放送される事は無い訳です。そんな情報を受け取る側はと言えば、背景情報など殆ど知る由もないでしょうから、大多数は、編集者の意図に乗っかってその情報を鵜呑みにするしかないのです。その情報を冷静かつ批判的な目で観察できるのは、少数の背景事情を呑み込んだ専門家か評論家程度しか存在しない筈なのです。

一方で、近年のネットワークの拡大は、専門家でもない素人が聞きかじった、あるいは勝手に「加工情報」を解釈した、二次、三次情報が氾濫する時代を作ってしまいました。これはある意味では怖い話です。つまり、加工情報を鵜呑みにする事は、つまりは他人の情報への判断や価値観を鵜呑みにする事になるからです。それを回避するためには、可能な限り複数の違う立場から発信された加工情報に接し、その情報を「立体視」する事などが考えられますが、もしそれを実行しようとすれば、たぶん今よりひどく情報の奔流にのみ込まれる結果になるかも知れません。それこそが情報断食の必要な所以なのです。たとえ短い時間でも流れの外に身を置く訳です。

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2013年12月28日 (土)

2269 情報断食

誰の言葉だったか忘れましたが、最近聞きかじった良さそうな言葉です。これは数日間、あらゆる情報を絶ってしまう行動です。それはある意味では食を絶つ断食と同様です。断食は食を絶つ事によって、たぶん体の代謝がリセットされ、正常なメタボリックリズムに戻る力が湧いてくることでしょう。体にとって、余分なインプット(栄養)があり過ぎると、いわゆるメタボ異常が起こってロクな事になりません。つまりは、生活習慣病のオンパレードが始まる事になります。

では情報過多では何が起こるのでしょうか。これもロクな事にならないでしょう。何しろ、脳は自分が生きていくのに重要な情報(信号)を受け取って、より良い行動を五体に指示する器官ですから、情報過多は多分その判断を誤らせる可能性があります。更に、情報過多は必要な情報と、その他の情報(雑音)を選び取る感度を鈍くします。つまり、重要な情報が雑音に埋もれてしまう現象を引き起こすでしょう。つまりは、必要な情報に対する鈍感症状を惹起するのです。これは非常に困った事です。オオカミ少年の度重なるウソが、本当の情報に対する判断を誤らせた様に、デマや雑音は正しい判断を狂わせるでしょう。

これをある程度リセットしてくれるのが情報断食だと言えるでしょう。投稿者は、夏場だけですが数日間山の中を歩き続けます。一応ルートは大体決めては居るのですが、初めての山だとやはり未知の世界です。そこで体験するのは、新たな景色と、時には急変する天候と、ところどころに現れる分岐などの「新たな情報」です。方位磁石と山地図などの僅かな情報と、自分の体力との相談、そしてその晩の宿泊場所などを、臨機応変に判断し決めて行かなくてはなりません。尾根筋以外では携帯電話は通じない事が多いですし、いわゆるかなりの情報飢餓状態に陥ります。しかし、その状態を抜け出すと、精神が急激に解放される状態を実感できます。とりわけ、例えば自分を中心にして10㎞以内に誰も居ない事が実感できる瞬間は、心細さと同時に得難い浮遊感が体験できるのです。これより少しレベルは落ちますが、半日かそこらのロング散歩やサイクリングも結構お勧めです。そこから帰ると、少し気持ちが軽くなっている事が分かるでしょう。

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2013年12月27日 (金)

2268 薪は手に入るのか

今いるアパートの前に「○○林産」名前の会社があって、気になっていました。名前から、きっと山の木を伐採していると想像したからです。駐車場に止まっている車の数からみて、たぶん20人弱の従業員と、繁忙期に数人の臨時雇いを使っている様です。残念ながらこの企業は、電力会社の送電線が通っている山林の整理を専門としている様で、いわゆる国有林や私有林の、木材自体の伐採を行う事は少ないとの事でした。それでも、送電線は全ての種類の林野を通っているわけで、それなりの情報は得られました。薪が、地方における再生可能型エネルギー源の一つになり得るとして、果たしてその薪が継続的に手に入るのか、ここの専門家に話を聞いてみました。

先ず、この企業が伐採木を搬出する事は一切ないとの事でした。つまり、電力会社は鉄塔が立っている土地や電線が通っている土地は、国や地主から借りているのだそうです。従って、そこに生えている木は、電力会社のものではなく、地主の財産である訳です。だから元々運び出せないし、もし地主が要らないと言っても、運び出す費用は何処からも出ない事になります。これは、いわゆる「間伐問題」に置いても同様で、もし間伐材に一定の用途があるにしても、それがトン当たりの搬出費用がその売値より高ければ、赤字が積み重なるだけになるでしょうから、結局、間伐材も切り捨てされるだけです。

