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2015年7月29日 (水)

2769 休稿

今晩から03日の弾丸旅行につき2日ほど休稿です。

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2768 穿った見方

穿った見方をすれば、今国会に法案を出した与党にとって、安保法制議案の行方などは実はどうでも良いのだろうと疑わざるを得ません。どうせ、数の上では優位なのだし、これ以上「水かけ論に等しい議論」を重ねようが、仕方なく60日待とうが、可決は目に見えていますから・・・。与党にとって、もっと重要な事は、国民にあまり注目して貰いたくない問題から、兎にも角にも目を逸らしたいのだろう、想像しています。

最も注目して欲しくない話題とは、言わずもがなですが福一事故の作業の遅れや汚染水問題と、加えて休止中の原発の再稼働問題でしょう。これらは、福一では常に問題を孕みながら作業は遅々として進んでいない上、行方不明のデブリが引き起こすかも知れない更なる災害も、取り敢えずは忘れ去る事が出来るでしょう。クサいものには別の問題で蓋を、です。

また、安保法制に必死に取り組んでいる「フリ」をすれば、約束の1年が過ぎても全く進展の無い拉致問題にもまったく不熱心である事を、当面は追及されないで済むという打算もあるかも知れません。TPPだって、本当は国民(とりわけ農家が)あまり注目してないうちに、妥協を重ねてスンナリ合意を結んでしまいたい筈です。景気は、C国の経済悪化は、今のところそれほど酷くは飛び火していない様ですし、消費税10もなんとか2017年に先送りしたので、先行きは不透明とはいうものの、当面は成り行き任せで忙しいフリをして、放っておいても良さそうです。その他、新国立競技場にせよ、債務問題にせよ、この大幅延長国会でも「比較的に小さな問題」と位置付けられてしまった様です。

さて、このブログは環境ブログであり、マツリゴトをこき下ろす事を目的として書いては居ませんが、ラジオから流れてくる「衆院での議論と何ら変わらない」質疑とその中でのテープレコーダーを回している様な、失礼ながら滑舌も悪い答弁を聞きながら、イライラしてストレスが溜まってくるのを抑える事が出来ないので、仕方なくそれをここにぶつけて書いている次第です。悪しからず読み飛ばしてください。

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2015年7月28日 (火)

2767 前提(条件)

ある議論を進めるには、その議論のための一定の条件が必要でしょう。それを「前提条件」などと呼びますが、それは科学的な議論でも、政治論でも同じだと言えます。多くの科学的な議論は、実のところその時点まで積み上げられた、事実(らしきもの)または推論や仮説の上で行われます。つまり、「もし~が正しいとすれば、○○は××になる筈だ」、といった論法になるでしょう。従って、多くの研究者が正しい(と思った)論文などを発表し、それが新たな論文の前提となって議論や研究が前進する事になります。その意味で、ある課題に対して書かれた論文が、もっとも多く直接、または間接に他の論文に引用された場合、それがいわばもっとも事実に近い知見だと思うしかなさそうです。

さて、政治の世界です。この世界は、実は科学の様にはスッパリとは割り切れません。何故なら、それは人の集まりである社会(世間)の政(マツリゴト)であるからです。マツリゴトの前提は、決まり事(ルール)と権力でしょう。書いたものであれ、不文律であれ、ルールはそれ以前の権力によって定められたマツリゴトの前提と言えるでしょう。この国では、基本ルールとしての憲法というものが存在し、それぞれの運用面の細かいルールとして諸法律や諸法令があります。しかし、問題は基本的なルールであればあるほど、それが「抽象的」であるという点にあります。

抽象的なルールほど、その解釈は多様になるのは仕方がありません。従って、憲法にも「解釈」が入り込む余地が生まれる事にもなります。今の政権が、この事を利用してパンドラの箱を開けようと企んだのは間違いありません。その前提として、J衛隊がいわゆる憲法の狭いヘッジの上に成立しているという歴史的事実があります。そこにJ衛隊違憲(合憲)論があった訳です。この水掛け論は、時代の流れと共に一応の実績の上に、判決も出て収束している訳です。しかし、それ以上を「踏み越す」には、先のS川判決を把握しているにせよ、そうでないにせよ、再びこの議論の蒸し返しに火を着ける事は仕方がないところでしょう。つまりは、S川判決を前提とするにせよ、それ自体が玉虫色である限り、どちらの側にも前提とし得るのでしょう。やはり、ここでは改めて今度の法制案に対して新たな判決を仰ぐか、あるいは大前提である憲法そのものの修正に手を付けない限り、水掛け論は続く事になりそうです。

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2015年7月27日 (月)

2766 バイアス

バイアスまたは偏向は、2765にも書いたバランス感覚の欠如に起因する「思い込み」でもあります。聖徳太子は、同時に7人の話を聞く事が出来たとか。同時かどうかは別として、7人程度の話を聞けば、おおよその意見の偏差を把握する事は出来そうです。今のリーダーの背後には、7人の(内閣)参謀が居るそうですが、一つの分野にそれぞれ7人が居る訳ではもちろんありません。それぞれの「専門分野」と呼ばれるフィールドで、はっきりとした(つまりはバイアスの掛かった)知見なり意見をお持ちのかたがたお歴々という事になります。

つまり、時々の政権は、何らかのバイアス(時にはひどいバイアス)の掛かった政策を持って生まれ、ある期間継続する事になります。

このブログは、政権やリーダーを批判する事を目的とするものではなく、事実や考え方を可能な限り偏らないで伝えようとするものですので、ここでも過度に批判的な事は書きませんが、少なくとも政権のリーダーたる者、異なった意見に耳を貸すだけの度量は持ち合わせている必要があります。反対する意見に見舞われても、先ずは「なるほど」または、「確かにご意見は伺いました」とヤンワリ受けるべきでしょう。その上で、「ご意見は~の理由で承服しかねる点があります」と続けるのが議論というものです。然るに、今の国会でのやり取りはそれぞれが「一方通行」の議論のすれ違いのオンパレードです。質問書を答弁書を交互に「読みあっているだけ」の議論では当然の成り行きです。当然の事ながら、質問者と答弁者の真剣勝負を繰り返していたとしたなら、両者特に答弁側は、体力的に疲労困憊して倒れてしまう事でしょう。

