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2015年8月31日 (月)

2790 引力・斥力?

力のバランスには、押しのバランスと、引きのバランスとがありそうです。押しのバランスとは、例えるならば磁石のSとS(又はNとN)を、真向いにして横にずれない様に、力で抑えて置く状態と言えるでしょう。少し力を抜くと、磁石同士は斥力でずれて、本来の位置を保てない不安定な状態に陥ります。かつて、いわゆる冷戦時代には、B国とS国は、互いに強力な「磁極」を形成し、周囲の国を巻き込んで、力と力の角を突き合わせる「パワーバランスゲーム」に勤しんでいた状態に似ています。斥力によるパワーバランスは、ベクトルの方向が少しずれただけで、一触即発の危機を招くというリスクを孕んでいると言えるでしょう。それは、冷戦時代に起こった(起こりそうだった)の数々の「軍事危機」を振り返るだけでも十分理解できるところです。

一方で、引きのバランスは、綱引きゲームの状態に似ています。パワーで相手を押しのけるのではなく、自分たちの陣営がより好ましく、人を引き付ける魅力的なものであることを、相手に納得させつつ、自分たちの方に徐々に引き寄せる作戦だと言えるでしょう。引きのバランスは、力の入れ加減さえ調整すれば、ベクトルがずれる恐れはありませんので安定的でもあります。

さて、これを現在国を二分して議論している安全保障に関わる法案に当て嵌めてみましょう。何しろ、この法案は「当て嵌め」がキーワードの様ですから・・・。これは、明らかに斥力の力のバランスを頭に置いた考え方だと言えます。つまりは、目には目を、歯には歯を、パワーにはパワーの考え方です。

他方、引力のパワー戦略とは、世界の誰もが羨む様な、国としての「魅力」を備える事だと言えそうです。国の魅力とは、単に経済的な豊かさは意味しません。国民が、それぞれの立場で役割を担って働き、ソコソコの物質的な豊かさを実現し、しかしそこに住む人々は、十分なレベルの「精神的豊かさ」を実現している様な国だと言えます。この様な国は、モノを作りまくって、それを売りまくる様な事はしません。貿易相手国の国情も勘案し、互いにWin-Winの関係を築く様に立ち回る筈なのです。

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2015年8月30日 (日)

2789 振動(又はゆらぎ)

自然現象の多くは、ある周期の「振動(またはゆらぎ)」に支配されている様です。そのゆらぎは、天体の運行(自転、公転)や地軸の歳差運動など、あるいは太陽黒点の盛衰などに支配されてある一定幅での振動を繰り返します。幸いな事に、これまでのところですが、その振れ幅は人間を含む多くの生物を、今ある姿に維持させてくれたのでした。異常な低温になって、生物の全てが凍てついた訳でありませんし、逆に異常な高温になって死滅した訳でもありません。

一方で、天体運行以外の振動も存在します。例えば、熱塩循環と呼ばれる千年単位の大洋の海流循環があります。また、必ずしも規則性は観察されていませんが、いわゆる地殻変動の結果生ずる火山活動も振動を振らせる要因になります。巨大な火山が爆発した場合、少なくとも数年間は噴煙や火山ミストによって冷涼又は寒冷な気候が続く事になります。同様に、巨大な隕石の衝突は、大爆発による粉じんを巻き上げ、結果としては長い期間の寒冷な気候=氷河期を招く事につながります。

しかし、今人類が一方的に燃やし続けている大量の化石燃料により排出される温室効果ガスは、自然の振動幅には含まれていない「成分」である事は銘記していく必要があるでしょう。自然に固定された二酸化炭素を、人為的に、短期間にしかも大量に放出し続ける事は、これまでの地球の歴史には無かった事態なのです。もちろん火山の爆発などで、かなりの量のCO2が地中から放出された事はあるでしょう。しかし、その場合は寒冷化を招く火山ミストと同時に放出されるので、収支は寒冷化に傾く筈です。

自然の振動(ゆらぎ)は、時間が経てば自然にニュートラル状態に振れ戻ると思われますが、人為的な振れ成分は事実上戻し様がないと考えるべきでしょう。温暖化傾向は、自然の振れ幅の範囲内だとの主張を展開する一団が存在しますが、100%否定は出来ないにしても、少なくとも人為的な振れ成分との比率を示して論ずるべきでしょう。投稿者の立場は、人為的な成分を優位と考えるものではあります。

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2015年8月29日 (土)

2788 植物相・動物相

ほぼ毎日歩く堤防道路で気が付く事があります。それは、植物の種類(植物相)が単調になっている事です。本来は、河原には上流から流れてきた実で作られた、多様な実生の河川木が生えていて、その近くにはヨシやススキやその他の多様な雑草(一括りにはしたくはないのですが)が広がる河川敷があり、堤防にもスギナやタンポポやツメクサなどがびっしりと生えているのが普通でした。しかし、河川敷の有効活用と称して、河川木を伐採し、牧草の種が播かれ、その種に混じっていたフランスギクやブタナやムラサキツメクサなどの「外来植物」が幅を利かせた結果、在来種のシロツメクサやニホンタンポポなどは極端に減ったか姿を消してしまいました。

単調になった植物相には、限られた種類の昆虫しか集まりません。草むらをかき分けても、子供の頃に比べて、バッタや甲虫やクモやチョウやトンボの種類がめっきり減ってしまった様な気がします。昆虫が減れば、当然の事ながらそれを捕食する鳥や小動物の数も種類も減ってしまうのも当然の話です。それらが減れば、ヘビもトンビも数を減らざるを得ません。それが、食物連鎖の原理というものですから仕方がありません。

