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2016年1月31日 (日)

2913 変化⇒混沌

社会に変化は必要ですが、一方で行き過ぎた変化は「混沌」を招きます。投稿者が物心がついてからの50年あまりを思い返しても、変化の度合いが大き過ぎたのではないかと総括せざるを得ない様なのです。例としてエネルギー政策を挙げてみます。投稿者がまだ子供の頃は、冬季の暖房は薪ストーブが殆どで、石炭が取れる地域では石炭ストーブを使っていました。エネルギーの主力は水力発電と、石炭とバイオマスであった時代です。しかし、高度成長期に入ると国内のエネルギー、取り分け電力が圧倒的に不足し、それを補うために急速に石油へのエネルギー転換が始まったのです。石炭から石油へのエネルギー転換です。しかし、世界の政情は、何時の時代にも不安定なもので、OPECの反乱がきっかけで石油価格が一気に急上昇してしまったのでした。いわゆる二度のオイルショックです。それに懲りたお国は、原子力エネルギーへの再転換を急速に推し進めたのでした。しかしそれが、3.11の震災⇒原発事故で、一気にエネルギーの混沌に陥ったのでした。世の中の電力エネルギーの偏重の急激な変化、またエネルギー源の急激な転換、それに追い打ちを掛けた震災が、今日のエネルギー政策の混沌を招いてしまった様なのです。

ここでの結論として、変化は緩やかでなければならないという事だけを挙げておきます。変化は、取り分け社会システムの変化は、人々がストレスを感じない程度、出来れば気付かない程のスピードで進むべきでしょう。そうでなければ、対応できずにその変化から落ちこぼれる人々が必ず出るからです。20世紀の初頭にT型フォードの量産が始まって以降、車が現在まで100年を超えて量産され続けているのはある意味で、驚異的な事だと言うしかありません。車が、人間にとってそれ程普遍的な乗り物であったと言う証左でしょうし、ここにきて、車のエネルギー転換が急激に進んではいますが、基本は化石燃料であると言う点では変化が無かったとも言えるのでしょう。

今後のエネルギー転換(お国はエネルギーミックスとか呼んでいますが)がどの様な形で進むのか、浅学ゆえに上手く予測はできませんが、少なくとも現在のトップランナー車の燃費に比べて、倍以上に改良する必要は絶対にあると見ています。これは、一貫して増加し続けてきた車の重量を減らし、安全性や快適性を犠牲にする必要がありますが、車の利便性を享受し続けるためには必要な犠牲であり、変化だと思うです。

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2016年1月30日 (土)

2912 科学≠現実

科学は、仮想現実を作り上げました。しかし、決して科学が現実を超える事はないし、ましてや科学に現実以上のシミュレーションが可能である筈はありません。あくまで、科学とは自然の観察の結果、人間が知り得た知見の近似値に過ぎないものでしょう。然るに、科学者は数式で、したがってコンピュータで模擬できると信じているのでしょうし、実際にも例えば数値予報などで、デジタルで「正確に」未来の気象を予報します。何しろデジタルですから、ある一つの離散ポイントに注目してみれば、正しいか間違っているかのどちらかになるでしょう。しかし、全体として見れば、「ゼロ、1」は平均されて、現実に近い予報が出来る事になります。気象方程式の連立方程式の元となる離散ポイント(メッシュは)かつては20㎞であった時代もありますが、コンピュータの能力向上伴い、現在は2㎞程度になっているのではないかと想像しています。事実上、近い将来であれば、自分が立っている所番地付近の気象だって知る事が出来る時代です。日々の方程式は、実際の観測で得られたデータで補正されますから、精度はますます高くなります。

しかし、予報は予報に過ぎず、決して現実ではありません。現実の観測で、離散ポイントの初期値が補正されたとしても、その初期値にも誤差がありますし、計算の過程でも計算誤差が累積します。加えて、自然現象のゆらぎ(1/f)が入り込みます。雲の消長(日射の偏在)、風が作る渦、水分の蒸発(湿度の不均一)などなどが積み重なって、気象のゆらぎを引き起こす事になります。

気象は自然現象ですが、科学者は社会現象や、経済現象まで「科学」で割り切ろうともがきます。もちろん、人々の行動や気持ちまで数式化できる筈もないのですが、いわゆるビッグデータとその分析で、ある程度の傾向まではつかめる様にはなったようではあります。とりとめが無くなってきましたが、ここでの結論としては一番重要な事は、自然や社会を腰を据えてじっくりと「定点観察」する事こそが肝要なのでしょう。

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2016年1月29日 (金)

2911 競争から共生へ

声に出せば両方とも似たような響きですが、意味するところは180度、天と地ほども異なります。現代社会は、学生の受験や卒業前の就活は言うに及ばず、企業間の競争や国際間の競争、更にはマンション購入時の高い倍率、果ては自分が入る墓購入時の抽選まで、他を蹴散らしての競争に勝ち抜かなければなりません。しかし残念ながら競争は、必ず勝ち組と負け組を作らずには終わりません。その様な社会では、いわゆる格差が生じ、それが連鎖する事により、ピケティが指摘する様にそれが拡大を続けるのです。

さて、共生社会ではどうなるのでしょう。共生社会というと言葉がやや硬いのですが、もっと普通の言葉で言えば「助け合いの世の中」と言えるでしょう。困っている人を、少し余裕のある人が助ける、あるいはひどく困っている人を、あまり困っていない人が助ける社会とも言えるでしょう。もちろん、その様な社会ではひどく余裕のある、いわゆる富豪は存在しません。富豪になる前に、その余裕を困っている人と分かち合うからです。これは、いわゆる社会主義とは異なります。社会システムとしての強制ではなく、全てが善意から出発するものだからです。

ではどうしたらその様な社会が実現できるのでしょうか。先ずは、お金の呪縛から抜け出す事から始めるしか無さそうなのです。お金こそ(あるいはデジタルマネー)は、いわばお金持ちや格差を生み出す源泉でしょう。お金が無い、裸の人間として見れば、人間相互の差は微小でしょう。体の大小や病気に対する免疫力や男女の差や、言わゆる表皮の美醜程度の差しかないでしょう。現代の社会では、残念ながら貧富の差は間違いなく世代間で引き継がれてしまうのです。親が裕福な状態で人生をスタートした人は、裕福なレールを進み、そうでない多くの人は凸凹道をトボトボ歩くしかないでしょう。もちろんレールを踏み外すおバカな金持ちもあれば、凸凹道を頑張って歩き、走り、ついには舗装道路や鉄道に乗り換える気骨のある人も一握りは居るのでしょう。しかし、競争社会では圧倒的に落ちこぼれる人の割合が多いのです。右肩上がりの社会では、確かに殆どの人が高度成長期というレールに乗って動いていましたが、マイナス成長時代には、必然的に共生社会に歩み寄って行くしか道はないと思っています。

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2016年1月28日 (木)

2910 造られた消費者

環境ブログと銘打ちながら、最近は経済ネタが多い様な気がします。それほど、最近の経済偏重を憂いていると言う事で・・・。一口に消費者と呼びますが、消費者が初めから消費者であった訳ではありません。昔に遡れば遡るほど、人々は自給自足の生活を送っていた筈です。何時の頃からか、分業が進み、いわゆる商売が拡大すると、人々は自給自足生活から、消費生活へと足を踏み入れた訳です。それでも、人々は可能な範囲で自給自足を続け、必要不可欠なものだけをお金を出して買っていたのです。しかし、高度成長期は人々を一気に、消費者になる事を強要したのでした。大量生産が、可能になると、それを大量に輸送し、消費地(つまりは自給が出来ない都会です)に運んで売り捌き、そして大量に廃棄する事こそが、社会として正しい事だとされたのです。