もう一つの問題として。残念ながら日本の山林には林道があまり整備されていません。国有林は流石に税金を使った、舗装された立派過ぎる林道が通っていたりするのですが、お金を生まない私有林にはそんなものは殆ど無いのが現状のようです。林道がなければ、たとえ伐採木を少しは動かせるとしても、山から降ろす事は叶いません。これが、先月見たオーストリア辺りの森林とは決定的に異なる環境だと言えます。山から木を降ろすには、先ず林道の整備が必要となる所以です。しかし、そこには工夫する余地がありそうです。その一つの回答は「土佐ノ森方式」でしょうか。立木を利用してワイヤーを架線し、滑車を利用して木材をを林道まで降ろすやり方です。それなりの人数のチーム作業とはなりますが、日本の山林向けの方法ではあります。しかし、もう少し小規模で、少ない人数で取り組める方式も必要だと見ています。つまり、小規模な私有林の数本の伐採にも使える方法です。これは、木材や薪の活用のためには必須であり、引き続き考えてみたいテーマでもあります。

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2013年12月26日 (木)

2267 薪ボイラおそるべし2

オーストリアや南ドイツで、すっかり薪ボイラの良さにカブレて帰ってきましたが、さりとてこの国では、薪産業が廃れてしまっていて、よほど山間地に入らないと持続的には薪が手に入りません。従って、薪の利用は、薪産業の再度の拡大を抜きにしては成立しません。オーストリアでは、薪の入手は結構楽に出来ると想像しています。具体的には、森林はきれいに間伐され、間伐材は林道の脇に固めて積まれます。それを業者か、あるいは個人が運び、薪に加工する事になります。汗をかくつもりであれば、個人で間伐材を運び、薪にする事によってタダ同然で燃料が確保できる訳です。一方、重機種所有していて、それを使う事の出来る業者も、結果的には比較的安価に薪を供給する事が可能となるでしょう。

いま地元の薪事情を調査中ですが、間伐材の放置状況が問題になるはずです。いわゆる切り倒し間伐だけが行われ、林地に材が放置されたままだと、先ずそれを適当な長さに切って、林道まで運ばなければなりませんから、多大な労力が必要となり現実的ではありません。結局、必要な技は、最小の労力で間伐材や里山の整理木を、林道まで降ろす仕掛けだとの結論になります。機械的な仕掛けも考えなければなりませんが、たぶんプラスチックの樋やレールなどを使って、重力でえ降ろす仕掛けが現実的だと考えています。その樋やレールを、簡単に移設出来るものでなければならないのは当然です。

薪が山から降ろせる様になれば、その量に応じて薪ボイラが普及できる事になり、地方の暖房費は軽減できる様になるでしょう。薪の消費量だけ、お金は地域で回る事になり、地方が石油資本に払い続けている「油代」は軽減できる事になります。もちろん、薪を燃焼させ、利用するためには薪ストーブや薪ボイラと言った機器を製造する産業や、電気設備屋さんや配管設備屋さんなど周辺産業も必要となりますから、中小企業の活躍する場も更に拡大するでしょう。つまり、薪の利用は地方の産業全体を底上げする潜在力を持っていると言えるのです。

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2266 科学の「発明」2

2255では、使いっ放し、やりっ放しで後世にツケを回す科学とそれを利用した技術を批判しました。しかし、批判はこのブログの目的ではないので、今後に向けた提言も書いてそのフォローも必要でしょう。経済を優先し、放射性廃棄物の処理方法も決めないまま、原発を動かし続ける無責任はそしりを受けるべきでしょうが、では一体どうすればこの世代が、将来世代に責任が持てるのでしょうか。

何度か書きましたが、一にも二にも、この世代が出す「廃棄物」の量を減らし、後世に害が及ばない様にシステムを再設計すべきだと思うのです。エネルギーであれ、資源であれ地下から掘り出すモノを消費する限り、必ず廃棄物が発生してしまいます。それはエネルギー消費の結果としてのCO2やNOx、SOxは勿論、放射性廃棄物、また地下資源消費の結果としての不燃ゴミなど、廃棄物が自分たちの生活の質を悪化させ続ける事は、誰が考えても明らかです。一方、廃棄物の出ないシステムを設計する事は、非常に困難であるのも事実です。

であるならば、廃棄物が何らかの形で環境に還るシステムにすれば良いと思えるのです。具体的には、現状ゴミの焼却場で燃え残った灰は、管理型の最終処分場に投棄されます。今はそれ以上の良い方法が発明されていないからです。しかし、、もし金属類を完全に分別してリサイクル獅、生ゴミを完全に分別して堆肥にして土に返し、プラスチックを同様に生分解プラスチックに替えて同じく土に還し、紙をタルクを含まないものに切り替え、燃料を可能な限りバイオマスに切り替えるならば、焼却場で燃やすべきゴミは多分1/10以下に出来るでしょう。つまりは、ゴミが自然に還る(還せる)システムへの再設計を意味します。もちろん、一気に変える事は無理でしょうが、ガイドラインを引いて最終目標を示せれば、社会は動くと思うのです。ドイツが原発全廃を打ち出し、ペットボトルの20回再利用を法制化した様に…。科学や技術を、廃棄物を出さない、あるいは廃棄物を環境に還せるものという視点でフィルターに掛ければ、おのずと残る(残せる)技術が収斂してくる筈なのです。

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2013年12月25日 (水)

