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2015年1月31日 (土)

2610 経済主義

新自由主義というか、現代的な意味での民主主義と呼ぶかは別にして、あらゆる意味で私たちは「経済主義」の世界に住んでいると言うしかありません。それは、あらゆる活動を一度「経済=お金」に換算しないではおかない世界でもあります。宗教ですら例外ではありません。宗教法人は予算を立てて、それを執行し、確定申告を行う義務もあるでしょう。もちろん、営利活動をしていないと申告すれば、公益法人並みに非課税とはなるのでしょうが・・・。非営利可動だとしても、スタップの生活費や、信者への還元、あるいは建物の光熱費や修繕費など、経常的なお金はどうしても掛かってしまう訳ですから、経済活動から距離を置く訳にはいいきません。

一方、一般的な社会生活は、殆どが経済主義一色というしかない状態です。衣食住のすべてが経済主義社会に依存しないでは済まされないからです。借家の場合は家賃を支払い、持ち家の場合でも固定資産税の網に掛けられます。衣服を糸を紡いで、布を折って自作する人は稀でしょうし、農家でもない限り、というより農家でさえ、スーパーマーケットで食品を買わないでは済まされないでしょう。つまり、お金が無ければ夜も日も明けない社会になってしまったと言う事実は否定できません。それをここでは仮に経済主義社会と呼んでいる訳です。

それの何処が悪いかですが、最近は弊害ばかりが見えてきていると言うしかありません。振り込め詐欺などお金に絡んだ犯罪の多発は言うに及ばず、人々の主観が主にお金を通して形成されるに至っては、言葉もありません。私たちの多くは、ココロの底では、原発継続に疑問を感じながら、経済主義を唱えながら、口を開けばたった三つの政策で景気を浮揚させると言い切り、道はそれしかないと説くリーダーを支持し、その結果の経済指標の変化に一喜一憂する民に成り下がったのです。経済主義の最悪の側面は、それが刹那的過ぎると言う点だとしてしてきましょう。経済主義者が100年先を語る事は皆無でしょう。今日明日、長くても3年先で結論を閉じてしまいます。従って、国庫に天文学的な負債が積み上がっていても、それを直視しようとはしない訳です。刹那的な行動は、野山に棲むケモノ達と何ら変わるところはないと断ずるしかありません。私たちは、子孫のために行うべき「計画」という最も人間的な行動を放棄してしまったエコノミックアニマル(経済主義者の別称ですが、この言葉は既に古語になった感があります)に進化?してしまったのでしょうか。同様のテーマで多分続きます。

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2015年1月30日 (金)

2609 サボり中

風邪で寝込んでサボり中。

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2015年1月29日 (木)

2608 縮小均衡

Aベノミクスを一言で括るなら、「拡大均衡の経済策」と言えるでしょう。世の中にお金をダブつかせ、円安に誘導し、消費や投資を活性化し、物価を上げて、結果として税収も上げて借金を返すと言うものです。しかし、お役人が一度手に入れた予算をスンナリと放すなどと期待してはならないでしょう。彼らは実績ベースでしか次年度の予算を議論出来ない「体質」の人たちですから、100兆近くまで膨らんだ予算を、実際の税収である60兆円以下、つまりは2/3以下にする知恵がある筈も無く、もしあったとしても出す筈もないでしょう。何故なら自分の首を絞める事になるからです。

さて、私たちが今後知恵を絞らなければならないのは、逆の「縮小均衡策」だと思うのです。航空機は、永久に空を飛び続ける事は出来ません。搭載した燃料に限りがあるからです。宇宙船地球号も事情は全く同じででしょう。現在の社会システムが円滑に維持できるのは、結局石油やLNGなどのエネルギーインフラがあるからです。しかし、今は一時的に石油安になったとはいえ、その資源は先細りである事実は否定できません。

ましてや、人口減少局面に入ったこの国や先進国の経済も、ある適正なレベルに縮小した上で、均衡させる必要があると思うのです。それは、さながら目的地に近づいて、残りの燃料が少なくなって、やがて空港に滑らかに着陸する姿に似ています。空港近くで、高度を上げてしまうと、着陸は急角度になってしまい、最悪の場合は地面に激突(ハードランディング)してしまうからです。中途半端に強気なパイロット(国のリーダー)の話に乗っかって、拡大均衡などには走らず、燃料計を確認しながら、この国の浮力(経済力=税収力)を見極める必要が求められる時代です。

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2015年1月28日 (水)

2607 こもんず

本来は共有財産と言う意味でCommons(コモンズ)と書くべきでしょうが、ここでは敢えてひらがなとしておきます。この国でも古くから入会地や入会林など言う「こもんず」が存在しましたが、何はなくても曖昧を排し、所有権を明確にすることが求められる現代法制や農政や林政などが、二重三重のオキテを適用し、それを許さない時代となってしまいました。投稿者が生まれた田舎のある地域には、ご先祖様が苦労して植林したクロマツの防砂林を、先祖代々守ってきた歴史があり、仕組みも残ってきましたが、そこはまさに入会林で、古くから倒木は薪にし、松葉を掻き、山菜を取り、近年はその一部を伐採して宅地やショッピングセンターなどとして借地にした上で、この地域(財産区と呼んでいます)の共通の収入となっていた様です。

しかし、そんな地域の自治にもお上は非情な?網を掛けます。税金の網のみならず、林政の網、環境保全林の網、地元行政の土地利用計画の網などが掛かっていて、地元民の意向などは既に入り込む余地は無くなっている様です。外から見て目立つこもんずには、必ずお上の網が掛かるのは、それが彼らの仕事でしょうから、ある程度は仕方がないとしても、実のところもっとゲリラ的な仕組みも考えられると思うのです。

例えば、耕作放棄地や藪だらけの私有林などは、然るべき仲介者(例えばNPOなど)が仲立ちをして、ルールを決めた上で貸し出せば良いでしょう。耕作地では、希望者に、無料で貸し出し自家消費のためのコメや野菜を作って貰います。あるいは子供の虫取りフィールド(つまりは野原です)にします。雑草の間に、例えばアサギマダラが好きそうな植物(フジバカマ)など、いくつかの植物を植えて、昆虫の多様性も工夫します。かくして、ミニこもんずが出来上がる訳です。無料の賃料やここから採れた無料の野菜には、税金を掛ける手段はありませんので・・・。高齢で農林業が出来なくなった地主には、そこから採れた農産物や山菜などを、入会料?として戻せば良いでしょう。

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2015年1月27日 (火)

2606 ロボット時代?

NスぺやEテレで、ロボット時代の特集をしていた様です。半分ほど見ましたが、見ている途中で内容があまりにも楽観的過ぎると感じました。というのも、ロボット時代を切り開くには、いくつかの技術的には困難ないくつかの課題を解決しなければ、決して前には進めないと思うからです。

ロボット時代への一つの壁は、動力源でしょうか。バッテリーで行くにせよ、圧縮空気を使うにせよ、実用的な可動時間は多分数時間に留まるでしょう。性能の高いパソコンですら10時間程度に留まっていますから、駆動モーターを動かすためのバッテリーサイズはかなり大きく、重くなるでしょうし、重くなればますますバッテリーの容量を大きくすると言う、負のスパイラルに陥ってしまうでしょう。アトムが動力の問題を無視出来たのは、それが当時はまだ未知のエネルギーであった小型原子炉という想定だったからに過ぎません。数時間毎に再充電やバッテリー交換を繰り返さなければならないとしたら、災害現場や原子炉建屋内でロボットを実用的に動かす事は到底叶わないでしょう。

二番目の壁は、アクチュエータです。バッテリー+モーターという組み合わせで進む限り、ロボットが発揮できるパワーにはある限界が生じます。発揮できるパワーはバッテリーの電圧とモーターのサイズに支配されますから、大きなパワーを出すためにはバッテリーサイズを拡大し、大きなモーターを積むしかない訳です。しかし、ヒトを含む動物のパワー源は「筋肉」です。これは、化学的なエネルギーを力に換える事が出来、かつ非常に軽量です。筋は、平原の動物を100/hもの高速で走らせる事も可能としますし、一方ではヒトでさえ、それなりに鍛えれば100㎏を超える重量を頭上に差し上げることが出来ます。自立型のヒト型ロボットが例えば歩いて踊るが出来るにせよ、60㎏の体重のある人を、災害現場から安全に抱きかかえて救出するなど、今のロボットには望むべくもない能力でしょう。

もう一つは過度の自立性の追求でしょうか。各種のセンサーで周囲の状況を把握し、自分で行動を起こすロボットは、人間と一緒に暮らす場合には、ある種の危険も伴います。押せば倒れるオモチャの様な小型ロボットならいざ知らず、一定以上のパワーを持つロボットは凶器にもなり得る訳です。それが悪意でプログラムされ様が、欠陥で暴走した結果であろうが、人を傷つけると言う行為においては同じです。それを防ぐには、やはり人間の能力を増強するため、結局は遠隔操縦すると言う、「鉄人28号タイプ」か人間が乗って操縦する「ガンダムタイプ」のいずれかにするしかないでしょう。

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2015年1月26日 (月)

2605 先送り

制御理論のイロハですが、系の安定のためには系の状態量をモニターし、変動を生じた場合それを検知して、状態を元に戻すための信号を入れて制御を行います。多くの場合は、系の変動を検知後に速やかに制御を行うフィードバックという手法を用います。複雑な制御では、予め制御信号を入れて、系の変動量を抑えるフィードフォワードを組み合わせる場合もあるでしょう。制御系が壊れている場合や、敢えて変動を放置した場合には、変動量は大きくなり、最悪の場合には変動量が発散し、系の破壊に至る場合もあるでしょう。例えば、車のオートクルーズが故障し場合、車は停止しないで逆に暴走事故を起こしてしまう例などが挙げられます。

さて、上を踏まえてここで書いておきたいのは、社会システムの一つとしての行政における「先送り事案」についてです。政治が判断を回避して、決定を先送りする事案は、これまでも数多く繰り返されてきましたが、例えば高度成長期に様に右肩上がりの時代においては、先送りしたとしても事態悪化の可能性は少ないでしょう。人口が増え、経済規模が膨らむのは、時代の勢いであり、放置しようが、しまいが結果にはあまり差が出ないのです。

しかし、右肩下がりの時代は話が全く違います。それは航空機の離着陸の事を想像すると分かりやすいでしょう。離陸の時は、エンジンの出力によってゆっくりと離陸する事も、急角度で離陸する事も自由です。一方着陸は、ベテランが操縦しても未熟パイロットが操縦しても、進入角度や飛行速度、フラップなどの操作など、全てがある範囲に無ければ着陸には失敗(ハードランディング)が待ち構えていることでしょう。社会システムにおけるハードランディングとは、つまりは特に経済面でのシステム破綻に他なりません。近年の歴史上でも、ある国が国際的な決算が出来なくなって破綻(例えばデフォルト)に陥った例は見つかりますし、現在もアブナイ国々も存在します。多くの場合は、国際的な金融組織が救いの手を差し伸べたりして、ギリギリ回避された例はかなり頻繁に観察されます。

さてこの国の場合はどうでしょうか。それが必要であっても、選挙で票を集められない政策の多くは、ほぼ例外なく先送りされてきたと言うしかありません。消費税の問題もそうでしょうし・・・。先送りをしても制御は機能せず、外乱の放置と何ら変わりはありません。かなりの頻度で、放置は罪につながる事も多いのです。

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2015年1月25日 (日)

2604 ローカリズム

言わずもがなですが、表題はグローバリズムの反語です。自由主義経済へ盲目的な追及を続けるとするならば、当然の帰結として経済のグローバリズムを進める必要があり、TPPなどのFTAの締結も必要となるでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、国際的分業を進め、国際貿易を盛んに行うことが出来るのも、安い化石エネルギーが安定的に供給されると言う前提があっての話です。今日、多くの物資はコンテナ船や専用船(例えばタンカーとかLNG船とか穀物船とか)で運ばれる割合が圧倒的に多いのですが、夜間に飛ばすので目立ちませんが、航空貨物も急速にその量を増やしているのです。

それを支えるのが、船や航空機の燃料である石油ですが、船や航空機の省エネ性能が高くなってきたとはいえ、例えば貨物重量当たり、距離当たりに必要な輸送用エネルギーは、船舶と鉄道はだいたい桁が同じですが、航空貨物は一桁程度高くなります。また船舶と言えどもコンテナ船の様にスピードを重視する船舶では、省エネ性が犠牲になってしまいます。つまり、運ぶ原材料なり製品の単価を想定した場合、売値に対する輸送費が十分に低い時には、国際分業も機能するのでしょうが、例えば売値にしめる輸送費が、現在の倍になる様な事態を考えれば、グローバリズムには急激なブレーキが掛かるでしょう。最近の例では、少し前の石油高の時代、航空運賃に燃油サーチャージなる価格が上乗せされ、格安海外旅行にブレーキが掛かった事を思い出します。

一方、ローカリズムは自国内、あるいは地域内での地産地消を前提としますから、エネルギー価格の変化に対しては鈍感でしょう。というより、社会を一つのシステムと考えた場合、最も省エネ、省資源のシステムになる筈なのです。私たちは、世界を俯瞰する前に、先ずは足元を眺め、そこに転がっているローカル資源やエネルギーに着目しなければならないでしょう。過去には化石燃料や安い輸入資源に経済的に太刀打ち出来ないがために廃れてしまったものでも、化石エネルギーの価格には左右されない、安定した供給が出来るポテンシャルを持っています。少なくとも、数十年前までは実際にシステムとして機能していたのです。私たちは、少なくともそこに部分的でも戻れる「種」を残す努力をしなければならないでしょう。その種は、農林水産業などの1次産業の仕組みや、いわゆる伝統産業の中に見つかるでしょう。

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2015年1月24日 (土)

2603 格差の意味

T.ピケティが注目されるのは、現実的にも多くの国や社会に格差が拡大しているからに他なりません。しかし、ここで注目しなければならないのは、その格差は「経済格差」であると言う点です。天才ピケティといえども、経済学者である限りにおいては、彼の展開する議論もその範囲に限定されるでしょう。この国リーダーもまた「経済リーダー」の域を出ない様な気もしますが、最終的に尊重され評価されるべきは、人間としてのあり方であり、その格差の問題だと思うのです。

その意味で、ピケティの議論も、Aベノミクスも「片手落ち」だと言うしかありません。財布の中身が少なくて、自由に出来る(動産や不動産の)資産も少なければ、社会の下層に追いやられると言う見方には与できません。そうではなくて、少し昔に流行った「清貧」という暮らし方もあるでしょうし、人は教養や知識や知恵や技量など無形の財産も総合した財産の多寡で評価されるべきだとも思うのです。残念ながら、(経済)学者や政治家は、数値化できるデータ(デジタル)で学問を進め、あるいは票を集めるしかありません。哲学者や宗教家や教育者は、しかしこの限りではないでしょう。彼らは「人間力」を学問し、あるいはそれを育む事を天職としている「はず」だからです。もしそうでなければ、彼らもデジタル人間の仲間であると断ずるしかありません。

経済的な格差は、累進課税や福祉政策や最低賃金などのアメムチ政策でどうにか出来る部分も多いとは思いますが、人間力の涵養はなかなかに困難な課題でもあります。生物学的なヒトは、単に脳が異常に発達してしまった幼形成熟の著しい哺乳類に過ぎませんが、人間と呼ぶ場合には、社会的な哺乳類を指すのであり、取り分け高度な協業や利他の精神が不可欠な要素だと思うのです。その社会から弾きだされる事そのものが阻害であり、人間としての格差の本質であって、決して経済的な物差しだけで量ってはならないでしょう。ヒトは人間社会に受け入れられる事によって精神的な満足や安定が得られる生き物であって、生きている間に使い切れないほどの資産を抱えていても幸福にはなれないのです。B-タンという国のGNH(幸福度)が世界でも最も高いと言われる所以です。

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2015年1月23日 (金)

2602 カネ津波?

最近の経済一辺倒の社会、世界を眺めていての感想です。ここでは、経済活動を、地震とそこから発生する津波に例えて考えてみます。大陸プレートが常に動いている様に、経済活動(つまりはモノとカネの動きは)も常に続いて行きます。その動きは、別々の国や地域には軋みを生み、時々はそれが大きなショックになってしまう事さえあります。それだけではなく、いわゆるカントリーリスクやある国に内在する問題(例えばバブル)が顕在化してそれが震源となる場合も多いのです。

さてこの時、地震に触発された津波(経済ショック)が発生します。ここでは仮にそれを「カネ津波」と呼んでおきましょう。この津波のスピードは、地球の自転と完全に同じとなります。というのも、カネや先物を扱う各地の市場は、自転によって生ずる時刻に従って昼間に開かれるからです。地震(経済のブレ)のニュースは瞬時に伝わりますが、それがマーケットに大きなショックをもたらすか否かは市場自身の空気が決める訳です。ここで言う市場とは、為替市場や株式市場や先物市場などなどです。

しかし、近年妙な現象が起きている様な気がしてなりません。つまり、ある国や地域の小さな経済ショックは、客観的に見ればインパクトは限定的と思われるのに、起こった波の振幅が予想外に大きくなってしまうと言う現象が多いと思われるのです。極端に言えば、池に小石を投げ込むと、その波紋が急激に増幅されやがて池の縁から多量の水が溢れ出す事態に似ています。どうやら、現代の諸システムの中には、何らかの「増幅装置」あるいは「自励装置」が内在されている様なのです。実のところ、その装置を利用して、市場に蠢くディーラーや機関投資家はボロく儲けると言う訳です。市場の相場が上向く局面でも、逆に下振れる局面でも、彼らは自分たちの「リスクをヘッジする知恵」を総動員して儲けを出し、逆に市場にはリスクを増幅して抜け出すのです。まるで大波から抜けるサーファーの様に・・・。起こされた大きな波を、カネ津波と呼ぶ所以です。

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2015年1月22日 (木)

2601 1%=半分?

T.ピケティに注目が集まっている事もありこの種のデータが多くマスコミに露出する様になってきました。報道によると数年の内に、1%の富裕層が世界の富の半分を占める時代が来そうです。それが分かっては居ても、多分この傾向には歯止めはなかなか掛からないのでしょう。何故なら、日々地下からは富の元(化石燃料や鉱物資源や宝石など)が掘り出されているからです。掘り出す作業者は、悲しいかな労賃しか貰えませんが、油井やガス田や鉱山の権利を握っている、それこそ一握りの人たちの富は、毎秒毎秒増加を続けていくのです。労働という価値の他に存在する、土地やモノや金融資産などの所有という権利は、金額に換算すれば、今後余程の大恐慌でもない限り減る事はなく一本調子で膨張し続けるでしょう。その様な資産は、基本的には金持ちから貧乏な人々に対して、自動的に分配される事はあり得ず、貧富の差は拡大する一方なのです。

しかし、この傾向に歯止めを掛けなければ、私たちの社会の不安定性も限りなく大きくなる事もまた間違いないでしょう。何時の時代にも持てる者と持たざる者との間には反目が生じ、争いの種になっても来ました。一揆やクーデターや爆発的なデモ行動は、そのはけ口の一つの形に他なりません。とは言いながら、基本的には個人資産を否定し、全てが共有財産とする社会の仕組みが成功しそれが長続きした歴史も残されていません。如何なる社会においても、権力を握る者が現れ、利権を乱用した汚職が横行するからです。いわば、隠された不平等であり、格差社会でもあったのでしょう。

私たちは、持てる知恵を総動員してでも、格差を縮める努力をしなければならないのでしょう。たった一つでそれが解決する名案がある訳ではありません。持てる者が進んで寄付を行う事を勧奨するインセンティブを作る事はその一つでしょう。つまり、持てる者への課税を強化し、寄付を誘導する訳です。しかし、税金であれ、団体への寄付であれ、一か所にお金が集まると同時にそこに利権が生じます。利権は黒いお金を産み、新たな格差の引き金となるでしょう。良い例かどうかは分かりませんが、仏教に絡んで「喜捨」という言葉があります。また熱心な遍路には、地元の人は喜んで「もてなしを」提供しています。背景には、自分が彼岸に渡った場合でも幸福に暮らせるようにとの願いがあるにしても、現世での「見返りを求めない喜捨」は再配分の一つの理想形ではあります。それは、子供時代から繰り返し利他教育でも施さない限り、本性としての人間の善意だけに頼っていても、一向に進まない事もまた認めない訳にはいかないでしょう。

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2015年1月21日 (水)

2600 火星でNET???

火星でもNETが使える環境を整えるなどと言い出している人たちが出てきました。それは火星に移住する人たちが居るから、そこに向けたサービスであるとの事の様です。しかし、数多くの???を発しない訳にはいきません。そもそも、火星に人を送ったり、移住させたりすることが現実的だと言い張っている人たちの頭の中身が信じられません。SFだったらいざ知らず、この美しい水惑星を後にして、病気になっても病院もなく、新鮮な野菜や果物も食べられない暗黒宇宙に浮かぶ、赤茶けた惑星に、何年も掛けて宇宙飛行士を送ったり、移住しようとするボランティアなど見つかると思っているのでしょうか。残念ながら医者から余命を宣告された病人か明らかに天寿を全うする年齢に近い人ならいざ知らず、最終的には完全な片道旅行になる厳しいミッションに手を挙げる人は限られていると見ています。

そのインフラを作るには莫大な投資が必要である事を考えると、これは単なるマスコミを賑わす「花火」なのかと理解しています。そうでなければ、言いだしっぺの頭の中は完全におかしくなっていると言う事でしょう。NETは情報を伝えるインフラではあっても、それ以上のものではありません、モノは送れないし、味も臭いも触感も伝わりません。NETの限界は、文字を含む画像と音しか送れないという壁なのです。それは、0と1しか使わない「二値」の情報であるという原理に由来します。画像や音は、例えば256段階とか、2の倍数の階調に分けて、疑似的に再現する事によって、実はそれほど精度が高くない目や耳のセンサーをだましているに過ぎません。

さて、火星探検を含む有人宇宙開発ですが、投稿者としてはソロソロ諦めるべき時期に差し掛かっていると見ています。科学的な探究であれば、この時代全て無人で可能となっているでしょう。有人での探検は、単なるB国的な開拓精神の延長か、さもなければ国の威信とかいうものをかけた、意味の無い競り合いでしかないでしょう。火星で永久に眠りたい人はどうぞ頑張って出かけてください。

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2015年1月20日 (火)

2599 ビジネスモデル

そろそろ20世紀型のビジネスモデルの見直しが必要な時期ではないかと、常々思っています。メーカーで言えば、売れ筋商品を徹底的にコストダウンしながら、大量に生産し、大量の売り捌く。また国内で売れなくなったら、海外へも展開するといったものです。またサービス業であれば、回るスシ(寿司ではありません)や丼物店や食べ放題の様な、いわゆる安価な満腹ビジネス、流通業で言えば即日配達や翌日配達といった様な「過剰なサービス」を売りにしたビジネスモデルです。

これらは確かに、人口が増加し、経済が右肩上がりの曲面では有効なビジネスモデルであったことは否定しませんが、経済が成熟し、人口減少の高齢化曲面でも有効かと問われれば、やはりそうではないと言うしかありません。何故なら、消費者が随分成熟してしまったからです。成熟した消費者は、まがい物や誰もが持っている量産の安物には見向きもしないでしょう。日用品であれは百均で済ますかも知れませんが、耐久性のある商品であれば、間違いなく「本物」を求める筈なのです。

では本物とは何でしょうか。作る立場から言えば、素性の知れたしっかりした素材を使い、こなれたデザインで、実績のある技術や設備を使って作り、品質管理もしっかりした、一言で言えばコストパフォーマンスの高い製品だと定義できるでしょう。買って使う立場から言えば、デザインがや手ざわりが良く、手に馴染み、所有し使うたびに満足感が得られる製品だと言えるでしょうか。さて自分の身の周りを見回して、そんな製品に囲まれているかと自省すれば、残念ながらそんな製品は非常の少ない事に唖然とさせられます。手が届く範囲にあるモノでは、40年ほど前に出張先のハンブルグで買って、今でも快適に使っているゾーリンゲンの爪切りと自分の手に余りにもフィットし過ぎてボロボロになっても手放せないありふれた値段のマウスくらいでしょうか。

成熟した市場では、メーカーは数十年経ってもモデルチェンジしない様な「定番商品」を育てなければならないでしょうし、サービス業は個々の顧客にフィットするコストパフォーマンスのサービスを考え出さなければならないでしょう。宅配便で言えば、商品配達なら1週間程度かかっても安い料金を求める人も居るでしょうし、書類の様に時間が勝負の2種類に分かれるでしょうし、肥満を増やす満腹ビジネスよりは、某体重計メーカーが始めた健康食ビジネスに軍配が上がるでしょう。

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2015年1月19日 (月)

2598 共有財産

2597の私有財産に対して、共有財産という概念もあります。都市では、自治体が税金で作ったインフラは、ある意味での共有財産ではありますが、だからと言って住民がその所有権を主張する事までは出来ません。もちろん代価を払ってそれを利用する権利はありますが、その人の財産ではない訳です。しかし一方で、田舎に行けば現在でも立派な共有財産の形を見る事が出来るでしょう。たとえば「入会林」です。ここでは、住民が話し合いの上ですが、そこで山菜を取ったり、持続可能な形で薪を採取したりできるのです。投稿者が生まれた地域では、その入会林の規模が大きかった事もあり、現在でも「財産区」という形の、いわば法人格が存在しています。

江戸時代の先人が苦労して広大な防砂林を植林したため、その防砂林は全て地域住民の共有財産となった様なのです。戦後は、その一部のマツ林を伐採して、企業に貸したりしいますので、その地代が地域の共通の収入となり、地域住民が利用する公共施設や、今でも盛んな地域の集まりや行事の際の助成金などとして使われてもいます。想像ですが、多分この財産区の予算規模は、年間数千万円規模になっていると思われます。

そもそも土地とは誰のものであるかについては、しばしば議論がなされます。ヒトが地上に出現するはるか以前から、「土地」はそこに存在した訳で、先に農地として開墾した者か、あるいは単に強い武力を持っていた豪族が、その所有権を一方的に宣言してきたに過ぎないでしょう。少なくとも、個人的には、生産が続いている農地や実際に家が建っている敷地は別にして、耕作放棄地やあまり利用さえていない山林などは、強い意味での所有ではなく、上で述べた入会林や財産区の様に、緩やかな共有が望ましいとは思っています。共有の土地では、そこを持続的な形で利用するため、知恵や労働力を出し合って、住民の集う場所として有効に活用する方法を見つける必要があります。年に数回の山林の手入れや、山菜の収穫、秋口の薪の採取は、地域の結束を強めるのに、絶好の場所だったと、子供時代を振り返っています。

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2015年1月18日 (日)

2597 私有財産

T.ピケティの白熱教室はなかなかに刺激的です。彼は学問として専ら、持てる者から見るとあまり触れて欲しくない「不平等」を扱ってきた様です。番組の中で、所得の不平等を、労働所得と資産所得に分けて論じている点は非常に腑に落ちました。社会の下層は、資産が無い事によって常に下層に甘んじ、所得のトップ10%の資産家はそれを受け継ぐものも含めて、裕福な状態を保つと言う、社会の仕組みは、当たり前と言えばあまりにも当たり前ですが、改めてそれを噛みしめてみました。

さて土地や家や設備あるいは金融資産など、この国に住む人々が持つ総資産額は、史上最高のレベルに達した様です。それでどうしたと言われれば、確かにささやかな預金以外の金融資産とて持たない(持てない)貧乏人には関係の無い頭の上の話ではあります。持てるものは、あらゆる手段を動員して、更に資産を増やそうと走るでしょう。ですから、石油や為替やある国の通貨(最近の話題はヨーロッパの小国のフランでした)、農作物などあらゆる「相場」の変動を利用して、それを売ったり買ったりして荒稼ぎをする人たち(ディーラー)に資産を託す行動に出るのです。

いわゆる自由主義経済の社会では、私有財産こそ至上の財産として認められていますので、ささやかな税金を課す程度では、貧富の差は広がりこそしても、今後とも縮む事は考えられません。それでなくとも、この国では封建時代から一貫して、取りやすいところから税をせしめる風潮が定着していますから、北欧諸国の様な高負担、高福祉など言う分配の仕掛けは定着しにくいと言えそうです。戦後のあの時期の様に、真面目に働けばそれなりの労働所得が得られたが、皆が金融資産など持っておらず、基本的には貧乏だった「平等な時代」を懐かしがっているのは、投稿者だけではないでしょう。労働資産って、あるいは金融資産って、財産って一体何なのか、改めて考えてみても、自由主義経済だけの社会システムでは、不平等は拡大傾向は止まらないのだろうと溜息しか出ません。やはり、体を動かさないで得る所得(不労所得)には、重めの税率を課して、金融を揺さぶって荒稼ぎする輩を牽制するしかないのでしょうか。口を開けばトリクルダウンなどと口走るAベノミクス論者には、氏の著書でも煎じて飲ませたい。

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2015年1月17日 (土)

2596 あれから20年

あの震災から20年経過しました。新入社員時代に住み、その後も神戸駅前の本社への行き帰り、見慣れていた阪神高速の高架部分の橋脚がポッキリと折れ、横倒しになった報道や、独身寮があった近くの古い繁華街が倒壊や火事で壊滅状態になった映像は、全く信じられない光景でした。しかし、考えてみればこの国の地形は、火山と地震によって形作られたこともまた事実なのです。海岸部にまで迫っている六甲の山塊は、東西方向の断層によって海に落ちた地形となった筈なのです。

同じ様な地形は、大断層に沿う四国山中の祖谷渓谷の断崖、あるいは中央構造線に沿った北アルプスの片側が崩落した(例えば白馬の)山肌などを眺めても観察されます。つまり、真っ直ぐに伸びた切り立った崖や山塊の地形は、長い間の横ずれ断層とそれに伴う大地震で形成されて来たものだと推測されます。

一方で、東南海トラフに伴う地震は、プレートの沈み込みに伴う地震は、それが軟弱な沖積平野を揺さぶるものである点、その被害は何倍にも増幅される筈です。もちろん今どきの高層ビルは、堆積物の下の岩盤まで杭を打ち込んで作られるのですが、それはあくまで高層ビルのケースだけです、中層以下のビルの基礎は浅く、地盤の激しい流動化にはとても耐えられないでしょう。もし建物の倒壊が避けられたとしても、ズタズタにされるであろう地下インフラ、水道、ガス、下水の復旧には長い期間が必要ですから、例えば関東平野で生まれるであろう震災難民の数は想像を超える規模になると思われます。

私たちは、既に平野部に限度を超える密度で都市を作ってしまったと言うしかありません。田舎は既にかなり疲弊してしまっているので、これらの被災者を受け入れる余裕はかなり小さくなってしまいました。山間の多くの農地は放棄され、空き家はあっても住めないくらい荒廃しているからです。関東大震災から既に90年、何時東南海地震が起こって起こってもおかしくないと言うのに、人々は未だに都市に住み続け、あるいは新たに都市に仕事の場を求め続けるのでしょうか。火山列島、断層列島に住むには、この国のリスク管理は余りにも安易過ぎるというしかありません。この国では、たった20年前、あるいは4年前の大震災の記憶すら、既に喉元を過ぎてしまった熱さなのでしょうか。

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2015年1月16日 (金)

2595 大量生産のリスク

報道によれば、またぞろ鳥インフルによる大量の殺処分が行われる様です。完全気密にした鶏舎を作り、その内部を「陽圧」にでもして、完全な無菌飼育でも実現しない限り、国境の無い渡り鳥が運ぶ新型インフルの防御は、ほぼ諦めざるを得ないでしょう。実は、同じ構図を車の大量リコール案件にも見出すことが出来ます。つまり、効率=コスト追求の結果、同じモノを大量に生産するシステムが選択されたのですが、イザそれが危機に晒された時、「全滅」という結果が待っていると言う事になります。

ここで抜けているのは、「リスク管理」とでも言うべき姿勢や行動でしょうか。養鶏や養豚で言えば、毎年冬季には渡り鳥が亘ってきてウィルスを含んだ糞をまき散らす事は普通に予測できる話ですから、日頃からそれに対する備え、つまりは鶏舎の気密化などウィルス対策は怠らない様にしなければならない訳です。もちろん、納入先からのコスト削減圧力は、強いものがあるのでしょうが、それと「食の安全」のどちらが重いか、理解を求める必要があります。

工業製品ではどうでしょう。エアバッグは、今や義務化された装備ではありますが、車を前に進めるに必要なモノではありませんので、自動車メーカーにとっては、軽くコンパクトで、単価は安い程良いはずです。しかし、これはドライバーの安全に取っては「最後の砦」でもある訳です。従って、その性能は慎重の上にも慎重に試される必要があります。マイナス数十度の世界でも、高温多湿の地域でも、全く問題なく膨張する必要があります。火薬式の膨張方式は安価で軽量ににすることが可能ですが、しかし例えばボンベ方式は重く、コストも嵩む事になります。しかし、どちらが安全で確実かと問われれば、元技術屋としては後者に軍配を上げざるを得ません。火薬の発火、燃焼には不確定要素がありますし、何より実体での出荷テストは出来ない相談だからです。一方で、ボンベ方式なら、出荷前に実体でテストをする事は十分可能でしょう。安価で大量に供給されるモノに隠れたリスクに関しては、常にチェックし続ける事が必要でしょう。もちろん多くの食品にも同じリスクが隠れている筈です。

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2015年1月15日 (木)

2594 地方創生、その前に

新年度予算をチラッと眺めると、地方に向けたかなりの額の予算が準備された様です。しかしながら、お金で解決するほど地方に山積する課題は単純ではないでしょう。地方が貧乏だったが元気だった時代、何しろ地方には人が溢れていました。団塊世代がなだれ込んだ学校時代は、小中学校、高校の教室がパンパンに膨れ、廊下にまで机を並べていたほどでした。町の中心部には毎日「市(いち)」が立ち、人通りも多く賑わいがありました。

つまり、賑わいが消えた真の原因は、都市が田舎の人口を吸い取ってしまったこの国の構造的な問題だと思うのです。地方創生にいくら税金をつぎ込んだとしても、その結果いくつかの企業を誘致出来たとしても、やはり若者を田舎に引き付ける引力にはならないでしょうし、その地域の雇用やGDPを押し上げる割合も微々たるものでしょう。よく引き合いに出される経済の成功例のデータとして、戦後の日本の「奇跡的高度成長」が挙げられますが、この時期は同時にベビーブーマーが大挙して成人し、豊富な労働力となると同時に旺盛な消費者になった時期と重なっても居るのです。

しかし、少子高齢化が極限まで進んでしまった地方に、いくら税金を流しても、結果はついてきません。もし、同じ額のお金を使うのであれば、若者の{UターンやIターンへのインセンティブとして用意するべきでしょう。住む場所をタダ同然で提供する、売り物にならない食材をタダで提供する、そして田舎の暮らしを支える生業(なりわい)産業を復活させる、などを組み合わせれば、若者も興味を示す筈です。生業産業とは、まさに人々の衣食住を同じ地域で支える産業の事で、移り住む若者も自分自身の生活を支える仕事でもあります。耕作放棄地での自給+アルファの農業、エネルギー産業としてのバイオマスの収穫や販売、住宅の耐震、高断熱化改修、高齢者世帯の買い物サポート、などなど、日々の生活を支える仕事ならいくらでも考えれます。

今はそれが人手不足でそれが出来ないため、暖房給湯は石油やガスで賄い、高齢者は仕方がなく施設や病院に集め、薄い壁の家でエネルギーをガンガン使う暮らしの「悪循環」にハマっているだけなのです。地方創生の中身は、まさにその悪循環を断ち切る方策でなけれなならないのです。

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2015年1月14日 (水)

2593 中小企業考

中小企業について少し考えてみます。企業と言えば、この国では中小(零細を含む)企業は、99.%以上の数を占めていますが、従業員数という目で見れば6割程度に留まっています。つまり、殆どの中小企業では、少ない人材でどうにか売り上げを出して生き残っていると言う姿が見えてきます。その多くは、製造業で言えば大企業や中堅企業の下請けに甘んじていると想像しています。要求された品質のモノを、要求された価格に抑えながら、納期を死守するために長時間残業をしながら操業しているのです。デフレ下では顧客からは常にプライスダウンの圧力を受けながら、どうにか利益を出し、従業員のサラリーのレベルを下げない様、年2回はささやかながらボーナスも出せる様に、崖っぷちの経営を続けている事でしょう。

企業から離れて久しく、定点観測者の立場で世の中を見ている投稿者としては、そのような中小企業の姿をもどかしく感じる日々となっています。中小企業は、それなりの設備と、何よりワザを持つ作業者という貴重な財産を持っていると思うからです。加えて、長年事業を続けてきたと言う社会的信用も得ている筈です。その中で、もしその企業メーカーであれば、作り出すべきは「定番製品」であるべきだと思っています。定番製品とは、「○○ならXX株式会社だね」と多くの人々や企業から評価され、市場で認知されるモノを指します。すぐに頭に浮かぶのは、今では悪いイメージが出来てしまいましたが、車のエアバッグで大きなシェアを取ったT社やタイヤバルブでやはり大きなシェアを握っている岐阜のT社、投稿者が日常お世話になっている企業としては、バイク用のヘルメットでブランドとなっているA社、手元にある文具で言えば、ステープラーの代表的な銘柄になっているM社などが挙げられます。よく言われる言葉で言えば、これらはブランド名であり、しかも「ロングテール商品=定番商品」を持っている企業だと言えます。

現在は下請けに甘んじている企業ではあっても、ぜひ手持ちの材料や設備と作業者のワザを使って、「自社製品」を作ってみるべきでしょう。先ず従業員自身がそれを使い、不断の改良を加えれば、100個くらい試作を繰り返せば、徐々に定番製品に近づいてくることでしょう。人口が減り続ける右肩下がりの社会では、中小企業が生き残る道は、そんなに多く存在する訳ではないのです。

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2015年1月13日 (火)

2592 文化2

2590の続きです。文化というKWでもう一つ思うのは、必ずしも形ではなく「暮らし方=life style」であると言うことです。例えば、外国人の観光客を引き付けるシンボルとして、富士山、浅草、アキバ、京都などを前面に押しだしているこの国ですが、文化という目で見れば、浅草寺や浅草界隈の年中行事、あるいは各地に残る祭りや山伏による山岳修行、さらに言えば京都の町屋の日々の(伝統的)暮らし方、あるいは雪国保存食などの食文化などを挙げるべきなのでしょうが、お国の政策も多分地方にお金をばらまいて、箱モノや観光施設などへのハード面の充実を図るものばかりとなるでしょう。何故なら、税金を使う限りにおいては、結果が形のあるモノでない限り、(例えば固定資産的価値などの)客観的評価は出来ないからです。

それは、例えば文化庁や環境省などで使われる文化財の修復維持費、あるいはこの国の自然環境や景観を守るための予算額の少なさをチェックするだけでも容易に理解できる筈です。この国では、文化を利用しようとはしますが、それを守るための努力は限定的なのです。本当に守る気があれば、ヨーロッパの様に街並みの景観に厳しい規制を作り、外観だけでも伝統的な家屋を保存する事に予算を使うでしょうし、生活面でも「和食の日」などを設定して、週1回以上は伝統的な食事を採る事を推奨すべきでしょう。地方における観光に関しても、単なる「雪見」や「温泉」だけではなく、今でも田舎のお年寄りが送っている伝統的な暮らし方、あるいは自然信仰に根差した年中行事などにもっとスポットライトを当てて、それらをしっかり保存すべきでしょう。

文化というものは、一度変容してしまうとそれを復元するのは不可能になるか、あるいは大変な作業になるでしょう。落語や歌舞伎や伝統工芸が現代でも立派に残されているのは、それに携わってきた人たちの不断の努力の賜物でしょう。では、田舎の伝統的な暮らし方を守るために、私たちが一体どんな努力をしているかと、問われれば投稿者を含めて忸怩たる思いしか湧かないと思うのです。

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2015年1月12日 (月)

2591 空き家3割時代

数日前のNスぺで、空き家問題を取り上げていました。人口減少局面の中で、空き家率の増加は避けられない現象でしょうし、一方で住むなら新築というこの国も文化もなかなか変えられないでしょうから、この傾向は加速すると思われます。かなり以前、英国から来た英会話講師夫妻を知る機会がありましたが、日本に来る前に彼らは英国の田舎に天然スレート葺きの瀟洒な家を600万円ほどで購入したのだそうです。そのローンを出来るだけ早く返すために、日本でお金を稼ぐために夫婦で来日したのだとか。日本で数年頑張れば、住宅ローンも殆ど返せると計算した様です。その中古住宅の写真も見せて貰いましたが、緑あふれる広い庭、スレート葺き屋根の瀟洒な外観、室内も築数十年とは思われない程きれいに改装されており、コストパフォーマンスは非常に高いと感じたものです。

振り返って、この国の中古住宅は、と見れば築30年も経過すれば、建物は結構ヨレヨレになり、隙間だらけにもなっているでしょう。結局は、中古を買っても土地代程度の価値しかないでしょうから、解体や建て替えのコストが追加される高額で苦しいローンを組まざるを得なくなる筈です。そうではなくて、かつての田舎の家の様に、太い柱や梁を使い、躯体としてなら100年位の使用に耐える家を建てる事が奨励されるべきなのです。外壁や内装の模様替えは必要にしても、構造さえ頑丈なら、解体・建て替えに比べれば、多分半分以下の改装費用で済むでしょう。

この国で足りないのは、将来像を描いた上で、では現在何をすべきかを決めると言う姿勢(Back casting)が希薄な事だと常々感じてきました。少子高齢化、結果としての人口減少、国の債務の増加、空き家の増加、インフラの老朽化、山の荒廃、原発のフェイドアウト、再エネの増加などなど、枚挙にその例に枚挙の暇はありませんが、全てが成り行き任せで後追いの国なのです。10年後、50年後、100年後を見据えて物事を決めない限り、今回の表題の様な「山積する問題」の解決の道筋は見えないでしょう。政治家や識者から、五輪後、あるいはリニア震撼線?後のあるべき社会を見据えた議論が聞かれないのは、寂しいを通り越して、既に国としての危険領域に突入しているのでないかと危惧しています。

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2015年1月11日 (日)

2590 文化?

ある国や地域の文化は、何代にも亘って知恵や工夫や技や祭りなどが、伝承され、取捨選択されて残った「エッセンス」でもある訳です。時代を代表する個々の建築物や祭りや和食などが取り上げられて、文化遺産などとしてスポットライトを浴びる事はありますが、それらは全体として文化なのであって、間違っても個別のものを取り上げるべきでではないでしょう。例えば、和食などと言うものは、伝統的な食材、醸造調味料、漆器や陶器、箸、膳あるいは畳敷きの住まいや季節感などが全てあいまって醸される文化であり、何か特別な「和食」が数種類存在する訳ではありません。これをもう少し広く「日本文化」などと大上段に振りかぶってしまうと、それはますます目には見えにくく、つかみどころのないものになってしまうでしょう。

結局文化というものも、狭い地域に密着した風習や住まい方、もう少し広く県レベルの括り方、更に国境に囲まれた日本という国の最大公約数的文化、などと層別されると考えるべきなのでしょう。逆に、コミュニティを更に細分化すれば、集落や学校や公民館やさらに言えば家族単位にさえ「文化」を見出す事も出来るでしょう。何故なら、文化とはそのコミュニティが残すべきと暗黙の内に決めた価値観を具現したものだ、とも言い換えられるからです。価値観に依拠しない「形だけの文化」は、間違いなく消えてしまう運命にあります。

さてこの国の文化です。いまだに多くの寺社に人々が集まり、あるいはお遍路へ出る老若男女がかなりの程度存在すると言う事は、人々の根には「自然への畏敬」が残っているのは間違いないでしょう。農業にしても、住まい方にしても自然に逆らわない、つまりは循環型の暮らしも残っても来ました。但し、50年ほど前までは・・・。その意味で、それが50年後まで引き継がれるかどうかは、現在60歳以上となっている世代が退場する前に、その下の世代に引き継ぐ義務を負っていると言うしかありません。それを受け取った世代がさらにその後の世代に引き継ぐかどうかは彼らの選択ですが、現世代に、ご先祖から受け取った文化を、勝手に捨て去る権利など持っていないと考えるべきでしょう。

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2015年1月10日 (土)

2589 国(家)の要件

さて国あるいは国家のあり方を考える時、初めにやはりそれが備えるべき要件というものを考えなければならないでしょう。もしその要件に不足するものがあれば、それを補う必要があるからです。学者ではないのでNETで引用すると、それには3要件が数えられるそうです。先ずは、国境で囲まれた国の領域、ついでそこに住む国民、そして目に見えそうで見えない権力(主権)です。これは多分国際法上の要件でしょうから、これに不足するものを付け加えるものがあるとすれば、その中で行われる人々の(経済)活動と、国民が国に対して抱くロイヤリティ(の様なもの)、更に付け加えるとすれば、国の中あるいは地域で営まれる「文化」などが挙げられそうです。

その中で、最初にあげた要件は、一応国際的にも認知されているので、十分かどうかは別にして最小限はクリアしてはいるのでしょう。経済活動に関しても、震災後の化石燃料の輸入額の増加などで苦戦はしていますが、まあまあ力も持っていると見る事が出来ます。問題は、国民が国を国として意識する度合いの低さと、自国の文化に対する誇りやそれを守ろうとする努力の希薄さでしょうか。文化などというものは、そもそもその国に住む人々の「価値観」に依拠するものでしょうから、それが希薄であると言う事は、結局しっかりとした価値観を持たないで、その日暮らしを送る様なものだと言えるでしょう。

それでは、その様な価値観は何処から来るのでしょうか。最も単純な方法は、国民がこぞって一つの宗教の価値観に従う事でしょうか。もちろん、それが狂信的で危険なものではなく、ココロの拠り所として素晴らしいものであれば結構ですが、多くのものは「排他的」である事実は否めません。この国で言えば、山や滝や巨木や巨石に神を見出す「八百万の神々」への信仰は、いわば自然崇拝ですので穏やかなものの代表でしょうか。しかし多くの一神教はその限りではない事は、地球上の人口が増加するに従って、その接点で繰り広げられてきた紛争が、二つの大戦を経ても全く無くならない事実を見ても明らかでしょう。

書きながら、この視点は結構重要である事に気が付きました。つまり、自然への畏敬の念の事です。その視点では人は他の人とは向き合わず、自然の偉大さに向き合いますから、何より平和でしょう。その上で、その自然の恵みを持続的に頂くためには、多くの工夫や努力も要求するでしょうから、人々の能力も磨かれるでしょう。でも、これは考えてみれば例えば50年以上前の先人は、普通に行っていた営みだったのです。具体的な議論を少し続けます。

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2015年1月 9日 (金)

2588 国(家)

肩のケガもあり、年末年始はなるべく安静にして、自宅でボーっとして暮らしましたが、今日からは秋田に戻って活動再開です。さて、年始に当たっては年始の特番などもあり、この国や国の将来の事など考えてしまいました。そう思って、この国を改めて眺めてみると、かなりの程度に国や国家という概念、あるいはそこへの帰属意識が希薄である稀有な国である事が分かります。

他の国に囲まれ、常に国境線や民族への帰属意識が試され続ける他の国と異なり、ここは他の国とかなりの距離を隔てて海で囲まれた独立した島国であり、少数の例外ポイントを除いては、国境問題は少ないでしょう。移民政策もコンサバであったこの国では、異民族とのいざこざも、これまでは殆ど生じてこなかったと言うラッキーにも恵まれました。しかし、一方では人々が日常で国(家)のあり方や、民族というアイデンテティを意識する機会が殆ど無く暮らしているとも言えるのでしょう。それで何が悪いかですが、いくつかの不味いポイントが挙げられます。

先ずは、この国の外交政策の稚拙さです。この国以外?の国々は、時々で明確な外交政策を以って強かに他国と渡り合っていますが、残念ながらこの国は、戦後一貫して「外圧」のみで外交をこなしてきたと言うしかありません。とりわけB国に対しては、さながら風見鶏の様に従属してきたと言えそうです。戦後70年にもなろうとしているのに、です。

もう一つは、国家としての体裁です。この国では、残念ながら国として結束する手段に「経済」など言う「手段」を用いたりします。明治時代の政治家を例外とすれば、ついぞ政治家(屋)が「国家百年の計」を語る事はありませんでした。この国は、世界の中でどの様なポジションを取り、どの様にして尊敬を集めるか、といったビジョンが語られる事は皆無であったと言っても過言ではありません。その証左としては、隣国との外交こそ重視しなければならないのに、それをホッタラカシテ、地球の裏側まで「経済」外交に走るこの国のリーダーの姿、国民の半分以上が原発は要らないと叫んでいるにも関わらず、経済を優先するため再稼働に走っている事実を挙げるだけでも十分でしょう。今年リーダーが発するであろう戦後70年のコメントに、何が盛り込まれるか注目しておくことにします。同時にこのブログでも、可能な限り前向きな提案を続けることにいたします。

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