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2014年4月30日 (水)

2373 借金大国

国と行政の抱える借金の膨張が止まらない様です。それどころか、加速度的に増え続ける様相なのです。そんなことは、少し算数(掛け算)ができれば誰にでも予想できた事なのですが、いまさらそれを試算し直したのだそうです。借金とは、個人レベルでみれば自分の将来の収入の先取りだと言えるでしょう。借金は返済しなければなりませんから、ローンを組む事により将来の収入の一定額を無いものとする条件で、それを先取りする訳です。しかし、国の借金はどうもそうではない様なのです。つまり、お金を借りる人(国、行政)とそれを返さなければならない人達(つまりは将来世代の国民や企業ですが)が異なるのです。

なので借りる立場の側は、借り得(あるいは借り逃げ)が可能となり、それを背負わされた人達だけが結局ワリを食うはめになる訳です。もちろん、その責任を政治家だけに押し付けるわけにはいかないでしょう。国民は増税を嫌うものであり、かといって景気は良くなってより高い収入を望むものだからです。しかし、今世紀に入って人口増が天井を打ち、減少局面に入っている現状では、そもそも自然の増収増は望むべくもないでしょう。国が何本の矢を打ち込もうが、グズグズになっている的(経済や社会システム)に当たっても効果は薄いのです。

さて、借金の返済です。誰が、債権を握っているのかに関わらず、返済を進めていかなければならないのは当然としても、先ずは額を増やさない事に心を砕かなければならないでしょう。例えば、国や自治体の議員数、だいたい住民の1%程度は居ると想像される行政マンの数、あるいは自治体サイズに合わないインフラの建設やその維持費は、やはり減らしていかなくてはならないでしょう。取り分け道路や橋梁は今以上増やさないどころか、できれば減らしていくべきでしょう。もう一つの借金の元凶は、間違いなく医療費と高齢者福祉費でしょう。これからの知恵の使いどころは、やはり病人を作らないこと、年寄りを寝たきりにしない事に尽きるでしょう。医療費のかなりの部分を保健や健康増進のために振り向けていけば、やがて人々が死ぬまで活動的であり続ける社会も夢ではなくなるはずです。その様な自治体の例もいくつか実現されているではありませんか。良い点はどんどん真似をすれば良いのです。

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2014年4月29日 (火)

2372 単純化

投稿者にもその傾向はありますが、ヒトは理解できそうもない複雑な事柄を、少しでも理解しようと単純化して考える傾向にあります。例えば、ある現象を近似式を作ってグラフにしてみたり、長い歴史を漫画で見たり、長編小説をダイジェスト版で読んでみたり、あるいは景気や複雑な社会現象を、評論家の説明で分かったつもりになるなどの行動に流れがちです。しかし、物事の真実や本質を理解するのはそんなに簡単な話ではないでしょう。簡単ではないどころか、人智でアプローチするのは所詮無理な話だとも思います。

例えば、生命の世界ですが、ATGCという単純なたった4個の塩基の組み合わせた「二重螺旋の紐」だけで、地上に溢れるかくもあらゆる複雑な生物群を、一体どうやって発言させているのか、この分野の大家でさえ、多分そのアウトラインがおぼろげに見えているだけの様な気がします。まして、それを人間が操作するとか、IPSだとかESだとかSTAPだとか、生物の発生に関わる部分の時間を巻き戻すとか、あまりに畏れ多い仕業だと言うしかありません。

経済に関しても、社会の構成員は70億を超えた人口の数だけいる訳で、それをマクロ経済学などという単純化した手法でどれだけ分析し、予測できるかを考えてみれば、精々経済の動きをリードしているであろう少数の指標から、統計的な手法などを使って類推するしかないでしょう。まして、たった3本の矢で、下向きのベクトルを上向かせる事など、殆ど信じる事が出来ません。

ここで言いたい事は、私たちは複雑な自然の仕組みや、その構成員でもある人間の行いの本質に、もっと謙虚であるべきだと言う点なのです。人間に出来る事は、表面に現れている比較的明らかな現象を捉えて、その本質を想像すること位でしょう。単純化して、全てが分かったつもりになるよりは、ご先祖様の様に自然物の全てに八百万の神が宿っていると考える方が、よっぽど「まとも」だと言うしかありません。たかがだ数百年の現代科学は、それを100%信ずるにはあまりにも底が浅過ぎると感じています。

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2014年4月28日 (月)

2371 コミュニティ難民

ヒトが社会的な存在である事は間違いない点でしょう。絶海の孤島に一人で住んで世間との関係を全て絶って暮らしている例を投稿者は知りません。もっともそんな人が一人くらい居るにしても、世間にその存在を知られる事も無いのでしょうから・・・。そう言えば、終戦後長い間ジャングルに潜んでいた方が数名発見された事はありましたっけ。さて、コミュニティの関係が希薄になり、あるいは都会の一部では殆ど崩壊してしまった現代において、いわば「コミュニティ難民」が急増した様に感じています。

コミュニティはその構成員に関心が無ければなりませんし、その構成員はコミュティに対して何らかの役割を担っている事が、そのコミュニティを維持するためには最低限必要でしょう。もし、その片方あるいは両方が希薄になった時、コミュニティの崩壊が始まるのかも知れません。社会はコミュニティが集まったものでしょうから、コュニティの崩壊は結果的には社会システムの分断につながります。そのコミュニティの崩壊は、たぶん構成員が少しずつ離れていく事から始まるのでしょう。コミュニティから無視され始めた人たちは、やがてはそこからはじき出され、都市に流れて難民生活を始める事になります。今日でも、田舎にはそれなりに濃い人間関係は残っている様な気もししていましたが、実際に40年振りでUターンしてみると、それは幻想かも知れないと思うようになりました。

その大きな原因を想像してみるに、それは多分大家族制度の崩壊にあった様な気がしています。大家族制度の中では、全ての家族は何らかの形で見守りを受けていた筈です。子供は子供なりに、働けなくなったお年寄りもそれなりに、家族からサポートされていた事でしょう。大家族は、地域(集落)で各種の行事を通じて濃密なコミュニティを築き、共同作業(結)などを通じて、互いに信頼を紡いていた事でしょう。これが、次々に「分家」を作って、町の近くに狭い家を建て、核家族単位で住む様になった結果、大家族は「冠婚葬祭」程度しか集まる事は無くなってしまった訳です。都市に住む人たちは、その小さな家族さえ作れずに、個々に分かれて更に狭いスペースに住んでいるのでしょう。その究極は、多分ネットカフェ難民でしょうか。ではどうすれば良いのか、このブログでも引き続き考えてみます。

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2014年4月27日 (日)

2370 哲学っぽい話

敢えて過去の(存命の)偉大な哲学者に挑戦するつもりは毛頭ありませんが、このブログなりのものの見方を書いておこうと思います。さて、Philosphyですが、これを文字通りに日本語に直すとすれば「知を愛すること」になるでしょうから、ジャンルを問わずに物事の本質を知ろうとする学問なのでしょう。単なる哲学もあるでしょうし、対象を絞った、例えば社会哲学とか法哲学とかあるいは地域を絞った中国哲学などと言う分野も存在するのでしょう。というより、哲学でメシを食っている哲学者の数だけ哲学分野があるのかもしれません。

