« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »

2014年9月30日 (火)

2505 人間学としての経済学

U沢弘文が亡くなりました。氏の著作をそれほど読み込んでいる訳ではありませんが、彼の功績は、冷たい学問であった経済学に暖かい息を吹き込んだと言う事ではないかと思っています。科学や工学あるいはそれを支える数学などという学問は、ああすればこうなると言う、いわゆる因果律が明確で、あまり人間の介在する余地の無いものの様に見えます。経済学も、門外漢ではありますが、これまでの社会で起こった経済現象を織り込みつつ、種々の数式や近似式で、人間の営みである経済を記述しようとする学問なのでしょう。

しかし、マクロとしての経済は確かに、非常に動きの緩慢なモノとカネの交換手段(メカニズム)を持った構造の様なものなのでしょうが、一方でその末端には、細かな人と人の関わり(取引)が存在する筈なのです。そのモノやカネの動きや、情報の行き来を、人間の体で言えば、毛細血管や末端神経に例えるならば、経済学も間違いなく人間学(人文科学とも呼ばれます)の一分野である事が理解できるでしょう。U沢は、そこにスポットを当てたが故に、例えば経済活動のごみ捨て場問題でもある公害問題なども負の経済として、経済学に織り込まなければならないと主張したのでしょう。

振り返って、科学や工学をかじった身として、では血も涙も無い筈のこの分野に暖かい息を吹き込むのは何だろうと考え込んでしまいました。確かに理路整然と、原因と結果が予測できる分野ではありますが、しかしそれを「オペレート」するのは人間です。どんなに安全性が何重にも考えられているプラントや発電所でさえ、いくつかのヒューマンエラーの積み重ねや、「想定外」規模の災害で、それは簡単に、事故に至ってしまいます。しかも、その仕掛けが巨大であればあるほど、事故の規模も甚大なものとなっていまうのです。巨大なプラントや発電所なども、末端神経でもあるセンサーや個々のコンタクターやバルブなどが正常に働かないと、またそれを操作する人間が、その末端で起こっているプラントの動きをしっかり理解できていないと、やはり暴走事故は防げないのです。話題が少しそれましたが、U沢の訃報に接して、私たちは常にマクロとしてのシステムと、ミクロとしての血の通った末端を「同時に考えなければならない」と、改めて感じました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月29日 (月)

2504 虫の目

503の鳥の目とは矛盾するかも知れませんが、しかし私たちには問題解決のための虫の目も必要なのです。つまり、省庁のお役人やその上に立つマツリゴトを行う人たちは、(多分)対局を見通す鳥の目やマクロデータを持っているのかも知れませんが、しかしその目をもってしても、市井の問題点は浮き上がってはきません。むしろ、問題は膨大なデータの平均値に埋もれてしまうのです。つまり、平均体重の増減データだけでは、肥満という個々人の健康リスクの問題点は発見できません。個々のデータにデータに個々人の標準偏差などの分析を行って初めて「問題」が浮上する訳です。

もう少し具体的な例を挙げます。もし、短い期間の景気の動向など井の問題点を掘り起こすのであれば、金融機関やシンクタンクなどが持つマクロデータでは全く歯が立ちません。それらは「結果のデータ」だからです。もし「今」のデータが欲しいのであれば、是非タクシードライバへの聞き取り調査をしてもらいたいものです。ある日の夕刻、省庁から帰る調査担当者は、この日だけタクシーを使う事を許されます。もちろん使うタクシーは、省庁に出入りしている会社のものではなく、町で流しのタクシーをつかまえるのです。その上で、どこかじっくり話が聞ける場所に駐車して貰い、メーターを倒したまましばらくアンケート調査に答えて貰います。最近の客足、一回当たりの走行距離の傾向、客から聞いた景気の話、待ち時間の増減などなど、景気の指標はプチ贅沢の象徴であるタクシー利用に明確に表れる筈です。

同様に、直接的に対象に当たる「虫の目調査」は、生の声が聞けるため、マクロデータでは覆い隠された問題点に突き当たる可能性が大きいのです。もちろん、生アンケートは100件程度では不十分です。しかし数千件の生データは、間違いなく真の問題点へのアプローチを可能にする筈です。インターネット時代、ともすると私たちはネット上の知識やデータに頼りがちですが、それらには何段階ものマタ引きやマタ参照が繰り返された結果、一体それがどこから、どの様に引きだされたデータなのかが不明なものも多いのです。自分の足で出向き、目と耳で直接聴取した事実とネット情報などを使ってものごとを「立体視」するなら、たぶん本当の問題点にアプローチできそうな気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月28日 (日)

2503 問題解決から問題発見へ

0泊3日、夜行バスで東京往復したので、一眠りしての遅い投稿です。投稿者は技術屋でした。過去形にしたのは、すでにそこから卒業したつもりからです。今は「環境屋」を名乗っていますが、その脱皮過程で気が付いた事は、技術屋とは、ある条件、コストVs機能のバランスを取りながら、納期や品質などの諸性能を実現する、いわば問題(課題)解決型の能力が必要とされる存在だと言う事でした。一方、環境屋はと言えば、先ずは何が真の問題であるかを見つけ出す必要があります。以前の環境屋は、やはり問題解決型でした。というのも、環境問題はある地域限定の「公害」という形で存在していましたから、ある工場や工場群の問題(汚染物質の垂れ流しや放出)を特定し、その害を大幅に減じる(できればゼロに近づける)処理装置を開発すれば、見かけ上問題は解決できたのでした。例えば、プロセスへの水銀使用を止めるとか、燃焼炉の排気から硫黄分を除く脱硫装置を追加するなどの対策を打つ事は、比較的分かりやすく、実行もある意味やる気とお金次第だった訳です。

しかし、温暖化や緩慢で全地球的な汚染、更に言えば放射性物質の処理などは、未だに何が本当の問題かが特定されていないと言っても過言ではありません。というのも、全地球というある意味で「有機的な惑星」のホンの表面を覆う大気と、浅い土壌と、平均数千メートルしかない海が織りなす人智では解明難しい循環のバランスシートとそこに生じている「いわゆる環境問題」は、その全体像すら掴めていないのです。僅かに、温暖化問題が俎上されたのはホンの20数年前のリオデジャネイロでの地球環境に関する会議と、それに続く京都議定書の策定以降でしかない訳です。かと言って、非常にパンチの弱い対策を盛り込んだ京都議定書の批准でさえ、B国の離脱があった上に、この国を含む各国の批准でさえ紆余曲折があったのでした。更にはこの議定国には、BRICSを含むいわゆる途上国は全くカヤの外で進められましたの、全く焼け石に数滴の水といった状態だったのです。

温暖化問題でさえこんな状況ですから、化学物質による緩慢な汚染問題、核爆発実験や原発事故による放射性物質による全地球的汚染、更に言えばオゾン層の破壊問題やPM2.5の問題に至るまで、その全体像の把握すら不十分だと言うしかありません。私たち人類は全体として見れば、今はとにかく物質的豊かさの実現(=経済的成功)しか頭に無い様なのです。途上国の公害問題は、実質的な人的被害が生じない限り無視される傾向は、かつてのこの国の状況と全く変わるところはありませんし、全地球的に発生している分だけ、問題はより深刻で緊急の問題になっているとさえ言えるのです。私たちは、もっと高い視点から真の問題を見通す能力(鳥の目)を磨く必要があると思うのです。従って、このブログもそれを模索しながら書き続けるしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月27日 (土)

