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2016年3月31日 (木)

2967 成長戦略2?

お国が先導し、結局は自治体に予算をばら撒くだけに終わりそうな地域創生やら成長戦略ですが、ここではそもそも何故成長しなくてはならないかを考えてみる事にします。そもそもは、お金の価値を安定化させることが仕事であるN銀でさえも、政府の片棒を担いて、物価安定目標と称して、2%の物価上昇など言う値上げの目標を掲げてしまう時代です。まさに、国を挙げて「成長神話」に憑りつかれているいるとしか思えません。いわく、もし成長しなければ国の借金が返せない、あるいは、成長しなければ十分な福祉政策が打てない、などなど全く意味不明な論理を繰り出すのです。

つまりは、全ての政策をお金の多寡で評価する、拝金主義ならぬ(価値の)換金主義としか言えない異常な状況なのです。何故ここまで借金が膨れ上がったのかをロクに反省もせず、あるいは真の福祉とは何であるべきなのかを深く考えもせず、成長して税金が増え、それをもとに予算さえ付ければ政策が動き、人々の幸福度も上がると「誤解」している輩だらけなのでしょう。結局は、今の社会は、「お金で幸福が買える」という、20世紀後半の価値観を引きずっているとしか思えないのです。

私たち必要なのは、たぶん「ココロの成長戦略」でしょうか。お金がなくとも、必要最小限の衣食住が充足され、健康でさえあれば、人は幸福に生きられるはずでしょう。もちろん、幸福に生きるためには、ココロの満足感(生甲斐とも呼びますが)も必要ですが、それはココロの持ちよう次第でもあるのでしょう。先人は、短歌や俳句だけでも十分に生甲斐を感ずる事が出来たのでした。ココロの成長にお金は要りません。紙と鉛筆くらいは必要かも知れませんが・・・。それを無理に拡大しようとするから、作ってしまえばメンテナンスにも莫大な費用が掛かるインフラを無為に拡大したら、国債を乱発せざるを得なかったはずです。

そうではなくて、人口が減少するのなら、経済が縮小するのは仕方がない話なのです。それを素直に受け入れ、ココロの豊かさが感じられる社会を目指せば良いでしょう。モノの豊かさやお金が全ての価値を決める時代は、もう終わってしまったと思い定めるべき時です。

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2016年3月30日 (水)

2966 非ユークリッド幾何?

時々言葉が降ってきます。今日は「非ユークリッド幾何」でした。投稿者は大雑把な性格なので、大雑把に括ると、ユークリッド幾何は、いわば平面上の幾何学で、日常直感的に把握できる、幾何学の「定理」を導き出すものです。なんと500もの定理が導かれたとのことですが、にわかには片手で数えられるくらいしか思い出せません。例えば、どこまで行っても交わらない直線を平行であると呼ぶとか、その2本の平行線に交わる、別の直線の作り内角の和が180であるとか、といった程度です。

一方、非ユークリッド幾何とは、いわば曲面上で議論される幾何学ですから、そもそも「直線」が直線ではなく、局面に沿った線という事になります。もちろん、線である限りある方向から眺めると、直線に見える場合もあるのでしょうが、一般的に言えば曲線としか呼べません。さながら、丸い地球上に住む我々が、何十キロも真っ直ぐに伸びた道路を、「直線」であると感ずる様なものです。実際には、地球の曲率に沿って作られたこの道路は、中高で湾曲している筈なのです。というよりも、地表の凸凹があるので、曲率さえも一様ではない複雑な曲線になっている筈です。

何故、この言葉が浮かんできたかと言えば、たぶんなかなか議論が交わらない国会でのやり取り、あるいは長い間にわたって終わる事のない、国や民族同士の葛藤や紛争に思い至ったからでした。つまり、同じ土俵(平面)に立てば、議論は必ず噛み合う筈であり、直線が交わった点が「落としどころ」になるのでしょうが、その土俵が曲面になっている場合には、まったく話が変わってきます。曲面に定義された直線(議論)が交わる事は非常に稀だからです。私たちは、先ずは相手が別の曲面(地平)に立っている事を理解した上で、直線の議論ではなく「面」の議論を行うべきでしょう。面の議論と言うのは、議題を面の様に広げた上での議論を指します。面であれば、2面は基本的にはどこかで交わる筈なので、完全な捻じれの関係はあり得ないでしょう。さて、国のリーダー達の議論は、と言えばほぼすれ違いの連続の様な気がしますが・・・。

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2016年3月29日 (火)

2965 経済という手段

別にOイコノミアに触発されている訳ではないのですが、最近経済があまりにも社会に強い影響力を及ぼすこともあって、その行方がとても気になります。最近というのは、特にリーマンショック後の、あまりにも大き過ぎる金融起源の経済振動(の振幅)が目立つようになってきた昨今を指します。どうやら、この世の中には「必要以上のお金」が印刷され、溢れて、波打っている様なのです。お金が、取引の手段でしかなかった時代は確かに存在しました。しかし、お金(富)がある特定の人や組織に偏って集まり出すと、お金が単なる手段では収まらなくなります。つまりは、お金はさらなるお金を集める手段となり、ついには「蓄財」そのものが目的に変容してしまうからなのです。

篤志家は、もし自分が余分な財産を持っていると自覚した場合には、寄付をしたり、ある目的のための基金を作ったりするでしょう。N-ベル賞も、そうした基金によって賄われています。しかし、今お金を集めている銀行や、キャピタルなどの、いわゆる「機関投資家」、ましてや蓄財が趣味の個人投資家に、その様な奇特な行いなど期待すべくもありません。何しろ、お金をより多く集める事が目的なのですから、それを困っている人に施したり、社会貢献のためにそれを使うなどという発想そのものが起こらないのでしょう。

ここでも、手段と目的の逆転が起こっている様です。お金は、取引のための手段で、経済活動も人々のより良い生活を支えるための手段であるべきなのですが、この国のリーダー達が、口を開けば景気の底上げなどとノタマウ様に、経済規模の拡大だけが(政治の)目的化されてしまったのです。本来は、お金(日本銀行券)の価値の安定性を保証するのが役割であるN銀でさえ、物価上昇目標2%などと、訳の分からない目標を掲げて、国債や紙幣を増刷したり、マイナス金利などという滅茶苦茶な行動に出たりしています。私たちは、ここでもう一度、お金や経済活動の、本来の目的に立ち返る必要がありそうです。

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2016年3月28日 (月)

2964 成長戦略?

