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2017年2月27日 (月)

3235 モノの価値

長期の出張から帰って、投稿再開です。暇な時は、モノの価値について時々考えます。モノの価値は絶対的なものではなく、当然の事ながら個人や社会の持つ価値観と結果としての相対的な価値で決まるものだと思います。先ずは価値観ですが、これも人や社会によって大きな差があるでしょう。それは、ヒトを「人間」と書くように、ヒトは群れて社会を作る存在であり、その社会の中で揉まれて初めて価値観を醸成していくしかないからです。社会的に承認されない価値は、最終的には個人にとっても価値が無いと感じてしまうでしょう。

さて、今の世界で普遍的に価値が認められているものに「お金」があります。その昔「お金」は入手が難しい金属、とりわけ貴金属で作られ、その価値は当然の事ながらその重さで決まっていました。取り分け金(ゴールド)は、その希少性と現代ではエレクトロニクス向けなどのメッキ金属の仕手の重要性ゆえに、未だに大きな価値を持った金属であり続けています。とはいうものの、ゴールドが持つ価値の総量は、その埋蔵量と流通量の範囲内に限られるでしょう。

しかし、今世界中に流通している「お金=通貨」持つ価値の量は、ほとんど無限の様に見えます。各国の通貨発行を担う中央銀行が、紙幣印刷機や貨幣製造機を動かせば、事実上いくらでも発行できるからです。もちろん、いたずらにマネーを発行し続ければ、その通貨の価値は下落し、信用を失うでしょう。その意味で、現在のマネーの価値は、それを発行する国の信用の上に保証されているだけの「儚い」価値だというしかありません。もし、本当に必要なモノの供給がひじょう極端に不足して手に入らなくなった場合、相対的にお金の価値は下落し、いくらお金を積んでもモノが手に入らない事態に陥る事でしょう。つまり、お金の価値が「相対的に」下落してしまったのです。

さて、どの様な時代になっても、どの様な社会で暮らしたとしても、必要最小限の水や食料とエネルギー源などは、確実に価値を持ち続けるモノであり続けるでしょう。水や食料無しには、私たちは1か月も暮らせないでしょう。夏はともかく、寒い冬は何らかの暖房や煮炊きに使うエネルギー無しには暮らせないでしょう。かつて北米のイヌイットは、氷で出来た家に住み犬ぞりを駆使して猟に出て、海獣の生肉や干し肉で暮らしていたかも知れませんが、現代社会では猟にはスノーモビルが不可欠ですし、暖房の効いた家に住んでもいます。先ずは、衣食住の基本部分についての価値を認識し、その自給自足に少しでも近づく努力が必要なのでしょう。しかし、都会の高層マンション暮らしでどれほどそれが現実的かを考えれば、途方に暮れるしかないのでしょうね。

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2017年2月16日 (木)

3234 重厚長大産業の終焉?

T芝の凋落が加速しているとの報道が続いています。しかし、これは引いた目で見ると、もしかして重厚長大産業の終わりの始まりとも見えてしまうのです。曲がりなりにも、重厚長大産業の片隅でサラリーマン時代を過ごしてきた身としては、その気配を身近に感じざるを得ないのです。投稿者の若かった時代(70年代)は、重厚長大産業は華やかでした。産業のコメである鉄が大量生産され、その原料や製品を運ぶ大型船は、作れば飛ぶ様に売れたのです。それを下から支えるインフラ、電力網や道路網や都市インフラが日夜伸び続け、大量生産、大量輸送、大量消費の時代に突入したのでした。まさに「大きい事は良い事だ」のCFそのままの時代だったのです。

戦後解体させられた大企業は、再び直接あるいは間接にまとまり、「寄らば大樹」の時代になったのでした。豊かになった消費者に支えられて、家電や車産業も急速に拡大し、そのすそ野も大きく広がったのでした。インフラ整備の背景で、この狭い国土に原発が50基以上も建設され、「安定電源」として国策としても後押しされてもきたのでした。モノが大量に消費される際に出るゴミも、各自治体にそれぞれ数百億円もの巨費を投じた大型ゴミ焼却炉が建設され、結果としてゴミは分けずに燃やす時代になったのでした。

この時代を、影になり日向に立ちながら裏から支えたのが重厚長大産業だったのです。その中に数十年席を置いた立場としては、自分のサラリーがそこから出ているとはいえ、あまり納得していたのではなかった、と振り返っています。だからこそ、世間のサラリーマンよりはかなり早めに企業を卒業する事としたのでした。