しかし、そういう風に枠を広げるととても投稿者の手には負えなくなってしまいます、単純化が好きな身としては、哲学を「何のためにを考える学問」として考える事を提案したいと思います。何のために、つまりは「目的」を考える学問という定義です。人々(あるいはあらゆる存在)が行動を起こすには、必ず何らかの目的があるはずです。暇つぶしの遊びに出かける時だって、やはりより長く、出来れば余りお金を掛けずに暇をつぶしたいと言うボンヤリした目的があるはずです。しかし、その目的も更に掘り下げれば、本当の目的に一歩近づけるかも知れません。何故じかい時間を潰したいと思ったのか、そもそも時間とは誰が何のために定義したのか、などといくらでも掘り下げる事が出来るでしょう。

その意味では、このブログ全体が実のところ投稿者の一人突っ込みであり、それを真面目に受け取って考えて解説するもう一人の自分との「対話集」でもある訳です。物事には、というより物事を考える人間の側(の脳構造)には、たぶん何らかの階層構造が存在するのでしょう、つまり、表面づらを単純に考える事も出来るでしょうし、さらに何層も深掘りする事も出来るからです。しかし、投稿者としては出来れば可能な限りは物事の本質に向かって、直線的に掘りたいと思ってこのブログを書いてきたつもりです。それは、単に頭の構造が単純だからではありますが、常に「何のために」という問を頭の片隅に置き続けてきたからでもある様な気がしています。思い出したら続きます。

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2014年4月26日 (土)

2369 取引する動物

A.スミスの言葉だった様な気がしますが、ヒトは取引する動物なのだそうです。そういわれれば、ヒト以外で取引しそうな動物はチンパンジーくらいのものですが、彼らにしても食べ物を貰ったお返しに、毛づくろいをしてやる程度のやり取りでしょう。ところで、勝手ながらこのブログで書く「ヒト」とは動物としての人類の意味で、人間や人とは社会的存在としてのヒトを意味します。さて、取引する動物です。取引するためには、ルールが必要な事は明らかです。そうでなければ力の強い者だけが常に利益を得る事になるからです。その上に、価値の物差しも必要です。昔であれば、金や銀や銅などで作られた銭の目方でモノの価値が計られました。 しかし、現在は中央銀行が印刷した紙(紙幣)を、価値の物差しに使うしかありません。国際間の決済に関して言えば、結果として世界通貨となってしまったB国の通貨を介して行うしか有効な手段はないのが現状です。それというのも、B国が、金本位制を止めてしまったのと同時に世界からモノを買い続け、その代価として際限なく$を印刷し続けたからなのでした。途上国に対しても$で援助を行う訳ですから、それこそ世界中の津々浦々まで$が流通してしまったのです。 さて、取引する動物として、私たちは何を考えていくべきなのでしょうか。先ず、考えなければならないのは、投稿者としてはモノの価値の物差しを1種類に限定すべきではないと言う点だと持っています。つまり、食えない工業用品と、食糧を同じ様に通貨で評価し、取引すべきではないでしょう。工業製品が不足しても飢えて無くなる人は出ませんが、食糧は別物です。今行われているTPPなどという交渉事は、まさに食糧と工業用品を同じ土俵でトレードしようとの目論見に他なりません。どうして、車一台とコメ100俵が、あるいは牛数頭が等価だと言えるのでしょうか。コメ(あるいは小麦)が不足すれば人が十分なカロリーを摂取するのは難しくなりますが、業肉田高くなっても口に肉が入る回数が減るだけです。ましてや車が多少売れなくなっても、製造業の景気がやや曇る程度に留まるだけです。そうなれば、車メーカーは別の売れるモノを考え出すしかないのです。もしかすると、メーカーだって食糧生産に乗り出す事も必要になるかもしれません。車を売らせてもらう代わりに、彼の国で生産された農産物を買わされる、という取引はどの様な理窟をこねてもとてもフェアだとは言えないと思うのです。それでも、取引を続けなけれなならないのが取引する動物としての「ヒトのサガ」だと言うしかないのでしょうか。

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2014年4月25日 (金)

2368 科学の限界

似たようなテーマで何度か書いている様な気がしますが、これも元技術屋の反省文です。科学の理論といえば、ニュートン力学にせよアインシュタインの美しい式E=mcにしても、さながらそれが自然現象の全てを記述できるかの様に思われがちです。しかし、理論自体は現実の自然現象そのものではないと言うしかありません。何故なら、自然がその理論式を使って作られた筈がないからです。科学の理論はあくまでも、自然現象を「矛盾が少ない様に」近似的に示すものであって、それ以上のものではないのです。

例えば、物理学においては物質間に働く力として4つの「相互作用」がある、と「言われています」が、それで素粒子の世界まで記述できるかと問われれば、やはり大きな?を付けざるを得ないでしょう。第一、ヒッグス粒子だかなんだかが、見つかったとか見つからないとか騒がれていますが、ではその粒子がどの様な力の作用を受けているのかは全く闇の中でしょう。つまり、4つの相互作用とは、相互作用が少なくとも4つ程度はありそうだ、という程度の物理学者の「学説」を見なければならないのでしょう。

遺伝子だか、IPSだか、STAPだかという世界も全く同様です。遺伝子が何故今の様な形に進化したかという「その必然性」については、やはり何十億年という時間の闇の中で自然が作り出した、とい言うしかないのです。科学は、自然現象そのものを完全に記述している訳ではない、というのが科学の限界だといえるのです。科学が、自然現象を人間が理解できる範囲で記述し直したものである以上、科学万能とは諸手を挙げて主張は出来ないでしょう。遺伝子をテコにした医療にしても、それがさながら医療の在り方を根底から変える様な風潮も見られますが、それは人間の驕りと言うしかありません。医療とは、そもそもヒトが持つ自然の治癒力(つまりはホメオスタシスによる復元力)をアシストするものでなければならないのです。医療にタガを嵌めるとしたら、そこが医療の限界だと思うのです。このテーマは非常に重要なので、今後もだらだら続きます。

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2014年4月24日 (木)

2367 出口戦略

企業や国が打つ種々の施策に関して、何時も感じる事はその「出口戦略」です。企業の収益減少や国の景気低迷に対して、リストラ策やAべノミクスなどといった「対策」を打ちます。対策というのは目の前の問題に対して打つ手ではありますが、それはあくまでも当面の手であって、恒久的な施策ではありません。ビジネスが減少したので、従業員数を減らす、あるいはデフレが続くので、お金を印刷してインフレや円安を誘導し、公共事業を増やして、景気を持ち上げるなどという手は余りにも古過ぎて、あくびが出ます。

当面の施策がそれなりに奏功したとして、それが当面の事態が過ぎ去った後も有効であるとは限りません。というより、それでは企業業績や景気の乱高下を繰り返す事につながるのは、これまでの歴史で散々学習してきたはずなのです。なんとか景気が何十か月続いたが、その後のなんとかショックで、再び谷底に落ちると言うジェットコースターゲームを、私たちはいったい何度繰り返してきた事でしょう。三本の矢を射るのは簡単な話です。誰かが決めて誰かに命ずるだけで済むからです。しかし、それは結果として残る更なる債務の上積みを子孫に残す事に他なりません。誰も三本の矢の出口戦略など考えていないからです。

大切は事は、当面の施策後の「出口戦略」である事は明らかです。出口戦略とは、当面の施策で変動した要素を分析して、予め次の手を打つ「フィードフォワード」制御であると言い替えられます。その意味で、何かを始めたり作るのはお金は掛かるでしょうが簡単な話です。道路や原発を山ほど作るのは簡単ですが、交通量が少なくなった道路を元の田畑や里山に戻した話は皆無ですし、原発も廃炉が決まったのはFクシマだけです。どの様な道筋で考えても、出口戦略の無い施策や、インフラ建設は当事者世代の(次世代に対する)無責任と断ずるしかありません。