2265 インフラのジレンマ2

この国の今のリーダーは、喜々としてインフラ輸出のセールスマンを自認している様です。何しろ、経済優先と憲法改正(改定?)を旗印に掲げて突っ走っているので、それも当然でしょうか。確かにインフラの充実は、途上国にとっては重要です。とりわけ基本的なモノはそうでしょう。しかし、先進国が「必要」だと主張するインフラは、たぶん途上国にとっては「あれば良いね」程度の必要度でしょう。例えば、原発や新幹線などが果たして彼の国にとって「必要か?」と問われれば、大きな疑問が生ずるはすです。

つまり、それをフルターンキーで「売りつけられた」国々が、そのシステムを維持管理するのは、結構負担になるはずなのです。何故なら、複雑で高度なインフラは、ある意味でブラックボックスであり、中身を知らないで運用する事は、ある意味で大きな危険も伴う事になります。その危険は。インフラの仕組みが高度であればあるほど拡大するでしょう。原発などと言うシロモノは絶対に売って欲しくないモノの一つです。

売る(買う)に易く、運用が難しいと言うジレンマを抱えるのもインフラ輸出のジレンマなのです。そのジレンマを知ってか知らんぷりを決め込んでいるのかは分かりませんが、間違いなく初期投資の他に、毎年例えば5%程度の維持費が掛かるなどとは、口が裂けても知らせる事はないでしょう。そんなことが知られたら、途端に商談が暗礁に乗り上げるからです。しかし、戦後一貫して拡大させてきた、この国のインフラの維持状況を見ても、インフラは将来世代に大きな負担を強いるものである事は、例えば高速道や国道の惨憺たる状況を見るまでもなく明らかです。それが、インフラが抱える最大のジレンマだと言えるでしょう。原発のコストは、これから建設時の何倍にも膨れ上がるのです。

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2013年12月24日 (火)

2264 英断2

2259で近年ついぞこの言葉を耳にしなくなったとか書きました。その理由を追加で考えてみます。今の文明になって、何千年が経過したか云々する程の見識はありませんが、いずれにしてもそれまではほぼ定常的であった世界が、産業革命以降、人口も、経済も、社会システムのサイズが加速度的に拡大してきた事は間違いないでしょう。それは、兎にも角にも人間が使えるエネルギー量、資源量、食糧生産量が下でそれを支えている事もまた間違いないところです。

とは言いながら、それらの量的拡大がシステムの肥大化を招き、それが相対的に人一人の比重を下げ続けてきた事も否めません。しかも、システムが大きくなればなるほど、一人の決断がシステムに影響を及ぼすインパクトは逆比例的に小さくならざるを得ません。例えば、この国の1960年代や70年代を思い起こせば、その頃の政治家は結構な影響力を持っていた様な気がします。もちろん、それを支えていたのは強力な官僚組織ではあったのでしょうが・・・。同様に、文化的には作家や映画スターや評論家などの言動も大きな影響力を持っていた時代でもありました。

しかし、この時代です。巨大に膨れ上がった経済活動は、例えば大きな企業グループは、とうの昔に小国一国の経済規模を追い越し、洪水の様に溢れかえっている情報は、個々人の重要なメッセージをその渦の中に埋没させてしまいました。ある日、誰かのメッセージに共感したと思っても、その人をトレースしようとしても、次の日には別の情報に覆い尽くされてしまって、二度と見出せない事も多いのです。

その中で、もし誰かが重大な決意を持ってある決定をしたとしても、社会の反応は「それが何か?」と言ったものに留まってしまうでしょう。巨大な社会システムにやや大きな影響を与えるためには、社会がビックリする様なインパクトを持つ決断しかないのです。しかも、それはマイナスのインパクトではなく、社会を良い方向に突き動かすものでなければならない点で、英断という言葉を使う機会はますます遠のく事になります。この国の政治家が、「原発即時廃止」と言ってくれれば、一応「小英断」と呼ぶ事は吝かではありませんが・・・。

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2013年12月23日 (月)

2263 基礎と応用

基礎と応用に関して考えてみました。現実の例では、たとえば科学が基礎で、技術が応用に当たるでしょう。科学が基礎理論を打ち立て、その原理を応用して技術が社会の役に立つビジネスやシステムを作ると言う順番です。電子が発見されて以降、その電子を制御するために真空管が作られ、それがトランジスタに、やがて大規模集積回路に、それがコンピュータを小型化、高速化し、その結果が大量の情報処理を促し、今日のソフトウエアビジネスやITビジネスが隆盛しているのでしょう。

しかし、ここで考えてみなければならないのは、その過程のチェックでしょう。基礎科学そのものは、原理や理論の追求である限りにおいては、実験室内の出来事であり、誰かに迷惑を掛けたり、社会に害悪を及ぼす恐れは無いでしょう。しかし、それが技術として応用され、ビジネスとなる過程においては、何らかの「倫理」チェックが必要だと思うのです。放射能が発見され、それが実験室の中で扱われていた時代においては、実験中に被爆した人たちの犠牲に留まっていた筈ですが、それがマンハッタン計画を経て大量破壊兵器になり、また冷戦時に長期間無補給で動ける原子力潜水艦や原子力空母の動力源としての要請から原子炉が開発され、たぶんその後ろめたさから、平和利用とい名目で原子力発電所が開発されたのでしょう。

