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2015年3月31日 (火)

2667 作られた好景気

現政権は、景気の回復をしきりに強調します。それは、いま少し上向きかけている様に見える景気が、仕掛けられ作られた景気だからです。例えば株高にしても、その裏では年金資金の運用先としての株投資の枠が広げられた事によって、公的資金が市場に溢れはじめた結果だと言えます。その証拠としては、海外の投資家からの投資割合が相対的に低下している事があります。海外からの投資額は減っていないのに、年金資金の流入により比率が低下したものと考えられます。

ゼロ金利とお札の増刷による円安誘導の結果、C国など経済活動が活発な東南アジアからの観光客の急増もあり見かけの景気も良くなってきました。しかし、国内の消費意欲は低く推移したままで、消費を持ち上げる効果の高い車や家もそれほど売れている訳ではないでしょう。お国としても消費が変らないのに景気が良くなった様に見える(見せる)のは、実体としての経済に「泡」を吹き込む以外には上手い方法は見つからないのでしょう。内閣を支える何たら参与たちが作戦を練って、A倍さんに吹聴させている事はまちがいなさそうです。

では私たちはどの様の行動すべきなのでしょうか。先ずは、目先の「好景気もどき」に踊ってはならないでしょう。バブル期、株に踊った人たちが最後まで握っていた株券は、最後は紙屑同然かあるいは本当に紙屑になってしまった事でしょう。見かけの泡の下で、ソリッドとして動いている、実体経済にこそ注目して行かなければなりません。例えば、衣食住で確実に需給が回っている土台部分は、どんな時代になっても崩れないでしょう。その土台の上に載せた盛土は、少しの雨で流れ出してしまうでしょう。混迷の時代、私たちは泡の下にある本物や実態を見透かす能力を磨く必要があるのです。景気が少し上向いた時に売れる商品は、少し景気に雲が掛かっただけでピタリと売れ行きが止まるでしょう。その商品に向けて投資した設備や在庫は、完全に宙に浮いてしまうのです。ミニバブルの後には、ミニバブルの崩壊が待っているだけで、やがては元の木阿弥の土台だけの経済に戻ってしまうのです。

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2015年3月30日 (月)

2666 産業ではない農業2

2665で環境維持業としての農業の側面について書きましたが、実は農業には他の無視できない側面もあります。それは、農業に携わる人たちの生き甲斐という側面なのです。何故農業人は70歳を超えても体が動く限り土に触れたがるのかですが、ヒトは食べ物だけで生きているのではなく、好奇心=探究心と同時に生き甲斐も重要な「脳の栄養」だと思うのです。食べ物は単に体の栄養となっているだけのものだと言えるでしょう。

もし、老人から「仕事」を取り上げるとどうなるかは、昨今のいわゆる「生活習慣病問題」と「ボケ問題」の蔓延を眺めるだけでも十分でしょう。体も脳も、然るべき仕事=タスクを求めていて、それが満たされる時はじめて健康に生きる事が出来るのでしょう。それが無理やり取り上げられ、お国が進める大規模化が主流になるかもしれない将来には、大型機械に乗る事も出来ない老人は仕事を失い、長くなった人生の最後の10-20年を、多分寝たきりの状態のまま老人施設で過ごすしかなくなるのです。

土を弄り、そこで植物や作物育てる事は、自分が育てているつもりの植物や作物に、育てている本人がそれらに必要とされている事を実感し、結果的にその事が生き甲斐につながっている可能性が高いのです。彼らから「手間は掛かるが愛おしい」、小さな農地など絶対に取り上げるべきではないでしょう。生き甲斐産業としての小規模農業を壊滅させ、農地の集約化、ビジネス化一辺倒に走るお国の政策は全く愚策と断ずるしかありません。そもそも、大陸の大規模農業と、いくら集約するとはいえ精々10-20ha程度のささやかな大規模では、とうてい太刀打ちできる筈もないのです。車や工業製品を輸出するための犠牲としてジーチャン、バーちゃんから取り上げた小規模農業を差し出すのは、何度も書きますが間違いなく「愚策中の愚策」です。たぶん続きます。

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2015年3月29日 (日)

2665 産業ではない農業

中学校時代第一次産業としては、農林水産業や鉱業などがあると習いました。自然に働きかけて、そこから直接的に糧を得る産業です。しかし、農林水産業、取り分け農業は敢えて「産業」と考えない方が正しいでしょう。というより、むしろそう考えてはイケナイのです。何故なら、食糧は直接的に私たちの命を紡ぐものであり、工業製品などと同じ土俵の上で比べてはならないと思うのです。食糧は工業製品の様に勝手な値段を付けて、それを金儲けの手段にしてはならないでしょう。かつてコメはこの国の主食であり、お金と同等の価値を持ち、諸藩の実力はその地域でとれるコメの量(石高)であった訳です。

戦後、B国の産業化していた小麦農家やそのロビイストの陰謀?により、この国には大量の小麦が最初は無償で、国力が回復するにつれてかなり高い相場で、国が輸入を管理しながら売り渡される事になりました。それは、戦後70年にもなる現代まで引き継がれ、私たちは夕飯を除き、多くの場合、朝食と昼食はパンや麺(パスタ)、つまり外国産(多くはB国産)の小麦の世話になっているのです。

TPPなる輸出入の枠組みが固まってしまえば、この国では食管制度が崩壊したとはいえそれなりに特別な食糧であったコメも、やがては普通の商品になり下がってしまうでしょう。しかし農業はその国の基盤の「き」であり一旦崩壊すれば、農地は荒れ、離農者が増え、食糧の自給率の低下は、衰退の坂を加速度を増して転がっていくでしょう。そこから回復するのは、農地の再開墾や新規就農者の習熟期間などを考慮すれば、510年単位の時間も必要になる筈です。

もう一つの側面として、農業の「環境維持業」としての役割を無視すべきではありません。火山灰に覆われた急峻な山々を背後に抱え、雨も多いこの国では、山間の棚田はミニダムの集合として枠割も持っていたでしょう。先人はその棚田への水の流入を穏やかにするため、背後の山に広葉樹を植林してきたのです。戦後の針葉樹一辺倒の植林は、環境維持業ではなく「商業的林業」の極端な発露だったと思い返しています。続きます。

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2015年3月28日 (土)

2664 林業2

続きです。この国は火山国である事は明白で、したがって山々の多くは火山灰で覆われているでしょう。実際、広島の土砂災害や毎年のように繰り返される豪雨時の宅地や道路の崖崩壊事故は、それを如実に証明しています。火山灰は、降り積もって固まるといわゆる「凝灰岩」になりますが、この地層は雨で吸水すると非常に脆くなってしまうのです。

この国の2/3を覆う森林は、この脆い土壌を根で支えると言う、重要な役割も引き受けているとも言えます。間伐もされない密でヒョロヒョロの林相では、枝が混んで林床に陽が差さないため、下草も生えず土壌がむき出しになっています。そこに豪雨が襲えば、土砂は流出し、根が浅い樹木はバタバタと倒れてしまうでしょう。山登りの際には林道を通て登山口にアクセスする事も多いのですが、その様にして根こそぎ倒れてしまった人工林を目にする事も多いのです。つまり、現在主流である皆伐林業はこの国には向かない林業形態である言えるのです。皆伐には6m程度の広い林道を切る必要もありますが、これも新たな土砂災害の引き金になるでしょう。

そうではなくて、この国に適した形態の林業は、択伐方式しかないのです。林齢の高い、高価な木を選んで伐採し、工夫してそれを搬出すれば、木材の立米単価も上がる事でしょう。しかも、若い木はそのまま残しますから、それらは陽を受け易くなり、光合成も活発になりより力強く成長を続けることでしょう。結局、択伐方式では森林面積当たりのCO2固定量は、皆伐方式の倍程度は高める事が可能なのです。しかも、択伐方式は持続可能な形で毎年林家に収入をもたらします。択伐した後には同時に植林もできますから、林家の子や孫の世代には、同じ場所から材を切る事が出来るでしょう。つまり、この方式は林床を持続可能な形で、世代間に亘って有効活用する仕組みであるとも言えるのです。皆伐方式では、現世代が収入を得たとしても、それはご先祖様が苦労の末に植林した財産を食い潰しているのと同じ事になります。午前祖様に感謝しながら少し財産を分けて貰うのと同時に、植林もして子孫へ同じかそれ以上の財産を残すのが、「リレーの中間走者」である現世代の役割であることは間違いないでしょう。

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2015年3月27日 (金)

2663 林業

今週は、偶然ですが林業に関わる話を聞く機会が何度か重なりました。バイオマスの熱利用に関しては、このブログでも幾度も取り上げていますが、それはあくまでも材にならない林地残材の活用や農業残渣の活用という「出口からの視点」でした。今回、林業(林家)という立場からの話は、いわば入口からの視点で、実のところ入口と出口の帳尻が合わない事には、バイオマスと言えども決して持続可能な「再エネ」とは呼べなくなる訳です。

