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2015年10月31日 (土)

2837 負の遺産

このブログの本来の大テーマである環境ネタです。29日のクロ現で、各種のプラスチックが風化で細かくなって海中を漂い、または海底に沈降する新たな環境問題(マイクロプラスチック問題)を取り上げていました。プラスチック自体は、長期間かかるにしてもやがて分解されてしまう事になるのでしょうが、一方では東南アジア諸国やお隣のC国やK国で多量に消費され、無法に廃棄される中で、大量に補給?される事で問題は深まるばかりなのです。

加えて、より大きな問題はPCBや農薬由来のダイオキシン類など、過去に環境に排出され、一度は海水で薄まった有害物質が、マイクロプラスチックの表面で濃縮され、濃度が数万倍になっている事実も見つかったのでした。そこで、私たちが気付くべきは、1960年や70年代に問題になったこれらの有害物質のいくつかは、化学的に非常に安定な物質でもあったという事実です。とりわけPCBやダイオキシン類は、高温で分解処理しないと、非常に遠い将来に亘って有害物質であり続ける化学物質の代表でもあります。

これらは、まさに負の遺産と呼ぶしかない害悪なのです。環境問題が問題ある本質は、汚染が環境内で薄く広く拡散してしまえば、急性の毒としては問題が小さくなっても、慢性の毒として、長く、多分世代をまたいで直接、または遺伝子への悪影響を含め永く間接的に影響を及ぼし続けると言う点なのです。プラスチックが存在しなかった時代にも、私たちは生活を営んでいましたし、特に不便はなかった筈です。大量生産の大波の中で、射出成型や真空成型が容易な熱可塑プラスチックが登場し、瞬く間にパッケージの主役となってしまった訳です。しかし、熱可塑性を持たせるための「可塑剤」には、有害性が高いものもかなり存在するのです。しかも、耐候性を確保するための改良は、逆に言えばそれが長く環境に存在し続けると言う皮肉な結果をもたらしました。しかも重合した網目の様なプラスチックの構造は、その網目の中に他の有害物質を抱え込むという「悪さ」ももたらしたのでした。しかし、最も重要なのは、プラスチックは、科学技術がもたらした負の遺産のホンの一部に過ぎない点なのです。

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2015年10月30日 (金)

2836 自動化=無能化

2835の続きです。自動化と聞いて、ある種の拒否反応を感じるのは、多分投稿者が20世紀型の人間である所為かも知れません。20世紀の、いわゆる工業用ロボット時代の到来以前は、工業界と言えども「手仕事」の時代でした。車の組立も、エンジンなどが載ったシャシーの上に、ボディーを降ろして組み立てる、フォード車以降のモノ造りを続けていたのでした。しかし、1970年代に車のボディーの製造に、スポット溶接を巧みに行う多軸制御のロボットが導入され、同時に車体はモノコック構造となり、車の生産性は一気に向上したのでした。

他方で、人間のする作業と言えば、そのモノコックボディーに部品を取り付けて、バルトやナットを締める作業だけになったのです。それは、もはや手仕事ではなく、機械化・自動化しにくい車内の狭い場所での作業を、ロボットよりは器用で、柔軟性の高い人間の作業として残ってしまっただけのことなのです。

熟練を積んだ人間の手先は、無限の器用さを発揮し、信じられない様な芸当をこなして見せるのです。例えば、工作機械のスライド面に施されていた、油膜を保持するためにミクロン単位の凹凸をつける「キサゲ模様」は、どの様に精密な機械にも到底真似は出来ないでしょう。機械加工をしたままの部品には、必ず「バリ」と呼ばれるギザギザが残るのですが、手仕事の時代にはそれは器用な職人の手でやすり仕上げされていたのでした。今は多分、タンブラーの様な機械で自動的に行われているのでしょう。

その結果、もはや手にワザ持っている職人は、各企業でも高齢化した一握りになってしまったのです。自動化は、残念ながら人々からワザを奪い、無能化してしまうのです。今メーカーが躍起になって開発している自動運転車は、やがて自動車学校を駆逐してしまい、車の構造もエンジンのかけ方も、ハンドルの切り方も知らない人が、シートに座って目的地を指示するだけで、勝手に連れて行ってくれるでしょう。しかし、微妙なアクセルワークやハンドル操作が簡単に出来た人間の能力は、あっという間に失われ、自動運転車のバッテリーが切れて動かくなると、人々はなす術を知らず、途方に暮れるだけなのです。自動化は人間の無能化でもあることを忘れてはならないでしょう。メーカーに実現出来る技術は技術として、しかし熟慮無しにそれを乱用してはならないでしょう。

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2015年10月29日 (木)

2835 運転しない車

自動運転の車が毎日の様にメディアに登場します。勝手に車庫入れをしてくれる車はまだしも、道路を「勝手に」動き、目的地まで「連れて行ってくれる」乗り物を、果たして従来の意味の車と呼んでも良いのでしょうか。もし、自分が運転席に座っていて、車の自動運転を眺めている立場だとすれば、多分精神衛生上は非常に悪いのではないかと想像してしまいます。先ず、対向車や並走車、あるいは歩行者や自転車、更には道路上の石ころや落下物に次々に遭遇するたび、車に装備されているカメラやセンサーが働き、それらを避けて衝突しない様に運転はしてくれる訳ですが、傍観者としてのドライバーは常に「ハラハラ」し続ける事になるでしょう。

例えば、丸められた紙屑やレジ袋が風で道路に飛ばされてきた状態を想像すると、自動運転車はそれを「障害物」と判断して、急ハンドルを切って回避するでしょう。これは、いわば過剰反応です。一方で、小さな障害物でもそれが鋭い角を持った金属片である場合、タイヤがそれを踏んだ場合はバーストの危険性が高くなります。しかし、形や大きさだけで判断するカメラとコンピュータには、その障害物の「正体」まではとても理解はできないのです。

