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2016年2月29日 (月)

2941 メカ系・生物系

人は、どうやら二種類に分けられそうです。実はそれ以上あるのかも知れませんが、とりあえずその人が興味を持っている分野で分け、メカ系と生物系に分けてみました。メカ系とは、例えばプラモや電動おもちゃなど、人工的に作られたガジェットに興味を示す人たちのグループだと言えます。一方で、生物系とは、自然が造形したもの、つまりは植物や昆虫・動物などの自然物に興味を示すグループです。

投稿者自身は、実はメカ系でした。でした、と書いたのは今は違うと思っているからです。その転換は50歳過ぎに訪れました。メカ系の最先端としての航空機屋として長年勤めてきましたが、50歳の大台に乗った時、突然行き詰ってしまったのです。人間はパンのみにて生きる存在でないのと同様、メカはアプリオリに存在したのではなく、自然物の不完全な模倣としての位置付けでしかなく、科学技術だけでこの世の中が支えられる訳がないことに気付いてしまったのでした。遅蒔きではありましたが、仕方なく方向転換を始めたのでした。まずは早めにメカ屋を辞して、フリーフローで遊泳してみたのです。とは言いながら、家族で路頭に迷う訳にもいかないので、大幅にサラリーはダウンしましたが、結構自由に泳がせてくれそうな中小企業に入れてもらったのでした。

そこで、泳ぎながら色々と触ったり、味をみたりした結果、断然面白いと感じたのは、生物系だった訳です。色々考えた末に、余暇で学べる「放送大学」の大学院で、環境学を学びながら、論文テーマとしては「バイオマスの多面的な利用」を選択したのでした。とりわけ、樹木は植物の進化の頂点に立つ存在として、強い興味を引かれたのでした。水と炭酸ガスと少量のミネラル分だけを材料にして、太陽エネルギーだけを使いながら、地球の重力に逆らって高さ100m近くに成長できる樹木は、まさに植物の王様と言ってもよさそうです。その間、いくつかの資格も取り、55歳で今の(生物系の)フリーランス状態となったのでした。

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2016年2月28日 (日)

2940 動的平衡2

2939に生物ばかりでなく、人間社会にも動的平衡が敷衍できると書きました。具体的には、国あるいは都市がその典型だと言えるでしょう。都市を構成する個々の人が細胞、あるいはそれより小さい単位のアミノ酸だとかてい見做して、それらが小さなコミュニティやそれより大きな組織や自治体を構成します。しかし、細かく見れば都市には毎年多くの人々が流入し、かつ流出し続けています。例えば、人口がほとんど変化しない都市は、見かけ上は変化が無いようにも映りますが、実際上は中身?は徐々に入れ替わっている訳です。人口減少が続く地方都市ではあっても、事情は同じです。田舎では生まれる人の数より、亡くなる人が多いので、差し引きの人口はドンドン減っています。そうではあっても、そのコミュニティの中身(構成員)は入れ替わっているはずです。つまりは、変化があまり無いように見える都市も、あまり変わっていないのは建物や道路であって、人は入れ替わっていますし、生きてはいない建物や道路だってより長い時間軸で見れば、必ず入れ替わってしまうでしょう。

もっと大きな目で見て、国のあり様を考えても、やはり動的平衡である事には変わりありません。確かに人口はこの5年で90万人ほど減った様で、お国の顔であるリーダー達も変わってはいますが、日本という国は、それなりに国としての体裁を保って存続している訳です。人間の形を作っているモノを「体」と呼ぶなら、国は「国体」でしょうか。けれども、入れ替わった人たちが、それ以前の人たちと、質的にあまり変化が無ければ平衡状態は保たれる筈なのですが、問題は新しい人達(細胞達)に変質が生じてしまった場合には、平衡状態が保証される訳ではないでしょう。例えば、地中海沿岸の小国Sリアの場合がそう見えます。大国や東西文化の接点として、歴史の大波にモミクチャにされてきた国(地域)?とはいえ、有史以来連綿として続いてきたDNAが、ややエキセントリックな指導者によって、国体そのものが消えようとしています。その意味で、有志依頼の混沌を抱えた中東には、動的平衡は永遠に訪れないのでしょうか。人間の性(サガ)を想わずにはいられません。

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2016年2月26日 (金)

2938 分けると融合

極端に言ってしまえば、西洋の文化は分ける文化で、日本のというか東洋の文化の背景とは、融合の文化ではないか、との見方に賛同しています。もっと多くの人たちもそう考えているのでしょうが、例えばK合隼雄あたりが説いている視点でもあります。よく、分かるの語源は分けるであって、物事は分ければ分けるほどよく理解できると考えられている「フシ」があります。しかし、本当にそうであるかは、疑問でしょう。私たちは、ありとあらゆる原子を特定し、メンデレーエフによって優雅な周期律表にまとめられたこともあり、まだ見ぬ重い原子でさえ「予測」され、実際にも発見され続けているのは事実です。

しかしそうではあっても、たった4つのヌレオクチドからなるDNAと、それが合成の指揮をとって合成される20種ほどのアミノ酸だけで、私たち自身のような複雑な生体を作り出のです。生命現象にまだどれほど解明されていない疑問が残っているのか、考えるだけでも、分けるほど訳が分からなくなるエニグマは、まるで月の無い闇夜のごとく広がっていそうです。

一方、この国の伝統的の宗教観では、決してものを分けたりはしません。それどころか、人や生物を森羅万象の一部と見做します。逆に、自然と人工が融合している状態を理想形とする建築や庭造りが行われてきたのでした。別の言葉で言えば、分ける事とは、顕微鏡の倍率をドンドン大きくしていって、モノを観察する様なものだと言え、逆に融合する事とは、視点をドンドン引いて行って、より広い視野で全体を観察しようとする行為に似ています。例えば、ゾウがどんな動物か知りたい時に、虫めがねで皮膚の一部を拡大してみたところで何も分からないでしょう。ゾウが、草原で多量の草を食んだり、集団で移動したり、水場で体に泥を塗って虫から皮膚を守ったり、あるいは群れから離れて、ゾウの墓場でひっそりと一生終える姿を観察する事によって、はじめてゾウを少し理解できるようになうのでしょう。

その意味で、融合するには、単に視点を引くだけではなく、定点カメラの様に時間軸を加えて長い時間に亘って観察する事も必要の様です。ますます、瞬間的な事象だけを捉えて善し悪しの鉄槌を下す、いわゆるネット社会には危機感を禁じ得ません。

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2016年2月25日 (木)

2937 コミュニケーション

コミュニケーションは、何時、いかなるシステムにおいても最重要だと言えるでしょう。例えば、生物です。生物は、DNA(遺伝子)ですべての機能や形態が100%決まってしまうものではなく、たった一個の卵が、分裂を繰り返しながら、湧かれた細胞同士がコミュニケーションを取りながら、役割分担を決め、それぞれの臓器や部位に成長していくわけです。そして、結果としてそれぞれの種として究極の形と機能を実現するのです。考えてみれば、不思議な話で、内部に全く同じ遺伝子セットを持つ細胞が、分裂を繰り返す中で、何故異なる形態に成長し、それぞれの機能を発現するのか、これまでにも明確には解明されていないと見ていますし、今後とも大きな謎であり続けるのでしょう。つまりは、いかなるコミュニケーションが、細胞をしてある器官になる様に「説得」するのかという問への答えです。