さて、重厚長大産業の行方です。結論から言えば、それぞれが適正サイズに分割、または縮小せざるを得ないのでしょう。時代が、もはや巨大なインフラ建設を求めては居りませんし、今後はむしろ既存インフラへの細かなメンテナンスが必要な時代に入って居ると言えるでしょう。大量生産、大量輸送、大量消費時代は終わりを告げ、必要なものを、必要なだけ、必要する地域で生産する事が是とされる時代に入らなければならないのです。それは、単に投稿者だけの勝手な予測ではなく、それこそが時代の必然だと思うのです。

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2017年2月15日 (水)

3233 ポストモダニズム

3231の続きの様なものです。なんとなく分かったつもりの「ポストモダニズム」という言葉ですが、自分の頭の整理のためにも少しだけ嚙み砕いてみます。さて、近代文明は、あらゆる部分で閉塞感を呈し始めている様に思えます。建築の分野で、1980年代に叫ばれ始めた「ポストモダン」は、その後概念としてのポストモダニズムとして一般化され、それまでの唯一無二の価値観の文化から、多様性を重視する文化論へと進化したのでした。

ポストモダニズムの背景には、3232でも書いた様に、価値観が固定されている社会では、どうしても行き詰まる場面が多くなることが隠れていそうな気がします。何しろ、それまでの価値体系では、ああすればこうなるという起承転結がほぼ決まっていますので、それから外れる事は許されないか、悪くすれば批判の対象ともなるからです。しかし、多様性が許される社会では、アプローチのルートが数多くあり得る訳で、ゴールですら一つではなく、複数存在し得る訳です。

その意味で、投稿者としては、20世紀を通じて支配してきた価値観、つまりは科学技術に依拠して、国際交易を活発にする自由主義経済とその成長を100%是とする、「モノ・カネ」主義が、ソロソロ期限切れになってきたのではないか感じているのです。とは言うものの、ではどうすれば良いのか、と言う漠然とした問いに応える理論的リーダーや新しい宗教家もまだ現れていない様なのです。このままでは、ポストモダンはそのまま「カオスの時代」に突入してしまうのでは、と言った危惧すらありそうです。私たちは、一体何に価値を置き、あるいは生き甲斐を持って生きて行けば良いのでしょう。表題のポストモダンが何処かに行ってしまいましたが、引き続き、この単純な頭で考えていく事にします。

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2017年2月14日 (火)

3232 ポスト契約社会

西欧社会やモスレム社会を含め、言わゆる「一神教」の世界は、たぶん契約社会だと言っても良いのでしょう。つまり、その社会を構成する人々は、唯一無二の神や預言者との間に無条件に「信仰と言う契約」を結び、同時に他の宗教を排除すると言う「契約」を結んでいる社会であるとも言えるからです。従って、これらの社会では物事の取り決めに「契約」が重視され、シェークスピアの戯曲ではないですが、時にはそれ契約が人の命さえ左右しかねないものとなる場合もあるのです。

しかし、契約社会は一方では逃げ道の無い社会でもあり、もっと言えば限界のある社会でもあると思うのです。契約に無い事は、しなくても誰も咎めませんが、同時に神や預言者の残した言葉の範囲からはみ出ることもできないからです。何故なら、それが絶対的な真理だと信ずると「契約」してしまっているのですから。真理を疑うことは、契約上できない相談ですし、真理からの逸脱は、未だに思い罰の対象である一神教社会も多いのです。他者との契約では、その契約を「言い訳」に使う場合も多いのではないかと疑っています。教義に無いことは、存在しないも同然ですから、無視しても良いと判断できますし、他の社会では許されない事でも、教義が許せば実行しても構わないと開き直れるのです。

一方で、かつてのこの国の民の様に特に契約などせずに、八百万の神々を「畏れ敬う」というアプローチもあり得るのでしょう。そのメリットとしては、何しろ契約などしていないのですから、畏敬の念は持ってはいても、完全にそれに縛られる必要もないでしょう。しかし、だからと言って何を信じても、何をしても良い完全な自由が許されるという訳ではありません。それにブレーキをかけるのは、たぶん「内なる誓い」ではないかと思っています。自分で自分の欲望に打ち勝つには、自分に許されるリミットを自覚し、それから踏み出さないことを自分に誓うという行動です。別に、神や預言者に「規定」されなくとも、人としてして良いことと、してはならないことは、自ずと決まってくると思うからです。その基準としては、環境屋になった投稿者としては、全ての価値観に優先するのは、実は「持続可能性」ではないかと言いたいのです。たぶん続きます。