しかし、貧弱な植物相や動物相は、たとえ植物や動物の数そのものが多かったとしても脆弱です。つまり、何らかの天候不順(少雨や高温や日照りや逆に日照不足など)、あるいは何らかのウイルスなどによって、一気に殲滅させられるかも知れないからです。投稿者が今住んでいる地域は、江戸時代の篤農家が代々植え続けた立派なクロマツの砂防林がありました。その幅は、海岸から数キロもの幅があったものです。しかし、ある時期以降、松くい虫(マツノザイセンチュウ)の被害で、無残にも殆どが枯れてしまったのでした。別の地域では、梅の木に取りつく「ウメ・ポックスウイルス」も、ある時期、ある地域(例えば青梅市)で猛威をふるい、感染の拡大を防ぐため多くの木が伐採されてしまいました。

それを作物などにも敷衍すれば、収量が多いことや味が良いという理由だけで、特定の作物だけを集中的に栽培する行為も、やはり危うい話ではあります。アキタコマチだけを集中的に作付している堤防横の田んぼを眺めるたびに、実はため息が出ます。

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2015年8月27日 (木)

2787 お金の呪縛

何度目かの「お金シリーズ」です。今の社会は「経済」という仕組みで動いています。誰かがモノを生産し、その売り買いを、お金という「価値のシンボル」で決済して成り立っています。しかし、そのお金の量がドンドン増えているという事実は余り意識される事はありません。何故増えるかと言えば、資源国やその権利を譲り受けた保有している企業が、地下から資源をドンドン掘り出して売りまくっているからです。それを買うために、多くの国ではお金(今では紙幣や電子マネーになっていますが)を印刷し、それを買い続けるのです。資源を売った国々は、その代金で装飾品や高級車など贅沢品、あるいはビルやインフラなどを爆買いする訳です。

結果として、全世界規模で見れば、流通しているお金(マネタリーベース)は日々増大を続ける事になります。それで何が困るかですが、お金が溢れればそれを使わなければなりません。そうでなければ、お金は銀行や企業の金庫から溢れてしまうでしょう。もちろん、現代社会ではお金の大きな部分は電子マネーに変ってはいますが、それにしてもやはり限られた場所にお金が吹き溜まってしまうのは好ましくないでしょう。上手く設計された社会では税金として召し上げられるでしょうし、そうでない途上国では、賄賂や裏金として使われ、腐敗の連鎖を生むのが関の山だからです。

さて、増え続けるお金の「圧力」に押されて、無理やりでもお金を使い続けなければならない社会は、一体健全だと言えるのでしょうか。その様な社会では、全ての活動をお金に「換算」する必要があるでしょう。かつての社会では、好意や善意の行いであった事でさえ、今では「サービス業」としてお金のやり取りが発生します。私たちの社会は、どうやら「お金の呪縛」に陥っているとしか思えません。その結果、最近の「競技場建て替え事件」などでも明らになっていますが、天文学的な額の浪費にもすっかり鈍感になってしまったでしょう。「この国に、たかが2-3000億のお金が出せない筈がない」などとノタマワる政治家を祀り上げてしまったこの国の国民は、やはり忸怩たる思いを共有する必要があるんでしょうね。

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2015年8月26日 (水)

2786 フットプリント又はLCA

2783の続きです。フットプリントとは、日本語にすれば「足跡」という程の意味になります。LCA(Life Cycle Assesumentの略)とは原料から製造、消費、廃棄に至るまでの全ての環境負荷を集計したデータを差す言葉です。このブログもそうですが、環境保全に意識の高い人たちや企業は、実はこのフットプリントやLCAと言った言葉に敏感なのです。単に省エネへの取組みだとか、リサイクル率を上げて廃棄物を減らすなどという、これまで言われていた「環境保全活動」は、いわば環境保全の「初歩段階」だと言うしかありません。つまりは無駄を省いて、環境負荷を可能な限り低く抑えるという、どちらかと言えば消極的な活動だと言えます。

では積極的な環境保全活動は何かと言えば、それはそもそも環境負荷の非常に大きな金属などの地下資源の採掘・精錬や、同じく地下から掘り出す化石エネルギーを使用する量を以下に減らすか、という課題への挑戦です。そこに至るステップとして、先ずは今流通している商品やサービスに関して、それが原料採取から製品の廃棄に至るまでの、全ての環境負荷の合計(の足跡)を把握する必要がある訳です。現状では、単にエネルギーに使用量や廃棄物、排水の量の把握をしている程度で、環境経営に取り組んでいると胸を張る企業も多いのです。もちろん、それすら出来ていない企業が大多数なのですが・・・。

何やら難しそうな課題ではありますが、原理は比較的簡単です。かつて、資源やエネルギーの爆食いを始めた高度成長期には、重厚長大という風潮が産業界や消費者のマインドを占領していました。これからの時代、この逆を行けば良いのです。つまりは、「軽少(小)短薄」を実行すれば良いのです。これに加えるなら「人・止」でしょうか。つまり、何でも自動化・機械化に頼らず、可能な限り人力を使い、これまで何の疑問も持たずにやっていた習慣を「止める」勇気を持つ事なのです。具体的な身近な例を挙げると、電気仕掛けの真空掃除機を納戸にしまって、ホウキとチリトリと雑巾を手元に置く事です。また、毎日バスタブになみなみとお湯をはって入浴する習慣を諦め、シャワーのみの日を増やすのです。屋根に太陽熱温水器を設置しておけば、毎月のガス代は呆れるほど安くなるでしょう。当然、排出される二酸化炭素もそれに比例して減少するのです。人一人の一生のLCAを計算すると面白い結果が出るかも知れません。それが、その人の一生における(モノ・エネルギーの)足跡という事になります。

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2015年8月25日 (火)

2785 還歴? 

