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2015年7月20日 (月)

2760 境界2

Y老孟司がよく引き合いに出す境界は、生と死の境でしょうか。人が死んで、やがて微生物や鳥や獣に「分解」され、最後はシャレコウベになっていく姿を描いた、江戸時代の画を、何度か著書で引き合いに出しています。確かに死ぬまでは人は息をし、考え、代謝をしていた訳ですが、ある瞬間から息をする事を止め、心臓が止まり、体温を失うにつれて硬直が始まります。やがて、細胞が持つ自己分解酵素が働き、あるいは体の内部、あるいは外部から種々のバクテリアが蠢いて、身体を自然に返そうと活発に働きます。通常、私たちはそこまで見届ける事はしないで、埋葬したり荼毘にふす事になります。

生きている状態と、死んだ状態には、何かしら明確な線が引ける様な気もしますが、細胞レベルで見ると実は、連続的な変化であるとも言えそうです。そもそも、生きているとはどういう状態を指すのか、時々疑問を感じざるを得ないのです。意識がある状態を生きているというなら、では意識の無いこん睡状態は死なのか、あるいは脳死状態は果たして本当の死なのか、考えれば考えるほど悩ましくなるでしょう。

2759の続きとして考えるなら、生と死の境界とは、目線を引いた状態で観察し、「どうやらもう生きてはいない様だ」と、多くの人たちが「納得」した時だと言うしかなさそうです。しかし、脳死の問題があり、一方では受精した卵が分裂して、やがて体の器官や脳が作られ、ある時点で脳波が発生して、意識のの様なものが生まれた時が人間としての始まりなら、私たちの一生は、少し前の人たちが考えていた、誕生から心臓が停止するまで、と言った死生観とはかなりずれてきているとしか言えないのです。それが、いわゆる科学や医学の進歩の結果だとすれば、やはり死生感を含む境界線(ボーダー)などというものは、時代背景や人々の価値観にも大きく左右される、主観的でズサンなものだと言うしかなさそうです。

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