さて、これを人間の社会に敷衍したらどの様になるのでしょうか。例えば、人一人を1個の細胞と見做した場合、家族や地域コミュニティは、小さな器官であり、それらが集まって、企業や自治体、つまりはより大きな器官、あるいは国(個体に相当?)を形成していると考える訳です。しかしながら、血液や体液(リンパ液など)や、コミュニケーション物質としての各種ホルモンや神経伝達物質を通じて、密なコミュニケーションを図っている生体と異なり、人間社会のコミュニケーションは、多くの場合一方通行気味だったり、頻度が低過ぎたりといった欠陥を抱えているとも言えるでしょう。例えば、より大きな組織、企業や自治体や国からの情報は、多くの場合「上意下達」であり、一方通行です。一方、逆向きのコミュニケーションとしては、提案や選挙など限られた手段しか準備されてはいないのです。

貧弱なコミュニケーションは、結局は細胞同士、あるいは器官同士、更に言えば固体(国)同士のギクシャクした関係を生み出します。例えば、国策や宗教を縛るコミュニケーションの基本ルールでさえ、国や地域毎、更に言えば部族(宗教)毎に大きく、あるいは微妙にずれているのです。組織の細胞としての人が(生物としての)ヒトである限りにおいては、どんな宗教だって大きな「共通部分」があって当然だと思うのです。同じ聖地で生まれた宗教の「分派」が血で血を洗う争いを繰り返しているのを見るにつけ、人間のサガは「違いを作り出す」ことだと考えるしかなさそうです。

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2016年2月24日 (水)

2936 パラレルキャリア

パラレルキャリアとは、人生においてある一つのキャリアを全うするのではなく、並行して別のキャリアを積む事を意味します。キャリアというのは、多くの場合おマンマの種になっているのですが、もちろんそうでなくても構わないでしょう。つまりは、趣味であってもキャリアと呼ぶのに相応しいくらい極めていれば、立派なパラレルキャリアと呼んでも構わないでしょう。

投稿者の場合は、キャリアの初期には造船所に勤務していました、30代の初めに航空機部門にコンバートされ、50歳過ぎまで飛行機屋をしていました。その後、早期退職して今の「環境屋」になったので、いわばトリプルキャリアになるのでしょうか。

複数のキャリアを積むことによるメリットがいくつか数えられます。一つは、ものの見方が立体的になることです。最初のキャリアでの立場から見る場合と、他方別のキャリアとしてみる立場からでは、当然のことながら見る方向が異なりますから、左右の目で見ることによる立体視と同様、物事を多面的に、奥行きも感じながら見ることができる様になるはずです。造船屋と飛行機屋は、かなり異なる分野の様に思われがちですが、実はいずれも輸送手段の製造であり、似通っている部分も多いのです。モノづくりという点では、かなりの部分が重なってしまうと言っても過言ではありません。材料があって、加工を施し、それを組み立てて、機能を確認しながら動かす訳ですから、それが海の上の乗り物であれ、空を飛ぶものであれ、乗り物であるという「本質」は変わらないのです。

一方、環境屋になって感ずることは、まったく新たな視点を得たという実感でしょうか。つまり、それまでの製造業という狭い分野を飛び出して、「環境」という地球規模の広い視点で、物事を見ることができる様になったからです。環境を考えるには、地球規模の水平方向の広がりの他に、過去から未来につながる時間軸も頭に入れなければなりません。つまりは、地球の太古の気象や(古気象)や地質学的な知見などと同時に、温暖化の様に未来に起こるだろう諸問題の予測も含まれるのです。

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2016年2月23日 (火)

2935 逐次変化

状況の変化には、一気にスパッと変わるものと、徐々に(ジワジワと)変わる場合とがあるでしょう。もちろん、中間的なものもありますが、それは両者の合成の結果と考えておきます。ここでは、前者を劇的変化、後者を逐次変化と呼びます。前者の例では、天変地異によって、住んでいる地域が劇的に変貌してしまう事もあるでしょう。3.11の震災では、実際にその様な事態が起こってしまいました。しかしながら、社会システムや企業の体質などは、たとえそれが必要ではあっても、劇的変化は悪い結果を残す場合が多い様に感じます。というのもシステムや組織の規模が大きくなるほど、慣性が大きくて、急激な変化に対応するのが苦手だからです。

一方で、逐次変化は、確かに長い期間は要しますが、インパクトによる弊害を押えながらの変化には好都合です。つまり、最終ゴールや変化の方向はしっかりと頭に置きながらも、変化はできれば誰も気がつかないレベルで、細かいステップを刻むのが理想ではあります。車の運転で言えば、急ハンドルの代わりに細かい「多角形コーナリング」で曲がり、あるいは急加速や急ブレーキの代わりに、緩やかなスピード変化で運転する事を意味します。あるいは、株価や為替も、時として劇的変化を刻みます。ブラックマンデーとか、アジア通貨危機とかチャイニーズショックとか、一つの変化が玉突き(あるいは雪崩)現象を起こして、積み上げたものがペシャンコに潰れてしまうのです。

一方、逐次変化は、それに巻き込まれる人々にとっても、ココロの安定をもたらします。何故なら、変化の先の予測が可能だからです。そのためには、引き起こす変化の量をコントロールする必要があるのでしょう。しかし、悲しいかな、現代社会のシステムは、あまりに巨大になり過ぎ、実質的にコントロールできる人や組織(国)も存在しない様なのです。結果的には、「市場」の流れに任せるしかないのです。市場は、しかし変化の「裏」を読みますので、N銀総裁の何とかバズーカも、既に市場に対するインパクト効果が微微たるものになってしまいました。結局、大きなシステムを動かすには、泥くさい方法で、小さな変化を積み上げる、逐次変化を継続するしかなさそう、というのがここでの結論です。

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2016年2月22日 (月)

2934 閾値

時々、というより頻繁に、閾値(しきい値)が気になります。多くの場合、変化は徐々におこりますが、かなり多くの事象では、ある一定の値を境に、変化が急激に進む場合も多いからです。具体的な例を挙げれば、例えば寒冷前線が通過した直後は、風向きも気温も急激に変わってしまいます。大気は連続して移動するものではありますが、前線と線状につながっている気象現象なのかも知れません。

別の例で言えば、例えば「堪忍袋」という有限の大きさの袋を想定した場合、それが限界までに我慢で満たされてしまった場合、人は多分「癇癪」を起こしてしまうのでしょう。つまり、悟りを開いた高僧でもない限り、普通の人間の忍耐はある閾値を持っているという証左でしょう。それは、人によっては多分その袋の大きさには差があるのでしょうが、しかし有限ではありそうです。