還暦とは、60年を1サイクルとする暦の循環ですが、ここで言う還「歴」とは、歴史は繰り返す(還す)と言ったほどの意味で、このブログでの造語です。最近の風潮も少し時代を遡ると、どうしても既視感がぬぐい切れません。今ほどではないにしても、国会を取り囲むデモの光景をネットで見るたびに、60年や70年の「安保闘争」が想起されます。投稿者は、まだ小学生や中学生であったため、リアルタイムでその光景を目にした訳ではありませんが、少し前ですが「M木鳥郎」の安保闘争当時や少し前の世相を皮肉るラジオ番組の一部を聞いてドキリとさせられました。当時も、B国の占領終了直後で、B国の強い影響下(支配下?)にあったこの国の政府や、屈辱的な安保条約や軍隊でも警察でもない微妙な立場であった自衛隊などに対する根強い世論の反発があったのでした。

その当時と圧倒的に異なるのは、社会の豊かさでしょうか。取り敢えず、明日のメシや生活に大きな不安がない状態では、「闘争」にも力がこもらないのでしょう。ハングリー精神には、実は信じられない程のパワーを出すエネルギーが潜んでいるからです。いわゆる、スプリングバックと呼ばれる力です。バネを極限まで圧縮して放すと、スプリングは一気に伸びて弾けるのです。

60年が1サイクルかどうかは別にして、一般に時間が2-3世代分も経過すると、それ以前の失敗は、文章を通じて歴史として学ぶしかなく、同じ轍を踏む事も多いのです。従って、似たような経済システム上や外交上の間違いを繰り返すのでしょう。戦後レジュームから脱却するどころか、戦後の混乱をフィルムを巻戻してみている様な錯覚を感ずるのは、一人投稿者だけでしょうか。杞憂であることを祈ります。

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2015年8月24日 (月)

2784 積極的平和主義

議事堂に閉じ籠って空虚な議論を続けている皆さんへ。

念のために書いておきますが、この言葉の意味は、決して武力行使できる条件を拡大(解釈)することではなく、積極的な「平和外交」を展開する事だと、普通の人は思っています。

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2015年8月23日 (日)

2783 レッド購入

環境負荷の小さな原料を用い、同じく環境負荷を小さくする努力を傾けている工場で加工され、環境負荷の小さな流通方法でモノやサービスを購入する姿勢を、「グリーン購入(調達)」と呼びます。その意味で言えば、環境負荷の大きなモノ造りを続けていて、時々有毒な黒煙を上げる大規模な事故も起こしているアジアの国(例えばお隣のC国製)の商品やサービスを買うことは、それとは相いれない消費行動だと言うしかありません。それをここでは仮に「レッド購入(調達)」と呼ぶ事にしましょう。いわばレッドカードを突き付けられている商品やサービスだという意味です。

レッド購入を避け、グリーン購入を行うためには、消費者側の高い意識が不可欠です。先ず、原料を意識しなければなりません。それ自体が有害、例えば有害な可塑剤を含むプラスチックや石油化学製品、あるいは環境負荷の高い重金属などを含まない原材料から作られている事の確認が必要です。その情報を公開し、保証している供給元や商社の扱う原料ならある程度は信じても良いでしょう。更に、環境負荷の小さな加工工程とする努力をしているメーカーの工場で作られている事の確認も必要です。加工するに要するエネルギー=CO2排出量を減らし、工程に使う補助材料にも環境負荷の小さなものを選び、更に修理やリサイクルが容易な設計をしている事も重要な選択の要素です。

出来た商品やサービスを、環境負荷の小さな方法で流通させているものも、グリーン購入をする上でのポイントとなるでしょう。例えば、過剰な包装をしている商品は、空箱やクッション材の包装ごみが多くなるでしょうし、ワガママな配達を求めれば、配送時に無駄なトラックの走行が生ずるので、環境負荷は大きくなります。まして、それを使用(消費)した後に、修理やリサイクルがしにくい商品であるなら、ゴミとなった商品を処理するための環境負荷も更に上積みされるのです。私たちや、何も考えずに安い商品やサーボスに飛びつく事は厳に慎むべきでしょう。商品であれば、原材料やメーカーにもっと注意を払うべきでしょう。メーカーや流通業者のHPを参照し、そこが「環境経営」に励んでいる企業か否かもチェックする必要もあるのです。

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2015年8月22日 (土)

2782 異常高温に思う

異常な高温状態が続いている様です。もちろん、日本だけの問題ではなく、全世界的な傾向です。7月には全世界で均した気温で、過去の平均値に比べてなんと0.8℃も高かったのだとか。平均気温とは、南極も北極も含め全球を均した気温ですから、平均が1℃近くも上がるという事は、大部分の地域が平均温度に近いとすれば局所的には数℃も高いという事を意味します。事実、気象庁のデータによると、5月の平均気温の場合、日本、シベリア北部、地中海西部、東南アジアの一部やインド、カリブ海地域やアルゼンチンやペルーの南部地域などが、特に高温になっていたのでした。