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2014年4月23日 (水)

2366 レーザー

この展示会でのもう一つの展示の目玉は、レーザー光の利用技術でした。レーザー、波長の均一で指向性の高い光(電磁波)は、弱いものはポインターやプロジェクションマッピングの様に光として、パワーの高いものはエネルギー波として金属加工などに使われています。もう一つ、レーザーの用途としては、形状計測も有望です。レーザーを作り出す方法には種々ありますが、初期の頃はルビーレーザーが主流だった様な気がしますが、現在はパワーレーザーの分野でも半導体レーザーが大きく進出してきた様です。

光としての利用はさておいて、先ずはパワーレーザーの話です。パワーレーザーを物質に照射すると、物質の温度が急激に上昇します。非金属であれば瞬間的に蒸発するでしょうし、金属でも溶融します。それを利用して、金属の熱処理、溶接、切断などの加工機が実用化されています。その分野にも、億円といわれたレーザー加工機が、半導体レーザー発振器により一桁以上安価に入手できる時代になりました。レーザー発振器が小型化された事は、別に意味でレーザー加工機を変えてしまいました。つまり、レーザー発振器を工作機械の刃物替わりに装着するか、あるいはロボットに持たせれば、加工の自由度は一気に広がる事になります。事実、今回の展示会でもその種の展示がかなり多く見られました。

もう一つレーザーの重要な応用が計測です。計測の方法の一つとして、レーザー光を照射して、その反射光を受けて距離を計測するものがあります。小型のものは、すでに建設工事や建築工事でもレーザー墨入れ機として実用化されてもいますが、最近の注目はそれを形状計測に応用するものが増えてきました。一例として、建築物にレーザーを照射してスキャンし、その反射波を受けてコンピュータ上に3Dの形状を描かせると言うシステムが増えてきています。小型のものでは例えば、仏像などを精密にスキャンし、それを3Dプリンタで復元する、といった芸当が簡単に出来る時代になったのです。精度も数十メートルの距離で㎜単位でスキャンできる様になった様なので、インフラの劣化診断などへの応用拡大も近いと感じました。フェムト秒レーザーに関しては、稿を改めます。

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2014年4月22日 (火)

2365 天然エンプラ?

同じ展示場には、最新のプラスチック材料やそれを応用した技術や製品も展示されていました。プラスチックの世界はまさに日進月歩だと思いました。プラスチックは、軽くて加熱しての成形が容易な「安い」工業材料として多用されては来ましたが、強度が低い、熱に弱いなどの理由で、その広がりにも限界が見えていました。しかし、時代は変りました。熱に強いもの、強度が金属並みに高いもの、精密な射出成型が出来るもの、電気を通すもの、電流を流すと変形するもの、強く水を弾くものなどなど、素材としての能力は飛躍的なスピードで進化している様です。特に、プラスチックをフィルムに加工したものや、金属箔と組み合わせた機能性フィルムの世界は、驚異と言うしかなさそうでした。メーカーやその開発者は「プラスチックやフィルムに出来ない事はない」と主張している様な展示会のムードではありました。

しかし、技術屋から環境人間に脱皮したと思っている投稿者にとってみると、やはりそれらの「環境性能」は決して高くないとも感じました。つまり、リサイクル性が良く、原料が石油依存ではないという基本的な環境性能が確保されていないのです。一部に、木材由来のセルロースファイバーを原料にしたプラスチックに注目する動きがありますが、石油資源の殆ど存在しない国であるが故に、この分野の研究加速が待たれるところです。

ちなみに、木材を極限までに圧縮した状態(比重で言えば1.6程度)で形状固定を行えば、アルミニウム並みの強度が得られる事が分かっていますし(圧縮木材)、繊維方向が明確ですので、加工した木材はいわば「天然の複合材」であるとも言える訳です。研究者には、石油系プラウチックも開発はこの辺でスピードを緩めてもらい、是非「天然エンプラ」の開発に勤しんで貰いたいものだと感じました。

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2014年4月21日 (月)

2364 金属材料

投稿者は元機械屋ですから、金属には強いと思っていました。しかし、岐阜から秋田に戻る途中、ビッグサイトで開催されていた展示会に立ち寄り、最新の金属材料や金属加工の進歩に触れて、少なからずショックを受けました。もちろん、例えば金属の中にファイバーを入れたFRMやセラミック粉などを混ぜ込んだ複合金属や粉末冶金に諸手をあげて賛成している訳ではありません。そのような「エセ金属」は、いくら性能が高くてもリサイクルには全く適さないからです。リサイクル出来ずに使い捨てられる場合には、当然の事ながら「埋め立てゴミ」として処理するしかないのです。

そうではなくて、金属自体の結晶粒の微細化や加工法の工夫で、塑性加工を通じて成形を行い、加工と同時に強度や靱性を上げる様なアプローチが好ましいでしょう。タタラ製鉄で砂鉄から作られた炭素鋼(玉鋼)が、鍛練を繰り返す事によって、切れ味と靱性の両立が出来る日本刀になる様に、マグネやアルミやその他のありふれた金属が、見違えるような性能を実現できる可能性を秘めているのです。その意味で、金属材料や冶金学はまだまだ発展途上の分野だと改めて思いました。

中でも注目した金属は、塑性加工性が悪いと言われてきたチタンです。チタンも、最近はSPF(超塑性)を発現させる温度もかなり低下した様ですから、利用範囲も航空宇宙などから民生品へも拡大が可能でしょう。また、例えば100年以上の耐久性があるビルのサイディングや屋根材として用いれば、初期の投資額は大きくなったとしても、子孫に送る財産としての価値は十分高いものに維持出来るでしょう。最近は寺社の屋根材としてチタン材が用いられるケースも増えている様です。資源量が多く、耐熱性が高く、腐食にも極めて強いこの金属は、今後ますます利用範囲の拡大が期待できそうです。

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2014年4月20日 (日)

2363 機械語

考えてみれば、私たちの生活は「機械語」にほぼ完全に取り囲まれている事に気が付きます。つまり、身の回りの多くの製品にコンピュータが組み込まれていますし、人間とコンピュータの間の会話には機械語が必須だからです。車でさえ、最近のものは昔のものとは違って、アクセルが直接キャブレータのスロットルと繋がっている訳ではありません。その間にコンピュータが入っていて、人間の「加速したい」という意志を、ゼロイチの機械語を通じて、燃料噴射の加減を行う別のコンピュータと電気的な「通信」を行うのです。

電話だって同じことです。かつての電話では人の肉声は一度電流の強弱に変換されていましたが、現在ではやはりゼロイチのデジタル信号に変えられて、光ケーブルの中を通り、最寄りのアンテナから配信されます。言葉を替えれば、人の言葉や意志が、一々機械語に翻訳されてからでないと、他の人や機械に伝わらない特殊な時代に至ったと言う訳です。これは、コミュニケーションの歴史で言えば、きわめて異常な事態だと言えるかも知れません。どこが異常かといえば、それは「翻訳」が二度入ると言う点です。人間の意志が一度機械語に翻訳されて、コンピュータや機械に伝えられ、結果としての機械からのリアクションも機械語から人間やアクチュエータが理解できるインタ^フェイスやGUIなどを通じてフィードバックされるからです。そこには、実は微妙な時間の遅れが入っている事も重要な点です。最近の車は、アクセルを踏み込んでから車が反応するまで、コンマ数秒の遅れが発生している事は、通常は15年前のマニュアル車に乗っていて、時々家内の車に乗る事がある投稿者には、はっきりと感ずる事が出来ます。それが、二度の翻訳に要する時間なのでしょう。