結局Aベノミクスが言うところの3本目の矢の成長戦略とは、地方創生とか、女性の活躍社会だとか、1億総活躍だとかの文言にすり替えられ、他方では国内の大企業を助ける事が出来ずに、海外への「身売り」を眺めていただけに終わりそうです。かつてのT産省は、政策の善し悪しは別にして、確かに国を引っ張って行く気概と、実行力を持って居た様な気がします。しかし、今のK産省は、このままでは予算を地方にばら撒いて地方創生を終わった事にし、保育園と保育士を増やして、女性の活躍社会に近づいたと吹聴し、高齢者にお金をばら撒いて、1億総活躍社会だとノタマウ様な気がします。

人口減少の「シュリンク社会」で、何も手を打つ事なしに、財政や中身のない掛け声だけで、経済が成長する事など考えられない話です。成長戦略の肥やしとなる、聞こえの良い「イノベーション」という言葉も、やれ水素社会だとか、人工光合成だとか、IoTだとか、ビッグデータだとか、さながら個別の技術を伸ばせば経済成長が前進するかの如く喧伝していますが、技術(のイノベーション)はあくまで「ビジネスモデル」と結びついて初めて効奏するものであり、技術が単体でお金儲けしてくれる訳ではないでしょう。

ビジネスモデルを起こすためには、どうしてもニーズの掘り起しが必須です。つまり、三本目の矢の本質は、持続可能なニーズの掘り起しではあっても、技術そのものではない筈なのです。では何が、そのニーズの元になり得るかと言えば、取り敢えず目の前にぶら下がっているのは、エネルギーの熱需要でしょうか。少なくとも北国では、1所帯当たり30-40万円の熱需要を持っており、その殆どは電力(オール電化)や石油ボイラ(や石油ストーブ)で賄われており、その全て(正確には数%の再エネ電力)を除いて、海外からのエネルギー輸入で賄っている訳です。これを、太陽熱、バイオマスの熱利用、その他の再エネで賄えば、例えば8万人余りの投稿者が住む地方都市でさえ、家庭の熱需要だけでも300億円/年の市場が転がっている訳です。これは正確には、需要の掘り起しではなく、エネルギーソースの転換なのですが、輸入代金が減る上に、国内に雇用も作り出せるため、二重のメリットが享受できるでしょう。輸入代金が減れば、価格競争にさらされながらの利の薄い輸出産業も、円安誘導で無理に延ばさなくても済む事でしょう。

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2016年3月27日 (日)

2963 バイオマス発電?

久しぶりに「環境ブログ」らしい投稿(の積り)です。さて、各地で大規模なバイオマス発電のプロジェクトがメジロ押しの様です。ここ秋田でも、地元の銀行が連合を組んでの1000億円オーバーの融資が実現し、埋立地に大規模な(20Mwの)発電所が建設中です。同時に、この発電所で燃やすための燃料チップを作る工場も、県内に何か所か建設されるようです。その結果、たぶん30人を少し超えるくらいの新たな雇用も生まれる様なのです。

しかし、考えてみなければならないのは、バイオマス発電に関しては、FIT価格が規模によって32円や40円に引き上げられ、チップ製造工場にも多額の補助金が出されるという点です。つまりは、バイオマス発電の高めFIT価格は、結局は多数の電力需要家の広く薄い負担に支えられ、関連設備にも、やはり大きな額の補助金(税金)が注ぎ込まれているという事実に目をつぶるべきではないでしょう。しかも、県内とはいえ、各地に分散されたチップ工場から、埋め立て地に作られた発電所まで、嵩張るチップをトラックを使って毎日運ばなければならない訳です。

投稿者の暗算ですが、消費者の負担や補助金無しに、バイオマス発電が経済的に成り立つのは、小規模で燃料調達に困らず、しかも発電所からの排熱も有効に活用できる場合に限られる筈なのです。というのも、バイオマス発電の熱効率は、上手く設計した場合でも、20%を少し超える程度しか期待できませんので、排熱の利用ができない場合は残り熱は全て捨ててしまうことになるのです。もちろん、排熱で湿っているチップを乾燥させるくらいの工夫はできるのでしょうが、バイオマスの完全熱利用を目的とした、バイオマスボイラの効率、例えば85%前後、に比べれば、いかに無駄が多いか分かるでしょう。上乗せ買取価格と補助金によって、経済的に成り立つという試算は、結局は消費者と将来世代への借金で利益を出している様なもので、ビジネスの基本からは外れていると断ずるしかありません。バイオマス燃料の有効利用は、太陽熱との組み合わせでの「小規模分散型の熱利用」しか考えられない、と明確に指摘しておきます。

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2016年3月26日 (土)

2962 クレタ人のパラドックス

良く知られた、クレタ島出身の哲学者であるエピメニデスの「クレタ人は皆嘘つきである」とのテーゼ(じつは詩の一節)が、真か偽かが問われ、いずれにしても自身がクレタ人である哲学者の言としては、「自己言及の矛盾」が生ずるというものです。

詩の一説をテーゼと呼ぶのが正しいかどうかは別にして、このテーゼという言葉は、哲学用語(の「定立」)であると同時に、実は政治用語での「綱領」をも表す言葉でもあります。さて、「A党の綱領は嘘で固められている」、という政治家自身が主張する「テーゼ」は果たして自己言及の矛盾に該当するのでしょうか。それが、果たして「約束」であるのか、あるいは単なる「希望的願望」であるのかによって答えは違ってくるのでしょう。前者だとすれば、何の矛盾もなく「真」でしょう。政治的約束(時に公約とも呼ばれます)が文面通り守られた事は、60有余年生きてきましたが、残念ながら記憶にありません。ましてや綱領は・・・。その一部は、偶然に実現したかも知れませんが、いずれにしても彼らのテーゼは、やはり希望的願望である事は間違いないでしょう。

しかしながら、そうではあっても何らかのテーゼを示さない限りにおいては「党(Faction)」の存在意義は無いというしかありません。それは烏合の衆と呼ぶしかないからです。(この国にはそんな党が多いのも事実で、そういえば彼らは皆ダークスーツを着ていることに気付き苦笑)。そうであるなら、現世代にへつらうテーゼではなく、真に将来世代にこそ資する指針を示すべきでしょう。いわゆる「国家百年の計」です。衆参で、押し問答を延々と繰り返し、法案「審議?(問答)」時間を100時間確保して、十分な審議を重ねた、などとの主張は何をかいわんやです。

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2016年3月25日 (金)

2961 再びのアブナイ時代

9.11事件は、世界に大きないインパクトを与えました。投稿者が長年関わっていた航空機業界もその大波をまともに食らったのでした。つまり、旅客機がWTCビルへのアタックの「特攻」に使われ、その映像が繰り返し放映された結果、「飛行機は怖い」といったイメージが世界中を覆い、事件直後は旅客機を使っての旅行客が、なんと55%も減ってしまったのでした。しかし、旅客が減って飛ばせなくなった旅客機の処置ですが、それらを空港に駐機させておくわけにはいきません。なぜなら空港には、夕方に飛んできた便を、翌日折り返し便となって飛んでいくための一晩分の駐機スペースしかないからです。つまり、航空機は空を飛んでいる機数が、地上で駐機している機数より圧倒的に多いのです。何しろ新幹線は、深夜は完全に車庫に入りますが、航空機は夜間もバンバン飛んでいるのですから。