これらの高温地域が、平均気温を1℃近く押し上げたのですから、その高温地域の気温の高さが分かろうというものです。平均気温での数℃の上昇とは、夏場の日本であれば連日猛暑日と熱帯夜が続く様な異常高温状態を意味します。実際。今年の夏は、2010年ほどではないにしても、その様な異常高温状態の日が多く現れた年の一つだったのです。

私たちの多くは、漠然とはしてはいますが、今後この地球はどうなるのだろうと不安に思わざるを得ません。暑い夏を超えて気が付いてみると、多くのお年寄りが熱中症で亡くなっており、作物に高温障害が発生し、エアコンの電力消費がほぼピークを打ち、落雷や竜巻に加えていくつもの「超大型台風」に見舞わているのですから、不安を感じない方が不思議です。異常高温は、結果として見れが海水温の上昇を招き、それが海水の体積膨張を起こして、海水面が上昇するでしょう。海水温の上昇は、大気中の湿度を上昇させ、循環大気を不安定化させ、結果として激甚な気象を発現させます。

では、この様な地球規模の気候変動に対して一体何が出来るのでしょうか。この異常の原因を、単に二酸化炭素の排出量増加だけに押し付ける事が出来ないにせよ、やはり私たちはエネルギーの使用を抑制する事は対策の一歩にはなるでしょう。投稿者の若い頃、具体的には1970年代、エネルギーの使用は現在の約半分のレベルでした。しかし、その時代にあっても、別段生活が不便であった訳でも、貧しかった訳でもなかったと振り返っています。それどころか、殆どの人が将来に夢を抱いて、活き活きと暮らしていたような気がするのです。どうしたら良いか分からない問題に直面した時は、取り敢えずは元来た道を戻ってみるのが正しい選択なのでしょう。

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2015年8月21日 (金)

2781 FIT・環境税の限界

このブログの本題の様なものです。さて、FITとはグリーンエネルギー供給者へのインセンティブ(アメ)であり、環境税とは環境悪化や温暖化を加速する、エネルギーや他の排出源に対して税金(ムチ)を課する制度です。つまりは、助成金や罰金で、環境負荷を下げようとする社会の仕組みだと言えるでしょう。確かに、FIT制度の効果で、太陽光発電(PV)の設備投資は爆発的に増加しました。都市のビルや道路インフラなどへのPV設置は勿論、地方でもちょっとした空き地に、数百キロワット程度のPVで埋められている様子を目にします。

しかしながら、アメは長続きしません。何故ならFITを載せるための財源が必要だからです。しかも、その上乗せは20年も続きますから、PV量の増加と共に、その負担はジワジワと財政を圧迫し続けます。もちろん、原資は電力料金の賦課金なのですが、結局は各所帯や企業の負担なので、経済的な重石であることには変わりありません。元々この制度を長く続ける事は出来ない相談なのです。同様に、環境税は環境負荷である温室効果ガスの排出や、焼却処理の際に多大なCO2の発生を招くゴミや廃棄物の排出に税を課して、その排出を抑え込む制度ですが、過大な環境税は経済活動(景気)を冷やす事にもつながるので、行政は非常に神経質となり、結果的には弱腰になるでしょう。

結局、経済的なアメとムチには、ある限界があると思うしかないのです。ではどの様にしてその壁を取り除くかですが、回り道にはなるでしょうが、社会の構成員の「意識改革」しかないのでしょう。つまり、際限のない便利さや利潤の追求と引き換えに、温室効果ガスを含む重い環境負荷を出し続けるのは「悪」である、と大多数の国民や企業が明確に意識する必要があるのです。高度経済成長を経験した、団塊世代を含む高い年齢層の高い世代に多くを期待する事は出来ません。投稿者の様な「環境人間」は別にして、彼らの心根には、「大きいことは良い事だ」、「便利で速い事は良い事だ」などというキャッチフレーズが刷り込まれているからです。先ずは、小中学校を含む若い世代への環境教育と、退役世代に対しても地道な啓発が必須でしょう。企業に対しても、環境経営への取組みを必須条件と見做す、社会の風潮を醸成する必要があります。出来ればそれを法律にしたいところですが、企業団体や政治屋に任しておいても「百年河清を待つ」となるのでしょう。

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2015年8月20日 (木)

2780 動物の思考

TEDで自閉症の動物学者T.Gランディンのプレゼンを見ました。再放送なので、2回目です。初回も感動的でしたが、再放送がもっと感動的であったことは、投稿者にとっても驚きでした。初回は、彼女のパワー溢れる怒涛のプレゼンに圧倒されたのですが、2回目は、ヒトとは何か、脳で考えるとはどういう事なのかを改めて考えさせられたのでした。天才と○○は紙一重とは昔から使われる表現ですが、論理的で合理的な論考だけが正しくて価値があるとする社会は、実は危うくて脆いのではないかとも思いました。

我々凡人は言葉を使って思考しますが、その思考の限界の一つは言葉の数や種類、つまりは「語彙」です。凡人は、意味を知っている言葉以外は使えないので、新しい言葉に出会っても思考には参加させられません。しかし、自閉症のあるタイプのヒトは絵を使って思考します。また別のタイプのヒトは音(音階)を、更に別のタイプのヒトはニオイで思考するかも知れません。これは想像ですが、目が余り良くない犬は、散歩の途中で嗅いだニオイの分布で地図を作り、仲間や敵を判別しながら、かなりの部分の思考もしている事はほぼ間違いないでしょう。

結局、ヒトや動物の行動を決めるのは脳ですから、外部の情報を集める感覚野(つまりは五感です)と、その情報を判断して行動に変える例えば前頭前野や運動野が、どの様なルートで繋がり、そのパイプがどの程度太いかによって、「脳の癖」が決まるのでしょう。Gランディンの場合、彼女は絵で考えると言っているので、視覚野からのパイプ(脳梁)が、我々凡人に比べて飛び抜けて太いのでしょう。結局、凡人の「脳バランス」を基準とするならば、自閉症は「症」であって、脳の特徴とはされていないのが現状だと言うしかありません。その意味で、自閉症という呼び方は余りにも凡人の身勝手な見方であり、差別的な呼び方だと断ずるしかないでしょう。同様に、身体的なダンディキャップという言い方も、昔に比べれば表現はソフトになりましたが、やはり差別的な要素を持っていると言うしかありません。それを「体の癖」と素直に捉える事が出来ることが、どうやら健全な社会の条件の様です。TEDは、やはり考えさせられる良いプログラムです。

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2015年8月19日 (水)

2779 でしかない・でもある

時々この違いが気になります。「でしかない」、というのは帰納的な考え方で、還元的なものの見方から生じます。例えば。この国の国民性を論ずる時に、シャイであるとか、和を尊ぶとか、あるいは勤勉であるとかのキーワードで論ずるのは、「でしかない」論になります。確かにそれらの要素は、他の国に比べればやや目立つ特性に様にも映りますが、もちろんそれだけが結論であるならば、論考の方向を誤るでしょう。

シャイを裏返せば、自分が上手く主張できず、劣等感の様なものを抱えている可能性がありますから、例えば外部からの過度のプレッシャーを受け続けた場合、感情が反転し突然凶暴さを表すケースも考えられるでしょう。また、和を重んずるあまり、その輪に入れない人(達)を仲間外れにする、いわゆる「イジメ」の要素も和の裏には見え隠れするのです。更に言えば、勤勉であるのは確かに国民性の一要素ではあるのでしょうが、一方で「勤勉なフリ」をして、大多数の間に埋没する事を隠れ蓑として、それなりに楽して上手く世渡りをしている輩も多いと想像しています。

一方で、「でもある論」は、演繹的でかつ統合的な議論を引き出します。もちろん、これも度が過ぎると、訳が分からなくなる危険性を孕んではいますが・・・。例えば、日本はアジアの一員「でもある」訳ですが、どうしてもその中にスンナリとは溶け込めない何かを抱えて戦後の歴史を重ねてきた様な気がします。また例えば、日本は世界的に見ても工業国ですがもちろんそれだけではなく、やや廃れたとはいえ田舎に行けば、農林水産業もそれなりに残っている訳です。農林水産国「でもある」で、物事は多面的に捉える必要性を感じます。しかし、むやみに多面的に捉える事は、時に物事の本質を見失う危険性も孕んでいるとも言えるでしょう。結局、両論を時と場合によって使い分ける必要があるとの当たり前の結論になるのですが、これをモノに例えるならば、被写体を写真に写す際に、カメラに広角や接写や望遠レンズに付け替えるのと似ているのかも知れません。

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2015年8月17日 (月)

2778 リスクマネジメント

リスクマネジメントとは、読んで字のごとくで、システム上のリスクを管理する事ですが、そのためには先ずはリスクの特定が必須の作業となります。原因の特定は今後の解明に待つにしても、危険な化学薬品や可燃物が、特別な安全対策無しに大量にストックされている様な状況は、議論にも何も出来ない悲惨な状態と言えるでしょう。可燃物質は、夏の日射に照らされて気化が進行し、そこに何かのきっかけで火花が飛ぶと、先ずは火災や爆発が起こります。爆風によって、他の化学物質の保管庫やコンテナが破壊されると、今度は望まない「化学反応」が引き起こされるでしょう。塩素やシアン、ナトリウムなどの有害な物質は、化学的にも活性な物質であり、激しく反応しつつ塩化物やシアン化物、あるいはナトリウム化合物を生み出します。

化学反応では、同時に膨大な反応熱も生成され、更なる化学反応や火災の被害を拡大させる事でしょう。まさに「負の連鎖」です。激しさの差はありますが、これは核反応(原子爆弾)とも似ているとも言えます。実際、T津での事故現場の動画や写真を見る限り、爆発があった中心部にはキノコ雲が生じ、巨大なクレータが出来ていて、爆発の激しさが想像できます。

リスクの特定には、種々のリスクを想定する必要があります。自然現象、つまりは竜巻や台風や日照りなど、あるいは落雷による着火、更には地震による破壊なども考えられるでしょう。また、ヒューマンエラーも重要なファクターです。勘違いによるバルブや機器操作のミス、更には容器やコンテナの中身の誤認、異なる作業者間の連絡ミスなどなど、人が絡む錯誤の可能性は非常に広くて、高いのです。これに加えて、人による悪意の操作(テロ行動)も考えられます。リスクが集中している場所に対するテロ行動が、最も少ない努力で「コト」を成功させる道だからです。私たちは、隣の国の事故から学んで、振り返って自分の国にもあるリスクを見つめ直してみる必要があります。

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2015年8月16日 (日)

2777 国家の出家?

国が国民の家であるかどうかは別にして、詩人、T川俊太郎の、「国として出家する」という言葉に、流石は言葉を駆使する職業の人の面目躍如と感じ入りました。その意味するところは、想像するに国としての全ての体面や欲望を捨て去り、静かに内省する姿勢に入る事を指すのでしょう。今のリーダーは、戦後レジュームからの脱却を標榜しながら、結局その行動は「戦後レジュームの延長」そのものでしかありませんでした。積極的平和主義とやらで、更にB国の枠組みに入り込み、何やらバカ高い戦闘機や輸送機を買わされる羽目に陥り、更に審議中の安保法制とやらが通過すれば、たとえ戦争に直接加担しなくても後方支援でたっぷりお金を使わされる事になるのでしょう。

しかし、考えてみれば国として出家するという事は、かつての偉人に導かれたIンドの様に、無抵抗主義を貫く事を意味します。無抵抗に入った者に、それ以上の謝罪を求める事も無くなるでしょうし、経済的補償を求める圧力も減るのでしょう。もし、お隣の国が領土侵害などの狼藉を働く事があっても、国連に「おそれながら」と駆け込む程度に留めます。自らの足元を静かに見つめ、内省の日々を過ごすのです。それでなくとも、国内には問題が山積していますから。少子高齢化問題、原発再稼働問題、農林水産業の衰退、若者の無関心問題などなど。もし、国全体の経済的充足のレベルが下がるにつれて、逆に精神的な力が湧いてくるのであれば、多分この国の「豊かさの尺度」もかなり変容してくる事でしょう。つまりは物質的豊かさから、精神的豊かさへの変容です。

確かに出家するという行動には、勇気が必要ですが、一気に出来ないのであれば、部分的出家という手段もあるのかも知れません。具体的な方法については、引き続き考えてみる事にします。

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2015年8月15日 (土)

2776 拝啓宇宙飛行士殿

昨日の公共放送で、最近の宇宙飛行士選抜のドキュメントを放送していました。彼らの多くは、非常に若い頃から宇宙飛行士を目指して、学校や職業を選択し、来たるべき選抜試験に備えていたとの事でした。いわば人生の前半を掛けて、宇宙飛行士を目指していたという事でもあります。今後同様の選抜試験が繰り返されるのかは承知していません。

しかし、一口に宇宙とは言ってもISS(国際宇宙ステーション)は、高々400㎞の高度に打ち上げられた大型の宇宙船に過ぎない事は忘れてはなりません。そこで得られる特権としては、その高みから青い地球を眺められる事、そして継続的な無重力状態の体験だけしかないのです。選ばれし宇宙飛行士は、地球に帰還してからは、生涯(限られた)宇宙の素晴らしさを、若者に伝え歩く事を求められます。その様にして、また新たな若者が宇宙飛行士を目指すという循環が始まるのでしょう。

とはいうものの、それは無責任というしかありません。現在も、今後も地球の軌道から離れて他の惑星に人類を送るというミッションはその危険度から見て現実的ではないでしょうし、数年にも及ぶ宇宙空間での孤独に耐えられるほど人間の肉体や精神は強靭ではないからです。衛星(月)に対しては、人類は既に1960年代にミッションを完了しています。遠い惑星やホウキ星に対しては、無人機で接近や着陸を果たしています。この上危険を冒してまで人を送りこむ必要などないのです。ISSにも何も常時人を送り込む必要はないでしょう。気の利いたロボットを常駐させれば、殆どの実験は出来る筈なのです。ロボットは食事も排泄もしませんから、補給船を度々送る必要も生じません。「彼(彼女)?」は、メカニズムが擦り切れるまで熱心に動き回ってくれる事でしょう。新たなミッションに対しては、そのプログラムを、地球から書き換える事も容易です。

子供に見果てぬ夢を植え付ける、無責任な行為はもう止めにしなければならないでしょう。先ずはこの地球を住み易い場所にする事こそ、喫緊のミッションだからです。いまISSの維持jに使っている膨大な国家予算を想像するにつけ、またそれは人生を掛けている多くの優秀な若者に同情を禁じ得ません。

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2015年8月14日 (金)

2775 質素

質素や簡素などという言葉を、長い間耳にしなくなった様な気がします。新しい競技場の建設でも、一時は自転車のヘルメットの様な見た目の奇抜さと、年に何度かしか使われないイベントのために、巨大なアーチ+移動式屋根の案が、まかり通ってしまったのでした。どの様な設備にせよ、建造物にせよ、現実的な姿は、必要十分なベースラインと、その時代に実現できる最新、最高の技術を駆使した、ベストプランとの中間に来る事は間違いないでしょう。

望ましいのは、先ずはベースラインの絵を描き、その上で許される予算の範囲内で、オプションを加えて行くアプローチではないかと思うのです。構造上でのベストプランを狙い、取り敢えずは骨組みだけでも作って置く、という考え方も成り立ちますが、結局最終的にベストプランに近づけるのであれば、単に予算執行期間を延べただけですから、殆ど意味は持たないでしょう。

そうではなくて、先ずはベースラインの設計をし、競技場なら、先ずは陸上競技イベントの開催に必要かつ十分なレベルの仕様とし、五輪開催時に必要なら、仮設の観客席を設けるなどの臨時的な方法で凌げば良いでしょう。もし、年に何度か屋根を掛けたいのであれば、後日取り外し式のエアドーム屋根でも付ければ良いだけです。敷地面積を最小限に留めれば、緑地面積を確保しサブトラックを併設する事も可能となるでしょう。もちろん簡素な競技場は、維持費用やメンテナンス費用も、当然の事ながら安価で済むでしょう。維持費用は、初期費用に完全に比例するからです。

以上の考え方は、個人の住宅であれ、車などの耐久消費財であれ、同様に当てはまるでしょう。稀にしか使わない客間や住宅設備などは、最初から省けば良のです。冠婚葬祭会場などは、今やどこでも借りる事が出来ますし、住宅設備などでもリースの選択肢は豊富です。車でも、一定以下の使用頻度であれば、レンタカーの利用で十分な家庭も多い筈です。もし、どうしても所有する必要があるのであれば、先ずは現在の豪華すぎる自家用車の仕様を見直す必要があります。そう言えば、かつてはどの車種にも「スタンダード仕様」が設定されており、必要によって種々のオプションを加えていったものでした。最初から多くのオプションを載せたグレードは、デラックスやラグジャリィなどと呼んでいたのです。当然の事ながら、オプションを追加する度に車の重量は嵩み、燃費も悪化するのです。現在は重量が1.5トンもある小型車の重量を、1トン程度に抑える事が出来れば、燃費は3割は向上する筈なのです。

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2015年8月13日 (木)

2774 オーバーシュート

2773の続きです。原発の怖さは、核分裂の制御が「ブレーキ制御」だけになっている点にあります。一定量以上(臨界以上)の核物質を格納した炉の中では、放っておけばそれらは激しく核分裂を繰り返し、やがてはメルトダウンやメルトスルーという大事故を引き起こすでしょう。それを抑えるのが「制御棒」である訳です。制御棒には、燃料棒間に遮蔽物を出し入れする事により、核分裂を緩慢にする役割があります。

つまり、制御棒とは、車で言えば出過ぎたスピードを抑えるブレーキに相当するのですが、困るのは核分裂を抑えるには、時間的な遅れが出る事と、制御棒以外の制御方法が準備されていない点なのです。真夏の午後の電力ピークに合わせて、出力を上げた原発が、夕方の負荷低下に合わせて徐々に出力を絞るのは問題ありませんが、例えば突然の落雷による大規模停電が起こった場合、瞬間的に負荷を絞る芸当は原発には出来ないのです。その場合、当然の事ながら、システムはタービンの回転数を抑え込むために蒸気弁を絞るのですが、核分裂を抑え込むまでには時間が掛かるので、蒸気だまりの圧力は急激に上昇するでしょう。最悪の場合、圧力を逃がすため(蒸気は)ベントされる訳ですが、この際放射性物質も放出される事になります。

こんな非常事態を回避するためには、原発の出力を例えば60%程度で抑制的に運転し、負荷変動に対しては、主力調整がし易い火力発電所で対応する事が現実的でしょう。いずれにしても、原発でも通常火力発電所でも、システムとしてはそれなりの「オーバーシュート」の癖を、システム内に抱えている事は間違いないのです。私たちは、需要と供給の双方で、大きな負荷変動を生じさせない様な、ソフトウェア的な方法を考え出さなくてはならないでしょう。BEMSとかHEMSとかいう言葉が一人歩きを始めていますが、さらに言えば、個別の機器レベルでの負荷の自己調整機能と、地域社会全体としての調整機能の併せワザが求められています。具体的には、例えばモーターの発停の際の負荷衝撃を和らげる「回生システム」や、短時間の負荷変動を吸収できる、キャパシータタイプの蓄電システムなどが挙げられます。最大の問題は、誰がそのコストを負担するか、なのですが・・・。

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2015年8月12日 (水)

2773 アナロジー

あるモノ、あるいはあるコトと、別のモノ(コト)の類比をアナロジーと言いますが、時々ふとモノ(コト)同士が頭の中で結び付きます。廃棄物の処理の観点から、原発と下水につながっていないトイレは、よく引き合いに出される例ですが、投稿者の中では、使い方によっては非常に危険であるという点で見れば、原発はむしろ車に近い存在の様な気がするのです。両方とも、安全に運用する限りにおいては、確かに便利で有用な「文明の利器」とも言えるかも知れません。しかし、それも「安全に運用すれば」という大前提の下で言える相似性でしかありません。安全の歯止めが外れた途端、車は凶器となり人を殺める道具になり下がるでしょうし、片や原発は、大量破壊や放射線被害の咆哮を始めることでしょう。

その意味で、昨日のセンダイの「再稼働事件」を見る限り、人々はスリーマイルやチェルノブイリやフクシマから、殆ど何も学ばなかったと言うしかなさそうです。車でさえ、アクセルペダルに、泥除けマットが引っかかった程度のトラブルでさえ、暴走し大事故を起こします。原発は、車に比べても、そのシステムは何ケタも複雑になっているシロモノですが、単にオペレータでしかない車のドライバーも、原発の運転要員も、シナリオが想定されていないトラブルには、殆ど無力と言うしかないでしょう。つまり、オペレータの役割は、車ではアクセルやハンドルやブレーキを操作して、目的の場所に自分と車を移動させる事であり、一方で原発のオペレータとは、マニュアルに従って、計器の針を決められた範囲内に納まる様に、アクチュエータを少し動かして調整する事でしかないのです。

車の運転における「外乱」は、例えば坂に差し掛かった場合でしょう。同じアクセル開度では車の速度が落ちるので、ドライバーはアクセルを少し踏み込むでしょう。原発にでの似たような外乱とは、夏場の日中における冷房負荷の増加などになるでしょうか。負荷上昇で発電機の回転数は低下するので、それを調整するためにタービンにはより多くの蒸気が送られるでしょう。その結果、蒸気溜まりの圧力が下がるので、制御棒を引き上げて核分裂を少し激しくする様に「調整」するのです。しかし、車と原発の好ましくないアナロジーは、暴走を始めようとするシステムが「本質安全」になっていない点にあると思うのです。つまり、異常なエンジンの回転数上昇や核分裂のオーバーシュートを検知した場合、何らか別の手段で「安全にかつ完全に」システムを停止させる仕組みになっていないという事なのです。もし、車がその様になっていれば、非常の場合エンジンと車輪の間の非常用の継ぎ手が外れてブレーキが利くでしょうし、フクシマがその様な(本質安全の)システムとなっていれば、津波で電源が失われた瞬間に、原発を「冷温停止」に導いた筈なのです。そうなっていなかったのは、両者の間の「危険なアナロジー」と言うしかないのです。

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2015年8月11日 (火)

2772 木を育てる文化

投稿の再開です。さて、この国で誇れる文化の一つが、連綿として続く木を育てて利用する樹木文化であると言っても良さそうです。古くは、縄文時代に柿や栗などの実のなる樹木を育み、稲作の時代になっても、田の水を涵養するために、急峻で水害を起こしがちな山々に広葉樹を植林したのだろうと想像しています。それらの樹木は、若い木は旺盛なCO2固定を行い、老木となれば用材や薪しても有効活用された事でしょう。用材としては、家や寺社を建造する事は勿論、多くの食器などの生活用什器や、農機具、更には仏像などとして、木の特性毎に工夫して使われても来ました。

農家は、もちろん春から秋までの間の農繁期は農業に勤しむ一方、農閑期や冬期は、ソリや馬般などを使って、山から用材を搬出する木こりや、あるいは山に籠っての炭焼きなどを副業としていた事でしょう。コウゾやミツマタの小径木は、更に特殊な目的に目的に使う工夫を導きました。和紙です。樹皮を剥いて水にさらし、叩解を経ての紙漉きというワザを生み出し、丈夫で年月を経ても劣化しない世界に誇るべき和紙を生み出したのです。更に、ろくろや細い木材を巧みに使った組木細工など工芸品も多様で豊富な木材の供給無しには成り立たなかった匠のワザでしょう。

とは言いながら、残念な事には私たちのその木を育てて利用する文化は、現在かなりの程度劣化している事は否めません。山にはすっかり人が立ち入らなくなり、手入れの行われなくなった山林はCO2固定能力を失い、荒れ放題となっていて、シカやイノシシ、クマなどの樹木にとっての害獣の天下となり果てているのです。望みはあります。ささやかながら、若い人たちが山に興味を示し、山に立ち向かおうとする動きも見えるからです。たぶん続きます。

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2015年8月 1日 (土)

2771 休稿

1週間ほどの帰省旅行のため休稿です。時間があれば、過去の投稿でも眺めてみてください。1000件ほど遡れます。

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2770 足元の技術

東京BSで開催されている、再エネ世界展示会とPV Japan2015を見て回りました。相変わらず、再エネ展示の代表は風力、水力、地熱ですが、いずれも大企業が絡む様な大規模システムが展示の主力、バイオマス発電関連もかなり増えては来ましたが、これも数百kwレベルの中規模以上が多い様でした。PVでは、展示の中身は相変わらずPV設置用の架台メーカーの展示が主体で、何か新しいアイデアやトレンドは、展示の中には殆ど感じられなかったのでした。その中で、電力の蓄積のための蓄電池システムの展示が多くなっているのが、今年の傾向の様でした。

しかし、広く薄く賦存する再エネの根っこである太陽光は、その密度が低いのが特徴ですから、それを賢く利用するには、あくまで小規模、究極的には1戸建て住宅向け規模を、サイズの理想とすべきだと見ています。つまりはPVであれば、1戸建ての屋根やマンションのベランダに設置し易くするための工夫、そのための安価な蓄電すステム、あるいは太陽熱を直接温水として利用するための安価な仕掛けなど、風力発電もその直接利用ではなく、一度バッテリーに蓄えた上で、電力ピーク時のピークカットや非常用電源として活用するなどの方法により、商用電源をバックアップするための補助電源として位置づける事により、その効果が最大限に発揮される筈なのです。その中で、一番納得できたのは、安価な「太陽熱調理器」でした。反射器の角度は変えられるものの、単にステンレス板を組み合わせた傘を逆向きにした様なシロモノですが、放っておけばお湯が沸き、煮込み料理が完成する、優れものです。

その他再エネ展示では、スーパーソルガム(カヤの巨大化したもの?)を燃料とする、バイオマス発電プラントの展示に注目しました。以前このブログでも紹介した「カヤペレット」の拡大版です。この植物はカヤの倍くらいの高さまで成長し、面積当たりのバイオマス収穫量で言えば、多分世界最大となる様な植物です。その乾燥バイオマスからは、したがって最大の熱量が得られる事になります。河原や里山のカヤの様に野放図に蔓延るのでなく、しっかり栽培が管理できる植物であれば、耕作放棄地などでの栽培も検討しても良さそうです。いずれにしても、再エネは規模を抑えて、出来れば最小ユニットサイズを追求し、必要であればそのユニットを増やしていくアプローチが望ましいのです。

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