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2014年6月30日 (月)

2429 ~でもある

いま住んでいる県内に所在する大手の集成材工場を訪問しました。年間数万㎥を処理する規模の工場です。集成材とは、板状の単板を貼り合せて、一本の柱材にすることによって、無垢の木材より強度の高い構造材を得ようとするものです。ここでは、スギとヒノキのミックス集成材に特徴を持たせている様です。さて、この工場では別の製材所からあまり乾燥していない材をこうニュします。それを蒸気で乾燥させてから仕上げ製材+接着工程に流すのですが、その過程で、カンナ屑や木挽き粉に加え、切り落とした端材が大量に発生します。ある程度の長さの端材は、端部をギザギザに加工した上で、継ぎ足して材料としてリサイクルしています。しかし、30㎝以下の短い材は、結局は燃やして熱リサイクルするしかありません。

工場内には5トンと10トンの2台のバイオマスボイラが設置されていて、出来た蒸気で木材乾燥を行った上で、余った蒸気で数百キロワット程度のタービンで発電も行っています。しかし、それでもまだ廃材が余るので、それは有償で補助燃料として売却している様でした。当然の事ながら、雑多な形状の廃材なので売値は低く、想像ですがキロ当たり数円といったレベルでしょうか。

さて木材は確かに材ではあります。つまりは建物の柱や梁や土台材としての用途ですが、一方で不要な部分は「燃料でもある」訳です。材でもあり燃料でもある木材は、考えてみればその他の用途にも転用できるでしょう。ヒノキやヒバからは、殺菌・消臭作用のある有用な成分も抽出できますから、木材はケミカルでもある訳です。蒸気で処理した木粉は、プラスチックと同様射出成型機に掛ける事が出来る流動性が生じますのでプラスチックにもなるはずです。(木材プラスチックでもある)更に挙げれば、木材を燃やした灰はカリ分など植物が必要とするミネラル分も含まれますので「肥料でもある」のです。カエデやシラカバからはシロップやキシリトールも採れますので、樹種によっては「食べ物でもある」事になります。

結局、木材をたった一つの利用目的である材だけに使うのはあまりにも勿体なさ過ぎるでしょう。木材工場を、コンビナートに仕立てれば、一本の木材は少なくとも数種類の用途に「多面的に」あるいは「カスケード的」に活用できる筈です。最後は熱になって私たちを暖めて二酸化炭素に戻って「成仏」してもらえば良い訳です。これが炭素循環におけるカスケード利用の説明です。

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2014年6月29日 (日)

2428 自家中毒

原発城下町の盛衰がTVで取り上げられていました。海辺の寒村が原発マネーで豊かな町にはなったが、その原発の事故で、町そのものが消えようとしている、という特集番組でした。原発立地は、確かに産業の無い村にとって千載一遇のチャンスだったでしょう。建設のための道路が整備され、建設労働者が大挙して押し寄せ、補償金や交付金で夢の様な公共施設やインフラが整っていったでのでしょう。農家は商店やサービス業や下宿屋を始め、みんな豊かになりました。しかし、あの地震と溶融事故です。ひどく汚染された土地は、もしかすると数世代に亘って住めなくなり、結果としては他の原発の放射性廃棄物も引き受けての「置き場」にするしか方法ががいのかもしれません。某大臣の言う通りお金を積み上げて。~で栄えて、~で滅びる、です。

しかし、「~で栄えて、~で滅びる」というフレーズの~には、実は色んなものが当てはまるのかもしれません。例えば、私たちは石油や石炭やLNGなどを潤沢に使って、今は栄えている様に見えますが、狭い部屋で炭火を使った人が一酸化炭素中毒になる様に、有限な大気中で炭化水素を燃やし続ける私たちは、息苦しさで滅びるのかもしれません。実際、その前触れとして石炭の燃焼に由来するPM2.5や、石油類全般の燃焼の結果である炭酸ガスや窒素酸化物の増加の結果である酸性雨などが私たちを苦しめ始めています。

これらをひっくるめて「自家中毒」と呼ぶことにしますが、多くの中毒の原因となる毒物は、実は濃度が薄い場合には快楽物質や有効な薬として作用する場合も多いのです。例えば強心剤として有効だが猛毒のジギタリスなどが挙げられます。逆に言えば、薬として使われている物質でも大量に摂取すれば命を危うくしたり、重度の中毒を起こしたりする結果になる訳です。それは、エタノール(お酒)を例に挙げるまでもない事実でしょう。

すこし筋の異なる自家中毒ですが、私たちは実はお金による自家中毒に陥りかけている懸念がぬぐい切れません。お金のっ両は日々急激な勢いで増え続けています。何しろ、天文学的な額の石油や鉱物が日々採掘されていますから、それを買い取るためにお金が印刷され続ける訳です。その結果、私たちはお金(の価値)をコントロールする事が出来なくなって、事実上成り行きに任せるしかなくなっています。それが、体(人間社会)にあまり良くないとは薄々分かっているのですが、そこから抜け出せないのです。これも薬物やアルコールなどと同じ自家中毒、あるいは依存症の典型的な症状だと言うしかありません。お金で栄えて、お金で滅びるのはギャンブラーだけではありません。

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2014年6月28日 (土)

2427 技術の過信

この資源の少ない国が、科学力や技術力で厳しい国際競争を生き抜いていかなければならない事は議論の余地がありません。国の三本目の矢とやらも、それをテコとしての成長戦略が描かれる事になるのでしょう。しかし、元技術屋の立場として、技術の過信にはブレーキを掛けておきたいのです。先ず技術屋にイノベーションは出来ない相談である事を指摘しておこうと思います。技術屋とは、工学的な原理を使いながら、与えられた目標に対して、最も合目的なアプローチを提案できる存在で、しかも既存の技術を改良する事は得意ではありますが、全く新しいアイデアをひねり出す事は苦手なのです。何故なら、そのような訓練は、学校でも企業でも受けてこなかったからです。

では、いわゆる科学者や研究者にはイノベーションは可能なのでしょうか。確かに彼らは、ある特定分野のスペシャリストであり、その分野を深く掘り下げてはいますが、その分野は既に先輩研究者によって深掘りされているため、その穴の隅々を更に細かく穿るしか論文を書くネタは見つからない訳です。ノーベル賞を貰うような、天才肌かラッキーな閃きに恵まれた一握りの研究者は別にして、一般の研究者は一生掛かって狭いエリアの「落穂拾い」を続けるしかない人も多いと想像しています。しかも、企業の研究者を除けば、彼らの多くはモノを作って売った経験もない事が普通なので、もし良いアイデアがあり、実用化的な研究をしていたにしても、それが日の目を見るまでには例えば20年ほども掛かるため、結局はその人が現役の内に日の目を見る事は稀なのです。その成功の確率を10003つと喩える人も居ます。

事業の展開が出来る起業家と、アイデアを生む事が苦手な実務者である技術屋と、実用的なモノを作って売った経験が無い研究者が、三位一体の接点か交流の場を持たない限り、いくら国が旗を振ったにしても、成長戦略に寄与するイノベーションはきっと生まれないでしょう。それを可能にするのは、いくつかの商品化の経験を持ち、科学や技術の目利きが出来るコ-ディネータなのですが、残念ながらその様は人材は非常に少ないのが現状だと言うしかありません。その証拠としては、コーディネータと呼ばれる人は、大学や行政の外郭団体や地方自治体にも多く雇用されてはいますが、彼らが起点となって素晴らしい研究成果が花開き、新たな産業が興ったなどと言う明るいニュースは、稀である事からも分かります。何より、事業化の臭いを敏感に嗅ぎ取る「鼻」と、技術の質を見極める「目」と、3者の間を頻繁に動き回る「足」の3点セットを兼ね備えなければならないからです。年齢が高い企業卒業者で、進取の意欲やフットワークがすっかり弱った人で、しかも自分の狭い範囲の成功経験を過信する様な人ではとても勤まらないでしょうし・・・。たぶん続きます。

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2014年6月27日 (金)

2426 結(ゆい)

結は日本固有の(少し昔の)文化だと思ったら大間違いです。南ドイツの人口1000人ほどのあるR村には、日本より本物っぽい結の仕組みが存在するのです。一度周りの村と合併して交付金を貰い始めたその村は、お金で国や県から支配されるのが嫌で、合併を解消してしまったのでした。お金が少なくなったので、村の経済は自然に「自立的」にならざるを得ませんでした。村人は、村内の木材を使って、村人が総出で協力して、村営スーパーマーケットを始め、学校や幼稚園をなどの公共の建物を次々に建てました。村内の山の木で薪を作り、製材所から出るチップの暖房や給湯に使う仕組みを整え、林業や農業を支える大型機械を改造する工場も息を吹き返しました、ナタネを植えて車や農林業機械の燃料(BDF)を作り、家々の屋根には太陽光発電のためのパネルが載り始めました。