もう一つの異常さは、その翻訳が全てゼロイチに還元されると言う事実でしょうか。つまり、そこには0.50.3やごく僅かといった加減は存在しないのです。0.5が必要な場合は、デジットの桁数を一つ上げて、5/10にするしかないでしょう。どこまで行っても、ゼロイチの世界からは抜け出れない世界です。アナログの世界もデジタルの世界も知る投稿者としては、ゼロイチでは割り切れない曖昧な(しかし含みのある)世界も必要なのではないか、と密かに思っています。

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2014年4月19日 (土)

2362 転覆事故

ブログ再開です。出張中、お隣のK国で客船が転覆してしまったと言うニュースが大きく報じられ続けていました。若い頃造船業でメシを食ってきた身として、船があんなにも短時間で転覆し、沈んでしまうものか、とある種のショックを感じました。しかし、最近のフェリー兼客船の船型ではあり得べき現象かも知れないと思い直しました。船は、基本的には必ずどんなに傾いたとしても復元力を失わない様に設計されています。それを説明するキーワードは、重心、浮力中心、メタセンターです。ここでは詳しくは触れませんが、いずれにしてもその関係が、崩れない様に設計されている訳です。それが崩れるのは、例えば船体に亀裂が入るか、座礁などで穴が開いて大量に浸水区画が広がった場合だけなのです。しかし、「だけ」と書くのは、実は間違っている事が、これまでの何度かの事故で証明されても居たのです。

もう一つの船の転覆の原因とは、実は荷崩れなのです。デッキ上に大量に積まれた木材を積んだ運搬船、あるいはや漁獲物をデッキに積んだ漁船、あるいは今回の様に船の重心より上に積載された車両を積んだフェリーなどが、何らかの理由で荷崩れを起こして、荷が左右どちらかに偏ってしまった場合、いわゆる設計上のメタセンターが異常に動いて(正常な復元力を失って)急激に傾いてしまうのです。投稿者の頭の中では数年前、和歌山沖で転覆したフェリー「Aりあけ」事故につながります。あの事故は荒天による荷崩れ事故でしたが、この種の船は、船の高い位置に客室があるので、どちらかといえば「トップヘビー」の設計となってしまうのです。復元力を稼ぐために、船底に錘を入れてはいるのですが、それを余り重くすると客や貨物の積載量が減るので、必要な量をやや上回る程度に留めざるを得ないと想像しています。船型も、基本的には幅を狭くしてスピードも上げられる様にも設計しています。ありふれた、フェリー船に比べれば、復元力が元々弱い設計なのです。

今回の事故は、荒天ではなかった事、テレビで見る限り船艇に座礁傷が見られなかった事を考えれば、無理な操船(急激な舵切り)の遠心力によって、十分に固縛されてはいなかった車両が荷崩れを起こして生じた、完全な人為事故と見るしかないのでしょう。加えて、中古で購入後に施したとされる客室の増築が、転覆を起こした際に悪さをしていた事も間違いないでしょう。残念ながら。しかし、技術者として反省すべきは、荷崩れを起こしてもなお転覆しない船の設計を目指すべきである事もまた間違いないでしょう。

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2014年4月13日 (日)

2361 足元からの発想

これも繰り返し取り上げているテーマの様な気もしますが、国やマスコミの議論全体が、あまりにも頭の上を飛び過ぎている様に感じています。例えば、景気の高揚に向けての第三の矢について考えてみても、いわゆる成長戦略といわれるものは、現状にプラスすべき新たな成長分野の設定の議論となっている訳です。つまり、科学や技術の力で、他国を制して世界市場のトップランナーに育て上げるべき産業を云々しているのです。

そうではなくて、もっと足元も眺めてみる必要があるとこのブログでも繰り返し書き続けてきました。足元とは、先ずは国内を、あるいはもっと狭く県内や市町村レベルを指します。そこにどんな文化や資源が眠っているかを掘り起こすと言う事です。この国は、あるいは各地域には先人が積み上げてきた連綿と続く歴史や文化や資源が必ずあるはずです。例えば、今住んでいる日本海側の町は、江戸時代以前は冬場の強い季節風に乗って、多量の砂が飛来し、毎年田畑が砂に埋まると言う状態が続いていました。しかし、偉大な庄屋が現れて、数代に亘って私財を投じて、幅が数キロもあるクロマツの防砂林を育て上げたのでした。その遺産で、われわれ子孫は豊かな田畑で人口数万人の町を維持出来たのでした。防砂林を手入れして得られた間伐材や雑木や松葉は燃料になり、厳しい寒さから人々を守ってきたのです。

やがて、この地域で石油資源が発見され、しばらくは石油や天然ガスも採れた時代がありましたが、所詮化石燃料ですから使えば無くなってしまいます。今も、石油会社はあがきを続けていて、シュールオイルを絞り出してはいますが、その量は微々たるものに過ぎません。しかし、石油探索の副産物として、低温度ながら温泉も出ましたし、鳥海山や出羽丘陵から流れ下る豊かな水源もあります。これ以上何が必要なのでしょうか。米作が主力とはいえ、食糧自給率は100%を超えていますし、人々がもう一度山に入って汗を流せば、それなりの量のバイオマス燃料は得られるでしょうし、冬場限定とはいえ強すぎるくらいの風力も得られます。雪解け水の水力と風力と太陽光とバイオマスを最適に組み合わせれば、エネルギーの自給も決して夢物語ではありません。それらをしっかり産業に育て上げれば、何もT社の様に「無理して」電子産業を奮い立たせて安い製品を輸出し、外貨など稼ぐ必要はないでしょう。先ずは、一人当たりで言っても年間数十万円支払っている筈の光熱エネルギー(取り分け暖房給湯に関わる部分)の地産地消を進めるだけで、合併で8万人を少し超えたこの街だけでも数百億円の市場規模になるでしょう。もし、今のリーダーの言を真に受けたとしても、秋田の田舎に新たな数百億の産業など絶対に興せるはずなどないのです。ならば今足元にある現実の市場を取り込むしかないでしょう。 明日から小旅行のため週末まで休稿です。

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2014年4月12日 (土)

2360 リーダーの劣化

ここでは、「劣化」と言う言葉の意味を、「歯止めが利かない崩壊への不安」、と定義し直してみます。大分前に発刊された新書ですが、その中にかつてK尚中氏が、当時の新リーダー(=今のリーダー)を暗に「無邪気で危険な政治家」と見ていた、という又引きの記述がありました。今のリーダーが二度目の座のついてからの言動を見るにつけ、氏の鋭い観察眼には敬服せざるを得ません。一般の人はたぶん、「無邪気」の側面だけを見て、(家柄も良いし)人柄が良さそう、などと感ずるのでしょうが、彼が繰り返し口にする言葉の端々には、かなり「危険なにおい」を感じている人も少なくはないでしょう。

