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2015年5月31日 (日)

2714 老子・荘子

老子とその弟子の荘子の言葉を、改めて(ダイジェスト版でですが)でざっと眺めてみると、それらの言葉の多くは、人生を生き易くしてくれる事に気が付きます。何故そうなるのかを考えてみると、それはどうやら「力の抜き方」を教える言葉の数々だからなのだと思いました。老子はそもそも、善悪や価値の有無という二分法を否定します。逆に、人や物事にそのような烙印を押すから悩みが増えるのだ、と説くのです。生まれついての悪人などという人は居ないし全く価値の無いものなども存在しないのだ、と説くのです。

荘子は,、老子の後継者なのでしょうが、彼はまた彼なりに、面白いたとえ話で我々をドキリとさせてくれます。彼の色々な言葉の背景には、どうやら「宇宙力」の様なものがあると言いたかったらしいのです。人がどうあがこうと宇宙力の「流れ」には抗えない。結局、富める人も、そうでない人も、幸福な人も、そうでない人も、死ぬ時に死んでしまうのであって、宗教だろうが、医学だろうがそれにはささやかな抵抗しか出来ないと説くのです。それは、至極当然の事で、病気と闘うのはその人自身の免疫力であり、生きようとする意志であるのですから。宇宙力とは言葉を替えれば「自然力」となるでしょうし、結局それは我々を取り巻く「環境力」であると言えるかも知れません。しかしながら、私たちは手の届く(地球)環境を改変し、しかもその範囲を急拡大し続けてきた訳ですが、残念ながらというか、当然の事というか、その改変は宇宙には届かないのです。宇宙に関して我々に出来た事はと言えば、一番近い衛星にある国の旗を立て、いくつかの惑星にささやかに金属の塊を送り込んだことくらいでしょう。一方で、望遠鏡もロケットも存在しなかった時代にあっても、古人の宇宙を包括する程広大な洞察力にはただただ感嘆するしかありません。

さて、経済的豊かさや、物欲や名誉欲を捨て去れば、確かに人生が生き易くなりそうな気がします。もちろん凡人にはなかなか出来ない事ではありますが、もし人生の途中で、目の前に選択肢が二つ現れて、必ずどちらかを選ばなければなくなった場合、取り敢えずは欲望から遠い方、出来れば他の誰かの役に立つ方を選んでおけば、より安らかな人生が送れると言う事の様です。ささやかに実践したいものです。

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2015年5月30日 (土)

2713 マネーマイニング?

フットボール連盟の不祥事がマスコミを賑わしています。派手な商業主義の代表であるスポーツですから、不祥事も派手に踊るのも当然かも知れません。しかし、考えてみれば一般人にとっては、裏で天文学的な額のお金が動いたのですから、誰かが何らかの手段でそれを感知(センシング)する方法はあった筈です。何しろ、現ナマであればかなり嵩張るし、人目にもつき易いので動かせる額には限度がありますが、銀行口座ならゼロの数を数個増やすだけですから容易に多額の現金を動かせます。

現状は、銀行取引を何度か繰り替えす事により、お金の色が薄くなり、最初は誰から出て、最後は誰に渡ったかは、容易にはトレースできない様にしているのでしょうが、しかし今はビッグデータの時代ですから、方法によっては可能になっている筈なのです。それは当然と言えば当然で、お金の動きは、結局は銀行口座間を移動させるしかないのですから、その取引チェーン(連鎖)を明らかにすれば、お金の移動も時系列で明らかに出来るでしょう。これは、さながら鉱脈を掘り進める様な感じですので、ここでは仮に「マネーマイニング」と呼んでおきましょう。マネーロンダリングの対句というわけです。

今回の様に、国をまたがる悪事でも、各国の国家権力がそれぞれの銀行にデータの開示を迫れば、マネーマイニングも可能となるでしょう。同様な手法は、例えば不法な武器輸出やテロの活動資金でも使える理窟ですが、武器産業のロビー活動は非常に強力だと想像できますし、一面では一国の武力の情報も握っている産業でもあり、各国政府としてもなかなか白日の下には晒せない事情も抱えているのでしょう。この様な問題は、結局は何処まで行っても、「プライバシー」と「正義」の戦いの問題であり続けると考えられますが、時々は金脈に「発破」を掛けて、悪事に関わった輩を晒し者にし、もって抑止力としていくしかなさそうです。

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2015年5月29日 (金)

2712 万物斉同

100分で名著の荘子の言葉が身に沁みました。荘子は言います「万物は皆同じである」と。生物も無生物も本質は同じでものであると言うのです。普通の人間にとって、生物(例えば昆虫)と、無生物(例えば金属の塊)とは明らかに違うものと認識します。しかし、それは「私」という意識を通じて認識するからであり、そうでなければそれらは、そこに「在る」ものに過ぎないという訳です。確かに周期律表には100種以上の原子が載っていますが、本質的には原子核と電子によって構成されています。まだ発見されていませんが、それらだって究極の素粒子によって構成されているのかも知れません。つまり、生物も無生物も素材として見れば同じであるともいえ、結局は荘子の見方に賛同せざるを得ない様なのです。つまり、この世に存在するものには境目が無いと言い切るのです。

荘子は、更に言います。夢=現実であると。普通の人は夢を見ますが、夢から覚めれば現実が世界があると思ってしまいます。しかし、今生きていると思っている世界が夢で、夢だと思っている世界が実は現実かも知れない、と彼は言うのです。夢も、現実も、つまりは自分という意識が認識するものである事は差が無いからです。確かに、現実の世界で自分の頬っぺたを思い切りつねれば、痛い様に「感じ」ますが、それとて自分の「意識の為せるワザ」だと言うのです。

話はそれで終わりません。荘子にとって、死さえ一区切りではありません。息をしているか居ないかは別にして、生と死は連続しているとさえ言うのです。確かに、自分を中心に考えれば、生きていれば意識があり、死んでしまえば無意識ですから、もはやこの世に自分は存在しなくはなります。しかし、その様子を外から眺めれば、生きている間は動く体があり、死んでしまえば動かなくなった体があるだけでしょう。まして、宇宙のかなたから眺めれば、地球上の一つの生命の生き死になど全く何の変化も無いと同じなのです。自分と言う意識のフィルターさえ通さなければ、生き死にさえ連続していると荘子は説くのです。いずれにしても、古人の洞察力のすごさには、ただただ驚嘆するしかない一凡人です。

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2015年5月28日 (木)

2711 退歩

退歩とは、言わずもがなですが進歩の反意語です。進歩は、特に1920世紀を通じて、常にポジティブな言葉であり続け、科学・技術であれ、経済であれ、社会の仕組みであれ、常にそれまでより新しくなり、増加すべきものであり、更に複雑にする事が是であると言われ続けたのでした。むしろ、進歩しなければ、国や社会や国民が怠惰であり、質が劣化してしまうと言ういいた強迫観念にすら支配されていたと言っても良いでしょう。そのため、例えば経済面では、1990年代にバブルが崩壊し、経済が縮小・停滞した事を指して失われた20年などと、時代にもネガティブなレッテルを貼ろうとするのです。科学・技術でも同様です。今日の贅沢品を、明日の大量生産品にする努力が、コンピュータが極限まで軽く、薄くなり、子供たちまで携帯電話やスマホを持てるようになった訳です。各種の製品は、旧モデルより性能が高くなり、かつ値段が下がらない事には、進歩が無いとまで批判される始末です。

