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2014年8月30日 (土)

2480 エネルギーハーベスティング2

全然書き足りないので続きです。種々の廃熱と、太陽熱を組み合わせて、例えば80℃程度のお湯が得られたとすれば、これを単に手洗いや入浴だけで使ってしまうのは勿体ない話です。この熱源を使えば、実は冷房も可能なのです。「デシカント冷房」という仕組みを実用化させれば、デシカント(除湿剤のことです)を再生するのにこの温水を利用すれば良いのです。再生されたデシカントは、再び除湿能力を回復し、室内の湿度をドンドン下げてくれる事でしょう。必要により加湿器を使って水分を補ってやれば、水が蒸発する際に室温も下げてくれるでしょう。デシカントは、ローターの様な形にして、回転させながら連続的に除湿・再生を繰り返します。

化学的エネルギーと言っても、ややこしい化学反応の反応熱を使用しなればならないというものでもありません。例えば、モノを燃やす燃焼も、「酸化反応」という立派でありふれた化学反応なのです。現在実用化されている燃焼機器の多くでは、実は排気ガスのO2濃度をしっかりと制御している訳でもありません。なので、黒い煙を出さないためには、しかたがないので酸素(空気)を多めに送っている筈なのです。もし、しっかりとO2(空燃比)制御を行った場合、間違いなく燃焼ガスの温度は上昇し、熱効率はかなり改善される筈なのです。当然の事ながら、廃熱の温度(煙突や排気管から捨てられるガスの温度)も高くなるので、熱の再利用もし易くなるでしょう。先ほどの例で、80℃程度の温度のお湯に変えられるなら、給湯(暖房)や冷房目的に熱リサイクルも可能になるでしょう。これは燃焼という化学反応の最適化とも言える工夫です。

濃度差発電という技術もやはり化学的エネルギーの利用と言えます。海水(海)と淡水(川など)の塩分濃度差と浸透膜を利用して、水に位置エネルギーの差を作り、その落差で発電を行おうとするもので、膜の清浄度を維持できるなら、低いコストでの水力発電が出来る可能性を持ってる技術です。なにしろダムの建設が不要なのですから。

この他のエネハベの可能性としては、例えば農業残渣や食品工業における残渣をメタン発酵させて、消化ガスを得る方法なども有望でしょう。というのも、現状でも自然界の中で残渣は微生物により分解されて、メタンやCO2や窒素ガスなどを大気中に放出している訳で、その前にエネルギーとして「カスケード利用」してやる事により、環境負荷には何ら影響を与えずにエネルギーの収穫(ハーベスティング)が可能となるのです。本日から小旅行のため、数日間休稿です。

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2014年8月29日 (金)

2479 エネルギーハーベスティング

エネルギーハーベスティング(以下エネハベと省略)という言葉があります。一般的には、微小なエネルギー源をかき集めて、限定的ながら身近なエネルギー需要の一端を賄おうとする行動だと言えます。しかしながら、その多くが小型太陽光発電や熱電素子などに偏り過ぎている事に違和感をおぼえます。つまり、エネハベの分野でもエネルギーの「電力依存体質」は変らないのです。手の込んだ手段で、小さな電力をかき集めたとしても、スマホやパソコンの電力を賄うのが関の山でしょう。

そうではなくて、「エネルギー」の枠をグンと広げて見回せば、使われていないエネルギー源は、掃いて捨てるほど見つかる筈なのです。エネルギーには、電気エネルギーの他、力学的なエネルギー、化学エネルギー、熱エネルギーなどがあり、電力や液体(気体)の化石エネルギーに比べて使いにくいという理由だけで、殆ど無視されているのが現状です。例えば力学的なエネルギーです。世の中には、随所に動いているものを止める(制動する)という必要性が転がっています。車や電車に限らず、エレベータやマテハン機器(クレーンなど)など兎に角「ブレーキ」という名前の付く装置が組み込まれているもの全てに着目すれば、その制動時にエネルギーが回収できる筈です、すでに電車では回生ブレーキが実用化されていますし、車でもハイブリッド車ではすでに常識です。しかし、エネルギーを電気的に改修するだけが能ではありません。固定的な設備などで、重量が問題にならない場合は、フライホイール(はずみ車)にエネルギーを蓄えておくと言う方法もあるでしょう。

熱エネルギーに至っては、殆ど無視されていると言っても過言ではありません。例えば、50-60℃もありそうな、エアコン室外機からの廃熱は、徒に大気中に捨てられるだけです。もしこれを水と熱交換して貯めておけば、夕方には結構な量のお湯が出来る事でしょう。大気中に熱を捨てるのに比べれば、2000倍も密度の高い水と熱交換する方が、熱交換の効率は高く、室外機だってずっと小型に出来る筈です。当然の事ながら、冷房が必要な日は太陽光も元気な訳で、これも最大限りようするのは当然です。続きます。

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2014年8月28日 (木)

2478 変えてはいけないもの

私たちは、実は変えてはいけないものを変え過ぎたのかも知れません。産業革命以降、この国においてはとりわけ戦後、多くのものが劇的に変りました。高度成長期においては、「変化即ち善」であるとの風潮が支配的でした。農林業にベースをおいた田舎の生活スタイル、基本は大家族制であった家族のあり方、どこの国に特有の風景とそれに沿った文化、昔ながら伝承されてきた伝統工芸、その地域・土壌にマッチした農作物や樹木、鉄道にベースをおいた交通・物流システム、島国ならではの造船・海運ビジネスという幹、小技の効いたモノづくりの伝統などなど。

これらを捨て去り、いわゆる欧米(特にB国)から移入した、大量生産・大量輸送・大量消費・大量廃棄システムは、この国に馴染まない事は、戦後の50年で証明されてしまった筈です。馴染まない証拠集めには苦労はしません。多くの地域で起こった公害案件、未だに解決できないゴミ処理問題、放射性廃棄物の処理場、外需依存体質から脱却できない第企業群の体質、それに諂い改善も無く従って堂々巡りのマツリゴト、電力=化石燃料から脱却できないエネルギー依存体質、今日出せば明日配達される「便利過ぎる」物流システム、エアコンと呼ばれる「行き過ぎた」室内の人工環境制御、それらの結果として生じた(らしい)心の病を持つ人びとの急増などなど。

農地や地下資源に恵まれない無いこの国で、ご先祖様たちが営々と努力した結果としての伝統的暮らしが、戦後の僅か50年で、殆ど跡形も無く消し去られようとしている現状を見るにつけ、大きなため息しか出ないのです。私たちは、少しで良いので、昔ながらの暮らしを思い出し、それにいくらかでも回帰する事をいま始めるべきだと思うのです。何故なら、それがこの国で今後も永く持続可能に暮らす「実績のある」方法だからです。

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2014年8月27日 (水)

2477 物質の移動

最近物質の移動が気にかかります。というのも、多くの変化が物質の移動によって支配されているからでもあります。例えば地形は、火山活動によって湧き出した溶岩流によるもの、あるいは山塊が風化によって崩落し続けて、谷が穿たれ、沖積平野が出来るなどの変化を受ける訳です。地形の風化を引き起こすのは、水の移動(循環)が主な原因である事は自明です。

さて人間社会です。私たちの社会では、文明が進んでいると言われる国や地域ほど、モノを多く移動させている筈です。食糧は、より規模の大きな生産地でまとめて効率よく作り、それを大量に輸送して流通させるのです。工場での生産もしかりです。大量に生産する程単価が下がると言う「原理」を信じ込んでいる私たちは、一貫して工場の規模を拡大し、それを流通させるための高速大量輸送システムを磨いてきたのでした。