その過程で、いわゆるコマーシャリズムは、人々の物欲をこれでもかという程刺激し、人々を自分ではモノを賄わず、消費するだけの人、即ち「消費者」に仕立て上げたのでした。それは、今では都会だけに留まらず、田舎でも大きなスーパーやショピングセンターが次々にオープンし、人々は日用品から食糧まで、全てお金を出して買う、立派な消費者となってしまったのです。田舎からは、食品の原料となる作物が都市近郊の食品工場に送られ、そこで「加工食品」として加工・パッケージングされ、多くは都会に、残りの部分は再度田舎に送り返されて、スーパーの棚に並べられるのです。

かつて、田舎の町、取り分け地域の中心となる町では、大規模な工業でしか作れない製品以外は何でも賄えたのでした。食糧はもちろん、調味料全般、洋服の仕立て、日用品から、板金で作るストーブや煙突などの軽工業品、木材や合板などやそれらを加工する木工品、更には酒や味噌等の仕込みに使われる見上げる様な樽まで、それぞれに工場や工房があり、あるいは職人の店があって生業を営んでいたのでした。しかし、今やほぼ全ての人が雇い人となってしまい、得た給料でひたすら消費を続ける、造られた「消費者」になり下がったのです。一握りの農家でさえ、種や苗や農機具や農薬や化成肥料の消費者となっている始末です。これもたぶん続きます。

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2016年1月27日 (水)

2909 資本主義の本質

新書の「さらば、資本主義」の中でS伯啓思も指摘するように、資本主義の本質というか大前提は、結局は「資本がそれ自身により増殖が継続する」こと、しかなさそうです。もし、投資しても利得が全く無いという経済社会を想定すれば、だれも資本を持ちたがったり、それを投資したりはしないでしょう。それは、いわば資本主義の「終焉」を意味します。まさにこの本の予言するところです。だからこそそうならない様に、いまこの国では躍起になって、無理やりの経済成長を鼓舞しているのでしょう。

ところがです、今この国では、重症の「成長停止病」にかかっている様なのです。というより、この病に罹患して、すでに20年以上は経過している可能性が大なのです。この国の経済状況を表現するに、失われた20年ではなく、「成長できなくなって早20年以上」という表現が適当だと思われます。近年の国の政策は、その意味で明らかに間違っていると言うしかありません。つまり再度成長が始まる様な政策を立てるのではなく、単に銀行屋にその責を丸投げしただけだったからです。言葉の上では成長戦略などと声高に叫んではいましたが、なんら具体的な指針は示してこなかったのです。企業は、薄々この国の経済成長が終わった事は察していますから、国が笛を吹いてもそれに乗って踊ることはないでしょう。結果としては、博打を打って新たな設備投資をすることもなく、徒に内部留保をため込む事くらいしか為す術が無いのでしょう。

私たちは、資本主義(=新自由主義経済)の先の新たなシステムを考え、築いていくしかなさそうなのです。それは、何かまったく新しいシステムである必要まではないかも知れません。とりあえずの答えは、市場に全てを委ねる自由主義経済と、国が関与して経済を誘導する計画経済の間にあるのでしょう。それは、兎にも角にも一度は経験済みの「実績のあるシステム」であり、まずはそこに戻って、必要なら時間をかけてあるべき新しいシステムを練り直せばよいのです。重要な事は、社会システムの変更は、混乱を避けるためにも、継続性を重視しつつゆっくり実行するということでしょうか。もちろん、その過程で「損をするもの」と「得をするもの」が出るのは、仕方がないことでしょう。欲をかかず、将来世代のことを思いやって、我慢するしかないのです。

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2016年1月26日 (火)

2908 能力の拡張

科学・技術とは、結局は人間の持つ能力の拡張を目的としてきたのではないかと振り返っています。動物の中でも最も足が遅い部類に入るヒトなのに、各種交通機関を使って移動を加速し、力の弱さを圧縮空気や蒸気や油圧やモーターの力で補強し、空を飛ぶにはひ弱過ぎる腕力はそれを使う事無く機械で飛行し、目の能力を高めるためにカメラや顕微鏡を使い、あるいは脳の力を拡張させるためにコンピュータを利用するのです。

しかし、最後の脳力の拡張させるコンピュータ技術は、他の技術に比べるとやや異質であるような気がします。つまり、脳を除く能力は、いわば脳の入力装置である五感であり、筋肉はアクチュエータである訳ですが、脳すべての行動を起こる司令塔であり、やはり他の能力とは分けて考える必要があるでしょう。脳は、ある状況で、その人らしい行動を起こさせる器官なのですが、その能力を拡張するということは、いったい何を意味するかは、よく考えてみなければならないでしょう。例えば、スマホやパソコンでは、分からない事柄について検索をかければ、それなりの情報を得る事は出来ますが、それをどの様に役立てるかまでは示してくれません。

まして、安易にネット検索に頼り切る様になった場合、物事を一から考える、本来の脳の能力はドンドン減退してしまう筈なのです。つまりは、「要不要の法則」により、あまり使われない脳細胞が淘汰されていくという状況を意味します。五感や筋肉ももちろん、あまり使われなければ減退するのでしょうが、脳細胞の(ネットワークの)様に完全に死滅してしまう訳ではないでしょう。脳は、使えば使うほどその能力は、飛躍的に高まる器官なのです。たぶん。その意味において、コンピュータへの過度の依存は、人類を滅ぼす愚かな行動なのかもしれません。ちなみに、この原稿もパソコンで書いているので、ずいぶん漢字が手書きできなくはなりましたが・・・。

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2016年1月25日 (月)

2907 価値の物差し

時々、今私たちが暮らす社会の「価値の物差し」について考えます。残念ながらと言うか、どうしてそうなったのか、現在の価値の物差しは「お金」でしょうか。何は無くともこれさえあれば、事実上何でも買えてしまうからです。とは言いながら、果たしてそうだろうかと考え込んでしまうのです。例えば、5年ほど前の震災発生時の事を思い返してみましょう。発生直後の混乱と流通インフラの寸断により、例えばガソリンや灯油は、いくらお金を積んでも手に入らない期間があった筈です。それ以前に、生きていくのに欠かせない、食糧や飲料水まで、お金があってもコンビニやスーパーのモノが無くなった時期もあったでしょう。平時の様に、モノが潤沢に出回っている社会では確かに、お金が物差しでしょうが、そうではない時代が、あるいは時期があった(ある)という事実は忘れるべきではないでしょう。

さて、そのお金の価値は誰がどの様にして決めるのでしょう。誰が、コメ5㎏の値段を700円と決め、あるいはガソリン価格を110/ℓと、あるいは車の値段を150万円と決めたのでしょう。よくよく考えてみれば、モノの値段は石油や鉱物などの1次産品の価値によって、それを使って生産れるモノの値段を決めている事に気が付きます。農産物だって、海産物だって、石油が無ければ耕作したり手に入れたりする事は叶いません。燃料(原料)価格と人件費と、設備投資の回収費などに利益を加えたものがモノの値段となるとすれば、出発物質である燃料(原料)の持つ価値こそが、価値の出発点となっているのです。

頭がコンガラガルのは、出発物質を供給している国や王族がお金を受け取って、そのを使って工業製品を買うのですが、石油や原材料が安くなれば、製品価格も安くなり、買い易くなるでしょうし、逆に引き上がれば製品も高くなるでしょう。しかし、原材料や化石燃料や製品を利用し、それを金融商品化して荒稼ぎする輩が増殖して、単純なカラクリでは説明できない、今ある様な社会が生まれてしまったのです。1+12ではなく、今や10にもなってしまう時代なのです。石油や原材料から出発した、本来あるべき適正な?価値に対して、市場をコントロールしている誰かが恣意的に値付けをして市場に出した値段の比は、当然1以上になるでしょう。その比を、ここではとりあえず「価値のレバレージ」と呼んでおきます。たぶん続きます。

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2016年1月24日 (日)

2906 第一級寒波?