ここでは、特に個人の上げ足を取るつもりもないのですが、やはりこの国のリーダー(政治家や官僚や経営者や評論家など)達の劣化を憂うしかありません。ところで、金属の劣化とは金属の酸化取り分け結晶粒界腐食の進行により強度が大きく低下する状態を指し、一方木材の劣化とは腐朽により木材の強度を担うセルロースが分解されて、元の水と二酸化炭素になって消散する状態を指します。では、政治の劣化、リーダーの劣化とは何を指すのでしょうか。簡単に言ってしまえば、先人が長年掛かって築かれてきた土台を脆くする行動と定義しておきましょう。戦後の占領下から連綿として築いてきたものを「戦後レジューム」と呼ぶのは勝手で、押しつけのConstitutionを書き換えようと叫ぶのも勝手でしょう。しかし、悪い規制は撤廃するにしても、同時にそれまでは結構上手く機能していた規制も、見境なく吹っ飛ばしてしまうのはいかがなものでしょうか。

規制を壊すのは、どちらかといえば簡単な話です。難しいのは、それまであった規制を外す場合、その影響、取り分け悪影響が一体どこまで及ぶのかを見極める事だと思うのです。というのも、長い時間経過の後では、規制の影響の根が思わぬ所まで及んでいる可能性があるからです。例えば、企業に関する規制を外した結果、雇用の形態や失業率まで影響を及ぼすと言った具合です。リーダー達は、自分の一挙手一投足がこれまで築き上げてきた土台に与える影響を慎重に見極める必要があるはずなのです。にも関わらず、今のリーダー達の言葉の何と軽い事でしょう。リーダーとは自分が言いたい事を言うのではなく、将来に向けてあるべき社会を語る上で言うべき事を口にしなければならない筈です。戦後レジューム(という訳の分らない状況)から脱する、そのために憲法を弄る云々などとお経の様に繰り返すのでなく、将来どの様な国や社会を作るかを表明し、今何をすべきかを語るのがリーダーの役割だと強く思います。それ(ビジョン)が無いからこそ人々は不安に駆られるのです。

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2014年4月11日 (金)

2359 Failure case

2358で書いたFail safeを実現するためには、実は考えられる全てのFaiure case(想定不具合)をリストアップする必要があります。そうでなければ、その対処法や実際に不具合が起こった場合に起き得る事象すら想定が出来ないからです。想定が出来なければ、果たしてそれがFail safeになっているのかどうかさえ怪しくなるのです。

具体的な例を示しましょう。たとえば、旅客機です。旅客機の主翼には「動翼」と呼ばれる動く部分があります。後縁にあるフラップやエルロン、あるいは前縁にあるスラット呼ばれる部分などです。それらは、離着陸の際に遅いスピードでも十分な揚力を生み出すため「高揚力装置」などと呼ばれる腹滝と、飛行中の姿勢を制御する働きなどがあります。これらは、種々のアクチュエータ(駆動装置)で動かすのですが、これらは種々の理由で動かなるなる恐れがあります。電力が供給されなくなるとか、動きをフィードバックする信号が送られないとか、あるいは機械的な不具合で動かなくなるとか、またそれが発生する場所も色々です。しかしそれでも飛行機は着陸できなければなりませんので、設計者は考えられるあらゆるケースを想定し、それでもコントロールが失われる事の無いように、バックアップを考えるのです。その想定ケースは、多分数十種類に上る筈です。

さて、ソロソロ再稼働のスケジュールが取り沙汰されている原発ではどうでしょう。先ず、素人にも容易に想像できますが、陸上の巨大システムである原子力発電所と、出来るだけ軽くするために余剰(Redundancy)を極度に省いて2-3万点の部品で出来ている航空機を比べれば、その複雑さにおいて前者の方が多分二桁以上込み入っている事は容易に想像できるでしょう。その分、バックアップシステムも二重三重になっている事でしょう。もちろん、Fクシマの場合、非常用発電機による電源バックアップシステムは、あっけない程というより情けない程貧弱だった事は、事故後の電源喪失を通じて暴露されてはしまいましたが・・・。しかし、二重三重のバックアップシステムがあったにしても、最後にコントロールすべきは、核分裂反応そのものの制御に他なりません。つまりは、原子炉のアクセル=ブレーキである制御棒の抜き差しです。しかし、ここにこそ原子炉の矛盾点が見えてきます。車にもアクセルとブレーキがありますが、アクセルはエンジンに供給する燃料を加減仕掛けである一方、ブレーキは全く別のシステムで車輪をブレーキパッドの摩擦によって制動するのです。しかし、原発ではそれがなんとたった一つのシステムで兼用されているのです。冷却システムは、反応熱を取り去り発電に利用する「付随的なシステム」に過ぎません。こんな「複雑で本質的にアブナイ」システムを、完ぺきとは思えないFaiure caseの想定とその検証だけで再稼働するするなど、暴挙というしかありません。

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2014年4月10日 (木)

2358 Fail safe

システム、取り分け人の命や安全に関わるシステムはFail safeである必要があります。例えば車です。エンジン出力はアクセルによってコントロールしている、とドライバーは感じているのでしょうが、実は今の車は車載コンピュータにかなりの部分が支配されていると言っても良いでしょう。しかし、コンピュータや他の全ての部分に致命的な故障や誤作動が起こった場合でも、車はゆっくり停止する必要があるのです。間違っても、エンジン回転数が急激に上がって、車が暴走する事態に陥ってはならないのです。つまり、システムの如何なるFailureによってもドライバーの安全が担保されるのが、車というシステムに課された機能なのです。

航空機ではどうでしょう。航空機で例えば複数あるエンジン(現在は2基が多いです)の一つが回らなくなっても、車と違って全体がゆっくり停止してしまってはいけません。そこが大きな海の上であれば、乗客全員の救命は殆ど絶望的になるでしょう。そこで、航空機はバックアップシステムを重視して設計・製造される訳です。エンジンが1基故障しても、航空機は3時間以上飛びつつける必要がありますし、動翼などの機体制御や着陸に関連するシステムも同様に、最低限着陸が可能となる様にバックアップが考えられています。車輪はしかし、予備の車輪を抱えていると重過ぎて旅客を余り載せる事が出来なくなるため、一組しか持っていないのです。従って、車輪(脚)が致命的な故障(例えば脚が出ない)場合、仕方がなく胴体着陸という緊急手段を取らざるを得ないのです。それにしても、毎日7000便程度が飛び回っているとして、航空機事故のニュースを毎日聞く事はない事を考えれば、航空機のソコソコ安全は確保されているとは言えるでしょう。

さて発電所です。通常の火力発電所にもし地震や津波が来ても、大事故や爆発などの事故を起こす可能性は非常に低いでしょう。何故なら、大地震では燃料供給が直ちに停止するでしょうから、タービンが回っているのでボイラの圧力は急激に低下し、やがてタービンも止まってしまいます。津波が来ても、各種のモーターが海水に浸かれば、直ちに止まってやはり安全に停止します。地震でもし燃料の供給が上手くカットされず、ボイラの圧力が上がってしまっても心配はありません。ボイラ圧力が1割でも上がった場合、安全弁(蒸気逃がし弁)が開いて蒸気を安全に大気に放出するでしょう。つまり火力発電所は、ほぼ完全にFail safeが確保されていると言って様でしょう。しかし、原発が上記システムとは全く異なる事は自明でしょう。核反応が地目的な制御不能になった場合、システムはメルトダウンを起こすか、過熱して水素爆発を起こしてしまうでしょう。この場合の制御不能とは、冷却システム故障により燃料を十分に冷やせないか、あるいは制御棒を動かす仕組みが動かなくなるなどを指しますが、いずれも電気モーターという1種類の動力源だけで動かされていた事はFクシマの事故で明らかになったのは皮肉な話というしかありません。いずれにしても、核反応自体がFail safeでないと言うたった一つの理由だけで、原発を全廃すると言う理由としては十分なのです。