規模が大きくて、多分より深刻な閾値は、気象に関するものでしょうか。温暖化や、異常気象の歯止めが外れる限界値は存在するのでしょうか。つまりは、CO2などのGHGは、人間の活動によって増え続けていますが、それが例えばメタン源(広大な永久凍土地帯や深海のメタンハイドレート)からのメタン放出に火をつけて、最強のGHGであるメタンを増やしてしまう、いわゆる温暖化の加速現象が起こるのか、あるいは温暖化の影響が出る前に、異常気象により洪水や異常渇水により農業被害や山火事の頻発に見舞われるのか、と言った心配のことです。人間が、これまで歴史上経験していない、「閾値越えによる災害」は、実のところ経験してみない事には分からないところが不安な点でもあります。

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2016年2月20日 (土)

2933 目的と手段

このテーマも何度も取り上げてきた様な気がします。それは、現代社会においては、多くのケースで、目的と手段の逆転が起こっていると思うのです。お金が、経済活動の手段であって、決してそれ自体を増やす事が目的ではない事は、それこそ何度となく言葉を変えて訴え続けてもきました。ここでは、企業活動について、最近の想いを書いてみようと思います。

さて、企業の目的とは一体どの様なもの「だった」のでしょう。企業の起源は、たぶん家族経営の小規模な「なりわい」だったと想像しています。狭い範囲の顧客の、限定的なニーズに応えて、手工業的な生産で、限られた手段で生活に密着した商品を売りさばいていたはずです。しかし、より遠くまで商品を送る手段、海運や鉄道、近年はトラック便が整備されるにつれ、需要が多い商品は、次第に自動化を駆使した大量生産を行う、いわゆる大企業が育ってきたというステップだったのでしょう。もちろん、その途上では大きな儲けを出して、資本を蓄積した企業も出てきた事でしょう。西欧の近代的な技術や設備も寄与した筈です。

しかし、取り分け高度成長期を通じて、いつの間にか企業の目的が変容してしまった様に振り返っています。この時期、多額の企業利益を吸い上げて国お金持ちになり、企業の投資意欲も旺盛でした。その中で、企業は国のお金(助成金や補助金)を引き出しながら、単年度でより多くの利益を上げる事が目的化していった様なのです。目的物となったお金は、どんどん増殖を続け、次第にダブつくようになってしまい、行先を失ったお金は、例えば不動産に向かい、バブル景気を生みだしたのでした。お金は、いわゆる先物(穀物や石油など)にも向かい、株にも、ITにも向かい、次々にバブルを引き起こしたのでした。更には、お金がお金同士の交換比率(つまりは国際為替です)をも利用して、増殖し続けています。

この流れにブレーキを掛けるには、私たちは企業の目的に立ち戻らなければならないでしょう。そして、お金を手段に引き戻さなければなりません。そうしない限り、目的化した魔物としてのお金の暴走を止める事は出来そうもないのです。

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2016年2月19日 (金)

2932 コトの消費

現代は、下手をすればモノの消費額よりコトの消費の方が上回る様な時代になってしまいました。人々が生きていくための衣食住(リビングコスト)といわゆるサービスを受けるためのコストの差が小さくなったと言う事を意味します。レジャーや旅行のコスト、あるいは通信サービス、更には各種の観光産業や癒し産業、更には各種の教育やコーチング、トレーニング産業などなどの比率はますます大きくなっています。それは、お国や社会のリーダー達が、積極的にコトの消費を煽っている事も背景にあるのでしょう。

しかしながら、一体モノとコトを同じお金という価値の物差しで比べても良いのでしょうか。例えば、コトを消費したからといって、お腹が膨れる訳ではないでしょう。コトだけでは生きてはいけないのです。生きていくのに必須のモノと、なければ無いで暮らしていけるコトを同じ土俵の上で、増してや値段を付けて、価値を比較できるものか、考え込んでしまいます。具体的に言えば、米1㎏(例えば150円)と、具体的な金額は知りませんが、例えば音楽1曲のダウンロード料金が同じ金額だとして、果たしてどちらが高くて、どちらが安いなどと言えるのでしょうか。音楽を聞かなくても生きてはいけるのでしょうが、食べ物を摂らなくては、人は長くは生きていけないでしょう。

コト(サービス)の多くは、実は自分で作り出すことが可能だと言えます。具体的には、音楽を買う代わりに、自分で歌を作ればよいだけですし、マッサージというサービスを買わないで、自分の手や簡単な道具で、自分で自分を揉みほぐすことは十分可能でしょう。更に言えば、1-2時間歩く事さえ厭わなければ、駅から自宅までのタクシーというサービスを買わなくて済むのです。

私たちは、より便利で快適な生活を営むために、コトを「爆買い」している可能性があるのです。DIYという言葉は既にかなり前に死語の仲間入りをした様な気がします。さあ、自分のために体を動かして汗をかきましょう。

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2016年2月18日 (木)

2931 ココロ空しく

人は、時にココロを空しくする時間が必要だと思っています。虚しくでも良いのかもしれませんが、いずれにしてもココロを空っぽにする時間を作るという意味です。とは言いながら、修行をなどしたこともない凡人が、そう簡単に空しくなれるはずもありませんが、何となく空しい状態になることは可能でしょう。

一番簡単な方法は、いたすら歩いたり、走ったりして体をいじめる事でしょうか。つまりはランナーズハイとか、そんな言葉があるのかどうかは知りませんが、ウォーカーズハイの状態を作ることです。どうやら、一定の単調なリズムは、人間を無にする力がありそうなのです。例えば、アイヌの楽器であるムックリの音や、太鼓や鼓などの打楽器、あるいはメトロノームの音なども効果がありそうです。右足と左足を交互に出しながら刻むリズムは、心臓の鼓動とともに人間にとっては最も身近なリズムでもあるのでしょう。

さて、ココロが空しく(無に)すれば良いことがたくさんありそうです。特に、現代社会に蔓延している各種のストレスからココロを開放するにはうってつけの方法の一つでしょう。つまりはココロが軽くなる効果がありそうなのです。何も考えずに足を交互に出すか、あるいは一定のリズムを刻む作業は、ココロを空にできそうなのです。ドラッカーではないですが、人間の抱える問題点の全ては「人間関係」にある様ですので、その問題に捉われる原因であるココロが空っぽになれば、悩みもしばし忘れることができるでしょう。

空しくなったココロには、時には「良いアイデア」が飛び込んでくることもある様なのです。いわゆる逍遥学派は、まさにこれを実践していた人たちでしょう。京都にある有名な小径も多くの学者に良いヒントをもたらしたことでしょう。投稿者としても時間さえあれば、毎日の様に汗をかくほどの速足で歩いて、ココロを空しくすることに勤しむ毎日です。

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2016年2月16日 (火)

2930 リスク回避?