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2017年2月13日 (月)

3231 ウィルスとしての文化(論)

最近ブログに書くネタが少なくなって来たような気がしていましたが、考えてみればここしばらく本を殆ど読んでいない事に気が付きました。単身赴任の数年間は、仕事が入っていない時は暇を持て余して、夏は山々に入って彷徨し、冬は読書に勤しんでいたものでしたが、竟の住み処を構え連れ合いと再び同居を始めると、何かと雑用が増えて、本から離れてしまっていた様なのです。そうなると、人間の頭の中身などは知れているので、毎日ブログを書き続けていると短期間の内に「ネタ切れ」になってしまう様なのです。ネタは、読書や人との密な交流から生まれてくるものらしく、最近は頭の中が少し薄まっていたかも知れない、と反省した次第です。

早速図書館で、少し前話題になったYNハラリの人類の全史と題された本を借りてきたのでした。上巻は誰かに借りられていたので下巻から読み始めましたが、この壮大な文明論はなかなかに刺激的でもありました。その中で少数意見として引用されていた、いわば「ウィルスとしての文化論」に強く共感してしまいました。そこでは、文化は、その文化圏に所属する人間の体を「宿主」として増殖するウィルス様に、その社会の構成員の利益などには頓着なく、文化それ自体の繁栄と存続のために、人間を利用するものだ、と言うやや乱暴とも言える考え方なのです。

しかし、投稿者なりに、例えば経済活動に置き換えてみると、何故かすっきりと理解出来る様な気がしてくるのです。文化を、例えば「マネー」に置き換えてみましょう。つまりは、お金は決して金持ちのためにあるのではなく、お金は自分自身を増殖させるために、貧乏人を踏み台にしつつ、金持ち達を利用しているに過ぎないとも考えられるでしょう。ある金持ちが、ビジネスや利殖に失敗して落ちぶれようが何しようが、お金は次の宿主(他の金持ち)に乗り換えて、更なる増殖を続けるだけなのです。お金=ウィルスと見做せば、今の文明=自由主義経済が持続する限り、お金の量が減る事などあり得ないという結論になりそうなのです。いわば、お金=ウィルス論も成り立ちそうな気がするのです。

この見方を文化(文明)に敷衍すれば、人権と自由主義経済と科学技術を是とする今の文明は、人類が滅びようが、自然が取り返しがつかないくらい破壊されようが、人類を利用して行き着くところまで突き進んでしまう、と言う悲観的な結論に至ってしまいそうなのですが・・・。残念ながら。

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2017年2月12日 (日)

3230 MustとWant

サラリーマン時代、上司から業務遂行の優先順位の付け方に関して繰り返して叩き込まれたように振り返っています。それは、業務をMust(絶対期限まで終わらせなければならない事ども)とWant(それが望ましい事ども)に分け、先ずはMustから手掛けて完了させる事を優先せよ、といったものでした。Wantも勿論重要ですから、Mustをやっつけた後には当然の事ながら直ちに着手する事にはなりますが。

さて、今のこの国のリーダーと取り巻きの最重課題すなわちMustは、間違いなく「景気対策」である様に見えます。そのためには、禁じ手に近いマイナス金利や、遠回しの円安誘導や、あるいは赤字国債の増発による史上最大の予算を打ち出すなど、手段を選ばず、といった政策を続けているのでしょう。また同時に、景気対策にもなるとして輪が五つあるお祭りの国を挙げての誘致でも、リーダー自ら乗り込んで行ってのプレゼンで、フクシマには何も問題は無いなどとする強弁をもって無理やり引っ張ってきたのでした。

しかし、この国のMustは決して景気対策Onlyではないでしょう。フクシマ収拾問題は、マスコミの露出頻度が低下しただけであり、格納容器の中ではリモートカメラが短時間で故障してしまうほどの、強烈な放射能で満たされている事態に何ら前進は見られない状況は変わってはいません。それどころか、汚染水処理の問題はますます深刻になっているでしょうし、短時間のカメラ映像でも、格納容器下部に溶融落下したデブリの状況は、予想以上に手が付けられない過酷な状況であることが明らかになってきた訳です。フクシマ事故の早期収拾こそ、この国のMustでなくして、一体何を挙げるべきなのでしょう。