2502 何を作るか

投稿者は技術屋としてキャリアをスタートさせました。技術屋とはある与えられた条件の範囲内で、性能とコストをバランスさせる職業であるとも定義し直せる存在でもあります。工業化が進んで、20世紀はまさに技術屋の時代でもあった訳です。とりわけ、高度成長期以降はプロジェクトのユニット単位がドンドン大きくなり、ついにはリニア新幹線の様に、単一で数兆円規模のポロジェクトも普通に俎上される時代に至ったのでした。

しかし、ここに来て国も企業も、今後何を作って、どうやって食っていくのかに関して方向を見失い、立ちすくんでいる様にも見えます。家電業界、重電業界、重工や輸送機業界(主に車屋さんです)に至るまで、国内ではもう為すべきプロジェクトのネタも尽きて、インフラ関連産業では最早メンテナンスで食うしかないと考えている節すら見え隠れします。重厚長大、大量生産・大量消費(=大量廃棄)、早くて安くて快適・便利を追求する企業(政策)やライフスタイルは、全くのゼロベースで見直しを掛けざるを得ないでしょう。

ではどうやって見直し、何を作っていくべきかですが、ゼロベースで見直すためには、先ずは「必要最小限」のモノから積み上げていくしか良い方法は見つからないでしょう。あるべき姿から現在まで遡る「バックキャスト」という手法もあり得ますが、神様でもない限り、技術動向や理想的で持続可能社会モデルななどとても描けるものではありません。政府主導の委員会を作っていわゆる学識経験者たちが、不十分で具体性に欠ける理想像の報告を上程したとしても、結局は政治家の公約の使われために、美辞麗句に飾られたものに陥ってしまうでしょう。

そうではなくて、私たちが社会を構成し、持続的にシステムを維持するために、最低限必要なモノ、具体的には衣食住です、を見極める必要があると思うのです。そのために必要な、例えば食糧(主食や副食材料)、住まいの形、更に冬を健康に過ごせるエネルギー量と質(敢えて快適にとは言いません)、それらの内のどの位が地域内で賄えるか、を定量的にカウントすれば、引き算として他の地域や海外から入れるべきモノの量が数字として明確になる筈です。地域で最大限賄うためには、多分かつて存在した地場産業も復活させる必要もあるでしょう。資源が豊富で余剰が出るなら、それは適切に加工して他地域へ販売すべきでしょう。それでも不足するモノやエネルギーは、当面は輸入せざるを得ないでしょう。しかし、最終的には代替物でそれを置き換えて、地域産率を限りなく上げる努力は不可欠です。多分続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月24日 (水)

2501 地方再生4(地域資源探し)

他に地域で利用できる資源は無いか、さらに考えてみます。ありふれた地下資源、林業資源、農業資源や小水力など以外にも、もちろん資源は見つかる筈です。何より、例外なく全ての地域における、最大で最良の資源は太陽光です。太陽光は、他の全ての資源やエネルギー源の大元だからです。分布が薄い事(最大1kw/㎡程度)、雨天や夜間は利用できないデメリットを割り引いても、その利用は最大限に拡大すべきでしょう。積雪のある冬季でさえ、屋根ではなく南向きの壁面を利用すれば、それなりに太陽光を受けて利用できる筈です。

更に言えば、積雪自体もエネルギー源になり得ます。つまり積雪には、0℃あるいはそれ以下の「冷熱源」としての利用価値があるのです。他に、例えば20℃かあるいはそれ以上の熱源(例えばやや暖かい地熱)などが利用できれば、ささやかながら熱サイクルを構築する事も可能となります。もちろん、熱効率の原則からは逃れられませんので、20℃の温度差が利用できた場合でも精々5%前後の効率しか実現できないのですが・・・。T大学では、フロリナート(熱媒体)を使って雪と地熱を熱源とする熱サイクルによる「雪発電」の原理模型を作っている様です。

さらに、投稿者が今住んでいる日本海側の町でも、冬季の地吹雪を起こす様な風力、冬には重たいコンクリートブロック(懐かしい呼び名ではテトラポッドです)を動かしてしまう様な波力も有望なエネルギー源となり得ます。しかし、それらのエネルギー源を1ヶ所に集めて大規模に利用しようとする目論見は失敗するでしょう。何故なら、それらの薄いエネルギー源をかき集めるには大規模な仕掛けが必要ですし、その割にはそれらの効率はかなり低く留まるからで、到底投資は回収できないからです。ではどうするかですが、それらはまとめて「熱」に変えてしまうのが得策です。熱は、環境温度よりある程度高ければ暖房や給湯用として使えますので、ポテンシャルが低いエネルギー源でもそれなりに活用できる筈です。例えば、冬の強い季節風で低速風車を回し、それで「発熱器」を動かして熱を起こし、それを温水にして蓄えれば、暖房目的には十分使えるでしょう。床暖房に使う分には、25℃もあれば十分ですから、それに使う低速発電風車に比べて随分安く製作できるでしょう。何しろ発電機を動かすためには、最低でも数百回転は必要ですから増速歯車を加えるなど構造も複雑になりますが、例えばサボニウス型の抗力型の風車なら、ドラム缶を縦割にして作った風車でも十分役に立ちます。そういう目で見れば、身の回りは資源やエネルギーだらけである事に気付きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月23日 (火)

2500 地方再生3(地域資源探し)

2499では地域資源の大元は森林であると書きましたが、もちろん農業や漁業などを含みいわゆる一次産業が最重要である事は自明です。薄い人口密度比べて十分過ぎるほど広い、農地や里海という基礎資源に恵まれている地方は、食糧自給率は200%以上という地域も珍しくは無いのです。農地では食糧の他に、エネルギーだって作ることが可能です。いわゆる「エネルギー作物」です。直接的には、菜種が思い浮かびます。菜種油は、キャノーラ種の様に、食用油に品種改良されたものもありますが、在来種にはあまり食用には適さない品種もあった様です。それは、行燈用やランプ用の植物油として、鯨油や魚油と共に利用されてきたのでした。

しかし、エンジン側での改造は必要ですが、菜種油だけで(メチルエステル化処理などの)特別な処理を行わずにディーゼルエンジンを動かす事も可能です。燃料をエンジンに送る直前に、ヒーターで100数十℃に加熱してやれば、十分に着火するのです。いわゆるSVOStraight vegitable oil)です。何らの特別な処理設備が不要なので、農村で自前の燃料で車やトラクターを動かす事も十分可能だと言えます。但し、石油燃料に掛かっている税金の問題を回避しなければなりませんので、税制の見直しが必要となります。

別の手段としては、ブラジルで行われている様に、サトウキビなどの作物からエタノールを得る方法がありますが、エタノールは発熱量が比較的低い上に、アルコール発酵させるためのそれなりのプラントが必要なので、小規模生産には不向きだと思われます。農業残渣の有効利用として、稲作から出る多量の藁のエタノール化はかなり有望です。藁のセルロースを分解してエタノールにするためには、微生物の助けを借りる必要がありますが、自然界に存在するアルコール分解微生物の内、藁の分解能力が高いものをスクリーニングすれば、より短い時間で、より高い収率で分解させ、エタノールを得る事も可能でしょう。

もう一つの手段は、農業残渣をメタン発酵させ、得られたメタンを直接燃焼させたり、ガスエンジンを動かす方法があります。ヨーロッパではFIT制度の活用により、大規模農場を中心に数千台のメタンガスプラントが生まれ、ガスエンジンを動かす「農場発電所」が作られました。農業残渣と畜産廃棄物を利用したメタンガスプラントは、コストの問題を解決すれば、かなり有望だと言えます。コストの問題は、例えばプラスチックフィルム製のガスホルダー(ガス貯蔵槽)など、工夫次第でかなりの程度引き下げも可能でしょう。当然の事ながら、農業資源利用の順番も先に述べた「カスケード利用」の優先度順になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月22日 (月)