一方で、その村の経済の大きな部分は、実は地域通貨で回すことにしたのでした。公共工事に働き手を出すと、その家では地域通貨を手に出来ますから、それを持って村営スーパーで食糧や日用品や燃料をなど買うことが出来ます。この村でいわゆるお金(€=ユーロ)が要るのは村を出て「世間」で買い物や旅行をする場合に限られるのです。一方で、この優れた仕組みを見ようと世界各国からの見学者が引きも切らないので、それらの人からユーロは潤沢に入ってきますから、この村は客観的に見ればますます豊かになるはずです。その通貨を使えば、村外から村の経済を支える種々の設備や機械なども追加で買う事も出来る様になるので、この村の自立性はますます堅固になるでしょう。

これは、まさに結の仕組みが非常に良い形で機能している理想的な例だと言えるでしょう。一方、結の本家本元であるこの国の田舎でも、流石にここまで高度な結のサンプルは多分見つからないでしょう。今では精々、地域の一斉清掃や用水路の整備や茅葺屋根の葺き替えなどにその痕跡が残ってるだけだと想像しています。

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2014年6月26日 (木)

2425 進歩の無い国2

物質的には豊かになったこの国の一体何処が問題かをつらつら考えてみるに、ある時期からこの国の価値観(あるいは幸福観と言ってもよい)の物差しが、ほとんど唯一「お金」になってしまった事にあるに違いないと思われます。経済社会で、お金を重視して何が悪い、と突っ込みが来そうですが、何事につけ「偏重」は弊害を起こすはずです。今日では、かつては非常に稀であった僅かな所持金目当ての強盗や殺人事件がまさに茶飯事になってしまいました。

さてそのお金です。日本では、お金は一般的には「お札=日本銀行券」イメージされます。現在は諭吉さんがその代表的なイメージキャラとなっていますが・・・。立派に印刷はされてはいますが、単なる紙が1万円として流通しているのは、その裏でお国が日本銀行に債権を売り払う事に、その価値を裏付けている訳ですが、一方でお国が何か政策を打つ度に、債権を発行し続けた結果、国債の累計発行残高は天文学的な数字になってしまった事は、今や子供でも知っている話です。政策=お金という数式を考え直さなければ、この状況に歯止めは期待できません。景気を浮揚して、税収を増やして借金を減らすなどは、夢のまた夢である事は、常識をわきまえた人なら容易に想像できる筈です。私たちは、ここらで「お金で幸福は買えない」と思いなおす時期に差し掛かっていると思うのです。

幸福は、やりがいのある仕事があり、手狭でも暖かい家や家族の団らん、有り余ってはいなくても健康が維持できる食糧があれば、必要かつ十分だと思うのです。それは、何もお金が無くても十分実現可能である事は少し考えれば分かる話です。かつては、物々交換で余っているものと、足りないものを交換していた時代もあった筈です。都市への人口集中とその物流を支える(支配する?)流通業、小売システム(スーパーやコンビニ)の拡大が、たぶんそれを出来なくしてしまった原因でしょう。現在の様に、巨大に膨らんだ都市の生活を支えるには、必要悪ですが現在の物流システムが必須なのです。何故なら、モノを作らない人々の生活を支えるには、生産地からモノを切れ目なく運び続ける必要があるからです。

持続可能性の高い社会に向かって一歩でも「進む」ためには、先ずは人口の地方回帰が必須でしょう。人口が地方拡散すれば、例えばバイオマスエネルギーや食糧は、地域内で賄える割合(地域自給率)を格段に向上させる事が可能になるでしょう。人々は消費者になるのではなく、セミ生産者=消費者になるのです。薪を燃やしたいのであれば、お金を払って買うのではなく、休日は山に入って薪を集めるのです。労働をお金に換えてモノを買うのではなく、余っているモノや労働自体代価として不足しているモノと交換すれば良いのです。そうなると、お国が「消費税」をどうやって徴収するかですって?、そんなの構っちゃおられません。お金だけに頼っている限り、持続可能型社会への道のりはますます遠のく事だけは断言しておきます。

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2014年6月25日 (水)

2424 成果主義

今流行の言葉の様ですが、実のところ投稿者がまだサラリーマンだった1990年代にも企業内では盛んに使われていたのです。この言葉には、If,then~.即ち、もし成果をより多く出してくれたら、他の人よりは少しだけ給料を高くしてあげる、といった言葉のニュアンスがあると感じています。この国は、この言葉が持ち込まれる以前は比較的平等な国でした。多くの企業では、それなりに働けば人並みの給料が、定年まで保証されていたからです。しかし、今や多くの企業では派遣従業員が多数を占め、数が減ってしまった正規従業員は、いわゆる成果主義で厳しい査定を受けなければならない時代になってしまいました。働かざる者食うべからずの社会です。しかし、人間はたとえあまり上手くは働けなくても飯だけは食って行かなくてはなりません。

悪平等はまずいのですが、それなりの能力の人が、その人が出来る範囲内で、それなりに働けばそれなりに食っていける社会にはもう戻れないのでしょうか。投稿者としては、それでも楽観的に構えています。未だにこの国では、田舎に行けば高齢者も地域の中で現役として、それなりの役割を担って活き活きと暮らしていますし、海外でも途上国やそれ以前の国では、大多数の人々が、それぞれの役割を得て、裕福ではないでしょうがどうにか暮らしを立てている事でしょう。

では成果主義の対極に来る言葉はどの様なものになるのでしょうか。ここでは、「それなり主義」としておきましょう。それなりとは言っても、その人が出来る範囲内で一生懸命働く事が前提ですが、より能力のある人がそうでない人をカバーしつつ、しかし夫々の人がやりがいを感じながら働く事は出来ると思うのです。それを可能にするのは、多分他者への思いやりと、それを感じた者の感謝の気持ちのサイクルしかないとも思います。その意味で、成果主義やそれを支える能力主義は、結局は拝金主義につながり、一方で、それなり主義は人のココロの重視につながるのでしょう。

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2014年6月24日 (火)

2423 エネルギーステーション

今住んでいる町でも、ペレット燃料の生産が始まりました。一方で、小規模なガソリンスタンドの閉店も目につきます。急激な人口減少に加えて、ますますエネルギー効率が改善して省エネ型となる一方の車が相まって、利の薄い石油小売では商売が成り立たなくなったものでしょう。その結果、例えば高速道路(無料区間を含む)のIC近くに、適当なガソリンスタンドが無くなって、不便を感じるとの市内にキャンパスのある大学生によるアンケート調査も耳にしました。

そこで、一つのアイデアですが、ここは新たな提案として「エネルギーステーション」を考えてみました。ここでは、いわゆる普通のガソリンスタンドの機能を基本として備えるのに加え、適当なサイズの太陽光発電パネルを設置し、蓄電池も兼ね備え、電気自動車用のEVステーションも併設します。ICの近くのEVステーションは、航続距離の短いEV車ドライバーにはありがたい存在となるでしょう。当然の事ながら、ガソリンは電気(火花)が嫌いなので、適当な壁で仕切ります。ここまでは普通のアイデアですが、ここでは加えてバイオマス燃料も販売する事とします。ここに揃える燃料としては、扱い易い薪とペレット燃料が適当な商品でしょう。店頭売りも、灯油などと同様配達売りも引き受ける事とします。高齢者の家庭では、燃料の移動も大変なので、ストーブ・煙突などの手入れも含め、きめ細かいサービスも行います。ざっと言えば、普通のガソリンスタンドなどに比べれば、数倍のスタッフ数が必要となるでしょうから、地方では今最も問題になっている雇用も少しは生むでしょう。

北国では、兎にも角にも熱が必要なのです。それを石油(化石エネルギー)から得るのか、それとも再生可能なエネルギー源から得るのか、それが持続可能性への分かれ道になります。しかし、ここに提案するエネルギーステーションは、化石エネルギーと再生可能型エネルギーの割合を、一か所のスタンドで変える事が出来る仕組みです。その割合の変更は、もちろん徐々に再生可能型エネルギーの比重を増やす方向には行くのですが、季節変動などの不確定要素や燃焼機器などのインフラの変化によっても柔軟に対応できるのが特徴です。取り敢えずここでは、「ガソリンスタンドでペレットや薪を売って何が悪い、どれも同じエネルギー源ではないか」と言っておきましょう。

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2014年6月23日 (月)

2422 社会的価値

企業のCSR(社会的責任)が話題になったのは既に過去の話です。Aベノミクスというカンフル剤で、無理に活気づけられた企業は、更に減税と言うアメを貰って、更なる元気を得ようと構えている事でしょう。しかし、過去の延長線上で無理に景気を浮揚させたところでセンナイ話で、少し先ではまたゾロ息切れがして、再びのデフレスパイラルに戻る事は目に見えています。少なくとも投稿者には見えています。何故なら、来たるべき社会に求められる企業像は、単に社会的責任(中身の殆どは納税義務と法的コンプライアンスだけなのですが)を果たしているだけでは全く不十分で、更に踏み込んで「社会的価値の創造」まで求めらるからなのです。

