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2015年9月30日 (水)

2815 デジ・アナ

種々の事象がデジタルであるか、アナログであるかを時々考えます。例えば、今文字を打っているパソコンはデジタル信号で動いているのは間違いないところですが、モニター画面に映し出される写真が、たとえデジカメ(デジタルカメラ)で写されて、1インチ当たり数百ドットのモニター画面に、何千階調だかの「デジタル画像」として表示されているにしても、それを眺め理解している自分の脳は、アナログ的に認識しているんだろうな、と想像しています。つまり、コンピュータ内でのデジタル信号が、いつの間にかアナログに「変換」される瞬間があるという事になります。

逆ももちろん存在するでしょう。つまり、無限の色や明暗の階調を持つアナログな景色を、高い(あるいは安っぽい)デジカメで、デジタル信号化する過程が、それに該当します。同様に、アナログで起こっている事象を計測器で計った場合、結果の数値データはデジタルになってしまうでしょう。結局、デジカメや計測器は、アナログな現象をデジタル化する機械であると定義できそうです。

ところで、言葉とは何でしょう。アナログである自然の色を、例えば虹を、七色であると表現した途端に、虹は7個の言葉のデジットに分けられ、デジタル化された事になります。実際の虹には、7つという少ないデジットではとても表現できない程の「中間色」が含まれていますから、事実上色を細分化することなど出来ない相談だと言えるでしょう。画家は、自然の景色を描写しようと「もがき」ますが、多分これまでどの画家も完全に納得のいく色で、風景画を完成させた事はないと想像しています。何故なら、絵の具の種類は限られているからです。たとえそれを混ぜ合わせたとしても、種類が何倍かに増えるだけなのです。ですから、多くの画家は具象を諦め、抽象に走るしかないのでしょう。

この事を敢えて表現すれば、私たちはアナログの世界を、計器や有限の数の視神経や言葉でデジタル化した上で、再度アナログ化して脳で理解している、というややこしい言い方になってしまいます。結局、敢えてデジタルとアナログに分ける意味なんか無いという、変てこな結論になってしまうのです。

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2015年9月29日 (火)

2814 断熱性能重視

住宅の新築ばなしの続きです。初期計画では、東北地方では普通の断熱性能を持たせ、ペレットボイラにより暖房と給湯のエネルギーを賄う予定でした。第一候補のヨーロッパ製のペレットボイラは、コンパクトで燃焼コントロールも全自動であり、ほぼ理想的に思えました。

しかし、よくよく頭を冷やして考えてみれば、もし断熱性能が完ぺきに近い住宅であれば、冷暖房は例えば小型のエアコン1台でも十分住宅全体の空調が賄える筈なのです。もちろん、そんな住宅は単価が高すぎて普通の人には建てれませんから、どこかで折り合いをつけるしかないでしょう。その際、設備費にお金を掛けるくらいなら、その分を建物の断熱性能を上げる事にお金を回した方が、ライフサイクルで見たばあい、光熱費が小さくなるのは間違いないのです。

そこで、28122813の最低設備費の暖房給湯案の必然性が出てきたのでした。建物の断熱性能は単にありふれた断熱材の厚みを増やすだけでは十分ではありません。気密を確保した上で、例えば2種類の発泡系の断熱材を併せワザで使うのが効果的だと見ています。室内側は、現場発泡の断熱材で気密を確保し、これに加えて50㎜程度の外装壁の内側に発砲スチロールなどの発泡断熱材を追加するのが効果的と思われます。また窓の断熱性能も重要はファクターです。冬の厳しい北国では、窓からの放熱量が大きくなるからです。だからと言って、北欧並みの三重ガラス窓と言った「贅沢」は、単価を大きく押し上げます。

結局、やや重装備の断熱性能を持たせた住宅に、設備費を抑えた暖房給湯設備を備えると言うのが、最終結論となりました。今後の進捗に関してはこのブログに追加して行きたいと思っています。

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2015年9月28日 (月)

2813 バイオマス給湯機案

 

2812の続きです。2812で書いた様に、ベレットストーブに、温水を作るための熱交換器を備えた、温風・温水兼用のストーブは実は既に実用化され、特に欧州市場では市販されています。しかし、考えてみれば蒸し暑い夏場に、風呂用の温水を作るために、室内においたストーブに火を入れる訳にはいかないでしょう。晴れた日であれば、太陽熱温水器で十分な量のお湯を得る事は可能ですが、問題は夏場の曇天や雨天の日の給湯熱源の確保です。

 

可能性として一つ考えているのは、ペレットストーブを2台設置し、1台を床下温風暖房用に冬期だけ運転し、もう1台は温水専用として、太陽熱が十分に得られない日に、火を入れる方法です。ストーブですが温風吹き出し機能は不要で、燃焼室の中に熱交換用のコイルを追加し、水と熱交換させる様に改造します。専用に設計されたペレットボイラに比べれば、確かに熱効率は低めになるでしょうが、工夫次第では十分実用的なレベルで温水を作る事が出来ると見ています。もちろん、温風用も温水用もストーブは屋外のボイラ小屋の中に設置する必要はあります。

 

具体的な工夫としては、例えばストーブの煙突内部にも熱交換用のチューブを入れて、低温から高温域まで、無駄なく熱を回収するのです。つまり、冷たい水は煙突の中のチューブを通過する間に少し暖まり、温度の高い燃焼室に近づくに従って温度が上がって行き、燃焼温度が最も高い燃焼室上部で最高温度に達して、貯湯タンクに送られる事になります。その温度を検知して、熱交換チューブ送る水の量を加減するのです。それには、既存の温度調節付きのポンプユニットを使えば良いでしょう。

 

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2015年9月27日 (日)

2812 理想の暖房・給湯

昨日、計画中の自宅の暖房・給湯の熱源として検討しているのと同タイプの、小型バイオマスボイラの見学に出かけました。見学先は、Y形市内にあるエコハウスと呼ばれる、高気密・高断熱住宅の実験棟でした。ここは、壁面300㎜、屋根面400㎜もの断熱材をまとい、5kwの太陽光発電、7kwほどのペレット焚きバイオマスボイラを備える実験的な住宅です。ここでは、屋外と屋内の熱の出入り(Q値と呼ばれる数値)が極端に小さく、小さなエネルギー源で十分に冷暖房が可能となっています。

エネルギー源は、太陽光発電による電力、ペレット燃料による暖房(給湯)ですが、暖房システムは非常にシンブルで、80℃程度の温水を床下に設置した放熱器に通し、暖めた床下の温風が窓際に配置したルーバーから、ほのかに立ち上がってくると言う形式でした。

ここで、ハタとひらめいたのは、いわゆる韓国のオンドルです。オンドルは、燃やした燃焼ガス(つまりは煙)を直接床下に導きますので、いわば温風による床暖房という方式です。しかし、煙の中には、色々な有害物(例えばタール)が含まれますので、オンドルの気密が悪いと燃焼ガスの臭いが屋内に充満してしまいます。オンドル内の煤の掃除も問題になるでしょう。