航空機は、いわば空中を飛んでいる時が「常態」であり、その間はカネを稼いでいる訳ですが、地上にある時は1円だって稼がず、むしろ費用を使っている「まずい」状態であるとも言えるでしょう。さて、旅客が減って動かせなくなった旅客機はどうするかと言えば、仕方がないのでお金が掛からない場所に飛ばして、そこに駐機させる他かないでしょう。そんな都合よい場所は、投稿者が知る限りでは世界中を探しても殆ど無く、唯一B国のモハベ空港(砂漠)くらいのものでしょうか。ここは、古代の塩湖が干上がった塩の平原(砂漠)で、飛行場があるのでここに着陸させ、周りの堅い砂漠にけん引していけば、数千機ほどは駐機させることが可能なのです。事実、9.11事件後は、ここになんと2,500機ほどの旅客機が飛んできたのでした。

G―グルアースを使えば、この空港の衛星写真を見る事が出来ますが、過去まで遡る機能を使えば、それを確認することも可能です。欧州や中東で頻発するテロ事件は、間違いなく人々の旅行熱を冷やす事でしょう。一方で、爆弾を身に着けたテロリストの自爆テロを防ぐのは、かなり困難だと言えるでしょう。金属さえ使わなければ、多くの検知器をすり抜ける事が可能でしょう。リュックやバッグを持っているか、あるいはゆったりした服を着ている全ての人を、自爆犯かも知れないと疑って暮らす事は不可能でしょう。テロリストは、たぶん今は平和な地域や再び航空機でテロを起こす事こそよりインパクトがあると考えるでしょうから・・・。

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2016年3月24日 (木)

2960 ブームの法則

空前の海外からの旅行者ブームの様です。アキバや大阪日本橋や都会の繁華街や寺社のみならず、有名な撮影スポットのある景勝地などは、半分以上が外国人、通りすがりに言葉を聞く限りではC国人が特に多い様です。しかし、どう考えてみても、これは一時の「ブーム」だと思うのです。円安と、やっと豊かさを実感できる様になった、彼の国の人々の旺盛な旅行欲、購買欲がピッタリ重なった結果のブームだと思うのです。お国や旅行業者が、どの様な皮算用を弾こうとも、これが何年も続き、観光客が増え続ける事はあり得ない事でしょう。ブームを押し上げている条件は、あまり時を経ずして消える事が必然だからです。この場合は、円高に移行するか、あるいはC国の経済が「ヘタってしまう」か、あるいはそれが同時に起こるかでしょう。

別の例を挙げるなら、バブルが来る前のあの時代、不動産やそれが形を変えた債権の価値は絶対下がる事が無いと信じて、個人も企業もカネを借り、一方で銀行は担保価値をロクに評価する事なしにカネを貸した結果、バブル状態を作り上げたこの国の、その後の惨状を振り返れば、十分わかる筈です。

ブームは決して長続きしないからブームと呼ぶのであって、ブームというのは波の高い部分を呼ぶ表現ですから、波は必ず引く訳です。多くの場合、ブームは一回限りである、稀に長い空白期間を経て再来する事もあるでしょう。景気も確かに波なのですが、それはお国が業界の圧力に耐え切れなくなって、経済活性化策を打ち出した結果であることが多いのです。ここでブームの法則と呼びたいのは、「ブームは必ず去る」という当たり前の原則の加え、バブル経済や経済活性化策の様に無理に膨らませたブームは、その反動が非常に大きいと言う過去の経験則の事です。Aベノミクスが、この法則に当てはまるのは明らかですが、問題はそのメッキが剥げるのは何時かです。最速では、この夏の選挙に大きな勝利を収める事が出来なかった場合でしょう。その前に、C国や欧州から外的要因が襲ってくるやも知れませんが・・・。

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2016年3月23日 (水)

2959 One for one

ラグビーのスピリットは、One for all,all for one.だったと思いますが、超高齢化時代においては、それをまともに実行する事は出来にくそうです。高齢になってもそれなりに社会の役割を果たさなければならない時代であっても、高齢者に出来る事は年々制限されてきます。体力的にも、資金的にもです。ちなみに、JAさんのスローガンも似たようなものらしいですが(万人は一人のために、一人は万人のために?)どちらが先かは知りませんが・・・。

ところで表題は、間違っている?と突っ込みが入るかも知れませんが、そうではありません。現代社会では、すでに一人が他の多くの他人を思いやる程の余裕をすでに失っており、自分自身か、精々他のもう一人くらいしか考える事が出来なくなっている様なのです。なので、私たちは、例えば政治家などに期待することは止めなければなりません。たぶん政治家は、自分自身の身の振り方にしか興味が無いからです。この時期であれば、きっと選挙対策で頭が一杯なのだと想像しています。

自分自身か少数の他者の事を考えると言うことは、結局は身分の身の回り、足元を見つめる事から始めるしかないでしょう。国で言えば、先ずは自国内の足元を固め、ついで少数の隣国との友好関係を結ぶ事から始めるのです。間違っても、地球を俯瞰し、海外からは軍と見做されているJ衛隊を海外に送って、積極的平和など推し進めるべきではないでしょう。誰かにとっての援助や支援は、それを快く思わない勢力にとっては、余計なお世話であり、時には攻撃の対象にもなるでしょう。

欧州全体を俯瞰し、統一された欧州を目指したMルケルの夢は、今悲惨な形で崩壊の序章を奏でている様に見えます。One for oneとは。結局は足元を見つめて、質素にひっそりと暮らす事を意味します。かつて、米国や人種のルツボと呼ばれ、カナダは人種のモザイクと呼ばれていました。小さなモザイクを並べた様で平和だった欧州も、今や民族のルツボと化しているのは間違いないでしょう。今の世界の、取り分け欧州のカオスがこの先収束するのか、あるいは更に拡大するのか、壮大な「実験」を、日本の田舎に住んで自分の足元を固めながらですが、じっくり見守る事といたします。

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2016年3月22日 (火)

2958 複雑系

2956の続きかも知れません。数値やデータを駆使し、数式を使って事象をシミュレーションし、将来予測が出来たとしても、それが正確である保証はありません。自然や生物としての人間が作る社会は、まさに壮大な複雑系であるからです。複雑系が複雑であるには理由があります。先ずは、計算結果に影響を及ぼす「変数」が、無数に存在する事です。無数が極端なら、多数と言っておきましょう。変数が多ければ、当然の事ながら現象を示す数式は、「多項式」とならざるを得ません。項が何千個もある様な数式は、見たことがありませんし、あったにしてもそれが正確かどうかは誰も検証できないでしょう。