リスクは予め想定し、それを回避するものだ、というのが常識というものでしょう。企業でも国でも、リスク管理やリスクコミュニケーションの重要性が叫ばれている今日この頃です。しかし、リスクから逃げ回っていればそれで済むという単純な話ではないでしょう。時には、リスクに立ち向かわなければ、後日そのリスクが拡大する場合も多いからです。

という事は、リスクは予めその原因を含めて想定し、その発生の極ごく初期に取り除いてしまうというのが正しいアプローチなのでしょう。つまりは、リスクから逃げ回るのではなく、リスクを身近に感じながら、正しく手なずけるのです。リスクを回避するには、実は周到な計画を立て、それを回避するためには結構コストも嵩むものなのです。従って、リスクと上手くコミュニケーションを取りながら共存するのが賢い選択だと言えます。

現代社会は、リスクだらけだと言ってもおかしくない状況でしょう。地震や台風、洪水などの天災はいうに及ばず、交通機関を利用すれば事故に巻き込まれるリスクがあり、海外旅行をすればテロや何とか熱などの感染症のリスクも大きな時代です。黙って普通に暮らしていてさえ、海外の情勢によっては、株価や為替が勝手に「乱高下」して、何もしていないのに多くの場合は知らない間にお金を失ってしまうのです。もちろんそれを利用して大儲けする人が居るので、どうしても善意の素人は、「彼ら」を儲けさせる役回りを仰せつかうことにもなるのです。

多くの場合、リスクには必ず「芽」があるはずです。あのバス事故だって、運転手の未熟に気が付くタイミングがあったでしょうし、同乗していた別の運転手が異常に気が付くチャンスもあったはずなのです。芽のうちに摘み取れば、リスクを拡大させずに済ませる事ができるのです。多くの場合には、その芽に気が付かないか、気がついても放置してしまうことが、最悪の結果を招いてしまうのでしょう。必要なのは、リスクに気が付く観察力と、面倒がらずに初期対策を打つ手間を惜しまないことしかなさそうです。

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2929 公利

表題は決して数学用語(公理)の間違いではありません。公益と言っても良いのですが、私利に対する言葉として、新たにこのブログだけで定義しようと思います。Nスぺで、二夜続けて、司馬遼太郎の深い思索である「この国のかたち」を取り上げていました。その中で、土地所有階級としての武士の起源に関して、初期の武士の土地の開墾と、それを死守するための努力として、防砂林を植える例が紹介されていました。具体的には、司馬は投稿者が住んでいる秋田の海辺の地域の防砂林への先人の血のにじむ様な努力に言及し、この国の背景としての(家名を惜しむ)武士道が二夜目のテーマ様でした。

確かに、実家のある地域には、入会林としての「財産区」という広大な砂防目的の松林があり、高度成長期の宅地造成で、かなりの部分伐採はされましたが、残された松林は定期的に地域住民による労働奉仕で手入れを行っていました。江戸時代から連綿として維持されてきた、誰のものでもない地域全体の財産であり、共同管理がなされる「共有地」だった訳です。もちろん、防砂林ではコメがとれる訳でもないし、かといって材木が得られる用材林とも異なりますので、年貢の対象ともなりません。しかし、田畑を護るためには冬場の季節風が半端ではなく強いこの地域では絶対不可欠でもあったのです。

この国では、ロールズの言う欧米の「共有地の悲劇」とは異なり、共有地は数百年に亘って、地域によって守られると言う文化が存在した訳です。これこそ公利の典型でしょう。私利を捨てて、労働奉仕によって、地域共通の利益を守ると言う文化です。田舎には、同様に「結い」と呼ばれる助け合い組織も存在しました。例えば、あるカヤ屋根を葺きかえる際に、集落全体でバックアップすると言う文化を指します。

しかしながら、今や公利は昔話になりつつある様です。もし、公利が完全に廃れたあかつきには、共有地(コモンズ)を寄ってたかって利用して荒らしてしまう、「共有地の悲劇」がこの国にも蔓延するのでしょうか。

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2016年2月15日 (月)

2928 コードと解釈

このテーマの下敷きとしては、遺伝子とそこからの個体発生などを頭に置いています。親の遺伝子を受け継いだ子が、受胎し、生れ落ちて、すくすくと成長する訳ですが、稀には遺伝子に関わる病気(遺伝病)が存在する事が広く知られてもいます。つまり、遺伝子コードの、どこか一部(あるいはATGCの組み合わせの1セット)が狂っていたために、発病するという困った病気の事です。遺伝子操作がますます巧妙になってきて、やがてはそれらのいくつかは克服されるのかも知れません。

しかし、如何なるレベルまで遺伝子操作技術が進んだとしても、その技術を使って無から生き物が作れる訳ではありません。タンパク質から細胞が合成出来たり、あるいはカエルの遺伝子を操作してブタが作れたりする筈もないのです。ましてやATGCのバラバラの塩基をつなげて、新たな生き物を創造するなど、神でもない限り人間には絶対不可能なワザでしょうし、また倫理上も許される筈もありません。

それはさておいて、ここで議論したいのは、結局生き物を形作っているのは、決して遺伝子そのものではないと言う点です。もしそうなら、全く同じ遺伝子セットを持つ双子は、長じても全く区別がつかない程「相似」でなければならないでしょう。しかし、そうなっていないのは同じ遺伝子でも、成長の過程で「解釈」が違っていたと考えるしかないと思うのです。遺伝子とは結局は、暗号であり、その意味を正しく理解するためには、暗号を「デコード」して、解釈するする必要がある訳です。同じ暗号(DNA)であってもそれをデコードして成長させるには、適正な環境も必要でしょう。いくつかの事実を積み上げると、環境が人間を含む生き物の成長に、大きな影響を与えている事は間違いないでしょう。小さな証拠としては、例えば摂取する栄養の過多によって、成長が阻害されたり、あるいは肥満しやがては生活習慣病に罹患するでしょう。

これを、社会や社会生活に敷衍すると、日々もたらされる情報を、どの様に咀嚼し、デコードし、それを解釈するかによって、結果として取り得る行動も大きく違ってくるはずなのです。情報を読み取る暗号解読表に相当するのは、結局は個々人が持つ「価値観」という事になるのでしょう。

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2016年2月14日 (日)

2927 ホーリズム?

還元主義に対する言葉としては、一般には「ホーリズム」が宛がわれることが多い様です。ざっと言えば、ホーリズムとは、あるシステムは要素だけには還元(分解)できず、全体として捉えないことには、それを理解できないとする立場です。別の言葉で言えば、要素1と別の要素1を足しても2にはならず、それ以上になると言う事でもあります。

しかし、2926の見方からすれば、還元主義の反意語は、多元主義としたいと思うのです。経済活動は確かに、国や地域を動かすシステムの一つではありますが、それ自体多面的な機能を持つものだと言えるからです。例えば、お上の立場から見れば、経済は税金や財政に「還元」できそうですし、日銀や銀行屋の立場で見れば経済とは、ほぼ通貨量や預金高、保有債券だけでしょうし、製造業の立場で言えば原料の仕入価格やエネルギーだけが気になるでしょうし、流通業の立場で言えば、扱う物流量や配達時間や他社の配送コストに注目するでしょう。それらを、個々に分解していては確かに全体を理解できない事は間違いありませんし、経済活動全体を把握するのは、今日の様にシステムが巨大化してしまった限りにおいては、ほとんど無理とも言えるでしょう。巨象に近寄って、足の一部分をなでる様なものです。足は、決して象そのものではないからです。