一歩譲って、景気対策がWantであるにせよ、B国の新リーダーにすり寄ってまで、集中すべきIssueではないでしょう。オッと、また愚痴になりかけていますので今日も短く。

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2017年2月11日 (土)

3229 木質燃料2

品質幅の大きな燃料を上手く使いこなすためには、工夫が欠かせません。工夫の重要な一つは、「空気量=酸素量」でしょう。ある発熱量を持った燃料(炭化水素)は、ある量の空気量で完全燃焼し、それ以上の空気量では空気過剰、それ以下では不完全燃焼を引き起こすでしょう。しかしながら、供給される燃料は、必ずしも一定ではなく、時々刻々変動するので、空気量を固定していては完全燃焼状態を持続させる事は出来ないのです。そこで、排気ガスの残存酸素量をモニターして、その量に応じて空気量を増減させてやる必要があります。つまりは燃焼制御です。

一方で、石油やガスとは異なり、木質燃料では燃やすためには先ずは輻射熱で燃料を加熱し、燃料をガス化してやる必要があります。つまり、燃焼皿に燃料を置き、着火させるだけは条件としては不十分なのです。燃焼皿の中の燃料を持続的に燃やすためには、供給された燃料を速やかに発火温度(300℃後半)に上昇させなければならないのです。そのためには、燃焼ポッドの設計は重要でしょう。蓄熱性が髙く、輻射熱を多く発する材料としては、元技術屋としては、やはり「鋳鉄」が最適だと思っています。

更に言えば、木質燃料の最適な燃焼を持続させるためには、燃焼後に残る「燠(おき)」と、新たに供給される燃料との位置関係やそれらが作る形も重要です。つまり、下に燠があり、上に燃料が置かれて、下から空気が供給される時、理想的な燃焼が始まるからです。これらの条件を実現するのは結構大変です。しかし、木質燃料は、3228にも書いた様に、燃料性状のバラつきが大きいため、石油やガスバーナーなどとは比べものにならないくらい上手い工夫が求められるのです。結局、それを実現するためには、燃焼制御にきめ細かいパラメータが設定できる機能を盛り込んでおく必要があるのでしょう。取り分け、燃料供給量と空気量の微調整が出来る機能は必須です。国産のペレットストーブ(ボイラ)やチップボイラには、先進的な機能を持つ欧州製に比べて、それらの機能が不足している点は、やはり寂しいものがあります。「頑張れ国産」と結んでおきます。

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2017年2月 9日 (木)

3228 木質燃料

ペレット(ボイラ)生活を始めて20日ばかり経過したが、強く感ずるのは、やはり木質燃料は、石油やガスとは違う、いわゆる固形燃料であるという点です。モノが燃えるのは、当然の事ながら液体や固体が直接燃える訳ではありません。いずれにしても、液体の燃料や固体の燃料が、ガス化した上で、燃焼空気と適度に混じり合い、それが発火温度以上であれば燃焼するという順番になるのです。特に固形の燃料の場合は、まず燃料全体が輻射熱で熱せられ、燃焼ガス(主成分は水素と一酸化炭素などの炭化水素の分解ガスですが)が発生し、そこに十分な量の空気=酸素があると燃焼が始まる事になります。通常、この過程はゆっくり進むので、木質燃料や石炭などの固形権料が爆発的に燃焼する事は起こらない訳です。もちろん、木材や石炭といえどもそれを微粉化したものを燃焼させる場合には話は別で、いわゆる「粉塵爆発」を起こし、瞬間に爆発的に燃焼してしまうでしょう。

もう一つ、木質燃料や石炭などは、原料となった木材や石炭の産地によって、性状や特性に大きなバラつきがあることを忘れてはならないでしょう。場合によっては、重量当たりの熱量に13割程度の差があったり、燃え方や燃焼後の灰の量にも大きな違いがあったりもするのです。何より、固形燃料を最適な量の空気で燃やすのは、やはりかなり難しい技術だと言うしかないでしょう。一つの方法として、燃料をまず一次燃焼させた上で、燃焼ガスをより高温の二次燃焼室へ導き、正確にコントロールされた量の二次燃焼空気で燃やせば、残留酸素量として78%程度の「完全燃焼」が期待できるのです。当然の事ながら、燃焼ガス中の残留酸素量を正確にモニターし、適切な応答速度を持ったシステムにより空気量を制御する必要があるでしょう。残念ながら、国産のバイオマスボイラには、特に小型の分野には、そこまで制御できるボイラが未だ製造されていないのは寂しい限りではあります。技術は十分あるのに・・・。続きます。