もう一つ、現象を差分化して、グリッド毎に数式を立てる事が出来たとしても、一つの点におけるある変数と、別の点の同じ項の変数が同じ「重み」を持っているとは言えないでしょう。例えば、気象方程式(これもあくまで荒っぽい近似式に過ぎませんが)の変数が記述する項は、それぞれの場所で重みが異なる事は自明でしょう。ある地点は砂漠の真ん中かも知れませんし、別の地点は緑豊かな森である事もあるでしょう。森には、植物や動物の複雑な営みがあるので、それが砂漠とは異なり、間違いなく気象(気温、湿度、風や降雨など)にも大きな影響を与えるからです。

従って、複雑系の数値計算では、グリッド毎に別々の式を立てる事になり、単純な、多元連立方程式では記述出来ないし、いくらな能力は高くても融通が効かないスパコンでは、何百年動かしても答えは出ない事でしょう。スパコンは、高速で「処理」はしますが「考えない」からです。現在でも、まだやっと人間と同程度の能力で、1919個のマス目の何処に、白(又は黒)の石を置くかどうかを考える事ができる程度の実力なのですから・・・。

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2016年3月21日 (月)

2957 目的論(何のために)

2952にも関連しますが、何かを為すにしても、目的を明確にしておくことは必要でしょう。これも繰り返し取り上げているテーマでもあります。目的を成し遂げるには、そのための何かの手段が必要です。しかしながら、その手段をくり返し行使する中で、さながら手段そのものが目的になってしまった様な錯覚に陥り、結局手段を行使することが目的化してしまうのです。

例えば、お金を稼ぐ事は、衣食住を賄うためのモノを買うための手段でしかありませんでした。それが賄えれてさえいれば、別に余分なお金(宵越しの金)は要らない筈なので、江戸市民はその日暮らしにあまり疑問を感じずに暮らしていた事でしょう。然るに、生業が固定化し、その中で金儲けや金貸しで、余分なお金をため込む「資本家」が生まれ、次第にその人たちはお金を蓄える事が目的と考える様になったと想像しています。今や、資本家や銀行などは、まさにお金集めや利殖そのものが完全に目的化していることは誰の目にも明らかでしょう。お金は、暮らしを支える一つの手段に過ぎなかったのに、です。

別の例を上げましょう。通信です。G・ベルやT.エジソンらがほぼ同時に発明したとされる電話ですが、それは最終的に無線電話(携帯電話)に行きつきました。電話の目的は、遠く離れた人と、コミュニケーションを図ることでしょう。直接会いに行かなくても、話ができる時代になったのです。それも、電波さえ届けば屋外でも移動中でも可能になりました。軍事目的で開発されたコミュニケーション手段であるインターネットはもっと画期的でした。画像や動画や大きなデータでさえ、殆ど瞬時に、地球の裏側まで送る事が出来ます。しかし、手段であった各種のコミュニケーション方法は、今や殆ど目的となってしまった感さえあります。他人とコミュニケーションを取りために、現代人は一体どれだけの時間を費やしていることでしょう。今や、人と親密な関係を結ぶと言う目的を離れ、コミュニケーションそのものが目的化しているのは間違いないでしょう。実際投稿者自身も、毎日30分以上、下手をすれば1時間くらい、このブログというコミュニケーションに時間を使っているのです。もちろん、明確な「目的」はありますが・・・。

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2016年3月20日 (日)

2956 バタフライ効果

バタフライ効果という言い方があります。ブラジルだったか、北京だったかの蝶が羽ばたいた結果、アメリカで竜巻が起こるといった、日本でいうところの、風が吹けば桶屋が儲かる、と似たようなたとえ話ではあります。つまりは、小さなキッカケが、(あまり良くない)甚大な結果を引き起こすといった現象を指すたとえではあります。

具体的な例は、数多く考えられますし、過去に起きた現象や歴史的出来事にも当てはめ得るのでしょうが、ここでは気象現象の例を挙げておきましょう。現在の数値気象予報では、地球の表面を20㎞のメッシュ(碁盤の目に)切り分けて、それぞれのメッシュの交点に関して、気象方程式を立てます。方程式は、交点の数だけできますので、その「連立方程式」を、巨大なコンピュータで解いて、将来の天候を予測する訳です。もちろん、実測で得られた気象データを初期値として与えれば、かなりの精度で数日先の天気は当てる事が出来る時代になりました。しかし、所詮コンピュータの能力には限界がありますし、たとえメッシュのサイズを1㎞にできたとしても、何か月も先の天気がぴったり当たるはずもありません。というのも、メッシュと他のメッシュの間には、把握されない「空白エリア」が存在しますし、何より蝶よりはずっと図体が大きく、気象に与えるインパクトの大きな「人間社会」が存在しているために、気象方程式の初期値をすぐにずらしてしまうでしょう。

例えば、発電所の煙突から出る排気ガスが周辺の大気温を上げ、同じく温排水が海水温を上げるでしょう。車の排気ガスは、気象方程式では全く考慮されてはいません。今や人間の活動は、間違いなく地球全体の気象にかなりの程度のインパクトを与えているのです。

もう一つ、数値予報は、あくまで地表におけるものなので、地表に直接影響を与える範囲の高度の大気は考慮してはいるものの、例えば数千メートル以上の高度の大気は計算上は除外するしかありません。更に言えば、海洋があります。海洋も対流を起こしているので、海面下の温度分布や、海水の湧昇や沈降に関しては、ほぼノーマークでしょう。つまり、蝶は決して一匹ではなく、環境の中に無数に存在するということでしょう。従って、長期や超長期の気候予測に関しては、今後とも人間のカンピュータに頼らざるを得ないと「予測」しています。

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2016年3月19日 (土)

2955 一身二生

2954で書いた一身二生についてもう少し書き加えます。一生のうちで、最も単純な二つの生き方としては、転職も考えられるでしょう。しかし、一身二生という言葉を提示した人(諭吉だったと思いますが)は、江戸と明治と言う、いわばシステムや価値観の大きく異なった二つの時代を生きる中で、自分の中での価値観も大きく変えざるを得なかったでしょう。つまり、本当に意味での一身二生とは、やはり価値観の転換をも伴わなければならないとも思うのです。単なる転職では、単に生業(メシの種)を変えたに過ぎない訳で、後半を新たな人生だと胸を張って主張はしにくいでしょう。もっとも、技術屋人生を過ごした人が、商売人になって金儲けに走るのであれば、少しは価値観も異なってくるのかも知れませんが・・・。

投稿者の場合ですが、長い技術屋人生の後、50歳を少し過ぎたあたりで脱ぎ捨て、環境屋になって、第二の人生に入ったと振り返っています。技術屋とは、何らかの理論や技術(テクノロジー)を応用して、経済的に成立する製品を世の中に送り出す仕事なのですが、50歳の遅すぎた突然の気づきは、それが「持続可能ではない」という事実だったのでした。物質収支上もエネルギー収支上も両方とも、ここままでは破綻(ハードランディング)又は破局が避けられない事は、根っからの技術屋程度の経験や知識でも見通せてしまったのです。

第二の人生である「環境屋」になってした(出来た)ことは、まずは何は無くとも企業の省エネ指導でした。ついで、事業の環境負荷を下げる、いわゆる環境経営のコンサルや審査を行う資格を取りました。合間には、小中高に出かけて行っての、温暖化防止などの出前授業を引き受けました。その中で、自分なりのコンサル手法を工夫しながら、どうにか世の中の役に立ちそうな生業になっていった様な気がします。もちろん、収入はサラリーマン時代の1/5位に減りましたが、人はパン(メシ?)だけで生きるものではないし、生き甲斐は10倍くらいに大きくなったので、投稿者の一身二生のコスパは十分だと思っています。

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2016年3月18日 (金)

2954 専門バカ

誰の言葉だったか「一身二生」というものがあった様な気がします。江戸と明治の境目に生きた人々は、黙っていても2種類の違った社会システムの中で生きてきた事でしょう。投稿者の場合は、サラリーマン時代を早めに卒業し、その後恥じえた儲からない自営業(コンサルっぽい仕事)で人生を分けて現在に至っています。しかし、今振り返ってみると時代背景も20世紀から21世紀の間には、明らかに大きな時代変化があったと思うのです。その意味で、投稿者は偶然の様なものですが、それなりに「一身二生」を実現し、どうにか専門バカ(技術屋バカ)にならずに済んだような気がします。

このブログでも散々触れてきましたが、その時代変化というのは20世紀、とりわけ後半の50年のキチガイじみた成長神話の時代から、なだらかな高原(プラトー)に至り、現在はたぶん緩やかな下り坂に入った筈なのです。この国でも、この頃(世紀の変わり目)を境に人口減少局面に入ったのでした。

そういえば今回は専門バカの話でした。現在、この国を引っ張っている(つもりの)政治家やエコノミストは、いわば20世紀型の政治や経済の専門家ではあるでしょう。しかし、今後は彼らとしても低成長時代、あるいは右肩下がり時代の専門家への脱皮を果たさなければならないと思うのです。もし、それができないのであれば、彼らを「成長時代の専門バカ」と呼ぶしかないでしょう。右肩下がりの時代に、今更20世紀型の経済政策を振りかざす、現政権(とそのブレーン)は、もしこのまま突き進むのだすれば、近い将来の歴史家によって、20世紀型の専門家バカのソシリは免れ得ないと断言しておきます。判断基準は明確です。今の路線が「持続可能か否か」の一点しかないでしょう。資源も、財政も、国のシステムも全て、この基準に照らして「否」であれば、それはやがて破綻するしかないからです。残念ながら、現在のメジャーな政治家やエコノミストに、縮小局面に向けた理論を提示している人は、ホンの一握りしかいないのは歯痒い限りではあります。

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2016年3月17日 (木)

2953 トリクルダウンのウソ

この国のリーダーは、口を開けば「Aベノミクスの果実」なるものをお経の様に繰り返し、やがてそのトリクルダウンが、全国津々浦々に浸透すると説いています。しかし、断言しますがお国が何かの政策を打ち、財政を投じて景気を良くしたとして、それが国民の最下層までトリクルダウン効果で潤ったという時代は無かったと思うのです。確かに、高度成長期という幸福な時代があり、I田隼人は所得倍増を掲げ、それが実現されたことは事実です。

しかしそれは、単に戦後一貫して人口が増え、豊かさを求めた時代が大量のモノを要求し、作れば飛ぶように売れた時代背景が、経済規模を倍にしただけでしょう。加えて、朝鮮半島やインドシナ半島での戦争特需が、それを加速しただけなのです。何も、政府の政策が素晴らしく、経済の果実が有意に増えたのではなく、いわばベルトコンベアに乗って時代が流れた結果だったと言えるのです。

もし、現リーダーの言う事の半分が正しいとして、もし純粋な意味の経済の果実が結んだとしても、その果実は「途中の誰か」がおいしくイタダイテしまう事でしょう。それを業界と呼んで、その利益を誘導する政治屋を族議員と呼ぶのであれば、間違いなくこの国にはそうしたシステムが歴然と存在すると言えるでしょう。好景気の果実やジュースは、上から滴り落ちるのではなく、それを最も必要とする部分に、意識的に注入しない事には、ミニバブルを起こすAベノミクスの様な政策は、永久に失敗し続けるでしょう。景気は、底上げしない事には持ち上がらないのは、社会経験を積んだ多くの人達には、「体験」としてしっかり身に付いている筈なのです。

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2016年3月16日 (水)

2952 健康バカ

世を挙げて健康ブームの様です。実際に健康法を実行している人も多いのでしょう。例えば、ウォーキングです。ささやかながら、投稿者自身も実行しているのですが、その際追い越したり、すれ違ったりする人が、どの時間帯でもそれなりに見かける事でも分かります。この田舎でもそうですから、ウォーキング人口が数千万人いると言われても納得できる数字です。もちろん、全ての人にとって、健康に生きる事は理想ではあります。ついでに、正常に?寿命が尽きたころ、苦しまずにコロリとあの世に旅立つのも同様に理想でしょう。

しかし、考えてみなければならないのは、健康に生きて、ではその時間で「何を為すか」という大問題ではないかと思うのです。ただ健康に生きて、食って寝るだけでは、生きている甲斐もないでしょう。生きている甲斐=生甲斐こそ、健康をも上回る人生の最重要事だとも思っています。例えば、ガンに蝕まれた人が、医者にはある余命を宣告されながら、最後のライフワークを仕上げるために、それを数年超えて生き、それを仕上げてから亡くなった、といった事を側聞するにつけ、人間は健康だが無為に暮らすことの不幸を思わざるを得ないのです。生甲斐こそが、人を生かし続ける真の原動力なのです。

少なくとも、投稿者は健康に生きたいとは思っていますが、健康バカにだけはなるまいと決めています。この読み手も少ないブログを毎日書くことも生甲斐の一つでもありますが、それも日々考えたことを記し、もしかして何時か誰かの何かのヒントにでもなれば良い、程度のきっかけで始めたのでした。還暦をかなり過ぎて思うのは、故郷にUターンして、地元に何らかの産業のタネを残したいというこの頃です。とりあえずは、計画中の終の棲家に、北国に最適のバイオマス暖房・給湯システムを構想し、実現することを直近の目標にしています。健康に生きるのは、生きた結果少しでも誰かの役に立つためであり、ただ健康に生きて死ぬだけなら、別に長生きなど望まなくても良いだろうとさえ思ってしまうのです。

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2016年3月15日 (火)