この冬一番の寒波が来ています。投稿者は、基本的に気象現象を原因から考えるのが好きなので、この寒波に関しても一考してみます。さて、地球を広域で眺めれば、今回の寒波は実は比較的小さな冷気の塊に過ぎず、別にその背後に大きな寒気団が控えている訳でもない様なのです。もし、北極(シベリア)に十分に寒気が蓄積しているのであれば、寒波は長く続くはずですが、単発の寒波はアッという間に過ぎ去ってしまうでしょう。今回の寒波は気温こそ低いものの、まさに「小粒の寒波」に過ぎないのです。たまたま、ジェット気流の蛇行に乗って、この寒気は結構緯度の低いところまで降りてきたのです。

そもそも、北極に寒気が十分に蓄積している場合には、その寒気団の縁を流れるジェット気流はほぼ極を中心とした円形をしていて、安定して流れるのでしょうが、極気団が弱い場合には、ジェット気流も弱く、とかく蛇行しがちなのです。しかし、それでも極気団がしっかりしている間は、ジェット気流の蛇行の形も、北極点から見てきれいなクローバ型をしているのですが、近年の蛇行は不定形の歪な形に崩れる期間が長いのです。結論として言えば、今回の様な、小粒の寒波はいわばすっかり体力の弱った極気団(冬将軍)の、やけくその一撃に過ぎないと言うしかありません。

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2016年1月23日 (土)

2905 リバーサ

投稿者の問題意識としては、実のところ経済の減速では持続的な社会の構築には届かない伝はないかと疑っています。つまり、経済活動のスピードは、加速しすぎた結果最早、国レベルのコントロールではほとんど効かないレベルまで、巨大化しスピードが上がり過ぎていると見ているのです。大型バスは、いわゆるフットブレーキだけでは止まれないし、もちろんすべての旅客機も同様に2000m程度の短い滑走路に着陸することはできない相談です。バスでは、排気ブレーキなどの「倍力装置」が不可欠ですし、旅客機ではエンジンの推力を逆向きに噴射する「スラストリバーサ(逆噴射)装置」が不可欠なのです。

大型で、強力なエンジンを備えている乗り物には、それなりに停止するためのブレーキが必須なのです。然るに、肥大化した経済システムを適度にコントロールする仕組みは、ほとんど見当たらない様なのです。いくつかの国で行っている経済政策、小刻みな公定歩合の上げ下げや、金融緩和策程度では、もはや為替や株式市場はほとんど反応してくれないのです。そのくせ、世界経済に影響のある国々の、国内経済情勢や政治情勢にはひどく敏感に反応を繰り返すのです。

足りないのは、経済の逆噴射装置なのでしょう。現在のB国主導の、新自由主義経済には、間違いなくスラストリバーサ装置は組み込まれていないのです。かつて、この国では、高度成長期には「通産省」という組織があり、かなりの程度国の産業のあり方の青写真を描きながら、経済をコントロールもしていました。それもこれも、経済が戦後の復興から続く持続的な成長過程にあったからこそ、青写真さえ示せば、産業界はついてきていたのでした。しかし、今や巨大化したオイルマネーを主体とした国際金融資本は、一国はもちろん国際経済さえも揺さぶる力を持ってしまったのです。彼らにブレーキを掛けるメカニズムは、残念ながら今の経済システムには組み込まれていないのです。カネ(マネー)が、全ての価値判断の基準である限り、マネーの化身である金融モンスターには勝てない様なのです。これに対抗する逆噴射装置として、何となく想像できるのは、カネ(紙幣)や債券や株券などを「紙屑にする装置」の様な気がします。モノを基準にした実態(の裏付けのある)経済を、必要かつ最小限のレベルで回す仕掛けこそが、スラストリバーサを組み込んだ経済となり得る様な気がしています。

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2016年1月22日 (金)

2904 エンジンブレーキ

経済の闇雲な成長や加速が、結局は破局を早めるのだとしたら、ではどうすれば良いかですが、もし可能な限りの人類の存続が、もし正しいと仮定するならば、唯一の方法は減速しかありません。全ての経済活動をスローダウンするのです。しかし、フルスピードで走っている車があるとして、スピードを緩めるのに急ブレーキを踏むのは、多くの場合には危険でもあります。安全な方法は、エンジンブレーキを使った緩やかな減速でしょう。しかし、あまりも重くなり過ぎた車体(経済システム)は、アクセルを踏むのを止めたとしても、惰力は相当なものとなっています。

バス事故からの連想の様なです。どのほど惰力がついているかと言えば、それはいくつかの大国がブレーキを掛けようとしても、どうにも止められない位だと言えるでしょう。例えば、B国やC国やこの国が、自国の経済状態を改善しようとして、多額の税金をつぎ込んで、対策を打ったとしましょう。確かに、対策直後はそれなりの効果を見せるのでしょうが、ホトボリが覚めると、それは元の木阿弥に戻ってしまうでしょう。国際金融資本(キャピタル)は、それ程巨大なのです。それは、まさに金融マフィアと呼ぶべきか、あるいはキャピタリズムが作ったモンスターとしか呼べないシロモノです。

エンジンブレーキを掛けようと、いくつかの国がアクセルを緩めたとしても、それを良しとしない輩(というかモンスター達)は、それさえチャンスとばかりに利用して金融資本を増加させるでしょう。いわゆるリスクヘッジです。株や為替が安くなっても、逆に高くなっても、双方向で利を稼ぐ術(金融工学)を駆使して儲ける訳です。各国の政府が打つ手など、とっくに見透かされて、彼らのシステムに組み込み済みなのです。

はてさて、困ったものです。どうやら私たちは、既にエンジン自体の減速によるブレーキ効果を期待する事は諦めないといけない時代に突入したのかも知れません。エンジン自体がモンスター化してしまった可能性もあるのです。ならばどうするかですが、例えば今の経済システムから外れた新たなシステムを検討するのも一方法だと思っています。物々交換などは結構魅力的でしょう。お金に依存しない経済システムです。かつてこの国では、コメが価値の基準となっていた時代が長く続いていました。コメは食糧の柱であり、それを食べて命を繋いで行く事こそが価値だった訳です。さて今の時代、価値基準となり得るモノは、お金以外では何になるのでしょう。表題から少し反れた様なので稿を改めて続きます。

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2016年1月21日 (木)

2903 成長バカ

さらに2902の続きです。M野和夫の「資本主義の終焉と歴史の危機」は、久しぶりにスンナリ腹に入る新書でした。16世紀と21世紀の類似性を示しながら、現代社会における「成長神話」を引きずり降ろします。現在の地球には、最早開拓すべきフロンティアは残っていないので、もし無理に経済成長を達成しようとすると、どうしても何らかの「バブル」を仕掛けるしかないと指摘するのです。それは的を射ているので、否定しようありませんし、過去に起こったいくつものバブル崩壊という事実がそれを裏付けてもいます。

過去のいわゆる6大バブルと、今後起こるであろうバブルとは、もしかすると異なるかも知れません。二度あることは三度ある、あるいは三度目の正直など、同じことの繰り返しについてのことわざは多いのですが、6回も繰り返してもまだ懲りない人類は、非常に忘れっぽくて救われない生き物なのかも知れません。しかし、歴史をひっくり返して眺めれば、実はバブルの種には事欠かない様なのです。1600年代における、オランダのチューリップバブル、日本でも貨幣改鋳や朝顔などによる元禄バブルなど、楽をして儲けようとする輩が存在する限りバブルの種は尽きないようです。

さて、実態経済の伴なわない、いわゆる金融バブルによって、例えば600兆円のGDPが達成できたとしても一体それが何になるのでしょう。バブルが弾けた暁には、経済は無理に膨らませた分だけ、あるいはそれ以上に縮小して、ひどいデプレッションに陥ることでしょう。成長神話から抜け出せない輩を、ここでは言葉はキツイですが「成長バカ」と呼んでおきましょう。高度成長期を経験してしまった世代には、この様な輩が多く存在するのは困ったものです。そんな輩が、今のリーダーに入れ知恵をしているのでしょうが、彼らはもう10年もすれば、社会の一線には居ないはずなのですから、今の政権の政策に関しては、まさに無責任の極みと言うしかないでしょう。

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2016年1月20日 (水)

2902 ゼロサムゲーム2

2901の続きです。さて、成長のフロンティアが最早殆ど無くなってしまった地球上で、やらなければならない仕事は、「祭りの後始末」です。20世紀、取り分けその後半はまさに「お祭り」でした。時間を忘れて働き、飲み、歌った時代だったのです。そのお祭りのピークは、今にして振り返れば、1970年代までだった様な気がします。前のオリンピックや大阪万博は、その祭りの中の花であるパレードだったのでしょう。しかし、私たちはお祭りが終わった後でも、出来るだけその余韻にしがみつこう、あるいは更に祭りを仕掛けようともがいていた様な気がするのです。

そのために、無い袖(予算)を振って、新たなお祭りを画策し、結果として「不動産祭り」を仕掛けて、結局はバブル崩壊を見る事になったのです。もし、新たなお祭りを諦めて、70年代までの後始末をしておいたなら、今ある様な巨額の負債は残らなかった事でしょう。祭りのハレの日ではない「ケの日々」に於いては、暮らしは収入の範囲内で質素に暮らさなければなりません。ボリュームのあるご馳走やケーキは、年に数回の記念日の食べ物であって、決して日常ではない筈なのです。

その意味で、政府やマスコミを挙げて実行しようとしている2020年のお祭りを横に置く訳にはいかないでしょう。莫大な建設費が掛かり、南アルプスの横っ腹をぶち抜く新幹線も然りです。これ以上の祭りを仕掛けて、賑やかさを求めても、それが一段落した後の「虚しさ」を増幅するだけに終わるでしょう。ゼロサムゲームの大原則は、「収支の帳尻を合わす」事なので、無い袖を振っての大盤振る舞いは許されない話なのです。2901で触れた、国のエンジンとそれを動かす燃料ですが、エンジン(社会インフラや企業=設備)が存在するからと言って、無理に借金してまで燃料を買って、ブン回す事は許されない話でしょう。そうではなくて、エンジンは、いま買える燃料の範囲内でしか動かしてはいけないのです。

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2016年1月19日 (火)

2901 ゼロサムゲーム

人口が減少局面に入っているこの国で、未だに「成長戦略云々」などと声高に叫んでいるこの国のリーダーの頭の中身を疑います。何度も書くように、このブログは、他の人を揶揄することは目的にしていませんので、ここで書くのは、一個人の批判ではなく、あくまでも「頭の中身の批判」ですので念のため。さて、国の経済が成長するためには、エンジンと燃料が必要です。もちろん、国を車にたとえるなら、車輪もハンドルも変速機もアクセルもブレーキ必要であるのは間違いないのですが、ここでは単純化のために二つに限って書き進めます。

さて、国のエンジンとは、その国の社会システムと、それを構成する国民や企業ということになります。この国の中には、既に国のサイズとしては「過剰な馬力」のエンジンが存在していると言えるでしょう。ハード面でいえば社会インフラと企業の設備ですし、ソフト面でいえば、高度成長期を通じて培ってきた、官僚制度や各種法制とでもなるのでしょうか。それを底辺から支えているのは、言わずもがなですが、国民と国民が持つ国民性(文化)でしょう。その国民性についていうなら、この国国民性の中には、確かに「質実剛健」や「質素倹約」などという深層的な心根があったように思うのです。別の言葉で言えば「足るを知る」控えめな国民性です。

しかるに、行動成長期を通過する中で、「大きいことは良いことだ」とか、「大は小を兼ねる」とか、「大量生産・大量消費・大量廃棄」の風潮が固定してしまった感があります。その背景には、いわゆる右肩上がりの「成長神話」が見え隠れしてもいるのです。地理的に見れば、既に地球上には未開のフロンティは存在しないでしょう。アフリカはかつてその候補でしたが、これまでは西欧諸国が陣取り合戦の結果、経度や緯度に沿った線引きを行い、資源のあらたかを奪い取ってしまいました。少しだけ残った資源を最後まで浚うために、遅まきながら経済成長を必要とするC国が進出を図っている最中です。

しかし、有限な資源しかない地球上におけるこれ以上の経済成長(プラス)とは、結局はどこかの国や地域の不利益(マイナス)を意味しているのです。何故なら、それが「ゼロサムゲーム」の絶対的ルールだからです。続きます。

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2016年1月18日 (月)

2900 資本というブラックホール

資本主義という「ブラックホール」について時々悩ましく考え込んでしまいます。それは、資本主義、取り分け最近の新自由主義には、ブレーキが組み込まれていないと思うからです。ブラックホールは、あらゆる物資やついには光さえも、その強大な重力で飲み込んでしまいます。資本主義においても、資本は富という富を飲み込まずには置かないでしょう。小さな資本は次々に吸収されて、巨大資本へと成長し、その巨大資本は更に新たな富を求めて世界中を彷徨います。

資本主義は、M野和夫も指摘する様に、本質的に貪欲に経済成長を要求します。世界野何処かにフロンティアが残っていて、経済成長が可能であった時代(1970年代半ばまで)は、この国を含む先進国と呼ばれる国々はラッキーでした。しかし、次第に開拓すべきフロンティアが無くなった近年、資本主義は行き詰まり、仕方がないので、サイバー空間に債権や為替などという「金融空間」を作り出して生き延びてきたのでした。しかし、モノが伴わないデジタルゲームは、結局のところ「バブル」を起こすべく宿命を背負っていると言うしかありません。資本は、無為に膨張しては、バブルの崩壊によって縮小し、少し前の状態にリセットされる訳です。犠牲になるのは、破産した企業から放り出された従業員です。

どの様な道筋で考えても、資本主義においては資本は雪だるま式に膨らみ、やがて弾けて縮小し、モノが伴なわない分、雇用はドンドン減り続け、格差は拡大し続ける宿命を負っているとしか思えません。少しお金を抱えている「余裕のある人々」は、バブルのおこぼれの「資本のかけら」を握って、少し増えたと喜んでいる内に、ある日突然それが紙屑(あるいはババ抜きのババ)になってしまった事に途方に暮れるのです。誰かも指摘している様に、資本主義というシステムにおいてはたった15%の人々しか富の恩恵に浴する事は叶わないのです。さて残りの85%に属する私たちは、今後どう行動すべきなのでしょう。引き続き考えてみます。

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2016年1月17日 (日)

2899 トレーサビリティ技術

原材料の製造から、製品化、流通、消費、廃棄まで全ての段階で、製品の置かれた状況をウォッチ出来るのが、トレーサビリティの理想ではあります。何故なら、多くの段階で種々の不正を惹起する可能性があるからです。原材料の偽装、製品の品質低下やミスの看過、流通段階での損傷、異常な使用条件、更には不正な廃棄処理などなどです。実は、通常の工業製品であれば、現在はそれがかなり可能になりつつあると言えるでしょう。キーとなる技術は、マイクロICチップと呼ばれる素子です。製品に、ユニークなシリアル番号を記憶させたICチップを埋め込んでさえおけば、あとは製品を検出器に接近させさえすれば、製造、流通から使用後の廃棄まで過程まで、トレースすることが可能となる筈です。それがまだ実現していないのは、コストの問題があるのと、社会がそれを強く要望いるわけではないからでしょう。

しかし、2898の様に製品が食品である場合はどうしたら良いのでしょう。ハードウェア製品とは異なり、人の胃袋に入る食品に、たとえ砂粒の様なサイズでも、ICチップを混ぜて入れておく訳にはいかないでしょう。せいぜい、食品を包んでいる包装に必要な情報を書き込んでおく程度が限界と言えそうです。とは言いながら、もし悪い輩が悪知恵を働かせて、元々の包装を破って、新たなパッケージに入れ替えることまでは防止できないでしょう。

その悪事の上を行くとすれば、例えば一度包装を破った場合には、必ずその痕跡が残るような、「包装技術」が必要でしょう。悪人がそれを別の包装に変えた場合にも、元々のメーカーだけが使える「実印」のような特殊なマーキングを付けることはできないので、詰め替えられたことが容易に看破出来るという仕組みです。問題は、そのような特殊なマーキングを施す技術が、今あるかどうかですが、たぶんそれはお札に隠されている識別に対する「印刷技術」に近いものとなると予想できます。印刷が特殊なのか、あるいはインクが特殊なのか、その組み合わせになるのか、いずれにしてもそれが実現しない限り、今回のような悪質な「食品リサイクル」の種は尽きないのでしょう。

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2016年1月16日 (土)

2898 排出者責任(PPP)

食品廃棄物が、「食品としてリサイクル」された、という事件が起こりました。それもC国ではないこの国の中でです。まったく信じられない思いです。廃棄物は、現状では排出者が6枚綴りの「マニフェスト」を発行した上で処理が始まります。それを引き受けるのは、中間処理業者を介して、あるいは直接に最終処分業者で、運搬や中間処理(破砕など)や最終処分の各段階で、業者が処理内容と日付を記入した上で、それぞれの複写が排出者(今回の場合は大手カレーチェーン)に戻されます。

正確に法律を読むならば、実は排出者には、それを直接確認する義務が生ずるのです。つまりは、「排出者責任=PPP」の原則です。廃棄を依頼した事業者は、それが適正に廃棄されたか否かを「確認する義務」を負っているのです。今回の場合、処理を受託した業者が、勝手に横流しして、それが食品として再び流通ルートに乗った訳ですが、もしカレーチェーンが適切に廃棄されたか否かを、たとえ一度でも業者に立ち入って確認をしておけば、それが抑止力になって、今回の様に継続的で悪質な横流しが防げたと思うのです。お金だけ支払って、厄介払いをしたつもりでいたとすれば、排出者も同罪というしかありません。

賞味期限切れや、異物混入の疑いのある食品廃棄物の量は、食品全体の3割にも達するとも言われており、廃棄食品のリサイクルは、実は結構行われているのかも知れません。もし、古い包装のままではなく、剥がして新たに包装し直した場合、もはやその食品の履歴をトレースする事は不可能なのです。排出者には、出来れば不定期で処理業者に立ち入って実際の状況を監査する100%の責任があるのです。

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2016年1月15日 (金)

2897 因果関係

ある現象に対して、原因を「充てる」場合、時として過ちを犯してしまう場合があります。つまり、原因が複数考えられる場合に、単独の原因だけに押し付けがちになることも多いということです。温暖化現象が、たぶんその代表的な例と言えそうです。温室効果ガス(以下GHG)には、水蒸気、CO2のほか、メタンや一酸化二窒素やフロンなどなどが挙げられています。もちろん、その中で水蒸気の寄与利率が一番大きいのですが、二番目の寄与率を持つCO2でも、例えばメタンガス(CH4)からCO2への移行(生物が関与すればその逆も起こります)や、他のGHGとの相互作用など、まだ分かっていないか、正確な評価ができていない部分も多いのです。

いずれにしても、ほとんどすべてのGHGは人間活動の結果生ずる訳で、その活動の中で化石燃料を燃やして熱や動力や電力を生み出し、また農業や牧畜では大量に散布される肥料(硫安など)や家畜のゲップからも一酸化二窒素やメタンガスが多量に放出される事になります。また、冷蔵庫やエアコンに使われている、フロンや代替フロンについても、オゾン層破壊係数は低下しているものの、温暖化係数は相変わらず高いままなのです。その意味で、最大・最強のCHGである大気中の水蒸気の絶対量すら、正確には把握されていないのが現状です。もちろん、素人がざっと考えても、平均気温が上がってくれば水蒸気量も増加し、温暖化に拍車を掛けている筈のです。

原因と結果の別の例では、交通事故なども、真の原因が特定できにくい「現象」かもしれません。単純なケースは、2台の車が絡む事故ですが、100%の割合で一方が悪いというケースは非常に少ないはずです。一方が車線をはみ出して衝突事故を起こしたケースでも、防衛的な運転を心がけるドライバーなら、中央線から離れて、つまりはキープレフトで走行するでしょう。そうした場合は、まったくの正面衝突とはならず、接触事故くらいで済んでしまう可能性もあるでしょう。あるいは、漫然と運転せず対向車が中央線に近寄ってくるのを察知して、あらかじめ減速するとか、さらに左側に寄るとか、何らかの回避行動も出来るかもしれません。十分な検証無しには、事故も犯罪でさえ、0%か100%かの「因果関係の断言」は避けるべきでしょう。

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2016年1月14日 (木)

2896 線路の無い鉄道

私たちは、いま線路の無い鉄道を走る列車に乗っているのかも知れません。鉄で出来た重い列車は、大きな慣性を持つので、簡単には止める事は出来ません。資源国では、日夜石油や鉄や石炭や各種鉱石を掘り続け、それを運ぶ数えきれない数の船が、たった今も動き回っているでしょう。各国の工場では、昼夜を問わず原材料を作り、それを使って製品を作り出し続けています。出来た製品は、トラックやコンテナ船で国内外に送られるのです。それらを、たとえ1分でも止める事は難しい事でしょう。

しかし、それらの大量の「物量」の移動の結果が一体何をもたらすのか、実は私たちは良く分からないままに進んでいる様なのです。つまり資源の確保と、使用済みとなった製品(=廃棄物)の処理方法が確立されていないのです。少なくとも、放射性廃棄物に関しては、現状は全く「ノーアイデア」であるとしか言えないでしょう。更に、モノの移動の結果、モノの価値の何倍ものお金が、サイバー空間を行き交います。何倍どころか、たぶん数ケタも多い額でしょう。何故なら、サイバー空間では単にデジットの移動なので、それを価値と呼ぶならば(株や債券)の売り買いには、モノを関与させなくとも済むからです。

私たちは、モノを大量に移動させ、それに関して、あるいは関わらない莫大なお金を動かし続けて、一体何処に向かおうとしているのか、全く五里霧中の状態というしかないのです。お金の価値は、金本位制が無くなったあの時点から、つまりはドルの信用度だけで決まる時代に入った訳です。円はドルに対して、一体どれだけの信用度があるのかは、日々の国際通貨市場で決まるだけです。最早、工業力を使って稼げるフロンティアは、地球上には残っていないです。もし、すこしそれらしい場所があるとすれば、それはアフリカになるのでしょうが、案の定C国はそこに大きな投資を始めてはいますが、それが援助ではなくビジネスである限り、正体がバレて早晩行き詰る筈です。ではどうすれば良いのか、引き続き考えてみます。

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2016年1月13日 (水)

2895 10億分の1秒

2894と同じ対談の中に出てきた、現代の株取引が1秒間に10億回行うことが可能という話題で、10億回という実感が、にわかには湧きませんでした。つまりは、電子空間では、1秒を10億に「タイムシェアリング」しながら取引を行っているていると言う意味なのですが、その10億分の1秒の実感が湧かないのです。これは、10億分の1秒分だけ先んじれば、他人より先に取引を成立させられ、それに遅れれば貧乏クジを引いてしまうかも知れない事を意味します。

これを聞いて、やはりと言うか、自然にと言うか、アキレスと亀の(ゼノンの)パラドックスを思い浮かべました。つまり、時間を無限に分割して考えるする限り、アキレスは少し前に出発した亀を追い抜く事が出来ないと言う、例のパラドックスです。これは、物理的な空間としては、もはやフロンティアは残っていないこの地球上で、より多くのTransation(経済的取引=売買)を行うため、金融業界が「タイムシェアリングの地平」を広げ続けた結果だと言えるでしょうか。例えば、10億分の1秒を更に10個に分割すれば、理論的にはもう10倍の取引が可能になる事を意味し、コンピュータの能力さえ上げられれば、経済活動を更に活発に出来るのです。

しかし、もちろん実際の経済活動、つまりは原料を掘り出し、原材料を作り、それを元に部品や製品を作って、それを市場に送って流通させる行為には、輸送など物理的なスピード制限がありますから、いくらTransationのスピードを速めようが、結局はそれは「空売り」であり、「空買い」という空虚な取引というしかありません。現代の病巣の一つは、この「現実空間とサイバー空間の乖離」にあるのではないか、と時々考え込んでしまいます。現実は、いくら努力してもIT技術が作り出したサイバー・時間空間に迫る事は出来ないどころか、その差はますます開いていくのです。視覚的には、亀に追いつこうするアキレスではなく、近づけば近づくほど、亀とアキレスの間の時間は細分化され、その時間の目盛だけが無限に増殖して、亀とアキレスを隔てる様に見えるのでしょう。というより、そもそも、現実世界とサイバー空間を並べてみても、元々次元が異なるものなので、比較にも何も出来ない相談なのですが・・・。何やら、これは時間と空間の関係を論じた、あの「相対論」にも似ている様な気もしてきました。

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2016年1月12日 (火)

2894 ポスト成長時代

IとうせいこうとM野和夫の対談をラジオで聞きました。その中で出てきた「脱成長」という言葉が耳に残りました。「脱」の意味がもう一つ理解できなかったのですが、いずれにしても今のリーダーが無責任に放言しているGDP600兆円時代ではない事は間違いないでしょう。ここでは、脱成長時代を、成長時代後(ポスト成長時代)と言い直して、投稿者なりのイメージで置き直してみましょう。

何故成長が必要かと言う単純な問いに対しては、そうでないと人々の豊かさが増して行かないから、などと言う答えになるでしょうか。しかし、ここで考えてみなければならないのは、豊かさの定義です。これまでの豊かさとは、簡単に言ってしまえば「モノの豊かさ」でした。各家にはほぼ全ての種類の家電製品が揃い、運転が出来る家族はそれぞれの車を所有し、程度は別にして一応持家に住み、やっぱり現金では家を持てないのでローンを組み、ボーナスを楽しみに長い通勤距離にも耐えて働くのでした。結局、企業やサラリーマンは、結局は株主の満足すべきレベルのリターンのために一所懸命コストダウンに励んでいたのだとも言えます。その結果、自由主義経済の果ては、富は結局は「集まるところに集まる」いわゆる格差社会を進めただけに終わったのでした。

さて、ポスト成長時代です。この時代には、無理な成長はご法度となります。これからの時代、経営者としては、必要なモノを必要なだけ生産し、最低限必要なだけの利益を稼ぎ、株主にはささやかなリターンしか返さず、利益の殆どの部分は従業員へ還元する様に企業を運営するようにする必要があるでしょう。もちろん、利益率そのものは大きく低下しますから、お金という意味では従業員の賃金レベルは低下する事でしょう。従って、家庭生活でも必要最低限の家電と、通勤・通学のための自転車を持ち、ライフステージに応じて必要かつ十分な広さの小ざっぱりとした借家に住み、モノに対して追加の必要があればリサイクル市場で入手し、不要になったモノは逆にリサイクル市場に出すのです。つまり、モノを買って所有するのではなく、モノの機能を消費する時代にするのです。従って、あらゆる製品には耐久性と高いメンテナンス性が求められ、車はもちろん普通の家電でさえ20年以上は使いたいものです。

ビルや住宅に至っては、躯体だけなら100年は使いたいものです。入居者のライフステージやライフサイクルに従って、外装や内装をリフォームしながら使いまわすのです。この様な社会から出るゴミ(廃棄物)は最小限で済む筈です。メーカーは、その役割のより大きなパワーを、メンテナンスと使用済み製品のリサイクルに注ぎ込む事になります。従って、自分たちのためにも、より修理しやすい製品とする努力も必要とされるでしょう。たぶん続きます。

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2016年1月11日 (月)

2893 不注意な改変

人間は不注意な生き物だと言うしかありません。多くの動物は、基本的に臆病で、進化の結果身に付けた能力を使いながら、環境を出来るだけ変えない様にひっそりと子孫へのバトンを渡し続けようとします。しかし、人類だけは・・・。これまで、ご先祖や現世代がどれほど不注意な自然の改変を繰り返して来たことでしょう。鉄を精錬するための木炭を得るために、山々を禿山に変え、食糧を得るための焼き畑で野山を裸にし、無理な灌漑をするために川や湖を干上がらせ、禿山からの洪水を防ぐためにダムを築き、何十年かに1回の防ぎようもない大津波を防ぐために、チャチな防波堤を延々と伸ばし、川を真っ直ぐに変えてかつての遊水池に家を建て、砂浜に矢板を打ち込んで港を作るなどなど、自然の摂理ではあり得ない「改変」を繰り返してきたのです。

不自然な改変は、例えば3.11の様な大震災が起こるとすぐ化けの皮がはがれます。震災後、道路という道路では、橋のたもとや元々の地盤と盛土の地盤の継ぎ目では陥没で凸凹になりました。埋立地では、液状化現象で舗装や地下の埋設管がボコボコに破壊されました。もしかすると、その後崩壊した堤防などでも、目には見えない亀裂が入っていたかも知れないのです。

アリ塚は、億年単位の生物進化の中で編み出された、多分文句のつけようのない構造物なのでしょう。しかし、コンクリート構造物やましてや鉄骨の構造物などは、ホンの数百年の歴史しか持たない、人類の浅知恵の成果物でしかありません。なのに、高さが1㎞に迫る「バベルの塔」を築いてしまった現世代に、どの様な「天罰」が下るのか、想像もつきません。私たちは、もう少し自分たちの行動に注意深くあらねばならないのでしょう。石橋は叩かずして掛けてはイケナイのです。

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2016年1月10日 (日)

2892 相互作用

ある現象を評価するのに、原因があって結果があると、単純なロジックを用いるのは危険な事です。例えば、今年も観察される「超暖冬」です。お天気姉さんたちは、さも天気カラクリの全てを熟知しているかのように、エルニーニョ現象の結果、今年の様な暖冬傾向が発現すると説明を繰り返します。しかし、大気圏最下部の現象である「気象学」は、例えば海洋の循環や、太陽活動の消長、あるいは地球の楕円の惑星軌道や地軸の歳差運動など、より広い現象を含めて説明するには、あまりにも幅が狭く、底も浅い学問です。

エルニーニョを含む「気象振動」には、想像するにイニシエータとプロモータが存在する筈なのです。よく語られるたとえ話に、「北京で蝶がはばたくとニューヨークで嵐が巻き起こる」というものがあります。この場合、蝶のはばたきがまさにイニシエータですが、それが嵐の規模までに成長するには、いくつもの必然や偶然が積み重なる必要があるでしょう。別のたとえで言えば、「藁しべ長者」の物語にも似ています。つまり、蝶のはばたきの結果生ずる人間には感ずる事が出来ないそよ風が、周囲との相互作用を積み重ねて、最後には嵐に成長する過程が必要なのです。

エルニーニョが発現している事は、気象観測の結果で把握できますが、ではそのイニシエータは一体どの様な現象なのか、もしそれが特定できるのであれば、まだそれが卵である間に消してしまえるかも知れません。あるいは、主要なプロモータ(成長因子)が把握できるのであれば、何か手を打つ事も可能かも知れません。例えば、相互作用の連鎖の一部を断ち切る訳です。

さて、地球の温暖化傾向についてはどうでしょう。もちろん、単純にCO2やメタンやフロンガスと言った、いわゆる大気中のGHG濃度の増加だけに原因を押し付ける事は出来ないでしょう。何故なら、例えば人間が年々増やし続けているCO2の約半分が何処かに消えている事が分かっているからです。たぶん海洋に吸収されているとは想像できますが、それが物理現象なのかあるいは生物が関与している現象なのか、あるいはそれらのミックスなのか、いまだ定量的には説明出来てはいないのです。自然界に相互作用の解明には、精緻な観測と粘り強い分析の繰り返しが求められるのでしょう。

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2016年1月 9日 (土)

2891 臨床知

今回は愚痴になりそうです。表題は別の言葉で表現するなら「現場の知恵」とでもなるのでしょうか。医者の卵が、病人の診察ができる医者になるためには、必ずインターンという経験を経ないといけないルールになっているのですが、それは、一にも二にも医者には出来れば、十分な「臨床的な知識=臨床知」が必要だからでしょう。2年間という研修期間が十分かどうかは別にして、巷間ささやかれる様に、「医者は○人殺してやっと一人前」になると言われていますが、良い医者を育てるためには、運悪くお亡くなりになった方々には申し訳ないのですが、ある意味でそれも仕方がない犠牲?だとも言えなくもありません。

さて、社会における臨床知です。国会で空論を繰り返す、あの方々が一体どれほどの臨床知をお持ちか、全く絶望的になります。良いとこ育ちの彼らに庶民の痛みが共感できているかについては全く期待できないでしょう。暴れん坊将軍が、着流し姿で市中を自由に歩き回っていたのは、テレビドラマの中だけでしょう。毎月のように被災地を訪問しているとうそぶくリーダーが、5年経っても、延々と土を積み上がている津波被害地の異常さや放射性廃棄物の積まれたヤードや、除染に全く手がついていない野山に目を向けて、その悲惨さに共感しているとはとても思えません。取り巻きに囲まれながら、復興がそれなりに進んだ地域しか見ていない筈です。何故なら、取り巻きの役目として、将軍様には市井の貧しい部分を見せてはならないからです。

国会で議論を戦わせる人たちの中には、会社を潰してしまった元経営者や、身体障碍者や、失業者や、望ましくは路上生活を経験した人たちの代表を送り込む必要があるのでしょう。臨床知に欠けた経済学者が、机上で考えたAベノミクスは間違いなく破綻するでしょう。それが作り出したミニバブルはC国の綻びと共に萎み、同時に国内株式に大量に注ぎ込んだ年金マネーも、急激に消えてしまうでしょう。出るのはため息だけです。「ああ、臨床知よ何処に・・」

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2016年1月 8日 (金)

2890 エネルギーの漏れ止め

エネルギーは、それが流れる場合のみ利用する事が出来るものです。たとえば、電池の内部には、エネルギーが蓄積されてはいますが、それに電線をつなぎ、モーターや電球やニクロム線に電流を流さない限り、エネルギーとして利用する事は出来ません。また熱もエネルギーの一形態ですが、同じくそれが流れる事によって、熱流が生まれそれを利用する事が可能となるのです。全ての熱機関は、カルノーが示した様に、高い熱源から低い熱源へ熱が流れる事を利用して、パワーを得るためのカラクリだと言えます。

しかし、全ての流れには、流れを妨げる「抵抗」の他に「漏れ」が付きまとうのです。電気の場合はまさに抵抗(Ω)が、電流を妨げる訳ですが、熱の場合はどうでしょう。熱の流れは「熱流」と言いますが、熱の抵抗も実は「熱抵抗」と呼びます。電気の良導体である銅やアルミは、同様に熱の良導体でもあるのは、多分偶然ではないでしょう。しかし、熱を有効に利用するためには、熱流を妨げる、つまりは「断熱」してやる必要があるのです。断熱材とは、つまりは熱の抵抗体であると言う事が出来ます。

日本の多くの建物では、実はこの断熱性能が低いのです。というのも、北国でこそ冬が厳しいのですが、多くの地域では冬も比較的温暖で、小さな暖房器具でも十分凌げるレベルなのです。ですから、高いコストを支払ってまで、建物の断熱性能を上げる必要性も弱い訳です。しかし、考えてみれば、冬は建物内部から外へ熱が逃げますが、夏は逆に外から建物内部に熱が侵入するのです。ですから、建屋の断熱材を厚くすることは、一年を通じて熱や冷気を閉じ込めて、省エネルギーが達成できる事にもつながるのです。断熱材の追加は、メーカーに於ける加熱炉やボイラ及び蒸気配管など、周囲と大きな温度差がある設備にも有効ですし、あらゆる熱の漏れが起こる個所に有効に働くのです。もちろん、断熱材にはピンキリがあるのですが、内外の温度差(=失われる熱量)によって掛けられるコストも決まってきますので、選択はそんなには悩ましくないでしょう。

熱に限らず、電力は絶縁体(碍子)から逃げますし、液体や圧縮空気なども劣化した継手から漏れ出すのです。当然の事ながら、それらは全てエネルギーの化身と言えるのです。エネルギーの漏れ止めこそが最大の省エネ対策につながります。

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2016年1月 7日 (木)

2889 無力の自覚

多くの国では、政治家(屋)は、結局は景気という魔物によって辛うじて支えられている存在ですから、その看板である経済的成長を止める訳にはいかないでしょう。景気が減速すると民衆の不満が蓄積して、政治的に不安定になるからです。ですから、彼らは否応なしに学者や科学・技術者も巻き込んで、持続的(安定的)経済成長という「見果てぬ夢」を描いて見せるのです。

確かに、コンピュータ(CPU)の能力は、倍々ゲームで小型化と高密度化・高速化が進んでいる事は否定しません。数えきれないほどの種類の化学物質やプラスチックスや合金が開発され、医学も人が簡単には死ねない程発達も遂げました。しかし、ダイムラーベンツやライト兄弟の時代から100年以上を経ても、車や飛行機は未だに石油という「液体の化石燃料」以外の選択肢を得てはいないのです。つまりは、産業革命に始まって20世紀後半に花開き現在まで続いている、現在の科学・技術文明は、安価で大量に採掘される化石エネルギーの楼閣の上で辛うじて成り立っている、非常に脆いものであるとも言えるのです。

ここで言っておきたいのは、政治や科学・技術に出来る事は非常に限られているという事です。政治は経済界に縛られ、科学・技術もコスト(結局は経済ですね)にガッチリと縛られているからです。たとえ環境保全には素晴らしい効果がある政策でも、経済界にソッポを向かれれば、政治屋はその法案を屑箱に捨てるしかありません。宇宙開発で得られた、素晴らしい効率の太陽光発電の太陽電池も、扱いに注意を要する有害な物質(例えばガリウムやヒ素)を含む事や、一桁か二桁高いコストの壁に阻まれて、民生用にはとても使えないでしょう。臆病で非力でやや大きな頭脳程度しかとりえのないない人間に出来る事は非常に限られていますし、その出来る事も「経済性の壁」によってさらに制限されているのです。百年待っても河は澄まず、やはり人間は更に酷い環境問題に悩んでいるのでしょうか。

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2016年1月 6日 (水)

2888 持続的成長という矛盾

環境保全と経済成長は本来矛盾するものと考えられますが、お国や御用学者は度々「持続的経済成長」などという、訳の分からない造語をスマして使ったりします。保全とは、少なくとも現状を変えずに劣化もさせずに維持する訳ですから、経済成長という「拡大変化」とは明らかに矛盾する概念なのです。経済を成長させるためには、より多くの地下資源やエネルギー資源を採掘し、原材料を加工して市場に製品を送り出し、私たちはそれを消費した上で、最後は廃棄すると言う行為を続ける必要があります。リサイクル技術もある程度拡大してきたとはいえ、それが100%でない限り、必ず廃棄物の処理(焼却+埋め立て)が必要でしょう。つまり、後戻りのできない一方通行で自然を改変し続ける必要があると言う事になります。

環境破壊や温暖化にブレーキを掛けるためには、先ずは経済的成長を止める必要があるのです。経済成長を止めたとしても、地球規模では人口増加圧が環境劣化を推し進めようとします。環境劣化の度合いを今以上高めないためには、少なくとも人口増加率(現状では年率1.3%強です)以上の割合で、省エネ・省資源を持続する必要があるのです。もちろん、環境劣化を食い止めるためには、多分ファクター8程度(現状の1/8程度の資源・エネルギー消費に抑える)の努力は必須でしょう。1970年代でさえ、この国では現在の半分程度の資源やエネルギーを消費していたのですから、1/8までの道のりは遠いでしょう。

しかし、不可能ではない筈です。実際、暖かい国や地域での事でしょうが、1/8どころか、それよりずっと少ない資源・エネルギーで豊かに暮らしている人口の方が、資源・エネルギーを湯水の様に使っている先進国人口より何倍も多いのですから。このブログでも何度も書いていますが、物質的ではない「新しい豊かさ」を探し求める必要があると思うのです。環境問題は、結局はココロの持ち方の問題である、というのがここでの結論です。

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2016年1月 5日 (火)

2887 Quata(割当て)

2886の続きの様なものです。資源やエネルギーが有限である以上、各時代に生きる世代は、そのQuata(割当て)を意識すべきでしょう。たとえ、正当にお金を払ったにしても、それは自分の子孫に残すべき割当てではなかったのかと、常に自省が必要だと思うのです。戦前の事はもちろん直接には知りませんが、戦後のモノや食糧もろくに無い時代、、親は自分の食べる分を少し減らしてでも、育ち盛りの子供分を少し増やしていた筈です。ならば、思考のスパンを少し伸ばして、視野を地球規模に広げて、資源やエネルギーの取り分について考えてみたらどうでしょう、というのがここでの提案です。

しかしながら、人間は確かに知識を蓄えては来ましたが、もちろん全知全能などではありません。公表されている資源や化石エネルギーの埋蔵量や採可量にしても、どこかの研究者の推定でしかありません。まして、今後の採掘難易度が上がるコトや、それに伴うコスト上昇については神のみぞ知る世界でしょう。例えば、今再び再燃しそうな宗教紛争一つで、石油エネルギーの流通価格は簡単に跳ね上がるでしょうし、そうなると条件の悪い油井でも採掘が続けられるのでしょうが、逆の状況では古い油井は捨て去られるでしょう。

我々に残された選択肢は、我々世代の割当てに対する「権利」を主張するのではなく、先ずは(慈愛深い親の気持ちになって)自分達の割当てを削ってでも、まだ見ぬ子孫のためにそれを残す算段をすべきなのでしょう。ここでは、温暖化問題はさておいても、省資源や省エネは、現世代の経済性のためではないと思い直すべき時期だと言っておきます。

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2016年1月 4日 (月)

2886 朝三暮四

新年に当たり、古い言葉を噛みしめてみます。荘子の言葉だったでしょうか。表題は、猿回しがサルに、木の実を朝三個、夕方に四個与えると言ったら嫌がったので、逆に朝四、夕方三にすると言ったら喜んだと言うたとえ話です。これは、何時の世にも重要な警句になりそうな気がします。石油を含む化石燃料が、全体として七個分しかないとした場合、我々の世代で四(半分以上)を消費し、子孫には三しか残さないのか、あるいは我々は三で我慢し、子孫に四を残すのか、私たちはしっかり考える必要があります。しかし、考えてみれば、私たちは既に四個分の石油を使い果たそうとしていて、更に残りの三個分にも手を伸ばそうとしているのです。

同様に、現世代が四の予算が必要だからという理由で、不足する1/3を将来世代から借金すると言う今の国家予算が、果たして正しいのかこれも頭を冷やして考えてみなければならない事態です。景気(産業規模)は、つまるところ地下資源の量に制約されるでしょう。金属資源や化石エネルギー資源が無ければ、農林業漁業以外のほぼ全ての産業が一日として継続できないでしょう。全埋蔵量を七個分として、残りがまだ四個分残っていると仮定しても、ご先祖さまや、我々世代は、実は掘り易い(経済的に成り立つ)場所から先に取り出してきた筈です。残りが、まだ十分あるとしても、鉱石であれば純度の低い鉱脈、石油で言えば自噴井ではなく、シュール層に浸みこんだ石油、農地でさえ平野部は既に開発し尽くされ、山間部の山でも切り開かなくては、もはや新たな農地は増やせないでしょう。

何処まで行っても、私たちは自分達世代の欲望を抑える事だけを、必死に考えて行かなくてはならないのです。物役や、エネルギー欲を抑えるための考え方は、今後もこのブログ書き続けていく事にしましょう、

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