そこで、燃焼ガスの替わりに、熱交換したきれいな空気を床下に送れば、オンドル並みの床面の温度は上がらないにしても、少なくとも冷たくないほのかな床暖房が可能となる筈です。温風は、既に市場に出ているペレットストーブで作ります。これを、屋外に設置した「温風小屋」の中に設置し、そこで作った温風を床下のダクトを通して、居室や台所、浴室などの床下に送るのです。いわば、「間接オンドル」とでも呼べるでしょうか。当然の事ながら、熱源の容量が限られるので、住宅自体の断熱性能は高く設定する必要があるでしょう。コンセプトとしては、寒くない家を、小さな熱源で温め・冷やすという事です。

問題は、給湯システムです。夏場の晴れた日は、太陽熱温水器で賄うとしても、曇天・雨天の日や冬場をどうするかが問題です。そのためにも、温水ヒーターを組み込んだペレットストーブが必要となります。ヨーロッパ製にはその様なストーブも存在しますが、国産ではまだ適当な製品が開発されていない様な気がします。引き続きこの件について考えてみます。

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2015年9月26日 (土)

2811 科学とは

重たいテーマです。科学という言葉には、「分科学である」という定義もあります。つまりは、分ける事は分かる事だという考え方です。従って、およそ自然科学と名前がつく学問は、徹底的に分科されている筈です。一口に化学と呼ばれる分野でさえ、有機化学、無機化学、分子科学、生(物)化学、物理化学、応用化学、環境化学、うんぬんかんぬんといった具合です。

しかし、これらを統合する学問は何処にもないのです。従って、例えば化学者がこれまでにない物質を合成したと仮定しても、それをどの様な目的に使ったら良いのか、それは果たして人体にどの程度の悪影響を与えるものであるのか、それを使うことに倫理的問題はないのか、などそれを「正しくコントロール」する方法は、実は誰も示してはくれないのです。もし、その物質が経済的に利益をもたらすものであるなら、企業は多少の倫理的過ちや環境上のリスクを犯してでもそれを商品化して、利益を得ようと画策することでしょう。企業では、利益は何物にも勝る優先順位を与えられているからです。その様な例は、過去の公害事件や薬害事件を振り返っても枚挙に暇がないくらいです。

さて化学物質で、絶対安全と考えられるものを挙げよと言われれば、エタノール程度しか思いつきません。薄められたエタノール(をお酒と呼ぶ場合があります)は、適量であれば人間にそれほど害を及ぼさない事は、長い間の「人体実験」で確認済みだからです。もちろん、これは醸造という手法で、酵母が糖を分解して作ったものなので、純粋な意味の合成「化学物質」とは呼べないのですが・・・。いずれにしても、如何に動物実験で安全性が確認された化学物質であろうと、自然食物でない限り、人体に何らかの影響を与えずには置かないでしょう。いわゆる、残留農薬や食品添加物などが、どれほどヒトの遺伝子を傷つけているか、計り知れないものがあります。

私たちには、是非ともこれら極限まで分化してしてしまった化学を統合し、それらをコントロールするための学問が是非必要だと思うのです。それを仮に「倫理学」と呼ぶなら、それぞれの分野毎の「個別倫理学」、例えば生物化学倫理学と、それを統合する大きな意味での統合倫理学に分かれるのかも知れませんが、そこまで考えると論理入れ子のスパイラルに落ちてしまい、単純な頭の投稿者の手にはとても負えないと白状するしかありません。

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2015年9月25日 (金)

2810 鈍感な巨象

欧州のビッグ企業(巨象企業)の不祥事が、世界中のメーカーを震撼させています。今やコンピュータで動く様になった車に仕掛けられたエレクトリック・トリックです。テストモードと通常走行モードを切り替える事は、それに関わった者から内部告発でもない限り簡単には発覚しにくいトリックでしょう。排気ガスのテストは、当然の事ながら屋内のテストベンチのローラーの上にテスト車を載せた状態で行われるでしょうから、監視された状態で車を動かすのでしょう。トリックを考えた人は、きっと賢い人なので、定められたテスト条件で、窒素酸化物を極少化する最適の条件でエンジンを動かすロジックを考えて、それをコンピュータプログラムを仕込んだのでしょう。

一方で、公道を走る時は、走行モードは運転者や交通事情により不規則になるので、コンピュータの追従遅れで、排気ガスの清浄度は低下せざるを得ません。秘密のモードセレクタースイッチがあったのか、それとも新車の時だけ機能し、販売後は自動的に消えるボラタイルプログラム?を仕込んだのかは想像するしかないのですが、いずれにしてもひどい「不正行為」ではあります。

しかしながら、本当の問題は、この様な不正を影響が小さい内に消火できなかった、大企業の体質にあると言わざるを得ません。不正を仕掛けた人間は、企業の中でも一握りのグループなのでしょうが、それを許さない「品質管理」や「法令遵守」の仕掛けが機能していなかったのでしょう。目に見えるモノとは異なり、ソフトウェアの品質管理が難しいのは認めざるを得ません。しかし、それはプログラムバグ発見に関してであり、ロジックバグの発見とは別次元の話です。巨象の皮膚は厚く、小さな虫に刺されても痛くも痒くもない様に、大企業は「鈍感症」に支配されている可能性が高いでしょう。同様の不正は、他の企業も行っていた可能性は、間違いなく大きいと見ています。動物(企業)は、大きくなるほど鈍感になる事は避けられない様です。その究極の姿が、たぶん絶滅してしまった恐竜でしょうか。

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2015年9月23日 (水)

2809 休題(飯豊本山)

今回は、環境ネタではなく「山ネタ」です。40代半ばで山に目覚めて以来、ずいぶん多くの山々に登ってきました。百名山で言えば60座程ですが、なかでも故郷の山である鳥海山には、今季だけでも十数回登って楽しんでいます。山の魅力は、やはりその達成感にあることは間違いないでしょう。先ずは計画を立て、場所によっては長い距離を移動しながら麓にたどり着き、喘ぎながら頂上をめざし、帰路は膝や足指を気遣いながら無事下山、麓の温泉で汗を流す時、えも言われぬ達成感、幸福感が広がるのです。

好天に恵まれた連休中日の21日は、以前日帰りピストンに挑戦して跳ね返された飯豊本山に向かいました。前回は、飯豊温泉から入って、梶川尾根に取りついて、日帰りで行けるところ、つまりは昼までに到達できるポイントまで行こうと登り始めましたが、結局本山までかなり距離を残した「天狗岳」までしか届かず、出発時間の遅れという失敗と体力不足も実感してしまいました。

