« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016年5月31日 (火)

3026 脳は意味を求める?

脳の癖?として、として良く言われるのは、脳は情報(インプット)に何らかの意味を求めようとすると言われています。意味のある、言語情報の解釈はもちろん、脳の得意とするところですが、そればかりではありません。例えば、視覚情報で言えば、何の意味も為さない、壁のシミや天井の木目の中に、人の顔や風景や事物の形を「見てしまう」のです。聴覚だって、山の中や暗闇では単なる物音や動物の鳴き声にさえ何か恐ろしい存在(魑魅魍魎や妖怪?)を感じ取ってしまう事も多いでしょう。もっと鈍い嗅覚やさらに鈍い触覚などは、どの様にも誤魔化せるでしょう。つまり、意味のない情報にいかにも意味がありそうに感じさせるのは、簡単な事だと言えるでしょう。

それの何が問題かと言えば、本来意味を求めず、中立的に振る舞わなければならない場合でも、人は自分の行動に白黒の色をつけて、意味を持たせないと「落ち着かない」のが、我々のどうしようもない性(サガ)の様なのです。例を考えてみましょう。例えば、株の相場です。株価は、時間帯やプレーヤの入れ替わりにより、自然に上下を繰り返すものでしょう。しかし、そのランダムな変化にある人が、何らかの意味を見出そうと想像を巡らせ、そこの何らかの「変化の意味」を見出したとしましょう。実は、そこには意味が無かったとしても、無理やり「原因」を見出そうとする訳です。当然その変化に対応した「手」を打ちますので、場合によっては変化が増幅されます。

それを見た別の第三者が、更に想像を膨らませれば、あのブラックマンデーなどは簡単に繰り返される事になります。背景として、何らかの社会不安があれば、小さな引き金であっても、重大な結果を引き起こせる訳です。これが、逆の場合には少し異なります。好景気は時間を掛けて徐々に進み、不景気は一気に起こってしまう様なのです。これは、脳は良い兆しより悪い兆候に敏感であることを意味するのでしょう。確かに、ラッキー(例えば好きなエサ)が目の前にあるとゆっくりと処理する事が出来ますが、敵の襲来などの危険は急速に迫ってくるのが常ですので、(善・悪)情報の処理スピードに大きな差があるのは致し方ありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月30日 (月)

3025 技術の尻拭い

昨晩のNスぺは、「廃炉」という非常に重たいテーマでした。率直に感ずる違和感は、40年とされている廃炉計画の時間のスパンの中で、いったい誰がそれを取りまとめ切る事ができるのか、という点です。学卒で新入社員で入ったしても、企業人生はたったの30年余りしかないからです。しかも、内部の燃料の溶融状態が殆ど分かっていない段階での40年という見積もりは、あまりにも楽観的過ぎると言わざるを得ないでしょう。すでに5年経過しましたが、目に見える前進もないまま、未だに汚染水対策に振り回されている状況なのです。技術開発のためには、人材育成を含めて、腰を据えた取組みが必須なのです。

さて、今回の表題は、技術が起こした不始末の、技術による尻拭いなのですが、実のところ技術の規模が大きくなればなるほど、事故を起こした場合の収拾が難しいという事実は受け入れなければならないでしょう。例えば、石油の掘削技術を考えてみましょう。現在は、海底からでも石油や天然ガスを汲み上げる「技術」は確立されてはいますが、一度噴出事故が起こると、実際上は自噴が止まるのを待つことしかできない場合も多いのです。B国の石油メジャーがメキシコ湾で起こした海底油田事故は記憶に新しいところです。つまりは、海底での「漏出事故を収拾する技術」は、いまだ確立されていないと言うべきでしょう。

原発事故の場合、油田事故の様に時が解決してくれる訳ではありません。核種にもよりますが、半減期が非常に長いため(数万年という核種も)、時間の経過が解決につながらないからです。放射能を消す技術?が存在しない限り、事実上私たちは原発事故を収拾する技術を持っていないと白状するしかないのです。現在の技術で出来そうなのは、何百トンにも上る燃料デブリを、強い放射能にもある程度耐久性のあるロボットを開発し、水中か、あるいは気中で、コツコツと少しずつ削り取って、分厚い金属の容器に詰め、どこかの処理施設の地中深くに「隔離」するしかないのです。デブリが格納容器のどこに溜まっているのか、その硬度はどの程度か、果たして強い放射能に耐えるロボットが作れるのか、周囲に放散される放射能はどの程度に抑えられるのか、解決しなければならない技術的問題点は山積です。後知恵ではありますが、やはり私たちの放射性物質を扱う技術は不完全であり、だからこそ核エネルギーの利用は「諦めざるを得ない」と思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月29日 (日)

3024 技術とコントロール

広島でのOバマ大統領の言葉ではありませんが、技術は適正にコントロールされなければならないでしょう。科学者や技術者は、文字通り科学や技術のスペシャリストではありますが、それを応用するに当たっての「倫理」については、全くと言って良いほど素人なのです。何しろ、この国限らず学校で「科学倫理」や「技術倫理」などという授業は全く行われてこなかったからです。倫理などという言葉は、そもそも文系の言葉であり、理系の人が学校に入り直して哲学でも専攻しない限りは、言葉さえ知らない科学者や技術者が殆どだと想像しています。

倫理(学)とは、一般には「人と人との間のルールを考えること」ですから、科学倫理や技術倫理とは、結局は科学・技術と人(社会)との関係を考える事を指す言葉だと言えます。科学者や技術者は、ある技術が実用化されると、その事だけに興奮して闇雲に前に進んでしまう傾向あるのは間違いないでしょう。論文や特許を、他人より1分でも早く「モノにして」手柄を立てる事が、自らの存在感を増すと考えている人種だからです。原爆を開発した、マンハッタン計画に関わった、科学者や技術者の「興奮」や、小型の原子炉を開発して、潜水艦に搭載して、数か月間潜航したままで行動が可能になった時の彼らの「達成感」は想像するだけしか出来ません。、しかし、その爆弾が日本に投下され、あるいは軍事用の原子炉が大型化され発電用に造り直された結果起こした、「人間には制御できない事故」の悲惨さは、開発に関わった彼らにはついぞ想像できなかった訳です。

技術開発に関わるチームには、絶対に文系の「見張り役」が欠かせないと思うのです。彼らの役割が、その技術が使われ、広く普及した場合の社会を想像力を膨らませて想像し、そしてマイナスの側面を、可能な限り拾い出す事です。そして、技術がもたらす利益と回避出来ないマイナス面を天秤に掛ける役割を引き受けるのです。もし、その技術がのマイナス面が人間の健康や環境の悪化につながる要素を一つでも持って居るのであれば、どんなに優れた技術でも直ちに放棄すべき、という結論を出すべきでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月28日 (土)

3023 疑わしきは・・・

私たちは、それこそ数えきれないほどの数(一説には100万種以上)と量の「化学物質」に囲まれて暮らしています。そのうちのかなりの数を、食べ物と一緒に口から体内に入れてもいるでしょう。例えばm食品添加物は、色や食味を良くするために、日々口にする食物に知らない間に練り込まれているでしょうし、防腐剤は、食品がスーパーやコンビニに運ばれ、陳列される間の日持ちを良くするために、たっぷり入れられてもいるのでしょう。

野菜や果物には、目には見えませんが、たぶん残留農薬やポストハーベストの薬品が付着してのは間違いないでしょうし、場合によっては果物などは糖度を上げ、色付きを良くするための、何らかの処理がされている可能性も否定できません。想像を巡らせて、考えれば考えるほど、私たちの「化学物質」への暴露の危険は、日々増大していると結論せざるを得ません。さらに想像を逞しくすれば、その結果私たちの「化学物質病」の種類と重篤度を、日々増大させているかも知れません。いわゆる、アレルギーやアトピー体質、さらに言えば慢性頭痛や生活不活発病や内臓疾患、あるいはアルツハイマー病などの遠因になっている可能性も指摘されてもいいるのです。