そもそも、社会的価値を云々するためには、今後求められる社会的に重要な価値とは何なのかを定義して掛からなければならないでしょう。それはもちろん、単に経済的な繁栄や便利で清潔な社会の実現だけではない事は明白です。その分配方法に種々の問題は抱えているにしても、私たちは既に世界的に見ても経済的・物質的には十分に豊かな社会は築けている筈です。そうではなくて、これからの社会的価値のベースには「持続可能性」を据えなければならないと思うのです。この世代はもちろん、孫や曾孫、百年後の先7世代先の幸福までも考えられる社会を作る必要があるのです。

Aベノミクスにはその片鱗も感じられません。何故なら、子孫に先送りする借金や負の遺産を更に増やさずにはおかないからです。国の借金が増え、放射性廃棄物が増え、大気中のCO2が増え、海岸を覆い尽くすコンクリート護岸が延び、田畑を潰した道路や新幹線が延び、ゴミの埋め立て場所は間もなく限界を超える筈なのです。それを加速する政策の何処に社会的な価値を見出せば良いと言うのでしょう。未来の子孫が歴史を振り返った時、歴史の教科書には、20世紀後半から21世紀の前半に掛けては、「世代エゴの時代だった」と書かれても仕方がないのです。国も企業も社会の構成員たる私たちも、持続可能性を前面に打ち出した社会的価値を早急に確立しなければなりません。そうでなければ、私たちは子孫をして、資源もエネルギーも食糧さえも不足がちで、廃棄物に囲まれた深い奈落に突き落としてしまった「罪深い世代」になってしまうでしょう。それを防ぐ具体的提案については、これまでも縷々書いてきましたが今後も続きます。

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2014年6月22日 (日)

2421 心の復興

何気なく聞いていたラジオから流れてきた「心の被曝」という言葉が耳に残りました。Fクシマの放射能汚染で受けた心の傷を指す言葉だった様です。放射能被曝は、例えば「通常の?爆弾」と異なるのは、被害が非常に長い期間持続する事に特徴があります。甲状腺への放射性ヨウ素をの蓄積やあるいは遺伝子レベルの被曝によりガン化なども懸念され、下手をすれば、妊婦を介して次の世代に影響を与える可能性だってある訳です。しかし、心の被曝とは、それらの実際的な被曝被害を怖れるあまり、安寧な日常が送れなくなってしまい、心が病んでしまう現象の様なのです。子供を外で十分に遊ばせてやれない親の憂鬱、その憂鬱を敏感に感じ取ってしまう子供達、あるいはその間の負のハレーションを想像する時、こちらも心が重く沈みます。

しかし、何時までも見えない放射能を怖れて暮らす訳にもいきません。正しく怖れて、しかし必要以上には恐れない強さが求められます。H島やN崎だって、重篤で壊滅的な直接被曝から立ち上がったのでした。もちろん、その背後には筆舌に尽くしがたい労苦や、実験としてリトルボーイを落としたと言われるB国に、故意に隠ぺいされた悲惨な事実も多かった事でしょう。それについては調査もしていませんし軽々に語るべきではないのかも知れません。が、一方でヒトには放射線被曝からでさえ回復する機能も確かにある様ですし、国内でも自然放射能が高い場所や温泉場もそれなりに存在していて、逆にそれらは免疫機能を高める有用な場所として、利用もされてきたのです。今住んでいる県にもラジウムを含む「北投石」を産出する場所があり、末期がんを治癒するなど、民間での伝承が根強く残っている事を見ても、それなりの効果はあると思われます。

必要以上に怖がって、放射能から逃げ回るのではなく、先ずは正しく評価し、低レベルかつ長期間の被曝に関しても、しっかりした疫学的調査を行った上で、単に年間20ミリシーベルト以下の被曝は安全で、21以上は危険だとか、食物の残留放射能が100ベクレルはOKで、それ以上はダメだとか、安易な「線引き」は慎むべきでしょう。1960年代や70年代の冷戦時代を通じ、その時代を生き抜いてきた世代は、Fクシマの事故でばら撒かれた放射能とそれほど変わらないレベルの放射線被曝をしかも長期間経験したはずです。何故なら、B国でもS連でもFランスでも、遅れてC国やIンドでさえ、うかつにも彼らは原水爆をしかも大気圏内で、しかも合計で言えば何千発も爆発させてきたからです。そのおぞましい歴史は、以下の動画でも確認できます。http://www.youtube.com/watch?v=fvB9HdtAjvY

そんな大気を吸って生き抜いてきたヒトや他の動物は、ある程度ではあるのでしょうが、自然や人工的な放射能に対して、確かに抵抗力は持っている筈なのです。例えば、近年ガンで亡くなる人の割合が増えたのは、放射線の被曝が一因になっていると主張する人もあるかも知れませんが、それは単に感染症で若くして亡くなる人の割合が激減した結果かもしれません。投稿者は、もし孫の顔を見てから死ねるなら、寿命は何歳でも構わないとさえ思っています。何時までも、心の被曝で落ち込んでいるのは人生の時間の無駄使いだと思い直してはどうでしょう。

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2014年6月21日 (土)

2420 進歩のない国

この国のなかで60年余り生きてきて、強く感ずる事があります。それは「なんと変わりばえしない国なんだろう」という感慨です。もちろん変わる事だけが良い訳ではありません。バージョンアップしない事が問題なのです。つまり、問題点を掘り起こして、それを徐々にしかし着実に改善すると言う姿勢が見られないのです。今のリーダーの口癖である「戦後Resumeからの脱却云々」も、日々報道される国会での堂々巡りを眺めるだけでも、脱却など程遠いと感じてしまいます。

先ず何がこの国の問題かを整理する事が必須でしょう。

それには、失敗した政策を挙げてみるのが良いかも知れません。先ずは産業政策です。戦後の高度成長期にこの国が推進したのは、護送船団方式による重厚長大産業の育成でした。その中心は鉄の増産で、それを支える石炭や石油、それを運ぶ造船業を税金を使って後押ししたのでした。その後この国を牽引したのは、家電や車産業でした。小型で多機能で、省エネで、品質が安定しているMade in Japnは、多くの国々で受け入れられました。しかし、この国を追いかけるアジアの国々は、ヒタヒタと背中に迫ってきていました。安易にも、コスト削減のための海外進出を奨励し、しかしそれにつれて設備や技術(者)も流れ出たのでした。一連の政策の中で、明らかに失敗した一つと感ずるのは、いわゆる「エネルギー政策」でしょうか。石炭から石油、LNGへの切り替え、並行しての原子力拡大政策は、如何にも他力本願で世界情勢に流され続けながらの「場当たり政策」に終始した様な気がします、例えば、二度に亘る「石油ショック」を受けて、国も立派な「サンシャイン計画」を打ち上げ、省エネ技術にも励んだのですが、しかしその後石油価格が低下し安定し始めると、それらの政策はすっかり背後に追いやられたのです。オイルショック後立ち上がった風車産業も、安くなった石油との競合では儲からないと見るや国もメーカーもささっと屑籠に捨て去ったのです。その一方、長期展望を立てていた欧州では着実に風車メーカーが育っていったのでした。

そうです、この国では、何故か長期展望という考え方が根付かないのです。リーダーが1-2年で交代する様な国では無理もないのかも知れません。企業においても、所詮生え抜きのサラリーマン社長が多い企業風土では、どうしても株主の顔色を見ながら経営するしかないのでしょう。1百年先のグランドデザインを描き、そこに近づくための年々のステップ施策を地道に展開する、などと言っていては政治家は票が集める事が出来ないのでしょう。そう考える、今の選挙システムも大きな問題なのかも知れません。続きます。

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2014年6月20日 (金)

2419 付加価値

このブログで繰り返し書いてきた重要なテーマの一つがこの「付加価値」だったと振り返っています。報道され始めた様に、東北各地で国の助成を受けながら展開されてきた、コールセンターの誘致が暗礁に乗り上げている様です。当初の目論み通りに顧客が集まらないとの事業者の「言い訳」ですが、詐欺まがいの臭いを禁じ得ません。それはさておき、ここで書いておきたいのは、一体コールセンターに「モノに付加価値を乗せる機能」があるのかどうかです。原料を仕入れて、顧客が欲しがる機能を乗せて商品にするのはメーカーの仕事です。流通業者は、それらを集めて最終的な顧客に届けると言うサービスを通じて、コストに見合う適正な配送料を受け取ります。