しかし、これらの応用技術開発の過程で完全に抜け落ちていたのは、核の利用に関しての倫理チェックだと思うのです。それを簡単な問いに置き直すとすれば、「それは何のため、誰のための技術か」というものになります。そして、「それは果たして環境にも人間にも安全か」、という最重要の問いにもYesと答える必要があります。核兵器は「大量殺りくのため」の技術ですから論外ですが、原発はエネルギーの安定供給のためですから、最初の問いにはパスするのでしょうが、二番目の関門はパスできない技術だと言えるでしょう。何故なら、核という地上で最も危険な物質を、完全とは言えない技術を使って遮蔽しているだけだからです。

ではコンピュータや「IT技術」はどうでしょうか。誰が、それを倫理チェックしたのでしょう。先ず、それらは今や万人が使っている技術である事は明らかですが、では一体何のためにIT技術を、駆使しなければならないのでしょうか。またそれは、人間社会に最重要な人間関係や脳の機能の健全性に関して本当に安全なのでしょうか。それを十分に検証しないまま、ネットに絡んだITの世界は野放図に拡大し続け、結果IT自身がITを生み出す「情報の連鎖反応」が続くのです。これは、物質世界の「核反応」と何が違うのでしょうか。情報にも有害な「放射能の様なもの」があるのでしょうか。凡人である投稿者には今のところ判断が出来ません。

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2013年12月22日 (日)

2262 喉元国民

 

[喉元」という言葉で始まる諺はほぼ特定できるでしょう。この諺は、まさにこの国の人たちのために作られ、同時に国民性をズバリ言い当てています。同じ意味でこの国では、「他人の噂も75日」で消えてしまうのだそうです。その検証例には枚挙に暇はないでしょう。最近の例では、あの悲惨な福一事故からまだ3年も経っていないにも関わらず、またぞろ原発をベースエネルギーに据えようなどという暴言がまかり通る国である事を挙げれば十分でしょう。事故直後、この国の人々は、原発はコリゴリだ、たとえ20年後でも良いから原発はゼロにすべきだ、と殆どの人が決意したはずでした。しかし、それはリーダーがすげ代わった途端に反故にされ、それに異を唱える人々も今は一握りの様にも見えます。

 

もっと時代を遡れば、唯一の被爆国でありながら、核兵器の全廃に国連の場で賛成に回ったのはつい最近の話だった事は一体何を意味するのでしょうか。3年も経てば、熱さをすっかり忘れてしまう国民であれば、60年以上前の事など無かった事と同じだとでも言うのでしょうか。私たちは、喉に負った火傷を決して忘れるべきではありません。安全は経済に優先するのです。

 

ドイツではとっくに原発を諦める事を国民が同意し、北ドイツは風力、南ドイツは太陽光(熱)に加えて、バイオマスの熱利用など多面的な手を打ち、40基弱はあった原発の、ほぼ半分を完全停止した上で既に解体作業に着手しているのです。つまりドイツは、原発解体先進国でもある訳です。彼らの解体に関するノウハウは、間違いなく福一でも活用できる筈なのです。先ずは、彼らに謙虚に教えを乞うべきでしょう。「喉元国民」と揶揄されないためにも…。

 

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2013年12月21日 (土)

2261 ハードウェアの偏重?

この国の産業構造として、ハードウェアへの偏重が気になります。ありふれた製造業のパターンは、いわゆる「部品メーカー」です。部品自体が市場で直接売買される割合は小さいので、これはイコール「下請け体質」である事も意味します。メーカーは、自分自身の裁量で作ったり、売ったりできないのです。この結果、最終製品を市場に出している大メーカーと、そのすそ野を形成する部品メーカーという階層構造の城下町が出来てしまいます。それでも、他の部品メーカーが真似できない様な技術を持って、シェアが高い企業はまだ息が出来ます。そうではない、一般のメーカーは、やはり親企業がクシャミをすれば、間違なく風邪をひいてしまうのでしょう。

このブログでも何回か書きましたが、しかし消費者が欲しいのは「モノ」ではなく、「機能」なのです。例えば車の機能はと言えば、時速数十キロで雨に濡れずにドアからドアへ移動する手段だと言えるでしょう。同様に、照明器具は紙面や足元を必要な照度で照らし、不自由なく読書したり、移動出来たりする機能を持っていると言えます。車や照明器具を買うのは、使う都度レンタルで借りるのは現実的ではないし、面倒でもあるからでしょう。しかし、もし殆どのモノがリースで借り続ける事がコスト的に安く済むならば、モノはあまり作らなくても済む事になるかも知れません。車を所有するコストが、ガソリン代を含めて年24万円掛かるとし仮定して、毎日の通勤に使っていないとすれば月々のレンタル料金が保険付きで1万円程度であれば、何も車など買わない方が良いでしょう。これは、車を買って所有するのではなく、車の機能を消費する事を意味します。