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2017年2月 8日 (水)

3227 スマホる

気が付けば、自分の子供たちを含め、若者はスマホを片時も手放せなくなっている様なのです。もちろん、重要なニュースや情報やメールがそんなに頻繁に飛び込んでくる筈もないでしょう。それでもスマホが手放せないのは一体何故なのでしょうか。背景には、都会に一人暮らしする若者が孤立しがちな現代社会で、ネットや緩い友達関係と繋がりたいという「強い欲求」がありそうな気もしますが、昭和世代にはスッキリとは理解できない行動でもあります。

投稿者としては、大切なのは情報の丸呑みではなくて、「情報のソシャク」ではないかと言いたいのです。次々と流れてくる情報を一々咀嚼していたのでは、消化不良を起こしてしまうでしょう。ならば、自分に入れる情報の流れを絞らなければならないと思うのです。つまりは、Minimul sufficient(必要最小限)を狙うしかないのです。先ずは、要らない情報にアクセスせずにスルーする術を身に付けなければなりません。もちろん、息抜きの時間に肩の凝らないゴシップや趣味の情報を眺めるは仕方がないでしょう。しかし、それが生活の中心になってはならないでしょう。投稿者も、一時はスマホを持っていましたが、数年で通信手段をガラ携とパソコンに戻しました。

要は自分がアクセスが必要な時にパソコンを開けば良いのです。

とは言いながら、情報リタラシーは必要でしょう。今流行のFake newsに惑わされないためにも、絶対に必要です。ネット上の情報は、仮のものであるか、あるいはウソだと思うべきでしょう。では何が本物か、と言われればそれは取り敢えずは、自分で直接確認した情報か、あるいは本や論文になっている情報だと言うしかありません。本にも怪しい情報は載っているのでしょうが、一応「査読」や「校正」が行われているでしょうし、それが長く読まれているものであれば、信頼度は高いと考えて良いでしょう。ネットでアクセスランクの上位に来る情報が正しいものとは限らない事は、最近の「お騒がせ」でも証明されているところでもあります。今日は短く。

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2017年2月 7日 (火)

3226 〇〇ファースト

〇〇ファーストという言い方に違和感を感じているのは、投稿者だけではないでしょう。〇〇以外はどうなっても構わないというニュアンスが強いからです。特にそれが狭い範囲のコミュニテイや国を指し示す場合にはなおさらです。仮に、それを「人類ファースト」とした場合でも、何も変わらないでしょう。つまり、人類以外の生き物や自然が破壊されても構わないと聞こえるからです。一時「共生」などという言葉もマスコミに登場しましたが、最近はトンと耳にしなくなりました。これも、アクの強いB国のリーダーからの悪影響でしょうか。何しろこの国の首都のリーダーも全く同じことを言っている様ですから。

首都に住んでいない田舎は、過疎化が加速しそこの住民やコミュニテイはどうなっても、卸市場が何とかなって、五輪がうまく開催でき、自分がカラクリ回しをする議員団ができれば、万々歳だとしか聞こえないのです。オッと、このブログは批判を目的にしてはいませんでした。ここで言いたいのは、「他者を思い遣る心」の重要性でした。一人の勝者の裏には多くの敗者が必ずいますし、成功者の裏には不運にして、あるいは努力がやや足りなくて成功を掴めなかった人たちが、一握りの金持ちの裏には彼らの様に上手く立ち回れなかった「不器用な人たち」が、山の様に存在する訳です。

〇〇ファーストは、その意味では「勝者の論理」と呼ぶしかないでしょう。全員が平等な権利を持ち、同じような質素だが不自由の無い生活を送る社会が理想ではありますが、それは必ずしも「悪平等」は意味するものではありません。成功者が、「喜んで」未だ成功していない人たちに手を差しのべる社会を理想とすべきなのでしょう。それを何かに例えるならば、「団体登山」が適当かも知れません。体力がある一握りの人が登頂に成功し、多くの体力の弱い人たちが中腹で登頂をギブアップするのではなく、体力のある人たちはザイルを延ばして、後ろの人たちを引っ張り、彼らのペースに配慮してゆっくり登れば、全員が登頂できなかったとしても、かなりの高度まで登れる筈なのです。〇〇ファーストではない社会を何と呼べば良いのでしょう。とりあえずここでは、「〇〇共生」とでも呼んでおきましょうか。