そうであるなら、先ずは参謀同士で事前の争点整理をした上で、その争点だけを国会で煮詰めれば良いでしょう。何故、この法案は合憲なのか、あるいは違憲なのか、ダラダラと水掛け論を繰り替えし、論議に100時間掛けた、掛けないという論調にはウンザリです。毎晩徹夜でもして、代理人による朝まで議論をつくし、バイアスの無い意見としてまとめるべきでしょう。もし論理的で冷静な議論でも意見が集約できないのであれば、それは両論併記としてまとめるべきで、当然の事ながら最後は多数決になるのでしょうが、「水掛け論の末の強行採決」よりは数段マシでしょう。

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2015年7月26日 (日)

2765 リーダーシップ

さて、2764で「政策を憎んで人を憎まず」と書きましたが、それは必ずしも、今のリーダーの資質を肯定したものでは勿論ありません。リーダーに最も必要とされる資質は、多分「バランス感覚」ではないかと信じているからです。バランス感覚とは、右にも左にも、強い者にヘツラワズ、弱い者にも優しく接する豊かな感性が必要だと思うのです。その点から見ると、明らかに今のリーダーに及第点をつける事は出来なさそうなのです。

バランス感覚を持っているリーダーは、決して人々を力づくで引っ張って行こうなどとは考えません。そうではなくて、人々は優れたリーダーを信頼し、自らの意志で彼(彼女)について行こうと考えるものだからです。そんな抜きん出たリーダーは、無理やり決め事をしてしまってから、そのアリバイを作るために、結局分かりにくいたとえ話で説明しようなどとは考えず、決め事をするかなり前から、自分の理想とする政策を、種々の媒体を使って訴えるなど準備を怠らないでしょう。つまり、水路を掘ってから水(政策)を流そうと考える訳です。それも、ポンプ(数の論理)を使って無理やり流すのではなく、自然の落差を利用してゆっくり流そうと努力するでしょう。結局、政策などというものは、一代のリーダーで完結できるものは小さなモノだけで、大きな枠組み程、水路の地ならしに長い時間が掛かるものなのでしょう。

資質に欠けるリーダーは、これまでの様に次にその椅子を狙っている輩に、結局は追い落とされ、回転ドアの様に入れ替わるだけでしょう。一体、何時になったらこの国に、バランス感覚をもつ真のリーダーが現れるのでしょうか。それとも、百年待ってもそれは無理な相談なのでしょうか。日々現リーダーをこき下ろすSNSの書き込みを目にするたび、暗澹たる気持ちになるのは投稿者だけでしょうか。元々素質に欠けていたかも知れないリーダーの上げ足を取る前に、先ずはどんな社会をこの国の理想として掲げるか、そこのところの議論をネットを盛り上げてもらいたいのです。

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2015年7月25日 (土)

2764 ポジティブキャンペーン

何故かこの言葉が頭に浮かびました。もちろん、ネガティブキャンペーンという言葉は、選挙戦などでは耳にしますが、こんな言葉は殆ど使われません。つまり、相手の欠点をあげつらい、足を引っ張る事は、洋の東西を問わず広く行われている様なのですが、逆を行う事は殆ど無いという事の様なのです。逆とは、相手の優れている点を、可能な限り数えあげ、相手を持ち上げるという行為です。もちろん、「ホメ殺し」とか「褒めちぎり」いう言葉はあり、からかい半分という悪い意味で使われる事はあるのですが、純粋な意味で相手を褒め上げる行為は稀の様な気がします。

この言葉をどの様なコンテクストで思いついたかと言えば、やはり現代の世相をツラツラ考えている時でした。例えば、この国のリーダーの言動です。彼がどうにかして成し遂げたい政治的野心は理解できないし、理解しようとも思いませんが、審議中の法制が国民に理解されていない、と言ってはテレビで、決して分かり易いとは言えないたとえ話を、○○正直に説明するなど、ある意味涙ぐましい努力などを一々あげつらうのは簡単な話でしょうが、彼の優れている点を数えあげる論調は皆無です。

「罪を憎んで、人を憎まず」と言ったのは、ことわざだったのか、孔子の言葉だったのかは忘れましたが、やはり政策そのものを叩くのはフェアですが、言動の端々を捉えてあげつらうネガティブキャンペーンは抑制的であるべきでしょう。もちろん、風刺漫画家はそれが仕事なのですから仕方がありませんが、例えばSNS上での同様の行為は決して上品とは思えません。もし必要であれば、政策そのものを徹底的に論考し、論理的に打ち負かせば良いのです。それがフェアというものでしょう。必要なら、問題になっている政策より優れているものがあるのなら、そのポジティブキャンペーンを打てば良いだけなのです。

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2015年7月22日 (水)

2763 休稿

小旅行のため2回ほど休稿です。

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2762 経済症候群

何やら飛行機に乗った時のエコノミー症候群に似た言葉ですが、ここでは純粋に経済界に起こった(起こる)種々の病巣を指す事としましょう。ここしばらくの経済界の話題と言えば、例えばT芝の粉飾決算でしょうか。彼の老舗企業では、期別の利益が目標通りに適正である事を示すために、長年に亘って利益を付け替えて損失を先送りするなどの「押し込み」と呼ばれる手法が駆使されてきた様です。これは、金融界での「飛ばし」などを連想させるものです。

経済活動の「目的」は、適正な利潤を得て、企業や経済活動を持続可能な形で維持すること、などとなるのでしょうが、そのためには「手段」も適正でなければならないでしょう。人間でも健康を維持するために、適正な食事や運動、睡眠が同時に実行する事が必要ですが、病気になっているのに顔色を良く見せるために、顔に化粧だけを施す人は居ないでしょう。顔色が、明るく、血色が良さそうに繕ったとしても、体の中の病気は直せないでしょう。いくら、切羽詰まっても、企業業績を回復させる方法は、真摯にビジネスに向き合い、それまで以上に努力を重ねるしかないのです。

経済症候群は、物事を経済指標(お金という数字)だけで割り切ろうとする時に発症するのでしょう。それは、体重という数字だけでその人の健康度を判断する愚行にも似ています。無理なダイエットをしていたり、バカ食いをしていたりすれば、体重はそれなりの指標になり得ますが、それだけでは足りないでしょう。血圧や脈拍、血液検査やCTスキャンなど、立体的な診断によってのみ、真の健康度を「ある程度」知る事が出来るのです。ある程度と断ったのは、それに加えて本人がどれほど日常的に健康に気を配って努力を重ねているかを示す、何らかの指標も必要だからです。経済症候群に陥らないためには、やはり地道な企業努力に勝るアプローチは、他に無さそうなのです。