殆どボランティアのコンサルタントとして、投稿者はメーカーに「自社製品」を持つ事を勧めています。工夫された「機能」を持つ製品を持ち、自社の裁量で販売する力を培うのです。機能を売りにするのは「ソフトウェア的アプローチ」に他なりません。部品屋から脱却して、消費者が求める機能を前面に打ち出した製品を作れれば、それを売るなり、貸すなりするビジネスが成り立ちます。人が一人しか乗っていない通勤車を見るたびにため息が出ます。もし同じ方向に通勤する人達が、何らかの方法でお互いに通信でき、相乗りが出来れば、民生用の化石燃料の消費は、地方都市では間違いなく多分半分以下に出来るでしょう。例えば投稿者が住む8.5万人の人口を持つ地方の町でも乗用車の燃料だけで年間400億円以上を支払っていると言うデータがあります。これが200億に圧縮できれば、どれだけこの街が豊かになるでしょう。さながら200億円のお金が天から降ってきた様なものです。これがソフトパワーの例だと言えます。メーカーは一体何時まで、1個当たり何円とかの部品を黙々と作り続けるのでしょうか。たぶん続きます。

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2013年12月20日 (金)

2260 大型化の戒め

今住んでいる県の再エネに対する主な政策は風力発電なのだとか。一方で、各地で民間主導でのメガソーラの計画もそれなりに前に進んでいる様です。しかし、何度も書くように広く薄く賦存している再生可能エネルギーの本質は、手に入る現場で消費してしまう事が大前提です。大型化して、電力に変換し、それを消費地(都市)に送り届けるためには、今のインフラに加えて、新たな変電設備や送電線が必要となるでしょう、何故なら、大型風車やメガソーラは、海岸や耕作放棄地など街から離れた地域に立地せざるを得ないからです。そこで集めた電気を離れた都市に送るためには、電圧を上げて送るしかないわけです。

一方、中型、小型のシステムはといえば、例えば家の屋根でPV発電をして、その家で大部分を使ってしまえば、大きな変電、送電システムは不要で、その地域で消費してしまえる筈です。何度も書きますが、エネルギーも地産地消です。地産地消の原則は、小型化、分散化である事は自明です。そうでなければ無駄な輸送や送電が必要となるからです。運ぶことによって、産品やエネルギーの価値が増加する訳ではありませんから、その事に理はありません。

大型風車やメガソーラは確かに見た目的にはアピールするものはあります。例えば数百基の大型風車が一斉に回る姿や、丘の斜面を覆い尽くしてキラキラ光るメガソーラは確かに壮大で美しくは見えますが、その裏に潜む大型化のムダを見逃してはならないでしょう。どこまで行っても、再生可能型エネルギーは、その地域毎に必要最小限の規模で最適化しなければならないのです。そのために必要な事は、先ずは現状のエネルギー負荷を正確に把握し、可能な限りの省エネを実施してデータを整理し、それに応じたエネルギー種を検討すべきでしょう。エネルギー種とは、熱エネルギーは熱、電気エネルギーは電気、動力エネルギーはそれとして、それに対応するエネルギーの発生手段を検討する必要があると言う事です。電気エネルギーは便利で万能ですが、例えばバイオマスで発電をするのは、大きなムダにつながるでしょう。熱源から電気エネルギーを発生させるには、原理上多くのエネルギーを捨てなければならないので、熱が手に入るのであれば、暖房(冷房)や給湯など、熱利用目的に振り向けるべきなのです。それも規模を抑えて…。

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2013年12月19日 (木)

2259 英断

この国で、この言葉を久しく聞かないと嘆いているのは、投稿者ばかりではないでしょう。特に政治の世界においては。例えば、英断という言葉を、ある神社にお参りしたとかしないとかに使われるに至っては、英断という言葉も怒りだすでしょう。この国では、3年近く前、未曾有の「大」災害と、「大」事故を経験してしまいました。この時以降、復興事業や原発事故の収束事業で、政治や行政は勿論国民にも「大」英断を促していたはずなのです。社会インフラ再構築事業や街づくりやエネルギー行政などで、「大」が付かなくても、ある程度の英断が求められていたはずなのです。

それがあろうことか、Aベノミクスなどと軽く「揶揄?」される程度の小手先の政策やOリンピック誘致ごときに浮かれて、本題から目を逸らすなど言語道断と切って捨てるしかありません。しかし、このブログは批判は目的にはしていませんので、マイナス面の話はここで置いて、ではどんな英断が求められているか、投稿者なりの理想を記してみます。

先ずはエネルギー政策ですが、兎にも角にも原発全廃の英断を打ち出して貰いたいものです。政治家がもし歴史に名前を刻みたいのであれば、取り敢えずこれは必須でしょう。エネルギーが不足して、化石エネルギーの輸入やエネルギーコストが増えるという「抵抗勢力」があるのであれば、3割の省エネを法制化して、それで乗り切れば良いのです。移行期間を設けて、全ての産業や民生の活動で、3割以上の省エネ達成を義務づける訳です。そのためには、より高度なエネルギー管理技術(EMS)や個々の機器の省エネ技術、新エネルギーの普及、断熱技術などの開発を加速させる必要があります。市場にお金を溢れさせることなど断じて政策ではなく、真に必要とされる技術の開発を誘導する方がより良い政策でしょう。その意味では、インフラ技術や医療技術の輸出や航空宇宙技術の拡大などいう時代錯誤の「後ろ向き」の政策ではなく、途上国向けの分散システム技術や健康産業、あるいは成層圏PF(高高度気球)技術など、比較的安価ですが真に途上国の利益になる技術の開発を通じてこそ世界の尊敬を集めるべきでしょう。続きます。