しかし、考えてみればその20年の間に、私たちは何もしなかった訳ではなく、むしろそれまで以上に努力して、デフレ下の不景気に対処してきたのでした。車をハイブリッド化して燃費を向上させ、宇宙に多額の税金を使って宇宙飛行士を送り続けたのでした。しかし一方では、21世紀に入って、この国もいよいよ人口減少局面に入ってきたのであり、持続可能な(経済)成長など、夢のまた夢だと言うしかないのです。

さて、退歩です。退歩とは後ずさりの事ですから、悪く言えば逃げの姿勢だと言えるでしょう。もちろん、負けて退散するのであればその通りですが、行き過ぎた状態を解消するために、計画的にかつ慎重に後戻りするのであれば、それは合理的退歩と呼んでも良さそうです。実は、この事はこのブログのごく最初の頃にも書いたような気がします。既に、8年ほど前になりますが、サラリーマンを完全に辞めたのも、自分の人生を少し後戻りして総括し、環境や社会システムに関しても色々考えを巡らせてみようと考えたからでした。サラリーマンを辞めてフリーランスになって、少し退歩すると、自由に使えるお金が減り、食べ物も少し質素にせざるを得なくなりました。しかし、その分考える時間がたっぷり出来たのでした。年に数回しか行けなかった山にも、行こうと思えば近くの山だったら毎週でも出かける事が出来ます。

同様の事が社会システムでも言える様に思うのです。少し使うお金を減らして、その分知恵と工夫とボランティアの汗でカバーし、お互いを思いやる事が出来る社会に変るなら、それは好ましい退歩と言えるでしょう。でも考えてみれば、高度成長期の途中までの時代を思い返せば、私たちはそんな「良い時代」を経験していながら、お金のためにそれれを打ち捨ててここまで突っ走ってしまったのかも知れません。立ち止まって、少し戻ってみましょう。

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2015年5月27日 (水)

2710 温暖化効果物質

温暖化効果ガス(GHG)は、ニュースでも日常的に目にし、耳にする温暖化の主な原因物質です。二酸化炭素を代表に、メタンや亜酸化窒素などなどですが、ここでは最近の5月に真夏日が頻発する様な、急激な気温上昇傾向ついて考えてみます。投稿者が疑っているのは実は「温暖化効果物質」です。具体的には、その発生源が自然現象が起源の黄砂や、海塩から発生するエアロゾルなどですが、これらはこれまでも観測されてきたいわゆる経常的な自然現象ですので、除外しても良さそうです。

問題は、人間の活動が起源となる粒子状物質やエアロゾルだと見ています。いわゆるPM2.5などもこれに含まれます。例えば石炭の燃焼においては、煙の中には非常に細かい粉じんも含まれます。いわゆる煤塵です。しかしながら、その粒子は比較的大きく、重いので隣のC国当りから海を越えて飛来する量は限定的でしょう。しかし、問題となるのはもっと細かい粒子やエアロゾルです。たとえば工場や車の排気ガスに含まれるガス状の物質が、大気中の水分や他の粒子と結びついて、新たな浮遊状物質を作るケースが考えられます。例えば、燃料の中に含まれる硫黄がSOxを作り、燃焼ガスにはNOxが含まれるでしょう。それらが、大気中の水分とともに、硫酸ミストや硝酸ミストを形成しましす。これらは長く空中を浮遊しますし、春先の強い日射で高高度まで上昇し、さらにジェット気流に乗って海も渡るのです。

春先には強い上昇気流とジェット気流で、ゴビ砂漠や黄土高原あたりから黄砂の贈り物がありますが、もっと細かい粒子は通年にわたって海を越えてきている筈なのです。これらの細かい粒子は、体内に入れば喘息やアレルギー症状も引き起こす事でしょう。いっぽう、これらの細かい粒子は光を散乱させるため、通常であれば太陽光の多くは地上に到達し、多くは赤外線となって反射される筈なのですが、それらの粒子に太陽熱が取り込まれて、大気中の熱量を増やす働きが生まれる筈なのです。つまり、春先は日中に強い日射があっても、夜間の放射冷却で速やかに地表温度が下がり、翌日の気温を抑えるのですが、近年は熱が大気中に蓄えられたまま朝にあり、その日の最高気温をブーストしていると考えられるのです。温暖化効果ガスと温暖化効果物質は、お互いに影響し合って、温暖化傾向を加速する「負のスパイラル」を形成していると見ています。

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2015年5月26日 (火)

2709 公共3

「公共」の概念で考え込んでいたが、昨日の「オイコノミア」に少しヒントが。今回取り上げられていたのは、「誰が子育てをするのか」でしたが、その中に「ソーシャルキャピタル=社会関係資本」というKWが出てきました。つまり、子育てがしにくくなっているこの国では、GDPの数字はどうあれ、ソーシャルキャピタルは、昔に比べてドンドン目減りしていると言う事を意味していると言えそうなのです。都内の自治体では、地域の子育てを終えた主婦やリタイアしたシニアが、放課後の学童保育を引き受けている結果、出生率が高いのだとか。

つまりここでは、他の自治体に比べてソーシャルキャピタル(この場合は実際の子育て予算ではなく、住民同士の助け合いという財産)が高く、子育て中の若い世代が住み易いと言う事を意味します。もちろん、より本質的なソーシャルキャピタルには、例えば元気の活動するのが困難なお年寄りや、ハンディキャップを持つ人、あるいはなかなか家族が持てないワーキングプアの独身者などななどへの救いの手も含まれなければなりません。適当な言葉が見つかりませんが、ソーシャルキャピタルとは、ある種のお節介と呼んでも良いのかも知れません。

ここでの結論は、このソーシャルキャピタルは、一体誰のために準備されるかと聞かれれば、それは「公共のためである」という結論になります。公共とは、必ずしも市民が支払った税金で、行政だけが行うものではない事は明白です。それどころか、市民が自ら行う「利他行動=お節介」そのものがソーシャルキャピタルの本質であり、その対象こそが「公共」である、まとめになってしまいました。公共放送から少し脱線しましたが、彼らには国民が払った税金をバックにした為政者の圧力には負けない、利他的でお節介な放送を期待したいものです。

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2015年5月25日 (月)

2708 公共2

公共という言葉で連想するのは、今後重要なKWとなる(筈)のCSVでしょうか。そこし前流行った?CSRは「企業の社会的責任」という程の意味ですが、ではCSVとは何でしょう。敢えて日本語に直すとすれば「社会的(共通)価値の創造(Creating Sharedl Value)」とでもなるでしょうか。この共通価値という言葉こそ公共に近いニュアンスを持っている様に思えるのです。このCSVを敢えて意訳するとすれば、企業は、社会に共通する課題を解決するためのビジネスを展開するべきだ、という指摘と言えるでしょう。つまり、おそよ企業というものは、ごく一部の集団の利益に寄与するビジネスなど考えてはならず、出来得る限り多数の人々が抱える問題(課題)の解決に役立つビジネスを考えるべきだと言う意味です。