2499 地方再生2(地域資源探し)

続きです。足元を見回せば見つかる筈の地域資源はまだまだ転がっている筈です。日本は山国ですから、どの県も険しい(あるいはそうでもない)山を抱えていることでしょう。そこに降る雨は、降った標高に応じた位置エネルギーを持っています。そのエネルギーの大元は、海から水を蒸発させて雲を生じさせた太陽エネルギーなのですが、それを最大限活用しない訳にはいかないでしょう。水利権や治水政策などややこしい事も多いのでしょうが必要なのはルールだけです。つまり、水量を減じない様に、あるいは流れを妨げない限りにおいては、水力利用の範囲を大きく広げる必要があります。それは、具体的には水利用のための法整備と最終的な「水利用の調整機関」の設置を意味します。

高度な水利用を目指すためには、実は治水事業もそれ以上に重要である事は自明です。山の保水力です。かつては、この地域(秋田や広く東北)には広大なブナ林が広がっていました。ブナの林床は、実はこれ以上ない程の理想的な保水力を持っているのです。数メートルの厚みまで降り積もった落ち葉は適度に腐った腐葉土となり、豊富な雪解け水を抱え込み、夏が旱魃の年でも数か月間はジワジワと水を滴らせる事が出来ます。しかし、いま山を見渡すと、戦時中に燃料として皆伐された山に、戦後植林されたスギやヒノキなどの針葉樹が、ろくに間伐もされずにヒョロヒョロと密生している山々しか目に入りません。

この見捨てられた山林を、今の世代が再び「資源」として再生しなければならないのです。森林は木材(バイオマス資源)であると同時に、広葉樹は結果として里海の豊かさを支えていますし、同時に水源涵養林でもある訳です。しかし、そのためには、現状の針葉樹林だけの単相林を積極的に間伐し、その間に広葉樹を植えていく「混交林化」が必須なのです。その作業を進めるためには、中山間部に林業という生業をかなりの規模で復活させる必要がありますし、若い世代の移住も必要な行動です。都市で、ブツブツ言いながら派遣社員で暮らすか、それ程現金は手に出来ないが、取り敢えず住む場所も食べる心配も無しに、頼りにされつつ山(林業)で活き活きと働くか、何らかの形で都市の若者に向けて選択肢を示す必要もありそうです。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月21日 (日)

2498 地方再生

地方再生だか創生だかが、新大臣の任命と共に流行言葉になりかけている様です。以前にも同様の事を取り上げた様な気もしますが、再度ポイントを整理しておきましょう。さて、これまで(例えば20世紀の後半)の社会情勢とは明らかに違っている現在、地方の再生といっても決して工業団地を造成して、中央企業の下請けだけを行う中小企業を誘致する、などという政策が通用する筈もありません。ましてや、これまで蟻んこの様に作り続けたイ膨大なンフラの維持費が重く圧し掛かっている現在、いまさら公共事業のバラマキ政策など、絶対あり得る筈もありません。

では何を考えるべきかですが、そろそろお役人の知恵で、「地方の再生は地方で知恵を出せ」などという言葉がチラホラ聞こえる様になってきた様です。それは、政治家を担いだお役人が責任を逃れるための常套句でもありますが、実は正論でもあります。というのも、地方の事は地方が一番よく分かっている「筈」だからです。とりわけ、産業(とは言わないで敢えて生業と呼んでおきますが)を興すためには、先ずは資本(単にお金を意味しません)を考えなくてはならないからです。とりわけ、モノの資本は大切です。資源として手元(地元)に何があるかを見極める必要があると言う事でもあります。中央や他の地方、ましてや海外から原料を運んでくるなどと言う事を、チラリとも考えるべきではないでしょう。それには、相当の輸送コストが掛かり、最初から競争力を減じてしまうからです。

そうではなくて、先ずは足元を見まわして、見捨てられた地域資源を見出す必要があると思うのです。具体的考えてみると、先ずは広大な耕作放棄地や休耕田という土地資本があります。これをどの様に活用するか、植物であれば何を育てるかが大問題です。地力を落とさず、将来は復元も可能な状態で維持したいものです。あまり深掘りせずに考えるならば、稲と同様の性質を持つエネルギー作物を植えて、エタノールやバイオマスを得る方向も有望に思えます。次いで鉱物や地下資源が見つかるかも知れません。北秋田はかつては銅や各種の金属を含む「黒鉱」の一大産地であり、県央や県南の海岸部では石油や天然ガスが産出したのですが、それらはほぼ掘り尽くされてしまいました。それの価値があまりにも高かったので、産業がそれに群がったからです。しかし、たとえば「珪藻土」は、現在でも安定的に産出しているのです。それは、需要がボチボチなので、短期間に掘り尽くす心配が少ないためでもあります。珪藻土は、湿度調整力に優れていますので、例えば超省エネの吸着式冷房のデシカント剤として有望だと見ています。書き切れないので続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月20日 (土)

2497 生ごみのカスケード

ついでのついでです。食品だって物質には違いありません。さて一言で生ごみと言っても中身を良く見ると、ゴミ箱に捨てられる前は立派な食品(あるいは食品の一部)だった筈です。それらは、野菜の皮だったり、魚のアラだったり、消費期限切れの食材だったりする訳です。多くの場合、それらはビニールの小袋に入れられて、グジュグジュのままゴミ袋に入れて捨てられます。水分が滴る様な生ごみの水分率は、多分たっぷりと50%程度はある事でしょう。こんな生ごみを焼却炉で燃やそうとする場合、先ずはその水分を飛ばす必要があります。可燃物は300数十℃以上にならないと火が着いて燃えてくれないのです。

簡単な試算でも、水分率50%の1トンの生ごみの水分を飛ばすためには、数十リットルの石油燃料が必要である事が分かります。かなり大規模なごみ焼却施設の例ですが、なんとそこではごみを燃やすためだけに1日あたり150トンもの灯油を燃やしていると言うのです。これは、数百軒の家で丸々一冬の暖房が出来る灯油の量です。日々ごみを燃やすためだけにこれだけの石油が使われているという事です。

ここで言いたいのは、生ごみの水分率を今の半分にすれば、焼却場の石油消費量は概ね半分に削減できると言う点なのです。具体的には、生ごみを新聞紙で包んで一晩物干し竿に吊るして置くだけで、水分の多くは飛んでしまい、生ごみは燃料に生まれ変わる可能性があるのです。残された水分を蒸発させるのに必要な熱量に比べて、生ごみ自身が燃えて発生する熱量のの方が上回れば、それは燃料と呼べる訳です。

もちろん、生ごみの中から包装材料等を除いて、有機物だけにしておけば、それはコンポストの中で立派な堆肥に生まれ変わってくれるはずです。ヨーロッパの環境先進国では、かなり以前からごみの焼却施設の多くを閉鎖し、燃やさない政策を推進中です。包装ごみは可能な限りリサイクルし、生ごみは醗酵させたもの畑や牧草地に戻して、炭素や窒素のリサイクルを実現しているのです。この国でも同様のことが出来ない筈はありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月19日 (金)

2496 竹のカスケード

もののついでです。タケノコ掘りの目的で植えられたものの、今はすっかり厄介者となってしまった中国原産の竹林、取り分け孟宗竹についてもカスケード利用法をを考えてみます。竹は、セルロース繊維方向がきれいに揃っており、したがって引張強度に優れ、しなやかに撓み、単独でも竹竿として、割いても種々の工芸の材料として重宝されてきました。唯一の欠点はと言えば、節がある事くらいですが、逆にこの節さえ利用して、種々の容器としても多用されていたのです。その多様な用途は、まさに先人の知恵のオンパレードです。