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2014年4月 9日 (水)

2357 社会システムの劣化

2356で時代の劣化や文明の劣化と書きましたが、かなり対象が大き過ぎたような気もするので、改めて今自分が暮らしているこの国の社会の劣化についても考えてみます。社会の劣化は、勿論それを構成している人間の劣化によっても生じますが、一方では社会の基本的なルール(不文律)がなし崩し的に崩壊する事によっても生ずる場合が多いように思います。例えば、かつてこの国では、特に田舎では3世帯が同じ屋根の下に暮らし、働き手と家を守る人に分かれて(あるいは、商家や農家などではそれを兼ねて)助け合った暮らしていました。同様に、地域社会はいわゆる「隣組」があって、例えば地域で人手を出しあい一斉に何かの作業を行う機会も年に何度か決まっていたのです。思い出すのは、夏の間に整理して切り倒して置いた入会林のマツや雑木を、秋口になると地域の各戸がリヤカーを引いて、冬の間にストーブで焚く分を引き取りに出かけました。また、祭りも大人の祭りや子供だけの祭りなど、いくつかあって、地域総出でそれを盛り上げたものでした。

しかし、いまUターンしたこの田舎の町でも、それらのつながりは殆ど残っていない様に見えます。その大きな原因は、核家族化である事は間違いないでしょう。その証拠には、人口はドンドン減っているにも拘らず、現在でも町のすぐ外の田んぼが潰されて宅地が造成され続けているのです。結果として、一所帯当たりの人数は減り続け、チマチマした郊外型の建売住宅だけが増え続けているのです。所帯数で言えば、40数年前にこの町を離れた時より3割程度は増えているのです。人口は1割近くも減ったのに、です。

横のつながりがすっかり薄くなってしまった社会は、実は劣化した社会と言っても良いのかも知れません。何故なら、社会とはそもそも人間関係が円滑に動くように必要に迫られて作られた潤滑剤の様なシステムであって、それ以上でも以下でもないからです。潤滑剤が不足している社会は、いま種々の場面で目撃する様に「ギスギスした社会」になるのでしょう。ギスギスしている内はまだマシだとしても、こすれ合う内にお互いが磨滅してしまい、結果として社会システムとしても大きく劣化するのだと思っています。

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2014年4月 8日 (火)

2356 時代の劣化

一つの文明なり時代を考える時、栄枯盛衰という言葉が頭に浮かびます。歴史に明るい訳ではありませんが、洋の東西を問わず、歴史とは栄枯盛衰の物語そのものである、としみじみ思います。一つの文明あるいは時代には上り坂の時があって、やがてそれは最高潮である爛熟期に到達します。しかしそれは多くの場合長くは続かず、やがて凋落の時を迎えます。それを、ここでは時代の劣化と呼んでおきます。では、時代の劣化はどの様な場合に起こるのでしょうか。

多くの場合は、絶頂期にある支配者なり取り巻きが、権力を乱用して贅を尽くした結果、財の蓄えを突か使い果たすか、あるいはそれを見かねた部下や民衆の反乱によって倒されるかいずれかの場合が多そうです。つまり一言でいえば支配者層のモラルの低下です。ここでは歴史の復習が目的ではないので、環境に着目して話を進めます。

もう一つの文明や時代の凋落の原因に「環境の劣化」がありそうです。環境の劣化とは、水、空気や大地の質が悪化し、そこに暮らす人々の生活が支えきれなくなる状態を指します。古代文明で言えば、その都市文明を支えた水(飲み水や農業用水)が、使い過ぎや天候の変化で十分な量が得られなくなって衰退した例が非常に多いと見ています。火山活動などで、水質や大気の質が悪化して、その文明を放棄せざるを得なかったケースもあるのでしょうが、ポンペイの壊滅は確かに有名な史実ですが、そんなに多い例ではないでしょう。

急激な環境劣化と同じように見えますが、ゆっくりと進む環境劣化はもっと厄介です。それは、例えば何世代にも亘って進む劣化は、ある時代に生きた世代には劣化とは意識されないからです。親の時代からそうであれば、子世代はそれをそのまま通常の状態として受け取る訳です。ゆっくりと進む劣化は、その意味で感度を上げてしっかりとチェックする必要がある事象だと言えます。例として挙げるなら、温暖化などがそれに当たるでしょう。北極海の氷の上に載ってアザラシを狩るシロクマは、氷が消えて狩りの出来ない期間は空腹という切実な問題として感じては居るのでしょうが、熱帯夜温帯に住む大多数の人類にとっては今のところ痛くも痒くも感じない訳です。しかし、その様な変化を変化として感じられない現代人は、人間としては鈍感に「劣化した」例であるというしかありません。人間が劣化した時代は、その文明自体も劣化が進んでいると言えるかも知れません。

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2014年4月 7日 (月)

2355 経年劣化2  4/7

続きです。経年による劣化は、もちろん水存在下の腐食や応力腐食割れだけではありません。もう一つ構造破壊の大きな原因として、繰り返し応力による疲労破壊があります。例えば、風車や蒸気タービンなどの回転体は、1回転で1サイクルの応力を受けます。風車の羽根もタービンの羽根も、当然の事ながら羽根の根元には遠心力により強烈な引っ張り応力を受け続けますが、一方では風や蒸気による繰り返し曲げ応力も併せて受けるのです。

それは勿論設計的には織り込み済みなのですが、問題は羽根や構造の固有振動数に起因する自励振動や予期せぬ渦流などによる他励振動です。振動が増幅された場合には、設計を上回る応力を受け、最終的には破壊してしまうでしょう。具体的には風車や蒸気タービンでは、応力に耐え切れず、羽根が千切れて飛んでしまいます。風車で、ハブ全体が落ちてしまう事故も時々耳にしますが、それは同じことが回転軸に起こったため、軸受の際で折れてしまったために起こったのでしょう。もちろん、場合によっては軸受のメンテナンス不良(例えば注油不足)によって引き起こされたヒューマンエラー事故も混じっているのでしょう。

もっと深刻なのは、2354に書いた腐食などに伴う材料の劣化と、異常な繰り返しの応力の発生とは別々の問題ではなく、間違いなく同時並行で進むと言う点です。風車事故に関しては、ニュースでも時々耳にしますが、この国の原発でも実はタービンの羽根が飛んだ重大事故を起こしているのです。それは、H岡原発で起こりましたが、何故かそれがマスコミで大々的に報じられる事はなかったのです。ここの原発は機会があって一度見学に入った事がありますが、根元から折れた結果、タービンケースに当たってひん曲がった状態のブレードのレプリカが置いてありました。それはもちろん通常の見学者が通るルートではありませんでしたが、もしこれがタービンケースを突き破って飛び出し、そこから多量の放射能を含んだ蒸気が漏れていたら、と想像した時、背筋が寒くなったものでした。

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2014年4月 6日 (日)

2354 経年劣化

全ての設備や機械装置やインフラ構造物などについて言える事ですが、通常の使用によっても、たとえ休止していてもそれらは年々劣化を続けます。それらの主要な構造材料である金属材料について言えば、腐食や水素脆性や応力腐食割れなどにより、製造初期の強度から徐々に、あるいは急激に低下してして行きます。金属の強度は、原子同士の「共有結合」によって高いレベルに保たれてはいますが、それは純粋な結晶内部の話であり、金属は一般には多数の結晶の集まりとなっており、結晶と結晶の間にはその境(粒界)が存在するため、金属の破壊は通常その粒界から始まるのです。原子炉など放射線に晒される場合は、腐食に加え放射線による劣化も懸念されるところです。