しかし、考えてみなければならないのは、モノを移動すればするほど、元あった環境は破壊され、崩れていく訳です。地面を掘って鉱物や化石燃料を掘り出し、地上に「移動」させる事によって、私たちの生活が支えられていますが、しかし地底には鉱物を掘り出した空洞が残され、あるいは石油が無くなった空洞には海水が送り込まれたりするのでしょう。

以前にも書いたような気がしますが、あらゆる生き物の中で人間ほどモノを運び、移動し続ける動物では存在しないと思うのです。確かに、ある種の海鳥は、海に潜って魚を取り、地上に持ち帰って糞を出し、それが長い時間の経過で巨大なチリ硝石(グアノ)の層を残したりした例はありますが、それは気の遠くなる様な時間を掛けた移動です。そのグアノを、人間はと言えばアッと言う間に、爆弾の材料などとして掘り尽くしてしまう訳です。

戦争も、人間同士が肉弾戦を繰り広げていた昔はさておき、近代戦争ではモノの移動(ロジスティクス)無しには一日として持続できないでしょう。飛行機やヘリコプターは、そのためにこそ現在のレベルまで進歩した筈なのです。他の輸送手段である船や鉄道や車も然りでしょう。しかし、本当に今の状態を続けて行っても良いのでしょうか。大量に運ぶには大量のエネルギーが必要ですし、運び続けるほど環境は劣化し続けるでしょう。最近頻繁に考え込んでしまうのは、どうしたらこの状態にブレーキが掛けられるか、という事です。

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2014年8月26日 (火)

2476 リノベーション(renovation)

似たような言葉にイノベーション(innovation)があります。辞書の定義でも意味合いが重なる部分も多いのですが、投稿者の中では明確に分けて考えています。イノベーションは、これまで無かった全く新しいものを生み出す、という程の意味ですが、一方でリノベーションは、本来あるべき姿に回帰する意味を含むと思うのです。イノベーションは、時にそれまでの概念や仕組みをひっくり返す場合もありますから、それが起こす結果、特に悪い結果については、予測できない事も多いのです。

具体的な例を挙げてみましょう。化学者が、全く新しい化合物を合成出来たとしましょう。その物質は、油の様な液体で、絶縁性で、熱を伝えたり、蓄えたりする能力も持っていましたので、電力業界で多用されるトランスの絶縁油やプラントで使われる熱媒体としては理想的なものでした。しかも、この物質は熱的、化学的に安定で、簡単には分解されないと言う性質も併せっていたのです。この物質の名称は、化学式に従ってポリ塩化ビフェニールと命名されました。この名称よりは「PCB」という略称の方が良く知られているかも知れません。しかし、残念ながら、化学者やそれを利用する立場の技術者は、その物質が環境や生物に及ぼす「負」の影響に関しては、無知ゆえに無視(あるいは軽視)してしまったのです。化学者は、間違いなく生物学者ではなかったからです。

それが、変圧トランスの廃棄などにより環境に放出されてしまった時の生物に対する強力な毒性や、事故で食用油中に混入してしまった時の、急性でしかも重篤な中毒症状(Kネミ油症事件)については、古い人間には強く記憶されているでしょう。今回の投稿の文脈で言えば、PCBを合成した化学者はイノベータで、その成果はイノベーションではあったでしょうが、その環境への影響への配慮が大きく欠けていました。もし別の人が、PCBを完全に分解して、無毒にする装置を作り上げたとすれば、それこそがリノベーションだと思うのです。今私たちに必要なものは、実は環境を元に戻すためのリノベーション力だと見ています。

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2014年8月25日 (月)

2475 体内と環境(廃棄物とは)

人間に限らず、生き物は自分の体内と環境を明確に分けて暮らしています。単細胞の生物でさえ、細胞膜によって体内と外の環境を仕切っています。体内から外に出すものは、基本的にはその生物にとっては不要なモノで、それは廃棄物となります。しかし、人間は、更に神経質に内と外を分けて考える動物のようです。口から肛門まで連続する消化器官は、よくよく考えてみれば「外」なのですが、私たちは唇と肛門の間は「内」と見做して生きているのです。その証拠には、誰も口の中の唾を汚いとは思わないでしょうし、大腸に留まっている限りにおいては、それは消化された食べ物のなれの果てではありますが、まだ「便」にはなり切ってはいません。トイレで排出された瞬間に、同じ物体の名称が変わるのです。

それが、体を離れた瞬間に不要なものであり、汚く忌むべきであると言う感覚は、清潔志向が高まり、ゴミ収集システムや下水道の整備に至って、極限まで研ぎ澄まされる事になってしまいました。投稿者がまだ子供の頃、各家庭から出る残飯は、豚のエサでした。近所の養豚農家が集めて回るって、それを大鍋で煮込んで豚にやると、豚は先を争う様にそれを食べるのでした。豚舎の敷き藁には、彼らのし尿が浸みこみ、濡れてくると掻き出して、堆肥塚に積み上げられたものです。近所の農家や家庭菜園を作っていた家々は、それを分けて貰って、自分の畑に入れて、美味しい野菜を作っていました。

もし、日々出している生ゴミやその他のゴミを、自分の家の敷地内かベランダで処理せざるを得なくなった場合、私たちは仕方なくゴミを減らす努力始めるでしょう。少なくとも、最後はゴミになってしまう、ゴツイ容器に詰められた食品などは避ける様になる筈です。そうしなければ、家や部屋は「ゴミ屋敷」になってしまうからです。野菜は、バラ売りのものを買うでしょうし、過剰包装の日用品も買わないでしょう。生ゴミは、庭ある家ではコンポストをおいて、微生物に食って貰うしかないでしょうし、プラスチックにせよ紙にせよ、きれいに分別してリサイクル業者に引き取ってもらうしかないでしょう。結局、自治体によるゴミ収集・処理や下水道の整備こそが、実は廃棄物の量を飛躍的に増やしてしまった、というパラドックスが成り立つのです。それらのシステムは、廃棄物を隠してしまう事によって、出した人々に、工夫すれば資源としてリサイクルできるモノまでも、廃棄物として忌避し、安易にゴミ箱に捨てる行動を植え付けてしまったと言えるでしょう。最後に紹介しておきたいドイツの優れた標語があります。それは、「廃棄物とは、間違った場所(=ゴミ捨て場)に置かれた貴重な資源の事である」というものです。

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2014年8月24日 (日)

2474 環世界

哲学者のK分功一郎が紹介していた「環世界」の考え方が目から鱗でした。紹介していた例は、ダニという生き物で、彼らは臭いと温度のセンサーしか持たず、しかしそれだけで周囲の環境を把握し、寄生すべき動物の接近を知る事が可能であると言うものです。つまり、人間は五感を持ちますが、ダニは二官で生きていると言う事になります。元々、原始的な生物は多分「触感」だけで生きていたのでしょうが、生存の可能性を広げるために、明かりを感知する細胞や、温度を感知する仕組みなど進化の過程で獲得し、現在の様な高等生物(戦争ばっかり繰り返していて何が高等なのかは分かりませんが)へと進化し続けてきたのでしょう。その生き物が、感知し認識している周りの環境を生物学者や哲学者は「環世界」と呼ぶのだそうです。