材料としての利用では、竹かご、すだれ、竹ござ、懐かしい竹ひご、最近は竹を割いたものを接着して集成した床材などなど挙げればきりがありません。その中で、薄く割いた竹フレークをランダム方向に積層して合板にした合板(ランダムストランド合板)は非常に高い強度が期待でき、強度部材として有望です。これは、樹脂量を多くした場合には、「竹FRP」とも呼べる様な強度材料となるでしょう。しかし、工芸用の材料としては、手間ばかり掛かり、その割には売値の安い事が嫌われて、近年は竹ざるや竹かごや竹バスケットなどはむしろ高価で貴重な品となってしまった様です。

竹は燃料としても有望です。炭化したもの(竹炭)は、吸放湿特性にも優れるために住宅の床下に敷き詰められる例や、そのまま火持ちの良い炭としても重宝されています。炭化せずにチップにしたものはペレット化するには、木材よりかなり歯ごたえがあり機械のパワーを食いますが、木材とブレンドすれば問題ないでしょう。竹燃料が有望であるのは、何より竹の持つ炭炭素固定能力の高さ。それは平均的には木材に比べると数倍の炭素固定力、即ち1ha当り7.5トン/年にも達すると言われています。炭にすれば分解される事は無くなるので、竹炭を量産して例えば田畑の土壌改良材として地下に埋めれば、それはそのまま大気中のCO2を地下に固定する事に等しいでしょう。

もう一つの竹の利用法として、生竹を細かいチップとした上で、田畑の土壌に鋤き込めば、有効な「生肥料」になる事が確かめられています。実際G県では特産の枝豆畑に応用し、食味を格段に改善できた結果、付加価値を上げている企業が存在する程なのです。竹チップが持つ細かな空隙は、有用な土壌微生物の優良な住み処ともなる様ですし、竹に含まれる成分そのものも肥料として有用に作用すると言われています。まさに竹の用途は無限だと言えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月18日 (木)

2495 稲のカスケード

試みに色々な原料のカスケードを考えてみましょう。木材に続いてここでは稲を取り上げます。稲は、言わずもがなですがこの国(瑞穂の国)の主食です。玄米の状態で食すれば、カロリーやミネラルやビタミン、タンパク質などを含み、ほぼ理想に近い主食と言えるのではないでしょうか。それなのに、今のコメ余りです。かく書いている投稿者自身も、実は朝だけは簡便なパン食に走っている一人でもあります。パンに比べて炊飯という一手間が掛かるため、面倒くさがりの現代人にやや遠ざけられている感のあるのが米飯だと言えそうです。

しかし、コメを収穫する過程では、多くの「副産物」が排出されるのも事実です。その内で大きな質量を占めるのは、穂を支えていた葉や茎、つまりはワラです。また、コメ粒を取り出した後の殻であるモミ殻も多量に余っている状況です。かつては、それらは家畜の敷料や畳床、わら縄、さらには紙(わら半紙)の原料として、さらには釜戸の焚き付け燃料としても重宝されていたのですが、今やその用途は需要が激減したか、消えてしまったのです。もみ殻のついては、田んぼに積み上げて火を着け、長時間かけて燃やして炭や灰を再度田んぼに鋤き込んでいたのですが、発生する煙が公害であるとして禁止されている地域が多く、カントリーエレベータでもみ擂りされた後のもみ殻は今やすっかり厄介者と成り下がってしまいました。

しかし、稲が作り上げたワラやもみ殻が全く無用の長物である筈がありません。藁は、非常にセルロース分の多いバイオマスですから、例えば生物醗酵でエタノールを得るための原料ととして有望です。あるいはかつての様に製紙原料にブレンドしても良いかも知れません。問題なのは、それが年に1回だけ(地域によっては2回)大量に発生すると言う事で、軽く嵩張るワラを遠距離輸送するのは現実的ではありません。小型のエタノールプラントを多く設置するのが現実的な選択だと言えそうです。エタノールの用途は、農業用機械の燃料の一部とすれば良いでしょう。

一方、シリカ分が多いもみ殻ですが、これには二つくらいのカスケード利用法がありそうです、一つはゼオライト化です。シリカ分の多いもみ殻をある条件下で処理すれば、優良なゼオライトができると言う文献があります。ゼオライトは、放射性物質や悪臭、VOCなどの吸着剤として用途は広いのです。もちろん、もみ殻を擂り潰して固化すると、薪の様な燃料(商品名:モミガライト)に生まれ変わります。メーカーのコスト試算結果によると山から雑木を降ろしてきて薪割をするより割安に生産できそうなのです。この様に、自然が作った物質に無駄なものは存在しないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月17日 (水)

2494 木材のカスケード

2493で言及したカスケードという考え方は、エネルギー以外でも応用できる「知恵」だと言えます。ここでは木材という材料を考えてみます。木材は、当然の事ながら山に生えている(又は人工的に植林した)樹木を伐採する事から始まる林業からもたらされます。材は、適当な長さに切られて山から搬出されて貯木場という土場に集積されます。しかし、そのまま放置していても木材中の寸分率は一定以下には下がりません。例えば25-30%以下には下がらないのです。木材を材として建築などで使うためには、10%近くまで水分を下げる必要がありますので、荒く製材した材を熱で人工的に乾燥させる工程が不可欠です。もちろん、その昔は荒く製材した材を長い期間自然乾燥させてから使っていましたが、近代的な木材工業では、そのような悠長な作業は経済的に許されないのです。

しかし、考えてみれば先ず林地で材木が搬出された際には、林地に枝葉や先端の細い部分が切り落とされて放置された筈です。これが林地残材です。更に残念な事は、造林の過程で間引かれたいわゆる間伐材が、全く利用されずに林地に切り捨てられていると言う現状もあります。更に、製材所では樹皮が剥がされ、製材の過程で「背板」と呼ばれる不要な部分が廃材として工程から排出されます。製材の過程では木挽き粉やカンナ屑も出ることでしょう。これらを屑と捉えるか、あるいは再利用可能な材料と捉えるかがカスケード利用の分かれ道になるのです。樹皮は、いわば樹木を厳しい環境から守る鎧の様なものですから、多分容易には分解されない物質も多く含まれるはずです、例えばタンニンと呼ばれる一連の物質も豊富な筈です。それが人間の役に立たない訳はないのです。

背板や木挽き粉や、端材だってチップにしたりペレット燃料にして品質を揃えれば、立派なバイオマス燃料として値がついて販売できるでしょう。樹種が単一で、品質が揃ったチップであれば、製紙用としても十分な価値が生まれます。今は使いみちが全く無いと見做されている根っこの部分だって、粉砕して家畜糞と混ぜ合わせて醗酵させれば立派な基礎堆肥としての利用価値が出るでしょう。つまり、考えてみれば樹木という材料は捨てる部分が全くと言って良い程ない無い貴重な資源だと言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月16日 (火)

2493 熱のカスケード

エネルギーの有効利用の方法に、エネルギーレベル(具体的には媒体の温度です)に応じて、多段階に利用する、いわゆるカスケード利用が挙げられます。例えば、化石燃料を燃焼させた場合、千℃前後の燃焼空気が生まれますが、これで80℃のお湯や百数十℃程度の蒸気を発生させる事は、斧でエンピツを削る行為にも似ています。しかし、現実の火力発電所では、ボイラや周辺機器に多くの工夫がしてあって、例えば蒸気圧は実用的な極限まで圧力を上げ(例えば数十気圧)その蒸気を更にボイラに戻して過熱蒸気にする結果、温度も500℃前後まで上げてから蒸気タービンに送ります。蒸気タービンでは蒸気が多段階に膨張するので、途中から蒸気を少しだけ抜き取って、それを例えばボイラに送る空気や冷たい水を加熱してやり、ボイラの効率を高めたりもします。その結果、総合的な発電所効率は40%程度まで高められているのです。しかし、逆に言えば残りの60%の熱は捨てられているとも言えます。こんな近代的な発電所においてさえ、蒸気タービンから排出される蒸気(が持っている熱量)は、大量の海水で冷やされ、温排水として海に捨てられます。もう一つの熱の捨て場所は実は煙突から出る排気ガスです。この二つの出口を合わせた合計が、ほぼ残りの60%を占める訳です。

