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2014年10月31日 (金)

2534 生産・消費者

生産・消費者とは自分で作って自分で消費する生活スタイルを指します。つまりは、部分的は自給自足を意味します。例えば、コメ農家はコメに関しては100%自給自足ですから、コメ生産・消費者ということになります。これを敷衍して考えれば、例えば趣味で整理木を貰ってきて、薪を作る人は、部分的な熱エネルギー生産・消費者ということになります。難しいですが、煮炊きや暖房・給湯まで薪を使えば、100%の生産・消費者になれます。実は、昔は田舎では殆どの家でそうした暮らしをしたのです。投稿者の生家は、一応両隣に家がぎっしり並んだ町屋だったのですが、家の裏には薪小屋があって、秋口になると近くの共有林を整理伐採して、その木をくじ引きで分配し、それをリヤカーに積んで家に持ち帰ったものでした。中学生くらいになると、薪割が自分の仕事となりました。

さて、ごく普通の生活を送る人々に他にどんな生産・消費が出来るでしょうか。もちろん部分的にはなりますが、家庭菜園を作れば、野菜の生産・消費者にはなれそうです。目だたないのですが、家で調理をすれば、料理に関しては自分で作って自分で食べるので、一種の生産・消費ではあります。日曜大工で簡単な家具を作ってもささやかな生産・消費にはなるでしょう。最近は、薪づくりやロケットストーブなんかの自作教室も結構盛んな様で(山形県だけの現象?)、腕さえ磨けば、木こりの真似事から薪の自給からストーブの自作まで、一貫して出来るかも知れません。

しかし、今後の社会で最も重要な生産消費は、食糧とエネルギーである事は間違いないでしょう。神ではない人間には、自分で食料やエネルギーを作る事は出来ませんから、唯一出来る事はと言えば、自然の恵みに頼ってそれらを手に入れる事になります。つまりは、自前の狭い庭や休耕田を借りた、サンデー農業を行えば、かなりの割合で食糧自給が出来るでしょうし、屋根に太陽熱を利用できるように、簡単な温水パネルや温風パネルを設置すれば、今ガスや灯油や電気に頼っている熱源の半分くらいは生産・消費出来るでしょう。お天道さんは気まぐれなので、熱を貯めておく工夫も大切です。貯湯タンクや、岩石蓄熱などの仕掛けです。これは非常に重要なテーマなので、何回かに分けて続けます。

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2014年10月30日 (木)

2533 代替通貨

一口に通貨と言っても、必ずしも国が発行する紙幣や硬貨とは限りません。昔も今も、通貨の様であって通貨ではないものは数多く流通していました。古くは、それぞれの藩がお金を調達するために発行した藩札などもその例です。現代では、数えあげるのに骨が折れるくらい多様です。紙に印刷された債権や株券、地域だけで通用する地域通貨、ネット上だけで通用するビットコインやスーパーやコンビニのポイント、航空会社のマイレージや商品券からクーポン券に至るまで、更にローカルや店毎ののポイントカードまで含めるととても数えきれるものではありません。

しかし、私たちはお金というと何故か日本銀行券を想像してしまう傾向があります。手持ちの日本銀行券や預金の少ない状態を貧乏と安易に呼んでしまうのです。ですから、どんなに美味しいお米や果物を栽培している農家でも、手元に現金が無いと言う理由だけで、儲からない衰退産業だと切り捨てられる事になってしまいます。しかし、その昔コメは立派な代替通貨、どころか立派な「現物通貨」であった訳です。各地の藩の価値や格式は、その城下で収穫されるコメの石高によってのみ決められていました。お城に仕える人々のサラリーも石高で決められ、支払われてもいました。もし、市中で流通している品物を手に入れようとする場合は、コメをお金い換えるか、コメと物々交換するしかなかったでしょう。

ここで言いたいのは、私たちはも日本銀行券やそれにワンステップで交換できる代替通貨にあまりに頼り過ぎているのではないか、ということです。それで何が悪いかですが、それによって多様な価値(観)のかなりの部分が安易に否定され、真に価値を置くべきものが見えなくなっていると言う点なのです。例えば、企業価値が「時価総額」などという指標で見積られたりしますが、そうではなくて、その企業が社会に存在すべき意義(の様なもの)を測る指標が必要だと思うのです。投稿者はまだ具体的な結論にまでは至ってはいませんが、その指標こそがCSV(社会的価値の創造)の物差しになる筈なのです。企業の価値は価値として、では人間が生きる価値はどの様に評価すべきかは、一層難しい課題でもあります。しかし、どの様な道筋で考えても、人間という言葉が示す様に、ヒトは他の人の間で生きる事が運命づけられた生き物であり、結局自分が他の人にとってどれだけ役立てたかという点に集約される、と思うこの頃です。代替通貨というテーマからは大分話がそれましたが・・・。

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2014年10月29日 (水)

2532 電子抵抗

電気抵抗ではありません。「電子」抵抗です。電子化、デジタル化が避けられない方向だとして、その弊害を避ける方法は無いのでしょうか。電気には素人同然の投稿者は「電子抵抗」を嫁に見ました。電子情報は、光ファイバーを利用したインターネット回線で、殆ど瞬時に世界を駆け巡ります。しかし、航空便やましてや船便を使った人やモノの移動には、数時間や数週間かかる事でしょう。そこに生ずるタイムラグは、実は大きな問題を生み出している様に思うのです。モノや実態より情報が先行する事は、一見良い事の様にも映りますが、その差を利用して儲けを企む輩が出たことにより、それは凶器にもなり得るということなのです。

記憶力が悪いので、何年か前と言いますが、アジアで通過危機が勃発しました。いくつかの国の通貨価値が暴落し、事実上それらの国々の経済を完全にマヒさせてしまったのです。つまり、ある晩の為替取引で、誰かが「気まぐれに」ある国の通貨を大量に売り、それにつられた何人かのディーラーも売りに走ったのでしょう。それを見た更に多くのディーラーが、その国に状況の似ている別の国の通貨も売りに走ったのは当然でしょう。たった一晩である国の通貨価値はほぼ半分になってしまったのでした。その後は、縷々報道された様にその収束までには長い時間が掛かってしまいました。この騒動で、大きく儲けた人(企業)とその反対に乗り遅れて大損を出した人に分かれたでしょうが、儲けた組はその資金を使って更に大きな博打も打てる様になった事も事実です。

さて、ここで言いたい「電子抵抗」とは、上で使われた電子取引に、一定の時間遅れを設定できるようにする仕組みを指します。秒差で「勝ち負け」が決まる仕組みでは、人は見切発車をするしかありませんし、それでも追い付かなければ、コンピュータにプログラムを仕込んで、瞬時に売り買いを判断させるしかありません。その結果、電子情報が雪崩をうって世界を走り回るからです。もし、国々の間の情報の流れに一定の時間遅れが設定できるようになれば、考える時間が生まれ、実体を冷静に眺める余裕も出来る筈です。それは、事態の進行を緩慢にし、結果として変動幅を小さく抑える効果も十分に期待できる筈です。さながら、回路に大きな電流が流れるのを抑える電気抵抗(Ω)の様に・・・。

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2014年10月28日 (火)

2531 デジタル化の功罪

デジタル化は無理やりではありますが、状態を明瞭に記述します。何しろ、取り得る状態値は01なのですから、その間の値は取り様が無い訳です。その結果、コンピュータの中のフリップっフロップ回路で演算が出来、あるいは光回線を使った明暗の2値信号で膨大なデータを送る事が可能となる訳です。音声もサンプリングし離散化された数値データに変換し、アナログの音声に比べると少し劣るものの、デジタル化して通話もできる訳です。画像だって、色合いや明るさ野階調を2の倍数(例えば256)で定義(デジタル化)し、同様に高速で送る事が出来ます。デジタル放送ではその恩恵を受けて、ハッとする様なテキスチャーの画像を目にすることが可能となったのでした。

しかし、デジタル化が万能の記述方法である訳ではありません。例えば、デジタル化された音は確かに雑音は無いのですが、昔ながらのレコードやテープによるアナログ録音のダイナミックレンジを凌駕する事は出来ません。というのも、音は種々の周波数の波(音波)が混じった空気の振動ですが、デジタル化された音の波は、厳密に言えば正弦波ではなく、正弦波に限りなく近い矩形波の集まりになっているのです。それを耳の良い人が受け取った場合、原音に比べて、ややキラキラした、悪く言えばトゲのある音に聞こえる事でしょう。また例えば自然の色です。虹は七色などと呼ばれますが、各色の間のグラデーションは、とても256色などという階調で表現できる筈もありません。何しろ太陽光には、あらゆる波長の光が含まれているのですから・・・。

