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2015年2月28日 (土)

2636 発熱所or熱供給局?

ヨーロッパや東欧(旧ソ連)諸国には、熱供給を事業とする、公社や三セクが数多く存在します。細部まで把握している訳ではありませんが、寒冷な地域では何らかの形で、多くの町にあると想像しています。道路や電力、上下水道などはいわゆる公共インフラで、公共が担うべきとされ、確かに自治体によって営なまれています。しかし、取り分け北国においては、冬場しっかりした暖房と給湯の仕組みが無いと、健康に関わり場合によっては命にも関わります。熱供給を社会インフラに加えても良いのでは、と密かに考えている所以です。

具体的には、町の周辺に熱を供給ための「発熱所=熱供給局」を建設します。ゴミの焼却施設とは異なり、有害な物質を排出する燃料を用いませんから、市街のすぐ外に立地させても反対運動は起こらないでしょう。逆に熱損失を小さくするためには、需要家に出来る限り接近させる方が有利でしょう。大規模な施設の建設が有利ではない場合、小型の施設を複数作るアプローチもあるでしょう。公共施設や事業所と周辺の住宅地をセットにして、公共施設や事業の敷地に建設するのも良い選択肢でしょう。

作った温水は水道管と同様に断熱配管を通じて地下を巡らせます。日本では電力や上水道のための共同溝が整備されていないので、新たに道路を掘る必要があるかも知れませんが、出来る範囲からボチボチ整備するしかないでしょう。賢い日本人の事ですから、アスファルトを掘らないで配管を通す工法を工夫してくれるかも知れません。例えば、トンネルを掘る機械のミニチュア版の様なものです。需要家はお湯を水道メーターで買います。正確には、お湯の温度と流量を掛けあわせた「熱量」に応じてお金を払います。電圧と電流を掛けた電力量でお金を支払うのと全く同じ考え方です。各需要家には「熱量計」が設置される事になります。町全体のインフラ整備が現実的でなければ、取りあえずは公共施設と周辺住宅から始めても良いでしょうし、10戸ばかりの新しい住宅のミニ開発事業に適用しても良いでしょう。小規模であれば、ペレットやチップなどのバイオマス燃料も使いやすいでしょう。その町に製材所や木材加工所などが所在していれば、すぐにでも実現可能でしょう。少し書き足りないのでたぶん続きます。

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2015年2月25日 (水)

2635 カオス(混迷)

世界や国内の社会の混迷がますます深まっている様です。カオスで思い浮かべるイメージがあります。それは、水の上に数種類の油絵具を浮かべ、静かにかき混ぜた時の状況です。各色は太く、細く複雑に入り組んで混じりあいながら、しかし完全に別の色に変る事はありません。その様子は、例えば今ホットなテロ集団が、中東のある地域に広がっいる様子を彷彿とさせますし、そうでなくともある国の中で、最初は分かれて暮らしていたいくつかの民族や宗教集団が、やがて混じりあいながら、しかしココロの底ではある種の違和感を持ちながら暮らしている様にも似ています。

もし、水彩絵の具の様に、水の中で完全に混じりあってしまえばカオスなど問題にはならない筈です。それは、さながらモザイク画の様に、溶けあわずしかしある種の統一を保ちながら暮らす事を意味します。最近、ある女流作家が発言しマスコミを賑わした様な「人種モザイク論」に通ずるものもあります。大きな国は、その中に多くの民族や言語を抱え込んでいますので、上手くコントロールができないと、その中に紛争を抱え込む事にもなり兼ねません。しかし、モザイクのまま大きな国家を維持しようとすれば、CナダやSペインの様な地域独立問題、あるいは直接的には中東のいくつかの国家の様に、国内に民族(部族)闘争を抱え込む事になってしまうでしょう。

絵の具が混じり合わないままに、いたずらにかき混ぜる(国際交流を進める)事によって、カオスは深まるでしょう。一方、市民レベルの草の根交流を続けた後に、少しずつ交わって行けばカオスは回避できる筈です。結局問題はそのスピードにあると思うのです。船や飛行機で短時間で人が移動するのではなく、長い時間を掛けてジワジワと交わるのであれば、物事は平和裏に進むのでしょうが、現代の様に怒涛の様な国際化は必ずトラブルを引き連れてくるでしょう。世界をかき混ぜて、そこから莫大な利益を得ようとする輩が存在するのは間違いないでしょう。武器を商う国や企業がその例です。私たちは、「変化率」にもっと敏感になるべきなのです。熱力学の用語に「準静的変化」というものがありますが、知らない間にジワジワ進む変化に私たちは鈍感なのです。

明日から旅行のため数日休稿です。

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2015年2月24日 (火)

2634 エネルギーミックス3

26322633の続きです。2632での実例の様に、住宅の気密と断熱性能を十分に高めれば、実は冷暖房のためのエネルギーはゼロ、または極小化できる筈です。つまりは、魔法瓶の様な住宅やビルの実現です。秋田県のH市のデータでは、平均的の住宅の場合、熱需要(つまりは冷暖房と給湯です)は、重油換算で1戸当たり3-4kℓ程度あるので、もしこれが何分の一かに出来れば、エネルギー問題も一気に解決に向かうでしょう。そのためのキーワードが「断熱」なのです。

暖房は、断熱住宅であれば、日中の窓からの日射や屋根や壁を集熱器として利用した太陽熱で十分でしょうし、少し多き目の太陽熱温水器を屋根に載せれば、晴れた日なら冬場でも十分足ります。雨の日や雪の日は、仕方がないのでバイオマスなどの別のエネルギー源に頼るしかありませんが、もし太陽熱温水器の容量を大きくして、1-2トンの温水タンクにお湯を蓄えるなら、数日太陽が隠れても、風呂に入る事は可能でしょう。バイオマスボイラーを入れるか、太陽熱温水器の容量を増やすかは、その地域の事情で決めれば良いだけです。つまり、冬季の日照がそれなりに期待できる地域であれば太陽熱の比重を大きくし、日本海側の様にそれが期待できない地域では、やはり小型のバイオマスボイラを選択するしかありません。

いずれの場合も、一定量の温水を貯留するためのタンクは、蓄エネルギー(蓄熱)の仕組みとして不可欠でしょう。ここでの結論は、エネルギーミックスのベースには先ずは「太陽熱」を置く訳です。然る後に、冷蔵庫や調理器具、照明などの基本的なエネルギー源、つまりは電力や少量のガスなどを考えていきます。冷暖房と給湯のためのエネルギー割合は、一般的には5-6割を占めますので、その殆どが太陽熱で賄えることが出来れば、例えば3-4割のエネルギー削減が視野に入ってくるでしょう。その殆どが、現在は化石燃料あるいはそれを燃やして発電した電力で賄われていますから、国全体として2-3割のエネルギー削減も決して絵空事ではありません。そのためにも、工場など製造業も太陽光の利用を促進すれば良いのです。工場は広大な屋根を持っていますから、太陽光発電も、太陽熱集熱器も大規模に設置できる筈です。

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2015年2月23日 (月)