2951 全体と部分

このタイトルでは、それこそ何度もなんども書いたような気がします。それほど、繰り返して考えるテーマでもあります。2948の続きとして、書くとすれば、点描の点は部分で、結果としてとして点の集まりが意味のある「絵」になっていれば、それが全体という事になります。もちろん、幼い子供が紙にペンででたらめに点を打っても、意味のある絵にはなりません。点が意味を為すのは、書き手がそれぞれの点と他の点の関連を考えながら打っていく時だけである事は間違いないでしょう。

つまり、部分が全体として意味を持つのは、他の部分と密接な(意味のある)関係を保っている時だけだと言い換えられるでしょう。もし、社会と一切関係を結ばない(結べない)個人が多数存在しても、決して「人間社会」は生じないでしょう。その様な集団は、単に生き物としての「ヒト」が個々に、あるいは群れて生きているだけの状態でしかありません。然るに、ヒトはコミュニケーションの動物であったがために「人間」になり、小さなコミュニティを作り、そして今ある様な複雑な社会や文化を築いてきたと考えるしかありません。

結局、ヒトはヒトと繋がらない限り、決して人間にはなれないと言う結論になりそうなのです。その意味で、仙人でもない限り人は「個」では生きていけないし、個が個である限りにおいては、全体としての社会も形成しようがないのです。それは、人間には常にコミュニケーションが求められ、それによって社会における、他者と自分の位置関係を、しばしばアジャストする必要性があるのだと思っています。つまりは、人間は他者との関係で、自分の役割や居場所が作れない限り、いわば社会からのハミ出し者に陥ってしまう訳です。近年の複雑な社会構造において、青年期までに自分の居場所が作れずに、自ら(殻に閉じこもる形で)ハミ出してしまう若者のなんと多いことでしょう。全ての国民に無理やり活躍させるための「一億相」など任命する必要はさらさらありませんが、一億人に居場所を作る役割の人は、たぶん多数必要でしょう。それらの人々は、体内におけるホルモン物質や、神経伝達物質の様な「有機的」コミュニケーションに熟達している必要はありそうです。

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2016年3月14日 (月)

2950 二重安全からフェイルセーフへ

何度目かの福島原発事故のNスぺを見ました。今回は、再現ドラマでしたが、どの様に撮影し、CGと組み合わせたのか、かなり迫真に迫っていた様に感じました。もちろん、実際の映像はこれまでに放送で放映された範囲内しか知りませんが。

この放送で、今回も感じたのは、何故すべてのシステムが「電気だけ」に頼りきっていたのかという、技術屋としての歯がゆい想いです。計装にしても、バルブの操作にしても全て電動なのです。バルブは、機側では手動で動かせる様にはなっていますが、事故が起こった場合には、高い放射線が作業者の近づくのを拒否するでしょう。これが、例えば空気圧や油圧など電気以外の別の動力でバックアップされていたなら、ここまでの過酷事故は防止できたことでしょう。真の二重安全とは、電気での操作を、非常用発電機でバックアップすることではないでしょう。電気が使えない事態でも、遠隔から空気や油圧で動かせなければならないはずなのです。

その意味で、安全と判断され、再起動を始めた各地の原発が、一体どの様な新基準で審査され、それに対応するためにどの様な改善工事をおこなったのか、気になるところです。想像するに、非常用発電機を増やしたり、高い場所に移設したりして、ベントを行っても、放射性物質をある程度漉してくれるフィルタリングベントや、各種の電線が火事で焼き切れるのを防ぐため耐熱電線に入れ替えるとかカバーをするなどの工事程度でしょう。もし、上に書いたような真の2重安全を目指すとなると、その対策に掛かるコストが、非常に大きくなる事が予想されるからです。それができないのは、全ての発電所が、お金を儲ける「経済装置」である限りにおいては、対策工事には自ずと限界があるからです。

必要最低限の二重安全対策も難しいのですが、もし今後とも原発を動かそうとするなら、狙うべき安全水準は、実はフェイルセーフだと思っています。つまり、もし大地震や大津波が原発を襲ったとして、その結果すべての動力が喪失したとしても、原発が自律的に冷温停止状態までに移行できるシステムが必要なのです。それは、動力が止まっても、制御棒が反応を止め、緊急冷却装置が働き、圧力容器の水位を保ち、炉内の圧力が上がった際には安全弁が自動的に開く必要があるのです。原発以外の全てのボイラには、安全弁を取り付ける法律上の「義務」があるのに、何故原発にはそれが無かったのかを考えれば、それは原発はたとえ少量でも、環境に放射能を含む蒸気を放出してはならないとされているからでしょう。だからこそ、最後の手段としてのベントはいくつかの手順を踏まないとできない構造になっているのだと想像しています。フェイルセーフ構造が実現できないのであれば、すなわち原発の再稼働はしてはならないでしょう。

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2016年3月13日 (日)

2949 街づくり

都市計画の専門家の話を聞く機会がありました。その時感じたのは、日本の都市の景観と、たとえばヨーロッパの同規模の都市を比べた時の、あまりにも大きな違いです。何処がと問われれば、ヨーロッパの、市庁舎や複数の教会を中心にして広がる、高さのある程度揃った中層ビルがゆったりとした道路や公園を配しながら広がる街並みと、一方では計画性の無い狭い道路の両側にチマチマとした23階建ての建物と、駅前に少しばかりの高層ビルやマンション群が広がるこの国の「雑然とした」街並みの大きな違いの事です。何故このように大きな違いが出るのか、長い間疑問に感じていました。

それを質問すると、講師の答えは、どうやら日本人は後者の街づくりが好きらしい、言われるのです。確かに、村や町は自然発生的に出来上がってきたのでしょうし、封建時代の城下町だって、まずは城の建設が始まって、人々が集まった結果、労働者や城の需要を支えるために、徐々に城下町が形成されていったのでしょう。しかし、依然として何故そうなのか、文化の違いなのか、理解できないでいます。もしかすると、ヒトは特に自然観の豊かな、この国の人は、整然とした矩形の計画都市が嫌いなのかも知れません。

というのも、今津波被災地で進んでいる、多額の税金を次ぎ込んで、大規模な土地のかさ上げ工事と、それに伴う「新しい」街づくりが、果たしてこの国の文化に馴染むものなのかどうか、確信が持てないのです。整然と区画整理され、中心に役場やションピングセンターなどを配した「計画的な」街づくりに、いったいどれほど多くの住民が納得して、住みたがるかどうかという問いへの回答が見えないのです。整然とした街路は、雑然とした街並みに比べて、人と人との距離を広げます。この国の文化とは、結局は狭い土地に人々が額を寄せ合って(群れて)暮らすというものではなかったのか、という想いは消えません。整然と計画された街並みに、ある種の「忌避感」あるいは「疎外感」が生まれるのは避けられないのでないかと憂えるのです。多額の税金を注ぎ込んだ結果として、ガラガラで人影の少ない街が出来ない様に祈るのみです。