然るにあのコールセンターです。ここでは、顧客からの注文やクレームや相談を受け取る窓口ではありますが、実際に商品に付加価値を上乗せする機能はありません。メーカーの代理として、顧客窓口業務を執り行うだけであり、それによって商品がより高い値段で売れる訳ではないのです。ネットで殆どのモノが注文できる様になった昨今、電話による受注に将来展望が見込める訳でもないでしょう。結局「震災後の雇用増の必達」という行政のウィークポイントに、上手く付け込まれたと見るしかない様なのです。

やらなければならない事は、しっかりしたニーズに基づいて、正統的な方法でモノに付加価値を乗せる作業だけなのです。そこには近道はないのです。泥臭くて構わないので、顧客の(まともな)ニーズに細かく応えていくだけしかないでしょう。具体的に言えば、食べ物で言えば地域毎の伝統的な食品にヒントを得て、味付けされたローカル食品など、工業製品について言えば、単に安く、大量に作るばかりが能ではなく、個々の顧客のニーズにも応えられるカスタマイズサービスなどが挙げられます。人口減少のこの時代、爆発的に売れるヒット商品などはあり得ないのです。狙うべきは、狭い分野にはなるでしょうが、どんな時代にもジワジワ売れ続ける(ロングテールの)「定番商品」なのです。

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2014年6月19日 (木)

2418 外向き、内向き

今住んでいる県知事の言では、稲作への過度な依存が結果として農業の衰退と人口減少に結びついているのだとか。農業県の知事として、タブーに挑戦した発言だと自画自賛しています。では何をその対策として打ち出したかと言えば、やはりコメを止めて換金作物を増やすことと、将来有望な産業の「企業誘致」しかないのだとか。これまでは農業(コメ)を優先するあまり、農地を潰しての大規模な企業団地や高速道路網を整備できなかったことが現在の事態を招いているとの分析です。しかし、残念ながら冬季の雪深い気候で、時々豪雪で閉じ込められる事を考えれば、企業経営者としてロジスティックリスクが拭えない雪国への進出など、よほど他の条件(安い人件費か有利な減税など)が得られない限り、積極的には検討しない筈です。

この県は、他の農業県や工業出荷が少ない県と同様「消費県」の典型でもあります。つまり、食糧自給率は比較的高いにしても、他の日用品やエネルギーや工業製品の殆ど全てを他の地域からの購入で賄い、代わってコメや木材製品などの1次産品を出荷する訳ですが、もちろん前者の額が後者より圧倒的に高い「入超県」であると言う事なのです。例えば、スーパーやホームセンターでの日常の買い物を考えても、商品を裏返して見た場合、そこに書いてある「製造者」は9割以上が県外のはずです。

しかし、どの様な道筋で考えてみても、県外から日用品や食糧の大きな部分を移入しながら、一方では(大企業から買い叩かれて)儲からない下請け産業を誘致するなどと言う政策が正しい筈もありません。先ずは、地元の基本的なニーズを、地元産品で十分に賄える産業構造を取り戻す必要があると思うのです。地域で、多くのモノで自給自足が出来ていた時代は、そんなに遠い昔の話ではないのです。ホンの50年ほど前の社会を思い出せば良いだけです。それを「内向き」とマイナスに捉えるのか、遠い将来の理想像としての地域における衣食住の自給自足率の高いレベルの実現を見据え、そこに向かって地道な努力を重ねる事をプラスと捉えるのか、意見の分かれるところでしょう。取り敢えずここでは、20世紀後半のパラダイムに縛られる事を「後ろ向き」、遠い将来の持続可能性に向かって努力を「前向き」と捉えたいのです。

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2014年6月18日 (水)

2417 チキンゲーム?

最近の国際情勢を眺めていると「チキンゲーム」という言葉が頭をかすめます。多くの紛争や紛争一歩手前のきな臭い争い事は、多くの場合挑発(あるいは恫喝)と、それに呼応する過剰なリアクションの連鎖によってヒートアップするのでしょう。お互いに領土や領海だと主張するエリアをうろつく、あるいは領空や領海を横切る、さらにはミサイルなどの飛び道具を試し打ちするなど、手口は色々あるでしょう。2国間で示し合わせての軍事演習なども効果的でしょう。

しかし、その本質はいわゆるチキンゲームである事は、何時の時代になっても変わる事はありません。多くの場合は、多くの戦争の歴史を振り返るまでもなく、我慢できなくなって先に「手を出した」方が負けなのです。とは言いながら、現在紛争地域と呼ばれている場所では、日常茶飯事で爆弾テロやロケット砲、迫撃砲の打ち合いが行われていて、もはや一体どちらが先に手を出したか誰も分からないカオス(泥沼)に陥っている様なのです。悪い事に、彼らに武器を売りつける死の商人が暗躍しています。自分が儲かりさえすれば、多くの犠牲者が出ても構わないと考えている輩です。こうなると、もはやチキンゲームではなく、泥沼の戦い(Mudslinging game)と言うしかありません。Slingerとは投石器の事ですから、泥を飛ばしても、相手に決定的な打撃を与える事は出来ず、結局互いに同じ程度の反撃を延々と続けると言うエンドレスゲームを意味します。

表題に戻ると、チキンゲームではプレイヤーは強気で臨み、それを持ち続けた者が勝利をおさめがちですが、ヒトは最後の最後の崖っぷちでは弱気に陥る事も多いのです。強気が雪崩現象を起こすわけです。さて、お隣の大国の指導層が、何時まで強気を持ち続けられるのかは、現在の経済成長率を何時まで維持できるのか、あるいは国内の不満を何処まで抑え込めるのかに懸かっていると見ています。とは言いながら、ネット時代の現代では、もっと些細な出来事がきっかけになって、一夜にして事態が急変しても不思議ではないでしょう。頑丈な堤防も小さな穴の漏水から崩壊するからです。

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2014年6月17日 (火)

2416 ロボット王国?

お国の成長戦略の一つが、この国をロボット王国にする事なのだそうです。余りにも安直で思わず鼻で笑ってしまいました。確かに、今でも多くの大規模工場ではいわゆる「多関節ロボット」が黙々と働いています。一方で、ロボット化が出来にくい、手作業が伴う加工や組立は中小企業に押しやられ、自動化し易い工程だけにロボットが導入されていると言う事実があるのです。その中小企業で引き受けている面倒くさい工程を、高度な動きが出来るロボットで置き換えることには、確かにそれなりの意味もあるのでしょうが、しかしそれは複雑で、中小企業には手の出ないバカ高いモノになるでしょう。

ここで、工業用ロボットの歴史を概観してみましょう。この国における工業用ロボットの嚆矢は、多分K重工がB国のU社からライセンスを導入したスカラ型のロボットだった様に記憶しています。その後、いわゆる多関節型のロボットが、車産業などのスポット溶接ロボットやアーク溶接ロボットとして改良を続けられ、更にマニピュレータやエンドエフェクターの改良により、現在の様に組立までこなすロボットへと進化したのでした。一方、小型のAIを搭載したいわゆる「人型ロボット」が電機メーカーを主体に、自律型のロボットヘと進化を遂げてきました。

しかし、数十年の実用型ロボットの歴史を積み重ねても、相変わらず工場のコンクリート基礎に座ったままの多関節ロボットと、簡単な芸や人との会話くらいはこなす、高価なオモチャとしての人型ロボットの2種類しか、世の中には登場しませんでした。T塚が夢想したアトム型ロボットは、多分今後100年経っても現れないでしょう。その理由は、密度の非常に高いエネルギー源と、人間の関節と筋肉を理想とする関節・アクチュエータのメカが、未だ影も形も無い事にあります。現在のバッテリーと電気モータと歯車関節の組み合わせでは、原発廃炉現場で働ける様な、力持ちで実用的な自立型ロボットの開発は到底覚束ないでしょう。

一方、微妙な手加減やタッチを要する手仕事はと言えば、未だに荒っぽい精度の力センサー、圧力センサー、モーションセンサーなどしか手に入らない現状では、ロボットなんぞに置き換えられる筈もないでしょう。つまり、現在のロボットのメカやセンサーを根底から見直さない限り、細かい手仕事をロボットに任せられる様な時代は百年待っても到来しないと、投稿者は見ています。

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2014年6月16日 (月)

2415 部品屋

今住んでいる地域の産業(製造業)の状況は、基本的にT社の城下町と言っても良いでしょう。しかし、その肝心の親会社はと言えば、コスト競争力の強化のために、例に漏れずC国や他のアジア諸国へ巨大な工場を建設して出て行きました。残された下請け企業は、仕事を引上げられるのと同時に、借りていた製造設備も返上せざるを得なかったため、後に残こされたものは、ガランとした建屋だけ、という企業も多かった様なのです。中小企業(取り分け下請け企業)の弱みは、間違いなくその体質が部品屋、または工程屋であると言う点にあります。つまり親企業に納める部品だけを作っているか、または一連の工程の一部だけを担当すると言う体質にこそ問題が所在するのです。