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2015年7月21日 (火)

2761 旱魃

東南アジアやインドでは、近年まれに見る旱魃被害が広がっているとか。その原因は、エルニーニョだと言われていますが、ではそもそもそのエルニーニョはどうして発生し、長く続くのでしょうか。エルニーニョは、赤道風(東から西に向かって吹く風)が極端に弱まった時に、ペルー沖の湧昇流が弱まり、結果として海表面温度が平年より数℃上昇してしまう現象です。ペルー沖の水温上昇は、逆に太平洋の反対側やインド洋では、相対的は水温下降をもたらし、海洋から影響を受ける地域の旱魃を引き起こすと言った機序になります。

ではなぜ、赤道風が弱まるかですが、赤道風は偏西風の逆向きに吹く風なのですが、当然の事ながら全球規模で眺めれば、両者は相互に影響し合ってる筈です。偏西風は、極気団から吹き出す風が、地球の自転によって生ずる力(コリオリの力)によって、気団の縁を回る様に流れるものですが、立体的に見れば、この風を補うような逆向きの風を生む事になります。これが赤道風ですが、投稿者が見るにどうやら偏西風が弱まった時に、赤道風も止んでしまう様なのです。

偏西風(ジェット気流)が弱まる原因は、極地方における温暖化です。とりわけ、北極の温暖化は深刻で、夏季には北極海の氷が解けて、船舶の航行が出来るまでになっています。氷(浮氷)が解けると、表面の反射率(アルベド)が低下し、夏季に太陽熱が海水に蓄積され、温暖化がさらに加速する悪循環に陥るのです。極地域の気温が上昇すると、極気団も弱まり、結果としてジェット気流も弱まる事になります。実のところ、エルニーニョが長期間(時には数年)に亘って持続するメカニズムは明確になっている訳ではありません。気候変動には、短期、中期、長期の「振動現象」が伴うからです。その振動には、単に地質学的な影響だけではなく、大気や海洋の循環、さらに言えば生物の活動レベルまで関与していると言われ、複雑過ぎて単に一学問分野の知見だけでは解明できない現象だと言えそうです。

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2015年7月20日 (月)

2760 境界2

Y老孟司がよく引き合いに出す境界は、生と死の境でしょうか。人が死んで、やがて微生物や鳥や獣に「分解」され、最後はシャレコウベになっていく姿を描いた、江戸時代の画を、何度か著書で引き合いに出しています。確かに死ぬまでは人は息をし、考え、代謝をしていた訳ですが、ある瞬間から息をする事を止め、心臓が止まり、体温を失うにつれて硬直が始まります。やがて、細胞が持つ自己分解酵素が働き、あるいは体の内部、あるいは外部から種々のバクテリアが蠢いて、身体を自然に返そうと活発に働きます。通常、私たちはそこまで見届ける事はしないで、埋葬したり荼毘にふす事になります。

生きている状態と、死んだ状態には、何かしら明確な線が引ける様な気もしますが、細胞レベルで見ると実は、連続的な変化であるとも言えそうです。そもそも、生きているとはどういう状態を指すのか、時々疑問を感じざるを得ないのです。意識がある状態を生きているというなら、では意識の無いこん睡状態は死なのか、あるいは脳死状態は果たして本当の死なのか、考えれば考えるほど悩ましくなるでしょう。

2759の続きとして考えるなら、生と死の境界とは、目線を引いた状態で観察し、「どうやらもう生きてはいない様だ」と、多くの人たちが「納得」した時だと言うしかなさそうです。しかし、脳死の問題があり、一方では受精した卵が分裂して、やがて体の器官や脳が作られ、ある時点で脳波が発生して、意識のの様なものが生まれた時が人間としての始まりなら、私たちの一生は、少し前の人たちが考えていた、誕生から心臓が停止するまで、と言った死生観とはかなりずれてきているとしか言えないのです。それが、いわゆる科学や医学の進歩の結果だとすれば、やはり死生感を含む境界線(ボーダー)などというものは、時代背景や人々の価値観にも大きく左右される、主観的でズサンなものだと言うしかなさそうです。

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2015年7月19日 (日)

2759 境界

最近読んだ本の主題は「境界」でした。つまり、この本は物事や生命や社会の成り立ちに、一体境界という一線が引けるものだろうか、という疑問を提起し、決してそうではないという論を展開しているものです。著者は生命の誕生から説き起こします。生命の始まりでは、たった一つの受精卵が、細胞分割を始める訳ですがその際、各細胞内には全く同じDNAを抱えている筈なのに、ある細胞は分化して心臓になり、別の細胞は頭(脳)に、更に別の細胞は造骨細胞などに機能分化していく訳です。その過程で、心臓細胞と脳細胞の間に明確な線が引ける筈もないでしょう。何故なら、心臓細胞はもし適当なきっかけさえ整えば、脳細胞になったかも知れないからです。

結局、私たちが目や鼻や口と名前を付けて区別している体の部分や臓器には、その出発点がたった一つの細胞から出発した事を考えても、明確な線が引ける筈もないのです。

さて、社会や国ではどうでしょう。私たちは、自治体や国の境に、県境や国境という線を引き、境の内外を明確に区別しようと努力はしますが、例えばそのボーダー付近に棲む動物や植物にとって、境界が見える訳がありません。大気は連続しており、気候もグラデーションは生まれるのでしょうがやはり境はありません。国についても、それぞれの国が政府という形を作り、そこに住む人たちを「国民」として位置づけ、憲法や法律を整備して、国としての引力を維持しようとする訳です。この国は、幸か不幸か周りを海に囲まれた島国で、境界がはっきりしている様にも見えますが、それでも海上の境界線を巡って、隣国との鞘当を余儀なくされています。

国の内部にもかなりの分野で境界が作られている様にも見えますが、それは境界を見る側が、あるフィルターを通してみる時初めて見えてくるのであって、実際に国や社会となどというものは、地政学的にも、文化的にも限りなく繋がる「連続」だとこの本は説くのです。今この国の政治は、J民と非J民の間に境界がある様にも見えますが、それは今この国リーダーが進めようとしている政策というフィルターを通して見えてくる境界であり、別の命題を持ち出せば、一枚岩の様に見える最大与党でさえ、真っ二つに割れるかも知れません。境界はアプリオリに「そこにある」のではなく、「そこに見る」あるいは「そこに作り出す」ものだと言えそうです。面白いテーマなので多分続きます。