従って、自動運転を「見守る」ドライバーは、常にハラハラ、またはイライラする事態に陥るのです。これは、精神衛生上は最悪の状態とも言えるでしょう。自動運転車が日常的に道路上を走り回る様になると、車は単に人やモノを移動させる「ビークル」になり、それはもはや現在的な意味での「車」とは呼べなくなるでしょう。来たるべき時代には、もしかしたら人々は、駅からドライバーの乗っていない「無人タクシー」に乗るか、あるいは出先から帰る時には駐車場に入れてある自分の車を無線で「呼ぶか」するのかも知れません。しかし、車を運転する楽しみは完全に奪われ、手足や目を余り使わない生活は、多分人々の能力を萎えさせ、ボケる年齢を大きく引き下げるでしょう。一体、彼らはどの様なライフスタイルを理想と考えて、運転しない車を作るのでしょう。20世紀型の凡人にはまったく理解不能です。

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2015年10月28日 (水)

2834 インディシャル応答

学生時代に習って、その後具体的に応用する機会も無かったので、今となってはいくつかの言葉くらいしか記憶に残っていませんが、制御工学において習った事は、負荷に変動があった場合の制御には必ず遅れが生じます。そのため、通常の制御系では、必ず「過度の応答」が生ずる事になります。例えば、発電機の運転において、負荷が瞬間的に大きくなると、回転数は低下します。制御系は、原動機の入力(例えば蒸気タービンの場合は蒸気量)を増やしますが、それは必ず余分目に入れられるため、回転数は設定された回転数より上がってしまいます。今度は、それを抑え込むため蒸気量が絞られますから、回転数は下がり過ぎる事になります。制御系の優劣によって、回転数の増減は数回繰り返されますが、通常の場合その振れ幅は徐々に小さくなって、やがて定常状態に戻るのです。

しかし、過度の応答が長く続く場合も起こり得ます。制御系のフィードバック要素が強すぎる場合です。その状態を「ハンチング」などと呼んだりしますが、要するに制御系がバタバタと暴れる状態を指しています。

さて、ここであやふやな記憶の中の制御工学を持ち出したのは、もちろんそれをオサライするつもりではありません。その様な考え方は、世の中の動きにも敷衍できると考えているからです。社会に何か事件や問題が起こった場合、それが大きなインシデントであればあるほど、世の中へのインパクトの振れ幅は大きく、ざわめきも長く続くでしょう。しかし、やがてそれも静まります。しかし、それが正しいと仮定して、犯罪の凶悪化や茶飯事化、あるいは世界各地で続いている紛争(戦争)の連鎖はどう説明したら良いのでしょう。

投稿者の答えは、有効な制御系が存在しないためではないか、というものです。また、人々の中にある無関心や、逆に過度の疑心暗鬼、あるいは憎しみの連鎖、などといういわゆる人間の真理に関わる過度の応答や、人間の寿命の限り(あるいは世代をまたいで)続く憎しみの記憶と言った「ざわめき要素」が、世の中が平静になる事を妨げるのでしょう。それに加えて、人間の攻撃能力を何倍(あるいは何万倍)にも増幅する「武器」の発達や、情報の洪水もハンチングを増幅するのでしょう。本当に困った現象ではあります。それを鎮めるのは、どうやら内省的な思索くらいしか無さそうなのです。

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2015年10月27日 (火)

2833 偽装問題

今回のマンションの基礎工事の誤魔化しは、被害を受けた当事者には申し訳ありませんが、茶飯事だと言うしかありません。というのも、機能に影響がない程度の誤魔化しは、商業(工業)的には合法的に行われるものだからです。例えば、外観上は見えない箇所の傷や塗装不良程度は、通常の製品に使われる部品であれば、検査ではじかれる事はないでしょう。

つまり、明示されたあるいは暗黙の契約上の機能が、毀損されているか否かが最重要な要件だと考えているのです。マンション基礎事件の場合、基礎杭の長さが足りておらず、岩盤に届いていなかった訳ですから、地震が来た場合、杭は柔らかな土壌の中でズブズブと沈んでいく筈です。となれば、その上に載っている建物は不等沈下を起こして、傾いてしまうでしょう。しかし、もし大きな地震が長い間起こらなかった場合、杭の偽装はバレなかった可能性もあったのです。

さて、悪意があったかどうかは別にして、オペレータや現場責任者のデータ偽装が、果たして防止可能かどうかですが、実際は非常に難しいのではないかと想像しています。現場監督者は、一方では、上から(元請から)の工期短縮やコスト削減のプレッシャーが掛かりますし、他方では指示された作業をこなす現場の実働部隊の段取りの都合も窺わなければならないでしょう。その中で、出来るだけ手抜きをしてその日を乗り切りたいのは、やはり人情というものでしょう。あるデータを記録するのがただ一人のオペレータや担当者であるならば、偽装問題は今後も無くなることは無いでしょう。

それを防ぐのはダブルチェックしかないのです。もし、更に重要なデータではトリプルチェックも必要かも知れません。例えば、航空機の事故の発生率が今程度の低いレベルに留まっているのは、航空機がいわゆるフェイルセーフ構造に造られているのと、パイロットが二人乗っているからに他なりません。フェイルセーフとは、構造の一部が壊れかけても、別の部位や機器がそれをバックアップする仕組みを指すのですが、パイロットが二人乗っているのは、つまり人間のフェイルセーフになるわけです。

杭を埋める作業を想像すると、どうやらドリルが岩盤に達すると、機械の負荷状態が変化する様なので、その数値を人間が読んで記録する限り、偽装問題を防止する事は叶わないでしょう。そうではなくて、データは自動的に記録されて、しかもそれをグラフ化する必要もあるでしょう。杭一本一本にはID番号を付し、データと個々に対応させるしかありません。その記録が、まさに品質のトレーサビリティを保証する訳です。さて、今回の何千棟もの基礎杭のデータのトレース可能なものかどうかですが、残念ながら投稿者の考えは否定的です。