最近よくマスコミに上るKWとして「6次産業化」なる言葉がありますが、言わんとするところは、原料の仕入れ(調達)から、その加工から販売まで一貫して一つの企業なり組合が担当し、それぞれのプロセス全体で雇用や付加価値を積み上げましょうという考え方だと言えます。この言葉が、未だ農水産物のみに使われている事に違和感をおぼえます。工業製品にこそ、このプロセスを適用すべきだと思うのです。例をいくつか挙げれば、かつて薪ストーブやジョロは町の板金屋さんが作っていました。板金屋さんはブリキ板を仕入れ、トンカンと木槌で器用に曲げ、組合せ、あるいはハンダでくっつけて最終製品に仕上げていました。それを店先で売るか、あるいは金物店に卸していたのです。板金職人は、ブリキ板に最終的は付加価値を全て積み上げていたのです。板金屋は、需要があれば屋根屋にも変身しました。昔は結構ブリキ屋根の家屋もおおかったので、古くなって雨漏りが起こると度々修理や葺き替えをする需要があった訳です。別の例では、醸造業も味噌や醤油やお酒を、仕込から販売まで全て1社でこなしていました。もちろん、酒造業の世界では、有名ブランドの酒造メーカーが、田舎の昔ながら酒蔵の樽だけを借り上げる、いわゆる樽貸しも行われていましたが、逆に近年は酒蔵が原料米の栽培にまで進出するケースも出ており、6次産業化のモデルケースは進行中だと言っても良いでしょう。

中小企業が生き残り、しかも活性力を失わずに存続するためには、少なくとも売り上げの何割かは「自社製品」で稼ぐ必要があると思っています。しかもその需要は、地元に実際に存在する「実需」に基づいているのが理想です。その地域の食糧需要、エネルギー需要、住宅需要など毎日の生活に不可欠な需要があるはずですが、実情は流通業や巨大資本がその供給の多くを握っている状況です。その一部を地元企業が取戻し、更にそれをブラッシュアップして他地域や輸出に向かう知恵と工夫があれば、ローカルの中小企業にだって、十分ビジネスチャンスが広がると思うのです。

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2014年6月15日 (日)

2414 C国の行方

すぐお隣のC国の行方がやはり気になります。巨象が動き出すと、その大きな「慣性」故に小回りが利かず、兎に角前に進むしか手が無くなる事態は困った事でもあります。指導層や巨大な官僚組織は、巨象が生み出す巨大な利権と結び付き、仕組まれた利益誘導装置を更に駆動し続けるのです。最も効率的な利益装置は何かといえば、何時の時代にも土地と結びついた利権でしょう。農地をタダ同然で接収し、工場用地や住宅用地として高く転売すれば、信じられない程のレバレージの利益が得られるでしょう。この国でも今でも裏ではそれなりに見受けられる、行政の「許認可権に結び付いた利権」もこれに劣らない程強力な利益誘導装置でもあるはずです。

しかし、年率10%前後の安定的な経済成長が1980年頃から現在まで30年余り持続していますが、それが今後も長く続く事は、国が巨大であればあるほど絶対にあり得ない事態だと断言できます。何故なら、C国は人口的には世界の2割弱、経済規模的にも世界の1割を大きく超える規模となっており、その動静は世界規模の影響を与えずには置かないからです。取り分け、その強烈な環境破壊力は、すでに近隣諸国に深刻な影響を及ぼし始めています。つまり、彼の国では経済的には下層のマジョリティを踏み台にしつつ、加えて環境破壊に目をつぶり、加えて近隣諸国との摩擦を起こしてまで、ギリギリで達成し続けている危うい成長率だとも言えるでしょう。

さて、この楼閣と言うか、現代の長城と言うかが一体何処から崩れ始めるのか注目ですが、投稿者の見方では多分、件の「門」の前で起こった騒乱の再来が起点になりそうな予感がしています。公害問題は、一部(大気に関係するもの)は国境を越えてはいますが、基本的には地域限定の問題であり、それが国の問題にまで登るには、この国における公害裁判の様に、法廷に俎上される必要があります。裁判制度が弱い彼の国では、そこに至るには数十年は掛かりそうな気がします。しかし、民の困窮や不満の鬱積は、ネットで連動する事により一気に爆発する可能性を秘めているからです。マスコミで報じられる、小トラブルが氷山のホンの一角だとすれば、地下では氷山ではなくマグマが沸々と煮えたぎっている可能性が高いのかもしれません。以上無責任なC国ウォッチでした。

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2014年6月14日 (土)

2413 Bイオノミクス

Aベノミクスとは、結局緩やかなバブルを起こし、ややインフレを継続して、(お金の)経済規模を拡大させ、結果として税収を増やして膨大な借金が自然に減る様にする、という目論見です。しかし、それに伴って実需(本当に必要とされる需要)も比例的に増加する訳でありません。そこが、「緩やかなバブル」である所以です。つまりは経済規模だけの拡大で、モノが後ろに置かれる経済に再来(再々来?)なのです。バブルは、石油関連バブルや土地バブルやITバブルやC国バブルやら、繰り返し繰り返し仕掛けられてきました。しかし、それらはことごとく弾けて、まさに水泡に帰したのでした。何故、そうなるのかは素人が考えても自明です。実体の無い膨張は、やがては萎む宿命にあることは自然の帰結だからです。

経済バブルは、全て「通貨」が絡んで引き起こされます。つまりは、お金の価値がゴムで出来た風船の様に伸び縮みする事によって引き起こされるのです。モノの「絶対的価値」があると仮定して、バブルになるとお金で換算した「見かけの価値」が上がるでしょう。その上げ潮にうまく乗った人は、バブルの規模に応じてボロい儲けを手に出来るでしょう。しかし、それに乗り遅れた、あるいは全く乗る事が出来ない人々は、結局貧乏くじを引かされ、高いモノを掴まされて損をする結果に終わるでしょう。やがて乗り遅れた人々にもサラリーの増加というおこぼれがジンワリ降ってきた頃には、バブルは既に萎みかけていて、あっと言う間にデフレ傾向に戻る訳です。風船のゴムが元の大きさに萎むのか、あるいは水の上に生じた泡が消えて、元の水面に戻るのか、何に喩えるかは別にして、経済はあるべきレベルに戻らざるを得ないのです。

Bイオノミクスの説明が遅れましたが、これはバイオマス(農林水産業から得られる実体のある資源)に基盤を置いた経済を指します。表題を全てカタカナにすると、何やら紛らわしい固有名詞がヒットするので、ここでは頭文字をBとしました。バイオマスは実態があるモノであるため、絶対的な基準となり得ます。つまり、ヒトが生きていくのに必要な農産物の量は、どの時代でもそれほど変わりがある訳ではありませんし、暖房や給湯に熱利用する場合でも、1台のストーブが一冬に焚く平均的な燃料(例えば薪やペレットなど)の量は殆ど変らないからです。実際、「木の駅システム」という仕組みが全国に増殖しつつありますが、そこでは軽トラックに積める長さ、重さの木材そのものが通貨となっている仕組みで、その木材は木の駅で地域通貨という紙通貨に交換されて、その村や地域の商店などでしかモノが買えない仕組みなのです。山持ちのお爺ちゃんは、孫にオモチャを買うため、あるいは自分の晩酌の酒や魚を買うために、先ずは午前中に自分の山に入ってそれに必要なだけの木を伐るという訳です。続きます。

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2014年6月13日 (金)

2412 1週間で・・・

1週間でこの国の中で何が起きるかといえば、例えば集落が一消えて無くなります。つまり限界集落だったところが限界を超えて、最後の住人が亡くなるか、子供のところに移動して完全無人の集落となる訳です。また1週間も経てば、この国では2万人弱の人口が減っているでしょう。ここ数十年の人口予測によると、毎年100万人ずつ減っているとされていますから、毎週毎週2万弱減っていく計算になるのです。更に、企業統計によれば、中小企業数は1980年代のピーク時の500万社あまりから、その後の20年でなんと100万社が消えてしまいました。これまでの実績傾向をグラフに描けば、直線的な右肩下がりに線になり全く鈍化はしていませんので、毎週100社弱が消えてしまう傾向は、今後も当分続くと見られます。

人が減り、集落が消え、企業も消えていく、それがこの国の運命であるならば、それを受け入れて、しかしたとえそうであるにしても、着地点はしっかり考えておく必要があるでしょう。着地点が泥沼ではなく、しっかりした地面(安定した社会基盤)に降り立ちたいものです。そのためには、やはりしっかりとした青写真(これもかなり古い言葉になってしまいましたが)を描く必要があるのでしょう。そのためには多くの「持続可能な仕組み」を組み合わせる事が肝要です。先ずは、主にこの国の食糧やエネルギーで維持できる人口というものを頭の片隅に置いておく必要もあるでしょう。他の国が、食糧やエネルギーを分けてくれなくなっても維持できる人口です。これは、およそ3-4000万人前後と言われていますが、もしその様な人口になれば、無理な工業製品の輸出などしなくても、全国民は普通の生活が送れるのです。