一方で、ガスタービンを使ったコンバインド発電では、ジェットエンジンの様な原動機であるガスタービンを使って発電を行うのですが、そこから出る排気ガスはまだ十分に温度が高い事を利用して、もう一働きして貰うのです。具体的にはそれで蒸気を発生させ、その蒸気でも別の蒸気タービンを回して二重に発電を行わせるという工夫です。この結果、最新のシステムでは総合効率が60%程度まで高められている様です。しかし、それでもまだ4割もの熱が無為に捨てられているとも言えます。

究極の熱カスケードとは、発生させた熱をそれが役に立たなくなる温度、それを環境温度とも呼びますが、まで徹底的にこき使ってやる事を指します。数十度の温度でも最新の技術を使えば、まだ発電させる手段はありますし、海底と海表面の20数℃温度差を使っての発電も実用化に地近づいているくらいです。熱エネルギーを単に発電に使うのではなく、例えば暖房や給湯や冷房などまで広げれば、総合的は熱効率は80-90%程度を確保する事も十分可能でしょう。一度作った熱は断熱とカスケード利用で徹底的に使う工夫をすれば良いのです。40%の熱効率を80%に引き上げる事が出来れば、現状に比べ50%のエネルギーを削減した事と同じ事になるのです。私たちに足りないのは「工夫」の二文字です。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年9月15日 (月)

2492 協働

コミュニティを繋ぎとめる接着剤としては、いわゆる「協働」が挙げられます。それを「結い」と呼んだりもします。例えば、茅葺屋根を葺き替えるには、膨大な延べ人数を必要とするでしょう。例えそれが数十年耐久性があるとしても、数十軒の家がある集落では、毎年の様に葺き替え作業が発生するでしょう。業者を雇えば、かなりの金額の出費を覚悟しなければなりません。そこで村総出の協働作業が必要となる訳です。まずは萱の刈り取り作業があります。多分、一抱えもある萱の束が多分数百程度は必要でしょう。それを納屋で乾燥させ、秋口の晴れの日が続く時期を待つことになります。その日は、村人が老若男女を問わず、葺き替えを行う家に集合します。男は屋根に登りますが、女たちも下回りの仕事をこなし、年寄りも例えば食事やお茶の準備に忙しいでしょう。子供だって、それなりに手伝いを買って出るでしょう。

つまり、この協働においては、誰もがそれなりに役割を分担して作業に当たる訳です。それは、農作業や里山の手入れや、地域の草刈りや清掃作業に至るまで、結構綿密な話し合いで役割分担を決める事になるでしょう。役割を別の言葉で表現するならそれは、人の「居場所」とも言えるでしょう。人の居場所の無いコミュニティなど、到底本物のコミュニティであるなどとは呼べないでしょう。

さて、お国は税金を使って田舎に「地域を創生する」のだそうです。その具体的な絵姿がどの様なものになるのか凡人には想像すらできませんが、だからと言ってそれが頭の良いお役人に出来るとも思えません。やはり、お金のバラマキによる名前を「地域創生」というオブラートをかぶせた公共事業の焼き直しになるのでしょうか。しかし、何を実行するにしても、最後はコミュニティの話し合いの中で、それぞれの役割を決めて進めない事には、それらの創生事業が一段落した後には「元の木阿弥」に戻るしかないのです。創生だけではなく、それを以下に次世代に受け渡すか、それを持続させるかが大問題だと思うのです。多分続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月14日 (日)

2491 過疎への歯止め

震災の被災地はもちろん、多くの地方では過疎化に歯止めが掛かっていません。少子化と高齢化が、それを更に加速化しています。震災被災地は、むしろその縮図というか、未来の先取りをしている地域と見るのが正しいのかも知れません。津波の被害を受けた地域を更地にし、新しい町が出来たと仮定しましょう。しかし、そこには最早かつてのコミュニティや文化(行事)や暮らしの形までは復元できないのは明らかです。コミュニティは意志を持って作ったのではなく、自然発生的に出来上がっていったものである場合が殆どだからです。

もし、歴史上に学ぶべき例があるとすれば、それは先人がヨンドコロナイ理由により、元々住んでいた土地を捨てて、新天地で村や町をゼロから作らなければならなかった事例を引くべきでしょう。あまり良い例ではありませんが、アメリカの砂漠の真ん中に「サンシティ」なるコミュニティがあります。ここはリタイヤした人が老後を過ごすために「設計」された町なのですが、水の供給からエネルギーまで完全に人工的なインフラを敷いた上で、「運営」されている地域です。しかし、外から想像するに「それで何が楽しいの?」という疑問しか生まれないのは、投稿者一人の感想ではないでしょう。豪華で、老夫婦二人だけが住む家あり、庭には造水機で作られた純粋な水で育てられた植木や花々が咲き乱れ、時々ご近所が集まってパーティを開き、パートナーの一方が亡くなると、仕方がなくそこを売り払って老人施設に入る。こんな暮らしの何処が幸せなのか、凡人にはさっぱり理解できません。

話しがそれかけていますが、過疎を防止するためには、如何にしっかりした理想的なコミュニティを作り上げるかに掛かっていると言っても言い過ぎではないでしょう。理想的なコミュニティとは、そこに住むメンバーすべてに居場所があり、役割が当てられていて、しかも全員が暮らしやすいと感じられる様な共同体だと定義できるでしょう。かつての田舎には確かにそれに近い暮らしがあった様な気がします。しかし、投稿者が住む田舎町でさえ、人口が減っているのにもかかわらず、住宅が建っているエリア(市街地)が、優良な田んぼを潰しながら今なお郊外に広がっているのです。つまりは、人が住むエリアがますます疎になって、コミュニティの体を為していない「場所」だけが広がってしまった様なのです。これでは、過疎に歯止めが掛かる筈もないでしょう。対策については続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月13日 (土)

2490 手段の目的化

同様な表題は何回目でしょう。しかし、何度書いても書き切れないと言う感じが拭えないのです。例えば経済活動です。人々が社会生活を営んでいくためには、モノやエネルギーなどの供給が欠かせません。食糧は一般の人が自身で調達する訳にもいかないので、仕方なくお金を出して購入します。支払われたお金は、流通業を経由して、問屋や生産者に還流され、経済活動がつながります。しかし、経済活動やお金儲けそれ自体が目的とはなり得ません。それはあくまで社会生活を継続していく「ための」手段に過ぎないのです。然るに、今やその手段自体が勝手に一人歩きし、それどころか紛争を含め世界の動向さえも引きずりながら暴れまくっている状況だと言えるでしょう。

例えばエネルギーです。エネルギーを使う目的は、本来寒さに凍える冬をどうにか乗り切る「ために」、あるいは食べにくい食材を美味しく「ために」、さらには暗い夜の暮らしの始めだけでも少しは明るくする「ために」灯りをともす事にあった訳で、電気エネルギーを起こして、各戸に安定的に送る事は一つの手段に過ぎない訳です。しかし、今や官民挙げて電力の安定供給が、エネルギー政策の目的として堂々と掲げられる時代になってしまいました。石油やガスを燃やした日で蒸気を発生させ、それでタービンを回して発電機を動かすと言った、非効率でまだるっこしい方法で発電するのも、電気というエネルギー利用の手段が最も便利だからという理由しか見当たりません。暖を取る手段としては本来電気は不要でしょう。ましてや原子の火など言った危険な手段には決して訴えるべきではありません。各戸で石油やガスを燃やせば、暖房方法としては90%以上の高い熱効率が実現できる筈です。しかし、ズボラでワガママな人間は、リモコン一つで冬は暖房、夏は冷房を享受したいという欲求を抑えきれませんでした。