2633 エネルギーミックス2

さて2631の続きでエネルギーミックスの具体的考え方の提案です。実のところ、全ての地域をカバーする、例えばお国のベストミックスの政策の様なものはありません。というのも、お国の政策のベースには、エネルギー=電力との前提が置かれているからです。つまり、国全体のデマンドを頭に置いた上で、ではその膨大な量の電力を、どんな手段で「発電」するか、という諮問に対し、いわゆる学識経験者を集めた委員会が、検討結果を報告書としてまとめる訳です。これは、あくまでも「マクロ政策」である訳で、これが北海道と沖縄で即適用出来る筈がありません。

2631でも述べた様に、化石燃料を含めたほぼ全てのエネルギーが太陽光起源である限り、ベースに置くべきは、原発ではなく太陽エネルギーであるべきなのです。しかも、その優先順位は、トップに現在の太陽光を使う方法、即ち太陽光発電と太陽熱温水器の様なシステムを置くべきでしょう。次いで、過去数日の日射や降水を利用した風力や水力、更に優先順位が下がって過去数十年間に蓄えられた森林(バイオマス)を置くべきでしょう。その理由は明確で、ここで挙げた優先順位の順番にエネルギーとして再生可能性が高いからです。日射は、地域差は大きいのですが、全ての国の地域に注がれるからです。風は別にしても、雨は例えば農業資源としての優先度が高く、エネルギー利用と競合するため、その利用は限定されるべきでしょう。森林は、その再生や維持に膨大な労力を要求し、かつ長い年月が掛かるので、時代ごとに勝手に利用するのではなく、十分にロングレンジである計画の下に抑制しつつ利用する必要があります。

問題は、瞬間瞬間の太陽エネルギーに近いほど、その利用が電力に偏るほど、その供給量が不安定である事です。例えば、太陽光発電は、太陽が雲に隠れるだけで、出力はガクンと落ちるでしょう。しかし、太陽熱利用であれば、エネルギーは例えば温水の中に蓄えられるので、変動には強いでしょう。水力利用であれば更にロングレンジとなり、降水量はダムで平準化されるでしょうし、森林は非常に安定したエネルギーの蓄積庫とみる事も出来ます。従って、エネルギー源として優先されるべきは、小型の太陽光発電+小型の太陽熱利用(温水器、温風器)>利用可能であれば中小型の風車や水車>バイオマス>バックアップとしての化石燃料>さらにそれを補完する商用電源、という順位になるでしょう。その際、エネルギーを一時蓄える、蓄電や蓄熱の仕組みが必要な事は言うまでもありません。更に続きます。

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2015年2月22日 (日)

2632 高気密・高断熱住宅

若い友人の大工さんが自宅として建てた、高気密・高断熱住宅のオープンハウスに寝袋持参で出かけ、ついでに1泊してしまいました。まだ冷え込むこの時期に、夜暖房を落としてから明け方まで、どの程度の温度低下があるか体感するためでした。結論から言えば、前日薪ストーブで20℃前後に保たれていた室温でしたが、明け方になっても18℃程度あり、山用のダウンの寝袋ではむしろ暑過ぎるくらいでした。暖房無しでも夜間の温度低下は数℃しかなかった訳です。もし、翌日に太陽が出れば、南向きからの日照があり、冬でも暖房無しでも行けそうな感じでした。また吹き抜けがある二階建てのこの住宅では、居間のストーブ1台だけで、家中の温度差が数℃以内に納まっているので、寒い場所が無いのも特徴です。北海道でも高気密・高断熱を極めて外気がマイナス10℃以下でも、窓からの太陽光だけで20℃前後に保てるパッシブ暖房住宅がある様ですが、多分この住宅並みかそれ以上の断熱性能が実現されているのでしょう。

住宅の断熱性能に大きく関与しているのは、壁や屋根の性能に加えて、窓などの開口部の断熱性能が重要であるのは間違いないでしょう。この住宅でも、最新のトリプルガラスの窓と断熱ブラインド採用しているので、窓に結露が無いのはもちろん、窓際に発生しがちな冷気の心配もありません。ストーブで少量の薪を燃やせば、日中も夜も快適に過ごせることでしょう。もちろん、夏の暑さも屋根や外壁でブロックしますから冷房負荷も小さい筈です。

結局、私たちが省エネルギーを追求して原発を止めたいのであれば、ビルや住宅の断熱性能を極限まで追求しなければならないのです。省エネ性能の高いエアコンを入れるのではなく、先ずは建物の断熱・気密性能を高める必要がある訳です。構造的に問題の無いビルや住宅であれば、外断熱を加えて性能を上げると言う方法もありますので、無理に建て替える必要もないでしょう。住宅メーカーや素材産業には、この外断熱のための工法や素材の開発をお願いしたいものです。断熱による省エネの実現は、その分の新たなエネルギーを手に入れたのと同じ効果があるのです。その意味で、建物の断熱性能にあまり頓着しなかったこの国には、膨大な「省エネルギー」という資源が眠っているとも言えそうです。

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2015年2月21日 (土)

2631 エネルギーミックス

世事(政治?)を愚痴るのも疲れるので、久しぶりに「環境ブログ」らしい表題とします。今お国でも、エネルギーのベストミックスについて盛んに議論していますが、この国に過去に作ってしまった50基ほどの原発は、安全審査を行った上で、ベースロードとして活用する事が議論の前提となっている様です。ベストミックスの議論を始める前に原発ありきとの前提を置くと言う、訳の分からない話ではありますが・・・。

さて、以前にも何度か書きましたが、原子力エネルギー以外のエネルギーはほぼ全てが太陽エネルギーが起源です。少しの例外として、地熱や潮汐エネルギーもあるにはありますが、量的には少な過ぎるのでここでは横に横に置いておきます。バイオマスも風力も水力も全て太陽エネルギーによって直接あるいは2次的に生み出されました。石油や天然ガスでさえ、太古の昔の太陽エネルギーが固定され、地下に埋没したものです。そういう意味では、エネルギーのベストミックスを考えるに当たっては、結局は「何時の太陽エネルギー」を利用するのか、という議論に還元できるでしょう。もちろん、人間がその害悪を消す事が不可能な原子力は、そこから出る核廃棄物の処理に関する技術的、政治的に解決策が無い限り、最初から除外するしかありません。量は限られるとはいえ、強い潮流や、豊富な地熱が活用できる地域では、それも有難く利用する事になるでしょう。

さて、ベストミックスです。これまで、安価に供給されてきた、いわゆる化石燃料は、使えば目減りする太古の遺産であり、しかもその燃焼によって大気中の二酸化炭素濃度が急激に増加している現状では、可能な限り減らしていかなければなりません。引き算で考えると、私たち世代や子孫が安定的に利用できる残されたエネルギーは、精々数世代以内で継承できる範囲の太陽起源のエネルギーだという事になります。一番長いレンジのエネルギー源は、木材から得られるバイオマスでしょう。山に木を植え、然るべき時期に伐採するサイクルさえ守れば、十分に持続可能です。植物の種類によっては、数年あるいは1年で大きく成長する植物もありますから、組み合わせによっては多様性が広がります。

水力は、冬に降った雪や数日前に降った雨を利用する、1年未満の太陽エネルギーと言えます。風力や太陽光は、変動の幅が非常に大きい欠点はありますが、いま現在その場所で利用できる太陽エネルギーだと言えます。このテーマは長くなりそうなので、続きものにします。

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2015年2月20日 (金)

2630 空虚な議論

ラジオから流れてくる国会中継で聞く言葉の何と空虚な事でしょうか。国民一人ひとり、全国津々浦々、国際社会、国民の安全安心、地域創生、異次元の緩和策、などなど。これらの言葉からは何も伝わってきません。それは、紙に書かれただけの空虚な言葉だからでしょう。物心がついてから目撃してきた結果として、議会における野党からの直球質問には、出来る限り抽象的な煙幕言葉で対抗するのがこの国の「政治ショー」の決まりごとであり続けている様な気がします。

言葉は、モノやイメージや感情などを表すシンボルではありますが、非常に具現的にも逆に抽象的にも用いる事が出来ます。つまりは、万人が誤解なく理解できる具象表現と、百人が百様に解釈出来てしまう抽象表現があるという事です。「国民一人ひとり」などと言う言葉を、国会中継を通じて聞けば、普通の人は自分や家族や身近なな人達の事を思い浮かべるだけで、見も知らない大金持ちやその日暮らしの路上生活者の事など微塵も思い浮かべない事でしょう。津々浦々の町って一体何処の事でしょう。もちろん山間地にある村には津や浦などはある訳はないでしょうし、そんな村に中央の景気回復の恩恵が降ってくるとも思えません。

結局中央のお役人や政治家に出来る事は、集めた税金をどうばら撒くかの政策を打ち出すしかないのです。彼らが、地方の町や村の活性化のために具体的なアイデアを出したり、将来設計までやってくれる訳ではないでしょう。予算を付けて、精々良いアイデアを持って来なさい、というのが関の山です。お役人が自分の仕事を作るために分捕った「抽象的な名目」の予算を、それに乗っかった議員が国会を通すだけです。それを審議する筈の予算員会は相変わらずの茶番と下品なヤジのオンパレードです。悔しかったら、皆がほほ笑む様な上品なウィットで切り返して欲しいものです。このブログでは批判はしない事をモットーとしてはいますが、これは「愚痴」です。念のため。

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2015年2月19日 (木)

2629 ロボット社会?

日本はロボット大国だとか。あるいは、この国のリーダーはロボット社会を実現したい様です。実用的なロボットは、Uニメート社のライセンス生産から始まって、車のスポット溶接や塗装作業に用いられた工業用(スカラー)ロボットは、優れたロボットメーカー群の努力もあって、工業用ロボット分野では、ドイツやフランスの有名処に伍して、世界的なシェアもそれなりに占めています。一方、某車メーカーや家電メーカー、果てはIT企業まで、いわゆるペットロボやエンターテイメントロボを手掛けて、市場に送り出しています。

しかし、よく考えてみればこれらのロボットは、固定式の工業用多関節ロボと、動けるが芸や会話しか出来ない役者ロボに分かれ、間を埋めるカテゴリーのロボットが見当たりません。間を埋めるとは、移動が出来て実用的な力仕事もこなす、いわばアトム型ロボットです。例えば、放射線が満ちている原発事故現場の作業ロボや、災害現場での捜索ロボ、あるいは介護現場でのアシストロボなどなどです。理由ははっきりしています。行動範囲の自由度が大きく、広く動き回れ、加えて人を軽く持ち上げるほどのパワーを持ったロボを、街に解き放つのは、制御が上手くいかなくなった時には人に危害が及ぶ恐れが出てくるからです。従って、アトム型ロボを実現するのは、多分50年先でも難しい課題のままでしょう。難しい理由は他にもあり、ヒトの筋肉の様なアクチュエータが実用化されていない事と、動力源としてはエネルギー密度の低いバッテリーしか見つかっていない、という技術的な台所事情も挙げられるでしょう。

ならば、割り切って人間のパワーを補助するパワースーツに開発を絞ってしまうのも一方法でしょう。これでは流石に原発事故現場には入れませんが、その場合は自由度の大きなエンタメロボを中に入れて送り込めばどうにかなりそうな気もします。ロボット社会やロボット大国を標榜しようと考えるなら、この分野のロボットに注力しないと、それは掛け声だけに終わってしまう事でしょう。アトム型ロボット時代は、21世紀には間に合わなかったし50年後も実現できていないと無責任に予言しておきましょう。

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2015年2月18日 (水)

2628 格差の中身

格差社会があれこれ議論されています。しかし、格差の中身そのものに関する議論は少ないように見受けられます。いま議論されているのは、殆どが「経済格差」の話題ですが、その背景や周辺にも種々の格差が隠されていると思うのです。それらの格差が、結果として経済格差を生んでいるのか、あるいは経済格差がそれらの格差を誘引するのか、まさに玉子とニワトリの関係になるのかも知れませんが、いずれにしても中身の議論は、根っこの特定やその解消にも重要でしょう。

さて、格差には目に見えるだけでも、例えば家柄格差、身体的格差、性格差、学歴格差、健康格差、企業格差、地域格差、運動能力格差?などなど多くの側面がありそうです。そこまで広げると、結局格差とは各種のハンディキャップの別名だと言っても良さそうです。ハンディキャップには、努力すれば容易に、あるいは困難ながら、解消可能なものがあります。生まれついての体格の差や、いわゆる身体的障害の様に、解消が殆ど望めないハンディも確かに存在します。しかし、多くのハンディは努力次第ではかなりの程度解消できる筈なのです。

中でも、経済格差は最も直接的に格差を解消できる可能性を持つハンディだと言えます。何しろ、お金を手にした瞬間、ハンディは一気に縮まるからです。経済格差は、お金を持てる者と持たざる者の金額の差を指しますが、持てる人からそうでない人お金を渡す(移転する)だけで、マイナスとプラスで、格差は一気に小さくなるでしょう。例えば、累進性を持つ税制などはその典型的手法です。

しかし、その経済的格差の背景にある、または原因となった格差(ここでは背景格差と呼んでおきます)に関しては、お金の移転だけでは何らの解決にはつながらないでしょう。お金だけの移転では、クサい格差に蓋を載せるだけの対策に陥ってしまうからです。背景格差の解消には、経済格差の何倍もの努力と時間がかかるので、誰も進んで手を出そうとはしないのです。まして、自分の任期中にある程度の成果を出さなければ次の選挙に勝てない政治家(政治屋)は絶対に手を出さないのです。経済格差は最も取り組み易い格差の代表だと言えるでしょう。格差問題は、ひとまずここで締めます。

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2015年2月17日 (火)

2627 モノとカネ

この世に先に存在したのはもちろんモノです。しかし別々のモノを持っている同士の物々交換は、結構面倒で、常に現物を一々持ち運ばなければならないので、何時しかモノに代わるシンボルとして通貨が使われ始めました。最初は石や貝であったものが、やがては銅や金銀の金属になり、近世になって印刷技術が発達するにつれて、精巧に印刷された紙の通貨=紙幣になりました。しかし、水に濡れたり燃えたり破けたりする紙幣もやがては、便利な電子マネーにその座を徐々に明け渡しつつあります。というより、取引額においては電子マネーが既に通貨の王座に座っているのです。私たちの知らないうちに。電子マネーの価値を担保するのは、国や金融機関のシステムに対する「信頼」しかありません。

大航海時代に至り、海運が拡大するにつれて、モノの輸送を担保する仕組みとして保険制度が発達し、同時に先物取引などの相場も発達したのでしょう。また国や自治体や企業が発行する債券なる「信用価値」も流通するようになりました。しかし、考えてみればその頃からモノとカネ(価値のシンボル)の乖離が始まったのでしょう。つまりモノに裏打ちされないカネの存在です。もちろん、今流通していたり、システム上に流れ、ストックされているカネを、実際のモノで担保する事は不可能です。何故なら、例えば石油マネーに相当するモノは、既に消費されて大気中の二酸化炭素になってしまっているからです。いくらもう一度二酸化炭素を集めても、一銭のお金にもなりません。炭酸ガスとして流通してしているモノは、もちろん電力というお金掛けて作った別物に過ぎません。

モノに裏打ちされないカネはもはやお金(通貨)ではなく、富と呼ばれるモンスターに化身したと言うしかありません。モンスターと表現したのは、もはや誰にも十分には制御できなくなったからです。その価値は、紛争や破産境界線上の国々や、時には一企業の破綻などをきっかけに膨張収縮を繰り返し、ネット上を秒速で走り回るのです。まさに見えないモンスターです。たぶん続きます。

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2015年2月16日 (月)

2626 風刺とからかい

風刺とからかいに一体明確な境界が存在するのでしょうか。国内と海外のそれぞれに悲惨な事件の根に、表題の問題を見てしまいます。イジメのスタートには、たぶんからかいがあるのでしょう。一人のからかいはイジメには進展しないのでしょうが、集団でのからかいは立派なイジメと呼べるでしょう。W歌山の事件にも背景にからかいがあったやに報じられていますが、果たしてそれが個人間に根差したものであったか否かは、やはり今後慎重に解明されるべきでしょう。

さてFランスの事件はどうでしょう。民衆が、時の政府を風刺することは、政策の矛盾や足りない点を指摘する手段としては、むしろ健全でありそれを規制するのは、いわゆる言論の自由を奪うことであり、あってはならない事態でしょう。しかし、個人や特定の宗教をやり玉に挙げる事に関しては、やはり節度を持って臨むべきでしょう。ましてや、テロ首謀者ならいざ知らず、特定の宗教を風刺する構図に至っては、何をかいわんやです。従って、事態を抽象化して言論の自由の行使うんぬんだけを議論すべきではないでしょう。そこには、風刺されからかわれた側の想いは無視されがちですし、逆に宗教の衣を着たテロ集団に対しては、新たなテロの口実を与えるだけに陥ります。

そうではなくて、糾弾するのであれば、人間として行ってはならない行為そのものでしょう。人の命を安易に奪い、それをメディアに公開するなど、如何なる宗教であってもその教えに外れるはずだと想像しています。ましてや自爆テロにおいておや、です。風刺は弱いものが強いものに向かって放つ抵抗の矢に留めるべきで、絶対に強い立場の人間がマイノリティに向けてはならない類のものでしょう。からかいも、そのルールにおいては風刺と何ら変わるものではありません。11でのからかいは、両者が対等の関係である限りは、笑い飛ばせるものなのでしょうが、一旦強者、弱者の関係が出来上がってからのからかいは、そこに必ず感情的な鬱屈が残る筈です。ここでの結論としては、一旦マイノリティとマジョリティ、あるいは強者と弱者の関係が生まれてしまって以降は、マジョリティ側からの風刺やからかいは、節度が求められて然るべきだと言うものです。

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2015年2月15日 (日)

2625 地方再生

たぶん何度目かの同じタイトルです。地方再生を地方創生と呼ぼうが呼ぶまいが、お国が予算を付けようが付けまいが、ここままでは多くの地方で少子高齢化が進み、年率数%の割合で人口減少が進むでしょう。高齢化率が上がり切って、人影も疎らになった田舎では、もはや再生も創生もあったものではありません。規模が大きくても小さくても社会を構成するのは人そのものだからです。しかし、どんなに小さくてもある限度以下の規模(サイズ)では、いわゆる社会を形成する事は難しくなる事でしょう。というのも、社会はいくつかの分野での役割分担が行われ、その「相互関係が持続」する必要があるからです。モノや食糧を作る人、それを運ぶ人や売る人、そして食材を調理をして提供する人、行政サービスを受け持つ人、医療や介護を引き受ける人などなど、いわゆる「籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」といった、コミュニティの中の仕事の分担やモノやお金の「持続的な循環」が必要なのです。

その循環が続くにはある規模以上のサイズが必要だと思うのです。地方の中核市であれば、最低でも4-5万人以上が欲しいでしょうし、その周りに点在する集落であれば、最低でも数十戸で数百人の規模が必要でしょうし、それらの集落の中心にはやはり小さくても小学校の分校は必須です。そこには、折に触れて人々が集い、元気な子供の声が響く必要があります。

なのに、現状の集落は、人が亡くなれば亡くなっただけ人口が減り、若者や子供の姿が消えた集落や、町にはいくらお金を注ぎ込んだとしても、再生は叶わない夢でしょう。その状態を指して「限界集落」などと揶揄されて呼ばれる訳です。地方再生や創生などと札束を振り回す前に、遮二無二でも人口回復にこそ力を入れるべきでしょう。殆どのお金は、若い世代の移住政策のために使えば良いでしょう。新たな産業を興すのは大変で、時間も掛かりますが、伝統的な生業(ナリワイ)を小さな規模で復活させるのはそれほどハードルは高くはないはずです。その地域で成り立つ伝統的な生業とは何か問うならば、それは地域のお年寄りに聞け、ということになります。

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2015年2月14日 (土)

2624 核とウェブの類似性

核物質とウェブ(Net)には、恐ろしいアナロジーを見てしまいます。核物質は、そこから出る放射線が多くの物質を貫通し、生体であれば遺伝子にキズを付けて強烈な変異を引き起こします。また、その分裂によって質量mをアインスタインの式(E=mc2)によって凶暴なエネルギーに変えてしまうでしょう。その実用例が核爆弾です。一方で、米ソの冷戦は、何か月もの間潜りっぱなしで行動できる潜水艦を開発しようとして軍事技術開発し、エネルギー源として穏やかな核爆発技術である原子炉が生まれました。その軍事技術の「平和転用」という触れ込みで、原潜用原子炉をサイズアップして数多くの原発が建設されました。もちろん初期の原発は、安全性において欠陥の多い構造でもあった筈です。B国の誘いに乗って、世界の中でも原発に早くから飛びついたこの国では、福一で事故を起こした古いタイプの原発が東電や関電などから導入され始めたのでした。

一方で、B国で核と同様、初期は軍事技術として開発されたWWW(World Wide Web)は、回線が解放されるや否や、瞬く間に世界中にクモの巣の様に張り巡らされて、浸透していったのでした。平和利用である限りは、核エネルギーと同様有用なシステムではあるのでしょうが、今やウェブは武器としてもますます牙を剥きだしてきても居るのです。いわゆるサイバーテロなどのネット空間における攻撃や破壊行為です。もし彼らが。画期的なサイバーウィポンの開発に成功した暁には、核爆弾同様ほぼ一瞬にしてウェブ空間やそこに作られたインフラを破壊する可能性も否定は出来ないでしょう。

怖いのは、エネルギー利用における核にしても、社会インフラとしてのウェブにしても「過度な依存」でしょう。それ無しには、夜も日も明けない社会システムは、非常に危険で脆弱なものに陥ると警告するしかありません。例えば、原発がたった1発のミサイルを炉心に受けるだけで悲劇的な被害を受ける可能性があるのと同様、ウエブに依存し過ぎた社会システムも、同じ意味での脆弱性を抱えているからです。

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2015年2月13日 (金)

2623 軟着陸

当たり前の事ですが、離陸した飛行機は着陸しなければなりません。燃料には限りがありますし、水や食糧だって飛行時間に見合った量しか積み込んではいないからです。同じ意味で、有限の資源しかないこの地球で、持続的な成長などあり得ない絵空事である事は、子供でも理解できる話でしょう。なのに、この国のリーダーは、ゆっくりと高度を下げつつあった飛行機の高度を、無理やり反転上昇させようとしてる様にも見えます。高度を上げるには、エンジンにそれまでより多くの燃料を送る必要があります。機体やエンジンをそのままにして、燃料だけを使って高度だけ上げる場合、いくつかのリスクが伴います。間違いなく航続距離は短くなりますし、高度を変えると気流の状態が変化して、乱気流に巻き込まれる危険も増えるでしょう。

この国が、先ず為すべきは機体の軽量化でしょう。人口が増加し、経済規模も順調に拡大していた高度成長期と、20年余りの経済の停滞期(=水平飛行)期間を経て、人口減少局面に入った国としては、リーダーはソフトランディングすべきレベルを模索しなけれなならないと思うのです。この国人口が例えば、8千万人規模で歯止めを掛け、安定期に至るための具体的な方策を立て、そこに至る「軟着陸」のアプローチを考えるのが「責任あるリーダー」の姿勢であるべきでしょう。

軟着陸には、実は結構技術が必要です。ベテランパイロットの着陸がスムースなのは、車輪が地面に接触する瞬間、少し浮力を増加させ、ドスンと着地しない様に小手先を利かせているからなのです。進入角度は一定ですが、最後の瞬間に少し角度を緩く調整を入れる訳です。景気の操作もココロは同じでしょう。何時までも、異次元の緩和を続ける訳にはいかないのです。出口のタイミングを見計らい、市場のリアクションを見ながら、出来れば市場が気が付かないうちに、あるレベルに着地させるのが理想です。経済の成長しか頭にないリーダーや官僚に、果たしてそんな芸当が出来るのか、戦後から現在に至るまで、彼らにはそんな経験が無いと想像されるだけに、大きな懸念が残ります。

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2015年2月12日 (木)

2622 足場の無い橋

日課となっている散歩コースには、5㎞ほど離れた橋の間の堤防道路が含まれています。偶然にも、今その2つの橋がメンテナンス中です。足場職人は、橋の歩道の手すりを利用して見事な作業足場を組み上げました。それを利用して、路盤の裏側の鉄骨や橋脚のコンクリートの状況を点検し、ひび割れたコンクリートの補修や鉄骨の発錆部のペイント塗り直しなど必要なメンテナンスを行っています。

しかし、考えてみれば橋を架ける時、鉄骨の下側に人が通れるだけの点検足場を付け足しても、コストは殆ど変らないと思うのです。架橋コストに占める鉄骨だけのコストは、多分1割にも満たないと想像するからです。そうであれば、1割のコストがもし1割上昇しても、全体的なコストは1%しか上昇しないでしょう。固定の足場があれば、日常点検も容易でしょうし、もし軽い腐食が見つかったとしても、ペンキ缶とハケさえあれば、何時でも簡単に補修が出来る筈です。その様な考え方は、他のインフラにも、普通に市場で売られているハードウェアにも共通する話なのです。設計時にチラッと修理やメンテナンスの事を想像し、そのための小さな工夫、例えばアクセス性や劣化状況の診断や必要な時の部品交換の容易さ、などなどです。

これを敷衍すれば、例えば社会システムや法律や、会社組織など人間が作るあらゆるモノやコトにも通ずる筈なのです。それを使っている時の便利さ=ユースウェアや、手を入れて修正しなければならない時の融通性=メンテナビリティを始めから含んでいるシステムこそ、優れたシステムだと言えそうです。分かりやすい具体例については、思いつき次第追加する事にします。

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2015年2月11日 (水)

2621 選択肢と決定

物事を決定する場合、いくつかの選択肢の中から選ぶと言う方法が一般的でしょう。また選択肢が多い程、理想的な決定に近づくのだとも、思われがちです。つまり選択肢の少ない二者択一ではなく、5,6個の選択肢の中から選べば、たぶん間違いも少ないはずだと思うのでしょう。とは言いながら、例えばデザインコンペなどで応募総数が多ければ多い程、その中で決められたデザインの質が高くなるかと問われれば、疑問だと言うしかありません。

選択肢から選ぶ前に、先ずは選択基準がいると思うのです。最低限必須でクリアすべき条件は何か、是非欲しい条件な何か、盛り込まれていれば好ましい条件は何か、もし可能なら含まれていれば更に好ましい条件は何か、など多段階にゲートを設けておくべきでしょう。数多くの応募があっても、それらの条件を次々にクリアする作品は、もしかすると含まれていない可能性もあるでしょう。仕方がないので、選考者は並みの一番上にある作品を採択するのです。

選択でもう一つ考慮しなければならないのは、多面的なゲートでしょう。例えばインフラ建設のコンペで、機能やデザイン的にはベストだと土木工学の専門家が太鼓判を押した作品が選ばれたとしましょう。しかし、別の視点で見れば例えば周囲環境の保全には相容れない構造だったり、あるいはその地域の将来計画に照らしてみれば「奇異」なデザインだったり、そのインフラが用済みにになったり、寿命が尽きた時に解体するのに骨が折れる構造だったりする訳です。新たな国立競技場がそうではない事を願うばかりです。同じ意味で、今の原発の構造が最適なものであったかどうか、いざ廃炉にして解体しなければならなくなって、今の技術者は途方に暮れているのです。今あるインフラ建設や設備機械や製品が、一体どこまで修理やメンテナンスを考えてデザインが決まったのか、元技術屋としては心元ない限りです。真摯な反省が必要です。

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2015年2月10日 (火)

2620 富の集中

もう少し、格差や富について考えています。富はいわば磁石の様なもので、一度引きあって集まり出すとドンドン集中する傾向にあります。それが極端になると、さながらブラックホールの様な勢いで吸い込み続けます。引力は距離の自乗に反比例して大きくなるのですが、富みも同様な本質を持っているとも言えます。もちろん富は集まったままで金庫に納まっている訳ではありません。それらの一部は再投資という形で、新たな富を吸い取るために活用されるのです。投資には本来、配当のレバレージに応じたリスクが伴う筈なのですが、どうやら奴らはしっかりしたヘッジを仕組んで、リスクをかなり軽減している様なのです。そんな仕掛けは庶民には全く無縁ですが、しかし額に汗をかく事なしに勝手に富が集中する事態には全く同意できません。