一方で、これを金融などの経済活動や、社会現象や更に言えば自然現象に敷衍して考えてみると、デジタル化にそぐわない事態も起こってしまう事に気が付きます。例えば金利です。金利は%で表示され、小数点以下一桁、例えば2.5%や2.6%などと定められますが、その中間の数値は取れない訳です。経済活動を上手く誘導する上で、どうしてもその中間値が必要だとしてもです。また例えば選挙です。保守と改革の2大政党があったとして、選挙結果では、たとえ1票、あるいは当選議員が一人多い少ないで、例えば原発推進の可否などという国の重要な政策がひっくり返ってしまう場合もある訳です。その意味で、今の選挙制度はデジタルの悪い側面を如実に示していると言えるでしょう。つまり、デジタルには「ほどほど」や「塩梅」という芸当ができない相談なのです。結果としては、ギラギラとした派手な結論を出しがちになる訳です。そのアウトプットを受ける人間が微調整をすれば事足りるのですが、デジタルを信頼しきっている人たちは、それを「鵜呑み」にしてしまうのです。

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2014年10月27日 (月)

2530 早い事は・・・

ある時期、「大きい事は良い事だ」と言われました。しかし、現代社会はそれを超えて、「速い事は良い事だ」と言うキャッチコピーが蔓延している様です。つまり、人が移動する旅行でも、新幹線より航空機やトンネルばかりのリニア新幹線の乗りたがりますし、荷物の配達でも翌日配達は当たり前で、地域によっては当日配達を売りにする企業も現れています。それどころか、ヘリ型ドローンを使った即時配達サービスも検討される時代になってしまった様です。

デモ本当に早い事には価値があるのでしょうか。例えば、リニア新幹線が大阪まで延伸したとして、東京から日帰りで大阪支社の会議に出席出来る様になるとしましょう。駅弁を楽しむ時間も無く、トンネルだらけで富士山を愛でる事も出来ず、あっという間に大阪に着いてしまった大阪で、慌ただしく会議をこなしたとして、その会議は果たしてテレビ会議で済ます事は出来なかったのでしょうか。単なる旅行にしても同じです。楽しみの旅行であればあるほど、目的地に移動するプロセスは非常に重要です。何故なら、人々が移動したと感ずるのは、途中次々に変化する景色の積み重ねとして、移動を実感できる訳です。ドラえもんのドアの様に、玄関から目的地まで瞬時に移動出来ても、旅の楽しみの殆どの部分は失われてしまうでしょう。

荷物の輸送にしても同じです。ビジネスでの急ぎの資料や見本の送付であればいざ知らず、単にネットで注文した商品であれば、何も当日や翌日に受け取る必然性は何もないでしょう。むしろ、1週間後に受け取るのであれば、6日間も「待つ楽しむ」を享受できる筈なのです。早く移動したり、輸送したりするためには、実は余分なエネルギーを費やします。空気中を早く進むためには大きな空気抵抗に打ち勝つためにより大きな推進力を必要とするからです。荷物であれば、時間的な余裕がある場合には、同じ地域に送るものを効率の良い量まで集める時間が生まれます。つまり、トラックへの搭載が効率よく行えて、最小限のエネルギーで輸送する事も可能となるでしょう。つまり、移動や輸送のスピードを上げれば上げるほど、多重的に幾何級数的なカーブを描いてエネルギー消費が増加するのです。必要以上に事を急がせることは無駄発生の元凶なのです。

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2014年10月26日 (日)

2529 社会企業(起業)

社会企業(起業)という言葉がマスコミに登場して、かなりの時間が経過しましたが、いまこの言葉の力が低下した様な気がするので、カツを入れておきたいと思います。企業の目的は、一定の利益を出してその企業や従業員の経済的な存続を可能とする、というものでしょうが、それが結果として社会的な貢献を果たす事が出来れば、それは社会企業と呼んでも差支えないでしょう。それに似た言葉で、企業メセナなどと言う言葉もありましたが、これはどちらかと言えば儲けている企業が税金対策として、社会貢献事業(とりわけ文化的な事業)にポンと寄付をすると言うイメージが強かった様な気がします。

さて社会貢献と一言で言いますが、その定義はかなり難しいのです。地域で雇用を増やしている企業は、それだけでも地域貢献はしているとは思いますが、それは必要条件ではあっても十分条件ではありません。このブログに何度かアクセスした人は想像できると思いますが、投稿者が考える十分条件とは、「社会の持続可能性を高める」というものなのです。

具体例を挙げましょう。ここに車を大量に生産し、消費者の便宜を図っている企業があったとします。大きな雇用を生み出しているこの企業は、社会的に一応評価されていて、外貨もしっかり稼いでくれます。しかし、一方ではそれまでに売りまくった車は天文学的な量の石油を必要とし、一方ではその石油(炭化水素)に含まれていたと同じ量の炭素(CO2)を排出します。従って、社会企業としての必要条件は満たしているものの、持続可能性を引き下げていると言う理由で不合格と言わざるを得ません。

ここに、別の企業を想像します。その企業は、全く利用されていない山の木を伐り、それを材木とし売り、材木にならない部分をチップなどの燃料として売り出し始めました。木を伐った跡地には、苗木を植え、将来世代のための準備も怠りません。地域では山仕事や製材、燃料化の仕事が生まれ、その結果地域内だけでお金が回る小さな経済圏も出来ました。ささやかに自分の山の木を伐って軽トラで運んでくれた人には、相応(数千円分)の地域通貨を支払います。それは地域の商店でしか使えないお金ですから、地域の経済は確実に潤う訳です。これなら立派な社会企業の例だと言って良いでしょう。何しろ、この仕組みは今後何世代にも亘って持続可能であり、炭素は山の木とその利用によりグルグルと循環し、経済活動によって大気中の二酸化炭素は増やさない(カーボンニュートラルだ)からです。

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2014年10月25日 (土)

2528 有形から無形へ

有形のものとは、実際に手に取り触る事の出来るモノを指します。例えば、食べ物や工業製品などが挙げられます。一方で無形のものとは、サービスや権利や負債や情報などといった類のものになるでしょう。とは言いながら、ものの価値(具体的にはお金に換算した場合の価値)でカウントするなら、現代社会でいう財産価値の大きさは、ヤマ勘で言えば7割以上は「無形の財産」が占めていると見ています。例えば、G-グルという企業の持つ(評価される)価値を考えても、多分広い敷地に立派な建物の社屋があって、データを集めるための機材(G-グルカー)なども多数走り回っているのでしょうが、それらの目に見える有形財産は、たぶんこの会社の持つ総資産の数%にとどまる事でしょう。残りは、株主でさえ直接には触る事の出来ない無形の財産の持つ価値で占められているのです。

G-グルが始めたことと言えば、インターネットで検索されるサイトに検索頻度に応じた順位を振り、あるキーワードで検索を行った場合にその順番にサイトが表示される様な「検索エンジン」を工夫した事だけです。検索の上位に挙がった企業からは、そのサイトに関する広告料が入る様に入れ物を作ったので、今や雪だるま式にお金が転がり込ん来る様になったのでした。そのお金を使って、種々の無料のエンジンやコンテンツ(例えばG-グルアース、G-グルマップ、ストリートビューなど)を作り出し、更に広告料を稼ぎだしている訳です。今や、自社のコンテンツを利用して、自動車の自動運転や小荷物のドローン配達など「有形サービス」にも進出しようとしています。

さて、無形の財が急激な勢いで増えているにしても、残念ながら無形のものは手で触れませんし、食べて栄養にする訳にもいきません。そう考えていくと私たちは、何時かの時点で有形なモノへの回帰を始める必要があると思うのです。空調の効いたオフィスで、データと向き合う仕事はソコソコにして、野に出て汗をかきながら食糧を作り、山の木を伐って材木やバイオマス燃料などとして最大限利用し、その後に木を植える、砂漠に緑を広げるなど、地に足を付けて有形のモノに向かい合って行かなければならないのでしょう。

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2014年10月24日 (金)

2527 工業社会型システム

何度も書きますが、イギリスから始まった産業革命は、アメリカ大陸やアメリカに渡って、例えばフォード生産システム型の大量生産を生み出し、この国に亘ってTヨタ生産方式にまで進化してきました。それは。いわば「工業型社会」が究極まで進んだ姿だと言えるでしょう。工業型社会の特徴は、大きな工場で同じ製品を大量に(多分安価に)作り、大量に売りさばくと言う社会システムでもあります。このシステムの長所でもあり最大の欠点は、動きだしたら止められない大きな慣性を持つと言ういうことでしょうか。大きな工場を作るには莫大な額の投資が必要で、それを回収するためには1日だって止める事は出来ない訳です。従って、その製品がある日に何個売れようが、工場では決まった数の製品を作って送り出すだけです。注文が取れてから作り出す受注生産や、売れた数だけ作ると言う準受注生産とは異なり、需給の調整はどこかの問屋や倉庫業がバッファーとなり、何とか帳尻を合わせる訳です。