化学物質の影響は、もちろん人間だけにはとどまりません。恐ろしい、影響としていわゆる「環境ホルモン」がしばしば引き合いに出されます。環境に放出されて薄められた化学物質が、さながら体内で種々の作用を担っているホルモンと同様な効果を生物に及ぼし、例えば生殖能力の低い個体が増えて、絶滅の危機にさらされたり、あるいは化学物質の慢性毒によって、繁殖期間や健康寿命を全うできない種も増えているのです。今絶滅の危機に瀕している生き物は、結局は人間の行く末を映している鏡なのかも知れません。

低濃度の化学物質が、慢性毒であるか、あるいは環境ホルモンとして働くかは、非常に長いスパンの疫学的調査からしか知る事は出来ないからです。さらに言えば、遺伝子レベルへの悪影響などは、調査する術もない筈なのです。私たちにとって、取るべき正しい態度は、「疑わしきは作らず(使わず)」となるべきでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月27日 (金)

3022 貴生物・卑生物

金属は、貴金属と卑金属に分かれます。明確な境界線は無いにしても、結局は目方当たりの価格によって決まるのでしょう。トン単位で取引されるか、あるいは㎏やグラム単位で取引されるかも目安となるでしょう。要するに、人間にとってどれだけ価値があるのか、言い換えればどれだけの経済取引の額になるのかが価値の基準なのです。例えば、鉄や亜鉛が人間の健康に重大な影響を及ぼす金属元素であるにしても、それは微量でお金に換算できない限りにおいては、やはり非金属なのです、

表題は、これを生物(動物や植物や微生物)の範囲まで敷衍してみたものです。問題の本質が、金属と少し異なるのは、生物の場合、今や遺伝子操作という技術によって、その特徴をかなり大幅に「改変」できると言う点でしょうか。人間に役立つ生物を貴生物、そうでないものを卑生物に分けるとしたら、遺伝子操作された生物(例えば作物)は、当然の事ながら貴生物にカテゴライズされるのでしょう。一方で、熱帯雨林の樹木の様に、それがどれほど多くの生き物を育み、地球の大気中のCO2を吸収し、酸素を放出してくれていて、しかも雨をもたらし気象をマイルドに保ってくれていても、それが経済活動に乗らずお金を生まない限りにおいては、「卑生物」としか見られないのです。

一方で、どうやって作るかは問題ですが、IPS細胞や高価な医薬品を生み出す微生物は、目方当たりの経済的価値で言えば信じられないほど高価で、間違いなく「貴生物」に区分けされるのでしょう。かつては、人間にもそのような区別が存在した時代もありました。勿論、ここでは生き物に貴賤などあってはならない、という立場でこの投稿をかいているのですが、全ての生き物は、何らかの必然性があって、長い進化の歴史を潜り抜けてこの時代に存在する訳です。もし、進化の神様が存在するとして、その神様の網からこぼれ落ちた生き物は、恐竜の様にすでに滅びている訳で、そうでないすべての生き物は、同等の価値を与えられて生きているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月26日 (木)

3021 頑張らないで努力する

企業の不祥事のニュースに接する度に思う事があります。つまりは、経営者が企業の実力を「過大評価」している結果、組織の能力以上の結果(頑張り)を求めた結果、組織が経営指標や技術データのねつ造(誤魔化し)を起こしてしまったことがその根っこにあると思えるのです。能力以上の頑張りや、ましてや上っ面を繕った誤魔化しが長続きする筈はありません。人の頑張りはせいぜい数か月、組織だって1年もすれば疲弊してくるでしょう。誤魔化しなどは、必ずや化けの皮が剥がれる瞬間が来るのは必至でしょう。組織内からの告発で剥がれるか、あるいはマスコミにすっぱ抜かれるかは別にして、いずれはバレるのです。

であるならば、組織は日頃からコツコツと努力し、実力を高めて置く必要があるでしょう。経営層は、同様に日頃から組織の実力を自分の目で確かめる努力が必要でしょう。会議に上がってくる資料には、必ずと言って良い程何らかの粉飾が施されているからです。事実、某自動車会社の燃費データに限らず、某ゴム会社での防振ゴムのデータや、某大手企業の経営指標も、長い期間に亘って粉飾されていましたが、見事に引っ剥がされてしまったではありませんか。

コツコツ地道に努力する人や企業こそ、最終的には評価され、事業の継続が保証されるのです。つまりは、頑張らないで努力する姿勢です。もちろん、努力は闇雲にすれば良いというものではありません。企業として、長期的な展望を描いた上で、その方向に向かって努力を積み重ねるのです。例えば、車メーカーであれば、世界に冠たる低燃費車を目指すのであれば、具体的な努力の方向としては、例えば徹底的な軽量化と安全性の両立や、動力系の摩擦軽減、バッテリーの軽量化、内燃機関の燃焼効率の追求、それに加えての人間工学を踏まえてのソフトウェアにより総合的な動力制御などにより、全体として「実燃費」を向上させる事などが考えられます。データの誤魔化しなど、技術屋や企業の風上などには絶対置けない、まさに悪行と言うしかないのです。技術は一日にしてならずでしょうし、企業への市場の信頼もまた然りです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月25日 (水)

3020 人口減少国

少子化と多死社会が加速して、この国の人口減少が止まらなくなっています。自慢できる話ではありませんが、投稿者が住んでいるA田県は、そのトップランナーであり続けてもいます。ざっと言えば、国の人口は瞬間風速では、毎年30万人ずつ減り続け、A田県では1万人ずつ減っている事になります。この傾向は、加速度的に増えていくのか、またはある時期に加速度が減じて、安定期に向かうのか、それは社会全体の意識に関わってくるのでしょう。つまり、成り行きに任せて、非婚化も進み、さらなる人口減少を招くのか、あるいは、例えば新たな形の大家族を是とする、多子社会を目指して、人口減に歯止めを掛けるのか、どちらを選び取るのかという選択です。

では、どの様なアプローチで歯止めを掛けたら良いのでしょうか。いくつかのアイデアを考えてみましょう。まずは、子供を産み育てるベストの環境としての大家族制を考えてみましょう。かつては、三世代同居の大家族制は当たりまえでした。親世代は、子供の子供(孫)を育み、子供世代は共働きで家計を支えます。親世代は、可能な限り働いて家計も助けますが、年取って力尽きれば子供世代や孫世代に看取ってもらう事になります。このようなコミュニティは、田舎や沖縄などで今でも目にする事は出来ますが、田舎でも核家族の割合が圧倒的に多くなってきています。さすがに若い世代に三世代同居を強いるのは無理かも知れませんが、親世代と近い距離内に住んで、互いに支え合う事は可能でしょう。いわば、新しい形の大家族制です。住まいとしては、親世帯の一戸建て+子供世帯のアパートという事になるでしょうか。

もう一つ考えられるのは、やはり公的な支援でしょう。人口減少の著しい地域では、子供を持つ世帯に分厚い手当を出しているところも多いのです。勿論、二人目や三人目には金に糸目をつけずに手当を上積みするのです。時間は掛かるかも知れませんが、何とかミクスの三本目の矢は、もしかするとびっくりするほどの額の「子育て手当」と「教育費の無償化」が正しいのかも知れません。人口がグングン減って、明るい将来の展望が見えない国になりつつあるのに、足元で現世代のためにだけ景気を良くしても殆ど意味をなさないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月24日 (火)

3019 5月の真夏日?