とは言いながら、自分が汗して金融機関などに預けたささやかな富は、一体何処でその様に運用されたかは、お金に色が着いていない限り、というより電子化された瞬間に、世界を駆け巡っている限りは、誰にもトレースできないでしょう。ささやかな富もかき集めれば、この国の個人資産だけで軽く1000兆円を超えてしまうのだそうで、それを投資機関が「運用」するのでしょう。ささやかな利息を集めるだけで終わっているとそんなに問題は出ないのでしょうが、お金の磁石を動かして、余っているお金を引き付ける「操作(オペレーション)」を行えば、ゾロッとついてくる様なのです。

これだけ、地上に富みが蓄積してしまうと、もはや人の手には負えない事態に至ってしまったと言うしかないのかも知れません。それを回避する手段としてはあまり多くない様な気がします。経済には素人の投稿者が考えると、例えば通貨に頼らない決済(物々交換や地域限定通貨を使うなど)しか思いつきません。モノにはストックしていても劣化はするでしょうが利息は付きません。また地域限定通貨(地域通貨)は発行元で発行高を完全に把握できますし、流通量のコントロールも容易でしょう。結局は、富の制御には、それを分断して集まらない工夫が必要だと言えそうです。

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2015年2月 9日 (月)

2619 もっと内向きに

他国の難民の処遇を心配し、その支援を考える事も、あるいは途上国の経済援助の風呂敷を広げる事も、TPPで交易を増やす事も結構ですが、もう少し足元を見回しても良いのでは、と感ずる今日この頃です。難民が十分な処遇や教育が受けられない事は確かに放置は出来ないのも事実でしょうが、関連する活動や報道活動(あるいは売名行為)で海外で犠牲になられた方が象徴的にニュースで取り上げられる一方、国内に目を向ければ、これ以上の悲惨は無いと言えるほどの「事件」が多発しているのです。

何となく引きこもり状態になり、結果わけも無く人を殺める若者、酒や薬を煽って車を暴走させる人々、お年寄りから金を巻き上げ続けるグループ、数万人にも及ぶ自死者、わが子を虐待する若い親などなど、足元にもかなり絶望的な状況が渦巻いているのです。難民は確かに生まれ故郷を追われて糸が切れた存在かもしれませんが、事件を起こした若い人々も、ある意味で社会との繋がりが切れたココロ難民であり、ココロの放浪者だと言えるでしょう。

マスコミに持て囃されるジャーナリズムも華やかですが、社会の闇に光を当てるルポや地道に若者に向き合っている人たちにスポットを当てて報道するする事は、海外に目を向ける以上に優先度が高いと思うのです。世界を俯瞰していると豪語しているこの国のリーダーには、金勘定以外の内政にもっと目を向けて貰いたいし、マスコミにはもっと内向きのニュースやルポを増やして貰いたいものです。やや評論家的な書き方になってしまいました。

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2015年2月 8日 (日)

2618 否定からは何も2

さて否定からは何も生まれないと言う前提に立って、では全てを許す態度や行動だけが求められるのでしょうか。当たり前過ぎますが、許す許さないと言う議論の前に、先ずは異なった価値観を認識し、理解しようとする姿勢が必要でしょう。何故、エルサレムという聖地が、3つもの宗教的価値観によって共有される羽目になったのか、人々がグリム童話の様な分かりやすい寓話で誰もが理解できる時代になれば、相互理解は進むのでしょう。その寓話の中では、弱者や敗者を作ってはならないのは言うまでも無い事です。

否定でもしかし肯定でもない、第三のベクトルとしての相互理解こそが、国際紛争や政争を中和するには最も有効であると思うのです。180度真反対のベクトルの引き合いでは、強いものに引きずられるか、引き負けまいとして荒っぽい手段に走るかのいずれかでしょう。しかし、相互理解のベクトルは、いずれのベクトルとも異なる第三のベクトルですので、それはさながら120度に分かれた三本の綱による綱引きに例えられそうです。その綱引きによるゴールは、常に3本の綱の交点を、一定の範囲(つまりは節度と調和の範囲)に納める事なのです。

もし、ルールを無視して武力や経済力などの力技を使って、無理やり勝を得ようとするベクトルに対しては、判定ベクトルのより深い理解を求めるためのデータを示し、キャンペーンを行う必要があります。テロに対する空爆では、お互いの弾が切れない限り、争いは終わらないでしょう。一度静まった様に見える火種も、資金や弾(武器)が溜まってくると、紛争や戦争が再燃する例は、人類は歴史上それこそ何度も経験してきた筈なのです。繰り返しますが、否定からは何も生まれないし、争い事も解決されないのです。多くのテロ集団も、結局は対抗するイデオロギーや価値観による否定が生んだモンスターだと言う事も出来そうです。このモンスターは、否定が強い程ムクムクと巨大化するのです。この国こそ、第三のベクトルたる能力も資格も持っている筈なのですが、それを有志連合だかなんだかのベクトルだけに振り向けようとするこの国リーダーの姿勢は、否定はしませんが、理解は不能だと言っておきます。

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2015年2月 7日 (土)

2617 否定からは何も

このブログでは、世事を否定する事は避けて書いていると思っています。愚痴は書きますが、否定分は書かない様にしているつもりです。否定文とは、~ではない、~してはならない、といった語尾になる文です。というのも、否定からは何も生まれないだろうと思っているからです。それに、ずっと若いころから気が付いていれば、もっと人生や子育て人間関係が上手く行っていたかも知れない、とココロの隅で時々考えます。否定は、自分の考えと自分の外で起こっている事のズレや矛盾に気が付いた時にしがちな行動です。特に価値観の幹に直接関わる様な違和感に触れると、人は激しい否定を行ってしまう様です。

しかし、人はその価値観はどの様にして自分のものとなったかについて自省する事は、稀だと言っても言い過ぎではないでしょう。考えてみればそんなことをするのは、一部の作家か哲学者くらいのものだからです。自分(の脳)がどの様な環境や本や情報に触れた結果,、いまの様な判断基準(=価値観)を手に入れたのかは、実は非常に重要な事なのですが、その結果もし何かが間違っていた事に気が付けば、それは即ち「自己否定」につながるので、多くの人々はそれには出来るだけ触れない様にして人生を送っているのだと想像しています。

さて、短い投稿の中では大胆な事ではありますが、これを今世界で起こっている事に敷衍して考えてみます。価値観を個々人の行動規範の根源と考えれば、実際のところ価値観は民族の数だけ、更に言えば自己を確立した人口の数だけ存在する筈です。しかしそれでは、日々争いが絶えないでしょうから、「最大要約数的価値観」を共有する人々(多くの場合それは国単位です)がコミュニティを形成している訳です。そのままで暮らしていれば、世界地図は民族のモザイクのままだったでしょう。しかし、主教という衣を羽織った権力者の遠征の繰り返しは、価値観のフリップフロップを強要し、結果としてモザイクをグチャグチャにかき混ぜてしまい、今日の様な民族とイデオロギーの細かなマーブル模様を残してしまったのです。