しかし、このシステムでは景気の変動を吸収する柔軟性に欠け、景気が下向き在庫を抱えてしまうと生産量を急激に絞らなければならず、景気を更に悪化させる事になります。それは、工業製品が形のあるモノであり、一度製品にしてしまうと消し去ることが出来ない訳です。つまりは、工業型社会は、形があり手で触れるモノを作り出すと同時にモノに支配されると言う構造にもある訳です。

一方で、時代はモノの時代が終わりを告げ、今や情報や金融の時代に突入してしまった感があります。私たちが立ち止まって考えなければならないのは、それは私たちが意図してその様なシステムを作ってきたのではなく、工業型社会を動かすために結果として出来てきたシステムが、今や強力な牽引力で一人歩きを始めたと言う事実です。工業型社会を、今後どの様な社会システムに火引き渡すかは、流れのままに任せると言うにはあまりにもリスクが大き過ぎると思うのです。続きます。

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2014年10月23日 (木)

2526 前向きの環境保全

ある時期以降、具体的には92年のリオ宣言の前後以降、地球規模での環境への取組みや環境保全などという言葉が躍り始めました。しかし、この国の公害問題でもそうでしたが、先ずは問題が出ているところの火消しから始めるしかありませんでした。例えば、水質汚染や土壌汚染の悪化防止、オゾン層破壊へのブレーキ、環境ホルモンなど生物に影響を与える物質の制限といった、どちらかと言えば地域や物質を限定した狭い範囲での環境改善を指していたのです。しかし、京都会議で地球規模の温暖化という環境悪化要因が話合われ、その削減目標も一応数値化された訳です。

しかし、この議定書程度の削減目標で、温暖化に歯止めが掛かる筈もありません。焼け石に数滴の水程度の効果しかありませんが、しかし全く野放しよりは半歩は前進した事にはなります。とは言いながら、既に大気中に放出されてしまった膨大な量のGHGを回収するための話し合いではないので、所詮対策案でしかありません。つまりは後ろ向きの行動に過ぎない訳です。これは、上で述べた公害に対する改善案となんら変わるところはありません。

前向きの環境保全とは、そもそも環境に害を与える物質を作らない、あるいはGHGを出さないエネルギー、つまりは再生可能型エネルギー、に切り替えると言う行動こそ前向きと言える訳です。省エネに関しても、車や石油ボイラの効率を上げる努力もやはり同様に後ろ向きだと言えます。前向きと呼べるのは、車を使わなくても暮らせる社会やボイラを使わなくても済む様に、建物の高気密、高断熱化を進める様な方向を指すのです。この国でも、その方向に歩みを進めない事には、相変わらず後ろを向きで苦労が多くて、税金を食う割には効果の上がらない環境政策から抜け出せないでしょう。

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2014年10月22日 (水)

2525 時間というストレス

さて時間という概念を少し整理し直したところで、ここでは時間によって生ずるストレスを考えてみます。時刻という全世界共通の時の物差しが出来たことによって、便利な事が数多く実現したのは間違いないでしょう。のんびりした船旅ならいざ知らず、国内線の飛行機なら10分程度、国際線なら1時間以内程度の誤差で発着できるでしょうし、この国の鉄道会社なら、通常状態では1分以上の遅延も許さないでしょう。衛星放送や各種の相互通信も、時刻を合わせない事には上手く繋がらないでしょう。お天道様が、まさに南中するその瞬間が地上のある地域の正午として決められてからどのくらい経ったでしょう。グリニッジ天文台や各国の天文台の努力の結果でしょうか。

しかし、時刻の正確な定義と、先に述べた工場時間、お役所時間、事務所時間、鉄道(交通)時間や学校時間が決められてしまった事によって、私たちが受ける事になってしまったストレスも、実はかなり深刻なものであると思うのです。朝起きるのが苦手な人は、自分が所属するコミュニティが刻む時間によって非常に大きなストレスを感じている筈です。自分時間と世の中時間がずれている訳ですから、そのストレスは起きている間中続く訳です。決められた時刻の締め切りに間に合わないかも知れないと言うストレスは、多分多くの作家や著述家らライターの寿命を縮めたであろう事は、かなり自信を持って断言できます。

そのストレスからほぼ解放されて10年近くの歳月が流れましたが、実は投稿者としては「逆ストレス」も感じています。つまり、朝何時に起きて何時に寝ても誰にも文句を言われない様になると、ヒトのサーカディアンリズム(周日リズム)は、24時間ではなく25時間程度と言われているので、日々1時間ほど世間時間とのズレが生じてしまうのです。これではたまに仕事を引き受けた場合、遅刻して迷惑を掛けていまう心配もあるので、仕方なく自分時間を無理やり世間時間に合わせる努力が必要なのです。この、アクセスする人も少ない、字ばかりで写真も無い環境ブログを、出来れば毎朝7時に投稿する儀式を自分に課しているのもその行動の一つです。従って、今後も投稿し続けるつもりです。1000日分は遡れますが適当に拾い読みしてみてください。

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2014年10月21日 (火)

2524 工場時間

時間の話の続きです。農業が主体であった時代、A.トフラーが言う第一の波の時代、確かに季節は重要な時の刻みではありましたが、特にじかん時刻(hour)を気にする必要はありませんでした。今日の様に、時計による時間・時刻が労働の物差しに使われる様になったのは、実は産業革命で、大勢の労働者が一つの場所(例えば工場です)で、同時にしかも協働して作業をする様になってからでした。つまり、トフラーの言う第二の波以降の話だと言えるでしょう。何故時間がそれほど重要になったかと言えば、少し考えれば分かりますが、朝同じ時間にタイミングを合わせて同時に作業を開始する必然性があったからに他なりません。つまりは、例えば流れ作業のベルトコンベアのスイッチを入れる時間に、まさにそのラインの全ての作業者がスタンバイの状態にある必要があったわけです。

工場で流れる時間を、仮に「工場時間」と呼んでおきましょう。工場時間は、第二次産業が国の主要な産業であった時代、つまりこの国では戦前、取り分け戦後の工業化の時代を通じて、絶対的は物差しとなって行きました。一部の国では、例えば夏時間など変則的な時間の物差しが用いられる事もありましたが、それとて同じ国の中では、秒単位でリセットされる訳です。人々はテレビの時報を気にして秒単位まで時計を合わせる事でしょう。

工場時間は、しかし本来時間がそれほど重要とは思われない事務仕事やサービス業にもしっかり持ち込まれてしまいました。事務仕事やサービス業を、例えば工場の様に全員が朝一斉に始める必然性は全く無いはずです。それに気が付いた企業は、例えばフレックスタイムの様な、労働者の時間帯選択に自由度を持たせたワークスタイルを導入したりもしています。しかし、対多数の企業は現在でも、一斉始業でそれなりの残業をこなす様な働き方を継続しています。働く側から見れば、自分の人生で与えられた時間を切り売りするライフスタイルを取り続けているのです。究極のフレックスタイムとは、必要な時間帯に必要なだけの人数のワーカーを配置する事ですが、そうなれば誰の特になるかは分かりませんが、少なくとも交通渋滞や完全失業者の数が減る事は、経済の素人である投稿者にも想像できます。この国も、ソロソロ工場時間から卒業する時期でしょうか。

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2014年10月19日 (日)

2523 時間という物差し

フリーランスになって、基本的には時間がたっぷり使える身の上になりました。引き受けた仕事はしっかりこなしている積りですが、それ以外の時間は現状は単身赴任ということもあるのですが、全く自由に使っても誰からも文句は出ません。稼ぎが悪いとのクレームが、とある人から時々聞くくらいです。しかし、考える時間が増えて、かえって「時間」という概念が気になる様になりました。何故、目には見えない時間の流れに目盛を刻まなければならなかったのか。何故、お天道様や月の満ち欠けでの大雑把な時の刻みでは不味かったのか。今となっては想像するしかありませんが、時を刻んで正確な時間の目盛を作る事に、私たちのご先祖様たちは、それはそれは非常な努力を傾けました。水の流れる量や、振り子や、テンプと呼ばれる機械仕掛けやなど数々のカラクリが工夫されたのでした。