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2016年3月12日 (土)

2948 3.11五年後

あの大震災が起こった時は岐阜の自宅にいましたが、2007年の8月からほぼ毎日書いていたブログを読みかえしても、震災や原発事故に関しては、殆ど言及していなかった様なのです。余りに甚大な震災や津波災害であり、追い打ちを掛けての原発事故の重大さに、実のところ思考が停止していたのではなかったかと振り返っています。繰り返し放映される津波映像、津波なのに流された石油タンクに引火して起こった火災、次々とヘリで吊り上げられる孤立した人たち、日を追って増える犠牲者の数、放射能に追い立てたてる様に、内陸へ内陸へと避難所を移らざるを得ない原発被災者の報道を見るたび、人間の力の無力さを感じていた様な気がします。

何より、元技術屋として、技術の粋を集めて作られた筈の原発の暴走に、誰もブレーキを掛ける事が出来ず、結局はメルトダウンや水素爆発を止める事が出来なかった、技術屋の無力さを見せつけられて、すっかり落ち込み、考え込んでいた様なのです。それにつけても、非常用の発電機が全く機能せず、原子炉の暴走のままに任せ、爆発後はひたすら外から水を掛けるだけしか出来なかった、あの状況の「情けなさ」は今でもココロのどこかに引っかかっています。

安全に関してもすっかり考え込んでいました。何より、原発というシステムは電気だけに頼って制御されていると言う事実を突きつけられて、全く信じられない想いをしたことを憶えています。何故、自分が持っている蒸気を使って冷却ポンプを動かすシステムが働かなかったのか、何故非常用発電機を、建物のてっぺんに置かずに地上に設置したのか、何故水に弱いモーターを、長い駆動軸を備えた上で、建物の高い場所に設置しなかったのか、全く理解が出来なかったのでした。

スペースが限られたタンカーの様な船舶でさえ、火災に備えて、電動ポンプ、蒸気駆動ポンプ、ディーゼルエンジン駆動ポンプと三重の消火システムを備えているのに、何故原発にはたった2台の非常用発電機しか準備していなかったのでした。これは、技術屋が経済論理に従った、史上で最も情けない事故だと頭を抱えてしまった事でした。さて、再稼働を始めた各地の原発が、どの程度安全性を高めたのか、何とか委員会で審査はしているとはいえ、その中身までは殆ど公開されていない様な気がします。震災で亡くなった方々、震災関連死された方々に合掌。

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2016年3月11日 (金)

2947 点描

最近、DNAや生物とは何かについて、本をまとめ読みしているのですが、その所為か何故か「点描」という言葉が頭に浮かんできました。点描とは、色の異なる大体大きさの揃った点で、絵を描く手法なのですが、身近なものではグラビアや新聞の写真などでも、実は点描である事は、少し倍率の高いルーペで観察すると、良く分かるでしょう。そう言えば、今ブログを打ち込んでいるパソコンのモニターも、画素(ドット)で文字や絵を表示しているシステムの一つでした。銀塩写真でさえ、印画紙で色を発色させる「画素」の集まりである事には変わりがありません。但し印画紙の画素は、ランダムに並んでいるので、モニター画面よりきめ細かく自然に見えるに過ぎません。

さて、何故点描かと問われれば、多分ドットと生物の最小単位である細胞のアナロジーに思い至ったからとの答えになるでしょうか。同じ生物の細胞には、たった一つの細胞から分化した事でも分かりますが、全て同じDNAが「仕込まれて」います。なのに、それぞれの細胞は役割分担に従って、脳細胞になったり、心臓や筋肉になったりする訳です。一方、点描も「ドット」それ自体は、一つの色と大きさを持った点に過ぎないのですが、それが集まると新たな色や、「地色」とのコントラストで、明暗も表す事も可能となります。ここでも、各点々は、それぞれの役割を果たしているのです。つまり、点描の要素点は全体を表すには必要なものなのですが、それ自体が全体という訳ではありません。

しかし、点描と生物は少し異なります。生物における細胞も、同じ細胞から出発して、ある役割を負う訳ですが、それは予めDNAに仕込まれているデータがタイムスイッチの様に働いて、その役割を発現させるのではなく、あくまで隣の細胞との情報交換(会話)によって、自ら役割を引き受けて必要とされる器官になっていく訳です。もちろん、そんな事を考えてしまうのは、この事の人間社会への敷衍です。ひとり一人の人間が細胞だとして、社会を構成するには、やはり役割分担が必要だと思うのです。ヒトが単細胞と異なるのは、ヒトは多くの役割を時分割で負うことが可能となる「可塑性」や「柔軟性」を備えていると言う点でしょうか。終わりそうもないので、次回も続けます。

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2016年3月10日 (木)

2946 技術事件

昨晩のスーパープレゼンを見てがっかりしました。このブログで、8年近くも書き続けて伝えたいと考えていた事を、なんとうら若きE.マッカーサーは、たった30分のプレゼンで機関銃の様な言葉で見事にしゃべってしまったからです。確かに彼女にはカリスマ性が感じられました。世界で最も有名なヨットウーマンが、間もなく世界で最も影響力のある経済学者になるのかも知れません。

それはさておき、2945の続きです。科学の成果を、実際に社会に還元するためには、そのための技術を開発しなければなりません。現代の社会では、学は産と協力して、官から助成金を受けて、社会の役に立つ成果を出すことを強く求められています。成果が十分に出なければ、翌年から学への助成金は絞られるでしょうし、産に対する助成金へも厳しい目が向けられるでしょう。しかし、これは明らかに基礎科学や文系の学問などと、社会(の経済活動)に影響力のある実学としての科学、化学、工学などとの混同があるでしょう。基礎科学や文系の学問で、毎年真っ当な(金勘定)の評価が出来るとも思われません。

まして、実学としても学問でも、毎年まいねんお金に換算できる成果を出すのは至難のワザでしょう。これは、明らかに「単年度予算の弊害」だと言うしかないでしょう。本来、研究などというものは、しっかりとした研究・開発のマイルストーンを掲げ、それをステップ毎にクリアしていく筋合いのものだからです。その中で初めに立てた予算も大きく変動するのかも知れません。それは、プラスとマイナスが打消し合うように、年度もまたがりながら細かく調整する必要があるのでしょう。何しろ、お国の財布には限度がある訳ですから。いずれにしても、単年度予算と、それについても厳しい会計監査が、多くの技術事件の引き金になっているのは間違いないでしょう。

ちなみに、ここで言う技術事件とは、データねつ造や改ざんによる、技術への過大評価の演出や誇大広告、あるいは実際の製品や建設工事などでの手抜き、などで、最近の例で言えばマンションの基礎杭事件や車の排気ガスデータ改ざん事件などが挙げられます。その他にも、大小の技術事件がニューズにならない日は少ない様な気がしています。

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2016年3月 9日 (水)