これまで素人なりに林業に関して抱いていたイメージは、あるまとまった面積の林地に対して、毎年例えば数%の立木を皆伐し、材として運び出し、空いた斜面には、引き続いて植林を施し、そのサイクルを繰り返すと言うものでした。しかし、よくよく考えてみればこれでは持続可能とは言えないのです。樹木の生長のスピードには樹種や気候によってばらつきがありますが、例えば40年位育てると材として切り出せると仮定して、1/40の面積を皆伐するサイクルを想定すれば、この林地からは未来永劫例えば樹齢100年といった立派な材は切り出せない事が分かります。余り値打ちの無い、比較的若い材しか切り出せないのです。

しかし、例えば和歌山県の吉野などの限られた林地では、樹齢100年程度の立派な材が切り出されて、ビジネスとして成り立っているのです。それは「択伐(木を選んで伐採する方法)」を実行しているからだ、と高知県で自伐林業(土佐の森方式)を推進しているN島さんの指摘で気付かされました。確かに、林地から樹齢の高い高価な材を選んで伐採し、上手く搬出できれば、単価は高い訳ですから立米当たりの収入も増えるでしょう。皆伐は、太い林道を切って大型重機を使うので、立米当たりの伐採・搬出コストは確かに安いのですが、材の単価も安いので、設備投資を回収するには骨が折れます。一方、択伐林業では、ワイヤ架線などの比較的簡単な設備と、小型のフォワーダ(搬出台車)及び2トン車程度の小型の設備を使い、狭い林道を使って運び出すので、設備投資や経費は最小です。しかも、この時代搬出のための林道を切れば、長さに応じた自省金も出るらしいのです。幅6mの立派な林道も、幅3mの細い林道も「助成単価」は変らないらしいので、可愛らしい重機でボチボチ林道を切れば、材の搬出による代金とダブルでの収入も期待できると言うカラクリなのです。投稿者もあと10年若ければ、自伐林業を始めてみたいところです。続きます。

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2015年3月26日 (木)

2662 助成金の呪縛2

全てのビジネスのスタートは、間違いなく個人レベルの商いだったでしょう。自分で作ったモノ、あるいはたくさん持っている人から仕入れたモノを、それを欲しがっている地域や他人に売っていくばくかの、あるいはたっぷりと利益を手にして日々の糧にする訳です。ビジネスの源泉(原則)は、体や手先を使って汗を流すか、あるいは知恵を使って他人が欲しがる価値を作り出して、それを商う事にあるのでしょう。

しかし、今の時代この原則を外れた「金儲け」が横行しています。例えば労せずに利益を手にする方法です。お金持ちが、儲かりそうなビジネスに投資をして、その配当を受け取るのはまだマシな方で、お金や債券を右から左に移動するだけで、莫大な利益を手に入れる輩も増えているからです。下手をすれば、その様な輩の方が額に汗して働いている人々より、むしろ多額の利益を手にしたりする時代になってしまったのです。

さて助成金です。助成金の呪縛は、助成金を受け取った人(人々)は、なにがしかの結果を出さなくてはならないし、少なくともなにがしかの結果を出した様に報告する義務を負っていると言う点にあります。少し大きな規模で事業を興した場合、軌道に乗るまでの苦しい時期(いわゆる死の谷)を渡らなければなりません。しかし、助成金は最初の年か、精々翌年までしか貰えませんから、実際に死の谷を渡ろうとした時には資金不足に陥ってしまうケースも多いと想像できます。その時点では助成金は打ち切られていますので、結局助成金がムダ金になってしまう事も多いのでしょう。

しかし、最初のビジネスの原則に戻りますが、ビジネスの基本のきは、先ずは小さな規模で始める事にある筈です。ビジネス規模が小さければ、死の谷も浅くて狭い訳で、簡単にぴょんと飛び越せる筈なのです。もし越えられない人には、小銭を貸してあげればどうにかなるでしょう。つまり、お国が多額の予算を組んで「事業を創生」させようなどと考えるのは明らかな間違った方向だと言えるのです。そうではなくて、種々の種類のスモールビジネスを勧奨しそれらが徐々に育っていくのを中長期で見守るべきなのです。もちろん新たに創業する側に立っても同じことが言え、先ずは助成金などは当てにせず、副業レベルでスタートするのが正しいのでしょう。

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2015年3月25日 (水)

2661 助成金の呪縛

人々が何かを「作る」のは、それを生業とするためです。もちろん少しは自分自身が使い、あるいは食するために作るのですが、現代社会では農家などの自家消費分を除けば、殆ど全てが売り物=商品になります。ここで「作る」事を少し考えてみると、よくよく考えてみれば、人間が本当に作っているものなど皆無である事が分かります。「作る」の中身は、植物の栽培だったり、原料の形を変える「加工」だったりする訳です。コメは作るのではなく稲を栽培するだけです。コメの澱粉を作るのは稲という植物自身が太陽光の助けを借りて行っている訳です。車を作っているのではなく、鉄板を加工して車体にして、鉄やアルミを加工してエンジン部品を作り、それらを組み立てているだけなのです。

さて地方創生です。地域の資源を生かし、地場産業の強みを生かして、新たな産業を興す事を勧奨するのだそうです。そのために、助成のための「一時金」もそれなりに準備しているのだそうです。しかし考えてみなければならないのは、先ず助成金ありきではないという事なのです。新たなビジネスの種を考え、それを水を与え、施肥をして成長させる段階では、ある程度の助成金を入れる事には意味があるのでしょう。しかし、そもそも種をひねり出すために助成金を出してしまうと、それに頼ってしまい、そもそもビジネスとして成り立たない様なプロジェクトも生まれてしまう可能性も大きくなるのです。

ここ秋田でも、スギの微粉を作り、そこからエタノールや家畜の粗飼料やWPC(プラスチックと木粉の混合物)を「作り」出そうとするプロジェクトがあります。確かにスギの資源は秋田には十分あり、廃れたとはいえ木材産業もそれなりに生き残ってはいます。しかし、どう考えてもその木粉から生み出す価値が、木材を山から切り出すコストを埋め合わせ出来そうもないのです。従って。上記を産業に仕立て上げるためには、助成金は不可欠だと言えるのです。そこで、また助成金の呪縛の問題に立ち返って、出口の無い堂々巡りに落ち込む訳です。対策については続きます。

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2015年3月24日 (火)

2660 マニュアル化

世の中のマニュアル化が目に余ります。この国は、むしろマニュアルが無いと夜も日も明けない「マニュアル社会」だとも言えます。このブログは批判はしない方針で書いているので、それを真っ向から非難するのは止めておきます。とは言いながら、マニュアルは行政のみならず、サービス業や外食産業から閣僚の答弁に至るまでマニュアルだらけである現状はどうにかせねばなりません。マニュアル化やマニュアル社会の何が悪いかですが、それは人々や組織の行動が、ある想定された筋書きか、想定問答の範囲内を越えられないものだからです。マニュアルに従う限りにおいては、その中に無い想定には対応できませんし、予告された質問以外の「アポなし質問?」には閣僚は即応できないのです。たまに、閣僚の後ろで補佐官がささやく事があっても、それも無しには言葉に窮してしまうでしょう。

外食産業で、食品の中にたまに異物が見つかる事がありますが、カビや虫などのもしかすると体に害がありそうなものは別にして、原因がはっきりしていて再発の可能性が無いものは、個別の客に丁寧に対応すれば、事態の拡大は最小限にとどめる事も出来る筈なのです。企業や行政が何か事故や不始末をしでかした場合には、経営陣が謝罪会見を開き、再発防止のためのマニュアル作成を約する訳です。しかし、マニュアルに記された状況以外には対応できないでしょうし、マニュアルには無い新たな状況・原因での不具合には、やはりまた事故・事件を起こしてしまうでしょう。

マニュアルとは、この場合にはこうする、ああした場合にはああすると言った類のものですが、いずれにしてもQ&A集の域は超えられません。本当に必要な事は、何かトラブルが起こった場合には「どの様に考え、どの様に行動すべきか」といった基本姿勢を規定するものでなければならないでしょう。企業姿勢でも、何か問題が起こるたびに「コンプライアンス」の徹底を図ります、という経営陣の再発防止策が発表されますが、そもそも法律とは問題が発生したから制定する類の決まりごとであり、それさえ守れば問題は二度と起こらない、とする考え方こそ「大問題」なのです。たぶん続きます。

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2015年3月23日 (月)

2659 廃炉問題4

さてその核デブリです。最大の問題は、一体どの様な形でそれが堆積しているかです。もし、熔けた鉄が一気に固化する様に、しっかり固まった一体になっているとしたら、これを取り出すのは至難の業となるでしょう。取り出すためには、塊を何らかの方法でガリガリと削り取り、削りくずを水と一緒に吸出し、水と屑を分離して回収すると言う方法くらいしか見つかりそうもありません。