年々体力が衰えるのは仕方がない事なので、そこで今回は作戦を変えて、距離が短い「大日彬」から入る事にしました。このコースでも、コースタイムは7.5時間なので、目標を8掛けの6.0時間において、出発しました。前日は午後から車を転がし、林道終点の大日彬小屋前の駐車場で車中泊です。翌朝は4時起床の予定が、寝坊して目を覚ましたのが0530。暖かい朝食を摂る時間がないので、菓子パンなどをかじりながら、登山届を記入。余りピッチを上げない様に歩き出しました。しかし、このルートは歩き出してすぐの尾根に取りつく「ザンゲ坂」は、結構高さがあり、鎖場もある急登。ここで、やっと体が目覚めてピッチが上がってきました。地蔵岳までは、標準3時間のところ2.0時間でクリア。その後は、三国岳や種蒔山を乗り越えるアップダウンの多い尾根筋を「切合小屋」まで2.0時間で渡り、いよいよ1900mを超える草履塚を乗り越えて、最後の登りである本山までの急坂に取りつきます。あえぎながら本山小屋まで登ると、もうピークまでは10分の散歩です。三角点にタッチするまでは、予定通りの6.0時間でクリアできました。

さて頂上で20分程休憩し、同じコースを戻りました。しかし、何時も感じるのですが、登りは元気もあって、自分の心肺能力に合わせて、結構順調に登るのですが、帰路は思っている以上に長いのです。6時間で登れたからと言って、4時間でくだれる訳ではないのです。今回も、しっかり5時間掛かってしまいました。スリップに気を付け、膝や足首をひねらない様に下るのは結構時間がかかるのです。結局、時々の水休憩を含んで、丸々11時間歩きっぱなしだった事になります。もちろん、達成感もほぼ100%に到達。心残りはと言えば、寝坊で出発が遅れた分下山時間も遅れ、麓の温泉に浸かる時間が無かった事でしょうか。

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2015年9月20日 (日)

2808 思考停止

嫌な響きの言葉です。パスカルの言葉を十分に理解している訳ではないのですが、人間が考える葦であるとして、考える事を止めた途端ただの「葦」つまりは、河原の雑草になってしまうと思うからです。思考停止は、いわゆる思い込みから始まるのでしょう。意味を深く考えずに、他人のいう事を盲信・盲追する態度から生ずると思うのです。その意味では、2805で書いた「原理主義」にも通ずるものがあります。

ではなぜ思考停止に陥るかですが、それは以前にも書いた事ですが、還元主義に深く関係すると見ています。つまり、考え方における還元主義とは、~は~に過ぎない(~しかない)、というものの見方を指します。国の安全保障は、集団的自衛権しかない、と主張するのも、あるいは単純に隣人を愛して、どの国とも平和条約を結べば事が足りると考えるのも、いずれも原理主義であり還元主義の一例と言えるかも知れません。それしかないと思い込めば、他の選択肢は見えなくなり、一つの目標に向かって突進する事になるのでしょう。思考停止に陥ると、他の意見に耳を貸さなくなり、問答無用の頑なな態度をとる様になります。そうでなければ、リーダー的な人の意見を盲信するかのいずれかなるのでしょう。

今この国の政治を観察するに、まさに多くの政治家は思考停止に陥っているいるのでないかと疑ってしまいます。その証左は、議会における堂々巡りというか、噛み合わない議論を眺めるだけでも十分でしょう。野党も、少しばかり法案の弱みを突いて、与党側を慌てさせる場面も確かにありましたが、そこを突破口に畳み込む様なパワーは感じられませんでした。どんな法案であれ、人が作ったオキテ(決め事)には、欠陥や矛盾がある筈です。それを防ぐには、物事をある程度分解して、その要素ごとに理論を固めていく必要があるでしょう。明確な事態が措定でき、それを記述しない法律は、玉虫色の欠陥法令と言うしかないでしょう。玉虫色の決め事(法律)は、その運用において必ず混乱が生ずることは、歴史が繰り返し教えるところでもあります。今日から山に向かうので、たぶん数日休稿です。

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2015年9月19日 (土)

2807 木使い

断言しておきますが、北国、取り分け東北は、山の木を上手く活用しない限りは、産業も拡大しないでしょうし、したがって雇用も生まれず、人口減と高齢化、結果としての地域力のジリ貧というトリプルパンチ続くのでしょう。何故なら、食糧と山の木だけが、この地域で飛び抜けて自給率が高い地域資源だからです。食糧は、多分平均でも200%に迫る数字でしょうし、木材をもし持続可能な形で伐採し、それを用材利用し、不要な部分をエネルギー利用すると仮定するなら、少なくとも投稿者が住んでいる自治体では、家庭用の熱需要の半分程度は、用材利用後の端材や農業残渣などのバイオマスエネルギーで賄える計算になるのです。

一方で、平成の大合併後でさえ人口10万人に満たず、毎年1000人ずつ減り続け、現在は8万人余りになったこの町が、家庭用の熱需要(=石油会社に支払う灯油・ガス代)は、なんと年間では300億円前後にも上るのです。これを戸数で割ると、1戸当たりでは30万円を大きく超える金額になるのです。この半分を地域エネルギーに賄うと仮定すれば、この地域だけで150億円もの市場が新たに生まれる事になるのです。森林の活用・維持、製材、バイオマスの燃料化とその流通など、関連する産業と雇用を考えれば、1000人程度の新たな雇用が生まれても不思議ではないでしょう。

東北・北海道地域の最優先課題は少子高齢化の改善に向けての若者の雇用の増加ですが、もし単にその中身が単に「企業誘致」だけなら、結局材料を地域外から持ってきて、それを加工するだけの産業になりますから、単にその工場の直接雇用が増えるだけに留まります。地域に落ちるお金も雇用者の給料程度でしょうから、100人規模の工場を30社程度誘致しないと150億円の経済効果を実現できないのです。しかし、バイオマス産業は地域で消費するエネルギーを、地域資源で賄う訳ですから、そのお金が地域内だけで循環する事になります。結果として、これまで石油メジャーに支払っていたお金が同じだけ減る訳ですから、地域の購買力は増加しより豊かな地域になるでしょう。「木使い」の最大限の効果はそこにこそあるのです。

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2015年9月18日 (金)

2806 Pros&Cons

2805の続きになります。表題は、賛成・反対やメリット・デメリットという程の意味ですが、要は物事には「少なくとも両面」あるという事なのでしょう。ここしばらくこの国は、安全保障を巡って大きく2つに割れて議論を繰り返してきました。安保法制にしても、Aベノミクスにしても、派遣労働者法の改正(改悪?)にしても、心ある人々が不安に感じているのは、それが「ココロの問題」を置き去りにしている議論だからだと投稿者はみています。賛成・反対の議論やメリット・デメリットの議論においては、例えば今度の安保法制の改定が、国の存立(安全保障)に有利に働くのか、あるいは近隣諸国の反発を食らって、逆にリスクを高めるのか、という論点に議論が集中しがちです。