私たちは、折に触れて本来の「目的」に立ち返るべきなのです。モノを手に入れたいのなら、自分で作るか、あるいは自分が作れるモノと、他の人が持っているモノを、物々交換すると言う手段もあるでしょう。マーケット(市場)は、本来そのために町の便利な場所に毎日(あるいは決まった日に)立てられた事でしょう。暖が欲しいのであれば、先ずは手近で手に入る熱源(エネルギー源)を探すべきでしょう。薪や製材屑や農業残渣や風や小川の流れなどです。これらを使えば、ささやかですが熱を得る事が出来ます。使えるお金があるのなら、是非建物の断熱。遮熱に最大限振り向けるべきなのです。それによって、ささやかな熱源でも十分暖かく過ごせるでしょう。繰り返しますが、財布からお金を出す前に、リモコンやスイッチを操作する前に、もう一度その本来の目的を考えてみる必要がありそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月12日 (金)

2489 暴力的気象の根

暴力的な気象現象が止まりません。どうやらキーワードは、「海水温の上昇」と、「例年よりかなり強い寒気の南下」という二つの様です。もし、地表に山塊などの凸凹が無かったと仮定すれば、極気団の周りを巡るジェット気流も、きっとかなりきれいな円形をしていた事でしょう。ガスの惑星である木星がきれいな縞模様をしている状況に似ています。つまり、北上しても南下しても気候は徐々に変化する事になります。しかし、幸いにもと言うか残念にもと言うか、地球の表面には数千メートルのシワが刻まれていて、多様な地形が観察できます。その上、地表の2/3を占める海洋が、この星の気候が理想的に温暖である事に寄与してもいます。

しかし、ここに来ていわゆる数十年振りという異常気象が続発している様に見えます。その詳細な原因はさておき、平均気温=平均の海洋温度が上昇している事は最早否定できない事実となっている様です。一方で海洋は、深く、そこに貯めこめる熱量も膨大ですから、見かけ上その温度上昇のスピードは遅々としたものです。しかし、それを熱量として考えると、年々その蓄積量は増え続けている事になります。

さて、人間社会においては勿論ですが、自然現象においても事象には必ず「閾値」が存在すると信じています。つまりは超えてはならない限度値が存在すると思っている訳です。人間社会において、一応その限度を示しているが「オキテ」や「法(法度)」と呼ばれる不文律や文律なのでしょう。しかし、自然現象には文律はもちろん、不文律すら存在しません。辛うじて、IPCCなどの話し合いの中で、自主規制を作ろうと努力はしていますが、その努力目標でさえ、焼け石に数滴の水程度の中身だと言うしかありません。

ここで閾値を引っ張り出したのは、投稿者は、今日常になりつつある暴力的異常気象が、実は人間の営みが自然の吸収力の限度を超えだした事への警鐘ではないかと、感じているからです。それは、適当な喩えかどうか分かりませんが、車の量が増えてくると、ある限界限界台数(=車の密度)以上になると、交通事故件数が急激に増加する事と似ている様な気がします。交通事故の場合は、道路幅を広げて歩道や信号を整備し、バイパスや高速道を作った事で、ある程度減らす事には成功しました。しかし、残念ながら地球のサイズは有限で、それを拡張する事は絶対に出来ない相談なのです。自然の堪忍袋の緒がキレかけています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月11日 (木)

2488 自然への手入れ

現代社会、特に都市部に暮らしていると、いわゆる自然との距離が遠く、そこで連綿と行われてきた先人の「自然への手入れ」を忘れがちになります。現代の地球において、事実上全く人が踏み込めなかった天然自然は事実上存在しないと言っても良いでしょう。まして、人口が多く国土の狭いこの国においておや、です。事実、国土の2/3を占める森林ですが、その半分は人間の手が入った人工林か半人工林だと言われています。山の高い場所には天然林も少しは存在するのでしょうが、それにしても人間が全く立ち入った事が無い場所は、非常に限られた部分になる筈です。

さて、自然への手入れが必要である理由ですが、それは一にも二にも、私たち自身がより住み易くするために他なりません。例えば、天然林が山の高い部分に存在したとして、その山裾に棲んでいたご先祖様たちは、兎にも角にも農業で使う水を安定的に確保したいと願っていたはずです。そのためには、山は照葉樹である事が望ましいいと考えたでしょう。何故なら、落ち葉が厚く堆積してフカフカの林床を形成し、日照りが続いてても水を少しずつ滴下してくれるからです。そのため、天然の針葉樹を用材として使うために伐採した場合でも、同じ樹種を植林するのではなく、照葉樹を植えて混交林とする事を考えたでしょう。里山も薪炭林として100%使用されていたでしょうし、その林床もキノコや山菜を得るために最大限利用したでしょうし、そのために陽が入る様に邪魔になる小径木なども整理した事でしょう。

その様にして、高い山も、里に近い低い山もそれなりに手入れされ、長年同じような景観を維持してきたのでした。良く手入れされ維持されてきた奥山や里山は、洪水や山崩れを防ぐ力が強く、しかも保水力も高いまま子孫に受け継がれたのでした。然るに、現代の山の惨状です。木は隙間が無い程密生し、林床には殆ど陽が差さないため下草も生えません。ヒョロヒョロに徒長した人工林や照葉樹は根の張りが不十分で、土壌を把握する力も弱っている筈です。だからこそ、数十年に一度程度の豪雨でも簡単に土砂崩れを起こして崩落するのです。しかし、砂防ダムやコンクリート擁壁の建設が自然への手入れである筈もありません。それは逆に自然の改悪なのです。必要な行動は、人がもっと山に入って、自然を手入れする事なのです。間もなく、昔山に入って手入れをしてきた人たちがお隠れになると、その正しい手入れの仕方さえ残された我々には分からなくなってしまうかも知れませんが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月10日 (水)

2487 部分最適・全体最適

殆どの人は視野が狭いため、ついつい見易い部分だけを見がちです。物理的な意味でも、人の目は顔の前面についていますので、側面や後方は死角になります。社会や周囲の環境を観察し・把握すると言う意味においても、状況は全く変わりません。社会や自然界に起こった出来事も、つい自分の周りのものだけに注目し、遠く離れた社会に起こったことは無視しがになってしまうでしょう。そのため、物事の最適化を考える際には、意識しなければ「部分最適」を結論として前に進みがちになるのです。

しかし、間違いなく部分最適の集合が「全体最適」ではない事は明らかです。大昔の様に、人々が生涯狭いコミュニティの中から出ないで暮らしていた時代は、何を為すべきか、あるいは何を諦めるべきかという判断は、コミュニティ内部の問題で済んでいました。しかし、人々の交流が拡大するにつれて、一つのコミュニティの正義は、時として他のグループの悪になる場合も増えてきたのでした。だからこそ、この時代になってさえ地域間や国間の紛争が絶えないのでしょう。つまり、地域や国の最適だけを考えていては、未来永劫紛争の種は無くならないと言う事実に、私たちは早く気が付くべきなのです。