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2015年10月26日 (月)

2832 ハッブル宇宙望遠鏡

就寝前、偶然ETVのドキュメンタリー番組の再放送をチラ見しました。ハッブル宇宙望遠鏡の打ち上げ、運用に関わるものでした。興味深いのは、望遠鏡の組立ミスで、打ち上げ後の数年間は画像がピンボケで全く使い物にならなかった様なのです。原因は、望遠鏡の心臓部である反射鏡の、ホンの数ミリの位置ずれだったのです。

そのため、人間の目では「メガネ」に当たる修理キットを作って、スペースシャトルで打ち上げ、宇宙飛行士が修理屋となってそれを見事に取りつけに成功したのでした。かくして、それこそ天文学的なお金を掛け、国の威信をかけた世紀のプロジェクトで打ち上げた宇宙望遠鏡が、宇宙ゴミにならずに済んだのでした。修理を決めてから実際に運用が始まるまで2年以上の月日が流れていたとの事。

ここから読み取れる教訓ですが、やはりスケジュールありきの「やっつけ仕事」はダメだ、という事でしょうか。ロケット打ち上げの期日が一度セットされると、関わる数千人のスタッフや打ち上げ前の準備作業を考えると、それを変更するのは確かに大変な混乱が生ずるでしょう。しかし、機能の確認や、トラブル発生時の回避方法は、しつこいくらい考えておく必要があるでしょう。地上で宇宙望遠鏡の機能試験が十分には出来ない理由は、想像するに重力の影響でしょう。大きな鏡は、重力の影響を受けて「変形」するからです。従って、運用状態の無重力下でないと最終的な機能は確認できないからです。しかし、ピンボケに対処するのであれば、予め対策は取れた筈なのです。つまり、予め鏡を微調整する仕組みを組み込んでおけば良いのです。鏡を動かすのが大変なら、最終的な修理方法であったメガネを予め仕込んでおくか、あるいはカメラ本体の位置を微調整出来る様にしておけば良いのです。

一般的な言葉で言えば、それは「リスク評価と回避策」となるのですが、人間は最後のところでは楽観してしまう生き物の様ですが、プロジェクトのメンバーとして不可欠なのは、多分一握りの「心配性」のスタッフでしょうか。それも、十分に高いレベルの権限を持つ一人にも・・・。

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2015年10月25日 (日)

2831 三項関係

二項対立は非常に分かり易い構図です。例えば、保守対革新、主流派対反主流、あるいは自由主義対共産主義など、二つのイデオロギーが明確に対立する構図だからです。これまでの社会は、どちらかと言えばその様なシンプルな構図で説明出来ていましたし、少しややこしくても理窟を付ければどうにか説明可能でした。

しかし、最近の世界や世相は、そんなに単純な話では割り切れなくなった様な気がします。「三項関係」と呼ぶべき見方を持ち込まなければ、理解できなくなってきているのです。三項関係という言葉自体は、元々は脳科学でいう幼児期における、「自己と他者とモノ」という関係が生ずる過程を説明する述語でした。しかしそれは、例えば「J民」対「M主」対「I新」と言った、政治ゲームの様相、あるいは中東における「Sリア政府」対「反政府勢力」対「IS」と言った複雑なパワーゲーム、更に言えば雇用における、「正規」対「非正規」対「限定的正規」といった関係の様に、二分法ではとても理解できない状況を説明するのに有効かも知れない言葉でもあると思うのです。

この国にもいわゆる、「三つ巴」という言葉もあります。しかし、例えば戦国時代において、ほぼ同じ程度の勢力の国がお互いにつぶし合いをする単純な三つ巴と、そうではない二項対立の構図に、全く立場やイデオロギーの種類(カテゴリー)の異なる分力が加わった場合、より複雑になってしまいます。単純な場合は、時間が経過しやがて一つの勢力が弱体化すれば、簡単に二項対立に戻ってしまうからです。

しかし、複雑な三つ巴(三項関係)は一筋縄では解けません。価値観やイデオロギーが異なるグループは、基準となる共通の基盤が無い(少ない)ため、歩み寄るのは簡単ではないからです。ある勢力は漁夫の利を狙って、裏で色々と策を弄するでしょうし、あるいは全く他の勢力を無視して独走するかも知れません。何しろ共通の土俵が無い訳ですから、元々勝負にならない訳です。宗教対立と言ったものは、元来そうした複雑な関係なのでしょう。何しろ、それぞれの神様も,ヨスガとすべき経典(価値観)も全く異なるのですから・・・。宗教紛争における三項関係を解消するには、多分人類全てを抱合する様な大きな宗教が生まれる事しかないのかも知れません。しかし、それは千年待っても実現しない様な気もします。ため息しか出ません。

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2015年10月24日 (土)

2830 蓄熱

投稿再開です。さて、再エネを使おうとする際に、重要なファクターがあります。それが蓄熱です。再エネの特徴として特筆すべきは、薄い密度でしかし広く分布する、というものです。最大にして最良のクオリティを持つ太陽光の直射にしても、夏場の条件の良い時期でさえ、平米当りで1kw程度の弱いレベルに留まりますし、植物の光合成によって固定され、山野に広がるエネルギー=バイオマスも、同様にエネルギー密度は低いのです。

しかも、この薄い密度の再エネは、電気に変換するのは効率が低いため、あまり適しません。太陽光発電のみがどうにか実用に達した程度です。再エネは、やはり熱利用の方向で考えるのが合理的なのでしょう。熱エネルギー(つまりは物質の熱振動ですが)は、失われやすいエネルギーの形態ですので、それを長い時間、最低でも半日程度、蓄えておくことが出来れば、利用範囲は格段に向上するでしょう。例えば、昼間に太陽熱を蓄えておけば、夜になってそれを暖房や風呂水を暖めるのに使う事が可能です。太陽光発電による電力の場合も、蓄電池に蓄えれば、時間をずらして取り出す事が可能ですが、それはさておいて・・・。

蓄熱の方法で最も簡単なのは、水(温水)の中に熱を蓄える方法でしょう。水は、例えば岩石などより、比熱が大きくより多くの熱を蓄える能力を持っている最も物質でもあるのです。しかしながら、水の最大の欠点は100℃で沸騰してしまう事で、熱源が800℃であっても、100℃以内でしか蓄熱できません。しかし、比熱の小さな個体であっても、比重の大きな物質を持ちいれば、「単位体積当たりの蓄熱量」は大きくすることが可能です。金属酸化物のなどが有望です。金属酸化物と言っても珍しいものではなく、例えば耐火レンガは酸化アルミナですし、鉄さびは酸化鉄である訳で、入手しやすく安価なもので十分なのです。

この他にも化学物質で、相変化(個体⇔液体)を利用するものもありますが、どんな物質であれ、環境に漏れ出た際に、人体や生物に対して無害で、自然に分解されて消えてしまう性質が必須でしょう。そうでなければPCB事故の再現になるからです。

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2015年10月14日 (水)

2829 規制緩和という新たな規制

法律とは何らかの規制を定めた「縛り」に他なりません。ならば、規制緩和という新たな法律は、結局別の意味の縛りという事にもなるでしょう。規制廃止であれば意味が分かりますが、緩和とは一体何を指すのでしょうか。法律のほぼ全ては、「~をやってはならない」という禁止事項と、それに関わる義務や罰則を並べた条文になっている、と想像しています。想像するというのは、仕事上の必要から一部の環境関連の法規を除けば、実は法律の条文をマジマジと眺めた事がないからです。

さて、規制を緩和するとは、結局「~してはならないという」条文の数が減る事でしょう。それまでしてはならなかった事が新たに出来る様にはなりますが、それはこれまで禁止されていたタガを緩めるか、外す事と同じ意味になります。しかし、かつての条文はそれなりの、あるいは確固たる理由があって作られていた筈ですから、それが無くなるリスクを十分に吟味する必要があるでしょう。

「岩盤規制をぶっ壊す」と絶叫して国のリーダーになったあの人が、企業経営者に嵌めていた契約社員採用のタガを外した事によって、この国の雇用状況がどうなってしまったかを反省すれば、国の縛りである専守防衛のタガを外した今のリーダーの危うさが分かろうというものです。TPPという貿易障壁のタガを外した事により、津波の様に押し寄せてくる安い海外の製品や食糧が、この国の貿易秩序を一体どの程度まで破壊してしまうのか、凡人たる投稿者には想像もできません。

世の中には何の支障もありませんが、旅行などのため10日ほど休稿です。

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2015年10月13日 (火)

2828 自己と非自己

自分は自己であり、自分以外は非自己である、と普通は考えています。体の仕組みで言えば、免疫細胞が、自己に異常を起こす、非自己である原因細菌や物質を排除するために、攻撃を行う機序が備わっています。

人が群れる社会にも、実は自己社会と非自己社会を区別する、免疫機能の様なものが組み込まれているでしょう。意識的に作った制度としては、警察組織という機能が例示されるでしょう。社会にとって害がある人や組織を「つまみ出す」仕組みです。一方で、目には見えない免疫行動も観察されます。例えば、村(小さなコミュニティ)にとって、その集団に都合が悪そうな人や家族をのけ者にする「村八分」や、学校の中における「イジメ」という名の過剰な排除行動が挙げられでしょう。それほど極端ではないにしても、この国では日本人と外見が異なる海外から入ってきた人は、たとえ日本で育って日本語を完ぺきに話せたとしても、また日本人と結婚してほぼ日本のコミュニティに同化していたとしても、引き続き長い期間に亘って「外人」と呼ばれる事実には注目すべきでしょう。つまりは、この国には人種に対する強い免疫行動が存在すると言う事実です。

免疫が不十分だと、人や集団は質が悪化するリスクに晒される事は間違いありませんが、かといって過剰な免疫(防衛)行動は、自分自身を攻撃に晒す別のリスクを生ずるのです。体の異常で言えば、花粉や食物への過剰なアレルギー反応や、膠原病と呼ばれる免疫異常症などが例として挙げられます。必要な事は、その絶妙のバランスでしょう。その見極めは難しいのですが、細かく気を配る事さえできれば、オーバーシュートはかなりの程度避けられる筈なのです。

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2015年10月12日 (月)

2827 時計の逆転

2826の続きです。一方的に膨張を続けるインフラ建設の時計を、一体どうやって止めて、それを逆転できるかですが、特効薬は実はありません。これまでインフラに関連しては、インフラ建設業(ゼネコンです)、インフラ維持業(ゼネコンを含む中小業者です)というものはありましたが、「インフラ復旧業」はほぼ存在しませんでした。ほぼと言うより全く影も形も無かったかも知れません。ここで言うインフラ復旧業とは、何も壊れたインフラを直す仕事ではありません。それは、これまでもあったインフラ維持業の守備範囲です。

そうではなくて、ここで言うインフラ復旧業とは、過去に作って古くなったインフラを完全に破壊して、元あった自然の姿に戻す仕事を意味します。例えば、古くなって土砂が溜まり、ダムとしての機能が無くなったコンクリートの塊を完全に取り除き、元の渓流を復元するのです。ダム湖で緑に濁ってしまう水は、透明な清流になり、川は再び海に土砂を運び、波の浸食で細くなった砂浜もかつての広さを取り戻すでしょう。また例えば、川の両面に張ったコンクリートの護岸を引き剥がし、土手に戻して草地や芦原を復元するのです。そこには、多様な水棲生物や昆虫や野鳥が戻り、それを狙う小動物や猛禽類も居場所を取り戻す筈です。