投稿者のも、鉄鋼の場合、製造後すぐにでも一定の腐食環境下で応力に晒されると、非常に微細ですが「初期キズ」が生ずる事を経験しました。それは、舶用のエンジンで、工場での出力試験のために冷却水として普通の水道水を使った時、1週間程度の短い期間でも、非常に微細な初期腐食が始まったのです。その初期キズが1-2年という比較的短い期間に、貫通キズに成長し、結果としては冷却水の漏れ事故を起こしたのでした。出力試験のためとはいえ、製造後最初に補給する冷却水の中にも、しっかりと防食剤(インヒビター)を入れておくべきだったのです。

さて、通常の火力発電所のボイラであれば、腐食が生じた場合蒸気漏れや水漏れを起こし、それに気が付いたオペレータがプラントを停止するでしょう。水や蒸気が作業員に直接掛からない限り、水も蒸気も人畜無害ですから何の問題も起こりません。しかし、原子炉は違います。水も蒸気も放射能を帯びていますから、原子炉の破裂を防ぐための圧力逃がし(ベント)作業だけでも相当量の放射能が放出されてしまうでしょう。だからこそ、その蒸気から放射性物質を除去するためのフィルターベントが必要になる訳です。しかし、初期トラブルでのベント作業とは異なり、プラントの構造劣化が原因の漏れ事故に対しては、そもそもフィルターベントなど何の役にも立ちません。原発の設計者やプラント製造者は、確かに建設初期の安全性は保証出来るでしょう。しかし、一度稼働してしまったプラントを、例えば水圧を掛けて漏れ試験を行う事は現実的には無理ですし、まして構造体から試験片を切り出して強度試験を行って、劣化の程度を調べる事などできない相談だと言えるでしょう。つまり、稼働後の安全性の保障は、多くのチェックポイントを調べ上げて、非破壊検査結果や漏れなどに問題が無かったと言う「消極的な保証」しか出来ないのです。

経年劣化は、道路や橋梁やトンネルなどでも大問題になっていますが、それに対する有効な対策は、ほぼ手つかずの状態だと言うしかありません。何らかの事故が起こって初めて、後追いの対策工事をする事になるのでしょう。もし起こっても、それらの事故が小さくて済み、かつてのアメリカの高速道のアーチ橋の様な大惨事に至らない事を願うばかりです。

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2014年4月 5日 (土)

2353 H館市の英断

H館市が、O間原発の建設差し止めを求めて提訴したのだとか。既設原発の再稼働云々といった議論には耳を貸す国民もそれなりに多いのでしょうが、より危険なプルトニウムを含むMOX燃料を使う原発の建設続行など問題外の外でしょう。D源開発行政は、稼働直前の原発を今更塩漬けにする事など考えられないとの立場でしょうし、地元自治体も交付金を当てにして先払いでお金も使ってしまっている様なので、今回の提訴は苦々しく思っている事でしょう。

MOX燃料は、これまで原発内に蓄積してしまった多量のプルトニウムの使い道として、当てにされては居たのでしょうが、しかし頭を冷やして考えれば、O間で使えるプルトニウムの量などたかが知れているのです。たとえここが稼働したとしても、相変わらずやり場のない使用済み核燃料問題は、解決の「か」の字も見えないのです。何より恐ろしいのは、プルトニウムはそれ自体が非常に有害な放射線を出す一方、物質それ自体も有毒物質でもあります。加えて、その気の遠くなる様な半減期(2万年以上)は、人類の歴史というレンジの中ではとても処理できない筈の物質なのです。

つまり、今生きている何人といえども、未来永劫に亘る原発の安全性など保障できない話なのです。安全に絶対が無い事は、毎年かなりの数の旅客機が事故か(操作ミス)かあるいはテロなどによって墜落している事を考えれば、子供でも理解できるでしょう。なによる絶対安全に作られた筈のFクシマも、複数あったの非常用発電機が十分に機能せず、同時に低い場所に設置されていたモーターが海水を被っただけで、炉の冷却が行えずあの様な悲惨な事故を起こしてしまったではありませんか。やはり、放射性物質は未だ人類が十分には制御できない危険な物質だと言うしかありません。それはH館市に限らず、私たち自身が直感的に持っている原発に対する不安感の原因になっていると思うのです。続きます。

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2014年4月 4日 (金)

2352 太平洋という池

チリで大地震が発生すれば、「太平洋と言う池」の対岸であるこの国まで津波が押し寄せます。普通に目にしている展開され地図で見ると、太平洋は縦長の海に見えます。しかし、立体的な地球儀で見ると、太平洋は確かに広い海なのですが、丸い形をしており、この国から見た対岸は実は南米の西海岸(チリ付近)になっているのです。まさに太平洋は地球で最大の池なのです。池の差渡しは、およそ地球の半周分ですが、津波のスピードはジェット機より早いので1日も掛からずに池を横断してしてしまいます。

さて南米大陸の下にめり込んでいるナスカプレートは、サイズ的には比較的小さなプレートなのですが、しかしその活動は活発で、この地域に度々大きな地震を引き起こし、そのトバッチリとしてアジアのこの国に不要な(津波という)土産を届けてきたのでした。このプレートはサンアンドレアス断層の様な横ずれ運動とは異なり、大陸に対して直角に沈み込んでいるため、地震が起きた時の反動は、今回の東日本における震災と同様、大きな津波を引き起こすと言う特徴があるのです。しかもその反動を起こす大陸のエッジは、真っ直ぐアジアにあるこの国の周辺海域を向いているのです。そのために、意外ですが津波の第一波は、先ず北海道東端に到着します。そこが、この池の最短距離だからです。

もっと都合が悪いのは、丸い池の一か所で生じた波紋(津波)は、池の縁で反射しながら、対岸の一か所に集中することです。その「焦点」となる地点が、この国で言えばまさに三陸地方となっているのです。その意味で言えば、南米からの津波の事前情報は、ハワイの観測所からの報告がベストなのではなく、最も早く正確に津波の強さ・速さを知るためには、この池の真ん中にあるポリネシアの島々で観測するのが最善であると言えます。ささやかな額の投資で済むでしょうから、これらの島々には是非しっかりした津波観測施設を建設すべきでしょう。

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2014年4月 3日 (木)

2351 手続より中身

この国では、とかく手続きが重視される傾向にあります。例えば、たまたまラジオから流れてくる国会の論議などを聞いていても、手続き(政治や企業の中では「根回し」と呼ばれます)に不手際があると、いつも紛糾します。そう言えば、昔のリーダーの条件は根回し上手である事が第一に来ていた様な気がします。それは、何やら新たな万能細胞に関係する論文の審査においても全く同様に行われている様で、一体その細胞が存在するのか否かが焦点ではなくて、論文が作成された手順や、その審査の過程こそが問題の焦点になっている様なのです。