さて、時間の目盛の最小単位が1秒として、分や時間が決して便利とは言えない60進法で定義されて、私たちが得たもの(メリット)は果たして何があったであろうと、時々考え込んでしまいます。確かに、標準時が定められて、遠く離れた人同士が、時間を共有して事を進める事が出来る時代にはなりました。遠く戦国時代に、遠く離れた軍が同時に行動を起こすには、多分狼煙暮らいしか手段は無かったと想像されます。しかし、チャップリンも風刺していた様に、時間が定義されるに従って、私たちは時間に追われる生活を余儀なくされてしまったとも言えそうです。

かつてブラジルで1年間仕事をしていた時期がありました。ブラジル人相手に仕事をしていて気が付いたのは、彼らの時間の物差しが、まるでゴム紐に刻まれたものであるかの様に、かなり自由に伸びてしまうと言う事でした。確かに、スケジュールのイベントは刻むのですが、それは物事の進むシーケンスを示すのであり、前のイベントが終わらない限り、次のイベントには進もうとしないのです。私たち、日本人のチームは例えば「並行処理」などという無理な方法も使って何とか期限内にイベントを刻もうと努力する人種なので、大いにストレスを感じた者でした。今時間が自由に使える立場になって、ブラジル人の「ゴム紐流儀」もそんなに悪くはなかったなあ、と振り返っています。続きます。

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2014年10月18日 (土)

2522 世代間格差

格差社会と言われ出してこの位経ったでしょう。とりわけ年金などの負担と給付の不平等が取り上げられる様になって、世代間格差という言葉がマスコミにも頻繁に現れる様になりました。格差は、何時の時代にも緊張を作り出す元凶でもあります。人種差別による社会的格差、貧富の間の格差による次世代への格差の連鎖、地域間の格差による境界付近での紛争など,傍証には事欠きません。さて、世代間格差です。世代間の格差は、異なった世代が育まれた異なった社会背景にによって生じたと想像されます。ある世代は、戦後からの復興とそれに続く高度成長期を体感したでしょう。ある世代が青春時代を過ごしたのは、バブルの最盛期だったかも知れません、またある世代が学校を卒業する時には、いわゆる就職氷河期だったかも知れません。荒っぽく言えば、その時代の景気の良し悪しが大きな時代背景の一つである事は間違いないでしょう。

それに加えて、同世代の人口の多い少ないによっても、その世代が置かれた状況は大きく異なるでしょう。何かと話題に上がるのは、当然の事ながら人口ピラミッドの大きなコブである「団塊世代」でしょうし、その子供世代である「団塊ジュニア」でしょう。世代によって人口のコブが作り出すエネルギー=マンパワーが圧倒的に違うのです。そのパワーの違いは、200%にも及ぶのです。同じ年齢の世代が100万人しかいないのか、あるいは200万人を超すのかは非常に大きな違いになります。つまりは、人々は若い時代には自分や家族や社会を支え。退役してからは下の世代に支えて貰う訳ですが、その際に支え、支えられる負荷(Burden)が大きく異なる訳です。人口が、倍、あるいは半分であると支える荷重は、それぞれ半分あるいは倍になるからです。これは不公平であり、十分に世代間格差の原因になり得ます。

格差は、ある意味で何処の社会にも、任意のどの世代間にも生ずるのは止むを得ないものなのでしょう。何故なら、どの地域であれ、世代であれ置かれた条件は少しは、あるいは大きく異なるからです。必要な行動は、その格差をいくらかでも縮める努力だと思うのです。具体策については思いついた都度挙げていきます。

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2014年10月17日 (金)

2521 電気代の値上げ

H電力の大幅な電力値上げが報道されています。他社もたぶん追随する事でしょう。エネルギー資源の少ないこの国では、水力発電や僅かな風力発電などの再生可能エネルギーで発電する電力以外は、化石燃料による火力発電にせよ、再開がスケジュールに入ってきた原発にせよいずれにしても輸入燃料で発電している訳です。FIT制度を追い風に増えつつある再生可能エネルギーによる発電は、しかしすこし考えてみれば上積みされた買取り価格は電力の利用者が負担している事が分かります。買取り価格は20年間固定なので、42円で買い取られた分も、36円、32円で買い取られる分もさながら雪だるま式にそれぞれ20年間にわたり電力料金に課金が、上積みされ続けるのです。

化石燃料の価格は、しかし先進国を追い上げてきた国々が、ますます多量の車を走らせ、電化製品を使い続ける状況が続く限りは、多少の変動はあるにしても、電力料金もトレンドは右肩上がりにならざるを得ないでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、私たち消費者の姿勢と言うべきでしょう。この事態に対して、手をこまねいている時ではないのです。

先ずは、徹底した省エネルギーに取り組むべきでしょう。電力料金が10%値上げされるなら、15%の省エネで、20%の値上げには25%の省エネで対抗すべきでしょう。エネルギーの必要性を厳しく吟味しさえすれば、達成はそれほど難しい課題ではありません。実績として、私たちは二度のオイルショックの時にそれを成し遂げたではありませんか。あの時代、町のネオンサインやテレビ放送は、夜の12時になると全てスイッチが切られ、不要な電化製品はコンセントが抜かれ、電灯は小型のものに付け替えられるかまたは間引かれました。値上げに対して、省エネで対抗し、結果としては長い期間のエネルギー価格の安定を勝ち得たのでした。値上げ率に対して、常に省エネ率が上回るならば、それはやがては「値下げ圧力」となって、供給者に圧力を掛ける事につながり、やがて価格は安定する筈なのです。それを上回る省エネが実現できれば、やがてエネルギー価格は崩れてしまうでしょう。省エネの方法は、これまでもこのブログで縷々書き連ねては来ましたが、今後も追加する予定です。

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2014年10月16日 (木)

2520 自然の恵み

以前住んでいた岐阜県も飛騨地方が含まれ、どちらかと言えば中央からは外れてはいますが、ここ秋田は陸奥でも日本海側に位置し、更に田舎という言葉が似合う地域です。田舎は、都市や都会という言葉と対にしてイメージされる言葉ですが、そのイメージの中には山や川や田園風景、あるいは漁村といった風景がしっかりと埋め込まれています。というより、人が群れて暮らす都市に比べれば、人が自然に抱かれて暮らす場所というイメージに近いでしょうか。そこでは、人々は自然の恵みに大きく依存しする生活が送られる事になります。一方、都市はと言えばよりモノやお金、つまりは経済活動に関わって暮らす場所ということになるでしょうか。結局、モノやお金と自然は、都市と田舎と同じ意味で対局にあるとも言える訳です。

ここで何を言いたいかと言えば、今政治が進もうとしている道は、田舎を都市の経済活動に完全に取り込もうとするものであると言う点の指摘なのです。田舎が特権として持つ自然の恵みを、単純にお金に換算して果たして良いのか。もしそうするとしたら、その交換レートは一体どう定義すれば良いのか、誰にも答えられないとも思うのです。つまり、自然の恵みであるコメ60㎏の買取り価格が8000円で妥当なのか、あるいは山から切り出した木材1㎥が、果たして5000円で正しいのかどうか、山の湧水を滅菌した水の500mlPETボトル詰めが一体ガソリンより高い100円で売られて良いのか、誰が答えられるでしょうか。ご先祖様が、苦労して急斜面に這いつくばって植林し、その子供が間伐や枝打ちをし、孫世代がそれを伐採したとして、結局は木を育てたのは、山から流れ下る雪止め水とお天道様の合作でしかない訳です。山からの湧水は、山に降った雨水や雪解け水を、樹木の落葉が作ったフカフカの林床と山が火山活動で積み上げた岩や火山灰をフィルターとして、きれいに濾された水でしかないでしょう。

自然の恵みに安易に値段を付け、更に言えば機械化、大規模化してその値段を下げて、輸入穀物や外材に勝負を挑む事を強要する行為自体、自然の恵みという言葉の前では殆ど無意味な様な気がするのです。自然の恵みには、それを持続可能な形で利用する限りにおいては値段はつけられず、単にそれを利用する人のかく汗を代価として要求するだけなのです。自分が必要とする以上の恵みを収奪し、それに値段を付けて換金する行為そのものが、このブログに散々書いてきた、長い間「間違った方向」に歩いてきたしまったと言う想いの底にありそうに感ずるこの頃です。

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2014年10月15日 (水)