もちろん、ここ数十年でここまで人口が減る事は無いのですが、無理(摩擦無く)無く適度な輸出入を行って、この国の社会を維持できる適当は人口は、しっかり検討すれば何らかの答えが出るでしょう。当然の事ながら、その人口構成が現在の様に極端なトップヘビィでは社会が上手く機能しません。毎年100万人前後が生まれ、同じ程度に亡くなるいわば長方形の人口ピラミッドにならざるを得ないでしょう。そこに安定するためには、今後数十年を要するでしょうが、青写真はそれを描き切らなければなりません。その上で、それを支える産業構造や規模も決まってくるでしょうから、そこに向けて企業行動を誘引する政策も必要なのです。現在の様な、自由競争という名の放任政策では、行く末が案じられてなりません。

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2014年6月12日 (木)

2411 ぐーたら病

更に2408の続きです。私たちや諸先輩が戦後一貫して追求してきた、便利で快適な、いわゆる欧米化した生活スタイルを一応実現した結果、手に入れたものはと問われれば、それはたぶん「生活習慣病」だけだというしかありません。つまり、私たちは戦後一貫して、快適な生活=体に温度変化という負荷(刺激)を与え、体を動かす事によって基礎代謝を上げる事を怠って暮らすライフスタイルを選択し続けてきたのでした。それで何が起こったかと考えれば、肥満、高脂血症、糖尿病、あるいは数えきれない食品添加物や化学物質に起因するかも知れないガンおリスク増加、さらにはこれらの複合的な影響と考えられる心臓病や脳疾患などなど、枚挙に暇がない程、いわゆる「生活習慣病=贅沢病=ぐーたら病」が蔓延してしまったのでした。

私たちは今からでも、利便性や快適性を放棄して、体に適正な負荷を掛ければ、お金を一切掛けないで、あるいは逆に利益を得ながら、これらの生活習慣病の多くを駆逐できる筈なのです。それが出来れば、歳をとっても体幹(つまりは筋肉や骨量ですが)がしっかりと維持され、比較的若い時期に寝たきりになる様な人も激減するでしょう。この国が、1年間で「浪費」する医療費や介護費用の金額は天文学的数字に上ります。浪費とは、本来なら使わなくても済む費用の支出を指します。若い時期から、高齢に至るまでしっかりと体を動かす習慣、それをここでは「運動習慣」と呼んでおきますが、生活のベースに据えれば、私たちはより高い生活の質を実現できると思うのです。

例えば、体を動かして、山の木を少しずつ伐り出し、乾燥させてから薪割りをしてそれを軒下に積み上げる、というささやかな労働が、体を鍛え、病気を減らし、同時にカーボンニュートラルを推進すれば、健康で環境にも優しいライフスタイルが確立できる筈なのです。また例えば、たった2-3㎞の距離を移動するのに、車や公共交通機関に頼る事を考える前に、まず自分の足で歩き始めれば、たった2-30分で目的地に到着できるでしょう。加えて、明らかに過食となるほど食べ物を詰め込まなくとも、アジア人は飢餓には強いDNAを持っているのですから、食べる量は今の2/3以下にしても問題ないでしょう。これらのぐーたら病を駆逐できれば、健康な生活が手に入り、エネルギー消費が減り、医療費やエネルギー購入や余分な食糧費に充てていたお金が浮きますから、余暇に使える様になり、あるいは収入が減っても暮らせますから、自由な時間も増えるでしょう。体も、頭も、適度に負荷を掛けて使ってこそ正常に機能「器官」なのです。

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2014年6月11日 (水)

2410 休題(弾丸ツアー)

秋田から川崎駅前まで行く用事が出来、ルートを検討しました。投稿者は世間的に見れば確かに貧乏で、今回はお金にならない仕事でもあり、出来るだけ安く行く工夫をする必要がありました。そこで見つけたのが、高速バスツアーです。定期の高速バスは、新幹線に比べれば、正規料金でも半額以下ですが、随時募集のツアーは更に安いのです。とは言いながら、ツアーは毎日募集されるので、実質的には定期便と同様です。今回は大手のW社のHPで画期的に安いツアーを見つけてしまいました。なんと秋田・新宿の片道1000円ポッキリだと言うのです。但し、条件があり、シニアであること、土曜夜の出発便には席の設定無いと言う2点ですせん。しかし、それ以外の曜日には数席準備されている様なのです。

多分、それは空いた席を埋める作戦なのでしょう。繁忙期でない限り、各便の平均的な乗客数は多分20人くらいだと想像しています。従って、4席配列のざせきシートでは、窓側に一人だけ座らせ、1列には2名しか座っていないのです。そこで、男同士を座らせれば、通路側の席のいくつかを埋める事が出来ると考えたのでしょう。空席で走らせるのに比べれば、何名かの1000円客を乗せた方が、収益は上がる訳です。とは言いながら、片道1000円は、シニアにとってはありがたい価格です。安眠は出来ないとはいえ、一晩眠れば朝には別世界に着いているのです。さながら、ロボット漫画のドアの様です。夜に緑滴る田舎からバスに乗れば、朝にはコンクリートジャングルで人がウジャウジャ動き回る都会に立てるからです。

それにしても、毎回この大都会で感ずるのは、人の多さです。何故こんな息苦しい空間に、かくも多くの人々が群れて暮らすのか、田舎生まれでこれまで地方都市だけで暮らしてきた身には、全く理解できません。今回は、午後のアポイントまでたっぷり時間があったので、新宿から川崎までの20㎞余りを歩いてみる事にしました。東京で、数少ない「深呼吸が出来る場所」として、例えば明治神宮の森が挙げられますが、今回もその中を抜けて歩きました。朝早かった事もあり、人も少ない鬱蒼とした森は、やはりヒトの故郷であることに気がしました。各地の鎮守の森が巨木に囲まれている訳も分かった様な気がしました。つまりは、神社に参拝すると言う行為は一種の「胎内くぐり」だと気が付いたのでした。胎内くぐりの本質とは、ご先祖様に想いを馳せる時間だと感じたのです。ところで突然思い立った、20㎞ウォークは、合わない靴でマメが出来てしまい、多摩川を渡った15㎞地点でリタイヤしてしまいました、とさ・・・。

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2014年6月 8日 (日)

2409 時間の巻き戻し

昨日の続きです。資源やエネルギーの消費レベルを例えば、1970年代(現在の半分)で暮らしたり、工場を動かすのは一見大変な努力が要りそうに思えてしまいます。確かに、全ての条件を現在と同じに固定して、資源・エネルギーを半分にするには、例えば輸送関係だけでも車の燃費は50/ℓ以上が要求されますし、トラックだって20/ℓ程度の燃費を実現する必要があるでしょう。また、例えばエネルギー効率的には世界の最先端を行っていると思われるエアコンや冷蔵庫も、更に効率を倍増させる必要が出てきます。しかし、技術開発のスピードや買い替え需要などを考えると、それが社会に遍く行き渡るには、今後少なくとも50年程度は掛かると想像されます。

それは、技術者や企業経営者側から見れば、あるいはそれを前提として物事を考える行政マンからすれば、それはそうなのでしょう。しかし、このブログでも何度も書いている様にアプローチの第一歩は、「先ず暮らし方の見直しから始めよ」としか言えないのです。不便が生じてそれに文句を述べるのではなく、不便になって自分の体を動かさなければならない事に楽しみを見出すと言う姿勢が求められるのです。寒くなってきて、さて暖房をしようとする際に、石油ストーブを出してきて、電話でガソリンスタンドに電話を掛けて灯油を配達して貰う、あるいはもっと快適なのは、電気エアコンで設定温度を決めて「運転」のスイッチを入れれば、部屋は暖かくなるでしょう。しかし、もし薪ストーブを選択した場合には、まだ夏の間から(正確には春先から)雑木林や林業から出る整理木を手に入れ、それを切断し積み上げて乾燥させ、秋口に薪割をして軒先に積んでおく作業が必要でしょう。もちろんお金を出せば、労せずしてそれは手に入るのでしょうが、それでは灯油や石油と何ら変わりません。