5月に真夏日の連発の様です。しかも、北海道で南の地域を差し置いて連日国内の最高気温が記録される始末です。まだ暑さに慣れていないこともあって、子供やお年寄りの熱中症も多発している様です。この傾向には何か異常なものを感じます。天気が良ければ、日射強度はすでに真夏並みになっている季節ですので、気温が上がっても不思議はないのですが、一方で放射によって熱が宇宙に帰っていきますので、本来の5月は、精々夏日(25℃)程度に留まっていたはずなのです。

それが、北海道でもあっさり30℃を軽く超えて真夏日になるには、何か隠れた理由がある様に思うのです。投稿者が疑っているのは、温暖化効果ガス(GHG)以外の、未知の温暖化ファクターなのです。具体的には、大気中を浮遊する粒子状物質(SPM)が怪しいと考えているのです。粒子状物質は、天然由来と人工のものに大別できます。天然由来のものには、火山ガスや黄砂や海洋表面から発生するミストなどがあるでしょう。一方で、人工のSPMとしては、石油や石炭の燃焼ガスに含まれる、煤塵や硫酸ミストなど、航空機や車などの運用から発生するもの、あるいは人工と天然の中間的なものとして森林火災からの煙も無視できない存在です。

大気中の粒子状物質の濃度が上昇すると何が起こるでしょうか。いわゆるGHGは、気体分子ですから、温暖化を引き起こすいわゆる吸収スペクトラムも、狭い範囲の波長のみに限定されます。PM2.5の様な、比較的「大きな」粒子は、一方では太陽光の入射も遮るので、温暖化とは逆の働きをしますが、いわゆるPM0の様に非常に小さな粒子は、太陽光は通しながら、地表から放散される赤外線は吸収する働きが強いのです。勿論、CO2や強力なGHGであるメタンなどは、量が多いので、温暖化への寄与率は高いのですが、一方でSPMは、波長の長い電磁波(いわゆる赤外域)を吸収しやい傾向にあり、短期的な気温上昇への寄与率は大きいと見なければならないでしょう。残念ながら、現在までのところこの推定を裏付ける定量的な報告はまだ確認していませんが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月23日 (月)

3018 生き死に

朝のラジオで、終末医療の話題を取り上げていました。確かに、この国では人間としての最後の迎え方の議論が殆ど為されていない様です。そうでなければ、もはや意識もなく、ヒトとしての寿命もほぼ全うして、体も十分に「枯れて」しまったお年寄りの、胃壁に無理やりチューブを差し込んで、数か月、ひどい場合には数年も、生かし続けるなどという「虐待」を思いつく筈がありません。人間には、生きる自由もあるのでしょうが、病気に負けてしまった場合などには、覚悟さえ固めれば、自然体で死へ旅立つ自由だってある筈です。

そうこうしていたら、昨晩Nスぺでも、人生の終い方の特集をしていました。結局、人は覚悟さえ決めれば、人生の最後を有意義に使う事も可能だと思うのです。別に、対症療法や気休めの手術を繰り返して、半年ばかり生きながらえるより、しっかりと覚悟を決めて、残された人たちに、自分なりのメッセ―ジを考えて残せば良いのです。何も、美文や麗句は必要はないでしょう。しっかりと相手を想って考えたものならたったの一言でも良いのです。

確かに命を粗末にするのは良くない事ですが、自由が保証されている筈のこの国から、自然に死ぬ自由を奪ったのは一体誰なのでしょうか。医療制度が整えられてきたのは、一体誰のためなのでしょうか。実は、象牙の塔自体のため、あるいは製薬会社のためだったかも分かりません。動物は、まともに食べる事が出来なくなったら、やはり死を覚悟すべきなのでしょう。多くの高等な動物は、自分の死にざまを晒すことなく、死を覚悟したらそれぞれの墓場に向かっていきます。ゾウの墓場は、多分そうした彼らの死に場所なのでしょう。本来病院とは、治る病気を治す場所ではあっても、不治の病を得た人が死を待つ場所ではない筈です。大変でも、手間が掛かっても、最後に看取るべき人は家族しか居ないのです。もちろん、覚悟を決めた人は、必要なら痛み止めでも何でも飲んで、出来るだけ看取る人たちに負担を掛けない形で、最後の瞬間まで生き抜くしかないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月22日 (日)

3017 持続可能ではない開発

3016の続きです。先ずは地下資源の開発を例に引きましょう。地下資源とは、鉄を始めとする金属資源、石油や天然ガスなどの化石燃料、各種のレアアースなどを指しますが、そのいずれを取っても、持続可能ではない事は明らかでしょう。地下資源を掘削すると、必ず余分なものも出てきます。金属やレアアースの場合は、不要な鉱滓や邪魔になる重金属類など、石油の場合は蒸留後に残るタール分などが多量に排出されるのです。それらは、多くの場合厄介者であり、時としてそれらは野積み状態で放置され、重篤な公害を発生させたりもするのです。

全く別の例ですが、「宇宙開発」なるものも存在します。多くの場合は、種々の目的の衛星を打ち上げるのですが、用済みになった衛星が、何千個も宇宙ゴミとなって、軌道を回り続けています。軍拡競争が華やかな?時代には、多くの軍需衛星が打ち上げられましたが、それら多くには動力として小型の原子炉が搭載されていた事は、あまり知られていません。何しろそれは「軍事機密」なのですから。用済みになった衛星は、徐々に高度が下がってしまい、やがては大気圏に突入して金属屑となって地上に落下してしまう事になります。私たちの危険を増やして一体何が宇宙「開発」なのでしょうか。

もう一つ気になる開発例を挙げましょう。それは医療分野の開発、たとえば「新薬開発」などです。抗生物質と薬剤耐性細菌のイタチごっこは、大きな問題ではありますが、解決に向けた新たな展望は開けてはいません。今の医療や医薬品の開発の方向は、病気の人を手っ取り早く治療する事が目的であり、決して体質を改善して病気になりにくい体を作る事ではないのです。保健目的の医療は、「お金にならない」という理由で見向きもされないのです。

結局、持続可能ではない開発とは、ここでは、それに伴って大量のゴミを発生させたり、あるいは病気に対して抵抗力の弱い人間を増やすだけの結果になる事を指す、と定義しておきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月21日 (土)

3016 持続可能な開発?

サミットでも議題に取り上げられると言う「持続可能な開発」というものが果たして存在するのか考えてみます。持続可能という言葉には、恒常性という意味が含まれている筈です。つまり、変わらなければ、その状態を維持する事はどうにか可能となるでしょう。変わらないとは言いながら、人間の活動からは廃棄物が出ますので、環境の劣化は避けられないことではありますが・・・。

一方で、開発という言葉からは、拡大とか変化という意味しか出てきません。(土地の)開発とは、一義的には森を切り倒して、街に作り替える事を意味します。森をそのままに維持して、開発すると言っても、意味のない言葉になるだけです。

結局、持続と開発とは、相矛盾する言葉の対に過ぎないのです。従って、持続可能な開発などという「スローガン」は、「開発」という変化を「持続可能」というオブラートで包み込んだだけの、言葉遊びに過ぎないというしかありません。そもそも、何故これ以上「開発」しなければならないのか、納得できる説明が見当たりません。開発を続け、例えばGDPが600兆円の大台に乗ったとして、果たして私たちの幸福度が上がるとはとても信じられません。

この国を含めて先進国の人口が減り続けるのであれば、選択肢は「持続可能性を高めるための縮小均衡」、とならなければなければ、どうにも理屈が合いません。何故なら、全ての開発とは、それまであったものの破壊又は造り直しを伴うからであって、必ず環境破壊=悪化を引き起こさずには置かないからです。人間が開発した土地や製品で、環境破壊を起こさなかったケースを見つけるのが難しいのです。実例は、次項に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月20日 (金)

3015 同じ穴の・・・

M社に続いて、S社でもイレギュラーな燃費測定方法を行っていたとか。記者会見では、M社とは異なり、データを誤魔化したのではではなく、風の影響が出ない様に「きれいなデータ」を出すために、室内データを取り込んだと、苦しい説明の様です。一体全体、その様な言い逃れで責任が回避できると考えているのでしょうか。少しでも工学をかじった者が聞いたら、あきれ返る会見というしかないでしょう。検査法を、法定法から逸脱させるのは、立派なデータの誤魔化しに相当する行為でしょう。風がデータに影響を与えるのであれば、バラついたデータをそのまま提出し、風力・風向データを添えて提出し、バラつきの原因を分析したものを提出すれば済む話でしょう。そもそも、データをきれいに揃えるという行為そのものが誤魔化し(データのメイキング)なのです。

悪いデータを切り捨て、チャンピオンデータのみを残して、結果をより良く見せる誤魔化しか、あるいはデータを綺麗に揃えるために、室内データなど外乱の少ないデータを使う誤魔化しか、何処に違いがあるのでしょう。どう考えても、同じ穴のムジナという言うしかないでしょう。悪意があったかどうかは両者の「悪さ加減」を分ける材料にはなりません。自然に得られるデータに手を加えた点で、全くの同罪だと言うしかないのです。