しかし、ココロの問題を入れると、議論の方向はかなり違ってきます。つまり、安保法制を採択したとすれば、あるいは廃案にしたとすれば、B国、あるいは近隣諸国の政府または国民は、一体どの様に「感ずるのだろう」と想像してみるのです。防衛予算の増額に期待しているB国はがっかりするかも知れませんが、B国の国民は歓迎するかも知れません。近隣諸国は、支配地域を広げようと画策するC国はニヤリとするかも知れませんし、そうでない国は平和国家としてのこの国の姿勢に拍手を送るかも知れません。つまり、ココロの問題をコトの一つの側面と考えれば、議論の方向は大きく違ってくると思うのです。

単に賛成・反対と声高に叫ぶのではなく、それぞれの立ち位置を明確にした上で、改めてメリットとデメリットあるいはココロの問題も視野に入れて、議論を行うべきでしょう。複数の法案を束ねた上で、数の論理で押し通そうとする姿勢は、もちろん間違っていますので、何百時間議論を続けたとしても、正しい議論は出来ないし、結論も出ないでしょう。そもそも論(つまりは違憲・合憲問題)がクリアになっていませんし、国民が抱いている不安のココロにも全く答えていないからです。

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2015年9月17日 (木)

2805 原理主義の危険性

原理主義に関しては、このブログでも何度となく言及してきた様な気がします。ここにきて、種々の原理主義が目につき、それらが互いにフリクションを引き起こしている様な気がしますので、少し整理しておきます。

宗教原理主義についてはこの小文でカバー事は出来ない程、長い歴史と根深さを持っていますが、国際間の紛争だけではなく、多くの国では国内にそれによって生ずる摩擦を抱えています。信教の自由を認めるだけでは解決できない、人間としてのサガみたいなものも絡んで、多くの国や地域でなかなか解決できない悩みを抱えて苦しんでいるのが現状でしょう。経済原理主義については、少し古い表現にはなりますが、「エコノミックアニマル」という言葉で代表される「経済至上主義」を指しています。これを別の言葉で表せば、「金の亡者」とでも言うのでしょうか。経済成長優先、GDPの大きさ優先の考え方に凝り固まった国の舵取りに走ってしまう結果に陥るでしょう。同じ意味で、安保原理主義は、B国盲信主義とでも言い換えれそうです。近隣諸国との距離感を考慮せず、1国だけを盲信・盲追するのは、外交のテクニックとしては最低レベルと言うしかありません。

これらの原理主義は、別の原理主義も招くでしょう。例えば、科学技術原理主義です。先進国とは、科学技術が発展していて、それをテコにして工業が発達していて、皆が車や便利な交通機関を利用出来て、つまりは「便利で物質的に豊かな」生活を享受できている国を理想に掲げる考え方と言えるでしょう。上に述べた原理主義の結果、取り残されたものは、全て「ココロの問題」だとも言えるでしょう。宗教でも、経済でも安保、科学技術でも、そこから取り残された国や人々のココロを思いやることは殆ど無いでしょう。それは、強い国はもっと強く、豊かな国はもっと豊かに、便利な暮らしはもっと便利にすることを至上の目的に掲げている主義主張だからです。ここでの結論としては、原理主義とは、「ココロの問題」を置き去りにした、危険でココロ貧しい考えからであると言っておきましょう。

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2015年9月16日 (水)

2804 高齢化率(超高齢化)

直近の調査で、今住んでいるA田県の高齢化率(65歳以上の人口の割合)が、1/333.3%)を超えました。なんと3人に1人が65歳以上になってしまったというのです。最も高い山間の自治体では、これもビックリする事に50%を超えてしまったところもあるとの事。一体、今後この地域はどうなってしまうのか、行政や市民レベルも含めて全くの無策状態と言うしかありません。

とは言いながら、このブログは批判を目的とはしておりませんので、提案を試みます。高齢化率が高まる主な原因は、地域の若者が離れていき、結果として子供の数が激減し、一方で高度医療の発達の結果、たとえ不健康な状態でも長生きが可能になった事にあるでしょう。しかし、不活発になった状態で長生きをして何が楽しいのだろうと、個人的には考えてしまいます。さて、それをどの様に改善するかですが、何より若者を呼び戻さなくてはならないでしょう。そのためには、雇用の増加という順番にはなりますが、これまでのこの地域の政策は、何は無くとも「企業誘致」という事で、タダ同然の土地を用意し、税金を安くして企業を引っ張ってくる「だけ」だったのです。確かに、雇用は増えますが、結局原材料を県外から運んできて、工場で加工し、それをまた県外の消費地に運ぶビジネスモデルでは、冬季雪に降り込められる土地柄では、企業側の進出意欲もずいぶん削がれる事でしょう。

そうではなくて、ビジネスモデルは、地域の資源を最大限活用し、地域で加工して、地域の消費に回し、余った分を他県や海外に移出する方向でなくては、結局地域で回るお金や雇用を最大化は出来ないのです。投稿者は、東北・北海道地域での旺盛な需要として、エネルギー産業を考えています。冬季は、安い暖房・給湯エネルギー源無しには、とても暮らせないからです。それも、石油や電気エネルギー等ではなく、熱エネルギーとしての形態です。エネルギー源は、山にうなっている木材や農業残渣などの組み合わせになるでしょう。今や林業も機械化が進み、単に辛いだけの肉体労働ではなくなってきていますし、それらをエネルギー源化するにも工場が必要です。またそれを流通させる事や、北国のライフスタイルに合致した、バイオマス燃焼機器の開発・製造も必要でしょう。これまで石油会社に払っていた灯油代は、地元の資源を活用する市場に回る事になります。若者の雇用も生まれ、地域の収支も上手くビジネスを転がせば、プラスにする事も可能でしょう。高齢化の阻止は、先ずは産業政策から始める必要がありそうです。

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2015年9月15日 (火)

2803 リスクの可視化

救難ヘリによる救助は華々しいニュースですが、可能なら災害の予知と前広の避難が賢い選択というものでしょう。今度の水害に限らず、災害には必ず前兆があります。水害の場合は明白です。長時間続く降雨か、短時間に集中的に降る豪雨です。降った雨は、地面に浸みこみ、地面への浸透が飽和する、やがて地表を流れ始めます。小川は、合流しやがて支流の川になります。支流は合流しやがて1級河川に流れ込みます。しかしながら、1級河川の水位がいきなり上昇する訳ではありません。それが、警戒水位に達する数時間前、上流部ではとっくに警戒水位を超えていた筈です。結局、下流部での堤防決壊の前兆は、下流部の警戒水位の突破ではなく、上流部での急激な水位上昇だと言えるでしょう。それも、単にある時間の水位のデータだけでは情報としては不十分で、時間を追った積分値と時間当たりの変化率(微分地)が重要な情報になるでしょう。

しかしながら、ITやIoTのこの時代、お金を掛けなくてもこんなデータを集める事は非常に容易になっていると思うのです。つまり、川の水位をセンシングする超音波などを利用した簡単なレベル計と、そのデータを発信するための無線データロガー子機、それを集めるための親機とパソコン+ソフトがあれば十分なのです。そのセンサーと子機を設置する場所は、川に架かる橋が適当でしょう。電源には、小さな太陽電池とバックアップのためのバッテリーがあれば十分でしょう。データは、例えば数分刻みに送れば十分なので、電力はそれほど必要ないからです。