そこで、全体を多方向から眺める、多元主義的見方を提案したいのです。一つのモノを眺めて理解するのには、最低でも6方向から見る必要があるでしょう。正面の反対側には裏面があり、側面は2つあり、平面と底面もあるからです。更に、モノを深く理解するには、他の五感も駆使する必要があります。表面がザラついているのか滑らかか、あるいは触った場合冷たいのか熱いのか、匂いはあるのかなど等です。それらの多元的な情報から、モノやコトの本質に迫るのが、ここで言う多元主義の意味なのです。さて、その多元主義で今世界やこの国で起きつつある事どもを眺めてみましょうか・・・。

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2016年2月13日 (土)

2926 還元論

この表題も何度か取り上げた様な気がしますが、今回新たに書けばまた別の切り口になるでしょうから、まあいいでしょう。ここでは、経済還元論について書くことにしましょう。経済還元論とは、社会は経済活動によって成り立っており、したがって活発な経済活動(つまりは景気が良い)の行われている社会こそ理想とすべきで、経済的に不活発で停滞している社会は好ましくない、と考える人たちが唱える主張だ、とここでは定義しておきます。経済活動とは、結局は商品(モノやサービス)を作り出して、それを売り買いする活動の総称と言えますが、しかし今や経済活動の代名詞と呼ばれている、金融業や証券業が果たして厳密な意味で、モノやサービスを売買しているか、と問われれば、かなり疑問を感じざるを得ません。

というのも、金融(≒貸金)や証券(≒債券や株)などというものは、本来の経済活動の目的ではなく、経済規模の拡大によって、やむを得ず生み出された方便であった筈です。つまり、運ぶのに大変な現物に変えて、金属や紙のお金で代替する方便を発明し、あるいはお金を得る権利を印刷したもの(例えば債券)や企業への出資を証明する紙(例えば株券)を売り買いすれば、どこからかお金が生まれる仕組みが、最初に定義した意味での経済活動に当たるかどうかを問われれば、たくさんの?マークをおもい浮かべるしかありません。

見方を変えて、では経済だけで人々を幸福に出来るか、という問はどうでしょう。国を動かしている(つもり)の人たちは、即座にYesと答える事でしょう。そのために、景気を浮揚させる事に、苦労して3本だか6本だかの矢を放っているんだ、と主張もするでしょう。しかし、Pケティも指摘する様に、活発な経済活動の結果、格差は拡大し続け、多くの経済的不適応者を増やし続けてきたと言うのが現実です。還元論は、結局は行き詰ると考えなければならないでしょう。道がたった1本しかないからです。ありふれた普通の道には、側道があり、パイパスがあり、Y字路や十字路の分岐があり、ところどころに道の駅もあって休憩も出来るのです。ではどう考えるべきなのか、次稿に続きます。

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2016年2月12日 (金)

2925 現実的楽観主義

人は、単なる楽観主義者でも、単なる現実主義者でも十分ではありません。単なる楽観主義者とは、イソップ童話で喩えれば「キリギリス」になるでしょうし、単なる現実主義者はたぶん「アリ」に相当するのでしょう。この国が、一体どこへ向かっているのかを、キリギリスの立場で無為に看過するこべきではないでしょう。逆に、アリの様に日々下を向いて働いて無関心を決め込むだけでは、大衆は単なる労働者=納税者になってしまいます。

取るべき立場は、現実的楽観主義だと思うのです。紙幣を大量に印刷し、お金を市場にダブつかせ、あるいは多額の赤字を垂れ流しながら、震災復興の名のもとに公共事業を矢継ぎ早に実施しただけの、見かけの好景気に踊らされてはならないでしょう。逆に座してお上のやることを横目に見ながらいちいち揶揄し、あるいはブツブツ文句を言っているだけでは何も始まらないでしょう。現実的楽観主義は、実はそんなに難しくもややこしくはないと思うのです。よく言われる言葉に、「着眼大局、着手小局」というものがありますが、結局庶民ができる事といえば、自分の足元に起こっている、あるいは自分が起こすイベントを少し動かすことに尽きるのでしょう。ただし、それが大局的に見て、つまりはこの国の将来に、たとえ水一滴分であっても寄与するものでなければなりませんし、その水の一滴が小川に流れ込み、そして大きな川になるのでしょう。間違っても、お国の政策で降り注ぐ筈だった恩恵(いわゆるトリクルダウン)など当てにしてはならないでしょう。異次元の経済政策などは、大企業、輸出企業だけを潤すものだった事は、既に明らかになっているでしょう。

例えば、自分が日々行う買い物、支払う料金、税金、あるいは銀行に預けている預金などなどが、結局何処かに集められて、誰かによって動かされている事を意識しながら、それらの経済行動を、社会がより良くなる方向に変えて行かなくてはならないと思うです。

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2016年2月11日 (木)

2924 廃用症候群

表題は、医学用語で、使わない臓器の機能が弱ったり、機能不全に陥る病状を指す言葉の様です。さて、お年寄りを寝たきりにするのは、実は簡単な事です。ベッドに1週間も寝せておけば、自動的に「寝たきりモード」に移行させることができるのです。歳をとると、激しい運動はできませんが、直立すること、歩くこと、あるいは立ったり座ったりすることによって、腹筋や背筋や、大腿二頭筋やインナーマッスルを知らず知らずに使っているのです。使われている筋肉や臓器は、その刺激により機能を維持しようとするパワーが湧いてきて、日常生活が不自由なく続けられることになります。

しかし、残念ながら人にはできるだけ楽をしようとする「邪な心」が潜んでいる様なのです。電車に乗ると座りたがる、短い距離の移動でも車を使ってしまう、たまの休みには家でゴロゴロして過ごしたがるなどなど、できれば無駄なエネルギーは使いたくないと思ってしまう「サボり癖」です。結果として、若いころスリムだった人の多くが、中年期以降は贅肉をドンドン身に着け、体脂肪率を上げ、基礎代謝が大きく低下し、最後はいわゆる生活習慣病に陥ったりする訳です。

そうではなくて、ヒトは(というよりあらゆる生き物とその臓器は)生命維持の機能を持続させるためには、常に適当なレベルの負荷(あるいは軽いストレス)を必要としているのです。この負荷は、肉体的なものもあるでしょうし、脳機能に対する知的負荷も同様に必要でしょう。その際は、可能な限りその人が持つ限界に近い(例えば7-8割くらいの)強度が理想といえます。あまりに緩い負荷は、機能の維持にはあまり役に立たないからです。老人は、大切にしてはいけません。死ぬまで現役と煽てて、こき使うべきなのです。高齢者に楽をさせる事は、優しい様に見えて、しかし結果として寝たきり人口を増やすことになり、彼らの「生活の質」を低下させることにつながるのです。10年間もベッドに寝たきりで置かれ、最後は管をつながれて息だけしていて、生きながらえて一体何が楽しいでしょう。手先や体を使う職人であることは、生涯現役を保てる理想の働き方だといえますが、悲しいのはサラリーマンです。定年退職とは、「あなたはもう廃用です」という引導を渡されたのも同じだからです。高齢者の医療費を減らす有効な手段はたった一つで、すべての老人を「生涯現役」に保てる生きがいのある仕事を作り出すことに尽きるでしょう。

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2016年2月10日 (水)

2923 貯蓄税?

