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2015年2月 7日 (土)

2617 否定からは何も

このブログでは、世事を否定する事は避けて書いていると思っています。愚痴は書きますが、否定分は書かない様にしているつもりです。否定文とは、~ではない、~してはならない、といった語尾になる文です。というのも、否定からは何も生まれないだろうと思っているからです。それに、ずっと若いころから気が付いていれば、もっと人生や子育て人間関係が上手く行っていたかも知れない、とココロの隅で時々考えます。否定は、自分の考えと自分の外で起こっている事のズレや矛盾に気が付いた時にしがちな行動です。特に価値観の幹に直接関わる様な違和感に触れると、人は激しい否定を行ってしまう様です。

しかし、人はその価値観はどの様にして自分のものとなったかについて自省する事は、稀だと言っても言い過ぎではないでしょう。考えてみればそんなことをするのは、一部の作家か哲学者くらいのものだからです。自分(の脳)がどの様な環境や本や情報に触れた結果,、いまの様な判断基準(=価値観)を手に入れたのかは、実は非常に重要な事なのですが、その結果もし何かが間違っていた事に気が付けば、それは即ち「自己否定」につながるので、多くの人々はそれには出来るだけ触れない様にして人生を送っているのだと想像しています。

さて、短い投稿の中では大胆な事ではありますが、これを今世界で起こっている事に敷衍して考えてみます。価値観を個々人の行動規範の根源と考えれば、実際のところ価値観は民族の数だけ、更に言えば自己を確立した人口の数だけ存在する筈です。しかしそれでは、日々争いが絶えないでしょうから、「最大要約数的価値観」を共有する人々(多くの場合それは国単位です)がコミュニティを形成している訳です。そのままで暮らしていれば、世界地図は民族のモザイクのままだったでしょう。しかし、主教という衣を羽織った権力者の遠征の繰り返しは、価値観のフリップフロップを強要し、結果としてモザイクをグチャグチャにかき混ぜてしまい、今日の様な民族とイデオロギーの細かなマーブル模様を残してしまったのです。

そのままであったら、多分各地で起こる地域紛争の多発のままで推移したでしょう。しかし、いわゆるスーパーパワーの介入が、宗教的価値観やイデオロギーや殺傷能力の高い武器の供与によって、紛争の拡大に歯止めが利かなくなってきたのだと、特に自分がリアルタイムで知っている20世紀の後半を振り返っています。やはり書き切れないので続きます。

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