送られたデータは、親機で受信しそのデータはパソコンで処理されて、その時点の水位と流量、更に時間的な変化率をデータ処理して、水系の状態をモニターしつつ、必要によりアラームを出す訳です。ここに、人の判断は入り込まないので、避難注意報や警報も自動化が可能となるでしょう。これが水害に対するリスクの可視化の一案です。素人なりにコストを試算すると、センサーと子機と電源で、1ヶ所10万円もあれば十分でしょう。1本の短い川に、例えば10ヶ所程度のセンサーを取り付け、データを受ける親機と専用パソコンを準備しても、低い方の数百万円で十分でしょう。何億も掛けて、堤防を補強し嵩上げする事業を考えれば、タダみたいな金額です。何より、堤防を補強・嵩上げしたところで、50年に一度の降雨が、日常茶飯事になりつつある現在、堤防が決壊しないまでも、それを越えて溢れる越水水害は今後も多発するだろうと、水害に対する考えを改める必要もあるでしょう。ITやIoTは、災害予知や可視化にも実に有効な手段なのです。

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2015年9月14日 (月)

2802 初期レスキュー

今回の水害地域の救出報道を見ていて感じた事がありました。孤立した家々や施設から人々を救い出すのに、この時代になっても、ヘリコプターによる「一本釣り方式」か、あるいは手漕ぎボートによって数人ずつ何度も運ぶしか、今のところ方法が無さそうな事です。そのため、数百人規模の被災者数になると、救出に時間が掛かって、結局日没による時間切れで、翌日以降のかなりの積み残しが出てしまいました。一本釣り方式で、例えば1回に5人ずつ収容できると仮定して、一人を吊り上げるのに探索時間を含めて5分掛かるとして、5人まとめてで25分、収容後5分ほど飛んで、避難所の広場に5分かけて彼らを降ろして、また被災地に5分かけて戻ると仮定すれば、1サイクル40分で5人ほどの救出が可能となるでしょう。実際は探索時間はより多く掛かるでしょうから、1サイクルは1時間程度と考えなくてはなりません。結局日中の10時間では、1機の救難ヘリでは50人ほどしか救出できない事になるでしょう。同じ空域に例えば10機ものヘリが飛び交う事は、空中衝突の危険が増しますし、実際には立ち木や高圧の送電線や電線や通信用タワーなど、ヘリにとって危険な障害物も多いのです。

津波や水害直後の街並みには、それ程深いとは言えない水深の濁流がある、種々の浮遊物も浮かんでいますので、例えば船外機などプロペラを持つ動力船は使えません。動力を使うのであれば、ジェットスキーの様なスクリーン付きのジェット水流装置で進む必要があるのでしょうが、それとてすぐにゴミが詰まって動けなくなります。

それを回避するためには、いくつかの手段が考えられるのでしょうが、水陸両用車もその候補でしょう。浮力を持つ太いタイヤの水陸両用車で、推進力を出しながら、障害物を乗り越えて進むスタイルです。日本の狭い道路事情も考えれば、大きなサイズの車両は役に立たないため、大型のジェットスキー程度の大きさで、ジェットスキーに太いタイヤを付けたようなスタイルになるでしょう。小型なので、トラックで移動でき、玄関にも横付けできるので、100台もあれば、数時間で多数の人を救出できる筈です。

もう一つは、フロリダ辺りの湿地帯観光に利用されている「プロペラ船」です。喫水が非常に浅いので、多少の泥が溜まった場所でも踏破できます。スピードが速く、1サイクルを縮める事が出来るので、有効でしょう。水陸両用車にしても、プロペラ船にしても、通常時は川遊びとしても使えるので、維持費程度であれば賄える事でしょう。両方とも、多分低い方の数百万円もあれば調達可能で、大型のヘリを使えば空から運べるので、計画的に導入し、地域に分散して配備すれば、イザと言う時初期レスキューに活用できるでしょう。水害は、今後増える事はあっても、減る見込みはないのですから・・・。

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2015年9月11日 (金)

2801 線状降雨(水)帯

それにしても、長く続く豪雨です。昨年広島で、悲惨な山体崩落事故を引き起こした豪雨もやはり線状降雨帯が原因でしたが、今回の場合は規模と豪雨の継続期間が広島とは一桁違うような気がします。天気図を眺めると、今回は日本海に入った台風と、太平洋上にある別の台風に日本列島が挟まれていますが、特徴的なのはその規模のバランスが大きく異なるという点です。典型的な雨台風である18号は、南の海上からひどく湿った空気を引き連れて上陸し、さっさと日本海に抜けました。

これだけであれば、被害も最小限で済んだのでしょうが、今回はタイミングの悪い事に、先に発生し、もっと規模の大きな17号が太平洋上を進んでいたのでした。この台風は、実は比較的緯度の高い場所で発生し、真東方向の日本に向かって進んでいたのですが、通常の台風の様に、海洋性の暖かい湿った空気を伴っていたのではなく、どうやら北からオホーツク海の冷たい空気を引っ張り込みながら進んでいた様なのです。

今回の線状降雨帯は、この二つの、湿ってはいるが温度の大きく異なる気流がぶつかり合うまさにその境目に発生した、強力でかつ継続する上昇気流によって、厚い積乱雲が形成されていたのが原因だったのです。18号は、日本海に入ってから急に動きが遅くなったため、同じ気圧配置が長い時間続く事になったのでした。その南北に連なる線状降雨帯の真下に入ってしまった、同じく南北に流れる鬼怒川流域は、まことに運が悪い地域になってしまったと言うしかありません。

更に、もっと高い位置から気象の状況を眺めるならば、この時のジェット気流は大きく蛇行していて、日本の西側では南下し、それが太平洋上で急にUターンして、今度は北上していたのです。18号は、このUターンカーブの内側にトラップされ動けず、一方で17号は、やがてこのUターンに乗って日本列島沿いに北上を始めるのです。即ち、今回の長く続いた豪雨の遠因は、例年になく弱まって大きく蛇行したジェット気流が、運悪く日本の上に居座った事になると言えそうです。北極海の温暖化により、夏場のジェット気流の蛇行の傾向は、今後も定着する可能性が高く、今回の様に50年に1回レベルの異常気象が、今後続発する事も覚悟しておかなくてはならないかも知れません。    旅行のため2日ほど休稿です。

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2015年9月10日 (木)

2800 ネットデモ

昨晩のTEDプレゼンの中のキーワードは、「フィードバック」だった様に思います。プレゼンテーマは、建築物とそれを使うユーザーとの間のコミュニケーションの断絶、つまりはユーザーから建築家へのフィードバックが不十分なため、奇抜な形の建物が蔓延る結果になったとM.クシュナーは言うのです。確かに、建築家がデザインを起こしてから、建物が完成するまで数年か10年ほどを要し、実際に落成して人々が建物の雰囲気や使い勝手を実感するのはそれからですから、もしピンと来なくても、建て主が一度受領してしまえばどうにも修正は出来ないのです。