結局、資源とエネルギーの消費レベルを下げるためには、不便を楽しみ、自分で出来る事は全て自分の体を動かして、それをカバーする事しか道は無いと思い定めるべきでしょう。その様に社会の仕組みを変えていけば、実は雇用も増える筈なのです。山に入って木を整理する人、それを土場まで引きだしてくる人、それを需要家まで運ぶ人、薪割は自分でするとして、薪を燃やすストーブやオーブンやボイラを作る人、それを売って設置する人、折々の掃除や修理をする人などなど、工場で大量生産される電化製品や灯油ストーブ等に比べると、関わる人の職業や数が格段に増えざるを得ないのです。しかも、それは人々が地域の中で行う(経済)活動になりますから、お金も地域で回す事が出来るでしょう。もっと、お金を囲い込もうとするなら、地域通貨で決済する様になれば完璧です。つまり、生活スタイルを見直して、時間を巻き戻せば、どうやらより多くの人を巻き込む社会にもなる様なのです。旅行のため2日ばかり休稿です。

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2014年6月 7日 (土)

2408 この星の行方

考えてどうなる訳でもありませんが、この星の行方を時々考えます。といっても、どんな時代になっても地球そのものが消えてしまう筈もなく、つまりは星の表面で営まれている、生き物の活動の行方という事になります。この星の表面の環境は、再々の大激変に見舞われました。それは、地球の外から飛んできて衝突した小惑星によってもたらされた灼熱地獄やその後の全球凍結等といった事件もあったでしょうし、巨大な火山の爆発によって生じた火山ガスが、成層圏を覆った事をきっかけとして生じた小氷河期もあったでしょう。しかし、これまでの歴史では例外増しに、氷河期はその後の間氷期につながり、その間氷期における温暖化は、CO2の生物固定などの巧みな循環によって、調整されてきたのでした。

さて、その際に地下深くに炭化水素として固定された炭素(化石燃料)を燃やして解放し続けている今の文明ですが、それが一体どの様な顛末で「終わる」のか、20代に「成長の限界以上」などの賢者の警告を知って以降、興味を持ちながら観察してきました。この間、石炭や石油やLNGなどの化石燃料の使用量は、一貫して、しかも幾何級数的に増え続けてきました。それは、人口の爆発的な増加と同調しているか、またはそれ以上の増加カーブを描いている様に見えます。

換気が余り良くなく、しかし気密の良い部屋に大勢の人が入れられた場合、空気中のCO2濃度は、通常の400ppm弱からあっと言う間に1000ppm程度に上昇してしまいます。人間の呼気が原因です。同様に、若い頃の記憶にあった大気中の二酸化炭素濃度は「340ppm」であると言う数字は、今やあっさりと「400ppm」に書き換えられてしまったのです。もちろん、これは農地拡大目的で樹木を大規模に伐採し、同時に発電用や輸送用や熱源用のエネルギー源として化石燃料を大量に燃やし続けたダブルパンチの結果です。その結果、起きつつある諸現象(俗に言われる温暖化や気象の激甚化など)の正確な評価は、現在が歴史にでもならない限り難しいのかも知れません。何しろ、この星の表面で起こっている、生物を含む諸現象は、何十か何百次元の連立方程式を解くようなものなので、やっと物理的な気象現象の単純モデルが、コンピュータの中で動かせる様になった、というのが人間の知恵の実力だからです。

ここまで考えても、この星の行方の入り口にも辿りつけませんが、分かっている事は少なくとも、環境の持続可能性を考えるなら、一人当たりの化石燃料の使用レベルは1950年代レベル以下まで下げなければならない事と、少なくとも人類がより長く存続しようとするなら、危ない原子力は一日も早く諦めなければならないと言う事でしょう。今の快適な生活を知ってしまった人類が、元来た道を引き返し、より不便な暮らしに戻るのは「絶望的に難しい」事も事実なのですが、しかし今それを実行しなければならない事もまた事実なのです。誰のためにやるか、それはまだ見ぬ子孫のためでしょ。

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2014年6月 6日 (金)

2407 温室トマト

秋田にUターンした知人が、温室でトマトを育てています。不思議なトマトで、同じトマトのつる(つる状に誘引するのでツルとしか呼べません)で何年も収穫できるらしいのです。一度その温室を見せて貰いましたが、あるツルを見ると根元の方には赤い実を付けている一方、その少し上には青い実があり、さらにその先には花が咲いています、花の先(生長点)は盛んに伸びようとするので、仕方なくツル全体を横に寝かせます。それによって、温室の高さに関係なく、トマト自身の好きなだけ丈を伸ばせる事になります。

栽培方法は、いわゆる液肥をしみこませた多孔質の培地で、成長の度合い液肥の濃度管理で行っている様です。一つのツルでは花から結実へ連続的につながっているため、事実上は年中収穫できる事になります。もちろん、温室の環境管理は不可欠です。日照、温度、湿度、出来ればCO2濃度などをある範囲内でコントロールする必要があるでしょう。冬季も凍らない程度には保っておく必要があるため、温室を覆うビニール膜は2重以上になっています。

とここまで書いてきて、ここ1週間以上続く異常高温の事を思い出しました。植物を正常に成長させ、食糧とするためには、それを栽培している地域の気候に適する品種を選定し、適切に施肥をし、あるいは殺虫剤を散布して育てる必要がありますが、異常気象が日常茶飯事になると、どうやら人間は、植物のためにもシェルター(家?)を準備しなければならない時代が近いのではないか、とふと想像してしまうのです。例えばコメは、熱帯のモンスーン地域から温帯の北の端である本街道南部まで栽培できる様に品種改良されましたが、猛暑日が連続する気象条件では、上手く栽培できない植物らしい事が分かってきました。もし、今後とも東南日本で栽培を続けようとすると、田んぼの気象条件を操作してやる必要があるかも知れません。例えば、強すぎる日差しを遮る寒冷紗などで、稲を守ってやる必要が生ずる可能性もあるのです。同様な事は、多くの果樹でも起こり得ます。四国でミカンが、長野でリンゴは作れなくなる日が近いかも知れないのです。品種改良に加え、農業(栽培方法)にも異常気象対策が必要な時代かもしれません。

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2014年6月 5日 (木)

2406 3枚の衝立

この国のリーダーやその取り巻きを眺めていると、せっせと3枚の衝立(目隠し)を作っている絵が浮かびます。Fクシマ原発の東側は海に面していますので、それを覆い隠すには、衝立は北、西、南の3枚あれば足りる?と考えたのでしょう。手始めに1枚目のの衝立として、彼らはある陽動作戦を始めました。故事を持ち出して、3本の矢なる政策を打ちあげ、その「景気花火」に衆目を集めました。庶民は、基本的にはミーハーですからその花火に未だ目を奪われ続けている有様です。ご丁寧にも彼らは仕掛け花火も準備しました。その呼び名はTPPとか名づけられている様です。花火は打ち上げる高度が高い程、規模が大きければ大きい程見栄えがするモノです。

次なる陽動作戦は、とある神社に参拝する事から始めました。主に2つの隣国の逆鱗をなでる目的です。そこを刺激すれば、彼らの態度が硬化する事は、これまで何度も「テスト済み」だからです。案の定それは功奏し、予てより海洋進出を狙っていたC国は、これ幸いとばかりある島の周りをうろつく頻度を、格段に増加させたのです。その対応策と称して、この国の衆目を「集団的自衛権」なる別のターゲットに集める事にもまんまと成功したのでした。成功の証拠としては、国会の論議が、野党グループの再編問題とも絡んで、この議題一色に染まっている事を挙げるだけでも十分でしょう。

もう一つの衝立は、実は隠密裏に準備されました。いわゆる、あの拉致問題に絡んででした。それは、確かに現リーダーが、前回リーダーになる前(内閣スポークスマン時代)からの課題であった事も事実です。そのため、メンツを掛けて色々なエサ(主にお金でしょうが)をチラつかせながら、陰で交渉を続けていたものと想像できます。その中間的な成果を、ショーの舞台として設定した第三国で開催した交渉で勝ち得た、とさも得意げに発表したのでした。

これら3枚の衝立は、衆目の目隠しとしては十分でしょう。事実新聞の記事面積や日々のテレビニュースのヘッドラインから、FクシマというKWはドンドン減っていったのです。その意味で、彼らの思惑は成功を納めつつあると言えるのでしょう。何しろFクシマ問題は、選挙の結果に関係のあるこの数年間に。目に見える解決の道筋を付けることなど絶対に叶わない「大問題」ですので、何時までもこれに深く関わっている訳にはいかないからです。ですから、ニュース向けには、月に1回程度はFクシマを訪問して恰好だけはつけているのでしょう。この投稿は批判を目的にしてはいません。ですから以上は単なる「分析」に過ぎません。

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2014年6月 4日 (水)