2519 順序が逆

同様の表題でこれまでにも投稿した様な気もしますが、繰り返しても繰り返し足りないテーマだとも思うので、もう一度書いておきます。ここでは、企業が抱える最大の課題である「どんなモノ(サービス)を提供したら我が社の収益が上がるのか?」を考えてみます。ある会社が創業され、創業者やそれを引き継いだ後継者の不断の努力で、徐々にあるいは急激に規模が拡大し、現在に至ったと言う企業は多いでしょう。大企業と呼ばれるそれほど数は多くない企業は始め、中堅企業と呼ばれる企業群、それらを支える中小零細企業群は300万社を大きく超えています。しかし、残念なことにとりわけ中小零細企業数は、毎年数%という大きな割合で減少もしているのです。

その理由を考えてみれば、それはそれらの企業存続に対する社会的要請が弱くなってきた事に根があると理解できるでしょう。それらの企業が設立された時の社会的背景と現在のそれが大きく異なっていると言うしかありません。とは言いながら、長い歴史を刻み、一定の社会的ポジションを得て、それなりの従業員も抱える企業が、社会的な要請が弱くなったと言うだけで、社会から消えていくのは確かに忍びないものがあります。

しかし、考えなければならないのは物事の順序なのだと思うのです。長い間存続して企業も間違いなくそれなりに生き残るための努力はしてきたとは思います。しかし、高度成長期を経て、もしかして「作れば売れる体質」や「下請け体質」に陥っていたと言う事は無いのでしょうか。作れば売れた時代もあったし、下請けは確かに楽な選択です。景気の山谷はあったにしても、悪くても一定以上の発注があったでしょうし、残業をしなければ追いつかない位に仕事量も増えたこともあったでしょう。しかし、長い間の景気停滞期に、無理なコスト削減を要求され続け、体力も徐々に失われてきた筈です。今ある設備や人材を最大限活用しながら、新たな分野に進出したいと考える企業も多いのも頷けます。

しかし考える順序は、今の社会は何を要求し、その先にある「あるべき社会」は何を求めるかという基本的な問いが先だと思うのです。その上で、我が社はその目標に向かってどの様な手を打つべきか、と問えば、自ずと将来手に入れるべき技術や人材が見えてくる筈なのです。苦しくなってから打つ手にロクなものが無いのは、あまたの歴史的事実が教えるところです。先手を打つには、先を読む力が欠かせないのです。しかし、未来は現在をそのまま伸ばした先にある訳ではありません。どの様な社会が理想で、しかも持続可能であるかを常に問い続け、それを支えるべき企業の姿を描き直していく事だけが、長く続く企業を作るのだと見ています。今の社業ありきと言う逆の発想では、今後も企業数減少は続くと言わざるを得ません。

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2014年10月14日 (火)

2518 休題(冨士になり損ねた山)

秋田と山形の境に鳥海山という山があります。出羽冨士とも呼ばれ、コニーデ型の美しい山容の活火山なのですが、残念ながら東西方向から見ると、二等辺三角形がかなり崩れています。北側が大きく抉られ、それが山裾の方向へ大きく崩れてしまった様にも見えます。本物の富士の頂上にも火口があり、それを外輪山がきれいに取り囲んでいます。御鉢です。しかし、鳥海山の頂上のお鉢は北半分が欠けてしまっているのです。コニーデ型の火山は、比較的粘度の低いマグマと火山灰が積み重なり、徐々に円錐形の山塊が形成されますが、鳥海山の場合は太古の昔に、たぶんやや北側に偏った山の側面の火口から大噴火を起こし、北側の外輪山の一部と山塊を大きく吹き飛ばしたものと思われます。吹き飛ばされた山塊は、いまは鳥海高原呼ばれる広い台地を形成し、更に遠くまで飛ばされた噴出物がたぶん出羽丘陵を作ったのでしょう。更に、日本海の方向に、大きく張り出したコブもあります。さながら、2つの火山が融合した様でもあります。

その噴出物の量は膨大で、もし順調?にマグマと火山灰を放出し続けていたと仮定すれば、間違いなく本物の富士と同程度の高さの山には成長?していた筈なのです。たった1回あるいは数回の大爆発が、2200mを少し超えるものの、ささやかに東北で二番目の高さの山に留めてしまったのでした。ちなみに控えめなことに、少しの差で福島の燧ケ岳に東北一の座を譲ってもいます。

投稿者は、今年もこれまで10回ほど登頂しましたが、何度登っても飽きる事の無い山の一つです。それは、日本海から吹き上がってくる湿った風による大量の雨と冬季の豪雪が、豊かな水を涵養して多様な高山植物や裾野のブナを主体とする広葉樹林を育み、それが季節毎に多くの昆虫や鳥や動物を引き付けるからに他なりません。もちろん動物であるヒトも含めて・・・。

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2014年10月13日 (月)

2517 片目盛のスケール

今の社会が望ましい姿であるか否かについては、それを測るスケール(物差し)が必要です。しかし、今のところ経済目盛しかないスケールだけで測られている様です。つまりは、GDPがどうだ、貿易収支がどうだ、インフレ率がどうだ、それに収入が追いついているいないなどと議論だけが虚しく行き交います。しかし、人々の幸福度はそれだけでは測れません。ココロの問題が完全に抜けているからです。たとえ経済的に貧しくても幸福な人たちは確かに存在します。ヒマラヤに抱かれたB-タンもその様な人たちが多く住む国です。では、彼らの幸福度のスケールとはどんなものなのでしょうか。

想像するに、それは自分が生きていること、生かされていることに感謝し、手を合わせる生活なのでしょう。つまりは、少なくとも彼らはココロの部分はしっかりと満たされているんだろうと見ています。物質的な面では、確かに不自由も多いのでしょうが、元々モノの少ない生活をしていれば、それが苦しいとは思わないはずです。それは、自分の子供のころ、決して豊かとは言えず、何より店に並んでいる商品の量も種類が少ない田舎町では、消費意欲そのものもそれほど強くなりようが無かったのです。もちろんその当時でも、都会にはそろそろモノが豊富に出回り始めていたでしょうから、人々の消費への意欲も活発化していた筈です。その兆候は、日々流されるテレビCFの中のキラキラする商品群だった様に思います。

そのテレビやマスコミによる消費意欲の強い刺激力は、ココロに刻まれている満足度の目盛をドンドン引き伸ばします。まるで延び続けるゴムひもに刻まれた目盛の様に。もし、今の物欲というスケールをここままにするなら、私たちのココロの満足度の目盛も同様に長く引き伸ばす必要もあるでしょうし、それが出来ないなら、物欲目盛を出来る限り小さくなるように努力すべきでしょう。そうでなければ、私たち自身の人格のバランス、ひいては社会のバランスが保てない筈なのです。その意味で、Aベノミクスの政策は物欲(景気浮揚)に大きく偏向していると言うしかありません。バランスを取るための具体的な提案については続きます。

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2014年10月11日 (土)

2516 三世代同居のススメ

一つのアイデアです。今住んでいる(平成の大合併で)人口8万人を少し超えた地方都市でも核家族化は着実に進行しています。その証拠は、町の中心の近くでは駅裏の田んぼが埋め立てられて、核家族向けの新しい小さな住宅が次々に建てられている一方、郊外の集落では大きな空き家が増え続けています。しかし結果として、毎年1000人規模で人口が減っているのですから、間違いなく急速に三世代同居家族は絶滅危惧種になりつつあると言う勘定になります。

しかし、考えてみれば人格的にバランスの取れた子供は、優しいだけの祖母と経験豊富だけど頑固な祖父、それと自身が発展途上の大人である両親と、素直な兄(姉)、やんちゃな弟(妹)達に囲まれて育つ必要があると信じています。総理が女性の輝く社会だのなんだのと言おうが、女性が安心して働きに出るためには、子供を安心して預けられる親と三世代住宅なくしては話も始まらないでしょう。一組の夫婦が育む子供の数も、自然に3人以上には増えてくるはずです。年々年老いていく両親も、子や孫に囲まれて暮らしているのは生き甲斐でもあり、安心でもあります。人は、病院で管を繋がれて生きながらえるより、家族に囲まれて少し早めに天国に旅立つ方が絶対に幸せな筈です。医者の役割は、死にゆく人の苦しみを軽減して、最後は脈を取って厳かに臨終を伝えるだけで十分でしょう。

資源やエネルギー的にも三世代同居には多大なメリットがあります。核家族と同じエネルギーで大家族分の調理は可能でしょうし、おばあちゃんの知恵を使えば、食材の無駄も無くなるでしょう。冷暖房にしたって、照明にしたって皆が居間に集まって過ごせば、核家族住宅とそんなには変らない筈です。仮に1.5倍必要だったとしても、2世帯が一つ屋根の下で暮らす訳ですから、何も考えなくても25%の省エネが簡単に達成出来てしまう勘定です。多分実際の効果はそれ以上でしょう。

Aベノミクスも何もたぶん必要はありません。先ずは三世代同居優遇策を打ち出すだけで十分でしょう。そのためには住宅の建築や改装工事が必要となりますし、無理な保育施設の増設や助成金も不要です。省エネが格段に進み、一所帯に必要な車の台数も減るでしょう。子供は心身ともに健康に育ち、ビジネスとしての介護産業も、身寄りの無い人向けに限定出来ることでしょう。医療費が減り、介護予算が減り、原発再稼働が不要になり、経済もそれなりに活発に出来る、三本の矢ならぬ、三世代の家、政策でこの国の多くの問題が一挙に解決できると思うです。こんな政策を打ち出す政党は現れないものでしょうか。多分無理か・・・。

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2014年10月10日 (金)

2515 水>食糧>エネルギー

私たちが生きていく上で大切なものから順に挙げよと言われれば、表題の順になるでしょうか。水は、この国ではありふれた資源としてぞんざいに扱われていますが、実は毎日口にしている食糧を考えれば、水なしにはコメ一粒ですら作れない筈です。例えば砂漠の国々では、国土がどれほど広くても、不毛の砂原が広がっているだけです。仕方がないので、彼の国々では雨季だけ細々と農業をするか、石油が出るお金持ち国では、化石エネルギーを使って海水を蒸留して飲み水や緑地の散水に使っているのです。水なしには、どんなに肥沃は土壌であったとしても、草木は生えない訳です。その大切な水は、残念ながら極端に偏在しています。地域的にも、季節的にもです。とりわけ、人口の増加が著しいアフリカ大陸やC国やIンドはもちろんですが、穀物を輸出する側であるB国やG州の穀倉地帯も乾燥化が進んでいます。それは、70億人を超え、毎秒毎秒数人ずつ増えている世界人口を支えるための十分な食糧が行き渡らないと言う事態を意味します。

もちろん、必要な水は「淡水」ですので、化石エネルギーを使って海水から真水を作ると言う道も考えられます。しかしながら、そのエネルギーも有限であり、人口増加の圧力によって需給はますます逼迫する方向にあり、水を作るためにだけ潤沢に使う訳にもいきません。結果としては、淡水の確保は今後とも後手を踏み続ける可能性が大なのです。道は、太陽光(熱)だけを使って海水を淡水化するか、あるいは大気中の水分を搾り取る方法しか残されていないと思うのです。

そのために必要な仕掛けとしては比較的単純なものではありますが、残念ながら太陽光のエネルギー密度は低いため、大気規模化には不向きなのです。それだけで人口が集中した都市の水供給や大規模な砂漠農業を支えるのは困難でしょう。分散した蒸留装置の周りに、人も分散して住むしかないでしょう。日々増加する人口を考えれば、たとえ焼け石に水ではあってもこの方向に進むしかないのでしょう。一方では、太陽熱による淡水化技術は一向に進歩していないのも残念な事実ではあります。この国にはそのための十分な技術がありながらです。

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2014年10月 9日 (木)

2514 遠キ慮リ

遠慮とは、単に他の人に気を使って自分の欲求を抑えると言う意味ではありません。というより、これは孔子さんの教えを熟語にしたものでした。オリジナルは「人にして遠き慮り無かりせば、必ず近き憂いあり」というものです。遠き慮りとは、単に他人への慮りのみならず、まだ見ぬ遠い先の子孫への慮りをも意味します。これを怠れば、進むべき道を過ち、近い将来に憂いを生ずると言う教えです。一歩踏み込んで、さらに「慮る」と、遠い将来の社会や子孫の幸福を思い描いて、それを実現する様に進むべき方向を定めなければならない事を意味すると思うのです。これを今流行の言葉で言えばバックキャスティングでしょうか。あるべき社会を思い描き、それを現在に引き戻して次の一歩を踏み出す事を指します。

さて、そのあるべき社会を正しく思い描くのは、結構骨の折れる作業でもあります。20年前、バブルが崩壊して途方に暮れていた頃、現在のIT社会を正確に思い描けなかったのと同様、今から20年後のあるべき社会を正確に描ける筈もありませんし、ましてや数代先のまだ見ぬ子孫の幸福を確実なものにするために、必要な次の一歩の方向を決める事など更に難しそうにも思えます。内挿により正しい値を弾きだす事は容易ですが、これまでの歩みを外挿して、あるべき将来を描く事は、想定が粗ければ荒い程、先々の誤差が大きく振れる事になるからです。過去の成功体験を持つ現世代のリーダーが、底の浅い三本の矢で景気を浮揚させ。借金を減らそうなどと夢想すること自体、逆に将来世代に重いツケ回しをしようとしている事態を思い致すべきでしょう。

そうではなくて、今痛みを感じながら質素な暮らしに甘んじ、将来世代に資すべき財産を蓄えるべきなのです。財産と言っても決して目に見えるモノだけを意味しません。これには持続可能性を担保する知恵も含まれますし、むしろ知恵の伝承の方が重要ですらあります。モノであれば使ってしまえば目減りするからです。遠い子孫や彼らが安心して暮らせる社会を慮りながら、持続可能なかたちで暮らせる方法や知恵を、今からしっかり貯めこんでおきたいものです。

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2014年10月 8日 (水)

2513 そんなに急いで・・・

古い交通安全の標語ですが、かつて「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」という名作がありました。確かに、この国はその昔は昔歩いて往来したほどの狭い国でもあります。確かに、歩くと言う行為は移動手段としても最も遅い方法でもあり、移動の身体的負荷や費用や掛かる時間を考えれば、あまり良い選択とも思えません。しかし、よくよく考えてみると、その当時(江戸時代)は、旅そのものの過程が楽しみでもあり、人生の良きメモリーでもあった筈です。現代の旅行は旅行は単なる移動の手段ですが、旅はその過程を楽しむレジャーでもあった訳です。もちろん、歩く事はヒトに、基本的な運動能力の向上を要求しますので、昔の人は小柄でも体幹が強く、一日に10里(40㎞)歩くのも、それを何日も続けるのもへっちゃらだったでしょう。

急がない事の効用は他にもありそうです。例えば、数学の問題を解くには、公式を暗記しておいて、問題をそれに当て嵌める事さえできれば、後は単純に四則計算をする作業が残るだけです。これでは、とても問題を解く過程を、ましてや考え方理解したとは言えないでしょう。テストのスコアは確かに満点が採れるでしょうが、大人になって公式を忘れてしまえば、何も習わなかったのとそんなに違いはありません。いわゆる「応用の効かない」人材が、暗記重視の教育システムで大量生産される事につながります。思い返してみると、多くの子供達をシステム化されたテストでフルイに掛け、偏差値で層別すると言うやり方は、われわれ以上のいわゆる団塊の世代に対応するための「方便」だった筈です。それが、コンピュータを使うマークシート方式や、センター試験などという新たな方便を経て、今の「教育問題」の根となっていると見ています。

旅から教育に話が飛びましたが、ここで言いたかったのは、物語記憶(陳述記憶とも呼ばれます)の重要性です。これは、意味記憶とエピソード記憶からなり、物語を語る上で必須の記憶法になっています。つまり、物事の進む過程で生じたエピソードを順を追って回想し、それに意味を乗せて記憶する能力です。残念ながらコンピュータではないヒトは早いスピードでそれを行うことは苦手で、一定の時間や反復も必要です。しかし、落語家が数百本のネタを記憶している事を見ても、少なくとも物語の筋を順を追って記憶する事はそんなに困難とも思えません。しかも、物語記憶は年齢を重ねても消えにくい記憶でもあります。過程を楽しみながら旅をし、プロセスを理解しながら問題を解く事を重視するじっくりとした教育を施せば、今の社会の課題とされる「諸問題」を解く事の出来る若者も増えると思うのです。ヒトは言葉を得ただけではなく、物語記憶の能力を発達させたことで「口伝」が出来る様になって文明も起こったはずなのです。

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2014年10月 7日 (火)

2512 不便を楽しむ

2511で書いた質素とは、では具体的にどの様なライフスタイルを指すのでしょうか。それは、「必要かつ最小限」という言葉で表されるでしょうか。しかし、時代と共にその基準はドンドン贅沢側にシフトする事でしょう。例えば、今の時代一家で数台の車を所有していたとしても、特に公共交通機関が不便な田舎の世帯では、もはや贅沢とは思わなくなってしまいました。食生活で言えば、夕食におかずが3品も並んでも贅沢とは感じなくなっているでしょうし、さらに言えば毎日10時や3時に用意するおやつだってたぶんそうでしょう。とは言いながら、少し努力すればどうにかなる程度の不便を解消するためのエネルギーアシストの道具(車や電動~を指します)や、楽しみのための(余分なカロリーの)飲食はやはり贅沢と呼ぶしかないでしょう。

しかし、必要かつ最小限のチェックは、主観だけの基準では十分ではありません。加えるべきは「それは持続可能か否か」という根本的は問いにYesと言えなければならないのです。このブログを「環境ブログ」と呼んでいるのも、ベースにこの事を意識して書いているからなのです。環境を短期間に改変してしまう行為は持続可能とは言えないからです。エネルギーに関して言えば、太陽光の直接利用やそのエネルギーを植物が固定したもの(バイオマスと呼ばれます)を、持続可能な形で利用するのは、上の基準に照らしても全く問題が無い行為だと言えます。モノに関して言えば、完全リサイクルが容易な少量の金属や、持続可能な林業から生れる木材を主体にした材料で作られている事が要件です。掘れば無くなる石灰岩を原料とし、大量の石油エネルギーを使って作られるセメントでさえ、極力減らすべきなのです。

食糧に関して言えば、先ずは10㎞圏内で作られる食糧を基本に組み立てる必要があるでしょう。もちろん都市部では無理な話にはなりますが、田舎では十分可能です。何故なら、水分がたっぷりと入った生鮮食品を遠くへ運ぶ行為自体が、化石エネルギーに依存した輸送システムを必要としているからです。冬場に野菜が採れなければ、安い時期に仕入れて瓶詰めなどにして保存しておく手間を掛ければ、懐にも優しく暮らしながら地場の食品を有効活用できる筈です。

必要な行動は、車に乗り込む前に少し早起きして歩きや自転車を引っ張り出す事を考え、スーパーで季節外れの食材に手を伸ばす前に、旬で値段が下がっている食材を、近くの産直市場で見つけるべきなのです。不便は工夫を必要とし、工夫することはヒトの人たる所以でもあるのですから。

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2014年10月 6日 (月)

2511 個人は質素に・・・

「個人は質素に、国は豊かに」は、企業再生の神様と呼ばれたD光敏夫の言葉だと伝えられています。今こそ私たちはこの言葉を噛みしめなけれなならない時代に至ったと思い定めるべきでしょう。氏の食事が質素であった事は、今も語り継がれていて、企業再生のために、いくつかの企業のトップに座っていた時でも、日常生活では安い魚、つまりはメザシだかウルメボシだかを好んで食べていた様なのです。再生を任された企業においては、率先垂範がモットーで、朝誰より早く出社するため、部下は更に早く出社せざるを得ない状況だった様です。社員には更に汗をかく努力を求め、自分はその上を行く大汗をかいたと伝えらえています。

しかし、右肩上がりの時代、チャンとした経営さえ行えば、どんな企業でもそれなりの業績は上げ得た筈なので、氏はある意味でラッキーにも恵まれたのかも知れません。しかし、見習うべきはその企業再生のテクニックではありません。個人は、贅沢を控えて質素に暮らすべきというライフスタイルこそ学ぶべき姿勢なのです。先ずは食生活です。我々のご先祖様(モンゴル等を経由し朝鮮半島、あるいはと南と北島伝いにやってきました)は、その長い移動の過程で、質素な食生活に耐えられる様に進化してきたのでした。その証拠としては、アメリカに移住した日系人や、同じご先祖を持つネイティブアメリカンに、20-30%高い率で糖尿病の発症が見られることが挙げられます。間違いなく、カロリーや糖分の取り過ぎが原因の生活習慣病と言えるでしょう。同様の事態が、この国の中でも起こっています。経済的に余裕の無い人ほどジャンクフードや甘いい飲料を好む傾向は、洋の東西を問わず変りません。先ずは適正体重になるまで、カロリーを減らしてみるべきです。我々は飢餓には強いDNAを持って生まれており、飢餓になるとそれに耐えるスイッチも入る筈なのです。

質素について更に言えば、モノやエネルギーに関しても一言書いておく必要があるでしょう。1970年代、この国で人々が暮らしていくのに、モノやエネルギーはおよそ半分の量で済んでいました。統計データがそれを裏付けています。しかし、私たちはそれが苦しいとも辛いとも感じませんでした。それは私たちには将来への夢があり、そのためには今の質素を厭わなかったからだと振り返っています。D光に学ぶべきポイントはといえば、上からやらされる質素にはストレスを感じますが、まだ見ぬ子孫のために自ら進んで実行する質素には、逆に達成感が伴うと言う決定的な違いに気付く必要があるということでしょうか。

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2014年10月 5日 (日)

2510 都市山小屋論-再び

このブログを書き始めた頃、~論に凝っていました。勝手に自己流の~論を考えてそれを展開すると言う趣味の様なものです。その中に「都市山小屋論」というものがあって、気に入っていたので、ここで、もう一度書き直してみると次の様になります。

社会に「進歩」と呼ばれる歩みがあるとしたら、それは登山にも喩えられると思った訳です。科学技術や工業化という「装備」を携えて、私たちは山の高みに向けて高度を稼いできたのでした。時には、ガスが掛かって視界が悪かったり(不景気でしょうか)、雨が降ったり嵐が吹き荒れた事(戦争?)もありました。しかし、一歩一歩地面を踏みしめて標高を上げてきたのです。しかし、残念ながら山の頂上にあったのは、緑も水も無い荒涼とした風景だけでした。しかし、人々はそこに家やビルを建て、インフラを敷いて住み易い土地にしようと必死に努力したのでした。そこを即ち「都市」と呼んだ訳です。都市は、しかし現実の山小屋同様、全ての物資や水・食糧やエネルギーの類まで、全てを麓から担ぎ上げなくては、何も始まらない場所でもあります。

例えば、地震で都市に入る高速道路や幹線道路が何本か通行止めになったり、あるいは大動脈と呼ばれる鉄道がストップした場合を想定してみます。大都市である首都機能はほぼ完全にマヒし、コンビニやスーパーなどのストックは、数日で空っぽになってしまう筈です。山小屋にも1週間程度のストックしか無いのと同様、都市にもストックする場所はあまり設定されてはいないのです。それは都市が、極限まで緻密にプログラムされた輸送網を通じて、毎日毎晩多くの物資が運び込まれ、またガス管や水道管や送電線などのインフラを通じて、モノやエネルギーが絶え間なく供給され続けると言う大前提の上に成り立っているからに他なりません。

一方で、都市は多くの廃棄物も出し続けます。いわゆるゴミと呼ばれる燃える、あるいは燃えない廃棄物、下水と呼ばれる排水、あるいは工場や家庭や車などからは、信じられない程の量の排気ガスも排出されています。山小屋も定期的にトイレのし尿やゴミを、ヘリコプターで下界に降ろさなければ、それ以上山小屋に人を泊める事は出来なくなるでしょう。都市も、供給側の動脈と排出側の動脈が、しっかりバランスを保っているからこそ成立しているのだ、と言えるでしょう。しかし、そのバランスが未来永劫続く保証はどこにもありません。私たちはもう一度山麓を見直さなくてはならないと思うのです。都市の山小屋から見ての麓とは、当然の事ながら我々世代や我々の先輩が大挙して都市に向けて出てきた土地、田舎を指します。田舎は確かに寂れはしましたが、今でも完全に食糧やエネルギーもほぼ自給でき、持続可能な暮らしが出来る土地であり続けています。続きます。

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2014年10月 4日 (土)

2509 コメの6次産業化?

お上に言わせれば、日本農業再生の切り札は、大規模化と6次産業化なのだそうです。果たしてそれは正しいのでしょうか。大型化のひな形は、既に秋田の干拓地で50年もの長きにわたり実験が行われてきました。ヘクタール単位の大きな田んぼを、大型の農業機械を駆使して耕作すると言う八郎潟モデルです。しかし、戦後B国から無理やり押し付けられた筈の小麦食(パン食)や麺食が、今や食生活の半分かそれ以上を占める様になった結果、コメは毎年余り続け、低温倉庫や常温倉庫は常に満杯の状態が続いている訳です。低温倉庫では冷却のためのエネルギー代がかさみ、一方の常温倉庫では、かなり有害な薬剤を使った燻蒸処理による薬剤残留が気になるところです。

さてコメを最終商品に加工して売る6次産業化ですが、それは本当にビジネスになるのでしょうか。コメの最終商品は炊飯された状態、つまりは米飯ですが、これを売っても切り札になるとはとても思えません。パックされた米飯をレンジで温める文化は、炊き立てをベストと考えるこの国の食文化には馴染みません。それならば、米粉で小麦粉を代替する方向はどうでしょう。例えば、米粉パンや米粉うどん(パスタ)などが考えられます。実際、その市場はジワジワ広がっている様なのですが、問題は価格です。ざっと眺めてみると、米粉の段階で同じ重さの小麦粉の倍程度の値段がついている様なのです。しかし、小麦粉のポストハーベスト処理や遺伝子操作種などの混入リスクなどを考えれば、国産の燻蒸処理前のコメは、格段に安全な筈なのです。もう少しコストを抑える事が出来れば、小麦食の優位にある程度は迫れるでしょう。さらに言えば、米粉を使った新たな食材や調理方法の工夫がまだまだ足りない様に思えてなりません。ビーフンなどの食材にする手もあります。

それにしても、大規模化が可能なのはコメや小麦や北海道などで行われているジャガイモ位でしょうし、産地で最終商品に食品加工を行ったとしても、それを売り捌くには人口密集地に運ぶ必要があり、いわゆる小売コストも嵩むでしょう。結局、大規模化や6次産業化などと言うお題目は、お役人が作った作文の題と言うしかありません。それを鸚鵡返しに繰り返すしかないマツリゴトを行う立場の人も困ったものではあります。オッと、このブログではご法度の「批判」になりかけていました。

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2014年10月 3日 (金)

2508 FITの息切れ

T北電力を含む電力各社が、太陽光発電のFIT買取りに急ブレーキを踏んでいます。これ以上太陽光電力の割合が増えれば、広い地域が晴天になった場合、過剰な電力が送電網に溢れ、最悪の場合大停電が起こってしまうのだとか。これは、お金だけで誘引するFIT制度の一つの限界かも知れないと思える事態でもあります。電力網は、一つのインフラ(ハードウェア)でもありますし、何より電力は基本的には貯め(バッファー)が作りにくいエネルギーであるため、需要(デマンド)と供給(サプライ)が常に均衡する事が求められます。

しかしながら太陽光発電は日中の限られた時間しか発電しませんから、デマンドとサプライに時間的なズレが生じやすいのです。しかも、太陽が照らない日には、太陽光発電から期待された電力が供給できないため、火力発電でそれをバックアップする必要があるのです。電力の共通側の余裕は、夏場のピーク時では数%しかありませんから、例えば太陽光発電が全発電量の10%を超える様になった場合、必然的に10%相当の電力がグリッドに入ったり、抜けたりする「外乱」となる訳です。大規模な発電所程、細かな負荷の増減は苦手なので、突然太陽が隠れると電力が足りなくなって電圧低下を起こし、逆に火力発電所が頑張っている時、雲が晴れて突然太陽光の電力が流れ込んでくると、電力余剰=電圧上昇を起こし、最悪の場合一部のグリッドを遮断せざるを得なくなるのです。

これが、風力発電の場合は、天気予報により予め風況を予測し、火力発電側で対応の準備をしておくことが出来ますが、太陽光発電の場合は直射日光を受けているか、あるいは太陽が雲に隠れるかで発電量が一桁違ってくる事になります。これは、火力発電所にとってみれば、頻繁な負荷調整を強いられる事を意味しますから、電力各社は拒否反応を示している訳です。これを回避するには、やはりエネルギーの地産地消とバッファーシステムを備えなければならないでしょう。大型のいわゆるメガソーラーをドンと据えるのではなく50kw以下の小型システムを地域ごとの停電圧グリッド上に分散させて設置するべきです。同時に、電気自動車や家庭用のバッテリーシステムを各戸に設置し、デマンドそのものを自動的に安定させる必要があるでしょう。いわゆるスマートグリッドの考え方です。これは、これまでの商用電源から、より自律的な電力供給しシステムに近づける事を意味します。

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2014年10月 2日 (木)

2507 ストロー効果

101日で新幹線開業後50年だそうです。ついでながら、秋田では大潟村開村も50周年を迎えました。一見関係が無さそうな二つの50周年ですが、両方とも人口増加と高度成長期の要請であった事が共通しています。この時期人口の増加率が右肩上がりになり、都市への人口流入も増えて、結果として人の移動量も急増しました。同時に、食糧増産も急務だった筈です。岡山県の児島湾や秋田の八郎潟の大規模な干拓によって、広大な農地(水田)が広がり、大幅なコメの増産が可能になるからでした。しかるに、コメ余りで埼玉県と同程度の広さまで休耕田が増えてしまったと言う今の状態があります。

さてストロー効果です。これは、一般的には新幹線延伸や本四架橋など、交通インフラが便利になった結果、人口の都市への集中が更に加速し、地方の過疎が進む現象を指します。つまり、交通インフラが人口を吸い上げるストローの様に作用し、地方の人口流出に歯止めが掛からなくなる状況です。一方で、このストローを通って例えばモノや観光客も地方に向かいますが、結果としては、地方の「お金」の収支でみると赤字が止まらなくなっているのも事実です。人口とお金の両方が地方から流出している訳です。観光客が飲食やお土産でそれなりのお金を落とすにせよ、観光ツアーの売り上げは、結局都市の業者が吸い上げますし、大手流通業や石油会社が地方にモノやエネルギーを売りつけ続ける限りにおいては、お金の流出には歯止めは掛からない訳です。

これは、取りも直さず都市と地方の「引力差」に起因するインバランスとも言えるでしょう。人とお金を都市と地方で綱引きした場合、これまでは圧倒的に都市に軍配が上がっていたのでした。この流れに歯止めを掛けるには、地方の魅力を増やすr必要が喫緊の課題でしょう。それは単にイベントを打って観光客を増やす事は意味しません。それはイベント限りの単発効果でしかないからです。そうではなくて、地方からあるべき社会に向けた情報を発信する必要があるのです。会津の作り酒屋さんが始めた地域発の太陽光や小水力の発電事業もそんな例の一つでしょうし、山形県で市民レベルで盛り上がっているバイオマスエネルギーの利用拡大も参考になるでしょう。地方は、熱くて面白そうだと言う情報が都市に届けば、自然発生的に若者が地方に目を向け始めるでしょう。FBなどSNSなどで比較的簡単に情報発信が出来る昨今、先ずは面白くて、地域内でお金が回る仕掛けを増やしていく事が、ストローを逆流させる近道になるでしょう。

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2014年10月 1日 (水)

2506 火山という環境

日本は間違いなく火山国です。ユーラシアプレートという大きな岩盤に、太平洋プレートやフィリピン海プレートに加え、北米プレートが三つ巴になりながら潜り込んでいると言う特異な場所に列島が乗っかっているからです。そのせめぎ合いの圧力の中で地下に膨大なエネルギーが蓄積され、それがしばしば地震や火山噴火という形で放出される事になります。

しかし、その様な危なっかしい国に暮らしているからには、私たちはそれを「環境」として受け入れざるを得ないのでしょう。一方で地下のエネルギーは、険しくしかし美しく空に突きだした山々を盛り上げ、あるいは鹿児島湾や噴火湾の様な巨大美しい湾や風景を作り出し、かつ各地の温泉地には豊富なお湯を湧きださせる、創造主でもあります。私たちはそれを享受するに当たっては、十分な畏敬の念と共に感謝を忘れてはならないと思うのです。お山の怒りを鎮めようと、私たちのご先祖様は多く神社を建立し、お山の頂上には祠を作ったのでした。それでも、地下のエネルギーの蓄積が極限状態に至ると、お山は少しため息を吐くように噴火を繰り返すのでした。

それは、日本の国土の大部分が、噴火による灰が固まった凝灰岩や、あるいは広島で土石流を起こした様な火成岩が風化した脆い土壌、あるいは火山灰そのものが降り積もったローム層の様な土砂で覆われている事でも分かります。富士山は、近世になってからも何度も噴火し、大きな災害をもたらしてきましたし、桜島は今も大小のため息やゲップを繰り返しています。北海道でも有珠山を始めとしてそうそうたる小山が連なっていますし、東北も火山のメッカでもあります。八甲田、秋田駒、岩手山、焼山、栗駒山、鳥海山、蔵王、吾妻山などなど。私たちは、この国の創造主である山の神々が、しばらく大きな咳払いをしていないラッキーな時代に生きていると考えなければならないのでしょう。海洋プレートを動かす原動力であるマグマの対流や地下深い場所からの湧き出し(プルーム)が活発化するメカニズムが一体何なのか、実のところ詳しくは分かっていないのですが、間違いないのは、それが歴史上何度となく繰り返されてきたと言う事実だということです。かつて外輪山の半分が吹き飛ぶような大爆発を起こした鳥海山を、朝夕に眺めながら、環境としてのこの火山列島を想っています。

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