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2015年2月 8日 (日)

2618 否定からは何も2

さて否定からは何も生まれないと言う前提に立って、では全てを許す態度や行動だけが求められるのでしょうか。当たり前過ぎますが、許す許さないと言う議論の前に、先ずは異なった価値観を認識し、理解しようとする姿勢が必要でしょう。何故、エルサレムという聖地が、3つもの宗教的価値観によって共有される羽目になったのか、人々がグリム童話の様な分かりやすい寓話で誰もが理解できる時代になれば、相互理解は進むのでしょう。その寓話の中では、弱者や敗者を作ってはならないのは言うまでも無い事です。

否定でもしかし肯定でもない、第三のベクトルとしての相互理解こそが、国際紛争や政争を中和するには最も有効であると思うのです。180度真反対のベクトルの引き合いでは、強いものに引きずられるか、引き負けまいとして荒っぽい手段に走るかのいずれかでしょう。しかし、相互理解のベクトルは、いずれのベクトルとも異なる第三のベクトルですので、それはさながら120度に分かれた三本の綱による綱引きに例えられそうです。その綱引きによるゴールは、常に3本の綱の交点を、一定の範囲(つまりは節度と調和の範囲)に納める事なのです。

もし、ルールを無視して武力や経済力などの力技を使って、無理やり勝を得ようとするベクトルに対しては、判定ベクトルのより深い理解を求めるためのデータを示し、キャンペーンを行う必要があります。テロに対する空爆では、お互いの弾が切れない限り、争いは終わらないでしょう。一度静まった様に見える火種も、資金や弾(武器)が溜まってくると、紛争や戦争が再燃する例は、人類は歴史上それこそ何度も経験してきた筈なのです。繰り返しますが、否定からは何も生まれないし、争い事も解決されないのです。多くのテロ集団も、結局は対抗するイデオロギーや価値観による否定が生んだモンスターだと言う事も出来そうです。このモンスターは、否定が強い程ムクムクと巨大化するのです。この国こそ、第三のベクトルたる能力も資格も持っている筈なのですが、それを有志連合だかなんだかのベクトルだけに振り向けようとするこの国リーダーの姿勢は、否定はしませんが、理解は不能だと言っておきます。

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