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2015年2月16日 (月)

2626 風刺とからかい

風刺とからかいに一体明確な境界が存在するのでしょうか。国内と海外のそれぞれに悲惨な事件の根に、表題の問題を見てしまいます。イジメのスタートには、たぶんからかいがあるのでしょう。一人のからかいはイジメには進展しないのでしょうが、集団でのからかいは立派なイジメと呼べるでしょう。W歌山の事件にも背景にからかいがあったやに報じられていますが、果たしてそれが個人間に根差したものであったか否かは、やはり今後慎重に解明されるべきでしょう。

さてFランスの事件はどうでしょう。民衆が、時の政府を風刺することは、政策の矛盾や足りない点を指摘する手段としては、むしろ健全でありそれを規制するのは、いわゆる言論の自由を奪うことであり、あってはならない事態でしょう。しかし、個人や特定の宗教をやり玉に挙げる事に関しては、やはり節度を持って臨むべきでしょう。ましてや、テロ首謀者ならいざ知らず、特定の宗教を風刺する構図に至っては、何をかいわんやです。従って、事態を抽象化して言論の自由の行使うんぬんだけを議論すべきではないでしょう。そこには、風刺されからかわれた側の想いは無視されがちですし、逆に宗教の衣を着たテロ集団に対しては、新たなテロの口実を与えるだけに陥ります。

そうではなくて、糾弾するのであれば、人間として行ってはならない行為そのものでしょう。人の命を安易に奪い、それをメディアに公開するなど、如何なる宗教であってもその教えに外れるはずだと想像しています。ましてや自爆テロにおいておや、です。風刺は弱いものが強いものに向かって放つ抵抗の矢に留めるべきで、絶対に強い立場の人間がマイノリティに向けてはならない類のものでしょう。からかいも、そのルールにおいては風刺と何ら変わるものではありません。11でのからかいは、両者が対等の関係である限りは、笑い飛ばせるものなのでしょうが、一旦強者、弱者の関係が出来上がってからのからかいは、そこに必ず感情的な鬱屈が残る筈です。ここでの結論としては、一旦マイノリティとマジョリティ、あるいは強者と弱者の関係が生まれてしまって以降は、マジョリティ側からの風刺やからかいは、節度が求められて然るべきだと言うものです。

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