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2015年4月19日 (日)

2686 全体と部分

このタイトルも何度か取り上げた覚えがありますが、ここでは改めて別の言葉で考えてみたいと思います。これは、写真でも同じですが、部分=近接(マクロ)撮影では、確かに細部の肌理は伝える事が出来ますが、全体は把握できません。一方で、広角撮影は全体の風景や雰囲気は把握できても、その中の人物や立ち木や草や昆虫などは埋もれてしまうでしょう。写真家は、それを見事に使い分けているのでしょう。

その見方は、現実社会にも間違いなく敷衍できるでしょう。全体最適が必ずしも部分最適ではありませんから、何か大きな政策を打とうとすれば、その網から零れ落ちる側からは、反対意見が出る事になります。政策の規模が大きければ大きい程、網目は大きくせざるを得ないので、こぼれる数も増える事になります。それを防ぐのは、結構骨が折れます。普通に考えられるのは、こぼれた人たちを救うための別の細かい目の網を準備することです。俗に呼ばれる「セーフティネット」です。しかし、そのためには政策実施のための予算もマンパワーも何割増しかにする必要が出てきます。

もう一つの方向は全く逆で、目の小さな網を多数準備しておいて、予めこぼれそうな人たちを救って置いて、社会の底に沈んでいる「弱者」を無くしてから、然るべき政策を実行すると言う方向も考えられます。弱者に強者が手を差し伸べるの事に、社会や政治、ひいては国の存在価値があると仮定するなら、私たちは間違いなく後者の政策を選ばなければならない筈なのです。しかし、こちらの方法は時間と手間が掛かるので、為政者には嫌われます。結果がすぐには出ないからです。議員は自分の任期内に結果が見えないと、次の選挙では勝てませんから、徒党を組んで多数派に回ろうと画策する訳です。

各論に反対でも、総論の方向が「それなり」に同じような向きであれば、同じ政党名の下に集結する道を選ぶのでしょう。従って、何か事があると離合集散を繰り返す羽目に陥ることになります。部分反対でも全体賛成に回れば、多数派に身を置くメリットを享受できるからです。私たちは、個々の政策に右往左往する事なしに、常に「全体的な視点」を持ち続けたいものです。社会における全体的視点には、他の国々を見渡す水平軸の他に、過去の歴史や将来世代の幸福をも見通す長い時間軸も絶対不可欠である事は当然でしょう。この国の政治は、過去も現在も、あまりにも「今」しか見ていない「部分政治(刹那政治)」である事を危惧しています。

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