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2015年7月18日 (土)

2758 三すくみ

やや大きなテーマです。いわゆる世界の三大宗教の歴史を眺めると、不思議で興味深いものがあります。三大宗教とは、言わずもがなですが、生まれた順番に、Jダヤ教、Cリスト教、それにIスラム教です。これらは、元々は同じ神様、同じ聖地を共有していた兄弟宗教だったにも関わらず、過去にも現代でも血で血を洗う抗争や確執を続けている事になります。

微妙な問題ですが、投稿者の理解を少し書いてみます。三すくみの状態とは、例えばジャンケンの様に、お互いに勝ち負けが循環し、勝負が決まらない事を指しますが、宗教問題ではやや事情が異なる様なのです。カソリック系であれ、プロテスタント系であれCリスト教はJダヤ教にどうやら弱みを持っている様に見えます。IスラエルへのB国の弱腰がその例となりそうです。Jダヤ人は、歴史的に苦難の道を歩んできましたが、その中で他の民族が嫌がる仕事(例えば金貸し)やあるいは子弟を社会で尊敬を受ける職業に就ける努力を重ね、西欧社会でその地位を確立してきたと言えそうです。政治の社会でも、いわゆるロビイストが影響力をふるっているのです。

一方で、Cリスト教は、特にプロテスタント系はその柔軟性故に、西欧社会では経済力や軍事力を拡充し、パワーで世界全体を把握してきた様に見えます。しかしながら、とういか残念ながら、教会の力が強すぎるカソリック系の国々は、どういう訳か経済的なパワーを握る事は出来ず、土地らかと言えば西欧社会では、落ちこぼれ組になっている様にも見えます。

さて、Iスラム教です。元々、他の2つと同じ根を持つ宗教だった訳ですが、6世紀に現れたカリスマ預言者によって、飛び抜けてストイックな宗教になり、そうでありながら他の宗教に関しては比較的寛容だったのですが、その後の後継者問題に端を発する宗派対立が、現代まで尾を引いている形です。歴史の中で、これらの国には幸か不幸か石油資源が偏在して産出し、それを利用しようとする西欧社会との不平等な取引や戦後中東におけるIスラエルの建国問題により、結果としては西欧諸国との確執を深めていったのでしょう。もし世界が、Iスラム>Jダヤ>Cリスト>Iスラムという完全な三すくみ状態にでもなれば、世界情勢は安定しそうなのですが、残念ながら現状はIスラムvsJダヤ>Cリストという対立の構図になっている上、Iスラムの中での抗争や過激な組織が、世界をカオスに投げ込んでいる様に見えるのです。結局、広い意味では現代社会の混乱は、三大宗教の広い意味での宗派対立だと言えそうなのです。しかし、そうは分かっていても簡単には解決できないのが、人間のサガというものでしょうか。投稿者の能力を超えるので、本テーマにこれ以上の突っ込みはしないことにします。

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2015年7月17日 (金)

2757 効率なんて

現代社会では、科学技術の分野であれ、ビジネスであれとかく「効率優先主義」が幅を利かせています。企業の利益率がどうだとか、太陽光発電パネルの効率が20%を超えたとか、インプットに対して、アウトプットの比率が高い事が価値があるとされている訳です。しかし、考えてみれば効率などいう数字はは、ある前提条件を決めた上で初めて定まるものであり、なにか「絶対的効率」などというものが存在する訳ではないと思うのです。

例えば、企業の効率の指標である利益率だって、顧客や従業員への還元を最優先で考えるなら、低くならざるを得ないでしょう。それらを削って、無理やり利益に数字をもっていけば、当然の事ながら利益率は高く設定できる事になります。つまり、経営者が彼が転がす企業の利益率が高いと胸を張るなら、それはその企業が顧客や従業員の犠牲の上に立っているという事の裏返しになると言えるのです。

また太陽光発電パネルの効率が高い事を、あるメーカーが自慢したとしましょう。効率を上げるためには、例えばセルに使われるシリコンの純度を上げたり、モジュールの内部抵抗を減らすなどの対策が必要であり、それを作るためのエネルギーや手間が余分に掛かり、コストも上昇する筈なのです。もし、効率の低いモジュールと、効率の高い優れたモジュールを同じ面積に設置するなら、当然後者の方の発電量は高いでしょう。しかし、たとえ効率は低くても少し広い面積に設置すれば、発電量は同じだけ確保できるでしょう。モジュールの寿命が尽きるまでの総発電量を、コストで割り単価当たりの発電量と言う「効率」指標を持ち込むなら、効率は低くても丈夫で寿命が長いモジュールに軍配が上がる事になります。効率が高くても、故障が多かったり、寿命が短かったりするなら、見かけの「変換効率」には意味が無くなることになるでしょう。全ての効率という数字は、十分に長い期間のレンジで眺めた上で、前提条件とセットで考える事が必須です。たぶん続きます。

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2015年7月16日 (木)

2756 ドロドロのお金

お金とは本来日々の取引や買い物において、物々交換の煩わしさを無くすために発明された便法であった筈です。しかし、そのお金がデジタルになって、しかも取られる側が意識しないままに、例えば買い物時に取られ、給料をもらうたびに吸い上げられ、あるいは車に乗るたび、お酒を飲むたびに取られ、銀行あるいは「国庫」に入った瞬間、お金の性質はガラッと変わってしまう訳です。ガラッとという意味は、粘性がぐっと上がって流動性が極端に悪くなるのです。

毎日の様に動くお金は、サラサラ流れるお金です。日用品や食料を買うためにお金を払い、そのお金は商店の仕入れに使われ問屋に流れます。問屋からメーカーに支払われ、それは工場の原料仕入れにも使われます。想像するに、お金は数か月から半年程度のサイクルでグルグル社会を回る事になります。この様に、流動性の高いお金は、現代の社会では信じられないくらい少ないものと想像できます。

しかし、ドロドロのお金は、量も性質もサラサラのお金とは「次元」が異なります。何処かで知らないうちに集められ、知らないうちに電子化され、知らないうちに銀行や「国庫」とか呼ばれる金庫の闇の中に吸い込まれます。お金に色はついていませんので、これらのお金は、本来の流動性通貨とは違う目的に使われる訳です。つまりは、債権を買い増したり、借金を返すために数字が操作されたり、あるいは投資と言う名の「投機」に使われたりするのです。それらは見かけ上は、世間からは見えない(ドロドロの闇の)お金となって、株価や債券や為替市場で暴れる事になるのでしょう。私たちは、一体何をしているんでしょう。何のために税金を払い、各種の保険料を払い、銀行に預金をしているのでしょうか。残念ながら、現状の暴れる市場や、国の債権や、その他のドロドロの闇のお金は、結局私たち自身が加担して増やしてしまったと言うしかないのです。

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2015年7月15日 (水)

2755 ゼロサム社会

人口が頭打ちになり、実質の経済成長が止まった、あるいはやや下降を始めた社会において、どこかの企業が成長を続けると言う事は、他の企業の売り上げが落ちるという事を意味します。つまり、社会全体でみるとGDPの合計は変らない状態を指すのです。それを「ゼロサムゲーム」とも呼びます。プラスマイナスゼロの社会です。

さて、お隣のC国ですが、種々の指標によるとこの国もそろそろ経済成長が止まりかけている国の一つになりかけている様なのです。一人っ子政策の結果、2000年を超える頃から、明らかに人口増加にブレーキが掛かってきました。増加率でみるとマイナスの数字が出ているという事になります。しかも、同時に高齢化も進んできました。子供一人に、年老いた親が2人の重さが覆いかぶさってくる社会は、やはり活力レベルの低い社会と呼ぶしかありません。住宅産業や教育産業を始め、あらゆる産業も人口増加率の減速以上のスピードで減速を余儀なくされるでしょう。国連の予測でも、C国の人口は、結局14.5億程度でピークアウトを迎えるとされているのです。

C国政府が躍起になって裏で手を回して、株を買い支え、通貨を買い支えようが、その経済減速は止めようがないでしょう。C国は、全ての国民が経済成長の恩恵に浴する前に、既に経済の成熟期に入ってしまったという事なのでしょう。沿岸部に住む人たちは、金持ちになり海外旅行を楽しみ、爆買いを楽しんでいますが、内陸部の人たちは都市戸籍を得られないまま、出稼ぎで僅かばかりの経済の恩恵をすするだけで終わる事になるでしょう。ゼロサムゲームでは、欲を出した人は、誰かの犠牲の上に立つしかありません。その様な社会では、最大多数の人々の幸福を実現するには、皆がソコソコの満足度で我慢するしかないのでしょう。

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2015年7月14日 (火)

2754 2019年問題

2019年問題とは、住宅産業において話題となっている、この国の「世帯数がピークアウトする年」とそれに付随する諸問題を指します。世帯数が減ってきて何が問題かと言えば、何より住宅が売れなくなります。荒っぽい市場取引においては、5%程度の需要の増減が、例えば20-30%の価格変動を引き起こす、いわゆる価格のレバレージ現象が見られます。つまり、少し需要が減ると価格が大きく下落する結果を招き、継続的な「住宅不況」が到来するでしょう。同時に、不動産業界、住宅設備業界や融資を引き受ける金融業界にもその影響を強く受けると想像できます。

住宅産業はすそ野の非常に広い業界だと言えます。木材産業、家具産業、住宅機器産業、断熱材産業、コンクリート業界、家電機器業界、水道・ガス機器業界などなど、住宅建設は多くの産業に支えられています。その住宅が売れなくなる、あるいは価格が大きく下落する事態は、多くの産業を不況に巻き込む事になるのです。

更に、世帯数が減ると、空き家問題が加速するのも間違いないでしょう。優良な住宅も、そうでない住宅も大幅に余る事になります。アパートもドンドン空き家率が増えて、アパート経営者も頭が痛くなる事でしょう。はてさて何か良い知恵はないものでしょうか。人口が減り、世帯数が減り続ける社会であっても、何時かは安定させなくてはならないでしょう。そうでなければ、国自体の存続さえもままなりません。やがて安定するであろうその時期と、人口・世帯数を見越して、来たるべき時代のコミュニティを「設計」しなくてはならないでしょう。何処の地域にどの程度の人口や世帯数で、どの様なコミュニティを残して行くのかの設計です。最悪なパターンは、人口減と世帯数減の結果、虫が食いで穴だらけになった葉の様に、コミュニティがボロボロに崩壊する事でしょう。減るのは仕方がないにしても、残った人たちは住宅地とそうでない場所にメリハリ付けて、コンパクトに暮らさなければならないと思うのです。五輪で浮かれている場合ではないでしょう。

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2015年7月13日 (月)

2753 補助金頼み

投稿再開です。この国が、今後の国際社会で、どうふるまって、何で食っていくのかを考える時、持続型社会の形成に貢献する様な新たな産業を展開する事が不可欠でしょう。そんな中で、企業の姿勢を眺めていると、かなり大きな規模の企業でも、リスクを取る事を嫌って、補助金付きのプロジェクトを取りたがります。補助金付き事業は、確かにお金の管理は厳しいのでしょうが、見積書と領収書さえしっかり残して置けば、基本的には大きなリスクはありません。もし、開発要素が高い案件であるなら、それは「研究助成」という別枠の補助金もあるので、失敗しても技術的何度が高かったという、それらしい報告書を提出すれば叱られる事もありません。

しかし、他に先駆ける「新規性」と「進歩性」に加えて、リスクを取る覚悟が無ければ、ビジネスを立ち上げる事は出来ないでしょう。というのも、補助金の助成率が半分でも、1/3でもリスクはその分小さく出来るので、プロジェクト管理がつい甘くなりがちになるのです。その分、コストの見極めやひいてはビジネスで重要な利益率も確保しづらくなりますので、実際に市場に打って出ても失敗する可能性が高まるでしょう。

リスクを低くする方法はいくつかあるのでしょうが、規模を小さくするのも一方法です。つまり、ビジネスユニットのサイズを小さく抑えてスタートする方法です。プラントサイズを大きく構える場合、投資額も大きくなるでしょうし、失敗した時の損失もその分大きくなります。そうでなくて、ビジネスとして成立する最小サイズを見極めてそこから始めるのです。もしビジネスが軌道に乗る様であれば、その最小ユニットの数を増やせば良いのです。確かに、プラントの効率の面では、プラントサイズが大きい方が有利ですが、効率最適サイズのプラントを「部分負荷」で動かす時のロスは、想像以上に大きくなるのです。効率90%のプラントを半分の稼働率で動かすのと、効率70%の小型プラントをフルで動かすのでは、単位製品当たりの効率という点では、明らかに後者が有利なのです。この他にもリスクを下げる方法は考えられるでしょうし、企業は適正にリスクも取って、新たな市場に打って出る勇気が求められる時代だと言えるでしょう。

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2015年7月10日 (金)

2752 税金の使い方

本当に困った事になった国立競技場に限った話ではないのですが、税金の使い方が全く気に入りません。それというのも、「枠取り・単年度消化方式」という国費の使い方がなっていません。予算の枠を確保するため、各省庁は何でもかんでも予算書に詰め込みます。どうせ、予算の甘辛はかなりの程度判明していますら、それなりにカットされるでしょうし、その内の一部は大臣折衝で復活するのですから、そのストーリーも予め織り込んでおけば、次年度も自省庁の枠はしっかり確保できる訳です。

さてそれを使う段です。新年度になると実際に省庁に予算が配られますが、それを予算執行に落とすまでには、またひとしきりのお役所仕事がありますから、実際に予算が使われるまでには、数か月必要でしょう。10か月足らずの期間の中で、決まった額の予算を「消化」するために、予算を出す側も、受ける側も大急ぎでモノを買い、工事を行う事を余儀なくされる訳です。調達期間が長いモノや工事を伴う案件は、仕方がないので、フライングをするか、あるいは領収書や必要書類を、当該年度に入る様に画策するしかない訳です。

この税金消費のプラクティス(年度内清算主義)がある限り、この国に税金の無駄使いは無くならないでしょう。予算の消化は、年度内の変動要因で狂いがちですし、幸い順調に事業が進んで予算が余った場合でもそれを返す仕組みはあるにはあるのでしょうが、次年度の予算が削られる事をおそれる省庁は、無理やり「消化」してしまうのです。

予算消化には絶対に第三者の番人が必要でしょう。会計監査は行われますが、全て事後の話です。実際に予算を執行している段階で、それが適正に行われているかを監視する仕組みが必須です。オンブズマンなどというボランティア活動もありますが、それを法律上で義務付けるべきでしょう。これを「法定オンブズマン」と仮に呼んでおきましょう。会計に明るい人と、その事業内容に明るい人、技術的に詳しい人、市民活動が得意な人が、グループを組めば、予算が上手く使われているかはすぐ見通せるはずです。法定オンブズマンをパートタイム制にすれば、費用もそんなには掛からないでしょう。国立競技場の様な、巨大プロジェクトには、計画段階からオンブズマンを加えるべきでしょう。そうすれば、デザインコンペでの一部設計者の暴走を防げたはずなのです。今夜から旅行で2日ほど休稿です。

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2015年7月 9日 (木)

2751 メガ発電所など○○喰らえ

ここ秋田でも、メガソーラやメガ風車の設置がメジロ押しです。もちろん、風車では風況調査や設置認可、地元調整などの行事が多いので、着手している案件は数年前に計画がスタートしたものでしょう。一方、メガソーラはもっとスパンは短くできますが、両者とも「系統連携」という最後の難関を抱えている事は間違いありません。

しかし、考えてみればメガ発電所を作っておいて、電力の全てを売電しようなどという考え方がそもそも間違っています。何故なら、再エネは広く薄く分布しているエネルギーですから、大量に集めて、それを送電線を使って遠く離れた需要家に送るなどと無駄な仕組みを考えてはならないでしょう。必要なエネルギーを、小規模に必要な場所で作るべきなのです。もし、エネルギーの発生(発電)量に変動が大きく、質の悪いエネルギーに対しては、バッテリーなどで補って、安定化させて使えば良いでしょう。発電所から送電線に系統連系するのではなく、むしろエネルギーを地産地消し、個別の住宅や小規模な地域を「オフグリッド化」する方向を考える方向が望ましいでしょう。

今のリーダーが強く懸念している(と言っている)ホルムズ海峡の封鎖が起こっても、石油依存率が低くなれば、エネルギーの安全保障は安泰でしょう。地域にとってみれば、エネルギーの自給が出来ると言う事は、これまで地域外に支払っていた石油代やガス代が不要になり、そのお金を地域内の消費に回す事も出来るでしょう。中央の大手資本が設置し、FITを活用して利益のうまい汁を吸うだけのメガ発電所には、まさに「○○喰らえ」と言ってやりたいのです。

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2015年7月 8日 (水)

2750 気象振動

地球規模の気象現象には、短期、中期、長期の振動現象が知られています。短期とは文字通り1週間単位程度の、例えば三寒四温の様に、高気圧と低気圧が繰り返して通過する様な場合です。これはごく日常的な振動であり、農業などには好ましい振動と言えるでしょう。もう少し長いスパンで見ると、例えば極気団を取り巻くジェット気流の蛇行により、ある地域がその蛇行の山や谷にすっぽりと入ってしまうケースが考えられます。蛇行が移動して、山から谷に移動するには数か月掛かりますから、高温や低温傾向が数か月にわたる事も珍しくはありません。蛇行は、極気団が弱まった時に起こりやすい様ですので、温暖化傾向はこれに拍車を掛ける方向になりそうです。

もっと長い周期の振動は数年にまたがるもので、たとえばエルニーニョやラニーニャ現象の様に、海表面温度の長期にわたる偏在が、大きな地域で長期にわたるいわゆる「異常気象」が観測される事にもなります。今年もエルニーニョ傾向なので、梅雨前線の動きが異常です。投稿者が住む東北でも、入梅が発表されて以降も高圧帯に入っていて、好い天気が続いていますが、一方では日本列島の南岸では、低温多雨の傾向が続いている様です。

更に言えば、大規模な火山の爆発によって、数年単位で地球全体が冷涼化する場合もあります。歴史上に現れる数年にわたる過酷な冷害・飢饉はこの様な場合が多い筈です。加えて、太陽の活動レベル(例えば黒点の数や位置)の変化によるによる十数年周期の気象変動も報告されています。こう考えてみると、短期の気象変動は、地域限定的ですが、より長期の気象変動(振動)は広範囲に現れ、その影響も大きいと結論できそうです。

幸いにも、というか偶然にも、人為的なGHGの排出にも助けられ?、現在は例外的に温暖で、気象変動により激甚な災害が少ない時期が長く続いている様ですが、これからどんな気象振動に晒されるにしても、それは悪い方向に転がる筈なのです。私たちには、現在の温和な気象に浮かれることなく、将来の過酷な気象に備える慎重な行動が求められていると思うのです。

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2015年7月 7日 (火)

2749 生物多様性

山に頻繁に登りますが、その度に感ずるのは、生物とりわけ植物の多様性です。気温が平地より随分低く、痩せた、岩だらけの地面に何故こんなにも多様な高山植物が生きているのか全く不思議です。高い山と山は、まるで島の様に距離的には離れていますから、単純な風媒で届かないでしょう。植物のもう一つの戦略は、渡り鳥を利用する事でしょうか。美味しい果実を付けて、鳥に食べさせて、別の山に種を落として貰えば例えば、鳥海山と遠く離れた月山や早池峰山辺りに同じ様な高山植物を見つける事が出来るかも知れません。

しかし、小さな花を付ける高山植物が、鳥が好む実を付ける事が出来るとも思えません。一つの可能性として、山好きの人が、ある山の高山植物を採取し、別の山に移植したというケースも考えられます。事実、鳥海山に固有のチョウカイフスマが、月山に移植されたという話を耳にしたことがあります。日本のエーデルワイスと呼ばれるウスユキソウも東北のいくつかの山々で観察されます。しかし、同じウスユキソウでも鳥海山と早池峰山のそれは、かなり異なっている様にも見えます。

やはり、生物の多様性、取り分け自分では移動手段を持たない植物の、島状の分布は謎だらけです。植物学者たちなら、いくつかの学説を持っているのでしょうが、その内に調べてみようと思っています。

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2015年7月 6日 (月)

2748 折り返し点2

人は、自分自身が折り返し点に立っている事をなかなか認識できません。特に、一心不乱に前を向いて進んでいる時はなおさらです。車に乗って走っている時にも感ずる様に、スピードが出ている時ほど、遠くを注視しなければならないと同時に視野も狭くなるからです。極端な場合、トンネルに入った際には、運転者は遠くに小さく見える出口しか見ていないでしょう。

また変化の中に自分が居る場合、ピーク時は変化率が小さくなり、最終的なピーク時は変化率がゼロになるため、大きな変化としては感じられず、その時点がまさにピークである事は通常は感知できない筈なのです。本当のピークは、そこを通過してしばらく経ってから、ふと振り返った時初めて認知できるのでしょう。もちろん、人口の変化の様なはっきりした指標は、現在の数字と出生率などのデータを元に外挿すれば、将来の予測は比較的正確に出来るでしょう。しかし、経済指標の様に、将来予測にステークホルダーの「思惑」が絡む場合には、例えば株価の様に殆ど予測不可能なケースも多くなります。

その意味で、私たちは足元と周りを注意深く観察し、折り返し点に敏感になると同時に、折り返した後の自分や社会のあり方を模索しなければならないと思うのです。その際に重要な事は、来し方を振り返り、しっかりと反省しなければならないでしょう。このブログではまさに、環境という言う視点から、自分も関わってきた企業や仕事を総括し、今後あるべき人の生活や社会のあり方について日々考えている訳です。8年近くも書き続けている割に、文字数が多過ぎて読むのが面倒なのか、さっぱり人気の無いブログですが、これからも「折り返し点後のあるべき社会」を考え、「勝手提言」を続けていく事とします。

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2015年7月 4日 (土)

2747 折り返し点

ほぼ全ての経時的な現象は、U字型か、あるいはそれを逆さにした釣鐘型の状態を示すと思っています。例えば、人や生き物の一生を考えれば、それは容易に理解できるでしょう。オギャーと生れて以降、成長し、子孫を残し、それを育むためにしっかり働いて、しかしやがて衰えてこの世から消えていくのです。この一生を示すカーブの中でのピークポイントを、マラソンにたとえて「折り返し点」と呼んでおきまましょう。もちろん、単純に身体能力的なピークと、例えば脳の働きである判断能力のピークには、時間的にはかなりのズレが生ずるでしょう。また記憶力で言えば、ヒトの場合のピークは、結構若い時期、たとえば十代に来たりするのでしょう。

そんな常識的な事はさておいて、では文明や社会システムではどうなのでしょう。人間が形成するいわゆる文明や社会は、その時代を構成する人々の持つその時々の価値観で、「~時代」などと切り分けられる場合も多いでしょう。例えば、縄文時代や弥生時代、時代が下って封建時代や産業革命時代やこの国の文明開化の時代、最近で言えば戦後時代も重要な時代の切り分けです。敗戦によって、それまでの時代に重要とされた価値観(教科書)は、一夜にして墨で塗られて捨て去られたのですから。そして、最初は「お仕着せの民主主義」に置き換えられたのでした。また、戦後復興の流れの中で、急激な経済成長を実現し、いわゆる「経済至上主義」が定着したのです。当時は、先鋭的な企業は「エコノミックアニマル」などという呼び方で揶揄されてもいましたが・・・。

さて、この戦後時代もやはり何らかの指標で計ればU字、あるいは釣鐘型のカーブを描くのでしょう。一つの指標は人口カーブでしょう。戦争で大きく減ったこの国の人口は、終戦とそれに続く経済成長の中で、急激に増加してきましたが、2010年頃ピークを打って、減少に転じました。しかし、よくよく人口カーブを眺めてみれば、いわゆる生産年齢人口(15-64歳)は、ピークは1990年頃にピークを打っていた訳です。戦後時代が、人口増加や結果としての経済成長に裏付けられた「経済社会」であったと仮定するなら、折り返し点は既に1990年代に兆候は見られた筈なのです。残念ながらこの国では、人口ピークや経済ピークの兆候は、経済バブルとその崩壊過程の混乱の中に埋没してしまったのかも知れません。しかし数字は饒舌なのです。続きます。

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2015年7月 3日 (金)

2746 カネ⇒モノ⇒ココロ社会

今は残念ながら「カネ社会」と呼ぶしかありません。国や企業の力、豊かさの度合い、人々の幸福度など全ての価値が、カネの多寡によってのみ評価されれてしまう社会なのです。憲法が保証する、最低限の生活を送るための保護を受けている人たちも、月々の保護費はお金で受け取り、それで住宅費や光熱費、食費を賄います。しかしながら、ヒトは印刷したお金だけでは生きては行けません。雨露や寒さがしのげる住宅や衣服、体の健康を維持するための食糧、それを調理したり入浴をしたりするための最低限のエネルギーが必要だからです。それらの便益を得るために、今はカネを配るカネ社会システムだけしか存在しませんが、モノ社会では「現物支給」という方法もある筈なのです。