そのままであったら、多分各地で起こる地域紛争の多発のままで推移したでしょう。しかし、いわゆるスーパーパワーの介入が、宗教的価値観やイデオロギーや殺傷能力の高い武器の供与によって、紛争の拡大に歯止めが利かなくなってきたのだと、特に自分がリアルタイムで知っている20世紀の後半を振り返っています。やはり書き切れないので続きます。

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2015年2月 6日 (金)

2616 文化力(=人間力)

表題を人間力と言い換えても良いでしょう。しかし人間力は、いわゆる教育だけで育めるものではないでしょう。もしそれが出来るとすれば、教育システムさえ完璧であれば、粒の揃った優れた人間を、落ちこぼれなく輩出できることになります。例えば、T大と言う大学教育システムが人間力形成に理想的だったと仮定すれば、そこからの卒業生はほぼ100%の「歩留まり」で、優れた人間軍団が出来る上がるでしょう。もちろん、そのシステムにに送り込まれる素材は「厳選」されているにしても、そこの卒業生が人間的に優れた逸材ばかりで、国や企業のリーダーを独占しているなどという話はついぞ聞いたことがありません。

一方で、東北のとある県(Y県)が、人口当たりで割れば最も多くの企業経営者を生み出しているとのデータがあります。もちろんそれらの人の殆どが、T大教育システムをくぐり抜けて行った訳ではありません。それどころか、あまり有名ではない大学出身者の割合が結構多くなっている様です。そうなると、東北のこの地域の環境が、人間力を育むには、日本で一番すぐれているのではないか、という仮説を立てたくなります。確かに、小さい頃から塾通いをさせられたモヤシっ子と、そうではなくて野山を走り回った野生児のどちらに「人間力」がありそうかと問われれば、やはり後者に軍配が上がるでしょう。

つまり、この地域は人間力を育むにこの国で一番適した文化を持っている地域ではないかと想像できるのです。その本質は何かと考えては見るのですが、文化はいくつかの要素で出来上がっている単純なものではなさそうで、風土であり気候であり、家族制度であり、地域行事であり、そして地域とのつながりなど、重層的で複雑なものだと言うしかありません。それがある程度でも解明できれば、この国の若者が内部に抱える闇あるいは陰の様なものに少しは光を当てられる可能性も出てきます。ネットでイジられたから。現実世界でホコ天に車で突っ込んで多数の人を殺めたり、あるいは猫の解剖に飽き足らず、人で試してみたかったなど、およそ人間力とは対極のコメントを吐く若者たちを見て、彼らのココロの闇は一体如何なるものか、凡人である投稿者には想像すらできません。でも人間力で照らせば、闇も影も薄くなる事は間違いないでしょう。

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2015年2月 5日 (木)

2615 再循環率

Oイコノミアは、なかなかに面白番組だと思っていて、出来るだけ視聴する様になりました。世の中のトレンドを、経済学という切り口で切って見せてくれると言う点で興味が引かれます。さて、若いスランス人経済学者の言うように、資産を労働資産と財産に分けて、その格差を論ずる見方もあるのでしょうが、いわゆるエンゲル係数の様な、全資産に対する消費金額という様な指標もあるのではないか、と経済の素人は考えてしまいます。同じ労働代価(賃金)を受け取っている、同様の社会的ポジションにいる人でも、例えば親の財産が直接・間接に当てに出来る人と、田舎から進学で都会に出てきて特に財産もなく同じようなポジションに座っている人では、当然消費行動には大きな差が出るでしょう。子供が出来て、車でも買い換えようとする場合でも、片や外車の中から選ぼうと考えるでしょうし、後者は軽自動車のやや広めの車種の中から選ぶかもしれません。

その差は、資産的余裕と考えるしかありません。ところで、多くのプラントには、再循環と呼ばれる仕組みが組み込まれています。例えば、液体を送るパイプラインが、輸送先で行き止まりになっている場合、デマンドが止まった時液体が滞ってしまい、場合によっては液体が変質してしまいます。そこで、デマンドが減った場合に備えて、液体を輸送元に戻す再循環ラインを設けるのが通常です。お金(資産)に関しても、流れ(例えば企業から雇用者への)にも、消費という再循環が存在するでしょう。そうでなければ、お金のフンづまりが生じ、経済そのものは硬直化して回らなくなるでしょう。再循環の割合、再循環率がいわば経済の活発さを示す指標になるのでは、素人なりに考えた所以です。

しかし、考えてみれば再循環せず個人の手元に残されるお金、即ち預金率は再循環率の補数そのものではないか、という突っ込みに関しては、適当な答えは持ち合わせていません。引き続き、素人経済学をひねってみます。ちなみに、現状の投稿者の再循環率は、番組に出ている芸人並みに100%に近くなっています。十数年前に脱サラして、儲からないコンサル業を営んでいる自営業なので、致し方ありませんが・・・。

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2015年2月 4日 (水)

2614 真の復興

大震災後4年を経過し、大規模な地盤嵩上げに取り組んでいる地域でも、それなりに形が出来上がってきて、そこへの復興住宅や、新たな街並みの建設も始まっている様です。しかし、人がゼロからデザインして、成功した「人工都市」の例を浅学にして投稿者は知りません。キャンベラ、ブラジリア、ネピドーなどを例に挙げるまでもなく、古代の人工都市の遺跡などを思い浮かべるだけでも十分でしょう。この時代まで続かなかった古代都市は、やはりそこに人が集い、住み続ける「必然性」が弱かったと考えるしかないでしょう。

人が住むためには、いわゆる衣食住の充足は基本でしょう。しかし、それだけでは十分ではないのも事実です。何より、周辺環境こそが重要でしょう。海や山や野原に囲まれていて、そこから得られる幸も重要ですが、環境から得られる癒しも重要な要素でしょう。人口都市には、実はこの自然環境が醸す癒し効果が欠けているのです。人工的な地盤に、周囲から自然が「侵入」してきて、一体化するまでには、数十年から百年ほども掛かるのではないかと想像しています。都市の中にある公園に感ずる違和感はそこから生れます。同じ都市内の緑地でも、例えば明治神宮の森から得られる癒しは、自然環境にかなり近づいていると言っても良いでしょう。何が普通の公園と違うかと言われれば、樹木や植物やそれに依存する動物が、そこにしっかりと根付いているか否かだと言うしかありません。

もう一つ、復興にはそこに住む人の問題があります。移動を常として歴史を刻んできた西欧や中央アジアなどの遊牧民と異なり、瑞穂の国でもあるこの国ではやはり、山からの豊富な水が得られる土地とそこに結び付いた稲作が、生活や文化の基盤となっていた筈です。町は、それらの集荷、出荷に便利な場所に生れ、広がってきました。多くは、河口の沖積平野に、あるいは内陸の変担な盆地に開けました。そこに住む人々はやはり、その土地につながって生きてきたのだと言うしかありません。一度土地やそこに集ってきた近隣との関係を絶たれた被災者が、新たな土地に馴染み、改めて地域とのつながりを再構築するためには、想像するに1世代(つまりは20年以上)要すると思っています。その意味では、20年を経た神戸辺りにも、まだいくらかの違和感が残っているのだと想像しています。人の感ずる長い違和感の問題は、時間が解決する訳ですが、しかし工夫しさえすればその期間を短縮する事は十分可能でしょう。KWは「暖かさへの工夫」でしょうか。