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2013年12月18日 (水)

2258 再生可能型エネルギーの必然

考えてみれば当然の事ですが、再生可能型エネルギーは広く、薄く分散しています。何しろその大元のエネルギー源は太陽光ですので、条件の良い真夏のピーク時でも㎡当たり1kwを超える事は無いからです。2252で書いた南ドイツやオーストリアの薪利用が成り立つのも、実は低い人口密度の地域で、しかも分散して住居を構えているいるからで、その様な住まい方は全く日本が突き進んできたインフラの集中化とは馴染まないのです。例えばガス管を通すにしても、隣家と何百メートルも離れていては、インフラ工事の効率は最低になります。

従って、地元で入手でき、しかも寒い冬季を乗り越えるための熱エネルギー源を探せば、自然に山の木に目が行き、それを利用する仕組みが発達したはずなのです。この国でも、地方都市に限れば、50年前はほぼ全てが薪炭に頼った生活をしていたのでした。都市部でこそ、その頃は比較的潤沢に手に行った国内炭(石炭)を乾留して発生させたガス(石炭ガス)を使ったガスインフラが出来ていましたが、それはやがて石油(あるいはLPG)や天然ガスに取って代わられました。

結局、私たちは化石燃料あるいは原発という集中インフラの便利さの中毒になりながら、手間の掛かる薪炭をあっさりと捨て去ってしまったんのでした。そのツケは、原発の停止もあり、エネルギー支出の増加という形で私たちの生活を圧迫し始めています。灯油は、北国では配達料込みではすでに100/ℓを超えており、途上国のがぶ飲みを考えれば、安くなることはあまり期待できません。このまま、高い石油代、ガス代を払い続けるのか、もう一度国内で調達可能なエネルギー資源に目を向けるのか、ここで立ち止まって方向を見定める時期に来ています。もちろんこのブログの結論は、先ず手近なバイオマスの活用から手を付けるべき」というものです。

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2013年12月17日 (火)

2257 今更宇宙開発?

C国の無人機の月着陸、Iランのサルが乗った人工衛星などなど、何か60年代の米ソの宇宙開発競争の時代に戻った様な錯覚にとらわれる様なニュースが続きました。例えばC国の月面探査機です。これによって彼らが一体何を狙っているのか全く理解が出来ません。単なる国威発揚だと考えているならば、B国から何十年も遅れている事をわざわざ世界に知らしめているだけになるでしょうし、もし月面の資源探査などの実利を狙っているとしたら、これも金、あるいはダイヤモンドより高価な貴金属や鉱物が見つかったとして、経済的にそれを地球に持ち帰る事は事実上できない相談ですので、これも意味がありません。

どうやら、C国もIランも、不満を持つ国民の目を宇宙に向けさせるための、単なるパフォーマンスと考えるのが妥当かもしれません。このブログで何度も触れている様に、もうソロソロ真空の暗黒と極低温と無重力しかない宇宙開発から上手く撤退しなければならない時期に至っていると思うのです。もし、そんなお金があるならFクシマの除染や原発の後始末など優先順位の高い課題は山積ですし、そうでなくとも膨大な債務の返済に少しでも振り向けるべきでしょう。

宇宙産業にもはやまったく新規の技術など見当たらないでしょう。材料開発、通信技術、制御技術、生命維持装置、エネルギーマネージメント技術などなどどれをとっても、一定のレベルに到達しているではありませんか。無重力下で素晴らしい合金や医薬品を作ったとしても、宇宙飛行士の体を実験台にして、骨粗しょう症の研究をしたとしても、それがこの地球上で何の役に立つと言い張るのでしょう。一発100億円前後のロケットでしか持ち帰れないモノとは、結局大金持ちしか恩恵に浴せないシロモノでしかないでしょう。私たちは、何は無くとも先ずは地に足が付いた考え方をすべきででしょう。この地球には、私たちを含めて全ての生物が生きるための全てがありますが、宇宙には空気も緑も水も何ももないのです。

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2013年12月16日 (月)

2256 情報処理=編集

情報処理という言葉があります。情報を「処理」するとは一体どういう作業を指すのでしょうか。一義的には、たぶん、解釈が難しい個々の情報を、それを受け取る側が役に立つように組み直すと言う事でしょうか。それを別の言葉で表せば、「編集」とも言えるでしょうか。新聞や雑誌などで言えば、個々の取材情報や論評などを集約して、読者が読みやすい、あるいは読みたい形に括り直す作業が編集と呼ばれる作業でしょう。