とは言いながら、それを実行するのは全く困難な作業です。それは、プレイヤーの数だけの連立方程式を解く事に等しい作業だからです。数学に少しは明るい人なら、多元方程式の解にはコンピュータを使って近似解を得ることさえ、非常に長い時間がかかる事を知っている筈です。スパコンが使えるこの時代になって、やっと20㎞に刻んだ離散点での気象の近似解の計算が可能になったくらいです。経済や人種や資源争奪や難民の移動や食糧問題や、その他多くのファクターを抱えた数百次元あるいはそれ以上の多元方程式が立てられるのか、ましてそれが解けるのか、と問われれば答えは悲観的にならざるを得ません。しかし、それでも私たちはそれに挑戦し続ける義務があると思うのです。ちっぽけな個人である私たちがちっぽけに為すべきは、取り敢えずはローカルな問題を、全体を見渡すスコープの中で、小さく解決し続ける事しか無いのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 9日 (火)

2486 冷夏の影響

今年は冷夏が予想されていました。いわゆるエルニーニョによる、気象の玉突き現象による冷夏が明確に予想されていたのでした。その予想はある程度は当たり、7月はそれなりの猛暑にも見舞われましたが、8月の天候不順の異常さは「記録的豪雨」の多発や「記録的日照時間の短さ」を見ても明らかです。単に気温が低いだけの冷夏ではなく、一方ではそれは豪雨となって暴れまくったのでした。確かに日照時間が短く、冷夏の傾向にはありましたが、他方で日本近海の海水温を見てみると、実は例年より数℃高くなっている事に気が付きます。そのため、海面からの水蒸気の蒸発は、むしろ例年より活発だったと言えるでしょう。しかし、冷夏傾向の年は北からの寒気が入り易くなっている事も事実で、結果として大気が不安定となり(つまりは雨雲ができ易くなり)、それがゲリラ豪雨を招くと言う連鎖が続くのだと見ています。

さて、この様な異常気象が異常ではなく日常化する方向に定着するのでしょうか。投稿者の見方は、残念ながらYESなのです。温暖化が進んでいるのは、もはや否定しようがありませんが、その温度変化の影響の大きな受け皿は、比熱の小さな大気(気温)ではなく、密度の高い海水(海水温)である事は自明です。しかし、熱容量が大きい分だけ、海水温の変化率は小さく、見かけ上温暖化の影響も小さい様にも見えてしまいます。しかし、たった1℃海水温の変化も、そこに棲む海生生物への影響は甚大です。例えば、ある種のサンゴなどは1℃の海水温の上昇で死滅してしまう事が知られています。冷たい海流に棲む魚類、例えばサンマなども、日本近海の海水温の上昇で南下が出来ないために不漁が続いている様です。

冷夏と言いながら、一方で確実に進行している温暖化のせめぎ合いの中で、気候は今後もますます激甚化してしまうでしょう。実は海水温の上昇は、深海へも影響を与えつつある様なのです。海洋には「熱塩循環」と呼ばれる1000年サイクルとも呼ばれる壮大で、しかし非常にゆっくりと進む海水循環があり、温度が上がった海表面の水は、やがては深い海に潜っていくのです。しかしながら、例えば降雨により海表面の塩分濃度が低下すると、比重も低下する結果、深海に潜る循環が阻害される傾向になるのです。実際、北大西洋ではこの現象が確認されおり、結果として海表面の温度が上昇を続けているのです。いまや、日本という狭い地域の気候も、地球規模で眺めて行かないと理解できない時代に入ったとみるべきでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 8日 (月)

2485 あるモノ探し

C to Cビジネスを考える場合、材料やネタを地域外に求めるのはご法度です。それをやると比較的大きなコストが発生するからです。そうではなくて、先ずは足元を見まわして、そこにあるモノを見つけ出さなければならないでしょう。木材や竹や農業残渣あるいは漁業残渣などのバイオマス、農業排水路などの小水力、冬季に元気になる風力、あるいは間違いなく万人に等しく降り注いでいる筈の太陽光、さらには北国では厄介者と思われている大量の雪などなど、先ずは手近で何が手に入るかを見極めるのです。

無いモノを無理に探し出して持ってくるには手間もコストもエネルギーも掛かりますが、例えば既にそこにあるモノが何かの役に立つのであれば、それを利用しない手はありません。その際に重要なことは、電力に変えるにせよ、熱エネルギーに変換するにせよ、先ずは需要量(デマンド)を見極める必要があるでしょう。もちろん、ダバダバに使っている現状のデマンドを追認するのではなく、必要最小限に絞った量を対象にすべきです。もちろん、北国のエネルギーデマンドの特徴は圧倒的に高い、冬季の熱需要である事は論を待ちません。室内を暖かく保ち、風呂もできれば毎日立てたいでしょうから、一戸建ての場合冬期間だけで数十万円の光熱費(多くは灯油代かガス代です)が発生してしまうのです。

C to Cビジネスの対象としては、ハードルの低さを考えると、食糧とエネルギーが最重要だと見ていますが、取り分けエネルギー分野は、化石エネルギーの需要を地域に取り込むと言う観点で最重要です。というのも、投稿者が今住んでいる日本海側の田舎町では、データによるとなんと人口一人当たりで年間40万円近くの熱エネルギーを消費している計算になるのです。従って、その一部でも地域に眠っているエネルギー源で代替できれば、それがそのまま地域産業となる筈なのです。例えば、木材が手に入り易い地域では、材にならない部分を薪やチップやペレットに加工するだけで、地域では薪ストーブやチップ・ペレットボイラなどが使える様になるでしょう。燃料代は木材を切り出したり、製材したりした個人や企業などに支払われますから、お金は地域外に出る事は格段に減る訳です。地域循環の始まりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 7日 (日)

2484 C to Cの可能性

更に続きです。さて生業における取引の本質はC to Cである事は論を待ちません。つまり、生業において、小規模にモノやサービスを提供する人(企業ではない個人)は、一方ではその人自身が消費者でもある訳です。一方現代社会では、C to Cは、無人販売所やイベントでの青空市やフリーマーケットなどでしかお目に掛かりません。取引額の殆ど全ては、取引に企業が関わる、B to C B to Bによって占められているのです。

しかし、地域における生業は、生産者=消費者なので、それぞれ手に入る資源や、自身の得意分野に応じて攻守を交代しながら、作ったり買ったりする必要があります。加えて、少しずつで良いので、ワザを持っている人について習いながら、種々の作業が出来る様に訓練も重ねるべきでしょう。農業であれば、作れる作物の種類を増やし、木工(日曜大工)から始まって家の修理や改修、あるいはちょっとした左官仕事や土木工事、更に踏み込んでの金属加工などなどを積極的にウデを磨くのです。その結果、日常生活においては、殆どのニーズは自身で満たせる事になり、必要なものは材料費のみという状態に出来るでしょう。

更に、これらのウデがお金の貰えるレベルまで上達すれば、近所のお年寄り家庭などからの頼まれ仕事も引き受けられる様になって、少しばかりの小遣い稼ぎが出来る様にもなるでしょう。家庭菜園の規模を大きくすれば、無人販売の小屋を作って、余った野菜などを売る事も出来るでしょう。それらが、十分にコストパフォーマンスが高いのであれば、その評判は少しずつ高まり、やがてはご指名も来る事でしょう。アメリカのB社の社是に「Reputation makes perfect」というものがあった様な気がします、つまりは評判をとるには(手抜きをせずに)ほぼ完ぺきな仕事をすべきだ、という程の意味だと理解しています。田舎では、色々なワザのウデが上がれば上がるほど、収入も増えて暮らし易くなるはずなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 6日 (土)