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2017年2月 6日 (月)

3225 工夫力3

人間は、喉元を過ぎれば困り事を忘れがちになる存在です。雪国で最も困っているのは、少子高齢化問題を除けば、除雪問題だと言っても良いでしょう。もちろん、家の前に除雪車に寄せられた雪山が家に前にできても、家の屋根から降ろした(滑り落ちた)雪が家の周りに壁を作っても、高齢世帯ではいつ来るか分からない応援隊にSOSを出すしかないのです。しかし、「〇年豪雪」などと呼ばれる「ドカ雪」は数年に1回かそこらの頻度でしか来ないので、その間の冬は普通の大雪に普通に対処するだけでOKとなるのです。

小型の除雪機や軽トラックなど機械力を使える家は、まだラッキーな方です。普通の家々では、スコップやスノーダンプを使って、ひたすら人海作戦しかないのです。昔人口が多かった時代は、「人海」も可能でしたが、今の様に人が減り、かつ高齢化してしまった社会では、雪に埋もれて暮らすしか術がない家庭も多いのです。仕方がなく、山際の雪深い地域から、街の郊外で田んぼを埋め立てた地域に、小ぢんまりとした家を建てて、引っ越してくる家族も多くなっている様です。

雪は、春になって解けてしまえば、ただの水で、しかも農業用水や飲み水の元となってくれて私たちを潤しますが、空気を含んで、しかも硬くしまった氷(つまりは雪ですが)を移動させて処理すのは大変な作業で、エネルギーも人手も、つまりはお金も掛かる大変な作業なのです。この「雪害」をいくらかでも軽減するためには、やはりかなりの工夫力が欠かせないです。屋根から降ろす際の滑落の危険を無くす知恵、降ろした雪を移動させる知恵、道の轍の凸凹を減らす知恵、などなど雪に負けない工夫が必要なのです。

そのためには、いわゆる雪を取り除いて生活スペースを確保する「克雪」だけでは不十分でしょう。むしろ、雪を積極的に利用する「利雪」技術が不可欠だと思うのです。雪の最大の特徴は、その「冷たさ」だと言えるでしょう。つまりは、冷熱としての価値です。この冷熱源に対して、少し温度の高い熱源さえ見つかれば、何等かの形の「熱機関(例えばランキンサイクル)」によって動力が取り出せる可能性も出てくるでしょう。熱機関では、熱源からの熱を低熱源(冷熱源)に捨てる事によって、サイクルが成り立ちますので、冷熱源である雪も徐々に解けていく事になるでしょう。フロリナートなどを作動流体とするランキンサイクルが有望とされています。運動エネルギーを取り出しながら同時に雪を解かす、優れた工夫の実現が待たれます。

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2017年2月 5日 (日)

3224 本当の豊かさ

最近のギスギスした世相を眺めていると、本当の豊かさって一体何だろうとしみじみ考えさせられます。この国のリーダー達が騒ぎ立てている様に、経済成長ではない事は全く自明です。そうでなければ、喰うには困らない社会で自ら命を絶つ人が一向に減らない事や、イジメや金品を目的としない凶悪犯罪の増加が説明できないでしょう。もちろん、もし1円でも有利な貿易条約が成締結出来てし、経済成長(=2%だかの物価上昇率)が実現出来たとしても、貧困層が減らない「貧しい国化」が加速するだけでしょう。

最近、竟の住み処を建て、その家になけなしのお金をはたいてペレットボイラを導入しましたが、燃料はと言えば、地元で生産される木工端材から作られるペレットで、車で2-3分走った場所にある店舗で購入できるという恵まれた環境です。そのペレットで沸かした湯を張った風呂に肩までつかる時、「うーん。誰が何と言おうとこれが豊かさだーっ。」と独り言を漏らします。もちろん、ボイラを動かすにも、100w弱の電力は必要です。しかし、近い将来の計画として、ボイラ小屋の屋根を使って小規模な太陽光発電も始めるつもりです。それをバッテリーに蓄えて、インバータを用いてボイラを動かせば、石油やガスに頼らない、本物のエネルギーの「オフグリッド」が完成するでしょう。もちろん、その時にはペレットも「手押し車」を押して買いに行かねばなりませんね。散歩を兼ねながら、往復30分歩けば十分でしょう。