さて、現代の社会には情報が溢れ過ぎているとも言えそうです。結果として、それらの情報は薄まり、量だけが増え続けている様な気がします。つまり、知らなくても済む情報量が多過ぎるようなのです。例えば数十億にも及ぶと言われるHPの数だけ、それらは何らかの情報を発信しようとしていますが、しかしそれらをつぶさに巡回する訳にもいきません。Gーグルは確かに、HPに参照順位を付してはくれますが、それは単にアクセス回数の順位に過ぎないでしょう。知りたい情報は、その膨大な量の情報から選び採らなければなりませんし、しかもその情報を自分なりに解釈し、編集しなければなりません。ここでの編集とは、いわば自分なりに情報を消化する事に他なりません。

結局、情報を処理するためには、先ずは情報を味わい、噛み砕き、消化液(自分自身の価値観)で消化し、それを自分の体の中に取り込んで栄養に変えると言う一連の作業が必要になるのでしょう。つまり、~は~である、とういう情報(あるいは意見か伝聞)に接した際、先ずそれが事実であるか否か、更にそれが自分の「より良い方向への行動」へ何か良い影響を与えてくれるかどうかが重要である訳です。そして、それを自分の言葉に置き直して、自分の知識あるいは糧に出来るかどうか、で情報編集の価値が決まります。もちろん、悪い情報も裏返せば反面教師として、良い情報にも生まれ変わります。問題は「間違った」情報」でしょう。これを鵜呑みにしないためには、全く異なった立場から発信されたであろう情報でクロスチェックするしかなさそうです。

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2013年12月15日 (日)

2255 科学の「発明」

科学(Science)と言う言葉が何時「発明」されたかは明確に分かっています。それは1834年に遡り、英国の王立学会に提出された論文中で初めて使われたのでした。それまでは、哲学や博物学と言った古代からある学問分野しかなかったのですが、その時初めて科学という学問分野が発明されたのです。しかし、この学問のその後の進歩・拡大は目覚ましく、ついにこの言葉が無いと夜も日も明けず、モノづくりも、宇宙開発も、ITもエネルギーも何もかも動かない文明を作ってしまったのです。

しかし、科学が言葉としてたった200年足らずの歴史しかない事に私たちはもっと注目すべきでしょう。そんな短い期間に学問が熟成するとはとても考えられないからです。多くの学問は、長い歴史の中で、多くの人々によって磨かれ、あるいは淘汰されて生き残ったものだけが「本物」だと思うからです。ギリシャ時代の哲学や、古代中国の兵法、あるいは老荘の教えが今なお輝きを失っていないのはその証左でしょう。子供の頃、自分が将来なりたいもの(職業)は科学者であると思い込み、周囲にも公言してしてきました。が、結果としてなれたのは、しがない技術屋でしかありませんでした。技術は科学の応用の上に成り立っていますから、間接的には科学を信奉しながら生きてきたとも言えるのでしょう。

しかし、今それを卒業して頭に浮かぶのは、科学とは仮説によって築かれた楼閣ではなかったか、という強い疑問です。原子力一つとって見ても、私たちはその原理や技術の良い面だけを見て応用してきたとしか思えないのです。何故なら、放射能を消す技術を全くもって考えても来なかったではありませんか。これは火の消し方も知らないで、大規模に野火を放った状態にも似ています。CO2の処理の仕方も決めないで、化石燃料を多量に燃やす行為も同類です。科学の完成とは、ある原理とそれに拮抗する(あるいはリセットする)原理を対にして、初めて達成できると思うのです。核分裂を起こしてエネルギーを放出した物質を、同じ程度のエネルギーを使って元の物質に戻す技術をセットに出来ない限り、原子力の科学は50%以下の完成度に過ぎません。しかし、それが出来たとして、放射能を消すために多大なエネルギーを逆に注ぎ込まなければならないとしたら、では何のために核分裂を起こさせるのか、全く意味が分からなくなります。

結局、科学原理の良い面だけを利用することは、結局は後始末を環境や将来世代に押し付ける、まさに「片手落ちの技術」だと断じるしかないのです。重要なテーマだと思うので多分続きます。

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2013年12月14日 (土)

2254 インフラのジレンマ

私たちの日常生活は、インフラに支えられていると言っても過言ではありません。交通、電力、ガス、水道(用水)、下水などなど。どれが欠けても日常生活が成り立ちません。もちろん途上国では、これらのインフラが整っていないため、不便な生活を強いられてもいます。そのため、国も「インフラ輸出」なるお題目を掲げ、官民挙げてインフラ技術を輸出しようとしているのです。

しかし、一方ではインフラという「集中システム」は弱点も抱えている筈です。つまりは「中央集中」という弱点です。中央でコントロールされているが故に、その系統(システム)が一か所で寸断されれば、その瞬間から機能が麻痺します。場合によっては、道路や一部の電力システムの様にバックアップシステムが準備されている場合もありますが、多くは修復されるまでは麻痺が続きます。

つまり、インフラに頼り過ぎる事により、私たちの暮らしそのものにアキレス腱が潜んでいるとも言えそうです。例えば電力です。屋根に太陽光発電システムを上げている家でも、蓄電設備が無ければ、夜間の停電時はお手上げです。地区ごとに井戸があったその昔に比べ、1系統の水道管しか届いてない各家庭は、災害時には飲み水にも事欠きます。ここに、便利さと脆弱さのジレンマがある訳です。私たちは、スイッチ一つ、蛇口一つ、エンジンキー一つで済ます便利さを追求してきましたが、地震、津波、豪雨や豪雪などで、インフラのシステムに何か異常が発生するや、私たちはそれを作って維持してきた行政やインフラ企業にすがりつくしか方法が無いのです。結局、インフラの整備は一方では私たちの自立能力を確実に奪ってきたとも言えるのです。これがインフラのジレンマだと言えます。これを回避する方法は、細分化された自律型システムを多数連携して構築する様な「ネットワーク型インフラ」でしょうか。続きます。

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2013年12月13日 (金)

2253 福島にこそ太陽光発電を

福島の放射能に汚染された地域では、いわゆる除染作業が進められていますが、ナマジッカな除染は、手間とカネの無駄使いに陥り兼ねません。例えば、それは単に雑草や落ち葉に着いた放射性物質を、かき集めてどこかの中間施設に集める事を指して「除染」と呼んでいたりするからです。それでも、どうにか住める程度に放射能レベルが下がればまだしもですが、そんな方法ではとても追いつかない地域も多いはずなのです。その様な地域は、たぶん住民の帰還もほぼ諦められて、長い期間放置される事になるのでしょう。

ならば、その様な地域には「中途半端な除染」に掛る費用の一部を使って、メガソーラをバンバン建設すればどうでしょう。福島を原発の県から、太陽光発電の県にするのです。幸いな事に、福島は、特に海岸部は東北の中でも冬季の積雪も少なく陽光に恵まれた地域でもあります。つまり太陽光発電の適地でもあるのです。福島を最も危険で汚い電力である原子力のメッカから、最もクリーンで安全な電力の一つである太陽光発電のメッカに変えれてみてはどうでしょう。それが原発推進派のせめてもの罪滅ぼしにもなるでしょう。

福島第一で、例えばこれまで平均400kwの電力を生み出していたと仮定して、メガソーラ(1000kw)の太陽光発電所だと、なんと4000ヶ所も建設する必要がありますが、まとめて建設して単価を下げれば、kw当り30万円よりはかなり低いコスト作れるでしょうから、たぶん1兆円もあれば事足りるでしょう。得られた電力の売り上げ金は、原発の廃炉費用や住民の補償などに活用すれば、現状の様に、除染以外何も手を打たない場合に無為に投入税金もかなりの程度は抑えられるでしょう。除染という「マイナスの作業」に比べれば、太陽光発電のメッカを作るといプラスの作業が、どれほど将来の役に立つかは、小学生でも理解できる話です。

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2013年12月12日 (木)

2252 薪ボイラおそるべし

今日からまた毎日投稿の再開です。先々週は、オーストリアと南ドイツのバイオマス活用事情を、短期間ですが視察してきました。意外だったのは、インフラが集中している都市部を除けば、人家が疎らに点在する郊外や農村地域では、薪やチップが主な暖房・給湯の熱源になっているという現状を目の当たりにした事でした。それまでは、特に根拠も無かったのに、何故かヨーロッパではロシア辺りから送られる天然ガスが主要な熱源だと思っていたからでした。確かに天然ガスを使うためには、必ずガス管を敷設しなければならず、田舎で人家の密度が低い地域では、余り効率的な方法とは言えません。

しかし薪であれば、豊富な森林資源さえあれば、また消費者が多少の筋肉労働さえ厭わなければ、南ドイツやオーストリア辺りでは、薪やチップは容易に入手できそうです。事実、田舎の住宅では、農家や林家であるか否かに関わらず、家々の軒下にはほぼ100%の割合で薪が積まれており、家々の煙突からはノンビリと煙が上がっていました。正確に言えば、煙が見える場合と見えない場合があったのです。

煙が出ないのは、薪ボイラなどで「完全燃焼」させているからです。薪を完全燃焼させるためには、単純に十分な空気を送るだけでは実は事足りません。薪の燃焼では、火が着いて燃えている部分の他に、燃焼熱で木質が熱分解しながら、ガス化している部分が必ず存在し、その際薪に含まれる水分の影響で、温度が低下している部分があり、薪ストーブの様な単純な燃焼器では、必ず白い煙ややや色のついた煙が排出されて、木の燃える際に出る特有の「煙たい煙」が発生するのです。

しかし、排気ガスのO2濃度をモニターしながら、完全燃焼させるに十分なだけの2次空気を送ってやれば、木材はほぼ完全燃焼し排気ガスのO2濃度も57%程度に保たれ、高い燃焼温度でダイオキシンなどの発生も抑えられ、煙は無色になり臭いも気にならない程度に改善されるのです。これを可能にするのが、この地域で極普通に使われている「薪ボイラ」の実力なのです。この地域では、各戸や小規模な集合住宅でも半自動の薪ボイラが導入され、1回の点火でほぼ1日分の暖房や給湯に十分なだけの温水を作り出している訳です。半自動という意味は、薪の投入と点火のみ人手で行い、燃焼は自動で薪が燃え尽きると自然消火するというわけです。熱は、不凍液を満たした容量が1トン以上もある貯湯タンクに蓄えられ、床暖房や温水ヒーターの熱源に、あるいは熱交換機を通しての給湯などに使われる事になります。続きます。

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