しかし、もしデブリが小石状の堆積物になっているのであれば、小石を拾い集めるのと同じで、結構楽に回収できる可能性が出てきます。例えば、バケットコンベアの様な簡単な仕掛けで格納容器の底から持ち出せるかも知れません。従って先ず格納容器の底部にあると推定されるデブリの性状を把握する必要があるのでしょう。となれば、考えなければならないのは、果たしてそれが直接的に観察可能であるかどうかです。ファイバースコープによって、炉内の水中画像を取る試みもなされている様ですが、放射線によるノイズがひどく、十分ではありません。

他に考えられるとすれば、例えばデブリに振動を加えるエフェクターと、その振動を計測するセンサーの組み合わせがありそうです。個体のものに振動を与えると、多分最初に大きな振幅の振動が検知され、すぐに減衰する筈です。しかし、小石の様に不定形のデブリであると仮定するなら、振動は一気に減衰し、ガラガラという雑音しか発生しないでしょう。予め、外でシミュレーションしておけば、かなりの正確さでデブリの性状が推定できるでしょう。

更に言えば、ほかにもデブリの状態を推定する方法はあるかも知れません。例えば、長い棒状のセンサーを圧力容器の蓋に開けた穴から突っ込み、棒で川底の状態を探る様に格納容器の底を突っついてみる方法です。反応がゴツゴツなのか、ガサガサなのか、ザクザクなのか分かるだけでも廃炉作業の方法を随分絞り込む事が出来そうに思うのです。

燃料ペレットや燃料棒の気持ちになって推定すれば、ジルコニウムの方が燃料ペレット自体よりかなり融点が低いので、水位が低下すると先ず外側の管がだらしなく溶け落ち、裸になったペレットがポロポロと落下していったと思われます。それが圧力容器の底に溜まると、激しく核反応を起こし、水中とはいえ水蒸気の大きな泡の中で高熱を発生し、結果としては容器を形成している厚い鋼板を溶かして突き破ったと思われるのです。その後も上方からジルコニウムや燃料ペレットがバラバラを落下を続けたでしょうから、デブリ自体は、大きな塊ではなく、比較的バラバラな状態ではないかと推定しています。今後も廃炉問題は視点を変えて考え続けます。

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2015年3月22日 (日)

2658 廃炉問題3

福一は、個別に検討しなければならない特殊な廃炉問題です。何故なら、燃料棒(燃料ペレットをジルコニウム製の筒に入れたもの)は既にその原型を留めておらず、圧力容器どころかその底も突き破って、格納容器の鉄筋コンクリートの床に原型を留めずに崩れ落ちているからです。それらは、十把一絡げで「燃料デブリ(がれき)」と呼ばれていますが、実のところどの様に崩れ、どの様に堆積しているかは4年経った現在でも全くと言って良い程分かっていないのです。

投稿者はモノの気持ちになって想像するのが得意?なので、ここでは燃料棒の気持ちになって、何故、どの様に溶け落ちてデブリ成り果てたか記述してみる事にしました。燃料ペレットにはもちろん触った事はありませんが、模型はH岡原発の見学コースで見た事があります。直径10㎜程度、長さも同じくらいの円筒形です。これを長さ5m弱の薄いジルコニウム(合金)のチューブにぎっしり詰めたものがいわゆる燃料棒です。ジルコニウムは放射線にも耐える耐熱金属で、融点は1800℃を超える優れものの金属です。さて、その燃料棒は少しの間隔を保つようにスペーサを入れて数十本を束にして一つの燃料棒ユニットが作られます。そのユニットが、原子炉の規模にもよりますが数百本程度を耐圧容器の中に納められたものが「炉心」という事になります。

その炉心が溶け落ちた訳です。燃料棒は、通常清浄な水中に浸漬されていますから、水の沸点を大きく超えて加熱する事はありませんが、福一ではその水の供給が絶たれ、水位が下がったのですから、燃料棒相互が激しく核反応を起こし、ついには被覆管の融点を超えて解け始めた訳です。水位は徐々に低下したでしょうから、燃料棒(5m弱の長さ)は上の方から形を無くして円盤状に溶けた事でしょう。水面が下がるにつれてそのドロドロの円盤は厚みを増して、ついには圧力容器の底に達し、100㎜程度の厚みを持つ鋼鉄製の内張りとコンクリートを溶かしてさらに下の格納容器までに突き抜けたのでした。圧力容器の底は中華鍋の様に丸いので、穴はその中心付近に開いた筈です。そこから、ドロドロになったウランとジルコニウムの混合物が滝のように落ちて行ったのでしょう。格納容器の下には水があるので、そこで水と激しく反応して、大量の水素も発生させた事でしょう。そして、不幸中の幸いですが、多分部分的には数メートルの厚みがある鉄筋コンクリ―ト製の格納容器を突き破る事なしに核デブリとなったのでした。更に続きます。

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2015年3月21日 (土)

2657 回り舞台

海外のメディアから、日本の政治は「回り舞台」であるなどと揶揄されています。「一応」国の最高リーダーである総理大臣が、1年ごとに交代したりするからです。今は何となくまとまっていますが、与野党の政党も離合集散を繰り返し、それがたまたま中道でまとまったりすると、政権交代が起こったりもします。歌舞伎という伝統的な芸能でも回り舞台という仕掛けを駆使して、あっという間に舞台転換をしてしまうので、これはこの国に根付いた文化そのものなのかも知れません。

もちろん政治と言う舞台やその上で繰り広げられる物語の場面は変りますが、それを支えているスタッフ・裏方は全く不動です。ですから、舞台も国のマツリゴトもそれなりに進行していくのでしょう。しかし、舞台には物語作者のプロットがありますから、安心して観ていられますが、筋書きのない政治ショーには、最近危うさを禁じ得ません。例えば経済ですが、異次元緩和の継続で、またぞろバブルの小さな泡が沸々と湧いてきている様なムードを感じます。バブル崩壊後のナントカ証券経営陣のあの「社員は悪くありません(実は時代が悪いんです?)から・・・」などと述べた涙の会見なんぞ遠い昔話になってしまったのしょう。またぞろ株高に頬を緩める株主の画がTVに出たりしています。

目の前の出来事ではなく、大きく引いた目で世の中を眺めてみると、兎に角目の前のビジネスをこなして前に突き進めば、企業の業績は伸び、国のGDPも輸出も拡大するといった、右肩上がりの(陽がのぼり続ける)時代はバブル期までで終わったと思うのです。これからは、人口も減り始め日が傾いてきた時代を、如何に質素に堅実に生きていくかを見定める時代に入ってしまったと言えるでしょう。その時代には、時代に合った筋書きが必要なのです。TPPや原発の再稼働や金融の異次元緩和さらには積極的平和主義などという時代錯誤の「出っ張った政策」は、必ず打たれる筈なのです。右肩上がりの時代の「演目」はもう尽きたと諦めるべきでしょう。そうではなくて、これからは小津安二郎映画の様に淡々とした日常を描くストーリーが必要なのです。この国は世界の中でどんな国になって、何を生業にして生きていくのか、戦後70年の今の時代になってもなお、B国に操縦されている政治の回り舞台を見るたび大きな溜息が出ます。

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2015年3月20日 (金)

2656 廃炉問題2

廃炉問題には、今回廃炉が決定した普通の原発の廃炉と、福一の事故原発の廃炉の二つの問題があります。両方に共通するのは、廃炉工事から出る低レベル、あるいは高レベルの放射性廃棄物の処理問題があります。高レベルの廃棄物は、安定的に保管できる容器(キャスク)が日う必要です。使用済み燃料棒だけでも膨大な量に登りますから、立派な鋼鉄製(銅製?)の容器を多数準備する必要があります。低レベルの廃棄物は、可能な限り除染してから然るべき場所に埋設する事になるのでしょう。

とは言いながら、最大の問題はコストではなく、その埋設場所や方法だと言えます。基本的に日本列島には数万年に亘って安定的に推移すると考えられる地盤を持つ地域は殆ど存在しないと思われ、それらを何処に埋めるのかが大問題なのです。とりわけ高レベルの放射性廃棄物は、長期にわたって安定的に保管されている事を監視する必要があり、立派な地下トンネルも必要です。取り敢えずはノルウェーのオンカロの埋設施設にでも学ぶ必要があるのでしょうが、土木工学の先進国でもあるこの国の知恵を結集して、最適な埋設施設を設計・施工する必要があるでしょう。