2483 地域回帰

2482で地域回帰政策という新しいKWを示したので更に続けます。何の事はない、これは平たく言えば「田舎に戻ろうキャンペーン」と言っても同じことです。しかし、投稿者が実際にこれ(Uターン)を実行して感じた事は、いくら質素に暮らす覚悟を決めたにしても、当面住む家と、当面の生活費やもし何らかの生業を始める場合はいくばくかの道具を揃えるお金程度はどうしても必要なのです。人の流れを作るためには、どうしても誘い水(インセンティブ)が必要なのです。お金を積み上げる方法が良いとは思いません。地方自治体の財政も、国と同じようかあるいはそれ以上に苦しい筈なので、出来る限り現物支給の方向で進めるべきでしょう。

さて、当面の衣食住が確保されたとして、田舎に来た(あるいは戻った)人たちは一体何を生業として暮らしていけば良いのでしょうか。地域で新たな産業をし雇用を生むのは、想像以上に難しいものです。お金(予算)だけあっても無理である事は、復興予算に群がった「コールセンター事件」などを見ても明らかでしょう。しかし、考えてみれば毎日の生活を支える仕事こそ生業(なりわい)の本質だとも言えるでしょう。つまり、着る、住む、食べるために、昔から人々は種々の生業を生み出して、継続してきました。農業や林業は、そのためのベースとなる生業の中の生業だったと言えるでしょう。しかも、ご先祖様たちは、パートタイムで生業を切り替えても来たのです。農家は、ある時には萱屋根を葺き替える職人にもなりました。春秋には山の恵みである山菜などを採集して、塩蔵したでしょうし、もちろん味噌などの自家製の調味料も作った筈です。

食糧と同様、北国の田舎で最も重要な生業は、実は厳しい冬を越すためのエネルギー(薪炭)の確保でした。農家と言えども冬は里山にこもって炭も焼い人も多かったことでしょう。薪の採集は、各戸の家族総動員の大仕事でもありました。冬が来る前に、軒下に一冬分の薪を積み上げると、やっと一安心できたのでした。先ずは、伝統的な食産業と熱エネルギーを供給する小さな生業を、数多く復活させる事が地域回帰の第一歩だと見ています。人が戻れば、それを支えるための別の生業も栄えはじめるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 5日 (金)

2482 地域創生???

この言葉にはクエスチョンマークがいくつも付きます。今更一体何を創り生み出すというのでしょうか。改めて創りださなくても「地域≒田舎」は昔からそこにあります。確かにそこで動くお金の量は都市部に比べて少ないのですが、人口も少ないので食糧やモノは相対的に豊かです。もし何かが足りなければ、野や山や海に行って体を少し動かせば、必要な食糧やモノ(例えば木材やバイオマスエネルギーや海の幸)は手に入るでしょう。今度作られた、新たな大臣ポストの人が、看板を変えただけの公共投資のバラマキだけはしない事を願うばかりですが、かといってどの地域にも有効な活性化策などある筈も無く、せっかくつけた予算も、甘い汁に群がる輩の餌食になって、名目はどうあれ結局公共事業の焼き直しになってしまう危惧を憶えます。

この国の過去(とりわけ戦後)のマツリゴトを少し振り返って眺めれば、今回と同じような事(行政組織と予算の肥大化)の繰り返しであった事が分かります。ポストを作ればそれを支える行政組織も作る必要が生じます。最初は「局」や「庁」などと名前の組織を作り、やがてそれは「省」に昇格していきます。人口が減りつつあるこの局面においても、省庁は100兆円を超える予算を積み上げ、今後いくらか削るにしても政府もこれを飲もうとしています。

地域創生などという言葉遊びは全く不要だと切り捨てておきましょう。では何が必要かと言えばそれは間違いなく「地域回帰」だと言えます。何故そう言えるかですが、1960年代のオリンピックに刺激された景気は、朝鮮戦争特需で生まれた高度経済成長を本格化し、万博に湧いた1970年代へと引き継ぎました。石油ショックで水を差されたとはいえ、それは良い意味で「差し水」だったと言えるでしょう。ダバダバのエネルギー消費をギュッと引き締めてくれたからです。しかし、この高度経済成長は、田舎から都市へ人を吸い上げ、農家の長男までも出稼ぎで引き寄せ、田舎を年寄りと母子家庭だけにしてしまったのでした。確かに、稲作を中心にして農業の機械化は進み、兼業農家でも辛うじて耕作は続けてきました。しかし、ここに来ての超高齢化です。もう限界なのです。今更田舎に工業誘致したとしても、すでに田舎には潜在就労人口は少ないので、同時に若者もIターンさせる必要もあるでしょう。誘致された企業の本社は都市部に残したままでしょうから、若者が積極的にIターンするなどと期待する方が無理というものです。であるならば、先ずは地域回帰政策で、田舎出身の退役者や若者が、田舎に移動する流れを作るべきでしょう。仕事は(体さえ動かすつもりなら)いくらでもあります。灯油を買わずに山に入って薪を降ろせば、数十万円に上る冬場の熱エネルギーは賄えますし、休耕か放棄されている田畑を借りれば、自家消費以上の作物は採れるでしょう。就職口は少ないでしょうが、生業(なりわい)を始める就業なら、いつでもOKなのです。下記足りないので続きそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 4日 (木)

2481 キャッチアップ型からの脱却

投稿再開です。この国は、明治の開国以来一貫して欧米型システムを見倣い、それを取り込んで「発展」したきたと言えるでしょう。いわゆる後進国において先進国の尻尾にしがみつきながら前に進む「キャッチアップ型」の行動パターンだったと言えるでしょう。社会システムについて言えばE国、技術的な分野ではDイツなどを手本にしてきたのでしょう。その痕跡は、電力網の50Hzエリアにも見つける事が出来ます。更に戦後について言えば、欧米=B国という構図で進んできたと言えるでしょう。戦後復興におけるB国からの食糧援助や経済援助お及び技術援助は、結局はB国の農業や企業を利する事も裏の目的であったため、大量の小麦を押しつけるためにパン給食を通じてパン食を定着させ、麺食を日本の文化にまで仕立て上げたのでした。

一方で、工業的には重厚長大産業に対しては、B国企業のノウハウのライセンスを奨励させ、先ずはハードウェアの直接輸入、ついでノックダウン、更に国産化率の向上というステップでの、B国流技術の浸透を図ったのでした。原発はその代表だと言えるでしょう。F島第一にはまさにB国から直接輸入された原発システムが据え付けられたのでした。同様の事は、他の重厚長大産業、例えば航空機の分野でも同様の事が行われたのでした。現在J衛隊で使われている機体の多くは、ノックダウンや「機体部分だけの国産機」だと言っても良いでしょう。もちろん、それで得らえた技術を使っての純国産(80%程度は国産だ、と言う程の意味)機も開発はされましたが・・・。

私たちは、ここにきてキャッチアップ国からフロントランナー国へ、美しく「脱皮」しなくてはならない立場に立たされていると思うのです。外交面でもそうでしょうし、あるべき社会の姿を描きながらの政治、経済、社会システム、エネルギー政策などでも独自色を出しながら、世界のオピニオンリーダーとして名乗りを上げるべき時期に至ったと思うのです。国の政策は、お金をダブつかせて徒に景気浮揚を煽る事であってはならず、先ずはあるべき国の姿を、政権を超えて、世代を超えて話し合い、その骨組みを作っていくべきなのです。粗い骨組み作りだけでも10年位は掛かるでしょう。それを実行に移すには、1世代以上の時間は優に必要とするでしょう。戦後50年で今の社会システムを作ったとすれば、新たなあるべき社会の構築にも同じ程度の時間がかかるかも知れません。しかし、やらなくてはならないのです。何故なら、戦後のキャッチアップ型による国の運営や社会システムは、すでに行き詰っている事が明白だからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »