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2017年3月16日 (木)

3244 一価時代

投稿者は一応理系だったので、理屈で割り切れない、ココロの問題や宗教論などは不得手で、どちらかと言えば無意識に避けてきた様な気がしています。しかし、そうではあっても「一神教」に関しては、一言言って置かなければならないとも思ってます。別に得手ではないので、Cリスト教やB教やMスレムなどを論ずるだけの知識もありませんしそのつもりもありません。しかし、いわゆる一神教というものは唯一無二の神(これを価値観と言っても良いでしょう)を信じ、他を排斥する(しがちである)ことは指摘しておく必要があると思うのです。そうでなければ、歴史上絶える事が無かった「宗教戦争」などとても説明することはできないでしょう。

つまり、一神教社会とは言葉を替えれば「一価社会」でもあるとも言えるでしょう。それで何が悪いかですが、最も、マズイのは価値を共有できない人々やコミュニティを排除しようとすることだと断言できます。最悪の場合には、排他性は紛争や戦争の引き金を引く事にもなるからです。さて、この国の場合はどうでしょうか。神も仏も八百万の神々も、ご先祖様も、山も川も湖も全て受け入れて畏敬の念をもって接してきたこの国の価値観は、ある時期(敢えて絞り込むなら高度成長期)以降、神様としての「お金」を崇拝する様になってしまった様なのです。別の言葉で言えば拝金主義や(経済)成長神話社会とでもなるのでしょうが、いずれにしても国(地方自治体)が出来るだけ多くのお金を集めて、それをばら撒いて国民をコントロールするか、に集中してきた社会だと断じても良さそうです。

もちろん、個々人の幸福はお金の多寡だけに依存するものではない事は明らかです。人の数だけ、生き甲斐や価値観は異なるのかも知れませんし、それを実現する手段もお金やモノだけでは無い筈です。その意味で、私たちが目指すべきは「多価社会」であるべきだと言えるでしょう。宗教的にも価値観的にも異なる人達やコミュニテイを認め、お金やモノ以外のものに価値を認め、自然環境や生き物にも権利を認め、その中で環境負荷を最小限に留めて暮らす社会こそが、目指すべき社会だと、どうにか環境人間に脱皮できたらしい投稿者は言いたいのです。

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