2945 科学事件

科学を用いて、より快適な社会を作ろうとする目論見は、それがどんなものであれ、これまでは是であり、正しいことと考える風潮がありました。しかし、毒にも薬にもならない?、知識のための知識としての科学(基礎科学)であればいざ知らず、科学の中には、例えば即兵器に使える様ないわゆる応用化学もあるでしょうし、安易な遺伝子改変など人間としての倫理にもとるものも多いと想像しています。

科学が、直接悪事に使われるのは、もちろん熱心に研究してその成果をモノにした研究者にとってみれば心外な話ではありますが、ではその研究者が悪用を予測して、予めそれを防ぐための手を打っていたか否かは、科学者倫理に照らして反省してみるべきでしょう。それ以前に、科学ではな科学(似非科学)が結構横行しているのも間違いないでしょう。いわゆる、データねつ造を隠して華々しく世に出た論文が、散々他の論文に引用されたあげく、結局はねつ造がバレて引っ込められるという事件のなんと多いことでしょう。医学や製剤に限ってみても枚挙に暇がないほどです。お隣のK国では、国民的な大学教授の論文データねつ造が、国全体を揺さぶったほどですし、この国でもSタップ騒動は記憶に新しいところでしょう。

その背景としては、たぶん大学の法人化(つまりは成果主義の導入です)があり、また各種の研究所の予算取りのために、研究者には定期的にそれなりのアウトプット(研究成果)が求められるプレッシャーがあるのでしょう。現代の様な時代において、研究者にとって有用な論文を何本モノにしたかが当面の悩みの全てなのです。それができない、できにくい研究者がついついアリもしないデータをねつ造したり、結論を出すのに都合のよいデータだけを使ったりして、成果をアピールしようとアガクのでしょう。

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2016年3月 7日 (月)

2944 技術の先走り

旅から戻って、投稿再開です。さて、科学・技術と言いならされる様に、科学とそれを利用する技術ととは、いわば表裏一体でした。「でした」と書いたのは、ある時期以降、実は技術が科学を追い越してしまったのではないか、と疑っているからです。そんな事があり得るのかと、疑問に思う向きもあるかもしれませんが、例を挙げるなら原発がその典型だと言っておきましょう。M.キュリー(夫妻)が命と引き換えに発見した放射性物質があって、それをエネルギーや兵器にも使える可能性を示したA.アインスタインらの科学者が居て、それを利用して原爆や軍艦のエネルギー源としての原子炉を形にした技術者が、その後の平和利用目的の原子力発電所へと進化を果たしたのでした。

しかし、技術は経済と相俟って、勢いを増して、核エネルギー利用の分野では科学を追い越してしまった様なのです。例えば、原発で燃やしてしまった?後の、使用済み核燃料の始末について、科学者が安全な処理方法を考え出す前に、この狭い国でさえ50基を超える原発が作られてしまったのでした。また、科学者が、環境に拡散された放射性物質を無害化する方法を考え出す前に、2か所の都市に原爆が投下され、戦後も各地で数千発もの大気圏内の原・水爆の爆発実験が行われてしまったのです。加えて、平和目的の原発でさえ、福一を含めて3か所で大きな放射能漏れ事故を起こしてしまったではありませんか。

放射能を無害化する方法や技術の開発は、まったく進んでいませんが、一方では使用済み燃料は、世界各地で日々膨大な量が蓄積し続けているのです。経済原理と結びついた、技術の先走り(暴走と言うべきでしょうか)ほど手に負えない悪魔は無いのかも知れません。その極端な例は、世界各地で頻発する紛争や戦争でしょう。ある特定の地域や国が、自分の支配するエリアを拡大するのが戦争の目的ですが、兵器は最新技術の塊でもあるからです。技術は、絶対に経済論理を振りかざして科学を追い越してはならないのです。それに加え、科学は「科学倫理」で規制されなくてはなりません。科学自身も、無限のフロンティアを求めて、野放図に拡大してはならないでしょう。例えば、宇宙下宿(宇宙ステーションの事です)や火星に人を送っても、そこに人類が移住できるはずもないでしょう。そんなことに多額のお金と優秀な人材を振り向けるくらいなら、この地上で為すべき事は数多あるはずです。何より、まずは福一で溶け落ちた核燃料を安全に取り出して、無害化する科学や技術を確立すべきでしょう。

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2016年3月 2日 (水)

2943 休稿

旅行不在のため、今日から数回休稿です。時間があれば旅先でも投稿しますが。

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2016年3月 1日 (火)

2942 全体と有機的結合

F岡伸一の著述が面白いのは、彼の視点が常に生き物全体であり、その有機的な結合を見守っているからだと思っています。いわゆる西洋医学は、細かく分かれた専門医制度により、ヒトの病を痛みを発する部位ごとのトラブルだと捉えて、対症療法という手法を取ります。部位(器官)がひどい炎症などのトラブルを起こせば、それをスパッと切り取ることさえ厭いません。かつては退化した器官と考えられ、痛み出せば簡単に切り取られていたあの盲腸でさえ、近年では免疫に関して重要な役割を負っていると言われています。残念ながら、投稿者の盲腸は、西洋医者に若いころ切り取られてしまいましたが・・・。

思えば、長い進化の歴史の中で、生物(DNA)が無駄なものを残した筈もないのです。もちろん、長い間の大きな環境変化で、役割を終えた部位や器官が、痕跡器官となっている例はあるのかもしれません。あまり良い例が思い浮かびませんが、尾てい骨などがそうかも知れません。DNAとは、つまりは設計図の束であり、それ自体が生物の全体を決定づけるものではありません。そうではなくて、個々の細胞が、隣接する細胞との情報交換によって、自分がどの器官になるべきかを「納得し」その結果、自分の中にあるDNA設計図の「必要な部分」だけを使って、必要な形質を得るために、必要なたんぱく質を合成し始めると言う次第なのです。

従って、どんな倍率の高い顕微鏡を用いて、細胞の隅々を探査しても、生物の本質は分からない筈なのです。ヒトのゲノムは、ついに100%特定され、DNAが特定のたんぱく質を作り出す事は、一部分解明はされているものの、圧倒的に大きな部分(たぶん9割以上)の役割は謎のままです。たとえ、それが殆ど解明されたとしても、2000種以上にも及ぶ形質の異なるたんぱく質と、それを合成して作られる、事実上無限の組み合わせ物質の役割まで解明できる筈もないのです。結局、人間の病は総合診療医の様に、人体を全体として把握しながら、病の源を発見し、ヒトの免疫力を使いながら、回復させるしかないのでしょう。西洋薬は、初期の炎症を鎮めて、免疫力を回復させるきっかけとしてのみ使うべきでしょう。実際、抗生物質の乱用は、後日より重篤な炎症を招くか、あるいは耐性菌を生み出すだけである事は、各地の病院で証明済みでしょう。

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