モノ社会では、保護を必要な人は、住宅や食糧などの現物支給を受ける事になります。光熱費込みの住宅は、行政が借り上げ必要な人に貸与します。食糧は、現物を配るか、定期的に配送車を走らせて、必要な人はそれを受け取る事になります。それによって、無駄な保護費を使わなくて済むでしょうし、保護を受ける人たちの安否確認もし易くなる筈です。これがモノ社会です。

ココロ社会では、これを更に一歩進めます。モノ社会では、モノさえ上手く配ってしまえば、保護する側の責任が果たされた様に見えますが、それは必要な条件ではあっても決して十分条件ではありません。そもそも「生活保護」などという呼び名が諸悪の根源でしょう。目的を含めて正しい制度の呼び名とするなら、それは「生活自立支援」制度でなければならないでしょう。あくまで、制度は自立するまで背中を押し伴走を目的とするべきなのです。もしそれが正しい方向だとすれば、伴走はカネやモノの支給だけでは十分ではない事は自明です。必ず、人が関わり、見守りを続ける必要があるからです。そのための人材は豊富に存在しています。例えば、団塊世代を中心とした、退役シニア達です。食糧支援には、主婦も大きなパワーになり得る筈です。夫婦二人前の食事を作るのも、数人分まとめて作るのも、手間は何も変わりませんし、作り甲斐もより強く感ずる事が出来るでしょう。食事は、行政が支給する保温性のある容器で、暖かい内に被支援者の手元に届く様にすれば良いでしょう。支援が必要な人数を考えても、料理を余分に作るのは週1,2回で済むでしょうし、暖かい食事は同時に作った人の「ココロ」も届ける事になるでしょう。困った人を援助する暖かいココロと、受け取った側の感謝のココロが、ぐるぐる循環する社会を、ここでは「ココロ社会」と呼ぶのです。赤字大国のこの国では、福祉予算はますます絞らざるを得ないでしょう。しかし、ココロ社会では支援する側の費用を実費補てんさえすれば、ココロの循環は維持できる筈なのです。

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2015年7月 2日 (木)

2745 20世紀型モデルの終焉

Gリシャの経済破綻を踏まえて、この国の借金まみれの状況を考えてみます。彼の国が破綻し、この国が破綻を回避出来ているのは、単に債権者が他国であるか、あるいは自国民や国内機関(や企業)であるかの違いだけでしょう。何しろ、私たち国民一人当たりに割り算した借金が、少し前は700万円ほどだったと記憶していますが、今は800万円をかなり超えている様ですので、年々歳々額が積み上がっているのです。Gリシャと比べても一桁多いのです。

さて、20世紀型の(社会)モデルは、結局は「経済成長」を前提にしたものである事は疑いがないでしょう。経済学は門外漢ではありますが、これまで積み上がてきた赤字国債(借金)は、一応は「景気刺激策」や「福祉充実」などを掲げていた筈で、生まれた借金は、経済成長の結果増えるであろう税収増加分を「当て込んだ」政策だったと言えるでしょう。もちろん、時の政権が、綿密な経済政策を立てて、借金を重ねてきた訳ではありません。それは、来たるべき選挙で与党がより高い得票率を得るための「撒き餌」であったと言えるでしょう。積み上げた借金が、ドンドン増えるのは、流石に椅子に座るリーダー達の座り心地を悪くしますので、仕方なく時々予算枠(シーリング)を設定して、その年度の歳出増加率を抑え込んだりはするのですが、年度終わりに補正予算を組むなど裏ワザで誤魔化して、借金を右肩上がりで増やし続けたのでした。

この様な、20世紀型の「経済・政治リンク」モデルは、終わりにしなければなりません。何故なら、それは間違いなく「持続可能ではない」からです。持続可能ではない限り、結局は次世代に責任を転嫁するしかないのです。負の遺産です。それでも借金が順調に減る見込みが立っていれば、二世代ローンの様に世代間分担も可能でしょうが、債権額が増え続けている現状は、明らかに「悪性」であると言うしかありません。修正が効かないのは、現在の社会モデルが、最早この国が置かれた状況にマッチしなくなっている事の証左でしょう。私たちは、モデルの集成に着手しなければならないのでしょう。リモデリングの具体策に関しては、追って書いていく事にします。

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2015年7月 1日 (水)

2744 技術の劣化2

2743の続きです。技術的側面から見れば、たとえばエアバッグ問題も技術の劣化に根があると言えるでしょう。Tカタ社製のエアバッグが、車メーカーの系列や国の枠を超えてこれほど世界的に浸透していたのも驚きだったのですが、何の疑問も持たれず、同じモノが量産され続けていたというのも、別の驚きです。確かに、全く同じモノを連続して作り続ければ、コスト的には極限まで絞り込む事も可能だったでしょう。しかし、特に製造業においては、絶え間ない品質向上やコスト削減のための工程改善が日々行われているのも事実でしょう。つまり、見かけは全く同じように見えても、一部の材質や工程の見直しは、コスト削減のために、または増産のために改善が繰り返されているのです。

しかし、注意を要するのは、品質(≒ユーザーの安全性)の向上の改善とコスト削減のための改善とは、まったく矛盾するベクトルを有すると言う事実です。もちろん、構造を簡単にする事によって、安全性が向上し同時にコストも削減する名案や裏ワザもあるのかも知れませんが、それは例外です。エアバッグの様に、こなれた材料で、こなれた技術で作られる製品は、品質向上とコスト削減は、同じく「改善」と呼びますが、ほぼ相反する行動を求める事になります。

さて、技術の劣化の本質です。元技術屋として断言できる事は、技術の劣化は、「設計、製造、検査に関わる人々の手抜きによって生ずる」という点なのです。例えば、想定より僅かに高いストレスによって事故を起こしてしまう構造物や工業製品の報道を耳にするたび、設計や製造や評価段階でどれほどの手間暇を掛けて「推敲」された技術なのかと、つい考え込んでしまいます。エアバッグ問題に戻れば、メーカーは実際にエアバッグを膨らませて行う試験が、一体どの様な頻度で行われていたのか明確にする必要があるでしょう。もし、何らかの設計変更や工程変更があったにも関わらず、試験の頻度を変えていなかったとすれば、それは明らかに悪い意味の「手抜き」に他ならないでしょう。設計段階で、技術者が線を一本加えたり、部品の角度を少し変えただけの小変更ではあっても、その後の製品のトレーサビリティはしっかり確保すべきでしょう。つまりは「変更点管理」です。技術の劣化は、実は監視可能なのです。

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