2405 GHP(温暖化効果物質)?

ここのところの高温状態は、かなり異常な気象です。そこでまたまた新語の提案です。GHGとは、温室効果ガス(Green house gas)の略ですが、GHPとは、Green house particleの略語として本投稿で提案しようとするものです。ここでParticleとは、PM2.5でもすっかりおなじみになった「(固体の)空中浮遊物質」を指します。GHGとしては、メタンやCO2などを含め6種類ほど規定されているのですが、GHPとしては、寡聞にしてまだその定義を聞いたことがありません。なぜGHPに注目したかといえば、それはここ1-2週間の異常高温がそのきっかけです。日本での異常高温に先立って、C国本土での40℃越えの異常高温が報告されていました。P京ではこの季節だと、最高気温と精々20℃前後のはずですが、それが20℃以上も高い高温が観測されたのです。これは、投稿者にアフリカ大陸で発生する熱風(シロッコ)を彷彿とさせるものでした。

ところでC国の国土の約2割弱は、タクラマカン砂漠やゴビ砂漠などからなる砂漠地帯である事はあまり知られていません。そこは、年々草木も生えない様な本物の砂漠化が進行しており、アフリカ大陸で言うサハラとあまり変わらない状態になりつつあるのです。砂漠化が固定すると、状況は悪化しこそすれ、改善は望むべくもありません。その結果が、年々悪化してきている大規模な黄砂現象です。ここ秋田でも、もう1週間以上も晴れが続いているものの、うすボンヤリした空に覆われています。さて、山に登ってみると黄砂は1500mを超えると殆ど見られなくなる事が分かります。つまり、この現象は比較的低高度の現象だと言え、その点では大規模な火山活動の結果排出される火山ガスとは性質を異にしてしています。火山ガスは多くの場合日射を遮り、冷涼な気候をもたらしますが、どうやら砂漠起源の黄砂は逆の現象を引き起こす様なのです。

さて、青空駐車していた投稿者の車の屋根には真っ白になるほど黄砂が積もっています。ホウキで掃けば、1㎡当たりでは茶さじ1杯くらいは集められそうです。仮に、それを少なめで0.05g/㎡と見積ると、日本全体に降り積もった筈の黄砂の量はなんと18,000トンにも上る計算になります。一方、地上に降る積もらないまま浮遊し、やがて海上に吹きとばされてしまう黄砂の量はその数倍に上るでしょう。砂漠の熱気を巻き上げ、固体である多量の黄砂に抱え込まれた熱量は、かなりの程度エネルギーを維持したまま、さながら巨大な熱球となって日本の上空に移動したと考えられます。GHGによる温暖化の効果は精々数℃でしょうが、短期的とはいえGHPによる温暖化の影響は20℃にも上った訳です。ただし断っておきますが、あくまでもこれは投稿者の仮説ですので念のため。

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2014年6月 3日 (火)

2404 産業ではない「生業」

ここでの話題は農業の話です。学校の社会科で習った分類では、どうやら社会で営まれている仕事は大きく3つに分けられ、それぞれ1次、2次、3次産業と呼ばれるのだそうです。農林水産業や鉱業等原料を作ったり、採掘する仕事を取り敢えずは、他の産業の始まり(Primary)なので1次産業と呼ぶことにした様です。それを加工したり、他の製品に姿を変える産業を2次産業、それを売ったり買ったり、サービスを売り物にする産業は3次産業と呼ばれる事になりました。

TPPなどと呼ばれる貿易交渉では、なんと不条理な事にこの3つを同じ俎板の上に並べて、切り刻んで取引をしているのです。食べ物と工業製品のどちらが不可欠で大切か、と問われれば、飽食のこの国の現代社会では、より多くの雇用を生む工業製品だ、い言ってはばからない輩がかなりの割合で居る様なのです。お役所で言えばK産省などの方向に多く住んでいる様ですが・・・。しかし、考えてみなければならないのは、これも何度か書いたような気がしますが、金属屋プラスチックでできた工業製品ではお腹は満たせないのです。寒さで凍えても、それを燃やしてもクサガスが出るだけか、あるいはそもそも燃やせない事も多いのです。

繰り返しますが、人間にとって一番大切行動は「食」得ること以外にありません。農林水産業は、その食材を得るための最重要の仕事なのです。日本語では、日々暮らしていくためにする仕事は産業とは呼ばず、生業(なりわい)と呼んで、その他の仕事と区別しています。農林水産業はまた自然の恵みである土地や水や海と不可分である事も重要な点です。よその国の農地で作った農産物は、確かにお金を出せば売ってはくれますが、自国が不作や飢饉になった場合には、山ほどお金を積んでも分けては貰えないでしょう。国内に耕作放棄地を増やしながら、工業製品の人質として農作物を差し出すなど、もはや何をかいわんやでしょう。政治を職業とする人々は、もはや票田としてはマイノリティとなってしまった1次産業を切り捨て始めた、と見るしかないのでしょう。

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2014年6月 2日 (月)

2403 省エネ住宅

某社の高気密、高断熱住宅を詳細に観察する機会がありました。それはペレットストーブメーカーの燃焼試験に立ち会ったタイミングでした。FF(強制給排気)のペレットストーブは、確かに室内の空気を使って燃焼させる事はありませんが、ストーブじ本体が完全に気密になっている訳ではないので、気密の高い住宅で、もし室内が負圧の状態にあると、排気ファンが十分に働かず、燃焼空気が不足気味になり燃焼が不安定になり、時には燃料タンク側に空気が引かれて、逆火する危険性も生じます。高気密、高断熱住宅では、室内への結露などの不具合が生じない様に24時間換気が標準なので、台所や浴室の換気装置と相まって、室内がかなりの程度の負圧(例えば数ミリ~十数ミリPa)に保たれる可能性があるのです。

しかし、負圧に保たれると言う事は、隙間風が殆ど生じないと言う意味でもあります。隙間風がなく(高気密)、壁や屋根からの熱貫流が少ない(高断熱)住宅は、まさに建物の理想だと言えるでしょう。エネルギーをあまり使わなくても冬暖かく、夏涼しく過ごせるからです。問題は、暖房に火を使う場合なのです。ストーブ本体が完全に気密を保っていて、FF型であれば、何も問題は無いのでしょうが、構造が複雑になり過ぎて高価にもなります。またメンテナンスのためにストーブの扉を開けた時に、室内に多少の灰が出てくるでしょう。もし、そうでない場合には石油ストーブであれ、薪やペレットストーブであれ、その採用には慎重であるべきです。

それを回避する方法は、やはりヨーロッパで行われている様に、室外で薪ボイラやベレットボイラを焚いて、十分な量のて貯湯した上で、床暖房や温水ヒーターによって暖房を行う方法がベストな選択になるでしょう。その結果、風呂などの給湯にも使えるため、住宅設備がシンプルになります。問題は、この国の住宅は十分な敷地面積を準備しない事ですが、田舎であればそれも問題にはならないでしょう。エネルギーの消費を抑える根本的は対策は、民生用では省エネ住宅を増やすことしかないのです。

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2014年6月 1日 (日)

2402 黄砂と熱波

黄砂と熱波が同時に襲来しています。北京などでの異常な高温と国内の5月の猛暑日を横目に眺めれば、黄砂現象に何か関連があるのではと疑いたくなります。黄砂は、樹木や草が殆ど無くなった中国西北部の砂漠や黄土高原を発生源とした大規模な砂嵐が発生源ですが、その規模は年々大きくなる傾向にある様です。その大元の原因の一つには、間違いなく家畜の過放牧があるでしょう。過放牧によって、家畜が草の根まで食いつくし、完全砂漠化を加速していると思われます。砂を抑える灌木や草が消えると、砂嵐塵が起き易くなるからです。

それに加えて、大規模化・激甚化傾向の原因としては、気候自体の変動が考えらえます。つまり、偏西風の蛇行や風速の変化が、中央アジアの砂漠や黄土高原での大規模な砂塵の激甚化を加速している可能性が考えられるのです。春先に日射が強くなり始め、そこに向かってルートの緯度が高くなり始めた偏西風が、中央アジアの高山地帯で巻き起こす渦(カルマン渦)が吹き込むと、強力な上昇気流が生じ、多量の砂を巻き上げます。それが偏西風に乗って中国国内や海を越えて日本まで届くのです。その規模が大きくなっている事は、日射強度が上がっているか偏西風が強まっているのか、またはその両方が起こっているかも知れません。

舞い上がった黄砂が下降する地域においては当然の事ながら下降気流が生じ、高気圧の帯(つまりは黄砂と熱波の渡り廊下)が生ずる事にもなります。結果としては、その帯の中では、乾燥し日射強度が高い日々が連続する事につながり、異常な高温をもたらすのでしょう。不運な事に、地図で見ると中央アジアの砂漠地帯や黄土高原の緯度はほぼ同じなのです。その地域の気温を世界気象のサイトで見ると、今の季節は真っ赤(高温)になっている事が分かります。この地域を偏西風が通過し続けるこれからの季節、この地域からの高温と、欲しくないプレセントである黄砂や{砂漠地帯での核実験の結果である}放射能を帯びたPMも送り込まれ続けるのでしょう。

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