同じK分の話の中で、人間の個々人でも実は環世界が異なるとも言っていました。同じ様な精度の五感を持っていたとしても、それを統合し、認識し、判断する器官として脳の訓練(広い意味での教育でしょうか)の程度によって、環境を把握する力がおおいに違ってくると言う事でしょう。思い出した例では、新生児は生まれた季節によって、汗腺の数が決まってしまうと言う事実があります。これは、生まれた時のタイミングによって、夏に強い(汗をかくのが上手く体温調節ができ易い)人とそうでない人に分かれるのです。後天的な教育でも、例えば音楽教育を受けた人とそうでない人では、例えば虫や小鳥の鳴き声の中に「歌」や「リズム」を感ずる事が出来るか否の差が出てくるはずです。

さて、このブログのメインテーマである「環境」に引き戻して、この事を考えてみます。私たちが、安易に環境と呼んでいる周囲の世界も、やはり人種や人によって大いに異なって見えていると想像できます。例えば、コンクリートジャングルに住む人にとって環境の中にある「自然」とは、多分近くの公園のささやかな緑や、たまに出かけるキャンプ場の景色程度かも知れません。しかし、田舎に住む人間にとって、田畑以外とそれを取り囲む里山や人工林以外は自然であると見ていると想像できます。従って、同じ環境保全という文言を受け取っても、実際に起こすそれぞれの行動は全く違ってくるはずなのです。続きます。

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2014年8月23日 (土)

2473 非電力エネルギー

エネルギーには、熱、電気、化学、力学的など多くの形態があるにも関わらず、今や人々の話題に上るのは、化石エネルギー(=燃料の酸化による化学エネルギーで結局は熱になります)とそれを使って起こした電気エネルギーに限定されていると言っても過言ではないでしょう。しかし、一番重要なエネルギーの形態は、実は「熱」なのです。熱を利用して人々は暖を取り、あるいは食物に火を(熱を)通して調理し、あるいは必要によって、エンジンやタービンを使って力学的なエネルギーに変えたり、更にそれによって発電機を回して電力を生み出したりもしています。エネルギー=電力の構図が出来上がってしまったのは、戦後一貫して進められた国の産業政策とそれに乗っかった電力会社と電機産業の陰謀だと言うしかありません。もちろん、重厚長大産業や建設業も相乗りし、発電所や送変電網の建設など電力インフラ建設にまい進したのでした。

さて熱エネルギーを得るのに最も簡単な方法は、化石燃料やバイオマスを燃やして(酸化して)酸化反応熱を発生させる事ですが、もう一つの現実的な選択肢としては、太陽熱の直接利用という方法もあるでしょう。便利で使い易いという点から言えば、化石エネルギー>バイオマス>太陽熱などとなるのでしょうか。化石エネルギーは、石炭以外は気体や液体の状態ですから、輸送も使用時の燃焼にも便利ではあります。しかし、バイオマスは、例えば木質燃料の場合、伐採や製材、あるいはチップ化やペレット化という中間工程が必要ですし、燃焼時も化石燃料よりかなり応答性も悪いので、細かい制御も出来にくいでしょう。太陽熱に至っては、陽が照っていない日や夜間には全く得られないため、かなり大きな熱貯留槽が必要になるでしょう。

しかし、考えてみれば欠点は裏返せば利点にもなり得るでしょう。木材は、計画的に植林や伐採を行えば、毎年安定した量のバイオマスを手に入れる事が出来るエネルギー源でもあります。一方、太陽熱はしっかり温水や熱媒体に貯留しさえしておけば、低いが安定した温度の熱源となり得るでしょう。変えるべきは「便利」の定義であり、便利への依存症でしょう。その上で、発想をひっくり返すのです。今不便と呼ばれているものは、実はそれを利用するのに掛かる手間を楽しめば良いのです。

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2014年8月22日 (金)

2472 ゲリラ豪雨考2

広島のゲリラ豪雨が、対岸の火事だと思っていたら、今住んでいる街中を流れる川の支流が、集中豪雨で水嵩が増し、あっという間に堤防を越えて田畑や国道が冠水してしまいました。昨日の午前中は庄内の企業に出かける用事があったので、車で70㎞ほど南下しましたが、その途中はワイパーが効かない位の豪雨に見舞われました。丁度秋田と山形の県境付近で、多分雨雲の列が鳥海山にぶつかっていた時間帯だったのでしょう。しかし、庄内平野に入ってしばらくすると空が明るくなり、なんと陽も差してきたのでした。つまり、この時の集中豪雨をもたらした雨雲の幅は、多分20-30㎞位でしかなかったと想像できます。しかし、その雨雲は帯状に連なっていて、それが同じ地域に数時間にわたって流れ込み続けるのです。

さて、低気圧が何物であるかを考えてみると、実は赤道付近の高温帯に太陽から降り注いだ熱エネルギーを、低温の極地方に運ぶ、ベルトコンベアーの様な存在だと言えます。つまり、低緯度地域の日射は、海水温を上げ水蒸気の蒸発を活発にして、上昇気流(=低気圧)を発生させます。低気圧は、地球の自転の影響(コリオリの力)を受けて渦を巻き、更に発達を続ける訳です。それらは「熱帯低気圧」とも呼ばれますが、一部は台風と呼ばれる規模まで発達します。しかし、これらの低気圧は、やがて地表の気温差による流れに乗り北上を始めるのですが、最終的には中緯度付近を流れるジェット気流につかまり、急速に速度を増して北東に進み、最終的には低気圧の墓場と呼ばれるベーリング海付近の高緯度地域で、そのエネルギー放出して消滅します。つまり、低気圧の移動によって赤道付近からエネルギーの塊が、極地域に運ばれた事を意味します。

しかし、今年の様なパターンの気候では、ジェット気流が大きく蛇行して、日本の北側に留まっていますので、それがさながら低気圧をブロックする壁の様に作用している様なのです。その証拠としては、気圧配置がこの10日ほど殆ど変化していない事が挙げられます。従って、前述の雨雲の帯も、長い時間同じ狭い地域に流れ込み続けると言う現象が起こる訳です。この傾向は、もう少し極地方の気温が下がって、北極気団が勢いを増して、ジェット気流が南下するまで続く可能性があります。太陽が南半球に戻るのは、秋分の日以降ですから、私たちはしばらくはこの様な気象に翻弄されるのかもしれません。

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2014年8月21日 (木)

2471 ゲリラ豪雨考

ゲリラ豪雨については、以前にも書いたような気がしますが、多分数年以上前なので、改めて原因を考えてみます。さて梅雨末期の豪雨は、これまでにも繰り返されてきた訳で、特に異常な気現象だと言えないでしょう。異常なのはその時間当たりの降雨量だと言えます。今回の広島の豪雨でも、最近の水害をもたらした豪雨でも、降雨量には「これまで経験した事の無い様な」という枕詞が付けられているのです。その量は、これまでの記録的時間降雨量の2倍以上となっている場合も珍しくは無いのです。その比率は、まさに異常事態だと言うしかありません。

長く続く降雨は、南の会場からの湿気が連続的に供給される事が必要です。しかし、ゲリラ豪雨の様な集中的な降雨は、一定の条件が揃わなければ発現しないでしょう。その条件としては、南の海上からの湿気の供給量が十分である事、陸上にその湿気を降雨に変える寒気が降りてきている事、さらにはそれが地上の地形によってある地域集中する事だと言えるでしょう。この他にもありそうですが、先ずはこの3点で考えてみましょう。太平洋上には例年よりはやや貼り出しが弱い海洋性の高気圧があり、南の暖かい海から蒸発した湿気は、その周りを回って西日本に連続的に供給されていました。一方で、ジェット気流の大きな蛇行によって、大陸からの寒気が降りてきやすい条件も揃っていました。今回の広島豪雨の場合、強烈に強い雨雲は南西から北東に細長く連なって流れ込んでおり、それが被害地の谷状の地形とぴったり重なってしまった悲劇と言もえるでしょう。