もちろん、最需要であるのはその「中身=本質」のはずなのですが、どうもこの国ではそれが二の次らしいのです。何故かを考えてみましょう。それはどうやらこの国の、古来からの形式主義にありそうな気がしています。古来、この国では「型」を重視してきました。多くの武(士)道や伝統工芸や伝統的な芸術においては、それを習得しようとするものは先ず型から入る必要があります。というより、多くは型に始まって型に終わると言っても良いかも知れません。その型こそ伝統の中身そのものであると極言しても余り文句は来ないでしょう。型を別の言葉で言えば「タテマエ」でしょうか。ホンネを語らず、タテマエで押し通す事にこそ、この国では重点が置かれ、そこに美学を感ずる人が多いのだ、と言うしかありません。

しかし、やはり本質や中身の方が重要である事は間違いありません。政治のリーダーが真に国民の幸福を考えているのか否か、あるいは新たな万能細胞は存在するのか否か、そこが是非知りたいところなのです。和食は確かに器や盛り付けにも美学があるのでしょうが、やはりその料理の素材が本来持っている風味や調理人が加えた味付けこそが何より大切なはずです。国会の議論も、問題の論文の再審査も、結局は手続き(器)の議論に終始しており、一向に本質の議論に至らないのは、全く歯がゆい限りです。それを、この国の国民性という一言で片づけてしまう訳にはいかないのです。本質を突いた議論をする際に有効な枕詞は「結局」になりそうな気がします。結局、この国を諸外国と友好関係を結びかつ尊敬を集め、子々孫々にわたって住み易い国にしたいのかどうか、結局、新たな万能細胞は存在するのかどうかこそが最重要なのです。

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2014年4月 2日 (水)

2350 時代のフェーズ

戦後の経済的な復興では、この国はいくつかのラッキーに恵まれました。アジアで起こったいくつかのイデオロギー戦争の特需があったこと、オリンピックや万博などのイベントに恵まれた事、結果としてアジアにおけるモノづくりの拠点になり得たことが挙げられます。経済の高度成長は、付随する輸送機産業(つまりは船舶による輸送や航空機・車産業や鉄道輸送産業などです)や金融システム、さらには流通業などの第三次産業の隆盛も招いたのでした。

しかし、時代の「フェーズ」は変りました。別の言葉で「モード」という言葉もありますが、投稿者はモードは循環的に変わるもの、フェーズは不可逆的に変化(進む)するもの、と定義しています。例えばIPCCは、温暖化傾向が既に不可逆的な段階に進んだ、と指摘しています。温暖化傾向が、まだ何らかの手段で回避、または実質的に軽減できる段階であれば、それは「警告」だけで間に合う訳です。しかし、それが既に不可逆的な段階に進んでしまえば、それに対しては「適応」しかなくなるいうことなのでしょう。

では、この国の産業に関してはどう考えたら良いのでしょう。もし、時代のフェーズが1個進んだと仮定すれば、彼らはその新しい時代に「適応」しなくてはならないのです。しかし、残念ながら、国のリーダーも産業界を牽引している経営者たちも、その認識が十分ではない様に見えます。景気は循環するものであり、常にそれは上向かなければならないものだと言う思い込み、更にこの国はモノづくり大国であり続け、科学・技術も大したものだと言う信じ込みがまだまだ強すぎる様に思えるのです。間違って貰いたくないのは、科学や技術は「手段」に過ぎないと言う事なのです。しかし、新しい成長戦略ではそれが「目的化」されている様に見えてしまいます。全ての国々にとって、そしてそこに住む人々にとって、最大の目的は、近隣諸国と平和的に関わり、物質的にはそれほど豊かではないかも知れないが、しかし慎ましくココロ豊かな暮らしが送れる社会を築くことにあるはずなのです。物価が給料以上に上がるくらいなら景気なんかは上向かなくてもいい。製品を輸出し過ぎて国際間で摩擦が出るくらいなら、空が目立つ工業用地でも使って国内でもっと食糧を生産すれば良い。子孫に借金をツケ回すくらいなら、今の時代に倹約生活を送ればいい。敢えて言うなら、これらが新しい時代フェーズへの「適応策」になるのかも知れません。続きます。

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2014年4月 1日 (火)

2349 適応策

環境問題に対処する正しい行動は、今や「適応」なのだそうです。悪化が進んだ環境を、もはや元に戻すのは現実的ではなく、悪いなりにそれに適応すると言うことなのでしょう。例えば、洪水や渇水への対策としては、大規模なダムや貯水池を建設する事がその適応策となるのでしょうし、一方温暖化の結果冷涼な気候を好む作物が作れなくなった場合には、品種改良するかそれも諦めて、温暖な地域の作物に転作するのもやはり適応策となるのでしょう。

ではエネルギー問題に関してはどうでしょう。これについても、化石エネルギーを使い過ぎた結果、大気中の2酸化炭素が増えてしまって、気候の温暖化傾向を招いたと言うメカニズムが正しいとして、もはや私たちに、大気中に排出してしまった温暖化効果ガスを、(化石エネルギーを使わないで)地中に戻す術は無い、という結論になってしまったと言うことでしょうか。それは、多分そうなのでしょう。砂の上に砂糖をばら撒くのは造作もない作業ですが、ではその砂糖の粒を拾い集めて砂糖壺の中に戻すと言う作業は、困難というより殆ど不可能だからです。IPCCも、その意味では、砂糖を集めるための「匙を投げた」という状態なのかも知れません。それで、エネルギー問題に「適応」するかですが、大きくは三つに分かれると見ています。

一つ目は、電気を起こすのに使われている化石燃料を減らすための方策ですが、そこでのキーワードは「非電化生活」です。如何に電気に頼らないで、私たちの暮らしを維持させるのかについて、私たちはあらん限りの知恵を集める必要があります。朝起きて、テレビをつけて、トースターでパンを焼き、IHコンロで目玉焼きを焼く生活から脱却する方法を考えなければなりません。炭火か、釜戸の火で飯を炊き、あるいは味噌汁を作って、漬物少しの漬物と共に朝食をとる、というまさに昔の暮らし方に戻るか、あるいは火を余り使わない新たな非電化生活を編み出す必要があります。

二つ目は、石油を使ってモノを運ぶ事を、諦めるか、極端に減らす事が求められます。化石エネルギーの多くは、人やモノを移動させる事に消費されているからです。自動車も、飛行機も船もも基本的には石油無しには動きません。車を水素で動かすといっても、その水素は「炭化水素=石油」から炭素を追い出す事によって得ているので、やはり二酸化炭素を出してしまうからです。移動する事、運ぶ事を極端に減らすという事は、その地域内での地産地消を究極まで進める事を意味します。振り返ってみれば、私たちには限られた量の鉄道輸送だけで社会を営んでいた長い歴史があったのですから。

三つ目は、熱エネルギーを、化石エネルギー以外から得る工夫が必要であるという点です。冷暖房や給湯や工場のプロセスに使われる化石エネルギー起源の熱は膨大な量に上ります。ガス給湯器、石油ストーブ、重油ボイラなどなど、化石燃料を酸素と結合させて熱を発生させるシステムの何と多い事でしょう。今や、野菜を育てるため、いわんやゴミを燃やすことにさえ石油が使われているのです。これを何としても、太陽光や風力や地熱などの再生可能エネルギーで賄う必要があります。私たちの頭の中から消えているのは、実は熱を蓄えると言うシステムの様です。例えば、太陽熱を温水に変えて1-2トン程度の容量のタンクに蓄えておけば、暖房や給湯の熱源として数日は十分使える筈なのです。蛇口をひねれば、水道の水が直ちにお湯になる瞬間湯沸かし器の超便利さを、私たちは一日も早く忘れる必要があるのです。これらが、エネルギー起源の二酸化炭素増加問題における適応策につながるでしょう。

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