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2016年4月30日 (土)

2995 劣化、老化?

形あるものは、劣化し最後は風化して消えてなくなるのでしょう。もちろん、風化とは言っても物質が完全に消えてなくなる訳ではありません。モノの形が崩れてしまって、チリになってどこかへ吹き飛ばされてしまうだけです。これに対して、老化(エイジング)という状況変化もあるでしょう。こちらは、生き物の劣化に使われる言葉ですが、DNAに仕組まれたプログラムの様なものに従って、生き物は老化し、寿命が尽きて、やがて土(ではなくて、水と炭酸ガスと窒素とカルシウムなどのいくらかのミネラル)に分解されて、やがて別の生き物の材料になるのでしょう。

ところで、人間社会や文化にも劣化や老化があるのでしょうか。残念ながら、それは間違いなく「ある」と言わざるを得ないでしょう。今の文明が何千年と続いているのは間違いありませんが、かなりの程度劣化が進んでいるというしかありません。世界で信仰されている、いくつかの主要な宗教を考えてみてもそうでしょう。それを始めた開祖は確かに偉大だったのでしょう。何故なら、いまだに神として崇められ続けているからです。しかし、現在の司教様や坊様や宗教指導者が、開祖様を超越する事は今後とも無さそうです。というより間違いなく無いでしょう。何故なら開祖を超えるという事は、つまりは別の宗教を興すことと同じことになってしまうからです。

ところで政治はどうでしょうか。今の英国スタイルの議会制民主主義が、究極の政治スタイルなのでしょうか。それは間違いなく「否」でしょう。高々3割の支持しか集められない政党が6割以上の議席を占める事が、公平な1票を保証する選挙システムとはとても思えません。そうではなくて、全体の半分近くを占める無党派層と呼ばれるマジョリティの意見を吸い上げる仕組みを作る事こそが、不完全な議会制民主主義の一つのゴールでなければならないでしょう。しかし、それは一つのゴールに過ぎず、それ以前にもっと重要なゴールを見据えなければならないとも思うのです。それは、いみじくも今のリーダーが薄っぺらく唱える「1億何とか社会」に似ているともいえる社会です。簡単なキャッチフレーズにはしにくいのですが、「社会の全ての構成員が、それなりの役割を負っている社会」とでもいえるかも知れません。「1億何とか社会」と異なるのは、活躍の度合いの物差しが、稼ぐサラリー(お金)の多寡ではなく、社会の一員であることの「達成感や生甲斐の強さが」その指標であるという点です。それを確立できなければ、現在の政治の劣化は歯止めなく続くことになるかも知れません。

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2016年4月29日 (金)

2994 ソリューション売り

多くの企業(メーカー)は、モノを作って(あるいは加工して)それを売って生業としていますが、よくよく考えてみると、モノ売りで終わってしまっているケースが多いようなのです。しかし、モノを買う立場に自分の身を置いてみると、私たちは何もモノ自体が欲しい訳ではないことが分かります。例えば、食料です。私たちは、健康を保ち、エネルギーを得るために食品を口にします。土から掘り出したばかりの野菜は、それ自体が直接食料になる訳ではなく、洗って、皮を剥いて、あるいは刻んで、それを煮るなりして調理された後にやっと口に入る訳です。

メーカーが部品を売るのは、種から育てた泥だらけの野菜を売るのと同じようなものでしょう。部品自体が、何かの機能を発現している訳ではないからです。部品は、他の部品と組み合わされモーターや電子回路が組み付けられて、例えば「家電」になる訳です。しかし、ここでもなお、私たち消費者はその家電が欲しい訳ではないことは、確認しておくべきでしょう。ちなみに洗濯機であれば、私たちには、汚れてしまった衣服を、あまり手を掛けないでキレイにしたいというニーズがあるだけです。もし、衣服がキレイになるのであれば、何も現在の洗濯機の様に、洗濯槽やパルセータがモーターで回って、洗剤を入れた水と洗濯物が、強力な渦でかき混ぜられる構造でなくても構わないでしょう。もし、強力な洗剤が発明されて、漬け置きだけで真っ白にできて濯ぎもいらない様になれば、洗濯機は単なるバケツで代用できる訳で、精々脱水機が必要なだけでしょう。冷蔵庫だって、食品が傷むのを遅らせる役割を負わされているだけの「食品箱」であり、食品の腐敗を防ぐのに人体に全く無害な方法が見つかれば、ただの木かプラスチックの箱で代用できるでしょう。

何かの役に立つことを「機能を発現する」と言いますが、その機能を提供する事を、ソリューションと呼ぶならば、メーカーはソリューションを売るべきなのです。部品メーカーは、どこか別の価格が安いメーカーにすげ替えられる可能性がありますが、機能を提供するメーカーであれば、ニーズが消えない限りは、ソリューションは売れ続けるでしょう。私たちは、車が欲しいのではなく、雨に濡れずに時速数十キロで移動したいだけなのです。現在の様な車でも自動運転車でも、オンデマンドのバスでも、なんでも構わないのです。車を売る方が良いか、移動のソリューションを売る方が賢いか、私たちは立ち止まって考えてみるべき時代だと思うのです。

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2016年4月28日 (木)

2993 ドーピング(良い細菌?)

あまり響きの良い言葉ではありませんが、それは許されない薬物を使って、自分の能力以上の記録を出そうとするスポーツ選手が引きも切らないからでもあります。そもそもドープ(Dope)とは、物性の改良を目的として、少量の不純物を加えると言う程の意味なのですが、少量で劇的な変化が起こると言う事がポイントでもあります。一方で金属における合金は、かなりの量の「合金元素」を加えないと、物性の改善は期待できません。例えば、鉄の錆を防止するためには、ニッケルとクロムをそれぞれ、18%及び8%程度加えないと、錆びの防止(ステンレス性)は発現しません。

しかし、物性が元々中間的な、例えば半導体などでは半磁性体などでは、少量の希土類などの添加によって、性能が劇的に変化するものの様です。シリコン自体は不導体に近いのでしょうが、その中に、4価のシリコンとは異なる電価の物質、リンやセレンやホウ素などを加えると、正孔や遊離電子を持った、いわゆる半導体が生まれると言う訳です。永久磁石の性能を上げたいと考える場合でも、ネオジウムなどの希土類の添加によって、飛躍的に磁性が向上するのです。

ここで、ドーピングを持ち出したのは、ではこの事が人間社会にも有効なのではと、ふと思いついたからです。例えば、比較的均質なコミュニティや企業があったとします。均質という意味は、同じような能力や考え方を持った人たちによって構成されている意味においてです。そこに、一人か、少ない人数の異彩を放つか異才を持った人間が放り込まれたらどうなるのでしょうか。余りにも異質過ぎれば、浮き上がるか無視されて、殆ど変化は見られないでしょう。しかし、その人の周りの人間が影響を受けて感化され、それが次々に伝播する様な事態になれば、大きな変化が生まれる可能性はあります。そのためには、元々のコミュニティの構成員の「感受性」が高い状態にある事が求められます。そうでなければ、感化が起こらないからです。

ネガティブな例ですが、物事に喩えるならば、ある細菌に対する免疫の有無に似ているでしょうか。つまり、人々に免疫の無い細菌やウィルスはアッと言う間にコミュニティに拡散するのでしょうが、殆どの人が接種などで免疫を持って居る場合は、何も起こらないでしょう。つまり、感染性の高い「良い細菌」の様な人が、変化の少ないコミュニティを活性化できる人だと言えるでしょう。投稿者もそうなりたいとは思っていますが、残念ながらあまり若くないし、資本は無いし、社会的な立場も無い(フリーランス)状態なので、出来る範囲でボチボチ動き回っている状態です。

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2016年4月27日 (水)

2992 機能と環境

最近の気づきは、機能の定義は、それを取り巻く環境との兼ね合いで決まるものだという事です。当たり前の事ですが・・・。大きく構えて、例えば国の機能ですが、江戸期の様に、殆ど鎖国状態にあれば、国のマツリゴトは専ら内向きのご沙汰で事足りたことでしょう。鎖国というのは、被害が出る様なちょっかいを出されない限りにおいては、諸外国は存在しないのも同じだからです。

しかし、現代においては、国の存在は、諸外国との関連を抜きにしては考えられないでしょう。つまり、諸外国とは現代社会においては、国にとっての環境である訳です。しかし、国の環境と言っても外国との関係だけではないでしょう。いわゆる自然の環境もあれば、国内における外国人の存在という環境もあるでしょうし、今回の九州での地震の様に、火山や地震も国を取り巻く環境だと言えるでしょう。従って、お国の機能(マツリゴト)も、時々の環境変化によってモードを切り替えて対応する必要があるのでしょう。この期に及んでは、Aベノミクスだろうが、消費税だろうが、安全法制であろうが、目先の話に構っていられる状況ではないでしょう。

災害克服に対しては、それこそ国を挙げて、単なる旧ではなく、これまでより災害に強くする、補強的な復旧を果たすべきでしょう。そのためには、環境の変化に柔軟に対応することが必要になり、何より目先の課題の先に、より高いレベルのゴールを描いて置く必要があるでしょう。そうでなければ、目先の外乱に目を奪われ、環境の変化が読めなくなるからです。何やら、段々抽象的になってきましたが、災害復旧のテーマに戻れば、もし災害が起こっても、起こらずに平和裏に推移したとしても、将来目指すべき地域の「青写真」が描けている必要があるという事です。具体的に言えば、住と職と商と遊をどの様にゾーニングするか、あるいはどの様にミックスするのかと言った基本的な絵が描けていなければ、事が起こっても右往左往するだけに終わるでしょう。その時の成り行きで、津波被災地を嵩上げしたり、あるいは高台移転に走ったりして、施策が「ブレる」ことにも繋がるのです。さて、九州の地震災害の結末はどうなるのでしょうか。繰り返しますが、地震の多発も、この国の置かれた環境の一つに過ぎないのです。

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2016年4月26日 (火)

2991 哲学と倫理学

何故こんなややこしい表題になったのか、自分でも良く分かりません。さて哲学とは、狭い意味での学問ではなく、知を愛する態度、または行動ですから、倫理学をも抱合するものなのでしょう。難しい事はさておいて、というより難しい事が議論できるほど、勉強?している訳ではないので、浅学の身としての理解の範囲内で二つの言葉をかき分けてみる事にします。さて哲学です。哲学者と自称、あるいはそう呼ばれる人は、かなりの数に上ることでしょう。それこそ、名前だけ程度しか知りませんが、ソクラテスやその弟子のプラトンの時代から、たぶんその前から、人々は万物のあり様を知ることを欲し、深く考え、議論してきたのでしょう。中世や、近世になっても、特にヨーロッパはカントやデカルトを引くまでもなく、哲学者を多く生み出してきました。もちろん、東洋においても、中国などでは、それを哲学と呼ぶかどうかは別にして、深い思索が行われてきた事でしょう。

それで何が分かったかですが、結局「シンプルな言葉」で物事の本質を言い表す事は出来なかったと言うしかないでしょう。もし、「~は~である」、とシンプルに表現できるなら、私たちはこれほど混迷を深める事は無かったことでしょう。できるのであれば、「人間とは~である」、と断言してしまえば、宗教はこんなに枝分かれする事もなかったでしょうし、それが原因でこれほど終わりの争い事に悩む必要もなかったでしょう。結局、哲学も色々な「学派」を生み出しただけでしたし、それが学問の限界なのかも知れません。

ところで、倫理学をごくごく単純に説明を試みるなら、人と人の関係を考える学問だという事も出来るでしょう。この学問でも、哲学と同様、あるべき人間関係の説明に失敗してしまったというしかないでしょう。そうでなければ、前の戦争を終わらせるために核兵器の使用が是であったか否か、などというバカバカしい議論がいまだに行われることもなかった事でしょう。そもそも、どの様な兵器であれ、人々が大量に人を殺し合うなどという悪夢が繰り返される筈もないでしょう。結局、人類は、どの世界でも通用する哲学も作れなかったし、どの様な社会でも普遍的に通ずる倫理学を確立することも出来なかった、「落第生であった」と締めくくるしかなさそうなのです。投稿者なりにまとめるなら、哲学とは結局矛盾の学問であり、倫理学とは人間の複雑さを記述することに失敗した不完全な学問であると言うしかなさそうです。

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2016年4月25日 (月)

2990 何故⇔どうやって

学者の仕事は、多分物事の本質、何故(理論)を追求する事なのでしょう。そうではない学者もいるのでしょうが、一般的に言えばそうなるのでしょう。一方で、技術者の役割は、求められる機能をどうやって実現するかを考える事でしょう。残念ながら理論だけではメシが食えません。どんな良い理論であってもそれを具現化しなければ、役に立たない(お金が稼げない)のです。理論が解明されたとしても、多くは学者の自己満足に終わるのです。

もちろん、純粋理論やその学問が不要であると言っている訳ではありません。宇宙ステーションを作っての無重力実験も少しは必要でしょう。しかし、多額の国費を注ぎ込んで何時までもダラダラと続ける様な中身がある訳ではない事は、既に明らかになっています。宇宙「開発」は既にかなり前から行き詰まり状態なのです。素粒子の追及も多額の予算を食う研究です。長さが数十キロにもなる、円形や直線装置で粒子を加速する「加速機」や、宇宙からの粒子を検知するKミオカンデの様な装置は、実際上お金がいくらあっても足りない様な設備ではあります。しかし、究極の素粒子が見つかったとしても、それが人類の幸福につながるものであるか、と言われれば大きな疑問が残ります。理論物理学は、賢い学者の頭の中で考えを巡らすだけで十分でしょう。

さて、理論を形にしてお金が稼げるようにするためには、費用対効果(収支)の計算が、利益を出せる(プラスになる)結果につながる必要があります。いくら良い理論でも、コストがかかり過ぎれば、研究室の中から出る事は出来ないでしょう。今、世の中に流通している製品の多くは、たぶん費用対効果のチェックをクリアしている筈です。しかし、技術者は、「どうやって」形するかを日夜考えているのですが、時としてそれが何故必要だったのかをすっ飛ばしてしまう事も多いのです。小さなスペースに、考えられる限りの機能をギュウギュウに詰め込んだ製品を目にすることがありますが、かといってそれが消費者が求め、コスパも高いか言われれば疑問が残る製品も多いのです。私たちは、常に「何故」と「どうやって」のバランスを考えながら進まなければならないのでしょう。

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2016年4月24日 (日)

2989 見えているが見ていない

表題同様に、聞こえているが聴いていない、食べているが味わっていない、触っているが感じていない、香っているが匂わないなど、私たちはボンヤリ過ごしている時間が結構多い事に気が付きます。特に、視覚情報はあまりにも多過ぎるために、脳が処理しきれず、多くの情報は垂れ流しにするしかないのかも知れません。

とは言いながら、大切な情報を漏らすのは悲しいものです。そこで、大切となるのが「フィルター」だと思うのです。フィルターとは、必要なものを引っ掛け、要らないものを通す網の様なものでしょう。網のサイズを変えれば、大きな魚を捕らえて、幼魚は逃がすことも可能でしょう。同様に、感度の良い情報フィルターを備えていれば、雑音情報はパスして、必要な情報だけ引っ掛ける事も可能となります。問題は、どうやってフィルターを準備するかですが、やはり情報を集めたい方面の知識を集積するしかなさそうなのです。投稿者の場合は、ある時期以降は「環境人間」を目指しましたので、頑張って環境学を修める努力をしてきました。その中で、準備したフィルターは主に「持続可能性」という網を磨いてきたつもりなのです。

世の中で起こっていることを、漫然と眺めていれば、さもそれがコトの必然の様な気もしてきます。ましてや、それが自分の生まれる前から継続しているコトであればなおさらでしょう。しかし、持続可能でないことは、文字通り「続けられない」のです。有限である化石燃料を未来永劫利用し続ける事はできませんし、廃棄物処理の方法が見つかっていない核燃料を燃やし続けることもできない相談なのです。今私たちは、エネルギーとしては石油(ガス)と電力しか見ていないような気がします。水素エネルギーなども遡上されてはいますが、所詮それは化石燃料から炭素を抜き出したまがい物に過ぎません。化石エネルギーや電力しかエネルギーとしか認めていない人々にとって、例えば太陽熱やバイオマスや小規模なローカルエネルギーは、見えておらず、従って存在しないのも同じなのでしょう。化石エネルギーや原発や、火力発電などは、投稿者に取っては見たくもないし、持続可能性フィルターには絶対に引っ掛からない類の選択肢なのです。

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2016年4月23日 (土)

2988 サラリーマンというラッキー

投稿者は50歳過ぎに長年勤めたメーカーを早期に退職し、その後一時中小企業にも籍をおきながらゴソゴソ準備をして、計画通りに55歳の誕生日に晴れてフリーランスとなりました。フリーランスは、まさしくフリーで、自分の興味のおもむくままに何をしても良いのですが、何しろ全て自分で考えて歩を進めなければならないのですから、ある意味でシンドイ話です。楽をしようと思えば、何もしないでじっとしていても良いのですが、そうするとオマンマが食えません。

その意味で、決まった時間に出勤し、上司にハッパを掛けられながらも、何とか仕事をこなせば、給料がもらえて、大抵は年二回のボーナスもいただける、という待遇は、辞めてみて初めて結構良い暮らしだったなあ、とちょっぴり後悔したものでした。実は、サラリーマン時代のある時期(30代)に、価値観を少し入れ替えた事がありました。つまり、それまでは、与えられた仕事をこなし、その報酬としてサラリーを受け取る、というのが普通の考え方をしていましたが、それを「仕事をこなす中で、自分の知識やスキルを上げる事が出来た上に、給料までもらえる」という風にひっくり返したのです。

それは、午後からの会議に出るのに構内用の自転車が出払っていて、仕方なくトボトボと広い工場内を30分近くもかけて歩いていた時の気付きでした。なんと、自分はただ歩いているだけなのに、この時間も給料をもらっている。ならば、ただ歩くのではなく、汗をかくほどしっかり歩いて体力が付くようにした方が得だ、と思い直したのでした。それからは、移動に自転車を使うのを止めて、速歩で歩く事にしたのです。仕事だって、言われた通りにソツなくこなすのではなく、自分で積極的に関連する知識やスキルを増やしながら取り組んだ方が得というものでしょう。なぜなら、この国では働いた時間に応じて給料がもらえるからです。

仕事の中で自分のスキルを上げる工夫はいくつもできます。例えば、仕事上調べものをしなければならない時は、関連情報を調べてまとめて置きます。出張を命じられた時は、近くの別のサプライヤーも「ついで訪問」し、ちゃっかり工場見学をさせて貰って情報も仕入れます。仕事で失敗を出してしまった時は、原因を徹底的に分析し、自分なりの「べからず集」にまとめるのです。この方向で3年、5年経てば、同僚に対してかなりの差がつく事でしょう。別に望んだ訳ではなかったのですが、上司がしっかり見ていて大学卒でなかった投稿者を、異例の速さで昇進させてくれたのでした。最終的には、それが嫌だったことも理由で早期退職したのでしたが・・・。いずれにしても、サラリーマンにはいくつもの「Fringe benefits」があり、本当にラッキーな時代だったと振り返っています。

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2016年4月22日 (金)

2987 企業の闇

またゾロ企業の不正隠しです。データ処理の段階で、良いデータだけを採用して、悪いデータをゴミ箱に捨てると言う手口の様です。元技術屋として、今回の事件もまた非常に悲しい事件と言わざるを得ません。何故技術者は、技術者として勝負しなかったのでしょうか。燃費が目論見より5-10%悪かったのは、努力が足りなかったと何故考えなかったのか、残念でなりません。

経営者や販売部門からのプレッシャーが大きかったであろうことは部外者であっても容易に想像できます。開発の時間的リミットもあったでしょう。しかし、技術者として不完全なモノを市場に送り出すことほど、恥ずかしい事は考えられないでしょう。それは、技術の敗北だからです。もしエンジン改良だけで、燃費が稼げなかったのあれば、車体重量を少し減らし、車輪の転がり抵抗も減らし、空気抵抗を少し減らしつつ、燃料の気化をすこし改善し、排気触媒の抵抗もやや減らし、などと言った改善を積み重ねれば、もう少し、例えば5%くらいは目標に近づいた事でしょう。届かないのは努力が足りなかったのだ、という反省なしに、安易にデータを弄る事に走る体質は、企業の闇と言うしかなさそうです。それは、サラリーマンの「楽をして結果を出したい」という弱い心根から来るものだと思っています。

その闇故に、メーカーは排ガスデータを修正したり、リコールを届けたりするのを躊躇したりする技術者に限らず、経営者も、経営指標(利益率)を盛り上げたりあるいは赤字を隠したりするのでしょう。これは、まさしく企業に対する消費者の期待・信用の裏切り行為と呼ぶしかないでしょう。いわんや、その闇を社内告発でなく、社外からの指摘によって暴露されるなど、下手をすれば企業存続にもつながるスキャンダルだと言うしかありません。どこかの航空機メーカーの社是に「Practice makes perfect(継続は力なり)」というものがありますが、小さな不正であっても、企業の名声は地に落ちるでしょうし、その回復には長期間を要する筈です。リコール隠しで二度も地に落ちた名声を、データのメイキングごときで回復できると、この企業の誰かが考え、それを容認した上司が居たのであれば、残念ながら企業の存続は諦めざるを得ないかも知れません。技術者は、技術で勝負するしかないし、メーカー経営者の役割は、徒に現場にQCDの圧力を掛ける事ではなく、技術者の背中を押しながら、顧客の名声を上げる事しかないのです。

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2016年4月21日 (木)

2986 出入りの収支

この国の人たちは、一般的なレベルで言えば物知りなのでしょう。大学も入れれば十数年も学びの期間がありますし、社会に出て余り本を読まない人だって、ネットで調べものくらいするでしょうし、雑誌や新聞を読んだり、クイズ番組くらいはマメに見ているでしょう。しかし、知識を詰め込んだとしても、それを取り出さなければ、何も始まりません。どんなに大きな図書館を作ったとしても、その町から天才的な科学者や指導力のある政治家が輩出できる訳ではないでしょう。つまり、物知り=賢者ではないのです。

知識をインプットだとすれば、アウトプットは何と呼ぶべきでしょうか。ここでは、それを知恵とか工夫とか呼ぶことにしましょう。つまり、人々が何か困り事や問題を抱えた時、それをどうにか切り抜けるのが知恵というものでしょう。とは言いながら、知識を詰め込めば良い知恵が生まれとは限らないでしょう。知恵を絞りだす際に、特に役立つのは、投稿者の経験から言うなら、「良い経験」だと断言できます。取り分け「良い失敗経験」が理想的です。失敗から学ぶことの方が、成功体験から得るものより何倍も多いと思うのです。何故なら、人間の脳は、幾多のサバイバルのための苦難を乗り越えながら現在の様に進化した筈なのです。ヒトが、もしノホホンと生きてこれたとしたら、ナマケモノの様になっていたかも知れないのです。(ナマケモノさんには失礼なことを書きました・・・。)

さて、という訳で現代人、とりわけこの国の人たちは、かなりの程度知識のインプットが多く、アウトプットが非常に少ないという、バランスの悪さの中で暮らしている様なのです。何しろ、日々の暮らしの中で、本当に困った事などまず経験する機会は無いでしょう。その意味で、今九州で起こっている事は、かなりの程度人間の知恵を要求している「緊急事態」だと言えるでしょう。災害時の知恵は、しかしかなりの程度蓄積はしている筈です。最近の事例で言っても阪神淡路や3.11の震災・津波災害や新潟地震などの現場で得られた知恵は、すぐにでも九州で役に立つ筈なのです。東京で、何の不自由も無い暮らしを続けながら役所や政治家が出してくる支援アイデアなんぞには、あまり期待はできそうもありません。体験に基づいてはいない「知識」しか使っていないでしょうから。最大の支援は、過去の震災経験者が身に付けた知恵を携えて、現場でそれを伝える事でしょう。

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2016年4月20日 (水)

2985 予防原則(PP)

 

これは、環境悪化とその防止に関して、1970年代にドイツで使われ始めた言葉です。英語表現ではPrecoutionary principlePP)で、その日本語訳が「予防原則」ですが、もし環境の悪化が比較的容易に原状に戻せるのであれば、この原則はあまり重要ではありません。しかし、環境悪化が元に戻すことができない、つまり不可逆的に進むものなら、そしてそれが人々の暮らしを危機的に破壊するのであれば、この原則は極端なまでに厳格に遵守されなければならないでしょう。

 

例えば、Fクシマです。原発から放散された放射性物質は、それらを拾い集めて原子炉の中に戻す事は不可能です。また、原発事故の結果、周辺の地域は人が住めない環境になり、しかもそれは少なくとも数十年続く事になりました。除染とは、結局は放射性物質が付着した、植物や土を取り除いて、どこかに集めるしかない、消極的で果てしのない作業を指します。確かに数十年もすれば、半減期の短い物質の放射能レベルは下がるでしょうが、しかし厳密に言えば事故で放散された放射能は、何万年も「消える」ことはありません。それにつけても刻々と流れる九州の群発地震の報に接して、やはり稼働中の川内原発に想いは至ります。

 

放射能汚染こそ、この予防原則によって未然に防止されるべき環境汚染の代表だと言うしかないでしょう。しかも、厳格に当て嵌められるべき、典型的な対象なのです。予防保全の国であるドイツが、3.11事故を受けて、国内の原発の廃炉を加速したのは立派な「言行一致」です。然るにです、なんとこの国では、傍でもっと大きな揺れが来るかも知れない状況で、これまでの地震による加速度が、何とかガル以下であると言う、「たった一つの安全基準」を根拠に、原発を回し続けている状況なのです。これだって、誰かが実体サイズの原発を、実際に加振して作った基準ではない筈で、学者の推定値に過ぎないでしょう。熊本城の大きな被害でも分かる様に、数百年耐えてきた構造物でさえ、脆くも崩れるのです。私たちは、「形あるモノは何時か壊れる」という大原則の前にひれ伏すべきでしょう。ましてや、川内原発は稼働後既に30年以上経過した「ロートル」原発の代表です。古い原発の「実体での耐震試験」は、即中止すべきでしょう。それが、予防原則というものです。

 

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2016年4月19日 (火)

2984 タコ壺人間

本からの孫引きですが、M山眞男の「日本文化のタコ壺化」という表現をしていた、という下りにココロが停まりました。ここでは、それをこの国の大多数の国民の避けがたい性質あるいは行動と受け取って、表題はタコ壺人間としました。どこがタコ壺かと問われれば、どこもかしこも、というしかありません。政治家は政治家で、政党というタコ壺にはまって、その中(政局)でガヤガヤと騒ぐばかりでしょう、お役人はというと、役所のタコ壺の中から出て真向勝負することは退職金をもらう定年までは絶対しないでしょう。学者はと言えば、大学や自分が属する「学会」の専門分野の中から飛び出して、学際的に意見を戦わす事はないのでしょう。

投稿者は、長く技術屋としてサラリーマンをしていましたが、若い頃は造船屋、30代からは航空機屋として暮らしてきました。しかし、50代を少し超えたころ、突然「環境」に目覚め、環境屋への脱皮をココロざし、右往左往しながらもどうにかそれを果たして現在に至っています。その過程は、10年近くこのブログに書きなぐってきましたが、幸いな事に、結果としてはタコ壺人間になる事だけは避けられた様に振り返っています。

タコ壺化した人を、専門バカと呼ぶ人もいますが、人間一分野だけのスペシャリストとして長く暮らしていくと、どうしてもバランスの悪くなってしまうのは避けられないでしょう。何故なら、彼は物事や社会や事象を、タコ壺にあるたった一つの穴(視点)からしかみる事が出来ないため、一面的な(意固地な)ものの見方しかできなくなってしまうと思うからです。タコ壺人間は、確かに一つの物事は深く突き詰めたかも分かりませんが、逆に言えばたった一つの価値観で、全ての物事を括ってしまう、危険な人であるとも言えるでしょう。今この国のトップ(と本人は思っている)も、やはりタコ壺人間の誹りは避けられないような気がします。三本の矢だとか、一億総何とかだとか言うスローガンをかざして、結果として国民に前時代的な価値観を押し付けようとしている、気持ちの悪いタコにしか見えません。ソロソロそのタコ壺に堅く蓋をして閉じ込めたい、と思うのは投稿者だけではないでしょう。

あれれ、このブログでは、悪口や批判は書かない方針なのですが、今回は、つい個人批判を書いてしまいました。まだまだ人間が出来ていない様です。反省しきり。

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2016年4月18日 (月)

2983 インコビニエンスストア

大規模な被災地で必ず観察される現象は、コンビニやスーパーの生鮮食料品や菓子などの食料があっといいう間に売り切れになってしまう事でしょう。生鮮食料品は日持ちがしませんし、多種類の商品を見やすく並べるために1種類の商品数は数量が少ないためです。もちろん、バックヤードには在庫は殆どありません。問屋や市場から毎日配送が受けられるからです。つまり、コンビニやスーパーは、24時間単位でしか、商品の回転を考えていない、という事にもなります。

しかし、そうであるからこそ災害で配送が絶たれると、すぐに商品が底をついてしまうのです。つまり、食料や日用品のサプライチェーンにおける在庫が、極限まで削減されているのです。これは、モノづくりにおいても同様で、彼らは口を揃えて「在庫は悪だ」と声高に叫ぶのです。モノが、淀みなく流れている場合は、確かにそれでOKでしょう。しかし、例えば高速道路が事故などで封鎖されると、途端に物流はフン詰まりを起こしてしまうのです。

ここで提案する「インコビニエンスストア」には、缶詰とか乾物とか、日持ちのする商品しか置きません。缶詰は立派な保存食であり非常食ですが、乾物にも乾パンなどの様に非常食となるものも多く、塩蔵の乾物だってお湯で戻したり、煮たりすれば当面の避難生活を支えてくれる筈です。店の裏には、十分な大きさの倉庫や蔵があって、そこにはたっぷりの在庫がうなっているのです。確かに、儲けは薄いでしょうが、リスクはそれほど大きくはありません。地域の人がボチボチと買いに来るでしょうし、たぶん災害時には少し高めの値段設定でも飛ぶように売れる事でしょう。何より、各家庭にもこの種の日持ちのする食料や再開時に役立つ日用品の在庫が必要である事は、大きな災害のたびに指摘されている訳ですから、それを時々棚卸をして売って行くのですから、結果としてインコビニエンスストアの商品も徐々にですが吐けていく筈です。在庫は、日頃から少しずつ積み増して行けば良いでしょう。

しかし、ここまで書いてきて、なんの事はなく、なんだインコンビニエンスストアとは、昔の「乾物屋」か田舎の「万屋」と同じことだと気づきました。乾物屋や万屋は、都市はもちろんの事、町や村には絶対不可欠な存在だったという事でしょう。それらを吹き飛ばして、消滅させてしまったのは、やはりひたすら便利さだけを追求してきた私たち消費者自身とそれに乗っかった大手の物流企業の罪だ、と断ずるしかありません。

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2016年4月17日 (日)

2982 生業を作る

2980の続きかもしれません。お国も自治体も、口を開けば、地方活性化(創生)や人口減少の歯止め、あるいは雇用の創出などと声高に叫びます。しかし、スローガンが抽象的な言葉で終わっている限りにおいては、本当にやる気があるとは思えません。それは、景気を良くして税収を上げる、と言っているのと本質的な違いはないからです。景気なんかは良くなくとも、働ける人にはそれなりの仕事があって、日々笑顔で暮らせれば、それはそれで理想的な社会ではある訳です。

仕事=雇用と考えるのは、いわゆる「経済学」を一通りお勉強した政治家や役人の思い込みに過ぎません。もし、無理やり雇用と言う言葉を使いたいのなら、自分一人だけのSelf employment(自営業)も雇用に入れて考えなければならないでしょう。というのも、投稿者自身もフリーランスという呼び方の自営業であり、何とか暮らしを維持しているからで、お金はありませんが、誰かの役に立っていると言う自負はあり、生き甲斐も感じて暮らしています。ここでの提案は、雇用と言う言葉使いを止めて、生業(なりわい)と呼ぶ事にしようというものです。生業をもっと分かり易く言うならば、暮らしを立てていくためのスモールビジネス(小商い)と呼ぶ事も出来るでしょう。小商いとは言っても、何も食べ物や物売りだけを指すのではありません。売り物は、アイデアであっても、肉体労働であっても、各種のサービスであっても何でも良い訳です。

投稿者の子供時代(もう5-60年前になります=トホホ)を振り返ってみると、各町内には色々な生業がありました。例えば、鋳掛屋さんです。少しの道具でブリキ板を器用に曲げてロー付し、ジョロやバケツや薪ストーブや煙突を作ります。例えば、桶屋さんがありました。板を丸みをつけて削って隙間の無い樽を作り、タガできつく締め上げます。そのワザの素晴らしさに、私たち子供は飽きずに見入ったものでした。また例えば、町内にはうどん屋があり、製氷所があり、老舗の酒屋や味噌・醤油屋さんも二軒もありました。コメや野菜は近郷の農家が毎日市場に運び、近くの漁港からは季節ごとの海産物も市場に並びました。これで、この地域の

然るにです、今は頑張れば地元でも作れる日用品を全て県外のメーカー、ではなくで国外のメーカーで作らせ、自給率200%の食料でさえ、県外メーカーで「加工」されたものだけがスーパーに並ぶ時代です。日々の暮らしを支える生業を消しておいて、企業誘致や海外観光客の誘導、いわんや老人産業だけで雇用を増やそうなどと、「安易に」考える、頭の中身が信じられません。何回か続きます。

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2016年4月16日 (土)

2981 地震列島

今回の地震は、「想定外」の場所で発生した様です。というのも、この地域は地震発生のリスク係数が小さいとされていたからです。これまでの想定は、例えば南海トラフの様に、大陸プレートと海洋プレートの擦れ合う海域に次回の巨大地震が起こると考えられていたからでしょう。当然、海洋性の地震には大きな津波も伴います。しかし、その頻度は非常に低く、インターバルとして考えならば、数百年単位で何世代あるいは数十世代もまたいで発生する様なものでしょう。3.11地震だって同じ規模のものは平安時代の貞観地震まで遡らなければならない程です。

しかし、断層が動く直下型の地震はそうではありません。もちろん、規模(長さ)も大きく、ズレる頻度も高い、北米のサンアンドレアス断層の様な例外はありますが、この国の断層は長さも短く、しかし数が多い、いわば岩盤に生じた多くの割れ目の様なものが殆どでしょう。とは言いながら、全体としては今回の地震の様に、断層が中央構造線の一部を為している様に、断続しながらも何らかの関連を持ちながら、時には連動して動いたりもする訳です。実際、今回の地震でも震源は断層(構造線)に沿って、移動しながら伸びて行って様に見えます。

もう一つ忘れてはならないのは、火山との関連です。この国の山は、褶曲によって出来たものと火山によって出来たものに大別されます。何とか山脈と言った山塊は褶曲を受けて出来たものが多いのでしょうが、一方でその中に点々と火山で出来た山も混じっているのです。言えそうなのは、主な火山は、多分深い(大きな)断層に沿って出来た様なのです。深い断層は、地中深くのマグマと繋がり易いからでしょう。断層(構造線は)本来真っ直ぐに伸びているものなのでしょうが、この国の場合事情が複雑で、大陸プレートに対し3つの海洋プレートがぶつかっているため、伊豆半島が乗っかているプレートによって、中央構造線が一度北にへし折られ、更に関東平野に戻ってくる形となっています。構造線に沿って眺めれば、阿蘇を含む九州の火山群があり、四国と紀伊半島は飛ばして、更に伊那谷(南アルプス)経由で浅間山などの甲州から北関東の火山群まで関連しているのです。

と言うより、日本列島はプレート活動による褶曲や潜り込む際にプレートが運んできて置いて行った「付加体」によって成り立っており、同時に活発な火山活動により、付加体の上に火山からの噴出物が積み重なって出来た島(国)だ、とすら極言できるでしょう。今回の様な直下型の地震が、ビッシリと建物やビルが並び高度に都市化した関東平野を襲ったら、と考えると鳥肌が立つのを禁じ得ません。

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2016年4月15日 (金)

2980 大と中小の狭間

この国には、いわゆるT証に上場している様な大企業と、その系列の中小企業と、それと系列からは離れている独立系の企業があるのでしょう。しかしながら、限れられた範囲ではありますが、サラリーマン時代やフリーランスになってから垣間見た、北米やヨーロッパの企業に比べると、この国における中小企業のパワー不足を感じない訳にはいきません。ここでは、それが何処から来るのかを考えてみる事にしましょう。

企業の、とりわけメーカーの売り物は、言わずもがなですが、「製品」です。大企業は、いわゆる大きなプラントや大量生産品などの最終製品を売りさばきます。中小企業の役割は、大企業やいわゆるTier1と呼ばれる一次下請け向けに部品を供給したり、あるいは部品製造用の生産設備などを供給したりする黒子の役割を引き受けています。サプライチェーンのピラミッド(系列)がしっかり築かれていて、中小企業の操業は、常に親企業の生産計画に従うしかありません。場合によっては設備すら、親企業から貸与され、製造だけを引き受けたりする例も多いのでしょう。このサプライチェーンには、確かに大きなリスクは生じないのでしょうが、景気が下向くとそのシワ寄せは、中小の下請け企業に押し付けられることになりがちです。しかも、この国の下請け企業は、図面も親会社から支給されるので、類似の部品を他社に供給することすらできません。多くの場合、出荷する「部品」も素材を加工しっ放しの「半製品」だったりするのです。

一方、欧米の中小企業には一味異なるケースが多く見受けられます。例えば、投稿者が直接見聞きした航空機産業の範囲でも、欧米の中小企業はいわゆる下請けではなく、一人前の「ベンダー」あるいは「サプライヤ」の看板を上げているのです。然るべき、大企業の卒業者を品質管理部長などに迎え、自社で材料を問屋から仕入れて加工、熱処理や表面処理やペイントも近くの独立のプロセス屋を使って行い、自社のロットナンバーを付して、完成した製品として出荷しているのです。

また別種類の産業でも、欧米企業の例では、ありふれた規模の鉄工所が、量産品のトラクターを買ってきて、自社開発のアタッチメントを追加し、立派な農業機械や林業機械に改造した上で、自社ブランドの製品として販売しているなども普通の光景なのです。つまり、企業の価値は「自社製品を、自社のブランドで売ってなんぼ」と考えている様なのです。常に親会社の顔色を窺う事にパワーを費やすこの国の中小企業とは、「自立性(自律性)」という点で雲泥の差があると思うのです。続きます。

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2016年4月14日 (木)

2979 ポケットコンピュータ

ふた昔前にポケットコンピュータと言えば、プログラムが可能な電卓に毛の生えた様なものを指しましたが、現代のポケコンは、Rズベリーパイなどの様な機能の広いものに進化し、その応用範囲の広さに注目しています。掌に乗る程の大きさでありながら、CPUがあり、各種のインターフェイスを備えていて、無償のOSを入れれば、パソコンやサーバーとしても使える優れものです。しかも、価格は本体だけなら数千円と低く設定されています。同様のもので、もう少し機能を絞ったIチゴジャムでも、BASICが動き、少し知識があれば、種々の電子オモチャやロボットもどきが作れます。

もちろん、オモチャだけでは「勿体ない」機能も持っているので、いわばユニバーサルなマイコンという位置づけで、各種の計測やコントロール装置としての応用も広がると思うのです。現在主流の電子コントローラは、ROMにシーケンスを焼き込んで、決まった入力に対しては決まった制御しかできませんが、ポケットコンピュータを利用すれば、もっと柔軟な制御も可能となるでしょう。結果を確認しながら、リアルタイムでプログラムを書き換える事も容易である点、ROMより使い道が広くなるメリットでもあります。

さて、今六十の手習いで、まずは本を買い込み勉強中で、とりあえずは最初の1セットを入手しようとしています。本体のセットとは別に、各種のセンサーのセットも仕入れる予定なので、これを使って、まもなく着工する自宅の環境モニターを作るつもりです。つまり、何か所かの温度や湿度や風速などのデータをモニターし表示する様なシステムです。予算は、モニターも入れて2万円ほどを見込んでいます。最終的には、このデータを使って、同じく計画中の暖房システムのコントロールも行わせる予定です。根っからの「機械屋」であり、初心者向けのテキストと四苦八苦しながらも楽しみ取り組んでいます。この程度の金額で、より高度な制御が可能となるのであれば、例えば、市販のペレットストーブなどの製品にも組み込みが可能となるため、より高度な燃焼の制御などにも安価に手が届く様になると期待されます。

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2016年4月13日 (水)

2978 今更宇宙開発?

SペースXが海上基地への着陸に成功した様です。さて、これがオメデタイ事なのかどうかですが、投稿者の見方としては、実のところ悲しむべきだと言わざるを得ません。宇宙往還機としては、かつてはスペースシャトルがありました。1980年代初頭に初飛行し、2011年まで使われたこの機体は、実は結構危ない乗り物でもありました。燃料の塊であるロケットにしがみつく様にくっつけられた「非対称」の飛翔体は、見るからに不格好で安定性に欠ける様にも見えます。着陸に当たっても、小さな翼だけを使って滑空だけで地面に降りるには、侵入速度もかなり大きくしなければならない筈です。パラシュートを使った華々しい着陸シーンは印象に残っている事でしょう。それだけハードランニングなどの事故の危険性も増すわけです。実際、5機作られたシャトルの内2機が事故で失われてもいます。

さて、今度の往還機ですが、使い捨てにしないためには、以前の主ロケットの本体よりは頑丈に作られているはずです。ただし、大気圏への再突入時は逆噴射で速度を落とすために、耐熱性にはそれほど気を遣う必要はないでしょう。という事は、往還用の燃料も含めて、ペイロードに比べて機体重量そのものやに全体に占める燃料の割合は結構多き目にならざるを得ません。ペイロードが小さいと言う事は、同じ目方の人や物資を宇宙に空間に送るには、何度も往復せざるを得ないでしょう。それが、ロシアの独占状態の「宇宙タクシー」のバカ高い運賃と競合し、ビジネスにつながると目論んだのでしょう。

しかし、何を今更宇宙開発なのか、という素朴な疑問も禁じ得ません。宇宙空間の利用は、既に観測や通信に目的が限られ、無重力空間での各種実験など既に「ネタが尽きた」と断ずるしかありません。通信や観測だけなら、無人の衛星で事足りる訳で、何も危険を冒してまで人間を宇宙空間に送り、「宇宙アパート」を経営する必要などさらさら無いでしょう。更に言えば観測や通信だけなら、20㎞ほどの高高度に上げた気球(SPF)でも十分間に合うでしょう。新たな往還機の開発費用や宇宙に人を滞在させるための天文学的な金額の予算を想像するたび、大いなる浪費に暗い気持ちを禁じ得ません。その資源や予算や人材を、山積する別の人類共通の課題に振り向けたら、などと、この手のニュースに接するたびにため息が出ます。

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2016年4月12日 (火)

2977 ミドリムシ

ミドリムシが地球を救う、のだそうです。ミドリムシは、細胞内に葉緑素を抱え込んだ動物プランクトンとも呼ぶべきであり、多種類の栄養素を含む有益な食品ともなり得ます。通常の植物食に比べ、食糧として体内に取り込んだ場合、2倍くらいの率で吸収されるため、乾燥重量で考えれば現在の半分の食事量でも同じ量の栄養が摂取できるとも言えそうです。ミドリムシは、植物プランクトンを餌とする一方、自分でも体内の葉緑素を使って光合成をおこなって、必要な栄養素を作り蓄える事が出来るため、増殖効率も高いのです。また、他のプランクトンが生きていけない「高炭酸ガス濃度」の環境下でも問題なく、というよりむしろ効率よく増殖できるため、問題となっているCO2の吸収源としても有望だというのです。実際に、ミドリムシを何億匹だか入れた飲料や、練り込んだクッキーなども市場に投入されてもいます。

ミドリムシはまた、ヒトの栄養源としての各種ミネラルやアミノ酸を作る一方、油脂(エステル)を効率よく作り出す性質も注目されているのです。これは燃料としても十分な特性を備えているので、石油に代わる液体燃料の製造手段としても注目される様になったのです。実際に、ミドリムシから作った液体燃料を、航空燃料に少量混ぜて、なんちゃってバイオ燃料(を謳う)プロジェクトも進んでいる様です。

しかし、考えてみなければならないのは、十分に食糧生産が可能な農地を耕作放棄地にしたり、あるいはソーラー発電所に転用したりする愚行です。ミドリムシといえども結局は、太陽光が十分無いと培養が出来ませんから、結局は良く陽がある土地が大量に必要となる訳です。ミドリムシ燃料をたった5%混ぜた航空燃料を作るくらいなら、機体やエンジンを更に改良して燃費を5%向上させたり、あるいは飛ばす距離を5%減らしたりすれば済む話でしょう。ミドリムシの培養で食糧を増産したり、バイオ燃料を得たりするために、犠牲となる農地やバイオ燃料を入れても変わらず航空機から排出されるCO2NOxについて想いを馳せる必要があるでしょう。ミドリムシだって、結局は太陽の恵みに過ぎないのです。

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2016年4月11日 (月)

2976 フェイズアップ(ダウン)?

2975の続きです。フェイズが変わる場合、常に良い方に変わる訳でもないでしょう。ここでは勝手な造語ですが、仮に良い方に相変化することをフェイズアップと呼ぶこととして、逆に悪い方に後退することをフェイズダウンと呼ぶことにしましょう。別の言葉で言えば、前者は進化であり、後者は退化=劣化と呼ぶこともできるでしょう。

さて、今の文明をフェイズとして眺めてみた場合、一般的に見れば科学・技術や工業が高度に発達した産業革命以降、20世紀後半にかけては、かつての大阪万博のキャッチコピーではないですが、「人類の進歩と調和」と言われた様に、フェイズアップ=進歩が達成できた様な気がします。取り分け、電気を起こし、それを利用するようになったT.エジソン以降の電気時代、石炭から石油さらに原子力と言ったエネルギー革命、さらにエレクトロニクスと呼ばれる電子技術が、このフェイズアップを加速したのは間違いないでしょう。

然るにです、その後の混迷の時代が何処からモタラサレたのかを考えてみた場合、どう考えても、いわゆる「経済」が犯人の様な気がしてならないのです。科学・技術時代は、どうやら経済・エネルギー偏重時代にフェイズダウンした様なのです。ダウンかも知れないと思うのは、その相変化が、必ずしも人々(や地球環境)をハッピィにしたとはとても思えないからです。科学・技術は確かに人々に利便と幸福感を運んできたかも知れませんが、しかし経済の偏重は、人々や国の間に経済的格差を生み出し、エネルギーの偏重は、それを持つ国々と、持たざる国々に力関係の不均衡や緊張を生み出したのは間違いないでしょう。

格差を広げ、緊張を増幅するような文明の相変化を、やはりフェイズアップと呼ぶことは相応しくないでしょう。このブログで、私たちは、かなりの確率で、文明のフェイズダウンを目撃している可能性が高い、と警鐘を鳴らし続けています。もちろん、浅学である投稿者が、読み手も少ない、このブログで警鐘を鳴らしたところで、世の中には何のインパクトもありませんが、それでもこのままでは行き詰まる、と考えている賢者(と呼ばれる人)は多数存在する筈です。どれほど文明のフェイズについて深慮できるか自信はありませんが、引き続きこのブログでもこのテーマを考えてみる事に致します。

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2016年4月10日 (日)

2975 モードとフェイズ

小旅行から帰ったので、投稿再開です。このブログは、「環境ブログ」として06年に始めましたが、既に丸10年近くになろうとしていて、最近はすっかり「随筆ブログ」になってしまった様な感があります。それはさておき、表題ですが、似た様な言葉でありながら、この二つは投稿者の定義では全く異なります。人や企業や国のあり様を考える場合、殆どの場合はこの二つの言葉で表す事が出来ると思っていますが、用い方に違いがあるのです。

人の行動に例を取って考えてみましょう。先ずモード(Mode)ですが、これはその時々の周囲の状況に合わせて、行動を切り替える際に使う言葉ですが、大きくは「戦いモード」、「耐えモード」と「逃げモード」に分ける事が出来そうです。人は、必要な時は耐えますが、負ける事が明らかな場合には逃げます。しかし、殆どの時間は耐えて暮らしているのです。サラリーマンは退屈なルーティンワークに耐え、商売の現場では顧客のクレームに耐え、政治家は退屈な国会問答に耐えて生きている訳です。しかし、堪忍袋の緒がキレた場合には怒って戦い、政治家も自分の弱みを握られた場合には、病院に逃げ込むのでしょう。

さてフェイズ(Phase)です。フェイズは、時間と共に変り後戻りの無い「相」という程の意味になるでしょう。人で言えば、幼児は子供の相になり、やがて大人の相に、徐々に老人の相になり、やがては「死の相」になって人の一生を終えます。もちろん、大人のココロや体の相が、子供に戻る事は「普通では」考えられませんので、フェイズの後戻りは起こり得ない事になります。しかし、国や社会システムの場合は微妙です。というのも、もし国や社会にも、人や動物と同じように一生という大きなフエイズの流れがあると仮定すれば、話は簡単でしょう。今国が、果たして人の一生に喩えれば一体何歳くらいに相当するのか、と言った当て嵌めが可能だからです。ですから、今の日本の様に、政治家が口を開けば、景気の善し悪しや、国際間の安全保障などしか語らないのは、果たして「大人げない」のか、あるいは最早「老成した」末期症状なのか、についても議論が可能でしょう。しかし、残念ながら現代文明の将来に関しては、明確なロールモデルが無さそうなのです。つまり、人々は今後どの方向を目指し、その様なフェイズを踏むべきか、長い迷いの時期に入っている様なのです。政治家(屋)も結局は、目先の戦術としてのモード(選挙戦)しか頭の中には描けないのです。偉い宗教者や学者か他の誰かが、そのフェイズの方向を指し示してくれるまで、カオス(混迷)の時代は続くのでしょう。

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2016年4月 7日 (木)

2974 休稿

今日は、鼻炎による酷い鼻づまりのせいか言葉が降って来ませんので休稿で、加えて小旅行のためさらに数日間休稿です。世の中には何の影響もありませんが・・・。

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2016年4月 6日 (水)

2973 サイバネティクス

これも古い言葉になりました。もちろん、サイボーグやサイバー空間などの言葉の中に「破片」は残ってはいますが・・・。投稿者がまだ若い頃、表題は、これからの時代を引っ張っていくだろう魔法の言葉の様に思えたものです。これはN.ウィナーによって提唱された、機械と生物の統一を示唆する、当時(戦後)の新語であり、その後のサイボーグやサイバー犯罪などの語源となった言葉でもあります。漫画のサイボーグ009やハリウッド映画、例えば「ブレードランナー」や「ターミネータ」を引き合いに出すまでもなく、人造人間や体の一部を機械で置き換えた結果、能力を飛躍的に高めた主人公たちが活躍する物語は、ワクワクもしますが、一方では果たしてそれが「本人たち」幸福につながるのかどうかについても、考えさせられもします。

さてサイバネティクスです。もちろん、これを提唱したウィナー自身が、具体的にサイボーグをイメージしたりした訳ではないでしょう。彼は、通信工学と制御工学を融合し、生理学、機械工学、システム工学を統一的に扱うことを意図した「学際的」な学問としてこれを提唱したはずです。つまりは、どちらかと言えば生き物をデカルト的に捉え、制御工学的な側面から捉えようとしていたような気がするのです。もちろん、彼の著作を何冊も読破したわけではないので、浅学の想像に過ぎませんが・・・。

しかしながら、世の中の出来事を全て学問や工学で捉えて、分析や予測ができると考えるのは、やはり間違いなのではないかとも、最近しみじみ思うのです。例えば、経済学という学問があり、例えば金融工学なる技術論も存在するようですが、それを扱うのがヒトである限りにおいては、やはり経済だって生き物としての側面が消える事は無い筈なのです。つまり、現実の社会は、ああすれば、こうなるという「因果関係」が成り立つ場合と、そうでない場合が混在するという「複雑系」にならざるを得ないのでしょう。でないと、生きていく面白味も何もないでしょうし・・・。

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2016年4月 5日 (火)

2972 更新=Renovation

R単細胞生物は、分裂を繰り返し、栄養分がある限り増殖を続けます。なので観察者にとっては、見かけ上は、単細胞生物には寿命が無い様にも見えてしまいます。分裂というのは、DNAが二つに分かれてコピーを複製し、新たな核となって別の細胞に分かれるのですが、どちらが元の細胞=本家で、どちらが分かれた分家であるかは特定できません。とは言いながら、複製されたDNAの片割れや、増えた分の細胞膜やその他のミトコンドリアなどの「内臓物セット」は新たに作られた(合成された)訳であり、いわば細胞の更新が起こったと言えるでしょう。

全ての生物にとって更新は、生き残りをかけた人生?最大のイベントと言えるでしょう。一年生の植物でも、樹木の様な植物でも、全体的(あるいは部分的)死と更新を繰り返します。ヒトを含む動物も当然のことながら例外たり得ません。全ての命は、それが生まれた瞬間から「更新のための死」への絶え間ない行進が始まるのです。

さて、人間の社会や文明と言った「組織」はどうなんでしょうか。やはり寿命というものがあって、更新されるものなのでしょうか。歴史はYesだと言っている様にも見えます。いくつかの古代文明は確かに繁栄し、そして遺跡だけを残して消え去りました。もちろん、そこに暮らしていた人々は離散しながらもどうにか生き残り、別の場所で命を繋いできた事でしょう。しかし、いずれにしてもその文明のシステムとしては、存続できなかったのであり、新たな文明は、新たなシステムを編み出すしかなかった筈です。ところで、今の文明、取り分け産業革命以降の近代文明の寿命は何処まで持つのでしょうか。それが持続可能ではない事は、COPの報告を待つまでもなく自明ですが、いずれにしても時間の問題でしょう。どうやら、私たちは現文明の更新が必要な時代に差し掛かっている様なのです。つまり、モノやカネに固執し、それを多量のエネルギー消費によって支える、という今の文明の見直しです。もちろん、それを見直したからと言って、今の文明が乗り越えられない壁に突き当たるまでの時間を、例えば100年から200年に延ばす事が出来るだけかも知れませんが、しかしやらないよりはマシでしょう。何かに駆り立てられる様に進歩を重ねずに入られない現代社会がありしかしそれに漠然たる不安を感じずにはいられない人々が居て、さて何をどう更新(Renovate)できるかが問われている時代でもあります。

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2016年4月 4日 (月)

2971 不可逆変化

水が山から海に流下し、熱が高い方から低い方に流れ、エネルギーを加えない限り決して逆には流れない様に、この世で観察される全て?の現象は不可逆だと言えるでしょう。少なくとも、私たちが日々の暮らしの中で体験し、目にすることができる現象には例外は無さそうです。熱力学の分野では、これはエントロピー増大則として知られており、永久機関が否定され、効率100%の熱機関が実現できないことの根拠ともなっています。

水や熱ばかりではなく、エネルギー(もしそういうものがあるとすればですが)も同様に、不可逆的に流れます。ここで括弧内の注釈を入れたのは、エネルギーという手で掴める実態は無いと思っているからです。そんな事はない、電気エネルギーや石油エネルギーは、触ればビリビリしたり、手で目で見たりすることができるではないか、と突っ込みが来そうですが、電気や石油がそのままの態(state)で役に立つ訳ではありません。電気は、ニクロム線を通して熱(エネルギー)に変えたり、モーターに通して動力(運動エネルギー)に変えたりして利用していますし、石油だってバーナーで燃やして熱に変えるとか、エンジンに送って動力に変えるしか使い道がないでしょう。石油をペットボトルに入れただけでは、飲む事さえできず、何の役にも立たないただの液体でしかありません。

さて、これが人間社会にもつながる様な「法則」にもつながるのでしょうか。つまり、人間社会で起こった現象(出来事)が果たして不可逆なのかどうかですが、人間関係でいえば言えば可逆の様な気もします。つまり一旦不仲になっても、どうにか関係を修復することも可能でしょう。また、一旦作ってしまった建築物だって、国立競技場の様にそれを取り壊して、元々の更地に戻すのも可能でしょう。しかし、人間関係でいえば、過去のわだかまりを記憶も含めて完全に消してしまう事は出来ない相談です。また、更地に戻った様に見える土地でさえ、そこにある表面の砂や石ころは、かなりの割合で外から運ばれたものと入れ替わっている事でしょう。結局は、全ての出来事や現象は不可逆であるという、大原則は曲げられない様なのです。放っておいても事態や状態は変化し続けます。それに加えて、私たちは膨大な物質やエネルギーを注ぎ込んで、「環境」を改変し続けてもいるのです。もう後戻りはできませんが、少なくとも急激な変化(環境破壊)が雪崩をうって破局的に起こる事は避けなければなりません。事態が雪崩を起こして激変する危険なポイントをPONRPoint of no return)と呼んでおきます。同じ言葉は、航空機が飛び続けもはや出発した母空港に戻る燃料が残っていない場合にも使われます。ところで私たちのPONRは何時で、母空港は一体どの時代だったのでしょうか?

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2016年4月 3日 (日)

2970 恒常性

ゆく川の流れは絶えず変化しているにしても、見た目は殆ど変りが無いように見えます。人間の体の細胞も、日々新陳代謝を繰り返し、半年ごとにスクラップビルドを繰り返しているにしても、外から見た目としては、殆ど変化が無いように見えます。それは、自然の仕組みの中に巧妙に組み込まれている恒常性(ホメオスタシス)に負うところが大なのでしょう。しかし、自然は変わることを食い止めている訳ではありません。逆に、エネルギー(その全ては太陽光ですが)を取り込んで、常に物質に流れを作り出しているのです。一方で、その流れはあまりにも緻密なシステムであり、しかも定常流であるがために、見た目には変化が感じられないのです。

例えば、川の流れに含まれる水の分子は、刻々と入れ替わってはいるのでしょうが、一方では流れ下った先の海から直ちに水が蒸発し、雲となって山に雨を降らすことで、補給がなされますので、川の水は途切れる事がありません。人間の体の細胞も、同じことです。細胞は、種々の攻撃、例えば紫外線や放射線や細菌や活性酸素など、に晒されますから、傷ついた細胞は分解され排出される代わりに、日々同数の細胞が複製され更新される事になります。

さて、社会システムではどうでしょうか。これまでの「常識」では、社会は日々進歩するものと考えられて来た様な気がします。つまり、古い過去はダサくて、不便で、快適ではなく、今の時代の方が「進んでいて」、今後は科学・技術によってますます進歩の度合いを速めるだろう、と言ったボンヤリとした予測の上に立っていると思われます。しかし、スクラップ&ビルドを加速するためには、物質もエネルギーもこれまでより多量に必要とするのです。そうでなくて、エネルギーで言えば太陽光が地球に与える範囲内、物質で言えば地球上の環境の改変の許される範囲内で、社会システムを営んで行かなければならない筈です。もしこれを逸脱すると、間違いなく大きなしっぺ返しを食らう羽目になるでしょう。つまりは、細胞が恒常性を失ったケースである「ガン細胞」と同じように暴走し、ついには宿主である自分の体(地球)を失ってしまうのです。

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2016年4月 2日 (土)

2969 電力不自由化?

電力の自由化が始まったようです。何が自由になったかですが、電力の小売りに参入した二百数十社の中から選んで好きな業者から電気が買えるのだそうです。しかし、どう考えても数年後もこれらの企業がそのままの数で生き残っているとは思えません。淘汰されて、10%程度は残るでしょうか。1円でも安い業者に乗り換えた需要家は、自分が契約した企業が淘汰された時、仕方なく再度別の業者に乗り換えるか、または元の木阿弥で、元に戻るかしかないでしょう。

電力の小売り市場が出来たという事は、事実上小売り価格が日々変化するという意味でもあります。という事は、電力料金が安くなるか、あるいはフリンジベニフィット(オマケのサービス)が美味しいか、などの理由で乗り換えた人は、少なくとも電力料金に関しては、変動(つまりは値上がり)を覚悟しなければならないのです。しかも、買った電気はどの様に発電されるのかを選ぶ事は難しそうです。いわゆる、再エネを主体としたグリーン電力なのか、あるいは原発を推し進める大手から「卸された」あまり買いたくない汚い?電力であるのかは、結局需要家は選べないのです。

皮肉な事に、そんな「不自由な」選択しかできないのが、電力自由化の中身なのです。もちろん、グリーン電力を売りにする事業者もあるのでしょうが、グリーン電力は山谷が大きいはずで、結局は谷の部分は、従来型の汚い電力で賄うしかないのです。

もし、本当に電力料金を節約したいのであれば、ウロウロと安い業者を探し回るのではく、私たちはぜひとも節電をして料金を下げるべきでしょう。節電するのは簡単です。電力を色分けするだけです。青電力は、生活していく上で絶対不可欠なもの、例えばご飯を炊くための電気釜の電力の様なものです。赤電力とは、誰もいない部屋で点けっぱなしの電灯やテレビ使われている様な電力です。黄電力とは、何らかの代替手段がある電力や、あれば便利な機器の電力です。ホウキや雑巾で代替できる電気掃除や、あればあったで便利な食洗器などが挙げられます。これを、サッカーのイエローカードやレッドカードと同じように考えて、黄電力や赤電力を減らしたり、無くしたりする努力すれば良いだけです。これは子供でも理解できて、実行できる行動でしょう。

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2016年4月 1日 (金)

2968 準静的過程

何故かこの言葉が降ってきました。思い起こせば、学校時代に物理か熱力学の授業で、居眠りしながらとりあえず言葉だけは頭に引っ掛かってくれたようです。さて、準静的過程とは、変化しているのが感じられないくらいゆっくりした変化というほどの意味ですが、例えば空気を断熱圧縮すると、通常は温度が上昇します。しかし、温度上昇が感知できないくらいゆっくり圧縮した場合は、系からの熱の出入りはなく、可逆的に元に戻すことも可能だというのです。もちろん、これは現実にはあり得ない現象ですから、カルノーさんあたりが、頭の中で考えた熱サイクルの過程なのでしょう。

ここで、この言葉を実際の事象や社会に当てはめて考えるとすれば、変化はできる限りゆっくり進めるに限る、とでもなるのでしょうか。急激な変化に対しては、必ず反動がある筈で、変化率が大きいほど、その反動(減速率)も大きいのです。例えば、車を急加速させてスピードを上げて走る時、危険が迫ってきた場合にはどうしても急ブレーキを踏まざるを得ないでしょう。一方で、ゆっくりとスピードを上げて、同じくゆっくり原則する場合は、いわゆるエコドライブになって燃料が少なくて済む上に、もちろん安全運転でもあります。スピードを上げるのは、早く目的地に着くためなのでしょうが、早めに出発すれば、それほど慌てなくても「準静的運転」が可能になるでしょう。

社会システムも全く同様でしょう。例えば税金です。税率を変更するのであれば、できれば納税者に気付かれないほど?、小刻みに変えるべきでしょう。もちろん、上げる一方ではなく、予算が余った場合には、速やかに国庫に返納し、税率も下げるべきです。システム上手く設計し、その変化の過程をオープンにするならば、納税者からはそれほど強い拒否反応は起こらないとみています。もちろん、変化率は3%とか5%とかいう「大きな」変化率ではなく、0.1%程度の変化率に留めるのです。その代り、税率が毎年の様に変わる事になるかも知れません。当然の事ながらこのシステムでは、税金の使い道も細かくモニターされ、無駄使いはリアルタイムで指摘できなければなりませんが・・・。

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