データは、ウソをつきません。もしそれが正しい条件で試験が行われた場合は・・・。もしデータにバラつきが出て、良いデータとそうでないものが凸凹したとすれば、実はそれこそが改良するためのヒントであり、入口にもなる筈なのです。つまり、悪いデータが出た時の条件を詳しく分析して原因を特定できれば、その条件さえ正せば、より良い結果が得られるからです。また、良いデータが出た時にそのカラクリが解明できれば、常にその良いデータを叩き出すための改善点も明らかになる筈なのです。その努力を惜しみ、データの数字だけを弄るのは、技術者としてはあってはならない「悪行」というしかありません。その点を正しく反省出来ない企業に、以降は技術力について語る資格はないでしょう。元々買う予定もありませんが、元技術者である投稿者としては、M社の車もS社の車も、もちろん絶対に買いません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月19日 (木)

3014 技術だけでは2

YS-11のビジネスとしての失敗に懲りた、この国の航空業界とそれをパックアップする立場のお国は、その後長く国産旅客機の開発に立ち上がる勇気が出ませんでした。技術の伝承は、20年ほどで途切れてしまうのにも関わらずです。武器であったにせよ、技術レベルでは当時世界最高レベルのゼロ戦や、飛燕を開発した優れた「航空技術」は、こうして1980年代には途切れてしまったのでした。

その一方で、1980年代に市場は、40-50人乗りの旅客機(まさにYS-11サイズです)を渇望していたのです。用途は、主に米国における「トランク&ハブ」システムによる航空需要向けです。これは、大都市に隣接する主要空港を大型機で繋ぎ、ローカル空港とは小型機で結ぶと言う考え方です。大型機路線(いわば新幹線に相当)をトランクラインと呼び、乗換空港からの小型機路線(いわばローカル線)をハブラインと呼ぶシステムです。これに目を付けた、当時民営化を果たしたブラジルのEンブラエル社と、航空機メーカーを合併しカナダ政府のバックアップを受けたBンバルデイア社が、あれよあれよという間にシェアを獲得し、業界No.34に躍り出たのでした。航空機の開発は、確かに大きなリスクだったとは思いますが、彼らは立派にそのリスクを取ったのでした。もちろん、ビジネスセクターはしっかりとした「市場調査」も行った事でしょう。

一方で、立派な技術がありながらビジネスリスクを取らなかったこの国の航空機産業は、完全に出遅れてしまったのでした。遅蒔きながら、2000年代になって国産旅客機の開発を決断したM社ですが、ビジネスとして見れば完全に「遅蒔き」だったと言うしかないでしょう。しかも、ゼロからの出発だった開発作業は、慣れない事だらけの「ガタガタ(あるいはゴタゴタ)」状態で、スケジュールがべた遅れになってしまった事は、初飛行が四度も延期された、という報道でも明らかでしょう。

何故、1980年代にYS-11のバージョンアップという形で、小型旅客機ビジネスを立ち上げられなかったのか。この国の企業とお国の、市場への疎さと優柔不断を嘆かずには居られません。既に枠組みが出来上がってしまっている小型機市場に、いくら性能が優れていると主張しても、結局は売値を叩かれて、またぞろ赤字を垂れ流すと言う、「(技術で勝ってビジネスで負ける)この国の轍を踏んでしまう事は必至、だろうと投稿者は見ています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月18日 (水)

3013 技術だけでは・・・

3012と同様の事を別の角度から見てみます。製品を作る技術がいくら優れていても、やはり製品が売れない場合も多いという話です。ここでは、いわゆる旅客機と呼ばれる「製品」をマナ板に載せてみましょう。この国でもかつては、国の技術を結集してYS-11という「名機」を世に送り出しました。それが、ギリシャからオリンピックの聖火を空輸した事は、確かに当時はまだ敗戦後の経済回復途上にあった国民に勇気を与えた事でしょう。幸いなことに。当時は戦時中の兵器としての航空機の研究開発に関わった技術者が、現役で活躍していた時期でもあり、「技術」という点だけから見れば、当時の最先端の近いところに到達していたとも言えるでしょう。事実、YS-11は、STOL性能(短い滑走路で離着陸が可能である性能)、燃費、操縦性など、当時のレベルでも優れた面が多かったのです。

しかし残念な事には、この機体は僅か200機弱しか売れなかったのです。業界の常識では、500機以上売れないと、開発費用の「元が引けない」と言われていますので、ビジネスとしては大赤字だったでしょう。当時まだ「メイド・イン・ジャパン」というブランドが確立出来ていなかった事もその理由の一つかも知れません。いずれにしても、技術で勝って、ビジネスで負ける、というこの国の弱点を地で行った感が残るプロジェクトであった訳です。

ブランド力以外に、モノを売りさばく仕組みを考えていなかった事も大きな「敗因」でしょう。工区会社は、運航に入ると手持ちの航空機をメンテナンスする事が必須です。一定の時間毎に、エンジンの定期点検や整備、機体の点検、時間交換部品の入替えなどなどです。そのためには、客先の利便を考えた整備や部品センターなどの拠点づくりも欠かせないでしょう。しかし、YS-11は基本的には、海外には僅かしか売れなかったので、整備は国内に限定されて、ますます海外には売りにくいと言う「売れないジレンマ」に陥ったのでした。市場調査やユーザー視点が、全くと言って良い程欠如していた、この国のビジネスレベルの低さが敗因だったと言えるでしょう。その後の業界事情については、次稿に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月17日 (火)

3012 造り込み

投稿者は、20年来M菱の車に乗り続けていますが、性能的には満足して使ってきました。排気量1800㏄のガソリン車でありながら、日常乗りで平均18/ℓ程度の燃費が出ているからです。この車は、燃料噴射で、ハイオク仕様なのですが、新車でおろして以降レギュラーを入れ続けていても特に不具合は出ていません。塗装もしっかりしていて、屋根のペイントもまだ大丈夫です。

しかし、いくらエンジンが丈夫で、車体がしっかりしているだけでは車は売れない様なのです。それは、車はユーザーが日常的に触る、まさしく「官能評価」に関わる製品だからです。つまり、座席の座り心地、ハンドルやシフトレバーの感触、外観デザイン、内装の出来、価格のバランスなど、ユーザーの好みや感覚が重視される製品の代表なのです。所有出来てうれしい、眺めてうっとり、乗って楽しいと言う感覚が必要なのです。官能評価を上げるには、いくつかのアプローチが考えられるでしょう。一つは、ユーザーのターゲットを絞り込み、彼らに向けて徹底的に媚びる方向でしょう。ターゲットユーザーの好みを徹底的に調査して、彼らの喜ぶ内装や、装備や走行性能をチューニングする訳です。別の方向もあり得るでしょう。ユーザーの最大公約数的な、内装や装備を準備して、いくつかのオプションを選択して貰う方向です。予算に応じて、ベース車から足し算的にオプションを選ぶのです。

しかし、いずれにしても最も重要なポイントは、車の目的別に基本的な性能をしっかりと見据えて、磨きを掛ける必要があると思うのです。走る、曲がる、止まる、ぶつかった時の安全性、などです。これらの性能は、実は一度の設計で完成するものではありません。販売後も不断の努力で、バージョンアップ(改良)を加え続ける必要があるでしょう。これを、製品を作る立場(メーカー)から見ると、製品の「造りこみ」と呼ぶのです。最近、しっかりと造り込まれたと感ずる製品にお目に掛かった記憶がありません。モノ造り大国を自認するこの国の住人としては、全く残念ですが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月16日 (月)

3011 生産性?

お国の考え方(皮算用)では、人口減少局面に入っても、経済成長は可能で、GDP600兆越えが視野に入れられるのだとか。なんという超楽観論でしょう。どう数字を置けば、そんな試算が可能なのか、ぜひお役人の頭の中を覗いてみたいものです。もちろん、お役人はそれを命じた政治屋の気に入る様に数字合わせをしただけなのでしょうが・・・。

さて、人口が減ってもGDPを上げ続けるには、生産性を上げる必要があるでしょう。より、少ない人数でより高い生産高を達成するためには、機械化をさらに進めるか、あるいはモノの売値を上げて、売上高を稼ぐしかないでしょう。お国の皮算用では、インフレ率アップでもGDPを稼げると想定しているのでしょうが、それでは単なる数字の誤魔化しに過ぎないと言われても仕方がないでしょう。

そうではなく、本当の意味での生産性を上げるのか、あるいは生産性は脇に置いて、製品自体の付加価値を上げるのか、それともGDPなどにカマケテいないで、お金に依存しない幸福(価値観)を追及していくか、私たちは選び取っていく必要があるでしょう。

ところで単に生産性を上げるだけで、企業やそこに働く人々が幸福になれるでしょうか。確かに、工場であれば同じ人数でも、出荷できる製品の数は増えるでしょう。しかし、それがちゃんと売れるかどうかは別問題です。単に在庫が積み上がるだけに終わる可能性も高いのです。それは、市場がその製品を渇望していないからに他なりません。つまり、闇雲に生産性だけを上げても、企業の利益アップや、ましてや従業員の給料アップには繋がらないのです。それは、単に製品を市場に「押し出す」だけの行為だからです。生産性は、あくまで市場のニーズに連動した形で適正値に調整されるべきでしょう。流通業界でこれだけIT化が進んだ今日、得られたビッグデータを活用すれば、それほど難しいワザではない筈なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月15日 (日)

3010 信頼性(信用)

あらゆるシステムにとって、最も重要なKWはたぶん「信頼性」でしょう。信頼性は、システムの恒常性(安定性)を担保するからです。比較的小さなシステムである企業を考えてみましょう。もちろん、大企業と呼ばれる巨大なシステムもありますが、事情は変りません。企業が、市場から信頼されている限りは、その企業は安泰だと言えるでしょう。景気変動で、多少は揺さぶられるのでしょうが、やがて復元できるでしょうし、多少の経営的危機があっても、銀行も助けてくれるでしょう。それは多くの場合経営危機は外的要因だからです。(内部のゴタゴタで危なくなる企業もありますが・・・)

しかし、信頼性の大部分を失った企業は、市場から去るしかないのです。内部チェックの甘さで不祥事を起こし、市場の信頼を無くした企業は、結局は自己コントロールが出来なかった事を暴露した訳で、失った信頼を取り戻すには、それまで築き上げ来た期間と同じ程度の年月が必要だと考えるべきでしょう。つまり企業は、本当に市場にソッポを向かれたら一度企業を清算し、新たに会社を興す事とあまり変わらない努力が必要な事に想い致す必要があるのです。

さて、人間が作った一番大きなシステムであるお国に、これを敷衍してみましょう。お国への信頼の意思表示は、直接的は選挙によって、議員を選ぶ権利(選挙権)によって担保されている様にも見えます。しかし、B国とは異なりE国式の議会制民主主義を選択しているこの国では、その権利も間接的に制限されてしまっています。別の形では、例えば国債を買って経済の面で国を支える方法もあるでしょう。もちろん、国債を買う動機は利殖なのでしょうが、この低金利の時代、ボランティアの要素も少しはあるのでしょう。

しかし、私たちは真面目に、お国に対する信頼感を上手く表現する方法を改良しなければならない時代に入っているとも思うのです。ネットに溢れるお国批判(多くは政治家批判ですが)だけでは何も良くならないでしょう。10年先、50年先の将来にこの国を世界から信頼され、手本とされるようになる「信頼に足る国のシステム」を真面目に考えている政治家を選び取る仕組みが絶対必要なのです。五輪を招致したとか、3つほどの小手先の経済政策を手柄として自慢する様な人は、この時代にはもう要らないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月14日 (土)

3009 寄らば大樹2

似たような様なタイトルで以前にも書いた気がするので、二段目です。今回は、M菱がN産の傘下に入ると言う話題です。M菱としては、非常に数少ない選択肢の一つを選んだ結果だったのでしょう。穿った見方をすれば、N産と示し合わせて、燃費数値のウソを公表し、今回の傘下入りの筋書きを書いたのか知れません。

ここでは、その経緯はさておいて、この時代やはり、「寄らば大樹」なのかについて考えてみる事にします。MAのメリット、デメリットは何かを考えてみるに、先ずメリットですが、もし合併する企業がお互いに補完的な関係にあれば、相互に弱点を補完し合って、よりバランスの良い企業体が出来る事でしょう。経営的にも、個々の凸凹を埋め合って、より安定的にビジネスを進める事が可能となるでしょう。また、機能が重なる部分については、重複をそぎ落とす事によって、オーバーヘッドも軽く出来る筈です。

しかし、良い事ばかりではないでしょう。今回の様に、不始末をしでかした企業を、救済すると言う色合いが強い場合には、救いの手を差し伸べた側が足を引っ張られる可能性も出てきます。つまりは、もたれ合いがマイナスの方向に作用する可能性もあるのです。過日の、HンハイとSャ―プの例を引くまでもなく、強者と弱者の関係におけるM&Aは、好況時の対等合併のケーズに比べて悲劇的な結果に終わるケーズも多いのです。もちろん、企業側もそれなりに手は打ってきた事でしょう。車業界で言えば、複雑なOEM戦略です。自社のコスト競争力のある車種を、別のメーカーにOEM車種として提供してきた訳です。M菱とN産も、複数の車種で、クロスOEMを行っていました。OEMの交流の中で、技術の移転もそれなりに行われますが、残念ながら企業風土までは交換出来ないものの様です。企業風土の典型は、いわゆる生産地術と品質管理なのですが、そのノウハウの交換は、やはり完全に一つの会社に溶け合わなければ無理なのです。非常事態を乗り切るための「取り敢えずM&A」は良い結果を残さない事も多いのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月13日 (金)

3008 最終(自社)製品

この国には、400万社以上とも言われる数の「企業」があります。その内の90%近い数の企業は、いわゆる小企業となっています。ちなみに、数で言えば大企業は0.3%程度、10%を少し超える数が中企業という内訳です。今話題の、大企業の燃費データねつ造による不祥事に絡んでも、ワリを食うのは間違いなく下請けの中小企業である事は間違いないでしょう。

それというのも、中小企業の多くはいわゆる「自社製品」は持っておらず、単なる部品屋かあるいは単なる「加工屋」でしかないという決定的な弱みを持っているからだと言うしかありません。ネジ屋はひたすらネジの生産に注力し、あるいはワイヤハーネス屋は、ひたすら電線とコネクターを結合するだけに注力する訳です。その中で、コストと1円でも下げる事に日夜もがき続ける事になるのです。それも、親会社からの再々のコスト削減要求を、無理やり飲まされてのコストのそぎ落としなので、まさに乾いた雑巾をさらに絞る努力と形容される通りなのです。投稿者も30年以上に渡ってサラリーマンの草鞋を履いていたので、それは痛いほど分かるつもりではあります。

しかし、そうではあっても各企業は、自社で最終製品を市場に出す事を諦めないで欲しいのです。自社のブランド名で市場に製品を送る事は、従業員にとっても自身になるでしょうし、何より自社で価格を決められるというメリットもあるでしょう。今は、機能と価格がリーズナブルである限りにおいては、問屋を介さなくともネットで売れる時代なのです。その際に重要なのは、類似製品との差別化だと思うのです。取り分け、高い質感や考え尽くされたデザイン、使い勝手の良さなどで、他社よりは一歩抜きん出る必要があるのです。加えて、日々の改良努力(バージョンアップ)努力は、それ以上に重要です。ソフトウェアだって、バージョンアップを10回程度は重ねる様に、形ある製品もやはり、素材、デザイン、仕上げ、色、手触り、機能などの改良を続ける必要があります。その結果、いつまで経っても「古さ」を感じさせない製品が生まれるのです。サンプルには事欠かないでしょう、店屋に行って、10年前、20年前と殆ど同じデザインで、しかも今なお売れ続けている製品を見つければ良いのです。それこそが、いわゆる定番製品(ロングテール製品)のサンプルなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月12日 (木)

3007 与えられた権利

民主主義の社会では、しばしば(自由の)権利と義務(責任)という二つのキーワードが引き合いに出されます。この国では、戦後の占領状態から一貫して、民主主義社会の構築を目指して、社会システムが整備されてきました。しかし、考えてみなければならないのは、占領政策の中で、多くの権利は勝ち取ったものではなく、与えられたものでったという事実です。苦労して、あるいは戦って勝ち取った権利は、それを得た人々にとっては、貴重でこだわりの強いものでしょう。しかし、それが他人から与えらえた場合には、それをあまり重要なものとは感じないでしょう。つまりは、棚から落ちてきたボタ餅は、あまりありがたいとは思わないものなのです。

一方で、与えれた権利に付随する「義務」の方ですが、それこそ棚ボタ手に入った権利に付随するものは、やはり軽視されがちになるものでしょう。だからこそ、例えば自由選挙という権利を手にしたとしても、いわば一体の義務としての選挙権を行使しない人も多くなるのかも知れません。そう考えると、戦後私たちが占領軍から与えられた権利や、それに伴う義務が如何に多かったことか考えざる込まざるを得ません。教育制度、税制、政治(選挙)制度、さらに言えば金融やビジネスマターに至るまで、多くの社会システムが、勝ち取ったもの、あるいはよく考えられて練られたものでは無かった、という反省は必要でしょう。戦後のドタバタの中で、占領国の頭の良い人たちのいくつかのグループが、それぞれの専門性を生かして「デザインしてやった」システムでしかなかったのでしょう。

もっと、反省すべきことは、システムが与えられた事は歴史の行き掛かり上仕方がなかったとしても、それを不断の努力で、長いスパンを視野に見直すことを怠ってきたという点でしょう。私たちは、経済発展に注力するあまり、与えられた社会システムを熟考しつつ、この国にフィットするように見直す努力を傾けてこなかったと思うのです。この国の国会が、たった1年のスパンしか見渡さず、バタバタと予算やシステム改革を小手先で行ってきた事を思い返すと、大きなタメ息しか出ません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月11日 (水)

3006 エネルギーパフォーマンス

3004の議論をもう少し広げます。エネルギーパフォーマンス=エネパという言葉は、実はまだマスコミなどにも殆ど出てきません。例外的には、省エネとの関連で、単位製品当たりのエネルギー量(エネルギー原単位)という形で、見え隠れしている程度です。但しこれを意識しているのは、ISO14001やEA21などの環境経営に取組んでいるホンの一握りの企業(最大に見積もっても数万社)に限られるのです。何より、エネパの考え方を規定している「ISO50001」の認知度が、殆どと言って良いほどく広がっていない事がそれを物語っています。

このブログでは、この言葉をもっと広く、あらゆる社会活動に拡大してみようと提案しているのです。狭義のエネパは、上述の様に生産におけるエネルギー効率ですが、例えばサービス業や日常生活までも範囲に入れてしまおうと考えるのです。まずはサービス業です。サービス業とは、有形無形のサービスを提供して、その代価をもらう訳ですが、製品とは異なり、エネルギーパフォーマンスには馴染にくそうな気もしますが、指標さえ適当に設定すれば、それは可能でしょう。例えば、運送業を考えてみましょう。その昔、貨物は殆どが鉄道便で運ばれていました。いくつかの拠点駅で、何回かの積み替えが行われ、そのたびに人手が掛かりますので、相対的に運賃は高かったでしょう。しかし、エネパで見れば貨物1個当たりの輸送エネルギーは、今の1/10以下だったと思われます。

その根拠は、鉄道輸送のエネパは、トラック輸送のそれに比べて丁度1/10程度に留まっているからです。それは、ちょうど鉄道車輪とレールの摩擦対ゴムタイヤと路面の摩擦の差なのです。モノを移動させるには、理科で習った様に、摩擦に打ち勝って移動させる必要があるからです。勿論、現代では、鉄道コンテナもトラックコンテナとの連携で、それなりに有効活用はされていますが、人手を介さない分エネパがさらに悪化している筈なのです。機械力には必ずエネルギーが必要だからです。人手(人力)は、いくら費やしてもエネルギー収支上はゼロとカウントされるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月10日 (火)

3005 下り坂を・・・

H田オリザの「下り坂を、そろそろと下る」を読もうと考えています。しかし、近くの本屋には置いてないし、図書館にも入っていませんでした。仕方がないので、先ずは書評を読みながら、中身を想像し、然る後に入手してゆっくりと読もうと思っています。さて、実はこのブログでもごく初期のころ、私たち(の国)は、すでに夕暮れ時に差し掛かっているのであるから、ソロソロ家に帰る準備をしなければならない、などと書いた記憶があります。子供の遊びを想像すれば、彼らは棒切れや空き缶や、肥後の守などを遊び道具を使って色々な遊びを考え出し、放課後を楽しく過ごします。

それを社会の様子に重ねれば、高度成長期においては、主に技術(遊び道具)を使いながら、私たちは色々な工業製品(遊び)を生み出して、それを喜ん使ってきたのでした。それらは、確かに私たちの生活に潤いを与え、物質的には豊かな社会を実現してきたことは間違いありませんが、結局それは「物質的には」という括弧付きの豊かさであったわけです。このモノの豊かさ、それらを使う楽しさと引き換えに、私たちは「ココロの豊かさ」を何処かに忘れてきたと思うのです。つまり、私たちは遊びに夢中になって、家から遠く離れて心細くなった子供にも似ているのかも知れません。

さて、表題の文庫本ですが、投稿者が喩えた「社会の日暮れ時」を、多分上り坂(高度成長期)と下り坂(現在と今後)になぞらえたと想像しています。誰であれ、今の豊かさが、何の問題も生じさせないで今後も続けられるとは思っていないのでしょう。大多数の誰かの、あるいは自然の犠牲無しに、一握りの人々だけが「モノの豊かさ」を享受する訳にはいかないのです。皆が、揃って下り坂をソロソロと下るしか道は無さそうなのです。そうでなければ、下り坂でブレーキが効かなくなった車か自転車の様に、坂の下でクラッシュ(ハードランディング)するしかないのす。坂はソロソロと下るに限ります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 9日 (月)

3004 時間短縮中毒

「便利である」、という事を別の言葉で説明するなら、要は「快適に時間が短縮できること」というと言う風になりそうです。快適に、という事は、暑さ寒さや苦痛を感じないで、しかも時間を短縮すると言う事は、より早く(速く)目的を達すると言う意味になります。暑さ寒さを感じずに、快適に過ごすには、衣服の他に屋根や壁で囲まれた、人工の環境(箱)と、エネルギーを使って、その中を温めたり、冷やしたりする必要があります。また、1馬力にも満たないヒトが、移動やモノを加工する時間を短縮するためには、機械とそれを動かすためには、やはりエネルギーに頼るしかありません。

つまり、私たちの便利・快適・時間短縮生活は、箱と機械とエネルギーによって支えられていると言えるでしょう。しかし、便利で快適な生活は私たちの気候に対する抵抗力=耐候性をかなりの程度弱めてしまいました。一方で、時間の短縮の努力は、自転車<車<鉄道<高速鉄道<航空機へと、間断なく続けられてきました。しかも、個々の交通機関は日進月歩で改良が続けられてもきました。

しかし、これらの努力に圧倒的に欠けていたのは、コストパフォーマンス(=コスパ)ではなく、「エネルギーパフォーマンス(=エネパ)」という視点だったと思うのです。つまり、快適さやスピードの加速を、数値化できると仮定すると、1単位当たりの快適さやスピードを得るために、どれだけのエネルギー単位を費やしたか、という勘定なのです。さらに細かく見ると、全てのエネルギーは、その使用によって、必ず最後は熱になって、環境や宇宙に放散されるという事実にしっかり着目する必要性があるでしょう。つまり、機械を動かせば摩擦によって必ず熱が出ますし、住宅を冷暖房すれば、壁や屋根や窓から必ずエネルギーの出入りが生ずるのです。気密性の悪い家の冷暖房程エネルギーの無駄使いの典型は見つからないでしょう。同様に、私たちは、あまりにもエネルギーの使用の無駄に無頓着すぎますし、漏れて放散するエネルギーを無視しているのです。便利・快適中毒や時間短縮中毒に付ける薬としては、結局はエネパを数値化したものしか見当たらないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 8日 (日)

3003 豊かな所有?