新国立競技場も、もしカリスマ設計者のZハ案の設計のままに作っていたとして、それが果たして、あの場所(神宮外苑)にスンナリマッチしたのか、見かけの通り使い勝手も良かったのか、本当の事は実際に出来て、使ってみなければ分からない部分も多いのでしょう。その意味では、クシュナーの言う通り、振り子の振り幅がひどく大きくなっていたかも知れません。

しかし、昨今はネットという「フィードバック手段が」あります。五輪のロゴマークもネットでズタズタに切られましたし、利権絡みで天井知らずに膨らみ過ぎた新国立競技場の予算もバッサリ切られました。同様に、現政権の暴走に対しても、ネット社会がノロシを上げてデモを組織して対抗しています。選挙で大勝したからといっても、荒っぽい政策に対しては、すぐさま「No」を突き付け、そのNoが正論ならそれは直ちに拡散する様な時代になったという事でしょう。いわば「ネット上でのデモ」とでも呼べるでしょうか。

これを、科学・技術の用語で言うなら、ネット社会では、フィードバックの「応答時間」が「限りなく短くなった」と表現する事が出来ます。しかし、残念ながらですが、ネットは将来あるべき姿を指し示す「フィードフォワード」は苦手の様に見えます。それだけ、ネット社会を生きている私たちは「現実的」になり過ぎているのかも知れません。腹に入らない事に反応するのは敏感ですが、では一体どうすれば良いのか、じっくり考えて、長い時間レンジでの「より確からしい代案」を出す力がまだまだ弱い、と反省するしかなさそうなのです。この力が私たちの間に十分満ちた時、真の意味の民主主義が完成するのでしょう。その時こそ、戦後に与えられた民主主義というレジュームから「脱却」する時なのだと見ています。

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2015年9月 9日 (水)

2799 アメ・ムチ

いわゆる環境税は「ムチ」だと言えます。環境に負荷を与える活動(例えば石油や電力の消費)には、罰を与える、という訳です。それによって、環境負荷を抑える効果はそれなりにあるでしょう。石油や電力を使ってお金を払った上に、その料金に更に上乗せ税が掛かってくるため、支出が大きくなるので、お金を払う立場の人は使用を抑制しようとするでしょう。しかし、それにも限界がありそうです。もしかすると、ある企業は上乗せ分を、製品に転嫁するかも知れませんし、一般の需要家も次第に割高な料金に「慣れ」てしまうかも知れません。

それを回避するのが「アメ」です。省エネや再生可能エネルギー利用の拡大に、褒美を与えるのです。罰金と褒美のどちらが人々のココロを引き付けるかと言われれば、後者に決まっているでしょう。しかし、褒美にもやがて慣れが生じてしまうのは如何ともしがたいところです。では一体どうすれば良いのでしょうか。

結局、お金に換算した罰や褒美には、その効果に限界があると思わなければならないというのがポイントとなるでしょうか。それを回避するのは、遠回りにはなりますが、意識の改革しかなさそうなのです。つまり、誰のための省エネや再エネの拡大か、という意識の改革が必要だと言えます。上に述べた、アメとムチは、今まさに環境負荷を上げている「現世代」への罰や褒美に他なりません。ここで言う意識の改革は、環境への負荷を下げるのは「まだ見ぬ子孫のためだ」と言う意識を求めるのです。温暖化は、その原因の全てがCO2の増加ではないにしても、それなりの割合で関与している事は否定できません。しかも、その影響は50年後、100年後によりシビアになると予測されています。加えて、化石エネルギーを現世代で掘り尽くして使ってしまう事は、ある意味では子孫に対する背徳と言えるかも知れません。そうではなくて、子孫の笑顔を想像しながら、せっせと省エネに励み、化石燃料を使わなくても済む様、再エネ拡大に勤しむという訳です。しかし、残念ながらこの様な意識の改革は、息の長い教育や啓発によってしか醸成出来ない種類のものなのです。

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2015年9月 8日 (火)

2798 地方創生(再生)?

この地方の、地方創生(再生)の中身が見えてきました。と同時に、見えなくなってもきました。この地方では、目玉は企業の本社機能の移転なのだそうです。なんと知恵の無い中身でしょう。これまでの国や県の政策が、企業誘致のみだったことから、何が「創生」されてきたのでしょうか。一方、山際の自治体の地方創生特区では、6割を占める国有林の活用が目玉とされている様です。しかし、中身は国有林をタダで借りて豚を放牧するだとか、ハーブを育てて特産にするのだか、と言った「小手先」のアイデアで留まっている様なのです。

地方で一体何を「創り出そう」と言うのでしょうか。地方には、かつて伝統的な産業があって、自給自足の割合も高く、地域内で循環するお金の割合も多かった筈です。それなのに、人口を中央にドンドン吸い取られて、超少子高齢化社会とされた上に、伝統産業も廃れて、衣食住の殆どを「中央で生産されたモノ」に依存する体質になり下がってしまった訳です。ありふれた食料品でさえ、この地方で生産されたものが中央で加工されて丁寧に梱包されて「戻って」来る始末です。人々は、それを大手のスーパーマーケットで買わされるのです。

エネルギーだって事情は全く同じです。この地方では、未だに石油や天然ガスが少量ですが産出します。その原油は、多くが県内や近県の火力発電所で、燃やされ電気に変換されて商品になります。その一方で、中央の製油所で精製されたガソリンや灯油をガソリンスタンドで買わされるのです。原油は、実は重油より熱量が高くてクリーンなエネルギーである事は余り知られていません。いわゆる重油とは、原油から軽油やガソリンや灯油を搾り取った「カス」なので、粘度も高く不純物の割合も多いのです。原油を、そのままボイラで焚けば、エネルギーの地産地消が達成できる訳です。少し、昔を振り返れば、家庭の暖房はほぼ100%が薪ストーブだった時代もありました。新しい、自動化された薪ボイラで山の木を活用すれば、年間数十万円/戸も支払っている灯油やガス代が、一部でも地元産のエネルギーに代替できる事になります。中央から産業を移転させる事が地方創生(再生)ではありません。「地方の中でお金が回る仕組み」への回帰こそが、地方再生のキモだと言っておきましょう。

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2015年9月 7日 (月)

2797 無題

今朝は何もタイトルが思い浮かびません。たぶん最近あまり本を読んでいない所為でしょうか。決して言い訳ではなく、所詮人間の脳なんて、ゼロから何かを生み出す様な器官ではないと思っています。それは、「判断の器官」であって、右に行くか左に行くか、それとも前に進むのか、あるいは尻尾を巻いて後戻りするかを決められれば機能としてはヨシとしましょう。

閃きやアイデアなどというものは、結局外からの刺激によって「点灯」するものであり、電球は電気が流れない限り、ただのガラス球に過ぎないのですから。閃きやアイデアのための刺激は、価値観や経験の異なる人との対話からであり、本を読む事であり、あるいはテレビや新聞の報道などに接する事によって得られるものでしょう。

さて話題のデザインはどうでしょう。全くのゼロから、ある意匠を発想する事は果たして可能なのでしょうか。デザイナーは、多分過去に目にしたデザインや、自然の造形や、幾何学模様や、雲や水の流れなどからインスパイアされて、新たなデザインを紡ぎだすのでしょう。デザイン>コラージュ>コピペ、果たしてその境目は何処にあるのでしょう。紙印刷時代にだって、デザインと称して、ハサミやカッターを使った「切り貼り」は行われていた事でしょう。ネット時代においては、それがアッと言う間の作業が可能で、境界がますます不明確になってしまった事が、今回のシンボルマーク事件で明らかになった事なのでしょうか。いっそ決まりでも作って、例えばデザインの構成要素の50%以上又は、面積の50%以上のコラージュ認めた場合を「パクリ」と規定してはどんなものでしょうか。

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2015年9月 6日 (日)

2796 気象振動

かなり環境ブログらしいテーマです。昨夜のNスぺは、極端化する気象を取り上げていました。その原因として、背景としての温暖化傾向に加えて、各種の振れ幅と周期性を持つ、いわゆる「気象振動」をキーワードとして挙げていました。それにしても、このコンピュータ時代のモデリングとシミュレーション技術を以ってしても、気象振動だけは十分には解析、予測は出来そうもないのです。それというのも、想像するに自然は、プランクトンを含む動植物相を含め、ある程度の包容力を持っている事に、事態を複雑にする原因があると思うのです。

例えば海洋は、プランクトンの炭酸同化作用(光合成です)や物理的分圧によって炭酸ガスや酸素や窒素など多くの大気中のガスを抱える事が出来ます。同様に、十分な深さを持つ海洋は、大気や日射から受け取った熱を、表層や深海に貯め込んだり、放出したりもするのです。深海と表層の循環は「熱塩循環」と呼ばれる非常にゆっくりとした(1000年単位の)海流に支配されています。それは、多分エルニーニョ、ラニーニャの振動を、直接又は間接に支配しているものと思われます。

過度の旱魃と豪雨を支配する気象振動因子として、番組ではバッデン・ジュリアン振動(MJO)についても言及していました。こちらは、大気循環に関する振動現象ではありますが、物質としては密度の非常に小さい大気は、それより二桁以密度の大きな海洋や陸地の温度、ひいては海洋から蒸発する水蒸気の量によって、大きく影響を受ける事は明らかです。その上で、地球の自転による「コリオリの力」やそれが引き起こすジェット気流によって、上下左右に突き動かされる事になります。つまりは、大気圏では気象の玉突き運動が起こり易いのです。番組では、複数の異なった周期を持つ気象変動を起こす「振り子」が、偶然に揃った場合に激甚な気象が発言すると解説していましたが、投稿者には振り子の玉突きが、結果としてより大きな大きな振動を引き起こしているのではないかと思われるのです。もちろん、玉突きを起こす事によって、正確に刻んでいた周期が乱される事になるため、現象の解析がより困難になっているとも思われます。たぶん続きます。

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2015年9月 5日 (土)

2795 終わらせ方

多くの人が経験済みだと思いますが、物事を始めるのは容易です。なにがしかの準備をして、「えい」っと掛け声をかけて踏み出せば何とかなるからです。それを続けるのも、短ければ1週間、仕事の様に長く続くものでも3年もすれば、どうにか恰好が付けられるでしょう。それは、いわゆる慣性(あるいは惰性)というものがあるからで、ある状態を維持するのには、大きな努力やパワーは必ずしも必要がないからです。

勿論、状態を適正に維持するためには、少しの努力は必要で、それを怠ると仕事や生活の質は、徐々に低下していく事は当然です。例が適当かどうかは別にして、ゴミ屋敷は最初からゴミ屋敷になったのではなく、掃除や整理が徐々に行われなくなり、家の劣化が進行して行って、ある時期から完全放置状態になった筈です。一般に、人の一生や文明などと言ったものはやがて終わりを迎えざるを得ません。それは、繰り返しになりますが、どんなに努力しても人体や脳は加齢により老化し、同様に社会のシステムも劣化するからです。重要なのは、その終わらせ方ではないかと思っています。人の一生は、完全に終わりますが、もちろん国や文明と言ったものが一気に、完全に終わってしまう訳でもないでしょう。いくつかの、システムの終わりが重なって行き、やがて機能不全に陥ってしまうという順番になるとは思います。

さて、具体例ですが、原発と言うシステムは既に「死に体」ではありますが、その中に住むゾンビ族が、生き返りを画策している状態です。これを成仏させるためには、何か工夫が必要でしょう。もちろん今の政治体制にも、終わりがあるのでしょうが、やはりここにもゾンビ族が多く潜んでいます。問題は、人の体やシステムの劣化具合を、冷静に見つめ分析する力の有無なのです。初めに書いた様に事を始めるのは簡単ですが、それをショック無く、あるいはスマートに終わらせるのは至難のワザなのです。そのためには、やはりゾンビを取り除いて、次のシステムに上手く移行できる様に、時間をかけた工夫や努力が必要なのでしょう。

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2015年9月 4日 (金)

2794 千里と一歩

千里の道も一歩からとはよく言われる喩えですが、人生であれ国のマツリゴトであれ、それは同じでしょう。選択肢が360度(360個)あるとして、踏み出した最初の一歩がその後の「方向」をかなり制約してしまうからです。自分の人生を振り返っても、この国の来し方を振り返っても、明らかに方向転換で新たな一歩を踏み出してしまった、と感じられる瞬間があった事は間違いないでしょう。例えば、戦争を始める方向に踏み出した瞬間、また例えばそれに破れて、P宣言に署名をした瞬間、戦後であれば安保法案を可決した瞬間、あるいは原発建設を決定した瞬間などなどです。

しかし、先人が何百年も積み上げてきた「伝統」に別れを告げて、新たな一歩を踏み出す際に、私たちは余程慎重になる必要があると思わねばなりません。伝統とは、先人が叩いて安全と証明してくれた石橋の様なもので、それを受け継ぐ私たちは、やはり相変わらずそれを叩きながら、前に進む必要があると思うのです。例えば、原発を決定した当時は夢のエネルギーと呼ばれていました。石炭や石油に比べて、夢の様に少ない核燃料で、莫大なエネルギーが得られるからです。

人類の進歩に取って革新は必要ですが、常に正しいという訳ではありません。革新と言われた技術や社会の仕組みで、それが長い間生き続け、かつ私たちの生活の質を、真に高めてくれたものを探そうとしますが、なかなか見つかりません。ダイムラーの車の様に、単に生活の利便性が高まった技術であれば、枚挙に暇がありませんが、車が私たちの幸福に「絶対不可欠か?」と問われれば、もっと大切なものは数多いでしょう。多数決を基本とした、立憲民主主義さえ、僅か3割に満たない支持しか集められない政党が、2/3もの議席を占めてしまう「致命的な欠陥」を持っているではありませんか。必要な事は、一歩を踏み出した後の「確認」の様な気がします。歩数が少ない間は、軌道修正もでき易い筈なのです。投稿者は、たぶん人生の900里以上を歩いてしまったと思っていますが、この国はもう何里位進んだでしょうか?そしてその方向は正しかったのでしょうか?

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2015年9月 3日 (木)

2793 マネー還元主義

別におカネに恨みがある訳ではないのですが、やはり最近のおカネの流れは度をかなり超過していて気にかかります。何が一番気になるかと言えば、その量です。実際に、この世の中に出回っているモノをおカネに換算出来たと仮定して、ではその額と今世界に流通しているおカネで、どちらが多いかと言われれば、多分圧倒的に後者でしょう。つまり、たとえ使い切れない程おカネをもっている大金持ちでも、買えないモノが多いという事になります。

勿論、おカネは通貨だけではありません。株や債券などの、いわゆる有価証券など通貨以外のマネーの方がかなり多いと想像しています。では、モノの価値より多いおカネにはどんな意味があるのでしょうか。抱えきれない程のおカネ(札束)があっても、ロクなものが買えない状態を悪性インフレと呼びますが、かつていくつかの国々では、この悪性インフレに悩まされても来ました。これは、結局通貨に対する信用、ひいてはそれを印刷して発行しているその国政府への信用が、地に落ちたという状態でもあります。紙に印刷した価値を保証しているのは、その国の政府=国立銀行だからです。

この国も、今せっせとお札を印刷し続けています。何やら「インフレターゲット」を達成するためだそうですが、モノの裏付けがないのに通貨量だけを増やして、一体何を狙っているのか、おカネに縁のない投稿者には、全く理解が出来ないのです。おカネは、不便な物々交換や、貴金属で出来た重い貨幣を持ち歩く不便を解消するために作られた、社会の便法ですが、今や私たちはそのおカネに押しつぶされようとしている様な気がするのです。つまり、価値交換の便利さのための「手段」でしかなかったおカネが、いつの間にか社会を支配する「目的」に転じてしまったと言うしか無さそうなのです。道具としてのおカネがいつの間にか、それを集める事が目的となってしまった状況を、ここではとりあえず「マネー還元主義」とでも呼んでおきましょう。この様な社会では、大量のおカネがおカネを増やそうと日夜ネットの中を右往左往する事になります。

同様の手段と目的が逆転した還元主義は、電力還元主義、石油(天然ガス)還元主義、コンピュータ還元主義など、多くの分野に見られる現象で、一種の現代病と言えるかも知れません。

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2015年9月 2日 (水)

2792 もみ殻の活用

最近バイオマスの中でも、この地方では余り気味のもみ殻の活用について考えています。もみ殻は、少ない量であればこれまでも低温で燻して燻炭を作り、田に鋤き込んだり、そのまま家畜の敷料にしたりして利用されても来ました。しかし、近年はJAの大規模なカントリーエレベータ施設で、コメが集約的に処理される結果、一時期の大量のもみ殻が発生し、その処理に苦慮している施設も多いのです。カントリーエレベータ内のもみ殻貯蔵庫は、あまり容量がないので、しかたなく屋外に野積みされる事になります。それはやがて雨にぬれ、表面だけ腐って使いみちのない廃棄物になるのです。

一方で、最近の大口の利用先としては、、田の水を排水する目的で、田んぼの暗渠の中に敷き込んでしまう「処理」方法も広く行われる様になってきました。これは、どうやら「補助金狙い」の処理方法らしいのです。圃場を整備するという名目でしょう。暗渠の中のもみ殻は、数年経てば腐ってしまうので、それを補い続ければ継続的なもみ殻の出口が出来る訳です。しかし、もみ殻は毎年同じ時期に発生しますので、それでもかなりの量が余ってしまいます。

そこで、まさに昨日の話ですが、A大学の先生が音頭を取って、もみ殻のエネルギー利用と同時に、燃焼灰のコンクリート改良材としての活用を研究するプロジェクトがスタートしたのです。コンクリートの改良材とするに適する燃焼灰は、550℃程度の比較的低温で、長い時間かけて燃焼させるのが理想だとの研究があるので、どうやら闇雲に燃やせば良いという訳でもなさそうです。燃焼温度をコントロールできる様な、少し凝ったボイラの開発が必要となりそうです。それと根本的な問題ですが、軽く嵩張る(空気の様な)もみ殻を、カントリーエレベータから燃焼施設まで、どの様に効率的に運ぶかも問題です。エネルギー利用のために、トラックの石油燃料をムダに使う訳にもいかないからです。たぶん続きます。

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2015年9月 1日 (火)

2791 偏西風の弱体化

ふと気が付いたら、もう9月になってしまいました。さて、最近の夏場の気候の特徴として、偏西風の弱体化が挙げられそうです。寒冷な極地方には、下降気流が集まり、高気圧=極気団を形成します。そこから、風が中緯度方向に向かって流れ出しますが、コリオリの力によって曲げられ、結果としては西から東に向かって流れる偏西風になるのです。偏西風は、いわば極気団の「鉢巻き」だと言えるでしょう。

偏西風が強い、つまりは極気団の気圧が高い場合には、円形で高速で流れるきれいな鉢巻きになりますが、極気団が弱い夏場、取り分け近年の様に北極海の浮氷が極端に少なくなる時期には、極気団も弱まり、結果として偏西風はひどく蛇行する事になります。偏西風の蛇行は、極点から眺めると、クローバーの様に何枚かの葉が広がっている様に見えるのですが、日本にその葉の部分が掛かるか、あるいは葉の間の部分が来るかによって、夏場の気候は大きく左右される事になります。つまり,葉の部分は気圧が高く冷涼なので、乾いた涼しい夏となりますが、一方葉の間が来ると、海洋から湿ったモンスーンを引き上げ、蒸し暑い高温の夏をもたらすのです。勿論、これに太平洋の海水温も絡んできますので、実際の気象はもっと複雑にはなるでしょう。

しかし、夏場の北極海の浮氷の減退は、年々進んでいるのは事実であり、この偏西風の蛇行傾向は、今後とも永く定着してしまうのも間違いないところです。

偏西風の蛇行がもっと進むと、クローバーの形すらはっきりしなくなり、モヤモヤとした形になってしまいます。そうなると、極気団は本質を失い、単なるサイズの大きな高気圧になり下がってしまうでしょう。極気団は、涼しい風をジェット気流に混ぜ込んで送り出す冷風機の役割が弱まり、結果としては中緯度地域の気象は、海洋性の高気圧や低気圧と日照の強さだけに支配される様になると見ています。つまりは、近年の夏場の猛暑の原因は、北極気団の弱体化に見出す事が出来そうなのです。しかも、その傾向は今後は強まりこそしても、元に戻る兆候は、現在までのところ残念ながら見出されていないのです。どうやら私たちは、この様な気候の変動に「順応(適応)」するしかなさそうなのです。

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