その様な生活は、その昔秋になると家族総出でリヤカーを引きながら、近くの入会林に薪を集めに出かけ、冬に備えての薪割が男手の仕事であった「あの時代」に少しだけ近づく事にもなります。面倒な事や汗を流す手間のかかる仕事をこなした結果、報酬として得られるささやかなプレゼントこそ、本当の豊かさ、幸福感の源泉というものでしょう。

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2017年2月 3日 (金)

3223 工夫力2 

工夫力を磨くには、まずは何かにひどく「困らなければなりません」。困り事に悩む中から、背水の陣のもがきの末良い工夫が生まれるのでしょう。それも、困り事の悩みが深ければ深いほど、より素晴らしい工夫が生まれるとも思うのです。

具体例を挙げましょう。昔、北国の暖房は、もっぱら薪ストーブでした。北海道など石炭が潤沢に手に入った地域ではもちろん、ダルマストーブで石炭を燃やしていたのです。しかし、薪や石炭ストーブは「バッチ燃焼」の暖房機でもあります。つまり、種火の上に燃料をまとめて入れる(置く)ことによって、燃料に着火しやがて燃え上がり、燃え尽きると燠になって、そのまま放っておくとやがて火が消えてしまうのです。継続的燃焼させるためには、時々燃料を足して「火の面倒」を見なくてはならないのです。家にお年寄りが居て、火の面倒を見てくれる3世代同居世帯であれば、薪ストーブもありなのでしょうが、忙しい現代社会の家族には、その選択肢は無いのでしょう。電気暖房や石油ストーブなら、タイマー運転や温度調整もスイッチやダイヤルで自由自在です。その意味で、現代の便利機器には「工夫の余地」は殆ど残されていないのです。

しかし、薪ストーブや薪の利用で工夫をするとすれば、例えば朝にドカッと薪を積んでおいて、それを自動的に燃焼させながら、発生させた熱でお湯を作り、それを大きなタンクに貯めておいて、暖房や給湯に使うマイコン制御された「薪ボイラ」なら、運転の着火時だけの手間で済む半自動であり、かつ貯湯タンクに23日分のお湯が貯められタンクを備えるなら、ボイラの運転も2-3日に1回で済むわけです。これなら、忙し共働きのサラリーマン家庭でも、潤沢にお湯が使え、暖房も可能となるでしょう。実際、南欧州では郊外の家庭であればmこの薪ボイラやペレットボイラがポピュラーで、石油やガスを燃やしているのは主に都市部だけという状況になっているのです。暖房だけに限っても、私たち日本人が工夫すべき事は非常に多いと思うのです。

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2017年2月 1日 (水)

3222 工夫力

私たちは、メーカーが日夜努力して、改善し、コストダウンし続けてきた「便利商品」を使い、それに慣れてしまった結果、不便を解消していくらかでも快適な生活をするための、最小限の工夫さえ何処かに置き忘れて来た様な気がします。例えば、投稿者が今取り組んでいるペレットボイラによる暖房・給湯の実用化ですが、燃料は外見こそ規格化された「ペレット燃料」ですが、実際に燃やしてみると品質のバラつきが非常に大きいのです。具体的に言えば、熱量や灰分等で2-3割かそれ以上の差があるのです。

そのため、燃焼機器側で燃焼ファクターが固定されてしまうと、連続燃焼ではトラブルが発生してしまうのです。例えば、連続運転時の燃焼量と空気量、また燃焼がらや灰を除去する装置の運転インターバルや給湯・暖房システムとのマッチングなど、それなりの工夫を重ねないと、使いこなせない事態が発生するのです。もちろん、エアコンや石油ストーブやガスを使ったシステムでは、温度設定をしてスイッチを入れるだけで、全自動でしょうから工夫も手間も必要はないでしょう。しかし、工夫を忘れた人間は、多分ボケ易くもなるでしょうし、その便利システムが動かなくなった時には、寒空の元途方に暮れるしか為す術はないのでしょう。

不便だけれども地元で手に入る資源(材料やエネルギーや食糧など)を工夫を重ねながら、世代を超えて使い続ける生活こそ、真に持続可能な地産地消生活だと言えるでしょう。投稿者としても、生涯現役を目指して工夫力を磨いていく事としましょう。

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