戦後、モノの無い環境で育った団塊世代は、高度成長期を通じて、出来る限り多くのモノを所有する事こそが幸福の条件だと信じて、皆が突き進んできたと見ています。その少し後ろを歩いてきた投稿者の世代は、少し上の世代が、ブルドーザの様に幅を広げ、平らに均した道を、結構楽に進んできた「得な世代」でもあった訳です。しかし、最近ますます疑問に思うのは、モノの充足こそが人間の幸福につながる、という基本的な20世紀型の価値観です。つまりは、豊かな所有=幸福というテーゼです。

最近は、そうでなくて、豊かな所有≠豊かに生きる、ではないかと思うようになったのです「豊かに生きる」の豊かとは、つまりはココロの豊かさを指すと考え始めたのです。もちろん、もし今の自分の生活が喰うや喰わずやの生活に陥っていれば、兎も角も明日のメシを心配しないで生きたいと思うのかも知れませんが、幸いな事にはそれよりは少し余裕のある生活が送れている様なのです。

そこで、豊かに生きるにはどうしたら良いのか、を当面の人生の課題に据える事にしたのです。ココロの満足感や充足感を得るには、何より自分の活動が、他の誰かの役に立っている、という生き甲斐を感ずるのが最善でしょう。お金持ちであれば、困っている人たちにバンバン寄付をすれば良いのでしょうが、貧乏ではそうもいきません。仕方がないので、技術屋その後は環境屋として生きてきた、自分の経験を何らかの形で社会に還元することを、投稿者の当面の目的に据える事にしたのです。より具体的に言えば、技術を持続可能な形で社会に役立てることの手助けをすること、という中身になります。そのため、ここ4-5年は、企業の環境経営活動の手助けや、市民や学校の環境学習、あるいは持続可能な産業を興すための火付け役を意識してきたつもりです。このブログは、その中で考えた事を残す事も目的としています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 7日 (土)

3002 生業を作る5

田舎は、住宅の敷地も広く、住宅事情も良いように思われがちですが、実は住宅に関していえば、住宅部分は面積が徒に広く、また断熱性能なども貧弱で、光熱費は結構掛かるのです。住宅設備も、例えば風呂やトイレなども、快適さとはほど遠いのが実情です。そこで、ここでは、田舎の生業として「住宅リフォーム業」を提案しようと思います。住宅のリフォームには、いくつかの段階がありそうです。今回は水回りのリフォームを取り上げましょう。

いわゆる、水回りのリフォームは、台所とか給湯、浴室などのリフォームを主体に行うもので、予算もソコソコに少なくて済むでしょう。しかし、このリフォームで不可欠なアイテムがある事は忘れてはならないでしょう。それは「太陽熱温水器」です。これにも、いくつか種類があって、主なものは集熱器と貯湯タンクが一体になったモノと、集熱器と貯湯タンクが別々になっていて、タンクは地上に設置するタイプです。おススメは後者で、貯湯量も300リッターは確保したいところです。このタンクには、減圧弁を介して水道がつながっており、水道圧でお湯を押し出すのです。一方、太陽熱は、季節や天候によって強弱があるので、補助熱源は必須でしょう。最も安価で、単純なシステムは、貯湯タンクからの出湯パイプの途中に「直列に」ガスや石油の給湯器を繋げば良いでしょう。太陽熱が足りない日には、ガスや石油で補う事になります。

太陽熱を併用する事により、地域にもよりますが、化石エネルギーの使用量を、大幅に減少(例えば半減)させる事も可能です。予算に余裕があれば、補助熱源として、ペレットボイラを選択するのも良いでしょう。但し、現状では適当な国産の小型ペレット給湯システムが殆ど見当たらないので、欧州製に頼る必要がありますが、近い将来国産の技術も追いつくでしょう。生業としては、この新しい「再エネ給湯システム」の設計や取りまとめをするビジネスも、将来有望でしょう。取り敢えずは、欧州製の後追いにはなりますが、この国の量産化やコストダウン技術を駆使して、さながらかつての家電の様に、欧州製を追い越す事も可能でしょう。必要な事は、使い勝手の向上やコスト削減のための工夫の積み重ねなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 6日 (金)

3001 燃費レース

M菱の不正が、燃費向上(のチキン)レースが背景の一つになったのは間違いないでしょう。しかし、燃費をジリジリと向上させていくのは一つのやり方ではあります。部分的にバッテリーでバックアップするセミハイブリッド化したり、アイドリングストップを組み込んだり、コンピュータで燃料の量をコントロールしたりといった、現在の技術の延長線での改良です。これはリスクがあまり大きくないので、短期的な成果を出したい場合には有効でしょう。とは言いながら、メーカー間でジリジリと改良競争をするのは、あまり賢いやり方とは思えません。

他のメーカーと差別化したいのであれば、技術改良のジャンプアップが必要だと思うのです。これまでの技術の延長線上ではなく、例えばこれまでより3割軽い車体を開発し、それに伴って「ばね下荷重」を小さくし、結果として走行抵抗を3割程度下げる事が出来れば、リッター40㎞かそれ以上の燃費性能も叩き出せる筈です。1㎞や小数点以下の数字を競うチキンレースではなく、本物の技術で他を圧倒するガチンコ勝負をしてもらいたいのです。それは、決して不可能でない事は、実はすでに過去に証明済みなのです。かつて、軽自動車の排気量が360㏄に固定されていた時代がありました。非力なエンジン出力をカバーするためには、実は車体の軽量化という選択肢しかなかったのです。

例えば、F士重工では、かつて初代のカブトムシ型の車には、軽量化の為になんと複合材(GFRP)トップや樹脂窓を用いたりしていたのです。今の時代で言えば、キャビントップなどにはさらに軽量なCFRPやアルミ材などの採用も、設計次第ではそれほどのコストアップ無しに可能でしょう。もちろん、軽量化には事故の際の危険性の増大というリスクもあるでしょう。それを飲み込んだ上で、燃費を取るか、あるいは燃費が悪くても安全性を重視するかは、ユーザーの選択肢にゆだねれば良いのです。その意味では、現在の車メーカーは、かつてより設計思想がコンサバになっていると言わざるを得ないかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 5日 (木)

3000 世界標準の家?

投稿者はラッキーなことには、サラリーマン時代に多くの国へ渡る機会が与えられました。そのうち2回は、それぞれ1年に亘って現地に駐在していましたので、単なる短期旅行とは異なり、国情や産業界の状況を、肌感覚で知る機会が持てたのでした。ところで、マスコミに頻繁に踊るキーワードとして、「グローバルスタンダード」という言葉がありますが、その際引き合いに出されるのが、例えばAップル、だったりHンハイだったり、Sムスンだったり、巨大コングロマリット(これも懐かしい言葉になりました)と、それらに敗れた国内企業を比較する中で、国内メーカーがシュリンクした原因として、グローバルスタンダードからの逸脱があった様な言われ方がされている様な気がするのです。

確かに国際競争に打ち勝つためには、企業合併を繰り返し、マーケティングに力を入れ、研究開発に勤しむのも一つの方向でしょう。しかし、投稿者の見方は大分違います。表面に出ている、巨大で華やかな部分は、絵にもなってマスコミにも多く露出しますが、重要な部分は日々の生活の中身であり、質だと思うのです。何を着ているか、何を食べているか、どんな住居に住んでいるか、休みの日には何をして過ごしているか、と言った基本的な部分が質素でも、キチンとしている事が重要だと思うのです。B国の状況はあまり参考にはなりませんが、ヨーロッパのいくつかの国々には、確かにしっかりした生活の質の良さを確認する事が出来ます。

例えば住宅です。Iタリアを除けば、火山や地震の心配が無い事もヨーローッパのメリットにはなるのでしょう。そのため、石積みの建物を何百年にも亘って使い続ける事も可能です。必要な事は、内装や外装に手を入れて維持する事だけです。住がしっかりしていると、お金はその他の分野に掛ける事も可能でしょう。つまり、グローバルスタンダードに近づくためには、何も最先端の電子機器が必要な訳ではないのです。先ずは、耐久性の高いしっかりした住居を揃える事から始めるべきでしょう。三匹の子豚の寓話ではありませんが、木造は、やはりセカンドベストでしょう。地震の多いこの国では、流石にレンガ積みでは持ちませんが、しっかりした鉄骨構造なら、躯体は100年以上持たせる事も可能でしょう。ライフスタイルの変化に合わせるためには、内装だけを変えれば良いのです。先ずは、住宅をグローバルスタンダードに近づけなければ、この国は何時まで待っても一等国にはなれないでしょう。災害は、間違いなく繰り返しやってくるのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 4日 (水)