しかし、もう一歩踏み込んで考えてみなければならないのは、「絶対的な湿度」だと思うのです。温暖化現象と呼ばれる気候変動は確実に進行している様に見えます。結果として、熱帯・温帯の太平洋(に限らず)の水温はますます上昇傾向です。それは、海面からの水蒸気の蒸発も活発になるのは自明で、気温に依存しない「絶対湿度(水蒸気量)」も間違いなく増加している筈なのです。従って、その様な大気が流れ込んできて、降雨をもたらす場合、その降雨量もこれまでより多くなるでしょう。その時間当たりの量がこれまでの記録の2倍にも上っていると言う事実は、今後土砂滑りや土石流の起こる可能性が、急激に大きくなった事を意味します。つまり、これまでは樹木の根などで辛うじて踏みとどまっていた斜面も、ゲリラ豪雨によって崩落してしまうと言う事を意味します。もう一度、その様な目で危険な斜面を点検しない事には、今後も悲劇は繰り返される事になりそうです。これを書いているたった今、秋田何部でもまさにゲリラ的な豪雨が降っています。

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2014年8月20日 (水)

2470 植物工場

半導体(LED)を使って、工場内で葉物野菜を作るのが流行です。とりわけ、本業がエレクトロニクスだったりする企業が熱心の様です。しかし、LEDと言えどもエネルギーは必要ですし、液肥だけで植物が必要とする養分の全てが賄えるとも思えません。つまり、外では太陽光がさんさんと降り注いでいるにも関わらず、薄暗い工場の中でエネルギーを使って、人口光で光合成を行わせる無駄を指摘したいのです。

植物は土壌に根を張る事で、土壌中の想像もできない数と種類の微生物やバクテリアと、根を通じて相互に「取引」を行っている筈なのです。つまり、光合成で得られた炭化水素をエサにして、微生物をおびき寄せ、彼らから例えば有機窒素などを得ると言う取引です。土壌を使った露地栽培では、作物には確かに虫や病気も発生するでしょう。だからこそ、植物には免疫が出来て、更に環境に適応する能力も増すはずなのです。密閉された工場で植物を栽培するのは、まるで環境が完全に制御された工場で育てられるモヤシを連想させます。モヤシは豆の中に必要な養分が全て入っていますから、栄養的には問題ありませんが、人工肥料とLEDの光だけで、人間が必要とする養分が全て入った野菜が出来るとはどうしても信じられないのです。

以前のニュースで、植物をフィルム上で育てたと報じられていましたが、事情はあまり変わりません。フィルム状に野菜を根付かせて、太陽光で育てれば、光合成は健全に行われるでしょうが、一方でやはり根から吸わせる養分は人工の液肥のままでしょう。そこには、やはり根と土壌菌との相互作用は欠けたままなのです。結論から言えば、投稿者としては、工場で作られた野菜など口にする気も起きません。野菜は清潔で、口にした時の食感さえあれば十分なのではなく、やはり、虫も好む露地ものの味や栄養価には比べるべくもないのです。

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2014年8月19日 (火)

2469 運ばない工夫2

少し昔(投稿者の若い頃=1970年代以前)を思い出すと、名神高速以外は高速道路網もまだ出来ておらず、したがってトラック輸送は限定的で、もっぱら鉄道(貨物)輸送が主力の時代でした。もちろん、重量当たりの輸送コストも高く、人々はなるべく不要・不急なモノは、送るのを控えていた様な気がします。

物流が制限を受けると言う事は、殆どの食糧とある程度の日用品は、各地域で調達する事を考えなければならなかったのです。東北の片田舎では、もちろん食糧は地域で生産できない砂糖や、専売だった塩、産地が限られる乾物などを除き、殆どが地域自給でした。そのため、町の中心部には市が毎日立ち、食糧や日用品が取引されました。近郷の農家は、リヤカーに野菜や夜なべで作ったカゴなどの日用品を積んできてそれを売るか、自分が必要なモノと物々交換をしていました。生まれ育った人口4万人弱の町の真ん中には、比較的大きな川が流れていましたが、その川の流域こそが、物流の範囲だった訳です。投稿者は、これを「川筋循環経済」と名付けていますが、日本の河川の平均長さは多分50㎞ほどでしょうから、山の麓から海までを考えれば、殆ど20㎞圏に入ってしまうことでしょう。

来たるべき、「なるべく運ばない時代」においても、これは一つの基準になり得るでしょう。つまり、山間地では木材(建材やバイオマス燃料となる)を切り出し、平野に開けた地域では農業で食糧を生産し、海岸部にある町では、少しばかりの工業と商業、あるいは小さな漁港でそれなりの水産物を水揚げするのです。これは、昔に少し戻っての川筋循環経済システムだと言えます。その結果、無駄な輸送が無くなり、お金は大きな部分が地域で回る事になります。輸送を減らせば、逆比例して自動的に地域経済が活発になる筈なのです。

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2014年8月18日 (月)

2468 運ばない工夫

2467では運ぶ事を前提にして、それを効率的に運ぶ方法の一つを考えてみました。しかし、モノを運ぶこと「自体」が目的である筈はありません。運ぶのは、必要に迫られての「手段」でしかないのです。つまり、食糧や産物や資源は、偏在している状態が普通なので、山地からそれを必要としている地域へ移動させる手段が必要となる訳です。

しかし、その必要度が、特に戦後拡大の一途を辿ってきた背景には、大きな理由がありました。それが都市化(都市への人口集中)の進展だったのです。都市に人口が集中した結果、都市の衣食住や人々の往来の需要を支えるために、交通網や陸海空の輸送手段が次々に拡充されていったのでした。高速道路網、新幹線を含む鉄道網、港湾や空港の整備が国富(税金です)の大きな部分を注ぎ込んで行われたのでした。

私たちは、前提を変えるべき時代に入ったと思うのです。つまりモノを、あるいは人を運ばない様にするには一体どの様な社会システムにすべきか、真面目に考えなければならない時代だとと思うのです。モノについて言えば、いわゆる地産地消しかないでしょう。物々交換という手段も考えられます。つまり、実際にはモノは動かさないで、価値だけを交換する訳です。というのも、よく調べてみると別々の地域で同じようなモノを作り(加工し)それを一度中央の市場に集めた上で、再度地域に送り返すなどというムダをしている事も多いのです。地元の産物、取り分け食糧や日用品をもう一度眺めてみる必要があるでしょう、地域外への輸送、ましてや海外に輸出するなど、まさに輸送のムダの塊だと、考え直すべきでしょう。

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2014年8月17日 (日)

2467 フリーフォール輸送

前稿で、いきなり「フリーフォール輸送」というKWを使ったので、少し説明しておきます。これはまさにジェットコースターの原理と全く同じ輸送方法と言えます。多分円筒形に近いコンテナを積んだ台車は、50-100㎞毎に作られたステーションで、高さ100m位まで引き上げられます。レールはと言えば、今の鉄道の様な形ではなく、平滑なスライド面を有する金属製の□型のものとなる筈です。車輪はありますが、通常は使われず、台車はレール面と葉空気の薄い膜で浮上していて、非常に小さい摩擦力を実現します。

最高点でフリーフォールを開始した台車+コンテナは、最初の50mほどで加速し、その後は緩い傾斜をスピードを保ちながら次のステーションに向けて下って行くのです。つまり、ステーション間の走行には一切の(あるいは殆ど)動力は必要が無いと言うシステムなのです。走行スピードが大き過ぎると空気抵抗が問題になりますから、多分時速は100㎞程度以下が適当でしょう。また100mの塔を多数建設するのも大変なので、もしかするとステーション間の距離を縮めて、50m以下に設定するのが適当かもしれません。

もちろん軌道の設置は、山地の多い国土の特徴を生かして、山の等高線に沿ったルートにするのが適当でしょう。トンネルや橋も必要となるでしょうが、コンテナ+台車の直径は数メートル程度と小さいので、建設費も道路程は掛かりません。まして、人が乗らない輸送専用であれば、かなり簡便な規格での建設も可能です。

投稿者が所属した企業では、世界に冠たる新幹線車両を作ってはいましたが、残念ながらこんな夢物語を真面目に取り上げるだけの余裕は持ち合わせてはいませんでした。従って、今後もしばらくは非効率なトラック輸送(+フェリー輸送)と、効率はソコソコ良いがあまり活用されていない鉄道コンテナ輸送の時代は続くのでしょう。

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2014年8月16日 (土)

2466 Look west2

西洋のモノマネだけをして、その後ろを追いかけていれば良いと主張している訳ではありません。例えば、産業用ロボットの嚆矢はBU社のスカラーロボット的なシロモノでした。それを、多関節ロボットに改良してその自由度を飛躍的に上昇させたのは、実はこの国の技術者の手柄でした。少し、筋が違うかも知れませんが、戦後デミングがこの国の技術者に植え込んだ品質管理が、その後カイゼンやカンバン方式として「昇華」させたのもやはりこの国の企業でした。

しかし、その中で足りなかったものがあったのも確かです。それは、何を作り何を改善するかではなく、何のためにそれを作るか、あるいは改善するかという理念というか哲学というか倫理とか呼ぶべきものが欠落していたような気がしてならないです。車を、基本性能を確保した上で、出来るだけ安く大量に作る事には成功しましたが、では車は何のために必要であるか、そもそもこの国の交通機関の理想はどうあるべきか、という重要な議論をすっ飛ばして、この狭い国土にアメリカ並みに「一家に数台」の車所有率を実現してしまった「愚」は、もう少し反省すべきでしょう。

そうではなくて、西欧のシステムや仕組みを参考にしながら、この国の実情に合わせて、大胆にバージョンアップする必要があると思うのです。その意味で、車産業で言えば軽自動車という「規格」は、車というカテゴリーの製品としては優れものだと言えるでしょう。同様に、Hンダから始まる二輪車の系譜も世界に誇れるものだと胸を張れるでしょう。しかし、ポスト車社会、ポスト化石エネルギー社会の公通手段に関しての議論が殆ど見られないのは悲しむべきことだと言うしかありません。資源の少なく、国土も狭く、海に囲まれているこの国の、最適の交通手段や輸送手段は何かという議論を、もっと真剣に戦わすべきでしょう。それがFCVEVやましてやPHVなどではない事は確かです。何故なら、使うべき水素の入手方法や、原発に頼らないで石油並みに安く(輸送用)電力を得るための手段が確立されてはいないからです。

まだ会社員だった時代、会社に提案したアイデアの一つですが、ジェットコースターの様に、重力を利用した将来の輸送手段を提案した事がありました。摩擦を十分に小さくした軌道と車両を使えば、100㎞程度の距離であれば、例えば100m程度までリフトで車両を持ち上げ、スロープを利用してフリーフォールで走らせる仕組みが出来る筈なのです。この国ではそのための基礎的な研究すら行われていない事は、残念というしかありません。成果の見えない宇宙ステーションやリニア新幹線に使うお金がある位なら、フリーフォール輸送の実験線を作ってみても良さそうに思うのです。そんな工夫こそが、この国が世界で尊敬されながら上手く立ち回るために必須の行動だと言えるでしょう。

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2014年8月15日 (金)

2465 Look west

2464の続きです。前回投稿の最後のKWを表題にしました。この国は、西欧(戦後はB国)に追いつき追い越せを目標に突き進んできました。経済的には、一応追いつき、一時は追い越しもしました。しかし、それは単に「経済的」な見方であって、政治を含む社会システムや暮らし方は、相変わらず古い因習に、新しいシステムを接ぎ木した、間に合わせのままで現在に至っている様な気がします。それは、大きな社会的な、あるいは政治的な問題が起こった時(システムが揺さぶられた時)に暴露されてしまうものなのです。実際の地震でも、堅固の様に見える埋立地が、液状化現象で地面が沸き返る様なものです。

例えば2011年の震災で、堅固と思われていた原発システムが、実際の地震や同時に襲来した津波で、徹底的に揺さぶられました。その結果、原発の持つ弱さが、白日の下に晒されたのでした。緊急炉心冷却装置の脆さ、何よりそれを支える筈の非常用電源のチャチさ、最後の手段としての人力での操作システムの貧弱さ、非常時にそれらを円滑に動かすための真剣なリハーサルの欠如などなど、反省点は多かった筈です。

表題でLook westと書いたのは、実はB国を除外しています。ヨーロッパには、多くの見習うべきシステムが存在していると見ています。例えば、原発を諦めて再生可能型エネルギーに急激に舵を切った、ドイツや北欧、原発は維持しながらも一早く放射性廃棄物の最終処分場を建設したフィンランド、バイオマスの利用拡大で大きな成果を上げているオーストリアや北欧諸国、前の石油危機以降粘り強く風力発電に取り組んで、世界的なシェアを獲得したスペインやデンマークなどの国々など、お手本とすべき先進例には枚挙に暇がありません。もちろん、それらをそのまま猿真似するのでは脳がありません。かつて、西欧から導入(ライセンス)した技術に更に工夫を加えて機能を上げ、あるいは品質レベルを格段に向上させた、この国ならでは「カイゼン」を織り込んで、独自の技術に育て上げるべきなのです。利益は10年後にしか出ないかも知れませんが、今始めない事には特に欧州との「水」はますます広がるばかりでしょう。利益が出るからと言って商社が比較的に値段のこなれている欧州製の風車を買ってきて、それをニョキニョキと立ち上げている秋田に住んでいると複雑な気持ちにならざるを得ません。更に続きそうです。

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2014年8月14日 (木)

2464 イベント頼みではなく

投稿再開です。さて地方自治体が考える事はと言えば、とにかく何らかのイベント、つまりはお祭りやグルメ祭りなどのイベントを打つか、お金を使ったディスティネーションキャンペーンなどで人を集める算段でしょうか。しかし、確かに一つのイベントで、例えば10万人かそれ以上の規模で、人が集まれば、それなりの経済効果もあるのでしょうが、しかしそれはホンの瞬間の出来事に過ぎません。残りの360数日は、またこれまでと同じひっそりとした日常が続くのです。

どの様な道筋で考えでも、行政も、地域に住む人たちも、意識を変えなければならない時代に入ったと思うのです。つまり、外から人(金を)集めて、地域の出超(売るモノより買うモノが多い状況)の穴埋めを狙っても、それは焼け石に数滴の水に過ぎないのです。例えば、秋田県1県だけを考えても、一般家庭の熱需要(主に暖房と給湯ですは、灯油を中心に数千億円の規模になるでしょう。一つのイベントで、例えば数億円の経済効果が出たとしても、この赤字が軽減できる筈もないでしょう。イベントを打つための準備で、億円規模で税金を使おうものなら、一体何をしているのか分からなくなってしまうでしょう。実際、長期間にわたってキャンペーンを打つディスティネーションキャンペーンなどは、かなりの額の費用が出ていく事でしょう。企業が考える、費用対効果で判断するなら、「絶対」やってはいけないキャンペーンになっている筈です。たぶん事後に経済効果だけを発表すれば事足りる、「行政事業」だから出来るのでしょう。

行うべきは、刹那的な人集め事業ではないと思うのです。地域内で生み出す価値を増やす事も必要でしょう。例えば農産物を加工して、食品として売る所まで行う6次産業化などもその手段の一つです。しかし、中央に比べて圧倒的に貧弱な工業力や人材で生み出せる価値には限界がある事もまた事実でしょう。もう一つの方向としては、地域からの「出」を制する事がありそうです。生活用品も、出来るだけ地域で生み出される伝統的な工芸品を活用する事も重要でしょうし、外から大量に購入している石油製品を代替する「地域エネルギー」を自ら生産する道も考えられます。東北で地域エネルギーと言えば、先ずは木材を中心とするバイオマスくらいしか想い当たりませんが、それで十分過ぎるとも言えるでしょう。取りあえずはバイオマス先進国のヨーロッパの国々を見倣うだけで良いのです。まさにLook west.です。続きます。

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2014年8月10日 (日)

2463 境界2

さて一方的な人間社会の自然への浸潤をどう考えれば良いのでしょう。その一つの解答としては、歴然とした境界を作るのではなく、境界をなるべくボカす工夫が挙げられます。つまりは、改変してしまった人間社会の領域の周辺部を、可能な限り自然に近い形で手入れしてやるのです。自然と人工をくっきりと区分けするのではなく、グラデーションでボカすと言う意味です。 都市を城壁で囲む「癖」のある西洋人(あるいは大陸人)とは異なり、実はこの国ではその工夫を伝統的に実行してきたのです。具体的には、村と自然との間に広がる「里山」がその代表例と言う事になります。里山は、自然の木を適度に伐採し、陽の光を林床に導きます。その結果、下草や山菜が生えて、見通しが良くなるにつれて獣もあまり人里には近づかなくなります。里山は、自然と人間界の緩衝地帯でもあり、共有地帯だとも言えるでしょう。 ところで、今は自然だと思われている山林もその約半分は人間の手が入っていますし、その中のかなりの部分は人工林でもあります。スギやヒノキの人工林は、周囲と色がはっきり違いますのですぐ認識できます。人工林は、手入れや搬出の容易さを考えて、まとまった地域に密に植林されます。しかし、それでは、自然林と人工林の間に境界が出来てしまう事になってしまいます。そうではなくて、自然林と人工林の間は、混交林とすべきだと思うのです。針葉樹と広葉雑木の混交林です。 別の例ですが、川と住宅地を隔てるのは、たった一本の細い堤防であってはならず、広い河原と葦原と河川木と草地が残っていなくてはなりません。広い河川敷は洪水を軽減させるでしょうし、葦は水を浄化しながら、小さな生き物も育むでしょう。河原は、まさに自然と人工の緩衝地帯として機能する訳です。同様の事は、海岸線に関しても指摘できるでしょう。震災に伴う津波の被害が甚大であったにしても、やはり海岸線を高い防波堤で仕切るべきではないでしょう。数百年に一度の大津波なら、人の命を救う限定的な手段を講じた上で、引き続き海岸部に住み続けると言う割り切りも必要でしょう。それが、嫌なら徐々に、標高の高い場所に移住を続ければ良いのです。いきなりこれまでの暮らしを捨てて、全村高台移転を断行するのは、やはり度が過ぎている、と100年後の子孫は呆れるかも知れません。海岸の平地か高台かではなく、その中間的な手段もあったと思うのです。復興住宅として海岸部で嵩上げされた人工地盤の上に、高層の集合住宅を作るなどの答えは無かったのでしょうか。そうすれば、それでなくとも狭いリヤス式の狭い海岸部の平地も有効活用できた事でしょう。津波は防波堤でブロックするのではく、やり過ごすのです。計画されているコンクリートの現代の長城は、利権と繋がった政治屋と土建屋の陰謀だと言うしかありません。更に続くかもしれません。 旅行のため数日間は休稿です。

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2014年8月 9日 (土)

2462 境界

Y老孟司の著述は「唯脳論」を読んで以降良く読む方だと思います。解剖学者であり、無類の昆虫採集オタクでもある氏のモノを見る観察眼には、確かなものがありますし、単なる観察に留まらず、その分析にも鋭いものがあるとも思っています。何より、長年にわたって常に社会の中心から数歩離れた(つまりは浮世離れした)立場から、人や社会を観察しており、その立ち位置が変らないため、定点観測者と一人として信頼も出来ると見ています。投稿者も、50代の後半からはその様な立場(フリーランス)にはなりましたが、如何せん浅学の上に、文才も無く、加えて観察者として暮らした日が浅く、問題を深く抉る事があまり出来ていない様な気がしています。結果としては、兎に角毎日何かについて考え、それをブログに書き加えていくしか方法が見つかっていない状況です。

氏によれば、脳や社会はいわば構造(モノ=ハードであり)、その中で営まれるココロや社会活動は機能(働き=ソフト)であると断じます。現実にはそれほど単純なものでもないのでしょうが、例えば企業とビジネス、あるいは言語における文法と意味も同様に構造と機能であるとも言えますので、自然や人間の営み言い表すには好都合の一つの真理なのでしょう。

さて氏の著述の中には、「~の壁」シリーズがありますが、ここではその壁=境界について少し考えてみます。氏は人間(バカや自分)が作る壁について書いていますが、環境屋を自認する投稿者としては、やはり自然と人間との間の境界が気になります。その昔、採集生活をしていた時代、人間は自然に包まれて暮らしていたでしょう。しかし、農耕を始めて以降、山に火を放っで焼畑をおこない、比較的平らな土地を更に真平らにして水田に作り替えたのでした。山の自然木を伐採し、自分たちの暮らしに役に立つ、真っ直ぐに成長する木を植えたのでした。その結果、人間と自然の境界はドンドン自然側に攻め込む様になり、この国の中では手つかずの自然は、標高の高い山地だけになってしまったのです。つまり、自然との境界は、人間の都合で不可逆的に拡大し続ける必然にある様なのです。何しろ、人口が増え続けているのですから、ブレーキを掛けようもありません。続きます。

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2014年8月 8日 (金)

2461 メガベンチャー?

Aベノミクスの第三の矢の目玉の一つは、なんとメガ・ベンチャーを育てることなのだとか。ベンチャー企業をいくつか税金を使って蹴飛ばし?ながら育てれば、その中からメガ級のベンチャー企業も出てくるのかも知れませんが、僅か数億円の予算でその卵を支援するとなれば、多分10-20個程度のチームに1-2千万円程度の助成金を渡してその背中を押すのが精々でしょう。今回は、それなりの専門家(コーチ)を揃えて、チームに伴走させるのだとか。伴走と言おうが、ハンズオンと呼ぼうが、成功するビジネスは成功するでしょうし、ダメなものはどう弄り回してもダメでしょう。

そもそも、メガベンチャーなどと言う「打ち出の小槌」が、1-2年で形になるなどという発想そのものに呆れるしかありません。オッと、また批判になりかけています。さて、それならどうすれば良いのかですが、先ずは国(行政)は、この国の行く末をじっくりと見定め、起こすべき産業のクラスターを特定しなければならないでしょう。例えば、エネルギー産業を考えてみましょう。化石エネルギーの資源が殆どないこの国で、無理にシェールオイルを探したり、海底のメタンハイドレートを探索したりするのは、単なる化石燃料システムの延命策に過ぎません。当然の事ながら、太陽熱や太陽光、バイオマスや風力など再生可能型エネルギーを主体とした、中長期と超長期レンジのベストミックスのシナリオ作りが不可欠でしょう。

シナリオが明確になれば、その中でプレイヤー(企業)がどう動くべきかが明確になるでしょう。そのシナリオには、大企業の果たす役割と中小企業のそれも書いておくべきでしょう。大型の洋上風車に中小企業はなかなか参加できない事は明らかでしょうし、一方、地域毎のバイオマスの活用に、大企業が手を出す事は現実的ではないでしょう。つまりは、主役級と脇役の役割分担の明確化こそが重要であるということです。1000個のベンチャーを支援して、3個のメガベンチャーを育てるのではなく、明確なシナリオの中で泳ぎ始めた多くのベンチャーが、お互いに刺激し合って、大きなクラスターを形成する事こそが、新たな産業を興す上での理想でなければなりません。一点突破のメガベンチャーではなく、面で攻めるメガクラスターこそが重要な形態でしょう。

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2014年8月 7日 (木)

2460 景気減速

Aベノミクスが息切れしかけています。心臓病の患者を最悪の事態から救う薬に「カンフル剤」がありますが、彼の経済政策(というよりもお題目)も、いわばデフレ経済へのカンフル剤だったのでしょう。しかし、薬で死にそうな人の、死にそうな症状を暫時軽減する事は出来るのでしょうが、疾患そのものを改善(治癒)する事は出来ません。それが「対症療法」の限界だからです。改善の薬効が第3の矢に含まれていれば、まだ良かったのですが、これもどうやら単なるお題目に終わりそうなのです。何より、この国が流動する国際情勢の中でどう立ち回るか、そこでどう国際貢献できるのか、結果企業や国民は何を生業として暮らしを立てていくのか、そのためにエネルギーや食糧をどう確保していくのか、これらについて50年後100年後の理想像と、そこに至るマイルストーンが全くと言って良い程刻まれていないのです。

生活習慣が乱れて病気のになった人を治療する医療産業や、体を動かさなくなった結果、動けなくなった高齢者を介護する制度やそのための雇用、介護ロボットが、次世代の産業であるなどと、間違っても叫ぶべきではないでしょう。それは後ろ向きのGDPを増やす産業だからです。(2457参照)そうではなくて、それは病気の人を減らし、歳をとっても寝たきりにならないための(前向き)の政策でなければならないのです。ましてや、一時的には景気を持ち上げるにしても五輪関連産業や、他力本願の「観光産業」などが、絶対に第3の矢の柱であってはならない筈です。

子や孫世代に残すべき理想の社会を打ち立て、そこに至る過程をステップを追って絵に描く事こそが、(社会)学者や政治家の仕事のはずです。学者は結果の批評だけを行い、政治屋が人気取りの政策を発表し、票集めに奔走する今のこの国の社会にそれが実現できる筈もありませんが・・・。断言しておきますが、対象療法のAベノミクスにこの国の体質を改善する力はありません。

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2014年8月 5日 (火)

2459 豪雨

四国の豪雨が止まりません。さながら、豪雨をもたらす雨雲が、四国に狙いをロックオンした様な状況に見えます。その大きな原因は、現在日本の上空を流れているジェット気流の状況の様に見えます。つまり、ジェット気流は、中緯度の低気圧や高気圧を東に移動させる原動力となっているからです。ジェット気流が弱ければ、低気圧や高気圧の移動スピードも遅くなり、長く日本上空に留まる原因にもなります。

現在のジェット気流は、下記URLで可視化された映像で見る事が出来ますが、その流れは北海道の北を流れている上、太平洋に出ると急速に速度が低下して、拡散しているのが分かります。

http://earth.nullschool.net/jp/#current/wind/isobaric/250hPa/orthographic=-222.69,38.78,1066

しかも、拡散した流れの一部はUターンして日本の南海上に戻っても来ているのです。さながらそれは、低気圧や高気圧がジェット気流にブロックされて動けない状態を作っているとも言えるのです。実際台風12号はその後低気圧に弱まりましたが、そのジェット気流トラップに完全に捉えられ、動けなってしまったのでした。その低気圧に向かって、太平洋高気圧の縁を回る湿った気流(湿舌)が四国に向かって流れ続けた結果、今回の長時間の豪雨につながったのです。

しかし、この気象の傾向は今年だけの特異現象ではないと見ています。北極気団の弱体化は、すでに固定化しており、結果としてのジェット気流のスピード低下や拡散傾向には歯止めは掛からない様なのです。温暖化傾向の中で北極海の海氷は、夏場には殆ど解けるため、夏場の北極海には日射により大きな熱量が蓄積されるからです。ジェット気流の流れの位置によっては、湿舌のターゲットが、九州や紀伊半島や東海地方に移動する可能性は十分にあります。川の氾濫原(又は遊水池)にまで市街地が広がり、しかもコンクリートに覆われ、豪雨災害にすっかり弱くなってしまった都市部は、今後とも今回の様な豪雨災害に見舞われる可能性が高いと覚悟(そのための準備)をしておくべきでしょう。それは、単に土嚢の準備程度ではもちろん不十分です。

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2014年8月 4日 (月)

2458 伝承断絶

長く農業の衰退を心配し何冊もの著作を残してきた、地元の大先輩から、2冊の本をいただいた。その内の一冊は、新聞のコラムなどに書いた原稿などをまとめたものであったが、その中では繰り返しご先祖が残してくれた財産の伝承が、我々世代で途切れかけている事を懸念する文章に満ち溢れていた。

例えば、農耕の知恵です。田んぼに堆肥を施しながら、家族総出で行っていたコメ作りも、化成肥料と除草剤と田植え機やトラクターによるサンデー農業になって、田んぼの土は、稲を刈って干し上げた後は、さながらグラウンドの様にカチコチになってしまいます。それでも、農業を続けている内は良いのですが、やがて農業の担い手も年老い、耕作放棄地が激増します。取り分け、機械の入りにくい山間地の棚田は悲惨で、沢の上流部では田んぼに灌木や大木が入り込み始めてもいます。里の耕作放置田では、単に放置され雑草の天下になっています。

一方生活の場では、ご先祖や恵みをもたらす自然への感謝に満ちていた、多くの年中行事が忘れ去られ、ポスターに写真になり易く客集めが出来る、見映えのする「お祭り騒ぎ」だけが残った。テーブルに目を移すと伝統的な食は捨て去られ、田舎でもスーパーマーケットで手に入る、季節外れの、添加物だらけの食品が並ぶようになりました。土葬が普通のB国では、添加物に満たされた遺体はなかなか骨にならない、とかいったまことしやかな噂がさも事実の様に聞こえてしまいます。結果として、伝統的な大家族制度は廃れ、町の人口は大きく減りながら、しかしセセコマシイ戸建ての住宅数だけは、2倍くらいに増えたのでした。一家に4-5人は生まれた子供が、核家族の元では1-2人しか作らず、田舎の人口減少に歯止めは全く掛からないのです。

上記の様な著者の懸念は、1980年代頃から特に強まるのですが、その懸念はまさに伝統や伝承の断絶から生じていると力説します。確かに、1960年代の高度成長期には農業の担い手は、都市の工場やそれを支えるサービス業に吸い取られ、仕方なく田舎に残った家継ぎも、季節ごとに出稼ぎに出てしまいました。村祭りや伝統的な行事は年々廃れ、村の衰退は加速に任せるしかなかったのでした。著者の主張は、我々(戦後世代)で伝承を途切れさせてはならない、そうしない責任がある、と結んでいます。痛く納得。

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2014年8月 3日 (日)

2457 負のGDP

政治屋や経済学者は、口を開けば景況指数とかGDPの増減など、いわゆる経済指標を振り回します。しかし、考えてみなければならないのは、彼らが対象とする経済には「負のGDP」も含まれると言う点です。ここで言う負のGDPとは、いわゆる社会活動にとっては後ろ向き(マイナス)の指標を指します。例えば、病気の人は社会活動が出来なくなって、しかたがないので病院に出かけたり、入院したりしますが、医療は立派にGDPのかなり大きな部分を占めている「産業」でもあります。また、例えば保険業を考えてみると、事故や火災が起こり、または病気やケガで働けなくなった場合に補償する仕組みですが、これも後ろ向きの産業の様に見えます。即ち、これらの産業は、人々が不健康になればなるほど、事故や災害が多発し、人々が不安に陥るほど栄えて、GDPを押し上げる本質を持っているのです。

その意味では、GDPは本来プラスのものとマイナスのそれと、分けて考えるべきものだと思うのです。プラスのものが増えるのは好ましい事かも知れませんが、一方でマイナスのGDPは、むしろ減る方が社会にとっては幸福である筈です。医療産業がドンドン縮小し、代わって保健産業が拡大し続ければ、社会から病人(あるいは半健康人)が大幅に減る事でしょう。保険業の替わりに、交通事故や火災を未然に防止し、災害や震災の際の減災技術が磨かれれば、保険料は安くなり、実際に保険金が支払われる額も減るでしょう。保険業が縮小させ、インフラ健全維持業(適当な名前がありませんので仮の名前です)を拡大させれば良いのです。

プラスのGDPを増やす新産業は、このブログでもこれまでにいくつか取り上げてきましたが、今後はもう少し考えて増やしてみたいと思っています。続きます。

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2014年8月 2日 (土)

2456 小さな地域経済

グローバル規模では人口増が止まりませんが、他方この国では特に地方の人口減に歯止めが掛かっていません。しかし、考えてみればこの国が、国内の資源や食糧だけで養える人口は3000万人程度と言われていますので、人口減が必ずしも悪だとは言えないでしょう。むしろ問題なのは、都市への人口の集中と考えるべきなのです。そもそも、自然も、農地も殆どない、コンクリートに囲まれた都市部に、人は何故群れて暮らすのでしょうか。時々、東京などの街中に立って周りを眺める時、やはりここは長く人が住み、暮らす場所ではないな、とため息が出ます。

都市に住む人々は、田舎には雇用が無いなどと嘆きながら、それなりのサラリーを得ながら、しかし狭い住宅に住み、高い物価に苦しみながら、低い生活レベルに甘んじている人も多いのではないかと想像しています。問題は、田舎に雇用が無い事を嘆くのではなく、ではどうしたら雇用(生業)が増えるのかを考えようとしない事です。確かに、大企業や輸出企業の下請けをしようと考えるなら、地の利が悪い田舎はロジスティック上も不利で、給料でも下て単価を下げない限りは仕事がもらえないでしょう。その一方で、多くの(多分殆どの)田舎では、経済的には大きな出超になっている筈なのです。つまり、地域から物品やサービスを購入する額が、産出し地域外に送り出す額を大きく上回っているのです。言葉を替えれば「消費地域や消費県」と呼んでも良いでしょう。とりわけ北国では、出の大きな部分を車などの工業製品やその燃料と電力の購入、さらには暖房・給湯に要するエネルギーの消費が占めている筈です。

ならば、工業製品を地域で作ることは難しいにして、エネルギーについては地域内のエネルギー源を活用する事によりいくらかでも賄えば、それは即ち地域内で回る経済システムという事になるでしょう。山から木を運びだし、それを薪やチップなどの燃料に加工して売る、あるいは余っている木材の端材をペレットにして売る、さらには休耕田で菜種を育ててSVO燃料とする等、やるべき事は多いと思うのです、さらに言えばバイオマスの燃焼機器(ストーブや小型ボイラ)は、その製造には技術的な困難はないので、中小の製造業にも十分手が出せる領域です。燃料を売る商売、燃焼機器を設置、メンテナンスする仕事、さらに言えば、山から木を降ろすため使う機械の製造(実際にはありふれた建設機械の改造です)なども、中小の鉄工所や車の整備工場で十分こなせる生業となり得るでしょう。それは夢物語ではなく、南ドイツやオーストリアの山間地域でいくつも実例が見つかる「小さな地域経済システム」なのです。

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2014年8月 1日 (金)

2455 タイムライン

タイムラインという言葉はFBで知りました。しかし、今やこの言葉は災害時に、国や自治体が危機に対応するために、時系列に沿って誰が、どのタイミングで、どう行動するかを予め定めておくタイムテーブルを指す事も多くなりました。とは言いながら、この環境ブログではこの「タイムライン」という言葉をもっと長期的な視点で使う事を提案しておきたいと思います。

長期的な視点というのは、例えば人の一生、または世代交代が3回ほど繰り返される期間を指す事にします。このタイムスケールから見ると、時間的には、殆ど一瞬に到来する津波や台風や集中豪雨といった災害に備える場合、災害襲来をゼロアワーとして、そこから遡って順番に人々が行動すべきアクションを並べていく事になりますが、一方ここで言う長期のタイムラインでは、災害やリスクのタイミングがそんなにピンポイントでは定まる訳ではありません。そこで、例えば30年後や50年後に予想される危機をいくつかタイムライン上に並べておき、それらに対処するためにすべき行動を必要な行動タイムを考慮した上で、タイムライン上に置いて行く事にします。

例えば、石油が実質的に枯渇する時期をタイムライン上に置いたとすれば、エネルギーインフラの更新には、ざっと数十年は掛かるはずなので、そこから少なくとも30-40年前位には、何らかの行動を起こす必要があると言う事になります。しかも、石油が一気に枯渇する訳でもないでしょうから、先ずは石油製品の品薄による価格高騰という現象が先行する筈です。従って、タイムライン上には、石油価格として重要な意味のあるエポック、例えばガソリン価格の200円越えとか、いくつかの危機ポイントをプロットすべきでしょう。つまり、ガソリン価格が200円を超えた時に、私たちが取るべき行動をいくつか書き記しておく必要があると言う事です。

そんなものが無かった1970年代には、私たちは石油価格が一気に倍になったり、需給がひっ迫したりして、結局はオイルショックという不必要なパニック状態に陥ったのでした。即ち、タイムラインとは、いざという事態にパニックに陥らないための、予防薬の様なものだと言えそうです。狭心症に不安を抱える人達がニトロ剤を携行する様なものと言えるでしょうか。もちろん、根本的なリスク回避のためには、そんな事態にならない様に、平時から十分な備えをしておく事の方が大切なのは言うまでもありません。

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