それでは、最近頻発している水害が防げないではないか、という突っ込みが来そうですが、それは別の手段で防ぐのです。最近の豪雨水害で目につくのは、実は泥流と共にかつて植林された針葉樹の小径木が多量に流されるという光景です。M重県に起こったかつての水害では、海まで多量の流木が流されて、船の航行の障害になったという報道は印象的でした。これは、手入れの行き届かない人工林には、保水力も土砂を食い止める力も殆ど無い事を意味しているのです。ダムや護岸の撤去に先立って行うべき作業は、役に立たない人工林の間引きと、同時に行うべき照葉樹の植林に他なりません。もちろん、言うは易しで実行には困難が伴います。例えば、せっかく植林しても、増えすぎたカモシカやニホンシカに食い荒らされるかも知れません。しかし、定常的に人が山に入る事により、彼らも徐々に奥山に戻っていくでしょうし、ある程度は駆除して本来のバランスを取り戻す必要があるかも知れません。

いずれにしても、人工インフラを自然の状態に復元するには、実はたくさんの人手と、時間が掛かる作業なのです。しかし、コンクリ―トのインフラを新たに作る事業に比べれば、物資やお金はそれほどは必要ないでしょう。インフラ投資のためのお金はあまり掛からない一方、しかし人手が掛かる分、雇用は大幅に増加するのです。

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2015年10月11日 (日)

2826 20世紀型のインフラ

20世紀、取り分け戦後に築き上げられたこの国のインフラは、お金に勘定すれば一千兆円にも上るのだそうです。しかし、その中身を腑分けしてみると、道路や鉄道などの交通インフラ、河川改修やダム、港湾などの土木インフラ、更に言えば電力やガスや上下水道などのライフラインインフラなどに分けられそうです。しかし、立ち止まってそれらを振り返るならば、これらは結局「20世紀型のインフラ」ではなかったのでないか、との感慨が湧きあがってくるのです。

20世紀型インフラとは、つまりはあのチョコレートのCFではありませんが、「大きい事は良いことだ」という発想や価値観に基づいて建設されたモノどもだったとも言えるでしょう。快適で便利で豊かな社会は、モノが溢れるくらい流通し、スイッチをひねれば何でも自動で動く生活で、要らなくなったモノはポイと捨て去り、年に1-2回は世界中好きな場所に旅行する、それを可能とする様なインフラを造り続けたのでした。その嚆矢を遡れば、多分あの「大阪万博」ではなかったかと思えるのです。「人類の進歩と調和」というテーマで開催された、この万博のプロデューサはあの高名な建築家であったことを考えれば、奇抜なパビリオンのオンパレードや新幹線、高速道路の延伸など、当時の社会インフラが爆発的に膨張した起爆剤となった事は間違いないでしょう。そのインフラ膨張が、果たして止まったかと眺めれば、震災に絡めた「国土強靭化」などという名目で、再加速させようなどと考える「国交族」も少なからず暗躍している訳です。

インフラに頼る社会は、20世紀で終わりにすべきでしょう。最低限のインフラは残すにしても、過剰なインフラの整理すべきでしょう。それでなくとも必要なインフラの補修や維持だけでも、国家予算のかなりの割合を占める様になっているのです。では、インフラにあまり頼らない社会とは、どの様な姿になるのでしょう。それは、地域単位での「コンパクトな社会」の実現という言葉に集約できそうです。既に、各地の自治体は平成の合併で、これとは完全に逆行して広域化してしまいました。だだっ広い行政区域に、人々が孤立しながら疎らに暮らしているのが地方の現状でなのです。私たちには、巨大インフラや広域化の流れを逆転させる行動こそが必要だと思うのです。続きます。

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2015年10月10日 (土)

2825 因果律2

2824を書いていて気になった事がありましたのでその続きです。因果律というのは、実は非常に「西洋的」な価値観に基づいた考え方ではないか、という点です。言葉を替えれば、それは科学的かつ合理的なものの見方であるとも言えそうです。これを逆に表現すれば、「原因が無ければ何事も起こらない」という変な言い方にもなるでしょう。変だと思うのは、自分が日本人だからなのか、あるいは自分もココロの片隅で「運命論」をちょっぴり信じているのかは分かりませんが、いわゆる「決定論」というものがあり、「神の手」を信奉している人たちもかなりの数に上るとは容易に想像できます。

この世で起こる事は、それに先立つ別の出来事によって決定づけられるとする決定論や、この世の出来事は、全て見えざる存在によってプログラムされたものであると言う考え方も、誰もそうではない事を証明出来ない限り、それなりに説得力がありそうです。稀にですが、人は神の思し召しか仏様の慈悲あるいは逆に悪意としか思えない様な、ラッキーやアンラッキーに遭遇するものだからです。かと言って、自分自身がその様な事態に遭遇したという覚えもないのですが・・・。因果律だけでとても説明できない、あるいは出来そうもない出来事(しばしば奇跡とも呼ばれます)に遭遇した時、人は頭がパニックになって途方に暮れ、やがて神や仏や偶像にすがりたくなるものの様です。

さて、この世に本当に奇跡が存在するのか、それとも確かに奇跡的だとはいえ、それとて人智を超えた因果律に従っている筈だと思うかは、遭遇した人の価値観によって分かれるのでしょうが、科学・技術を信奉する人は、間違いなく後者の立場をとるでしょう。しかし、やはり因果律を100%は盲信出来ない何かが、自分の中にあるのを感じてしまいます。それはやはり日本人だからなのでしょうか、それとも。

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2015年10月 9日 (金)

2824 因果律

辞書を開けば別の定義が書いてあるかも知れませんが、ごく簡単に言えば「ああすれば、こうなる」という関係を因果律と呼びます。私たちは因果律が大好きです。訳の分らない事に対しては、脳が違和感を持つ様にプログラムされているからかも知れません。一方で、訳が分かっても結果をどうする事も出来ない場合もあるでしょう。というより、その様な場合の方が圧倒的に多いと思われます。例えば、テレビのニュースで流れてきた「不条理」に対しては、その原因がはっきりしていたとしても、視聴者には如何ともしがたい場合が殆どでしょう。もちろん、最近の政治の不条理に声を上げた学生が、ネットの力も動員して、人々を動かしたという「事件」も起きてはいますが・・・。

しかし、圧倒的に多くの不条理に対して、私たちは「仕方がない」という言葉で、諦めざるを得ないのです。つまり、「ああすれば、こうなる」どころか、「ああも、こうも、どうにもならない」事が殆どなのです。それほど、自分の影響力が届く範囲は狭いという事でしょうし、因果律が明確な自然現象であっても、それを食い止める(結果を変える)事は難しい事が殆どでしょう。もしそれが出来るなら多くの自然災害は未然に防止できるでしょうし、そもそもそれが発生する前に手が打ててしまうかも知れません。しかし、現実は台風や爆弾低気圧によって、強風や豪雨がもたらされたとしても、私たちには命を守るためには避難する事しか出来ない訳です。

さてそれでどうなのかですが、私たちに出来る事はと言えば、「もしああ来たら、こちらはどうすべきか」程度の頭上?想定訓練くらいは時々実行しておいた方が良いのでしょう。災害に関しては、自治体がハザードマップなるものを作っている場合が多いですが、同様なものを個人的にも作っておくべきなのでしょう。別にそれは地図に限りません。事故が起こった時の緊急連絡先を身に着けておくとか、あるいは自分に何かが起きた時の対処方法を家族に伝えておくとか、登山をする時には必ず登山届を書いておくとか、色々な局面があり得るとは思います。つまりは、因果律に抗うのではなく、それを受け入れてその後の対処方法を、パッシブに考える方が、精神衛生にも良さそうだ、というのがここでの結論です。

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2015年10月 8日 (木)

2823 ゴミ問題

モノを消費すると必ずゴミが出ます。モノを作る際にもゴミが出ますし、それを使う時にも、最終的に寿命が来て廃棄される際にもゴミになるでしょう。使う時に出るゴミとは、例えば車の場合には、交換した廃油、廃タイヤは勿論ですが、モノではないにしても、それを動かすために使われるエネルギー(石油や電力)を使った際に出るゴミという事になります。石油を燃やせば、車の排気管からは直接排気ガス(CO2など)が出ますが、クリーンと言われる電気自動車でさえ、電力を使えば発電所の煙突からは電力に見合った排気ガスが出ている筈です。

いやいや、原発からは排気ガスが出ないと突っ込まれたところで、発電用の蒸気を冷やすための大量の温排水が出ますし、何より発電量の原子燃料を燃やした?(核分裂後の)核廃棄物が生まれてしまいます。

しかし、私たちが考えてみなければならないのは、ゴミを消す事は出来ないという当たり前の事実です。例えば、普通に家庭から出されるゴミでさえ、焼却場で燃やされて嵩は減りますが、灰は残ります。焼却場の煙突からは、ゴミ自身が燃えて出た煙(多くはCO2ですが)が出ますし、加えて燃やすために使われた重油や灯油からもそれ以上の排気ガスが出るでしょう。燃やす事が出来ない、例えば金属の多くはリサイクルされますが、それとて再溶解する際に使う化石燃料や電気炉の電力に応じてやはり排気ガスが出る筈です。

結局、便利な生活を支えるために、より多くのモノやエネルギーを要求する私たちの「文化的で清潔な暮らし」は、ますます多くのゴミを出し続ける事になるのです。ゴミの本質とは、使った後に出る不要なモノでなどではなく、必要以上求めるモノや利便性によって生ずるムダであるとも言えそうです。なかなか解決できないか、ますます拡大する困りごとを「問題」と言いますが、環境問題=ゴミ問題であると断言しておきます。

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2015年10月 7日 (水)

2822 都市の不自由・田舎の自由

2821の続きです。さて、放置された里山の間際まで人が街を作って住み、道路を張り巡らせて経済活動を活発化させた結果、この国に放置された自然(元の人工林)と密集した人工エリア(=都市)の2色だけになり、間のグラデーションが無くなってしまった様なのです。以前このブログで都市を山小屋に喩えた事がありました。つまり、山小屋の衣食住は、全て麓からか運び上げた物資だけで成り立っている点を都市に置き換えれば、都市だって衣食住やエネルギーのほぼ全てを田舎(海外の田舎を含む)に依存している事は明らかです。もし、都市への交通網が大災害などで遮断されたと仮定すれば、都市のストックは1週間もしないうちに底をつく事になるでしょう。

結局、衣食住やエネルギーの殆どを外からの供給に依存している都市は、連続的な供給が必須であるとの制約がある限り、その制約に縛られる「不自由な場所」であると言うしかない訳です。普通の家庭でも、大型化したとはいえ、冷蔵庫の中には1週間以上の食糧を蓄えているとは思えませんし、もし電力の供給が途絶えると、その食糧さえ腐敗して捨てなければならないでしょう。便利な都会の機能も、一度トラブルが発生すれば、いきなり不自由になってしまうと言わざるを得ません。江戸時代においては、都市の供給は周辺の田舎、千葉や埼玉や神奈川などで支えられていました。コメだけは、多分その多くを海運に頼っていたとは想像しますが・・・。まとめると、都市の不自由さは、「ストックの無さ」に起因していると言えるでしょう。都市空間の機能性を突き詰めた結果、「無駄な倉庫」に割くための土地など残す事が出来なかったのです。

一方で、田舎には余裕がたっぷり残っています。多くの「田舎県」では食糧自給率は100%を大きく超えているでしょう。人口が減っているのです、その率はますます上がっていくでしょう。(でも農家も減っていくか・・・トホ)、森林を活用すればエネルギーの自給率も熱需要に限れば、何割かは自給できる筈です。少し時代を遡れば、食住とエネルギーの殆ど全てを自給していた訳で、ポテンシャルとしては、廃れてしまった産業を再び興せば、そこに戻る事は理論上は不可能ではない筈なのです。それこそが、自由な田舎を取り戻すための、いわゆる地方再生政策の中身でなければならないでしょう。

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2015年10月 6日 (火)

2821 自然⇔人工

自然環境と人工環境(例えば田畑や都市環境)とは、本来緩やかなグラデーションを描いているべきでしょう。そうでなければ、例えば昔の城郭都市の様に、堅固にバリアを築いて、敵や野生動物の侵入を防がなければ、枕を高くして寝られない事態になるでしょう。もし自然と都市の間に、緩やかなグラデーション地帯が広がっていれば、野生動物などはそこから都市に侵入する事は逡巡する事でしょう。そこが里山や草地であれば、理想的な帯状の壁の無いバリアとなるからです。昔の(人手が入った)里山や家畜の餌を得ていた草地は、見通しが聞くため野生動物には身を隠す場所が少なく、居心地も悪いのです。

しかし時代は変りました。里山は荒れ放題で放置され、広葉樹や灌木や雑草が生い茂り、野生動物はその中を安全?に移動できる様になりました。一方、里山と田畑の境界にあった草地は、里山を削って開発した住宅地と共に人が密集して住む場所になり、削られずに残った藪だらけの元里山が、完全に隣接する事態になったのです。結果的には、人が野生動物(タヌキやイノシシやクマ、ヘビなど)遭遇する機会が増える事にもつながったのです。同時に、豊かだった里山や草地の植物相や動物相・昆虫層はメッキリ貧弱になり、植物相が単純になるにつれて、昆虫の種類も激減したのでした。それは、里山の沢から始まり、里を流れる小川の水中生物や魚類の種類の激減も招きました。

もちろん、田畑に散布される農薬も強力なものが開発され、雑草や害虫(人間の立場から見て)が駆逐され、それを住み処とする昆虫が消え、それをエサとするカエルやヘビやトビやタカの食物連鎖が途絶え、殆どが消えてしまったのでした。自然と人工の間のグラデーションが重要である所以です。

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2015年10月 5日 (月)

2820 気象の激烈化

この地方でも、この数日は短時間の豪雨があり強風が吹き荒れました。加えて昨晩は、県の内陸部で竜巻も発生して被害が出た様です。春秋は、一般に地上付近の気温と上空の寒気団との温度差が大きくなり、かなりの数の嵐(激しい上昇気流によって生ずる)の発生が観察されます。しかし、近年この春秋の嵐が激烈化している様なのです。同様に、夏場の豪雨や台風の規模や強さも増している兆候がありそうです。

その原因ですが、温暖化の傾向が関与している事は間違いないでしょう。地上付近の気温が高くなれば、当然の事ながら上空の冷たい空気のとの温度差が大きくなりますから、気象は激しくなるでしょう。それに加えて、ジェット気流の季節変化にも注目する必要がありそうなのです。北半球の夏場は、北極気団が暖まり、極気団から吹き出す冷気が弱い分、気団を縛る役割のジェット気流も弱まります。その結果、気流の流れは乱れ、蛇行がひどくなりフニャフニャになってしまいます。こうなると、寒気が下がってくるタイミングと、逆に湿った暖気が北上するタイミングが後退しながら現れます。上空の寒気と、地上付近の湿った暖かい空気は、激しい夏の嵐や集中豪雨をもたらすのです。

一方、春には冬モードから急速に夏モードに遷移し、いわゆる春が短くなる傾向が、秋には夏モードから一気に寒気が下がってきて、秋が短くなる傾向が顕著です。フニャフニャのジェット気流が、最近は一気に太く逞しく立ち直る様なのです。結果的に、春秋は短くなり、長く暑い夏場には、強力な台風や集中豪雨が頻発すると言う、いわゆる気象の激烈化を招くと言う機序です。これは、確実な気象データに裏付けられている見方ではないので、あくまでこの投稿での「仮説」の域は出ませんが、観測された気象データによって裏付けられるためには、20-30年は掛かるので、当面は仮説のままで置いておくしかなさそうです。

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2015年10月 4日 (日)

2819 床下暖房

いま計画中の自宅の暖房システムをどの様にするか、まだ悩んでいます。理想は、屋外のボイラ室でバイオマスを燃料としてお湯を作って蓄え、それを暖房と給湯に使うシステムですが、床暖房との組合せで考えればかなり初期投資が嵩みます。もし、その分を住宅の断熱性能の向上に回せば、ライフタイムとしての暖房エネルギーはかなり小さく出来るでしょう。もちろん理想は、安普請の家にピカピカの暖房・給湯システムを入れる事ではないのは間違いないでしょう。断熱性の良い住宅は、小さなエネルギーで冷暖房が可能となるでしょう。

そこで、暖房にお湯を回すのではなく、暖かい空気を回したらどうかと考え始めたのでした。昨日、その様なコンセプトの住宅を見学する機会があり、刺激を受けました。その住宅は、二間続きの1階の暖房を、部屋の床下に降ろしたFFの石油ファンヒーターの温風を床下に送る事によって行っていました。基礎は、二つの部屋の間で分かれており、床下に送った暖かい空気は、部屋の窓際につけたルーバー(ガラリ)から抜けて部屋の空気を暖めます。この結果、部屋の天井付近の空気は二階も暖める様なのです。

このシステムでは部屋の空気を暖めて送るため、それに含まれるホコリを床下に送る事になるため、時々はそのホコリを掃除してやる必要もあるでしょう。それを改善するには、ボイラ室の空気と床下の空気を、部屋の空気とは分離して循環させてやる必要がありそうです。いずれにしても、見学した家ではこの10年の運用で大きな問題は起こっておらず、快適な住空間を実現できている様でした。

問題はやはり、給湯のためのエネルギーをどう賄うかです。バイオマスボイラを使うのであれば、また最初の問題に戻り、高額な設備費を覚悟する必要があります。かと言って、ガスや石油やましてや電気をエネルギー源としたのでは、環境負荷を抑える事が出来ません。当面安価なペレットストーブ程度の投資で、バイオマス給湯が出来ないか、模索するしかなさそうです。取り敢えずは、既存のペレットボイラに、銅管などで作ったコイルを仕込んで、簡易型の給湯器が実現できないかメーカーに打診中です。

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2015年10月 3日 (土)

2818 熱画像カメラ

熱画像カメラを所有し、仕事の上で活用しています。サーモグラフィーとも呼びますが、要は温度を色の違いとして表示、記録するカメラです。温度の高い部分は白や黄色や赤として表示され、冷たい部分は青や黒として表示されます。画面の中で、最低の温度の部分と最高温度の部分は、自動的に認識され、そのレンジ(温度幅)も自動的に割り振られます。例えば、画面に20℃前後の壁と、それを背景とした顔の表面温度が30℃の人物が映っているとした場合、黒から明るい白までのレンジは自動的に、20℃から30℃間の10℃に割り振られる事になります。

このカメラが仕事(例えば工場の省エネ診断ですが)にどう役立つかと問われれば、「熱漏れ」の発見に最適なツールだという答えになります。

どの様な形のエネルギーも、最後は熱(物質の熱振動の原因となります)になって、3つの伝導形態、つまりは熱の放射、伝導、対流によって環境に拡散し、やがては絶対零度に近い宇宙に向かって放射されて消えていく運命?にあります。工場の中では多くのエネルギーが、種々の形態で使われていますが、たとえそれが電動モーターであっても、必要な機械的パワーの他に、モーター本体が発熱し、軸受が転がり摩擦で発熱し、ベルトが摩擦で発熱し、油圧を発生させる油の粘性でポンプで発熱し、それを送ったシリンダーの滑り摩擦で発熱するのです。

同様に、蒸気を発生させるために運転しているボイラや周辺機器からも、ボイラー本体や蒸気管からは望ましくない「熱漏れ」が発生しています。それよりなにより、燃料を燃やすためには空気が必要なのでブロアで送りますが、必要悪として燃やしたガスは煙突から排気しない事には、新しい空気を送る事が出来ません。そこで、まだかなり温度の高い(熱エネルギーを持つ)燃焼ガスを、煙突から追い出して大気中に捨てる必要があるのです。

それらの、望ましくない熱の発生場所や熱漏れが、サーモグラフィーを使えば、それこそ「一目瞭然」になるという訳です。望ましくない熱漏れは、即ちエネルギーロスですから、それを食い止める対策は、必ず省エネルギーにつながります。漏れる度合いがひどい程、コストを掛ける価値がある個所になりますので、このカメラではその度合いも知ることが出来る訳です。その意味では、暑さ寒さの原因となる住宅の熱漏れ検出にも有効です。カメラは、ますます小さく安価になり、最近ではスマホ用のアタッチメントタイプだと数万円で入手出来る様です

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2015年10月 2日 (金)

2817 爆弾低気圧

2816に関連するテーマです。昨晩から急激に発達しながら暴れている温帯低気圧(通称:爆弾低気圧)は、台風並みかあるいはそれ以上ののパワーを持っています。台風は、熱帯の暖かい湿った海からエネルギーを貰って発達しますので、温帯の比較的冷たい海水に触れる事によって急激に衰退してしまいます。しかし、温帯低気圧は上空の寒気と比較的暖かい海水との温度差によってドライブされるので、北上する程勢力を強めると言う性質を持っているのです。しかも、台風に比べても影響を与える範囲は格段に広いのです。つまりは、超大型の「冷たい台風」と呼んでもおかしくはないのです。

爆弾低気圧のパワー源である上空の寒気をもたらすのは、2816にも書いた様にバレンツ海を起源とするジェット気流によって運ばれてくる場合が多いのです。この時期、特に日本海では北海道南部まで20℃を超えているので、例えば上空500mでマイナス20℃となっている寒気団との温度差は、「爆弾」が出来る条件である「40℃の温出差」を十分にクリアできる訳です。低気圧が北上すれば、海水温も下がりますが、同時に寒気団の温度は更に下がるので、温度差は更に大きくなり、爆弾は弱まるどころか、ますます強力に発達を続ける事が出来るのです。

海水温度は、近年ますます高くなる傾向をキープしていますので、台風にせよ、爆弾低気圧にせよ、今後ますます強力になり続けるとみて良いでしょう。激烈な風によって悪影響を受けるのは、なにも風力発電だけではなく、果樹などの農産物、漁船の航行安全を含む漁業、台風被害はあまり受けてこなかった日本海側や北国の地域の住宅などでも、爆弾被害を受ける可能性がますます高まってくるでしょう。だんだん住みにくい気候になりつつあります。

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2015年10月 1日 (木)

2816 バレンツ海気流

一昨日、お山(鳥海山)に初冠雪があった様です。雲が多かった昨日は見るチャンスがありませんでしたが、今朝ははっきりと頂上付近の冠雪が確認できました。9月中の冠雪は、去年に比べても20日ほど早いのですが、その原因はジェット気流で確認する事が可能です。つい最近まで、ジェット気流は複雑に蛇行し、如何にもフニャフニャと流れていましたが、数日前からはそれが太くしっかりと流れる様になってきたのです。

この時期日本の上空を流れるジェット気流は、中央アジアを流れる緯度に平行な気流と、北極海から降りてくる気流とが合流していますが、後者が雪を降らせる主犯になるのです。その冷たい気流の北極海側の出発点は、フィンランドとロシアに挟まれた「バレンツ海」になります。つまりバレンツ海を通過しながら日本上空に到達する気流が観測されるようになって、日本の寒さが始まり、それが途絶える春先に冬が終わりを告げる事になります。今のところ、冷たい気流は東北地方から北に限られるので、関東・東海以南は「夏」のままという事になります。ジェット気流の様子は、今は簡単にネットで眺める事が可能で、時々チェックして楽しんでいます。

http://earth.nullschool.net/jp/#current/wind/isobaric/250hPa/orthographic=-222.69,38.78,548

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