2999 漢方薬

素人なりに見ていると、漢方薬というものは、結局は体に良い成分がジワジワと効いてくるモノなのだと思っています。西洋医学が、症状や病原菌に直接的に働きかけて、症状を和らげるか、消そうとする対症療法であるのに比べ、漢方薬はいわば免疫力を高めたり、弱っている体質改善につながる様な成分を、色々組み合わせている様に見えます。

もちろん、ここで全くのド素人である漢方について書くつもりは毛頭ありません。今この国が直面している多くの問題・課題に効く薬について考えてみたいのです。今、何本の矢だか知りませんが、国が打っている策の殆どが「対症療法的」である事は否めないでしょう。景気が悪くなれば、金融や財政で手当てをし、失業が増えれば自治体に交付金をばら撒き、訳の分からない言葉「地方創生???」を示し、それを無理やりに絵に描けとノタマワウのです。

そうではなくて、今必要は事は、この国の体質をじっくりと診察した上で、処方すべき漢方薬を決めるべきなのです。もし、この国が人で言うところの「壮年期」や「初期の老齢期」に入ったのであれば、無理やりに「カンフル剤」を処方すべきではないでしょう。冷え症気味の手足の血流を改善するとか、あるいは弱り気味の免疫機能を少し高めるとか、あるいは薬ではなく日常的な運動を奨励するとか、などの穏やかな処方を言い渡すべきだと思うのです。

これも素人なりですが、この国の経済の体質が弱っている様に見えるのは、未だに20世紀型の、大量生産、大量消費型経済にドップリと漬かっているからに他ならないと見ています。今、この国が、あるいは世界が求めているのは、経済成長ではなく、持続的な社会を形作る上で必要な技術や経済の仕組みだと思うのです。長い間デフレに苦しみ、急激な人口減少や超高齢化社会に入りつつあるこの国だからこそ、それを逆手にとって、穏やかに暮らせる持続可能社会を提案すべきだと思っています。具体策については、折に触れて書いても来ましたし、これからも書き続ける事にします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 3日 (火)

2998 生業を作る4

計画中の自宅の給湯設備は、是非バイオマス(木質ペレット)燃料で賄おうと計画しています。しかし、その設備の面倒を見てくれそうな業者が地域で見当たらないのです。メーカー既製の、電気やガスや灯油をエネルギー源とする給湯システムは、結構リーズナブルな価格て手に入ります。この国のメーカーが得意の「量産化技術」を磨いて、互いに競争しながらこなれた価格で市場に出しているからです。

しかし、投稿者が頭に描いている、太陽熱とバイオマスを併用したシステムは、ヨーロッパ製にはいくつか候補が見つかりますが、国産では皆無です。国産としては、やっとペレットストーブが種類が増えて、選択肢が広がってきた段階だと言えるでしょう。しかし、価格的にはこなれた価格(例えば20万円以下)には程遠い、その2倍ほどの高値で推移しています。その高い価格故に、普及が進まない、だから量産化出来ない、というジレンマから抜け出れないのです。

メーカーは発想を変える必要があると思うのです。つまり、既存の量産品を流用しつつ、価格のこなれたシステムを作り上がれば良いのです。太陽熱温水器と貯湯タンクを含む「太陽熱温水システム」は、高くない数十万円で手に入ります。これに、熱交換器を内蔵し、ボイラ機能を持たせたペレットストーブと組み合わせれば、100万円を少し超える程度の価格で、システム化が可能でしょう。太陽熱温水器を提供する量産メーカーは、オプションとしてペレット焚きのバイオマス補助熱源を設定すれば良いでしょうし、ペレットストーブメーカーも量産メーカーと提携して、太陽熱温水器をオプションに設定できるでしょう。相互乗り入れのOEMです。どちらのメーカーにも不足しているのは、顧客が望む多様なニーズに対応できる、システムとしてのインテグレーション力だと思うのです。そこを切り開けば、殆どが零細規模に留まっているペレットストーブメーカーも住宅機器メーカーとして事業の幅や規模を拡大する事が可能になるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 2日 (月)

2997 生業を作る3

では具体的な生業をさらに考えてみます。まずは、自分自身の生活を支える技を磨けば、その延長線上にメシも食える生業も見てくると思うのです。ところで、投稿者は、入社後の10年余りは、船舶の修理部門に籍を置いていました。勿論、技師なので自分で手を動かして、修理をする訳ではありませんが、少なくとも不具合の内容を確認し、明確な修理方案を現場に示す必要はありました。修理屋としての10年間の経験は、しかし船舶に搭載されているあらゆる機器、つまりはエンジンやボイラやタービンやポンプなどの機器、それを支える、熱交換器や造水器や送風機などなど、あらゆる機器の故障を目撃し、その修理方法を体得したと思っています。

これは、たぶん生業になり得るワザでしょう。この経験に少し足りないと思うのは、たぶん電気関係の知識だと思いますが、その知識を持つ別の人と手を組めば、たとえば大型風車の故障診断やメンテナンスだって十分可能だと思っています。世の中には、車や工場設備を含め、機械が溢れていますが、残念ながらユーザーやオペレータが、それらの機械の構造を熟知しているとは言えないのです、構造を理解しないままの使用は、時として故障や、事故さえも引き起こすのです。

これは、投稿者なりの経験ですが、全ての設備(機械)は、毎年取得価格の数%のメンテナンスコストを掛けないと、寿命を全うする事は難しいのです。例えば、200万円ほどの車を買った場合、オイルや消耗品などで毎年数万円ずつほどのお金を掛けていかないと、例えば20年という製品寿命を確保できないでしょう。ここでの提案は、地域社会に大小の、メンテナンス産業を興すと言うものです。大は、風車などのインフラの未然の故障診断や修理、小は車以下の日常で使用する機器や住宅設備のメンテナンスや故障修理業などです。故障が起こってからだと、修理費も高くつきますので、メンテナンス契約によって定期的な掃除や点検を行うようにすれば、立派な生業になり、産業ともなるでしょう。ここでも、メカ屋と電気屋が手を結べば、パワーは2倍以上に増大するでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 1日 (日)

2996 生業を作る2

2982の続きです。生業とは、継続的に「飯を食っていく」ための手段という事も出来るでしょう。昔であれば、それこそ日々の食料を得るためと、加えて住むための家を借り、季節ごとの服などがあればどうにか暮らしていけたでしょう。しかし、今特に都会で暮らしていくためには、現金が不可欠です。とにかく、何をするにも「お金」が必要なのです。食料は全て、スーパーやコンビニなどで買い、あるいは外食で済ますかですが、お金が無ければ何も口に入らないでしょう。住宅だって、タダで貸してくれるところなどありませんから、狭い住宅を買うか借りるかしなければなりませんし、収入に占める住宅費の割合は非常に大きくなるでしょう。衣服費は、それでも切り詰めようとすればどうにかなるのでしょうが、都会では着飾る誘惑も大きいのでしょう。

田舎では事情はかなり違います。空き家になっている家を借りようと考えれば、信じられない様な安い家賃で済むでしょう。多少のDIYの腕があれば、古い住宅だって自分で快適に改修できるででしょう。場合によっては、敷地に畑が付いていて、野菜くらいは作れるでしょうし、そうでなくとも、季節ごとに野山に分け入れば、山菜だって採れるでしょう。しかし、田舎でもどうしても現金が必要なのは、光熱費と税金でしょうか。そういえば忘れてならない教育費もありました。田舎のメリットの一つに、現金があまり要らない事がありますが、これらについては現金収入が少ない暮らし方では、重くのしかかってくるでしょう。その中で、実は光熱費の割合がかなり大きい点には注目すべきでしょう

光熱費の中には、言わゆる電力や水道や化石燃料などが含まれますが、その中でも化石燃料が圧倒的に大きいのです。北国では冬季の暖房に灯油を使うケースが殆どなのですが、夏季の給湯と併せると、平均的には30-40万円/年程度は消費している事になります。通勤や買い物に使うことが多い(複数台の)乗用車の燃料代を加えると、50万円を軽く超える金額になるのです。何のために生きるかと、基本的な問いに、光熱費を払うために働くと言う主客転倒の答えになり兼ねない状況だとも言えます。生業とは、結局は中東のお金持ちに石油代金を払うために(現金)収入を求めて働くのではなく、地域にある資源を上手く活用しながら、お金にあまり依存しない生活を支えるために働く事を指すと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »