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2017年2月14日 (火)

3232 ポスト契約社会

西欧社会やモスレム社会を含め、言わゆる「一神教」の世界は、たぶん契約社会だと言っても良いのでしょう。つまり、その社会を構成する人々は、唯一無二の神や預言者との間に無条件に「信仰と言う契約」を結び、同時に他の宗教を排除すると言う「契約」を結んでいる社会であるとも言えるからです。従って、これらの社会では物事の取り決めに「契約」が重視され、シェークスピアの戯曲ではないですが、時にはそれ契約が人の命さえ左右しかねないものとなる場合もあるのです。

しかし、契約社会は一方では逃げ道の無い社会でもあり、もっと言えば限界のある社会でもあると思うのです。契約に無い事は、しなくても誰も咎めませんが、同時に神や預言者の残した言葉の範囲からはみ出ることもできないからです。何故なら、それが絶対的な真理だと信ずると「契約」してしまっているのですから。真理を疑うことは、契約上できない相談ですし、真理からの逸脱は、未だに思い罰の対象である一神教社会も多いのです。他者との契約では、その契約を「言い訳」に使う場合も多いのではないかと疑っています。教義に無いことは、存在しないも同然ですから、無視しても良いと判断できますし、他の社会では許されない事でも、教義が許せば実行しても構わないと開き直れるのです。

一方で、かつてのこの国の民の様に特に契約などせずに、八百万の神々を「畏れ敬う」というアプローチもあり得るのでしょう。そのメリットとしては、何しろ契約などしていないのですから、畏敬の念は持ってはいても、完全にそれに縛られる必要もないでしょう。しかし、だからと言って何を信じても、何をしても良い完全な自由が許されるという訳ではありません。それにブレーキをかけるのは、たぶん「内なる誓い」ではないかと思っています。自分で自分の欲望に打ち勝つには、自分に許されるリミットを自覚し、それから踏み出さないことを自分に誓うという行動です。別に、神や預言者に「規定」されなくとも、人としてして良いことと、してはならないことは、自ずと決まってくると思うからです。その基準としては、環境屋になった投稿者としては、全ての価値観に優先するのは、実は「持続可能性」ではないかと言いたいのです。たぶん続きます。

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