例えば車メーカーのビジネスを例に引きます。車は、例えば田舎で他に交通手段が無い場所に置いては、必要不可欠でこれがあると無いでは、生活に質に雲泥の差が出ます。しかし、いま各国の大都会で起こっている事は、車の「押し込み販売」によって、都会の道路のキャパシティを大幅に超えた結果、日常的なそれも信じられないくらいひどい交通ラッシュを引き起こしている訳です。車での移動の結果、自転車で移動するより長い時間が掛かる様であれば、車を使うメリットは何もない事になります。ヨーロッパのいくつかの都市では、この事に早くから気が付き、市内を自転車やLRTを主体にした交通体系に統一し、車は郊外の駐車場までしか入れない様にしています。

ここでは、まさに公共の共通課題である、都市内の快適な移動手段の提供、というシステムが上手く機能している例だと言えるでしょう。全世界で1000万台もの車を売上、空前の利益を上げている胸を張っているこの国の代表的な企業が、もし車に替わる都市交通の提案に取り組むなら、この企業の未来は明るいかも知れませんが、石油を燃やし尽くすまで車を増産し続け、その後は(どうやって作るかは知らないが)水素社会だ、などと無責任に吹聴するのであれば、この企業の先は見えた、というしかないでしょう。公共と言う言葉は、かなりの程度、未来社会の市民も含まれた概念だと思うのです。

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2015年5月24日 (日)

2707 公共

M.サンデルの白熱教室で、テーマとして公共放送を取り上げていました。この中で、改めて「公共」とは何かを考えさせられてしまいました。公共施設、公共団体、公共放送、公共交通機関、公共・・・。ザっと考えれば、それぞれは、一般市民のために存在する様な錯覚に陥りますが、ではそれを100%の人がまんべんなく利用しているかと問われれば、実は市民の内の何割かが頻繁に利用し、別の何割かは全く利用していないなどと言う状況は普通でしょう。

例えば、この国の公共放送の視聴率ですが、今ではそれがピークを打ったとしても、今の時代絶対に50%など取れる事なさそうです。市が運航するバスだって、利用するのは車を持たないお年寄りが中心でしょうし、図書館などに至っては、市民の数%しか利用していないと思うのです。何が公共であるか、そのためにどの程度の税金を使うべきであるかは、実は分かっている様で、殆ど明確にはなっていない事に気が付きます。図書館などは、実は周りの自治体と比べて、恰好が悪いから設置してあるだけなのかも知れません。

昔習った社会科の(どちらかと言えばかなり左寄り)先生が、まだ理窟の良く分からない私たち中学生に向かって「最大多数の最大幸福」というフレーズを何度も繰り返していたことを思い出しました。市民数%の利用しかない施設が、果たして最大多数として認められるのか、と問い直してみたところで、どんなに小さな自治体にも図書館はあるでしょうし、日中には殆ど乗客がいない事が多くても、コミュニティバスの運行は止められないでしょう。何故なら、利用者が少数しか居なかったとしても、その利用者一人ひとりは立派な「市民」だからです。どこまで行っても、公共とは一体何%以上の人々を指すのか、上の社会科の先生が言った様に、便益を受ける人の数と、受益大きさの「掛け算が最大になる様に」しさえすれば事が足りるのか。その「公共の網」からこぼれてしまった弱者はどう考えて、どう救うべきなのか、考えを巡らせてもグルグルとループを繰り返すだけです。でもまあ引き続き考えてみます。

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2015年5月23日 (土)

2706 地震と火山

最近、火山や地震のニュースを耳にする機会が増えたような気がするので、その関係について、素人なりの考えを述べてみる事とします。さて、地震は断層の新たなズレによって生じます。日本列島は、いわば断層の巣の様な地殻で構成されていて、もし断層を赤い線で表現するならば、日本列島はまるで血管を強調した人体模型の様に見える事でしょう。人体で、太い血管に当たるのは、断層で言えば主要な「構造線」に相当するでしょう。それに加えて、ローカルな数キロから数十キロの細切れになった断層が、さながら毛細血管の様に広がっているのです。もし、過去数万年まで遡るとするなら、断層や断層の痕跡の無い一纏まりの地盤など存在せず、したがって誰かが指摘する様に、この国に原発立地の適地など存在しないと言うしかないのかも知れません。

もう一つ、地上に直接現れていない地殻の活動として、プレート境界での大地震があります。3.11の震災も、まさにそうした活動の結果だったのです。それは、この国の下では、ユーラシアプレートと北米プレート、太平洋プレート及びフィリピン海プレートが、四つ巴?の陣取り合戦を繰り広げている結果、その境界では大地震発生のリスクからは逃れられないのです。もちろん、これらのプレート間に歪が溜まるには長期間を要しますので、ラッキーな人は大地震に遭遇せずに一生を終えてしまう場合もあるでしょう。しかし、大地震は確実に起こるものなのです。

さて火山です。小さな断層と火山の直接の関連は薄いでしょう。火山は、上記のプレート相互のズレによる強大な摩擦熱(あるいは岩盤の崩壊熱)によって生ずるものだからです。何万気圧もの圧力が掛かったままプレート同士が動くのですから、そこで発生する摩擦熱は天文学的な量に上るのでしょう。つまり、先ずはプレート相互のズレ=大地震が発生し、その結果生じた摩擦熱が岩盤を溶かしてマグマ溜まりを生じさせ、それが地上まで上昇して火山を噴火させると言う順番になると思うのです。従って、大震災の後には火山の噴火が待ち構えていると見るのが自然でしょう。3.11は三陸沖のプレート活動でしたから、東北の活火山が今後活動を活発化させる可能性は非常に高まっていると考えるべきででしょう。既に、吾妻山、蔵王山や八幡平では、活動が活発化している事が伝えられていますし、3.11の震源から考えると、今後は栗駒山、岩手山、秋田駒、十和田、八甲田山辺りまでは危険地帯に入っていると見做すべきでしょう。

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2015年5月22日 (金)

2705 やれば出来るのに

Mツダの小型スポーツカーがモデルチェンジし、売り上げも好調の様です。もちろん買う気も、お金もないので無縁ですが、注目すべきはモデルチェンジの中身です。外観は確かに先代のイメージを残しつつ、それなりに面構えは変えました。しかし、全長をやや短くしたとはいえ、材料を変えないで100キロを超える大幅な軽量化に成功した事実は余り注目されてはいないでしょう。これは、エンジンその他を何も変えなくとも、さながら馬力がアップしたと同じ効果が感じられる数字です。加速も、コーナリング性能も、燃費性能ももちろんアップします。

車体の新たな素材にアルミやカーボンを殆ど使わないで、設計の見直しのみより、約10%の軽量化を行う努力には敬意を表しますが、ならば同じ努力を他の車種にも適用しても良いとも思うのです。軽量化は、エンジンその他の下回りの性能がそのままでも、間違いなく燃費が向上します。加速時の燃費性能は、車重の増減に比例して悪化(又は改善)しますから、10%の軽量化は、そのまま10%程度の燃費向上につながる筈なのです。最良の目方が軽くなった結果、価格も下がったならさらに結構な話でしょう。

軽量化は、結構大変な努力を要する設計作業ですが、細かい強度の見直しにより、大幅に下げる可能性もある筈です。例えば、車体を構成する鉄板の厚みです。例えばその厚みを10%薄くしても、ビードの成形や、立体的な形状の工夫で、強度を殆ど落とさないで済む事を、新型R-ドスターの設計者たちが示してくれたと言えるでしょう。これからの時代、軽さは価値だと断言できます。製造時の資源の節約、使用時の省エネ、使用後廃棄物となった時の環境負荷、どれをとっても正しい方向だからです。この国の技術者は、デザインや価格で、他国と競り合う必要などないと思定めるのが良いでしょう。徹底的に軽量化に取り組めば良いのです。繰り返しますが、今後の時代、軽さは最高の価値なのです。

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2015年5月21日 (木)

2704 農業って産業?

農業は、果たして生業なのか産業なのかを改めて考えてみようと思います。つまり、農業の「業」は生業の業なのか、産業の業なのかという話です。農業生産物は、価格を付して市場で流通させるもの、つまりは「商品作物」と、農家が自家であるいは縁故者へ渡して消費する、「自家消費分」に分かれます。今は、まだ減反政策が生きているために、水田であれば全ての耕作面積が把握され、減反の助成金を貰っている田ではコメは作れません。別の動きとして、コメを家畜の飼料とする動きもあり、これについても面積に応じた助成金が支給されているのです。これはコメの様ではありますが、市場的にはコメではなく「エサ米」という商品名に変ります。

さて、自家消費米であっても、JAに売り渡すコメであっても、人間が口にするコメはコメなので、行政側の扱いは一律です。しかしながら、果たして今後市場で、安い外米とガチで価格勝負をしなければならない商品作物であるコメを作る「大規模農業」と、自家消費するコメを作る生業としての「ささやかなコメ作り」を同じ土俵に上げても良いものでしょうか。何十ヘクタールもの農地で、ヘリで種を蒔き、大型のコンバインで収穫する農業は、それなりの競争力を持てるのでしょう。しかし、細切れになった1-2ヘクタールの農地で、小型の田植え機と借金して買わされたコンバインで、ノンビリとコメ作りを行っている高齢者に、一体どの様に市場で戦わせようと言うのでしょうか。

生業としてのコメ作りや野菜作りと、第1次産業として国際市場で戦う農業とは、助成金を載せるにしても明確に分けて考えなければならないでしょう。コメが、この国の気候にマッチした持続可能性の高い作物であり、私たち自身の健康を保つための主食として、最適である事は疑いがありません。現在、海外の半乾燥地帯で大量に生産されている、最大の事情作物である小麦やトウモロコシは、化石水と呼ばれる地下水に依存していると言う点では持続可能性は低いし、一方ではかなりの数の小麦アレルギー患者などに見られる様に、必ずしも私たちの体に合った穀物ではない可能性もあります。であるならば、税金を使っても、減反や耕作放棄地を無くす方向で、コメを中心とした農業を活性化させる必要があると思うのです。炊飯米の消費が伸びないのであれば、コメ粉でパンやうどんやパスタを作れば良いでしょう。しかし今、スーパーで買えるコメ粉は、小麦粉とは比べものにならないくらい高価なので、減反や飼料米に使う助成金の一部を使って、小麦粉並みの値段にして、消費を増やす必要もありそうです。たぶん続きます。

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2015年5月20日 (水)

2703 吹き溜まり

都会の木賃宿の悲劇が報じられました。この様な安宿は、かつては日雇い労働者のための宿でした。彼らは、衣食住をのうち特に住を安くあげる事によって、可処分所得を増やしていた訳です。彼らの多くは、炭鉱からの転職組であったり、地方からの農家の跡取りの出稼ぎか、あるいは二、三男が職を得た時の取り敢えずの宿であったのでしょう。世はまさに高度成長期で、仕事はいくらでもありました。朝、港近くの決まった場所に集まれば、やがてトラックがやってきて必要なだけ労働者を乗せて、その日の仕事場に送り込んでいったのです。その集合場所に近い場所に、雨後のタケノコの様に木賃宿が建てられていったのでしょう。

しかし、その様な単純な日雇い仕事は、時代の流れと共に減り続け、一方ではアルバイトや非正規労働者にとって代わられ、日雇い労働者の平均年齢はドンドン上がって行ったのでした。気がつけば、彼らも働くのが厳しい年齢になり、年金保険料も納めていなかったため、最終的には生活保護に頼るしかなかったことでしょう。かくして木賃宿は、それらの人々が身を寄せ得る唯一の場所、つまりは吹き溜まりとなってしまったのでした。

もちろん彼らにも故郷があり、その故郷にはある時期までは身寄りも居た事でしょう。しかし、長い年月を経るうち、親兄弟が亡くなり、音信も途絶えがちになったのでしょう。とは言いながら、一方で今その故郷は、何処でも深刻な人口減少に悩んでいます。空き家の数にしても、地域によっては何割という割合にもなってきているのです。都会の片隅の吹き溜まりで一生を終えるのか、はたまた自然に囲まれた田舎で、自分の食べる分くらいの畑を耕して、健康に天寿を全うするのか。どうにかして、彼らが元々の地縁の細い糸を手繰り、田舎への回帰を実現する上手い方法は考えられないものでしょうか。生活保護の財源があるのなら、それを移住支援に振り向ける事だって可能のはずです。

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2015年5月19日 (火)

2702 100%は無い

私たちは、人が「絶対に」とか、「完全に」とか、いわば100%を保証しようとする言動には、先ず疑ってかかる事を実行したいものです。原発で電源が失われる事は「絶対にない」と断言した、原発の中身を知らないリーダーが、国会で答弁書のままに答弁した(読み上げた?)事がありました。その同じリーダーが今般は、憲法解釈を変更しても、この国が他国の紛争に巻き込まれる事は「絶対にない」と再び断言したのです。

リスクの確率に0%や100%は無いと「絶対に100%断言?」出来ます。リスクが起こる確率は限りなくゼロに近いとか、100%に迫る、という表現はあり得るのでしょうが、絶対や完全は、理論上の表現に過ぎず、現実の世界ではあり得ないと言うしかありません。実のところこのブログでも多くの「断言」をしてきた様な気がしますが、もちろんそれは「素人」である事を割引いた上でのプチ断言なので、政治家や学者の行う断言とはレベルが異なる「言葉の弾み」に過ぎません。

さて、完全や絶対を連発するリーダーについてですが、もし彼が(彼の原稿を書いたスタッフが)、原発の電源が失われる可能性は、その根拠と共に99.98%無い、と言ったのであれば、かなりの程度信用する事も可能なのでしょう。しかし、リスク(確率)を正当に評価しない「突っ走り」行動には、私たちは疑いの目を注ぎ続ける必要があるでしょう。もちろん、政治家は単独で政策を打ち出している訳ではなく、それどころか一国のリーダーともなれば、内閣参与と呼ばれるブレーン(多分現在は7人程度の参謀)を抱えている筈です。その彼らが、リーダーの口をして「絶対」や「完全」を語らせている訳ですが、その中に少なくとも異論を唱える「成分」が混じっていない場合、いわゆる暴走が起こる事になり兼ねません。必要なものは、結局はバランス感覚なのです。今のリーダーの息が掛かっていると思われる、N銀の総裁や政策決定ボードや内閣のブレーングループに、果たして冷静なバランス感覚を持ち合わせている人物が混じっているのか否か、引き続き注目が必要ではあります。

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2015年5月18日 (月)

2701 構想のスケール

ブログの再開です。さて昨晩O阪の都構想が、実を結ぶことなく幕を引きました。しかし、考えてみれば、政治や経済の「東高西低」を是正するのに、単に市府を都に塗り替えれば済む話だったのか、改めて考えてみる必要がある様に思うのです。市府制に確かにダブりや無駄はあったのでしょうが、かといって単にそれが都になるだけで解消できると考えるのは幻想でしょう。役人はそれほど無能ではないので、自分たちが作り出した無駄やダブりは、石にかじりついても守ろうとするでしょう。彼らは、一度手にしたものは死んでも離さない努力をするし、そのための知恵も能力も持ち合わせている人種だからです。

この構想を打ち出した人が反省すべきは、構想のスケールの小ささだと言うしかないのでしょう。もし彼が、国家百年の計から構想し、「だから今の段階ではO阪を都に直す必要があるのだ」と説き起こしたならば、コンサバな高齢者も少しは投票行動を変えたかも知れないからです。都になりさえすれば、全てが変り住民も幸福になるなどと、単純なロジックで押し切ろうとしたのは、ある意味で住民を軽く見ていると思われても仕方がないでしょう。有能な弁護士さんは「語るに落ちた」のかも知れません。有権者は、微妙なところで、それに小さな反発を覚えたのかも知れません。あるべき未来像から現在論ずる手法を、「バックキャスト手法」と呼びますが、Q阪都構想のその先に、然るべきこの国の将来像が描けていれば、もしかすると、この構想を打ち出した人は、将来この国のリーダーになり得たかも知れないと、やや残念な気持ちも残っています。というより、それは買いかぶりに過ぎず、やはりそれほどのスケールの人材ではなかったと言うのが事実だったかも知れませんが・・・。

いずれにしても、今の国のリーダーにせよ、今後その後釜を狙っている候補者にしても、政権の座に座った時に為すべき事を、100年のタイムスケールで論ずる器でなければ、結局誰がやっても、政党のお面すげ替えゲーム、あるいは椅子取りゲームから脱する事は叶わないでしょう。かくして、戦後レジュームから脱却する事は、今後とも夢のまた夢となるわけです。

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2015年5月15日 (金)

2700 何を作るかではなく

大手家電メーカの大幅赤字が話題になっています。なりふり構わず、資産を売却し、役員の報酬を削り、大幅減資を行い、それでも足らずにまたぞろ大規模なリストラが行われようとしています。ここに至るまで、これらの企業は一体何を考えて経営を進めてきたのでしょうか。メーカー(Maker)とは、読んで字の如く製造業ですので、モノを作って売り捌くのが事業の柱になるのでしょうが、今後の社会においても同じようなビジネスモデルが続けられるのか、大きな疑問を持っています。というのも、人々がモノを欲しがるのは、モノに対する一定水準以上の飢餓感が存在する社会においてのみではないかと思うからです。

では、今後の企業はどう考え、どう行動すべきなのでしょうか。注目すべきは、「機能の提供」というキーワードだと見ています。例えば、人々は何も液晶技術や液晶パネルそのものを欲しがっている訳ではないでしょう。液晶は、(0,1の)電子情報を絵や文字として表示すr方法の一つに過ぎないのです。液晶とは電圧を掛けると結晶化したり非晶化したりする事によって、カラードットを見せたり、隠したりする表示方法です。もちろん、その他の方法例えば有機薄膜やDLPなど、他の優れた方法だって存在する訳です。液晶は、表示機能を持つたった一つの方法でしかないのに、ある時期儲かったからと言ってS社はその社運をかけて突き進んだ結果、社運が尽きてしまったのだ見るべきでしょう。

データを表示する方法は、メガネ型のデイスプレーの進化を含めて、更に進歩する事でしょう。最終的な目的、あるいは必要とされる機能と、結局私たちの脳(視覚野)が、データや映像を認識する事にあるのですから、映像機器メーカーとしてはモノを作るのに注力するのではなく、何がその手段なり方法として最適かを追求する必要がある筈なのです。その探求を怠り、機能の提供に注目しないで、安価なモノづくりにだけ目を向ける企業は、車産業であれ、情報産業であれ早晩壁に突き当たる事になると断言しておきましょう。

明日から旅行不在で数日休稿です。

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2015年5月14日 (木)

2699 インターロッキングレンガ

ネパールの地震被害を見ての一つのアイデアです。石やレンガは、圧縮荷重には強いが、曲げや引張には弱い材料で、脆くもあります。しかし、この国の城郭の石積みには、絶妙な工夫がされている事は余り知られていない様な気がします。この国の城の石垣のコーナーには、必ず正確に切られた石が整然と積まれている事に気が付く筈です。しかし、更に詳細に観察すると、上下になった石と石の間には数ミリの隙間があって浮いている様に見えるのです。実はそれぞれの石の上下には穴が明けられており、そこに中央に鍔のある鉄のピンが嵌め込まれていて、地震が来ても石が水平にはずれない様にロックされているのです。

大きな被害をもたらす地震動の主成分は横揺れであり、石やレンガに穴を設けておいて、インターロッキングピンの挿入によって、積み木崩しの様に崩壊する事が防げるでしょう。ロッキングピンを乗り越えさせる様な激しい縦成分を含む揺れに対しては、石積みやレンガ積みを上下に抑え込む様なベルトが有効でしょう。その結果、グラグラと揺れる地震動によって、石積みやレンガの間の漆喰は割れてしまいますが、水平にずれる事はないので、崩落は防げるでしょう。鉄筋コンクリリートよりはもちろん強度は低くなりますが、施工は現状のレンガ積み並みに容易で安価ですので、途上国でも十分に採用可能でしょう。

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2015年5月13日 (水)

2698 高齢者ビジネス

一昨日のクロ現。土地持ちの高齢者にアパートを「建てさせる」ビジネスが流行っているのだとか。これは、特殊サギに比べてもかなり悪質だと言わざるを得ません。特殊サギは、いわばお年寄りが持っている現金をだまし取る手口ですが、アパートビジネスは、お年寄りをだまして土地を担保に多額の借金をさせて、アパートを建てさせる手口だからです。アパート経営など考えた事も無いお年寄りにリスクを負わせ、業者はアパート建設と賃貸で甘い汁を吸い、空き部屋が増えて儲からなくなったら、地主への配当を減らす訳です。見込み通りの入居率が得られない場合、結果、アパートオーナーには空き部屋だらけの建物と多額の借金だけが残されるだけです。

これは高齢者ビジネスのホンの一例に過ぎないのでしょう。合法的、というより法の網をかいくぐり、お年寄りをエサにするビジネスは、表面に出ていないものがどれほどあるのか、実体は闇の中です。物販、サービス契約、投資話、ネズミ講まがいなどなど、特殊サギを含めて、高齢者マネーに群がる輩は枚挙に暇がない程です。というのも、間違いなくお金が高齢者世帯に淀んでいる実態が背景にあるからです。正規雇用でしっかり働いた人たちには、十分かどうかは別にして、それなりの財産が残った筈です。一方で、土地持ちの高齢者は、体力低下で農地の耕作が出来にくくなって、農地や耕作放棄地など空き地への課税が重荷になっている事でしょう。もちろん、北欧諸国の様に、厚い福祉政策が行われている国々では、お年寄りに財産は不要だと言えます。土地や、財産を国に差し出せば、生涯の福祉が保証されるからです。

しかし、中負担、中福祉のこの国では、お年寄りの福祉もソコソコに留まっています。仕方なく高齢者は自営のために、多分死ぬまでに使い切れない程、財産を貯め込むと言う行動に走るのでしょう。残された財産の多くは、後見人もどきに良いように使われるか、あるいは認知症になって金融機関に没収されてしまうのでしょうか。

少子高齢化社会の先進国たるこの国は、高齢者マネーを活用しつつ、速やかに負担と福祉のあり方を示し、その方向に舵を切らなければ、高齢者マネーはドンドンと闇市場へ吸い込まれてしまう事でしょう。

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2015年5月12日 (火)

2697 止め時(辞め時)2

2695ではISSの止め時について書きましたが、ここでは企業について考えてみます。家電大手のS社が、資本金を中小企業並みに減らして存続を図ろうとしていると報道されています。はてさて、この様な状況をどう考えるべきなのでしょうか。この企業の歴史を熟知している訳ではありませんが、創業者は小さな町工場から出発させ、行動成長期の家電ブームに乗って業績を伸ばして、企業規模を拡大してきた筈です。一時期は、太陽光発電パネルの分野で、一定のシェアと技術的評価を受けていたと記憶していますが、この国の企業にありがちなパターンで、「技術で勝って、ビジネスで負け」続けた結果、多額の赤字を垂れ流してきたものと想像しています。

この企業に限らず、およそ企業や組織というものは、常にその設立の目的に照らしながら、その規模や活動の中身をチェックし続けなければならないと思っています。目的から規模や活動が、逸脱してきたのであれば、その目的が正しかったのかを総括するか、あるいは規模や活動内容の軌道修正が必要となる筈です。然るに、創業者ではない「サラリーマン経営者」は、自分に課された数年の任期を「無事」勤め上げる事に固執するあまり、思い切った手が打てないものの様です。特に企業規模が大きくなるほどいわゆる「経営陣」の数も増えて、「船頭多くして、船山に・・・」状態に陥りがちにもなってしまいます。

その意味で、企業や組織に必要な事は、少なくとも年に1回くらいは、経営者を除外した上で、つまりは、次世代の経営者候補や第三者を加えた冷静な判断が出来るグループで、自らの組織の現状と行く末を吟味する場が必要だと思うのです。その結果、企業や組織の状況が、初期の目的から逸脱してしまったと判断された場合、対応策を速やかに現経営陣にモノ申すべきでしょう。その進言を一顧だにしない頑固な経営陣は、早晩その組織を窮地に落とし込む事になる事は自明です。企業を起こすのは、ねじり鉢巻きで、寝る間を惜しんで働けばどうにかなるのでしょうが、店を閉じるかあるいは規模縮小、更に言えば商売替えをするタイミングという言うものは、かなり難しいものなのでしょう。止め時や軌道修正のタイミングがズルズルと遅れれば、やがては法律(会社更生法?)のお世話にならざるを得ない事態に陥るのです。

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2015年5月11日 (月)

2696 カードか現金か

ここではモノを買ってしまってから支払うか、あるいはお金が溜まってから現金を握ってモノを買いに行くかの違いについてについて考えてみる事にします。堅実な人たちは、モノを買いたいと思った時には、先ずはお金を貯めて現金で買うことを選択する事でしょう。そうでなければ、どうにかして誰かから金を借りるなどして、お金を集める必要が出るからです。もちろん、いにしえの時代でも借金をすることも多くあった事でしょう。家族が病気になって、高価な薬を手に入れなければならなくなった場合などに、いわゆる証文を書いて、金貸しから高い利子のお金を借りたことでしょう。現代ならば、クレジットカードを使えば、買い物の時に預金残高が少なくなっていても、給料日に給料が振り込まれる事を前提に、残高以上の金額の買い物も出来てしまいます。

ここで、お金の使い方を取り上げたのは、これがそのままエネルギー問題にも直結するからです。つまり、エネルギーを貯めてから使うのか、過去の蓄積から借りて使うのかを、私たちは真面目に選択しなければならないと思うからです。前者は容易に理解できるとしても、後者はどうなんでしょう。化石燃料は、間違いなく地質時代の生物活動の結果の蓄積されたものですが、それを掘り出して地上に持ってきて使う事により、そこに売り買いのためのお金が発生する事になります。地下資源を掘れば掘るほど、地上に流通するお金の絶対額は増加しますので、結果としてはお金を発明した人間自身も、それを制御できなくなると言う順序になります。つまリ借金をすればする程、経済活動に関わるお金は、際限なく増やせるという事に気付きます。これは、私たちの経済システムがますます巨大化し、制御不能となると言う弊害も呼び込む事も意味します。また、過去の蓄積としての化石エネルギーを使い続けるとした場合、私たちはその代償として別の利息を払い続けなければならないでしょう。温暖化やPM2.5などの環境悪化問題です。

しかし、もしエネルギーを自らの努力で貯めてから使うか、あるいは風や太陽光や水流の様に、今流れているものを逐次使うとするならば、私たちは「持続可能性」を確実に手に出来る事になるでしょう。夜に電気を使いたいのであれば、先ずは太陽光で発電した電力をバッテリーやフライホィールに蓄えて置く必要があるでしょうし、冬に暖房をしたいのであれば、夏の間に薪などの燃料を集めて、ストックしておく必要もあるでしょう。夏は化石燃料を使った電力でギンギンに冷房し、冬は同じく化石燃料である石油やガスを使って快適に暖房をすると言う現代の生活スタイルは、高度成長期後のホンの短期間のラッキーに過ぎません。こんな借金まみれの「カード生活=キリギリス生活」を楽しんでいると、やがて来る「冬の時代」には、私たちの子孫はさぞかし苦労する事になるのでないかと、心から危惧しています。

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2015年5月10日 (日)

2695 止め時(辞め時)

新たな何人目かの日の丸アストロノーツが宇宙ステーション(ISS)に送り込まれるとか。相変わらず、いくつかの無重力実験とロボットアームを使って何かを動かすのがミッションだとか。何時までこんな国費の「無駄使い」を続けるつもりなのか、大きな疑問を投げかけざるを得ません。これまでの無重力実験で、この国の産業の発展に資する何らかの成果が得られたのでしょうか、100歩譲って、物理・科学の分野でも良いのですが、何かめぼしい知見が得られたのでしょうか。

この国にも宇宙開発を進める組織があり、宇宙飛行士を公募して採用し、今年度も一定額の予算が確保できたと言う言う理由だけで、ズルズルとISSを維持するのはいかがなものでしょうか。一度でも宇宙に飛んだ飛行士は、国費を使ったミッション後の「義務」として、一生市民や子供達に向けて、宇宙(開発)の素晴らしさを説いて回らなければならないでしょう。子供には、アストロノーツこそが素晴らしい未来の職業であると刷り込み、大人に対しては宇宙開発予算の妥当性を認めて貰うために、ミッション成果に関する宣伝や講演を繰り返さなければなりません。ある意味で彼らは可哀そうな状況で残りの人生を過ごさなければならないのです。膨大な国費を使い続ける宇宙ステーションのプログラムに対して、誰も批判めいた事を言わないのは、一体どうした訳でしょう。

初期の目的を達成したのであれば、速やかに組織を解散し、ISSを空き家にしては、と思うのです。もし今後ともISSを活用したいのであれば、生身の宇宙飛行士ではなくロボットを送るべきでしょう。ロボットなら、電力が供給されている限り動き続ける事が出来るでしょうし、今の時代のロボットであれば,人が出来る実権なら殆どこなせるはずです。ロボットなら、何度も送り迎えする必要はありません。生命維持装置が不要ですし、もちろん飯も食わないし、排せつもしないのです。地上からは超ハイビジョン映像によって、さながら宇宙に居る様にリアルな画像を見ながら操縦が出来る筈です。なにか、宇宙飛行士の命に関わる事故でも起こさない限り、無重力環境というだけで、高々数百キロの空間に浮かぶISSにヒトを送る続けるつもりなのでしょうか。なにかコトを始めるのはお金と勢いがあれば比較的簡単ですが、多くの場合「いざそれを止めるのは難しい」ものの様です。

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2015年5月 9日 (土)

2694 平和のための戦争?

今国会で論議されている安保法制で、賛否が分かれているのは、世界的に見ても特殊とも言える戦争を放棄した、憲法(9条)の意味の見方が分かれているためだと整理する事が出来そうです。国際紛争解決の手段としての武力行使を、「永久に放棄」した筈の国が、またぞろ「限定的ながら」武力を行使できる国になると言うのですから、国内外の世論も紛糾する事になります。つまり、元々武力としての軍隊を持たないで、(正当)防衛に徹するとしてきた平和主義の姿勢を評価する意見と、そうではなく平和を守るためには武力の行使も(たとえ限定的な後方支援であっても)出来る、という立場には、雲泥程の開きがある訳です。

よく言われる国際関係の表現に「戦争は外交の失敗によって始まる」がありますが、安保法制、憲法改正うんぬんと叫んでいる集団は、外交努力を棚上げしておいて、先ずは戦争の備えを固めよ、という内向きの考えに凝り固まっていると断ずるしかないでしょう。これに対しては、投稿者も含めて、平和のためには戦争も辞さないと言う主張への違和感が、どうしてもぬぐい切れない人も多いのです。戦争を起こさない最良の方法は、最低のコストで済む外交努力しかない事は論を待たないでしょう。

その努力を惜しんで、軍備に税金をつぎ込に憲法を変えようとする今のリーダーを支持する事は、多くの心ある人々にとって到底出来ない相談なのでしょう。拉致という卑劣な手段で多くの人質を取ったあの国からの帰還や、前の戦争で痛めつけられた事を深く根に持っていると言う姿勢を絶対崩そうとしない2つの隣国、あるいは北方領土と呼ばれる北の島々の境界線引きの交渉も、今もままでは何も進まない事は明白です。今のリーダーが、歴史にどの様に名前を残そうとしているのかは想像するしかありませんが、このままでは平和のために戦争が出来る様に憲法(解釈)を変えた宰相」というレッテルと、「戦争も出来る平和国家」というどうにも割り切れない国のあり様を残すことになりそうです。それは、まさに悲しむべき状況だと言うしかないでしょう。

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2015年5月 8日 (金)

2693 400ppm時代

Ghg


報道によれば、過去1年間の平均Co2濃度がついに400ppmを超えたとか。割と最近の数字としては380ppmとかが頭にあったのですが、短期間にあっさりと大台に乗ってしまった様です。気象庁のデータを見ると、CO2濃度のカーブはほぼ右肩上がりの直線となって上昇していて、一向にスピードが減速する気配もありません。考えてみなければならないのは、温暖化効果ガス(GHG)はCO2だけではないと言う事実です。悪玉と名指しされているのは、二酸化炭素 (CO2)の他、メタン (CH4)、亜酸化窒素(N2O、=一酸化二窒素)、ハイドロフルオロカーボン類 (HFCs)、パーフルオロカーボン類 (PFCs)、六フッ化硫黄 (SF6) 6種類があるのです。この中で、人為的な原因以外で自然界から多量に排出されるGHGとしてメタンに注目する必要があります。

人間の活動に関係するメタンの排出源としては、家畜のゲップに含まれるメタンがありますが、実は多くは湿地帯の沼地から、有機物の分解に伴ってボコボコと排出されるものなのです。そのことは、グラフのカーブが夏と冬で値が大きく上下している事実でも確認できます。北半球の夏はCO2の濃度が下がり、メタンは上昇するのです。特に、シベリアの広大な凍土地帯が、夏場は気温上昇に伴って湿地と化すことが大問題で、そこから発生するメタンで温暖化がさらに加速すると言う「悪循環」が起こるからです。悪い事に、メタンの温暖化係数は、CO2を1とした場合、その21倍も強力であるため、大気中の絶対濃度としてはCO2に比べて小さくても、結果としてその温暖化の加速に寄与率は非常に高くなるのです。下図で分かる様に、大気中のメタン濃度もやはりCO2同様、一本調子の右肩上がりになっています。いよいよ危機的ゾーンに突入しつつあります。

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2015年5月 7日 (木)

2692 計画とルール

企業の環境経営システムの審査に長く携わっていると、取組み期間が長くなって「要領」がつかめてくると、前年度の資料を使いまわして、新たな年度の計画を作る作戦を始めます。それが楽で、審査の際にもあまり突っ込まれないからです。しかし、そもそも計画とは何であったのかを改めて考えてみる必要があるでしょう。計画とは、目標を達成するための行動を定めたものである事は当然ですが、多くの計画書には、誰が何をやるかは書かれていても、多くの場合それを何時、どういったタイミングで、具体的にどの様に行うのかまでは記述されていません。

しかしながら、日常業務をやりながら、他に改めて「環境」のためだけに何か行動を起こすのは、さぞ骨が折れるし長続きもしないでしょう。何故なら、その年度の計画を頭に入れた上で、行動を起こすべきタイミングで、然るべきやり方で行動する事を求められるからです。従って、計画を作成し、それを実行し、更にシステムとして求められる記録を作成するのは、率直に言えば「ムダ」だと言えるでしょう。

その解決策は意外に簡単だと言っておきます。つまり、為すべき行動を「ルール化」してしまえば良い訳です。企業の場合、仕事は各種のルールに従って遂行される筈です。ルールに無い行動は、多くの場合都度上司からの指示を受ける必要があるでしょう。ルール化がしっかり行われてさえいれば、社員が行動に迷う事は少なくなる筈ではあります。

例えば、省エネルギーを達成するに当たって、総務係長が責任者になって、光熱エネルギーを毎年1%削減する目標を立て、それに従って、照明の入り切りや空調の温度調整に関しての行動計画を作ったとしましょう。しかし、毎日誰かがスイッチキーパーを引き受ける必要があり余分な仕事も増えます。

ルール化では、例えば照明で言えば、工場や事務所内の照度を計測し、作業に役に立っていない照明器具を見つけ、それを間引くと言うルールを決めさえすれば良いのです。100個中のたった1個を間引くだけで、1%の省エネは即時達成できる事になります。同様に空調でも、部屋の温度分布を細かく計測し、温度設定より涼しいエリアと逆に暑いエリアを特定し、それに対しての対策ルールを施せば、冷房の設定温度を上げても快適さは維持できる事になります。遮熱や風向や風量を再度見直して、一度だけ改善を行えば、細かい省エネ計画や標語などは不要になるでしょう。必要なのは形だけの計画などではなく、日々の行動ルールなのです。

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2015年5月 6日 (水)

2691 複眼視

現代社会は、個人の能力をはるかに超えて複雑化してしまった様に見えます。例えば、原発一つを取ってみても、そのシステムの全体を把握するのは、仮に一人のスーパーエンジニアが居たとしてもその手には余る事でしょう。何故なら、そのシステムには、単に核分裂を扱う電子物理学や関連工学のみならず、材料の劣化を扱う分野、あるいは応力サイクルや熱サイクルに伴う金属疲労、更には電気化学的、あるいはキャビテーション・エロージョンなどによる齲蝕現象、あるいはソフトウエア的なエラー、ヒューマンエラーなどのエラー学などなど、正常な稼働を妨げる種々の科学的・工学的な劣化(トラブル)現象を熟知している必要があるからです。

単に、劣化現象を広く、浅く理解しているだけでは全く不十分です。実のところ、それらの劣化現象が引き起こすであろう、実際に破損したモノや事故現場も目撃している事が望ましいのです。とは言いながら、例えば、今回の福一事故の様な原発事故が再々起こっては、ならないでしょうし、二度と起こしてもならないでしょう。スリーマイルやチェルノブイリでも放射能漏れ事故やメルトダウン事故を起こしてはいますが、炉の構造や原因を眺めてみると、それぞれ大きく異なっている事が分かります。

結局、システムなり生じた事象を複眼視しておいて、全体の概観の中で異常を察知した上で、その原因特定のために専門分野の知識を動員すると言う順番で、事を進めなければならないのです。直接的な異常を示したサブシステムや、個別の事象だけに注目してしまうと、真の原因を見逃してしまう可能性が大となってしまうでしょう。福一の場合は、確かに電源喪失が事故の直接のトリガーを引いた訳ですが、その根底には、津波やそれに伴って起こる浸水事故の想定が全くなされておらず、したがってモーターや電気回路が建屋の地下に納められていた事、また電源が喪失した場合でも高い場所に設置したデーゼル発電機によるバックアップ、更に電源が全く失われた場合でも、炉内に残っている蒸気を使って駆動するタービンポンプなどを備えていれば、メルトダウン(メルトスルー)などという、技術屋としては恥ずべき大事故は回避された筈なのです。このシステムを設計した技術者集団には、明らかに複眼視能力が欠けていたと断ずるしかないでしょう。あと知恵でも良いので、国や電力会社が再稼働を急いでいるいくつかの原発に対しては、可能な限り立場の異なる人たちが、その安全性を複眼的に再点検する必要があります。

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2015年5月 5日 (火)

2690 ヴジャデ?

見なれない新語の様にも見えますが、実はお馴染みの言葉をひっくり返しただけの言葉です。ある本の中で見つけ、強くココロに引っかかった言葉でもあります。元の言葉は「デジャヴ」となりますが、デジャブとは、敢えて日本語に直すとすれば「既視感」とでもなるのでしょうが、ここではそれを敢えて反転させて考えてみる事を提案したいのです。

一度も見た筈はない景色や状況なのに、何故かかつて見たような気がする不思議な感覚がデジャヴですが、ではヴジャデとはどの様な感覚を指すのでしょうか。それは、何度も何度見ている、それこそ見慣れた景色や人や状況を、「さも初めて見た様に捉え直す事」を意味します。これは実は努力しなくても多分普通の人は感じた経験がある筈です。少なくとも投稿者は、何度か経験しました。一つは人の顔です、何度も会っていて良く見知ってる筈の人の顔を、改めてマジマジと眺めて見ると、何故か初めて会った人に抱く「落ち着かない感じを持つ事」があります。また例えば、長期の出張から帰って、会社や自分の事務所の座り慣れた席に戻った時、やはり似た様な感覚に陥った記憶もあります。

もちろん、「脳のある部分」のトラブルが原因で、記憶が保持出来ない不幸な人も少数は存在し、その人達は日々、あるいは瞬間瞬間ヴジャデを感じている訳ですが、さぞ落ち着かない心持で暮らしているだろうと同情してしまいます。とは言うもののそれは例外で、逆にヴジャデ意識して感ずる事が出来れば、理想的な観察者になれるのでしょうが、それはなかなか難しい話である事も事実です。記憶はある意味では、自分の認識(思い込み)の固定であり、主には二度と同じ失敗や痛い目を避けるための脳の仕組みであり、それを敢えて封印する事は難しいワザだとも言えます。しかし、作家や著術家がその作品世界の中で作り出している様に、種々の資料を参照し、今起きている事象や人物や企業などを浮かび上がらせれば、もしかするとこれまで見てこなかった「新たな面」を発見できる可能性は大きいでしょう。投稿者としても、今後是非このヴジャデ力を意識して行こうとは考えてはいますが、はてさて・・・。

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2015年5月 4日 (月)

2689 目的と手段

自宅のある岐阜や愛知で色々ありまして、やっと秋田に戻り、今日からブログ再開です。さて、これも繰り返しになるかも知れませんが、このブログでは、科学も技術もあくまで人類を幸福にするための「手段」ではあっても、それ自体が「目的」ではない事を何度も強調してきました。同じ意味で、経済活動も同様に手段でしかあり得ません。科学や技術が、あるいは経済規模が年々歳々肥大化し、巨大化を続けた結果、もはやそれがそれを作った私たちの正常な制御能力を超えて、いわばモンスター化してしまった事を認識する必要があるでしょう。

例えば巨大な化学プラントを考えてみます。ある化学製品やそれと関連する製品や中間材料を製造するための巨大な「化学コンビナート」がいくつも建設されました。その中では、あるプロセスから出てくる中間物質は、隣のプラントの原料になります。それらは、相互に関連し合いながら、原料である石油や天然ガスから多種類、多量の化学製品がアウトプットされる訳です。しかし、初期にプラントを設計した技術者や立ち上げに関わったオペレータは、構造やトラブル回避に精通していた筈ですが、代替わりを繰り返すうちに単に操作方法だけが後任の「オペレータ」に伝えられるだけになるでしょう。オペレータは、プラントのファクターを調整する方法(手段)は知っていますが、そのプタントが建設されたそもそもの目的や背景に関しては、たぶん伝授されていませんので、プラントを構成する個々の装置の設計思想も知りませんし、構造に関しても取扱い説明書に載っている大まかな構造図くらいしか見る機会は無いでしょう。

不味い事に、置き場所を占める詳細な工事図面や承認図などは、書庫整理などのタイミングで処分されてしまう事も珍しくは無いでしょう。近年、高度成長期に大量に建設されたプラントや公共インフラが、修理や大改修のタイミングを迎えていますが、既に詳細図が処分されてしまっていて、例えばコンクリート建造物では鉄筋の位置などが分からず、機械装置でも初期の正確な寸法が判然とせず、補修のし様も無いケースが増えているのです。既存のプラントやインフラではあっても、目的を完了したものに関しては、バッサリと解体してしまうことも必要で、今後計画的に進めていく必要もあるでしょう。目的に立ち返って吟味をしない事には、今目の前にある科学・技術や経済システムなどの「幸福追求手段」もその旗印を見失う結果に陥り、既に兆候を顕著にし始めている様に、カオス(混沌)の原因となってしまうでのでしょう。

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