何やら貯蓄税が話題のようです。国(日銀)がマイナス金利を敢行したのだから、個人の預金にもマイナス金利(貯蓄税)を課して何が悪いか、というお上の声が聞こえてくるような気がします。背景をよくよく考えてみると、この国のジレンマは、たぶん中負担、中福祉の中途半端な状態を如何に改善するかの答えが見えていない点にあるような気がします。つまり、老後や病気あるいは職を失って、社会的弱者となった時に、ほぼ完全に国がセイフティネットで救う、北欧型の様な高負担、高福祉社会へ進むのか、あるいはB国の様に、個人の選択に任せる、小さな政府による低負担、自己福祉型社会へなだれ込むのか、将来像がほとんど何も描かれていないのです。

何より、その前提となる国民の「国への信頼」が非常に低いまま現在に至っているこの国では、国が何を言おうが、一歩引いた目でその政策を眺めてしまう様なのです。それは、間違いなく政治家や官僚の不誠実な行いの数々の為せる結果でしょう。税金に群がって、甘い汁を吸い、責任を追及されれば、秘書や第三者の所為にして、自分はホトボリが冷めたころ再度主要な閣僚ポストについたり、天下ったりした訳です。オッと、ついつい愚痴になっていました。

さて、この国が取るべき方向ですが、何は無くとも先ずは、民の、国に対する信頼を取り戻さなくてはなりません。それには、とにかく政治家も官僚も「愚直」に行動することが必要でしょう。そのためには、政策の重点を現世代の利益誘導に置くのではなく、多くを将来世代の幸福に振り向ける姿勢が不可欠でしょう。誰しも、自分の子や孫の幸福のためだとする政策には抗い難いものでしょう。以前にもこのブログで書いた様な気がしますが、ネイティブアメリカンの部族では、部族としての決め事をする際、7世代後の子孫の幸福につながるか否かに基準を置いたというのです。ここで、頭を冷やして考えなければならないのは、一体「マイナス金利は誰のためか」という問いに、明確に答えなければならないという点なのです。

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2016年2月 9日 (火)

2922 他人の振り見て

他人の振り見て我が振り直す、とは昔から言われる戒めです。まあ、他人の踊りの振りをしっかり観察して、自分の振りを直せと言う程の意味なのでしょう。しかし、これは国際社会では常識ではなさそうです。北の国の飛翔体騒ぎで、国連でも何やら決議が行われた様ですが、その中であれを1発打ち上げる費用で、なんと彼の国の国民全体の1年分の食糧が賄えるのだとか。だから、もうアホな事は止めましょうと言うメッセージなのでしょうが、振り返って、では宇宙アパート(ISSとも呼ぶらしいです)に人一人を送る費用、あるいはそこの数人(たぶん6人くらい)住人に食糧や消耗品を届ける費用で、一体何人の飢えた人を救う事が出来るのか、私たちは考えてみる必要があると思うのです。

見かけのロケットの太さ、目方から想像するだけですが、間違いなくあの小さな飛翔体の10倍以上は費用が掛かるでしょう。もしかするともっと多額の費用が掛かるかも知れません。何しろ、人命が関わる故、安全性確保のための冗長性や参加しているスタッフの数を考えても、とても10倍では収まりそうもありません。

非難するのは簡単ですが、それと同時に我が振りを見直してみることも必要です。相手は、自分の鏡であると思い至るべきでしょう。絶対的に、今の民主主義や自由主義経済システムが正しくて、すべて民意や市場の成り行きに委ねておけば、万々歳という訳にはいかないでしょう。そのためには、すべての国民が高度な教育を受けており、民主主義や市場に対し、節度を以って対応できることが前提条件になるでしょう。そうでなければ、やはり何らかの計画経済や民主主義の制約などのいわば「ガイドライン」も必要となるのでしょう。飛翔体をぶっ放した彼の国は、70数年前の戦時中のこの国の状況と何ら変わるものではないでしょう。果たしてこの国が、戦後どの点で変貌し、どの部分で変わっていないか、よくよく吟味してみる必要があると思うのです。私たちは、民主主義を選択し、世界市場で技術力を武器に、今ある国際的な立場を築いてきた様に勘違いしがちですが、実際は激動の国際情勢の中で、木の葉の様に揺られながら、勤勉に働く民族性もあって、幸運にも今の岸辺に流されてきたと考えるべきなのでしょう。その意味で、この国で民主主義が完全に定着しているか、と問われれば、残念ながらNoと言わざるを得ないでしょう。取り敢えずは、不幸にも、世襲の独裁者によってミスリードされたまま現在に至ってしまった彼の国を、他山の石として自分の玉(良識)を磨くべきなのでしょう。

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2016年2月 8日 (月)

2921 自己と他者

2920の議論をもう少し深めてみようと思います。自己が、他者との関係でしか認識できないとして、では自己とは何かはどの様に、確率されていくのでしょうか。生まれ落ちた直後は、他者といえば、母親、あるいは身近にいる家族を指します。しかし、物心がついて例えば幼稚園に通う様になると、他者とは自分が属するコミュニティを指すようになり、その中で自分との距離感により、他者を層別するようになります。これを絵で描くと、さながらグラデーションのついた同心円の様になるかも知れません。つまり、自分に近い家族や友人の様に濃い色の円と、顔見知り程度の薄い色の円、更にその外側には全く見も知らない人々が存在するのです。

その同心円が、即ちその人の「世界」という事になります。その世界の外側は、知らない世界であり、存在しないのも同然とい事になります。もちろん、本やテレビなどを通じて、映像や解説で知り得た世界というものもあるのでしょうが、それは垣間見た世界であって、自分が知っている同心円世界とは異質のものでしょう。

しかし、ここにきていわゆる「ネット社会」なるコミュニティが急速に拡大してきました。見も知らない人でも、ツブヤキだけ、チャットだけで、あるいは名前と顔写真付きチャットで、他者とコミュニケーションが出来る時代になったのです。これは、直接的な同心円とは異質のサイバー空間での関係ですが、やはり実際のコミュニケーション同様に、親しさによって生ずる同心円や層別を生しているのです。これをどう考えたら良いのでしょうか。確かに、サイバー空間では、自分はどの様に「仮装」しようとも大きな問題にはならないでしょう。一生会う事も無い希薄な関係が殆どだからです。しかし、これが現実の同心円と「干渉」し合う、例えば会社や学校での関係という事になると、お互いの同心円が干渉し合って、思いもかけぬ感情の高まり(あるいは憎しみの渕)を生んでしまう事がある様です。と、時々のニュースが伝えています。これまでの、例えば哲学者が論じていた、自己と他者の定義もかなり様変わりしてきた、と考えるしかなさそうです。

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2016年2月 7日 (日)

2920 他人との比較

自己と他者という言葉の対比で感じるのは、自己とは、結局他者があっての存在だと言う事でしょうか。自分が他者と比べてどの立位置にいるかを意識する事によってのみ、自分が何者であるかを認識する事が可能だと思うのです。もし、この地球上に自分一人しか存在しない世界を想像してみても、結局は比べる者の居ない世界では、自己を「確立」する事は土台無理な話でしょう。つまり、自分が正しい行動をしているのか否か、全く判断が出来ないからです。もちろん、動物的に正しい行動というものはあり得るでしょう。命を長らえるために食物を摂取し、暑さ、寒さをしのぎ、他の動物に危害を加えられない様に身を守る。つまりは衣食住の確保です。

しかし、「人としての正しい行動」は、結局は人をまさに「人と人との間」と書くように、他者との関係抜きには決められないのです。一方で、これは困った事態も招くでしょう。つまりは、他者との過剰な比較です。氏素性や容姿や給料や身体的能力や学力などなどが、他者と比べて優れているのか劣っているのかを比較する行動は、生れ落ちて以降死ぬまで無くなる瞬間は無いのしょう。それによって、過剰な(悪い)優越感や劣等感が生まれ、この世の中の多くのトラブルの主要な原因を作ってしまうのです。

動物としての本能は、多分殆どの人には生れ落ちた時には均等に与えられているのでしょう。しかし、生まれてから獲得する能力は、特に比較がし易い分野、例えば稼いだお金の多寡とか、試験における点数だとか、IQだとか、等級や段位が決められている技能だとかは、人によってそのレベルの開きは、非常に大きくなってしまうのです。人は、他者と比べる(比べられる)ことから解放された時、どれほど楽になれるか想像もできません。封建時代が社会の理想である筈もありませんが、人々は生まれついての「家」によって身分が一応決められ、その中で黙々と生きていけた時代は、ある意味では迷いがなく精神的には安定的生きられたのでないか、と想像してしまいます。

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2016年2月 6日 (土)

2919 衝動社会

今の社会は、全てが刹那的になってしまった様な気がします。ある出来事(事件)が発生すると、マスコミは朝から晩までそれを報道し、「専門家」がコメントし、殆どの人が分かった様な気がした時期には、もうすでにマスコミからその話題は消え失せます。さながら、社会に一つのインパルスが走ると、一瞬だけ衝撃が走り、それが急激に減衰する様にたとえられるでしょう。中身は殆ど忘れてしまいましたが、昔学生時代に習った、「インデシャル応答」という言葉を思い出しました。インパルス(外乱)が与えられて、その影響が減衰し安定するまでには、いくつかのファクターにより、その減衰時間や、過度応答の様子が異なります。

さてその昔、世間に対するニュースインパルスは、たぶん75日位?は持続したような気がします。それが今では、大きなニュースでも精々1週間まででしょう。3.11震災の様に、それが物理的な大破壊を引き起こした場合は別格ですが、それが如何に悲惨な事件であっても、事それが「人間」に関するものであれば、やはりインパルスの持続時間は1週間程度で終わる様なのです。事件が多過ぎるのか、あるいは報道がしつこ過ぎるのか、あるいは人々が飽きっぽくなったのかの分析は、学者の研究に譲るとして、素人の感覚では、それらが程よくブレンドされ、それぞれが影響力を強めあっている様に思えます。

それでどうなのかですが、衝動社会では、本当に重要なニュースなり課題が、他のインパルスに埋もれてしまう傾向がありそうなのです。国会質疑で、三面記事やスポーツ新聞の記事内容が取り上げられたりするに至っては、何をかいわんやでしょう。これに限らず、非常に重要な問題である多くのイシューが日々積み重なってくる、雑なニュースにドンドン埋もれてしまうのは、悲しむべき事だと言うしかありません。政治家や芸能人のスキャンダルは、追いかけて起こった、他のスキャンダルによって、「塗り替えられてしまう」のです。これは、トラぶったパソコンが再起動する事によって、元通りの状態に復元する過程に似ていなくもありません。大きなブレーキングニュースは、マスコミの再起動なのかも知れません。それが衝動社会の宿命の様です。

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2016年2月 5日 (金)

2918 タコ足喰らい

かつて「価格破壊」という言葉が流行りました。モノが売れないので、コストを下げ、売値を下げて販売量を稼ぐといった、ビジネスモデルです。コストを下げる手段も、地道にジワジワ下げるのではなく、生産そのものを海外に移し、安い原料や労働駆使して、消費者が安さを実感できるレベルまで切り下げるのです。「価格破壊」という言葉自体は、60年代の終わりに、S山三郎が小説の中で使ったのが嚆矢と言われていますが、この時代の価格破壊は、いわゆる大量生産技術の進歩によるのでしょう。しかし、価格破壊という言葉がもう一度社会に蔓延したのは、バブル崩壊後のモノの売れにくい時代に入ってからの様な気がします。量産技術によるコスト削減は、いわば健全なものと言えますが、売れないから売値を下げざるを得ない状況では、海外生産に切り替えた上に、いわゆる流通革命により流通コストをカットし、さらに量販店で数を売りさばくことにより徹底的に圧縮するのです。

とは言いながら、無理な売値のカットは、実のところ、メーカーや流通業者自体の体力を、徐々に奪ってきたことも事実です。安値に慣れ切った消費者は、少しでも高い値段や、コストアップにより値上げには、むしろ敏感になっていったのです。こうなると、事態はViious spiralに陥る事になります。人々はより安いモノを求め、百均ショップが隆盛を極める事になります。

しかい、考えてみれば無理は長続きはしないものの様です。価格競争に疲れたメーカーは、次々に海外に逃げ出し、コストを削るために雇用慣習にも手を付け、先ずは外国人労働者の枠拡大に始まり、ついには日本型終身雇用を放り投げ、派遣雇用の拡大という悪路に踏み込んだのでした。しかし、労働者は即ち消費者でもあるため国内需要が先細り、海外移転に伴って、企業の設備投資も落ち込み、デフレのスパイラルは続いたのでした。結局、これはタコの足喰らいと同じなのです。自分のタコ足を今食っているのが、この国の産業界でとするなら、時間を超えて将来世代の足まで喰らっているのが、この国の政府という事になるのでしょうか。いずれにしても、この国は「タコ国家」と呼ぶしかなさそうです。本当は賢い本家タコには申し訳ないのですが・・・。

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2016年2月 4日 (木)

2917 モノとココロのバランス

モノとモノ、お金とお金など、同種の価値は比べる事は容易でしょう。しかし、モノの価値と、精神的満足を比べる事は可能でしょうか。もし、それが何らかの方法で出来るのであれば、例えば人のココロをお金で買う、という変な事も可能となりそうです。目の前に、モノと人の親切心が置かれていてどちらを取るかと迫られたとしたら、やはり何らかの判断を下してどちらかを取るしか方法は無いのでしょう。

では、自分の暮らしの中でモノを選ぶか、精神的満足のどちらを選ぶかを決めなければならない場合、人間はどう行動するのでしょうか。確かに、人は霞を食って生きる訳にはいきませんから、何は無くとも日々食べ物には困らない生活を選ぶしかありませんが、ここでは最低限の衣食住が確保された上で、自由に使える財産(つまりはお金です)と、それは手に出来ないが精神的な満足感、例えば達成感が手に入る場合の、ある人が取る行動の事です。究極のモノかココロかの選択です。取り敢えずまとまった額のお金が手に入れば、将来それを使って、何らかの物質的な満足感が得られるかも知れないし、取り敢えずは手元に置けば将来の安心感も手に入るでしょう。

しかし、最低限の衣食住さえ確保されていると言う条件なら、多くの人は精神的満足感を選ぶような気がするのです。精神的な満足は、満足物質(例えばβエンドルフィン)によって、脳を幸福感で満たし、深い喜びをもたらすでしょう。大金を手にしても、ココロの満足を得ても、いずれにしても脳は喜びますが、その喜びの深さと、持続性では間違いなく後者に軍配が上がるでしょう。暮らしに困らない程度の少しのモノ(決してお金ではありません)と大きなココロの満足が、目下投稿者の理想とするバランスではあります。

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2016年2月 3日 (水)

2916 寄らば大樹?

今更ながらですが、企業の合従連衡のニュースが活発に流れています。経済素人の投稿者ですが、どの様な道筋で考えても、決して正しくない方向のような気がしてなりません。お国のリーダーがなんとラッパを吹こうとも、世界に冠たる人口減少国であり、少子高齢化のトップランナーであるこの国が、再び日出る国になって、600兆円のGDPを達成できるとはとても思えません。緩やかな縮小均衡に向かうのが、この国の正しい道だと思うのです。もはや、地球上にフロンティアは残ってはいないでしょうし、ましてマンパワーがますます低下しつつあるこの国が、経済成長を遂げる要素は見当たらないのです。

その中での企業の集約による大規模化です。これは、間違いなく「時代錯誤」と呼ぶしかない行動でしょう。大規模化して如何に効率化を図ろうとも、鉄は間違いく余剰状態にありますし、設備もモノは有り余っている訳です。これ以上、企業合併を繰り返しても、もはや規模のメリットは期待できないでしょう。むしろ、巨象の御しがたさのみが助長される事態に陥るのではないかと見ています。その理由ですが、今経営が傾いている企業は、結局多様な顧客のニーズに対し、きめ細かな対応ができなったかった事が、根底にあると思うのです。つまり、顧客が取り敢えずの安い量産品では満足できなくなっていた事に、企業としてしっかりとは対応出来ていなかったのでしょう。

結果が、慌てふためいた企業合併や周回遅れのMAです。世界規模で見れば、然るべきM&Aは既に終わっているでしょうし、国内では「撤退しながらの形勢立て直し」は、決して良い結果はもたらさないと見ています。何より、合併や吸収してからの市場の見通しや、企業ビジョンの打ち立てが弱い状況では、負け戦の敗走で生じやすい「カオス」に陥るからです。合併や吸収が成功するためには、明確なビジョンを持った、強いリーダーの存在が不可欠である筈なのです。うらぶれて来たからという理由だけで大樹の下に寄り沿うだけでは、一時の雨宿りに終わってしまうでしょう。雨宿りが終われば、土砂降りの中をトボトボと歩き出すしかないのです。これは単なる「時間稼ぎ」と呼ぶしかない行動でしょう。

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2016年2月 2日 (火)

2915 IoTの罠

世の中、口を開けばIoTの話題だらけのようです。詳しくは知らない門外漢ですが、どうやらナンでもカンでもインターネットにつないでしまうんだとか。つまり、色々なモノが、通信機能を持ち、インターネットに接続され、遠隔モニターや操作が可能になるのだとか。今や家電も車も例外ではなく、インターフェイスとマイコンが搭載され、外部と通信できる様なのです。しかし、考えてみればこれは非常に怖い話でもあり、もし悪意のハッカーがファイアウォールを突破して、同時に多数のモノを乗っ取った場合の事を想像すると背筋が寒くなります。

特に、車の様にエンジンを備えて、かなりの馬力で動き回る機械や、あるいは工場生産ラインで動く各種の機械が乗っ取られ、遠隔で操作された場合は、非常に危険でもあります。つまり、車であればブレーキを踏んでも止まらないとか、あるいはドライバーの意思に反して、突然急加速するなどの不如意運動を起こしてしまうでしょうし、工場であればラインが誤作動を起こして多量の不具合品を出したり、あるいは設備の暴走で作業員がけがをしたりするかも知れないのです。

一方で、例えばカメラのついたスマホやパソコンが乗っ取られた場合には、単に内部の情報が流出する危険ばかりでなく、自分の機器が持つカメラで知らないうちに第三者に自分の行動が監視される危険さえ起こり得るのです。簡単なPWの設定など、ハッカーには簡単に破られてしまうでしょうし、無料のアプリに忍ばせて、スマホやパソコンを遠隔操作するプログラムを送り込む事など朝飯前の仕事でしょう。インターネットは便利なものではありますが、裏を返せば(使い方によっては)凶器にもなり、犯罪の手段にもなり得るのです。おーこわ。

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2016年2月 1日 (月)

2914 我慢できない社会

私たちは、ますます我慢できない人間になり、その人たちが作る「我慢できない社会」に突き進んでいると思わざるを得ません。我慢できない社会の入り口には、刹那的な社会があるのでしょう。今が楽しく快ければ良い、将来の事は考えない、という社会です。この様な社会では、痛みや、忍耐や額に汗して働く事は忌避されます。動物は3つのモード、つまりは戦う、耐える、逃げる、で生きると、何かの本で読んだような気がしますが。刹那的な社会では、ちょっと戦って歯が立たないと見るやすぐに逃げるのです。本来動物が採るべき態度とは、多分8-9割の時間はひたすら耐えて、やむを得ない場合は戦う事もあるが、先ずは少し退いて危険から距離を取る、というものでしょう。

その明確な起源は、多分1980年代にあった様な気がします。高度成長期の爛熟期であるいわゆる「バブル期」を経験した以上の世代は、この時期に「贅沢」の味を知ってしまったのです。国内では全く自給できない、牛肉やマグロやトロピカルフルーツや日常的にスィーツなどの高級食材に夢中になり、外車を乗り回し、ブランド品を買い漁った訳です。もちろん、お金持ちは株や債券や不動産を買い占めて、更に資産を膨らませました。人は、お金やモノを手に入れると、それらをますます欲しがる厄介な性質を持っている様なのです。それらの欲望は、全ての経済活動を徒に助長し、結果的にはパンパンに膨らんだバブル期が形成されたのでした。

バブルについては、このブログでも反省を込めて何度も取り上げましたが、ここではバブル現象の根源である、我慢できない人間の「サガ」についてかいています。我慢は、人間の前頭葉で行われる「抑制行動」である事は、脳科学で解明されています。しかし、この我慢をするという行動は、実は生まれついての性質ではなく、繰り返しの訓練によって醸成されるものなのです。それは、幼児期の我慢教育?により徐々に、自分の権利や義務範囲を意識させる訓練(教育)によって育まれるべきものですが、バブル期までは親も抑制のタガを外し、いわゆる「ゆとり世代」以降は、ヒモジさを感ずる機会を経験することなく成長してしまったのです。彼らの前頭葉は、多分ブレーキが甘く、欲望アクセルにはすぐ反応する馬力のデカい車の様な状態になっているだろうと想像されます。たぶん続きます。

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