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2015年4月18日 (土)

2685 科学・技術倫理

科学も技術も、生活の質を上げるための手段である限りにおいては、それを使うに当たっては、何らかのルールが必要でしょう。それは、難しく定義すれば「科学・技術倫理」、つまりは科学・技術と人間との間の「あるべきコトワリ」の事です。もしそれが無かったと仮定すれば、極端な場合には科学・技術は危険な武器として応用され、多くの戦争犠牲者を作り出す事になるでしょう。この国でも、かつて2発の原子爆弾がさく裂し、多くの犠牲者を「出し、被爆者を残しました。広いアメリカ大陸に郵便網を張り巡らせる事が目的で開発され、改良されていた航空機は、すぐさま戦争の道具として信じられない程のスピードで、多種多様に、更に大型に進化し続けたのでした。それにとどまらず、先の世界大戦の末期には、ミサイルまで実用化されて、実際に大都市に打ち込まれたのでした。

しかし、戦争の道具としての武器の開発に、倫理の欠片もヘッタクレもある筈がありません。何故ならそれは大量殺人の手段に過ぎないからです。本来、人々を豊かに、幸福にするための手段であった科学・技術が間違った使われ方をしたわけです。科学者や技術者は、科学や技術の開発や改良に没頭し、その使われ方には全く、あるいは少ししかココロの痛みを感じなかったのでしょうか。それが使われた時の殺戮の残虐さが想像できなかったのでしょうか。それを想像すると、元技術屋のハシクレとしては悲しい限りです。

ところで、「緩やかな原爆」である原子炉の倫理的な位置づけはどう考えれば良いのでしょう。核分裂反応を動力として最初に採用したのは、実は原子力潜水艦だったのです。冷戦下、数か月潜ったままで隠密行動をするためには、原子力が欠かせなかったからです。潜水艦の乗組み員は、日々危険と隣り合わせの生活だった事でしょう。実際、軍事機密なので公にはなりにくかったのでしょうが、いくつかの原潜の過酷事故が起こっていた事はまちがいありません。その原子炉を陸用の発電目的に転用したのは、軍用の原子炉を作っていた企業群からのロビー活動の結果だったのだろうと想像しています。どんな「経済的な理窟」をこねようが、出だしから倫理が間違っており、核燃料が燃え尽きた結果残るプルトニウムを含む危険な核廃棄物の処理方法が確立されない限り、原発は完全に破綻しているとしか言えないでしょう。

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