場所選定の問題は解決が殆ど見通しがつかないでしょう。何故なら、この国で例えば半径30㎞の中に人が住んでいない場所を探すのは不可能ですし、しかもその場所の地質が安定していると言う2大条件を満たす場所は存在しないでしょう。唯一の可能性は、絶海の無人島ですが、そんな島があったとしても実は火山島だったりする訳です。土木工学的な解決法が見つかったとしても、サイトが決まらない限りは、廃炉にしても燃料棒や解体材の搬出処理が出来ない訳で、引き続き原発サイト内に保管される事態が続くのでしょう。そうであれば、必要最小限の措置で、原発の中に放射性廃棄物を安定的に保管する術を考えると言うのが現実的な方法という事になるのかも知れません。しかし、例えば燃料プールを形成している素材もやがては経年劣化するでしょうし、コンクリート材料も脆化するのでしょうから、バックアップも考えておかなければなりません。その意味で、原発は核爆弾と並んで人類最大の「負の遺産」だと言うしかありません。あまり無い知恵ですが、引き続きギュッと絞ってみます。

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2015年3月19日 (木)

2655 廃炉問題

このブログは、タイトルだけを決めて取り敢えず書きだすのですが、往々にして途中で主題をそれてしまったりもしますが、それもまたご愛嬌でしょうか。今回は今話題の廃炉問題です。

さて意識しなかったとはいえ、原発の電力をそれなりに使ってしまった世代として、原発廃炉にかかる問題を考えたいと思います。先ずは廃炉に費用負担の問題です。廃炉に必要な費用は、電力会社が電力量料金に上乗せした料金を積み立てて、数百億円に上る費用を賄うと言う法律になっている様です。しかしながら、例えばメンテナンスや修理などで、計画した稼働率が達成できなくとも、各電力会社は時々の株主への配当を優先した結果、既定の金額が積み上がっていないと言われています。

もちろん、廃炉には20年以上の年月が必要とされますので、数百億円を一時に支出する訳ではないので、その時点で工面すればどうにかなりそうなものですが、そうなれば将来世代の電力料金を高くせざるを得ないでしょう。結局、現世代の責任として、今の時点で不足している廃炉費用をどうしても補って置く必要があるのです。

さてここで頭の中でシミュレーションをしてみましょう。もし、原発が完全に経済的に成り立つ存在だと仮定して、企業体としては発電所も設備なのですから普通に損害保険に加入しようとするでしょう。しかしながら、福一の過去事故が明るみに出て以降、まさかその保険を引き受けてくれるような保険会社は出てこないでしょう。もちろんこれまでも、原発保険などは考えられなかった訳で、しかたなく国がその安全性を保証しなければ原発なんぞは立地できなかった筈なのです。つまり、国が基準を作り、国が助成金を出して立地自治体をなだめ、電力会社が建設し、国がその安全性を「確認」して、国が運用のリスクを保証していたと言う事なのです。これを「自作自演」と呼ばなくてなんと言えば良いのでしょう。廃炉問題は、間違いなく国の問題なのです。と同時に、原発の恩恵にどっぷりと浴していた我々自身の問題でもあるのです。続きます。

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2015年3月18日 (水)

2654 1%の進化

世の中の90%以上は、惰性、というか慣性で動いているのと思っています。。もしかするとその割合は99%かも知れません。政治家はその上に乗っかって、立法を行う議会でマツリゴトを行う訳ですが、法律を作ったからと言って、世の中がいきなり変わる訳でもないでしょう。議会では、予算案の承認も行いますが、それとて全ては官僚が作り上げ、政府はその小修正を指示できるだけです。国会では、さも各閣僚が官僚に指示して予算案を練り上げた様に答弁はしますが、答弁書だって官僚が書いたものでしょう。もし答弁書が無ければ、閣僚は直ちに言葉に詰まって見苦しさをさらけ出すだけでしょう。

さて、99%という数字でよく引き合いに出される例で、チンパンジーとヒトの遺伝子の99%は共通であると言うたとえ(事実)があります。つまりは、チンパンジーと人のDNAの最後の1%の進化の違いが、この両種を明確に分けてしまったという事になります。そのアナロジーで言えば、もしマツリゴトを実行している99%の官僚組織が現在のままだと仮定しても、その上に乗っかった政府というDNAが十分に洗練されてさえいれば、この国ももしかすると「東洋のチンパンジー」から、世界でも「尊敬されるヒト」に進化出来る可能性は十分にあると言えかもしれません。数日前ヨーロッパから来たD国のリーダーが、この国のリーダーとの共同声明の席で、官僚が準備した原稿から目を離さないヒト?に、さながらチンパンジーを見る様な視線を送っていた画像が非常に印象的でした。

ヒトがヒトに進化した背景には一体何があるのでしょう。諸説あるのでしょうが、投稿者としてはチンパンジーとヒトの最大の違いは、幼形成熟(ネオテニー)にあると思っています。つまり、ヒトは二十歳前後まで身体的成長を続け、同時に脳にも種々の知識を詰め込る「可塑性」が長く続きます。言い方を変えれば、人間は幼い姿のまま多くの余地を残しながら成人となる事を意味します。一方でチンパンジーは2-3歳で完全に成熟し、その後の可塑性がほぼ消えてしまうのでしょう。

この国の政治が1950年代でほぼ成熟し、その後一党支配によって可塑性の大部分が失われたとすれば、東洋のチンパンジーと揶揄されても反論は出来ないでしょう。そうではなくて、今後も若者の様な可塑性を失わずに、より良い方向に変っていけるのであれば、なおヒトに進化する可能性は残っている事になります。さてこの国は、チンパンジーでしょうか、あるいはヒト?

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2015年3月17日 (火)

2653 スーパーサイクロン

南太平洋で発生した台風も「サイクロン」と呼ぶ事を改めて認識しました。さて超ド級のスーパーサイクロンである「パム」です。一時は、900Paを下回るまでに発達したパムですが、これまでに強大になった原因を素人なりに少し考えてみる事にします。3月15日のジェット気流の様子を眺めるとすると、太平洋では赤道を挟んで、特徴的な渦が確認できます。パムそのものは、この大きな渦ではなく、南半球のジェット気流の中(高度的には下に)にニュージーランド近くの小さな渦として確認できます。

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さて、ここで注目したいのは北半球と南半球のジェット気流のいずれもが、大きく蛇行して、しかもそれが切れている様に見える点です。とりわけ、南半球のジェット気流は完全に切れて、流れが赤道方向に「逆流」している様に見えるのです。南極上の気団は、温度的には非常に低いので、それがジェット気流の壁を乗り越えて、赤道付近の流れ込む場合、高く保たれている海水温と、冷気の漏れが「接触」する事により、大きな温度差による強い上昇気流が生じ、結果としては強大な低気圧の発生を誘発する事になるのです。日本近海で冬場大陸から流れ出す寒気と、南からの暖気によって低気圧が急速に発達するのも同じメカニズムになります。

さて、何故ジェット気流が断行し、切れ目が生ずるのかですが、それこそ極地方における温暖化が加速している事に原因を求めるしか無さそうなのです。極寒気団が強い(冷たく重い)状態が保たれていれば、気団の縁を回るジェット気流も強く安定しますから、寒気団を「縛っておく」ことが出来ますが、それが弱くなれば、タガの緩んだ桶と同じで、寒気が漏れ出すと考えられるのです。この傾向は今後も続くと思われ、それは今後ともスーパー台風やスーパーサイクロンやスーパーハリケーンが多発する事を意味するのです。

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2015年3月16日 (月)

2652 何を捨てる?

私たちの多くは、日々あるいは時々に「選択」をしながら生きていると思って暮らしていることでしょう。青年になるまでは、例えば学校・大学を選び、そこを卒業する際には就職先を選ぶ、更に長じてパートナーを選ぶ、あるいは住む場所を選ぶなどなどです。しかし、考えてみればそれらの選択によって、実は私たちは選んだもの以外の可能性を捨て去ったとも言い換えられる訳です。一つの職業を選択した途端に、その職業以外に就く可能性を殆ど捨て去ってしまったことを意味する訳です。もちろん、転職すれば新たな職業を選ぶ事も出来るのでしょうが、その際には以前の職業を脱ぎ捨てる必要があるでしょう。

さて、私たちは好むと好まざるとに関わらず、今の政府を選択する事によって、前政権を捨て去った訳です。それは、今の政権を選ぶ事によって、同時に捨て去ったものも多いという事実も意味します。例えば、前政権のマニフェストで主張していた「コンクリートから人へ」、「原発ゼロ政策」、「議員定数削減」、あるいは「専守防衛」などは捨てざるを得ませんでした。その代わりに得たものはと言えば、「集団的自衛権」であり、「原発再稼働」であり「TPP」であり、あるいは「異次元のインフレ政策」であったと言えるでしょう。もちろん、政権が入れ替わったと言っても、この国の根幹が変る筈もありません。何より、連綿として築き上げた官僚組織が、自分たちの存在価値を否定する訳はないでしょうし、国民一人ひとりにしても、それ程の強い不満が無い限りにおいては大きな変化は望まないでしょう。

しかし、私たちには決断が求められています。もちろん、現世代が何を得て、何を捨てるかの問題もありますが、では「将来世代のために何を為すべきか」と問われれば、彼らの先祖になるべき現世代は、孫やひ孫のために多くのものを捨て、諦めざるを得ない事は明らかです。実際、私たちのご先祖は。私たち世代を含む子孫のために大きな犠牲を払って、山の際まで農地を切り開き、山には用材や灌水のために木を植え、ため池を築き、あるいは各種の産業を興してくれたのでした。それらの遺産無くしては、現在の私たちの生活基盤も脆弱だった筈です。さて私たちが、子孫のために何を諦めるのか、引き続きこのブログでも考えていく事にします。

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2015年3月15日 (日)

2651 解決から適応へ

問題に対処するには、その原因を取り除いて「解決」する方法と、問題が生じた状態へ「適応=順応」する道があると明確に言ったのは、R.ハイフェッツだったでしょうか。例えば、温暖化問題を前にして、これまで世界は温暖化効果ガス(GHG=一義的にはCO2)の削減によって「解決」を図ろうとしてきました。しかし、途上国やBRICS諸国が、先進国並みの生活レベルを追い始めた事によって、それは完全な幻想に過ぎない事が明らかになってきました。化石燃料の消費=CO2の排出は、石油や石炭や天然ガスの産出量が激減し、価格が今の倍くらいに跳ね上がるまで、「経済的な歯止め」が掛からないからです。

ICPPの検討においても、もはや各国の善意の抑制には頼れない事を認めざるを得ず、数年前からは増え続ける大気中のCO2や、結果として生ずる気候の温暖化傾向に「適応」する方向に議論の方向を修正し始めたのでした。適応とは、たとえば栽培が難しくなった作物の北進(例えば、温帯の作物を寒帯移して栽培するなど)を図ったり、或いは海面が上昇して海に沈む島嶼国の国ごとの移住したりするなど、問題を生じさせた気候に人間側が対応すると言う方向を指します。つまりは、問題は問題として可能な限り軽減(温暖化の場合は焼け石に水状態なので減速と呼びます)の方向で努力し、足りない部分は原因を作った人間側が我慢をすると言う事になります。

もちろん、ヒトが人間になる過程で、ご先祖様たちは、自然の気候変動に命がけで適応してきた事はまちがいありません。数万年のタイプスパンで見れば、何度も氷河期や間氷期を乗り越えてきた筈だからです。その間、かなり数の文明が気候変動が原因で消滅した事も判明してきてもいます。乗り越える事が可能だったのは、世界規模で見れば人口が希薄だった事にその理由を見いだせるでしょう。しかし、現代社会では世界中に人が満ち溢れていて、気候変動に追い立てられても逃げていく先が何処にも見つからないのです。私たちは、今住んでいる場所に踏みとどまって、あらゆる知恵をかき集めてどうにか生きていくしかないのです。子孫の暮らしを考えると、現世代が食糧やエネルギーをダバダバ浪費している余裕など全く無いはずです。

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2015年3月14日 (土)

2650 Buy local

投稿者自身の自戒を込めて書くならば、地方の疲弊は地方自身にもある程度の責任はあるのでしょう。例えば、毎日の買い物で手にする商品や食品の産地を確認する時、一体地元で作られたモノが何割あるかを気にする事は少ないでしょう。スーパーの売り場には、ささやかに地場産の野菜のコーナーが設けられてはいます。もちろん豆腐や生物などのデイリーフーズには、地元のメーカーで作られているのでしょう。

しかし、その他多くの菓子や加工食品や日用品の殆ど全てが、県外で作られて運ばれてきている筈です。その代価は、日々県外へ支払われていく訳です。県を一つの国と仮定すると、この国は毎年毎年信じられない額の貿易赤字を垂れ流している事と同じだと言えるでしょう。日本全体でも、貿易の赤字黒字が問題となり、内需拡大などと時々主張されたりしますが、単にモノを買って消費すれば景気が良くなって事足れりではないでしょう。

一例を挙げましょう。戦争に負け、戦後この国が食糧の確保にも困っていた時代、この国に手を差し伸べたのは戦勝国であるB国でした。もちろん、彼の国も全くの善意だけで小麦や脱脂粉乳を日本に提供したのではなく、ある時期までは無償だったかも知れませんが、日本の国力が戻ってきてからは以降は有償になった筈です。事実戦後70年を経た現在でも、小麦は国が輸入を仕切り、製粉会社に売り渡している訳です。結果的には、B国の農家を利して、国内ではコメが毎年余り続けているのです。

もし、米粉でパンを作り、麺を打ち、パスタを作れば、コメはもっと増産しなければならない筈ですが、そうはならないのは、日本がB国の要求をはねのけられないのは、食糧の属国?だからに過ぎません。直接的に言うなら、車を買ってやるから小麦や農産物を買え、という要求を飲み続けていると言えます。この事態を徐々にでも解消し、この国の農業を維持しない限り、食糧の安全保障には未来永劫黄信号や赤信号が点滅し続ける事でしょう。今日から出来る事は、先ずは国内で採れたもの、更には50㎞圏内で採れたものを口にし、手に取るべきでしょう。何は無くともBuy Jpanease. Buy local.です。

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2015年3月13日 (金)

2649 ソフトエネルギー2

2644の続きです。エネルギーを考える時、最終的なエネルギー使用の形態を見極める事が肝要です。つまり、電灯やテレビやパソコンを使う際には、どうしても電力が欠かせません。薪を燃やしてかがり火とし、魚油を燃やして行燈を灯した時代も確かにありましたが、流石にこの時代にはそれは薪能やキャンプファイヤーなどに限られるでしょう。

しかし、例えば50℃もあれば十分過ぎる入浴目的や、20℃を少し超える程度の温水で用が足りる床暖房の熱源として、エネルギーポテンシャルの非常に高い電力や化石エネルギーを使うのは、斧で楊枝を削る様子に似ています。電力は、使い方によっては鉄も溶かす温度を生み出す事も出来ますし、1000℃もある化石エネルギーの燃焼温度で、たった5-60℃のお湯を沸かすのは、どう考えてもムダが多過ぎるのです。

ソフトエネルギーを議論する際には、自然に存在するエネルギー源、その殆どは太陽光に由来するものである事は間違いありませんが、先ずはそれを使って使用形態のエネルギーレベルが実現できないか知恵を絞るべきなのです。江戸時代だって、夏場だったらタライに水を張って置いて、夕方に暖まったらそれで行水を浴びる程度の工夫はしていた事でしょう。今は、もっと洗練された太陽熱温水器が手に入ります。上手く設計されたものでは、冬でも晴れた日には入浴に使う程度のお湯が作れるはずです。もしそれで不足だったり、温度が不十分であった場合には、ガスや電気に頼る前に、他に低温度の熱源が無いか、更に知恵を絞る必要があります。

環境温度より高い、あるいは低い熱源(冷熱源)は、そこから電力を取り出す事は無理でも、少なくとも冷暖房や給湯などの目的を限れば十分利用可能なのです。地中熱は、冬は気温よりかなり高く、夏はかなり低いのです。環境との温度差が10℃もあれば、立派な熱源あるいは冷熱源と呼べるでしょう。

ここでの結論は、「ソフトエネルギー=知恵+少しの筋肉労働」だというものです。スイッチ一つで全てが動く便利な仕掛けが、人間を怠惰にして、生活習慣病や認知症を増やしているのかも知れません。

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2015年3月12日 (木)

2648 気候変動の証拠

この冬の天気が気になります。ここ数週間、低気圧が急激に発達しながら、日本列島に沿うように北海道まで駆け上がるパターンの気象が続いています。このパターンは、東海や関東にも降雪をもたらす早春にありがちな気圧配置ですが、そのパターンが何度も繰り返すと言うのは、どうやら冬が終わってからの早春の気候が、結構長く続いているのだとも考えられます。冬場の低気圧の発達は、海の水温と大陸から降りてくる寒気団との温度差によって加速されます。もし極の寒気団が十分に発達していて安定であれば、冬の平均気温が低く、適度に雪が降って、いわゆる冬らしい気候になる筈です。

しかし、近年の様に極付近の冷え込みが弱く、相対的に極気団の成長が弱い場合には、その周囲を取り囲むジェット気流が蛇行しがちになる様なのです。たとえて言えば、パンパンに空気の入った風船は丸く膨らみますが、空気が少ない場合はフニャフニャに歪んでしまう状況に似ていると言えるかもしれません。ジェット気流の歪みはきれいな三つ葉や四葉のクローバの様になる場合が多いのですが、最近の形を眺めると非常に不規則になっている様です。通常、クローバの葉は、地表に対して相対的に2-3か月で葉の1枚分進むのですが、最近はその規則性が崩れている可能性があります。

蛇行が不規則であっても、そうでなくても寒気の塊が下がってきた場合には、冬型が強くなり北海道や日本海側には雪が降るのですが、近年の様に低気圧が急に発達する気象パターンでは風が急に強くなりなすので、雪は本州の山際や北海道の東北部などにドカッと積もるいわゆる「山雪型」になりがちです。一方、寒気団がじわじわと張り出す時には、シンシンと雪が積もる「里雪型」の降雪パターンになります。

気象パターンが長期的に見て様変わりして固定化してしまう事を「気候変動」と呼びますが、冬季の気象に関してははっきりと「気候変動」が観察される様になったと言うしかありません。原因は、大きくは北極の温暖化と考えるしかありません。中学校時代に習った記憶では、世界の体低気温は、ロシアの北極海沿岸にあるベルホヤンスクで、気温はマイナス80℃まで下がったのですが、現在その地域では真冬でもマイナス40℃程度までしか下がりません。冬季だけとはいえ、なんと40℃もの温暖化が進んだとも言えるのです。

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2015年3月11日 (水)

2647 バレンツ海

多分今季最後の強い寒波の襲来です。ところで、フィンランドとロシアに挟まれた海域をバレンツ海と呼びますが、日本の気候がかなりの程度戸この海域の気象に影響されているらしいのです。最近は便利な事に全球規模で、風やジェット気流の流れを眺める事も出来る様になってきました。例えば下のURLです。

http://earth.nullschool.net/jp/#current/wind/isobaric/250hPa/orthographic=-222.69,38.78,1066

冬将軍の最後のあがきの様なのですが、その寒波をもたらしているジェット気流を上流に遡っていくと、やはりバレンツ海を通っているのです。もし、この海の海水温が低いか、あるいは高いかによって、何千キロも離れた日本の気候に影響を及ぼしていることの様なのです。

もちろん、これは冬期だけの話であり、春秋に日本の上空を通過するジェット気流は、ヒマラヤを通過してくるため、ヒマラヤの北側を通った風か、南を通ったものかで少し気象が変る程度です。また夏場は、ジェット気流の影響は少なく、太平洋高気圧に支配されがちであるため、どちらかと言えば海洋性のモンスーン気候に近くなるのです。

結局、中緯度の気象は、この極を取り巻くジェット気流の季節ごとの緯度と、種々の要因によるその蛇行の程度によって、蛇行が下がってきたときには寒気が、蛇行が北に上がった時には、蒸し暑いモンスーンが入ってくる事になり、気象の平年値からのブレを起こすのです。気象は、まさに「バタフライ効果」の連鎖によって決まっている様です。

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2015年3月10日 (火)

2646 エネルギーロス

 

エネルギー話の続きです。2645で、エネルギーのパリティというか等価比較について書きましたが、単なる物理量の換算だけではなく、実際にエネルギー形態の変化も可能です。日常的に行われているのは、石油やガスを燃焼させて得られた「熱」エネルギーを、蒸気流という「運動」エネルギーに変え、それでタービンを回して「回転」エネルギーに転換し、最終的には発電機を回して「電気」エネルギーに変えて需要家に送るのです。

 

しかし、ここで注意しなければならないのは、エネルギーの形態を変換するたびに、エネルギーロスが生じていまうと言う点です。つまり、ほぼ全てのエネルギーの変換は、いわゆる「変換効率」に支配されますので、それが100%でない限り、必ずエネルギーの一部は必ず失われてしまう訳です。例えば、化石燃料の熱を蒸気というエネルギー形態へは、90%以上の高い率で変換可能ですが、それをタービンで運動エネルギーに変え、更に発電機で起こす電力に変えた時点で、最初の熱エネルギーは40%台まで目減りしているのです。いわゆる発電所効率は、よく設計されたものでも45%程度に留まるでしょう。

 

しかし、エネルギーロスはこれでは終わりません。電力は、長い送電線網(グリッド)を使って需要家に送られますが、送る前にまず数万ボルトに昇圧され、需要家の近くで数千ボルトに、更に400/200ボルト、100ボルトという風に電圧を落としてから最終需要家で消費される事になります。しかし、アルミ合金で出来た送電線には導線抵抗のよるジュール熱の発生があり、また何段階もの昇圧・降圧で生ずる変圧ロスは、結構バカにならない割合になります。

 

ところで、変換の際に失われてしまったエネルギーは何処に行くのでしょうか。結局はは「熱」エネルギーになって、大気中に放散してしまうのです。どんなに上手く設計しても、発電所の煙突から逃げる熱や、タービンで使われた蒸気を水に戻す際に、冷やすのに使い海水へ逃がす熱は避けられません。電圧の変換にの際にも、トランスや導線で生ずる「鉄損」や「銅損」は避けられません。運動エネルギーはその損失の割合は更に大きくなるでしょう。流体の場合は渦の発生、機械的運動エネルギーの場合は摩擦による損失が避けられないからです。ここでの結論は、エネルギーは、分散的かつ最終使用形態で起こして使い、移送ロスや変換ロスを可能な限り減らす努力が必要だ、となるでしょうか。

 

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2015年3月 9日 (月)

2645 エネルギー・パリティ2

少し理窟っぽくなりますが、種々の形態のエネルギーも、相互に換算しその量を比較することは可能です。熱、電気、化学、物理などのエネルギーは、例えばW(ワット)、あるいはJ(ジュール)などの物理量に換算可能なのです。従って、電力量のkwを、熱量の単位kJに容易に変換できるのです。しかし、ここで考えなければならないのは、「エネルギーの使い勝手」でしょう。つまり、1kwhの電力量は3600J(=860kCal)に等しく、電力エネルギーだとほぼ100%熱に変換する事が可能なのですが、一方で860 kCalの熱量を持つお湯からは、残念な事に殆ど電力を取り出す事が出来ないのです。これは、単純に物理の変換表を使ってエネルギーパリティを直接論ずる事は出来ない相談であることを意味します。

相互のエネルギーパリティを論ずるのであれば、エネルギーの用途、例えば暖房、を限定し、その上で空気温度を何度上げるために、エアコンに何kwhの電力を消費したか、あるいは80℃の温水が60℃まで下がるパネルヒーターに何リットル/時お湯を送ったかを比較すると言うふうに、条件を厳密に揃える必要があるのです。同時に、エネルギーの熱エネルギーパリティを論ずる際には、その温度(℃、正式には°K)を示す必要があります。簡単のために℃で書きますが、例えば1200℃で燃えているガスコンロの炎からは、100℃の沸騰水を作る事も出来るでしょうし、性能の高い熱電素子や精巧に作られた模型の蒸気タービンを使えば、それなりの電力を作る事も可能です。しかし、エネルギーの総量が同じカロリー(ジュール)だとしても、50℃の大量のお湯から電力を得る事は殆ど絶望的です。高い温度のエネルギーは使い勝手が良いのですが、低ければ低い程そのポテンシャルは低くなるのです。環境温度、例えば20℃のエネルギーからは、原理上エネルギーを取り出す事は出来ません。地球表面を覆う多量の海水には、莫大な量のエネルギーが含まれていますが、そこからエネルギーを「取り出す」事は無理なのです。もちろん、深海底の数℃の低い温度と、熱帯の25℃以上の暖かい海表面との温度差を利用して発電する試みは始まっていますが、得られる電力エネルギーはささやかなレベルに留まっています。

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2015年3月 8日 (日)

2644 ソフトエネルギー

エネルギーは、例えば化石エネvs再エネ、あるいは在来エネvs新エネなどと分類されますが、ここではハードエネルギーと「ソフトエネルギー」に分けて考えてみます。その定義と線引きは難しい部分もあるのですが、ここでの議論では単純化のため、①それは中央集中型か否か、②大きなインフラ投資を必要とするか否か、で振り分ける事とします。そうであればハードエネ、非であればソフトエネと呼ぶことにします。さて、新エネの代表選手は、近頃売出し中の水素エネでしょうか。しかし、このエネルギーは、典型的なハードエネルギーだと言うしかありません。第一に水素社会を実現するためには、大量・安価に水素を製造するためのプラントが必要です。化石エネルギーから分離するにせよ、水を電気分解して得るにせよ、小規模プラントではコストが掛かり過ぎて、2643で述べたエネルギー・パリティはねのけられないでしょう。つまりは、中央集中の大規模なプラントで製造するしかない訳です。

第二に、水素を作るにしても、それを貯蔵し、あるいは配送するにしても、現在の石油やLNGインフラをそのまま利用できる訳ではありません。何より、物質中最小の大きさしかない分子である水素を閉じ込めるには、より高い気密性の貯蔵容器やパイプライン、あるいはより高圧の車載タンクが必要となる筈です。例えば、車に水素燃料を積むためには、強度の高いカーボン繊維でグルグル巻きにして補強した燃料タンクが必要でしょう。水素吸蔵合金を利用すればより安全ですが、重量的には実用に耐えません。つまり、エネルギーインフラの殆ど全部を「新調」する必要がありそうなのです。そのコストは莫大です。水素ステーションをたった1ヶ所建設するにも数億円規模の投資が必要なのです。

ソフト・エネルギーは、ハードエネルギーの真逆の特徴を持つものです。つまり、小規模で、大した投資も必要無しに利用できるものを指すのです。例えば、太陽光発電は再エネで新エネの代表の様に持て囃されますが、投資額はそれなりに大きくなります。ましてやメガソーラーに至ってはかなりハードエネに近くなります。しかし、同じ太陽光の利用でも、太陽熱温水器や温風利用のソーラーコレクター(ソーラーウォールという商品もあります)は投資額が、太陽光発電に比べて一桁低く、集中システムにも不向きです。これこそソフトエネルギーの代表と言えるでしょう。同様に、小規模でのバイオマス利用も典型的なソフトエネルギーと言えるでしょう。これも続きます。

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2015年3月 7日 (土)

2643 エネルギー・パリティ

パリティ(parity)とは、同等という程の意味です。最近マスコミによく出てくる言葉で、「グリッド・パリティ」という言葉がありますが、これは自家発電のコストが、商用電源の電力料金が同等であるかどうかの境界を示す言葉です。もし自家発が安ければ、グリッド・パリティをクリアした事になります。

さて表題の「エネルギー・パリティ」という言葉です。これは、このブログでの勝手な造語なので、一応定義をしておきましょう。例えば、寒くなって電気エアコンや灯油ストーブで暖房しようと考えた時、何らかの基準、例えば1kwhに相当する熱量を得るのに掛かるコスト(ラフな議論では電気代や石油代の熱量当たりの単価と考えても良いでしょう)と、他の手段例えば薪ストーブやペレットストーブによる暖房コストの比較を行う中で、それらが大体等しくなる点を指すと考えます。具体的には、灯油1リットルで発生する熱量と、ペレット燃料2㎏が、発生熱量においてはほぼ等価なので、灯油が100/ℓの場合、ペレットのエネルギー・パリティは50/㎏となるでしょう。同様に、電気エアコンも投入電力当たりの発生熱量をCOP(ヒートポンプの効率係数)を使って評価すれば、石油や木質燃料とのパリティ比較が可能となるでしょう。

ここで言いたいのは、グリッド・パリティだけでは不十分だという事です。それは、先ずはエネルギー単位として商用電力を据えて、全ての議論をそこからスタートさせる事になるからです。電力や石油がまだ貴重で単価が(相対的に)高かった時代、庶民は仕方がないので、エネルギー・パリティの原則に従い、木炭や薪で暖を取るしかありませんでした。石炭もパリティが十分に低く、鉄道(SL)やダルマストーブを使った暖房用に多用されました。時代は巡って、現在は石炭や石油を燃やして起こした電力が、パリティの物差しに使われている訳です。しかし、電力ではなくエネルギーの用途や使用形態別にパリティを置くと、多分エネルギー地図はかなり様変わりする筈なのです。

例えば、暖房です。暖房は、室内の温度を上げるために、今は電気や石油を使って温風を発生させるエアコンや石油ヒータが主流ですが、輻射熱も併用できるタイプのバイオマスストーブは、結構エネルギー・パリティが低いのです。単純な発生熱量ベースのパリティ計算では、結論を誤ってしまうのです。多分続きます。

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2015年3月 6日 (金)

2642 ホウゲジャク

深夜のラジオから流れてきた聞きなれない言葉に耳が反応しました。聞けば「放下著」と書く禅語だとか。「兎に角、全て捨てなさい」、という程の意味の様です。何を捨てようかと考える事さえ捨て去るのだとか。持っているものを全て捨てれば、残るのは確かに自分自身しかない訳で、いたく納得した次第です。もちろん、出家僧でも何でもない世俗に暮らす凡人としては、そこまで「悟る」事は出来そうにありません。

そうは言いながら、50歳を少し超えた時、自分も結構なものを捨てた様な気がします。つまり、それまで30数年築き上げたサラリーマンとしての職や実績を捨てました。それまでの仕事は結構面白く、会社からもそれなりに評価はされていたとの自負もありました。それは航空機製造の仕事でしたが、ジャンボジェット機が数分ごとに家一軒分の年間のエネルギー消費量以上の石油を消費しながら飛んでいる事を知るに至って、これは定年まで続ける仕事ではないと悟りました。一方で現在の職業である「環境カウンセラー」(環境省が作った名前ですが、他に適当なものがなく仕方がないのでこの職業名にしています)こそが「天職」だと思い至ったからでもあります。その事は、今となって遡れませんが、このブログの最初の日にに書きつけた言葉でもありました。

さて放下著です。サラリーマンという肩書を脱ぎ捨てると、名前だけの自分になります。それまでは「○○株式会社のXXです」、と名乗っていましたが、退職後の自己紹介では「XXです」としか言えません。素の自分で勝負するのですが、取り敢えず自分のしたい事を表現するために2003年に環境カウンセラーに認定され、その後は「環境カウンセラーのXXです」と名乗る様になりました。「著」とは著作権の著ですから、自分をあらわすと言う程の意味になるのでしょうが、その自分を放下(捨て去る)訳で、真の放下著とはそれまでの自分を全て脱ぎ捨てる事になりますから、出家するか山に籠って庵を結ぶしか無さそうに思えます。当面(たぶん死ぬまで?)それは出来そうもないので、取り敢えずは貧乏を楽しみながら、日々ブログでも書きつけていく事にしましょう。

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2015年3月 5日 (木)

2641 先送り国家

聞くとも無しに聞いているラジオから流れてくる国会中継ですが、またぞろ何度も聞いた議論が繰り返されています。キーワードは今国会でも「金まみれ政治」なんだそうです。最初はある大臣の違法献金から始まったのですが、その後与野党を問わず、助成金を受けている企業からの政治献金案件が、ボロボロ出てきます。前法相の団扇事件などまだ可愛らしいと見えてしまいます。この先方は、実は政権を打ち壊すのに使われる常套手段であり続けてきました。調べて、一々あげつらうのもバカバカしいので、省略しますが、そもそも献金というものは何らかのお礼あるいは、近い将来の見返りを期待して行われるものである事は自明です。何故なら、「献金」という言葉の中に、既にお上にモノやカネを捧げると言う意味が内在しているではありませんか。

さてここで書きたいのは、献金問題ではありません。この国の先送り体質の事なのです。先の政権が現政権に席を譲る事になった討論の条件である1票の格差問題も、何も前進しておりません。この国の膨大な負債問題も、F1の廃炉や汚染水処理などの大問題も、改憲問題や防衛問題や経済問題にすり替えて、国会の議論の矛先をかわしている様にしか見えません。

この国には、昔から上手い言い回しがあります。いわく、急がば回れ、あるいはクサいものにはフタなどの格言です。急ぐなら、回ると同時に障害となっている壁を取り除く努力が必要でしょう。お国もそのために南アルプスをくりぬいて、東京大阪の最短距離を結ぼうとしているではありませんか。でもその前にやるべきは負債の返済でしょう。毎日6-7千人が働いているというF1で、未だに汚染水のタンクを作り続けているという事実は何を意味するのでしょう。吹き飛んだ原子炉建屋の屋根だけを直して(蓋をして)誤魔化そうとしているのでしょうか。

そうではなくて、この世代で起こした問題は、この世代で解決する義務を負うべきだと思うのです。原発の恩恵を受けてきた世代は、たとえ電気代が今の倍になろうと一切文句を言わず、黙々と太陽光発電と風車を作り続け、あるいはそれを蓄電する施設を増やし続ける義務があると思うのです。負債解消や原発事故処理に対し、20年や40年などと言う長期のマイルストンを刻むべきではありません。何故なら、そのスケジュールを引いた張本人は、多分20年後は間違いなく退場している筈だからです。負の遺産を受け取るのは誰だって嫌でしょうから・・・。

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2015年3月 4日 (水)

2640 人口知能など・・・

昨晩のクロ現で人工知能が取り上げられていました。何でも間もなく人工知能が人の知能を超えてしまうのだとか。人工知能は、膨大なデータ(ビッグデータ)を統計的に扱う事も得意で、まだ苦手な分野である画像分析技術も日進月歩なので、人工知能が映像を「見て」どう行動すべきかの判断を下す事も可能となるでしょう。例えば、車に行先だけを指示すれば、交通状態のだーたを受け取って、最短の時間で行けるルートを選定し、道路状態を確認しながら、自動運転をしながら目的地まで運んでくれる車も実現できるでしょう。実際、自動運転車は規制大国のこの国でも実験が始まった様なのです。となると、タクシー運転手やバス運転手は完全に失業する羽目になるでしょう。全てが自動運転車になると交通事故も激減するかも知れません。高速走行時の予期しないバースト事故など、特別な場合以外、車載の人工知能は運転ミスや居眠りをしないからです。

人工知能が十分に賢くて、ミスをしないのであれば、それ(人間と同じ様な人格?を持つのでしょうから彼または彼女と呼ぶべき?)は企業の経営者も務まるでしょう。世の中の指標を示すビッグデータを読み取り、新たな設備投資のタイミングや、雇用の増減を的確に判断できるでしょう。つまり、会社に雇用される人々は人工知能に雇われる?事態になるのです。更に、未来の人工知能は現在ワーカーの大多数を占めているホワイトカラー以上の能力を持つのですから、彼らの多くもまた失業してしまうでしょう。

さて、これが実際の物語になると仮定すれば、私たち人間は何をして生計を立て、何のために生きる事になるのでしょうか。電力しか食わないにしても、人工知能に雇われるのだけは真っ平ごめんと言うしかないでしょう。そこには、人間の存在価値のカケラも無いからです。人間は、お金やましてやパンだけで生きる存在ではない筈です。他人に頼り、頼られ、生き甲斐を感じながら生きるのが人間の本質というものでしょう。霊長類の一種に過ぎなかったヒトが「人間」と呼ばれる様になった所以です。取り敢えず、ここでは「人工知能など○○喰らえ」と締め括っておきましょう。

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2015年3月 3日 (火)

2639 知・情・意

FBで何気なく「知情意」とつぶやいてしまったので、改めてこの事を考えてみます。カントは、人間という存在を突き詰めて思索する中で、知情意に対応する3つの問いを発しました。つまり、「私は何を知りうるか」「私は何をなすべきか」「私は何を望んでよいか」というものです。彼の思索(哲学)の解釈を云々する程の見識はありませんが、人の力量(人間力)とは、単純に知情意の総和であるとはとても思えません。何故なら、ヒトの能力(脳力?)には限界があり、個人差も大きいので、もし総和と考えると、さながら個々人の資質によって、人間力が決定されてしまう様な偏見も生まれるでしょう。

例えばノーベル賞を手にする様な天才的な科学者は、知の巨人とも言えるでしょう。それだけで、常人の知情意の「量」をはるかに凌駕してしまう事でしょう。しかし、さながらSF小説の登場人物の様に、その彼らが情けに欠け、あるいは邪悪にも世界征服を企んでいるとすれば、人間力として見ればゼロかあるいはマイナス評価しか出来ないでしょう。

そうではなくて、人間力とは知情意のバランスによってこそ評価されるべきだと思うのです。知の不足は、他人への思いやりや親切で十分カバーできるでしょう。しかし、知に抜きん出ても、他人を思いやる事が出来ない人間は、やはり人間として欠格であると言うしかありません。その意味で、知は情意を支えるものではあっても、決して情意の主になる事は出来ないと思うのです。何故なら、ヒトが人間になる過程で、最初に知があったのでなく、先に情意があって、知はそれをサポートするために大きくなってきた筈だからです。原人がヒト(ホモサピエンス)なる前にも、多分情意は存在したでしょう。特に情は。

もし、知情意を投稿者なりにイメージに直すとすれば、それは知という「盛り皿」に載った、「情」と「意」という料理だと思うのです。いくら料理(情・意)が大きくても、皿(知)が狭ければそこには乗り切らないでしょう。逆に、皿がいくら大きくても料理が少なかったり、無かったりした場合、皿は食えないでしょう。A.アインスタインは確かに知の巨人ではありましたが、彼の発見は恐ろしい大量破壊兵器を生んでしまいました。しかし、後年戦争の愚かしさを訴えて平和運動に力を入れたことで、彼は人間として成就したのだと、凡人である投稿者としてはおそるおそる書いておきます。

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2015年3月 2日 (月)

2638 コンコルド時代

今日は、1960年代の終わりに、コンコルドが初飛行した日だそうです。その事を考えた時頭に思い浮かぶのは、現代文明のピークは、実は過ぎてしまったのでないか、という感慨です。世界大戦が終わり、朝鮮戦争も終わり、その間蓄積された膨大な軍事技術は、あらゆる分野に応用可能なポテンシャルを持っていた事でしょう。だからこそ、1960年代に人間を月に送り、総チタン製のコンコルドを飛ばし、ジャンボジェット機を飛ばす事が出来たのでしょう。

ベトナム戦争が終わり、やがて冷戦が一応の終わりを告げた時、世界のだれもが輝かしい科学技術の時代が来ると信じた事でしょう。しかし、事実は逆でした。華々しかった宇宙開発もスペースシャトルの退役があり、月より遠い星へ人間を送り込む事も未だできず、宇宙ステーションからは、新しい技術の派生も(たぶん)ありませんでした。つまりは、科学技術の「踊り場」が続いていると思えてしまうのです。民間航空機の分野でも、結局コンコルドの後継のSST(調音速旅客機)は開発されず、ジャンボジェット機は、ヨーロッパで総二回に模様替えされただけで、特筆すべき進歩も見られません。軍用機にしても、垂直離着陸が出来るハリアーがオスプレイに代って、いわゆるジェット戦闘機がアップデートされたくらいで、見るべきエポックは無かった様に思えます。

となると、科学技術は踊り場というよりは、実はピークを越えて下り坂に差し掛かっているのでは、と疑ってみたくもなります。

これまでの科学技術の蓄積を学べば、確かに賢い科学者や技術者は育った事でしょう。子供の理科離れがあったとしてもです。しかし、重箱の隅をつつくしか論文テーマを見つける事が出来ず、ますます専門化してしまった各分野の研究はさながら「タコツボのタコ」状態にしか見えません。(言い過ぎです。ペコン)つまりは、天才が生まれにくい状況が定常化してしまったと言うしかないのです。B国は、国の威信をかけてやがて火星に人を送り込むかも知れませんが、火星に人が住める基地が出来ない事は断言します。もちろん、火星に人が足跡を残しても、それはそれだけに終わるでしょうから、そこから新たな科学技術の地平が開ける訳ではありません。今の文明が何千年続くのかは知る由もありませんが、インカ帝国やマヤ文明が数千年間の隆盛の後消えた様に、産業革命以降、戦後に非常に高いピークを経験した現代文明も、遠い先の子孫が振り返ってみれば、1970年代にピークがあったのだと、歴史の教科書で学ぶのかもしれません。以上コンコルドという文字からの感慨でした。

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2015年3月 1日 (日)

2637 課題解決コンテスト

別にロボコンの悪口を書くつもりはありませんが、その役割は終わった様な気がしています。その嚆矢はMITで、単位が取れる課題として学生にロボット制作を課した事の様ですが、それを取り上げたTVメディアが、日本でも同様のイベントを企画したのが国内の事始めだった様です。そのため、これまでのロボコンは「TV映り」こそが重要で、その課題も年々ど派手に、奇抜になってしまった様な気がします。コンピュータの中で造形するCADではなく、実際にモノに手を触れ、それを加工して形や機能を作り上げる行為に、教育的価値を見出す事も出来るのですが、やはりそれが単なる「お祭り騒ぎ」に終始してはならないでしょう。

どうせ、コンテストの課題を設定するのであれば、今社会で問題になっている事、その解決方法を課題として与えれば良いと思うのです。どう考えてもゴムボールを早く運ぶ事が、あるいは出前でザルソバを多く運ぶ事が深刻な社会解題である訳はないでしょう。当面の社会課題としては、例えば事故原発の廃炉を阻害する、原子炉底に溶けて固まった燃料デブリを取り出す方法が無い事、地方の急速な人口減少に歯止めが掛からない事、あるいは超高齢化社会で寝たきり老人が介護能力を超えて増え続けている事など、日々ニュース解説で取り上げられるトピックスの数だけあり、枚挙に暇はないでしょう。

それらの社会課題を学生に示し、その解決策を提案させれば良いのです。どうしてもロボコンを続けたいのであれば、コンクリートの土管の底に、デブリを模したステンレス鋼の塊を固定して、そこからどの様な方法でも良いので、出来る限り多くの量を取り出すロボットを工夫させれば良いでしょう。ドリルの様なもので削って切り粉を取り出すとか、あるいは歯科医の使うエアタービンの様なもので削って取り出す方法もあるかも知れません。もちろんTVなんかで中継する必要はありません。純粋にアイデアとその実現可能性で評価するのです。

また寝たきり老人が増えるからと言って、彼らを入浴させるための介護ロボットを作るのでは、課題解決とは言い難いでしょう。何故ならそれは人手不足問題の「対策」に過ぎないからです。そうではなくて、高齢者を寝たきりにしないための、トレーニングを助ける「筋トレロボット」やあるいは出歩くのが億劫な老人を強制的に散歩に引っ張り出すための「散歩犬ロボット」などを工夫すべきなのです。コンテストの目的は、あくまで課題解決であって、絶対に問題対策であってはならないのです。その意味では課題の示し方にも工夫が必要である事は間違いないでしょう。しかし、学生にとっては卒業後もそれが仕事になるかも知れませんし、新たなビジネスの芽が出るかもしれません。お祭り騒ぎの時代は終わったのです。

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