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2015年2月 3日 (火)

2613 格差補正予算

取って付けたような補正予算が審議されています。ラジオから流れてくる、相変わらずの、想定問答の繰り返しの国会中継には飽き飽きしてしまいます。補正予算とは、結局本予算が見かけ小さく見える様に、前年度の「ヘソクリ予算」か次年度のための「先食い予算」だと断定しました。

こんなことに無駄なお金と時間を使うくらいなら、いっそ1回くらいは「格差補正予算」でも組んでみたらいかがでしょう。同世代格差、世代間格差、資産格差、雇用条件格差、田舎都会格差などなどを集中的に審議し、それを少しでも緩和する政策に予算を付ける訳です。もちろん単に富める層から税をせしめ、富まざる層にばら撒く「ネズミ小僧税制」だけでは上手く行きません。

そうではなくて、富める層は喜んで(多くはたぶんシブシブ)余分な資産を吐き出し、それを必要とする層やインフラ修理など、必要な部分に適正に配分する仕組みが必要なのです。それは、省庁縦割りの予算分捕り合戦の今の仕組みでは上手く行かないでしょう。お役所は、既得権(前年度実績)を主張し、余分なお金が出れば目いっぱいそれを「頬張る」本能を持っているからです。

ですから、格差補正予算は、可能な限り公平な立場で、事の優先順位を割り振り、その割合に応じてメリハリをつけて配分する仕組みが必要となるでしょう。しかし、これはこの国のお役人が最も苦手とする分野でもあります。何故なら、ある省庁や地方自治体に就職したお役人は、部署は色々回されますが、基本的には天下りしてそこを出るまで、一生籠の中で過ごしてしまうので、他人の痛みをついぞ知らずに予算要求をする習性が捨てきれないのです。つまり彼らには「俯瞰」など望むべくもないのです。

それと、国や国民が重要と考える価値観によって、予算が恣意的に偏向する事もまた避けられない状況です。つまり、経済優先なら目いっぱいお金をばらまく政策に、国防に向かうのであれば防衛費に、しかし地方の創生が必要でも少しだけ予算をを付け、年金財政が苦しいのでマクロ経済スライドで(知らないうちに)実質減額し、高齢者医療財政が苦しければちゃっかり自己負担割合を増やす訳です。しかし、そんな小手先の手段では、ドンドン開くばかりの格差の悪循環を止める事は叶わないでしょう。アメとムチを使って、できればそれを使わずに善意を主体に、どうにかして各種の格差を縮める努力が不可欠な時代だと思うのです。

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2015年2月 2日 (月)

2612 人の成長戦略

三本目の矢の中身が見えてきました。その柱は、お役人の抽象的な作文による新産業とやらの勧奨を行った上で、お買物券だか地域通貨だかを発行するための資金を地方にばら撒き、実際の新産業興しはと言えば、「よきに計らえ」とばかり地方に丸投げするつもりの様なのです。お役人が唱える、新産業とやらの例示も、やれ水素社会だ、再生医療だ、ロボットだ、あるいは農業の6次化だ、などのお題目だけなので、開発力の無い中小企業では何も始まらないでしょう。そのための、ヒト(人材育成)、モノ(基礎産業)、カネ(インセンティブ)を上手く組み合わせた立体的な施策が必要だからです。

結局債権を印刷し、それをお国自身が買え上げて市場にお金を溢れさせ、少し増えた税収をお金の形で地方にばら撒いても、結局「真の新産業」など生まれようもありません。新たな産業の例示をしたとしても、ではそれらの科学・技術を用いてどんな社会を目指すのか、のビジョンを示さなければ、魂がこもっていない仏像と同じだと言うしかありません。つまり、取り敢えずの飯のタネとしての新産業なら、これまでの家電や車産業の様に、後ろから追いかけている勢力との競争に巻き込まれるだけですから、未来永劫悩みは消えないでしょう。

そうではなくて、50年後、100年後にこの国が拠って立つ、社会のあるべき姿をかざしつつ、その様な世の中で真に役に立つ行動や産業(社会的価値の創造=CSV)こそが最重要に位置付けられるべきだと思うのです。その様な社会では、今のリーダーが説くような経済優先ではなく、間違いなく人を中心に置くような社会となっている(是非そうしなければならない)でしょう。ならば、真の新産業の中には、人を育てる事に重点を置くものが含まれていて然るべきでしょう。単に表面上の産業、例えば水素産業やロボット産業などを勧奨する前に、そこに関わる或いはそれ以上のものを考える人材は如何にして育てていくのかを考えなければならないはずです。人の成長戦略こそが必要な所以です。

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2015年2月 1日 (日)

2611 歴史に名前を残す方法

投稿者を含めて一庶民が歴史に名を残す事は殆ど叶いませんが、一国のリーダーであればそれは結構容易いでしょう。もちろん、毎年の様にリーダーが代わるこの国では、結構難しい話ではありますが、しかし可能ではあります。

一つ目は、100年先を見据えた政策を打ち出す事でしょうか。そのためには、先ずは自身の価値観を披露し、国民の共感を得る努力も必要となるでしょう。100年後もやはり経済重視で、貿易で稼いで(一人一人国民ではなく)、国(のGDP)が豊かになる事に価値を置くのか、それとも経済からココロの豊かさを重視し、原発など無い平和な国土を築くのか、といった具体的な価値観を示すのです。戦後のこれまでのリーダーは、残念ながら前者の道を突っ走ってきたのでした。コックリートから人へのキャッチコピーではありませんが、もし一人のリーダーが「経済からココロへ」という価値観を打ち出し、結果として国民の価値観の転換にも成功すれば、間違いなく歴史に名を残せるでしょう。そんなに立派な行動でなくても、例えば原発の即時廃止を一つ打ち出すだけでも、歴史の教科書には(小さくですが)名前が載る事でしょう。

二つ目の方向は、過日亡くなった統一ドイツの初代大統領の様に、戦時中の自国軍部の過ちを総括した上で素直に認め、それを踏まえた上で自国民を同じ態度で律し、戦時中に犠牲となった近隣諸国には頭を下げ、結果としての善隣友好関係を打ち立てる事でしょう。この国で言えば、C国やK国や東南アジア諸国ですが、前二者については未だにギクシャクした関係が続いていますし、Rシアに対しては弱腰のままで道が何も開けていないと言うしかありません。もちろん、外交関係がお金(賠償金)だけでカタが着く訳ではありません。そうではなくて、双方に納得のいくWin-Winの関係を確立する工夫が必須です。入り口は、リーダーの交流から始まるのでしょう。扉を開いていると宣言するだけでは十分ではありません。先ずは自ら出かけて行って手を差し伸べて、しっかりした握手から全てが始まると思うからです。友好的で、平和を愛するリーダーというイメージ作りに関しては、残念ながら今のリーダーは完全に失敗したと言うしかありませんが・・・。

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