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2017年3月31日 (金)

3256 生物多様性

環境保護や生物多様性などと、声高に叫ぶのは、環境を破壊し続け、生物多様性を毀損してきた人類の一人としては、かなり気恥ずかしいものがあります。まだ発見されていない土壌中の微生物や、海底の泥の中の海棲生物などまで入れると、何百万種にもなると想像される生物は、未だ多様性に富んでいるとは言えますが、日々数十種程度の生物が絶滅し続けている事も確かな事実です。また、生物の殆ど棲めない砂漠やプランクトンが見当たらない「死んだ環境」も広がり続けてもいます。

その中で、私たちに何が出来るかですが、取り敢えずは身の回りの植物を、単一なもので飾るのではなく、1種でも多くの植物を植える事から始めたいのです。植物の種類が増えると何が起こるのかですが、見える変化として集まる昆虫の種類が増えるでしょう。ある昆虫は、特定の植物に依存生活史を送る事が多いからです。植物に依存する植物が増えれば、肉食の昆虫や見かける鳥の種類も間違いなく増えるでしょう。また、植物の根と土壌微生物の関係も多様化し、種類も増える筈です。もちろん、土に入れる肥料は「微生物の宝庫」である堆肥に限る事は言うまでもありません。農薬は使わず、合成肥料も使用を避けます。

つまり、人間の都合により、育てやすく収量の多い作物や、見た目に華やかですが、遺伝子操作によって「創られた」植物は、決して昆虫の好みではあり得ないのです。見た目ではなく、昆虫に人気の高い植物を、可能な可能な限り多くの種類を寄せ植えする事により、生物の多様性は徐々に増してくる筈なのです。それらの植物は、ホームセンターではなく、田んぼのあぜ道や里山の近くで見つかるでしょう。もちろん、保護されている植物の採取はご法度ですが、種が取れる植物であれば結実の時期を待てば良いだけです。

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2017年3月30日 (木)

3255 Minimum sufficient

これを日本語にすれば「必要最小限」、あるいは「必要かつ十分」でもなるのでしょうか。そういえば、この表題では一度ならず書いたような気もしますが、どうせ以前に書いた内容は忘れていますし、今回は別の視点で書くかも知れないので、まあ良いでしょう。必要かつ最小限をどう考えたら良いのでしょう。ある人にとっての必要は、別の人には不要なものかも知れません。またある人にとっての十分は、別の人にとっては不足、あるいは過分かも知れません。

例えば、冷暖房を考えてみましょう。かつて、この国の人々は、冬季の暖房は必要に迫られて、最小限の熱源を確保してギリギリの暖を取っていたはずです。それは、目に沁みる煙が出る囲炉裏での焚火だったり、町家では炭を利用した火鉢や炬燵だったでしょう。少し、時代が進んで、ブリキや鋳物のストーブが手に入る様になると、人々は入会林で薪を採集し、軒下に積み上げて冬場の燃料としていたのです。その後、ある時期には石炭が手に入り易くなり、さらに時代が進んで1970年代には、石油が手に入り易くなり石油ストーブがポピュラーになりました。

しかし、夏場の冷房についてはかなり近年になるまで、一般家庭には導入されていなかった筈です。家電メーカーにおけるコスト削減努力が実を結び、ほとんどの人が「エアコン」の恩恵に与れる様になり、爆発的に普及したのでした。もちろん、その背景には都市化による熱帯夜の増加や、温暖化傾向による猛暑日の増加があったのも間違いないでしょう。

さてMinimum sufficientです。私たちは、やはり必要・不必要の境界線や、十分・不十分の境界を引き下げるべきだと思うのです。それも大幅にです。具体的に言えば、1970年代のレベルです。もっと具体的に言えば、モノの消費とエネルギーの消費を、現在の1/2以下にする事を意味します。一見難しい様にも見えますが、今の生活レベルをあまり落とさなくともそれは可能だと見ています。例えば、既存のエアコンの冷媒だけをもっと効率が高く、しかもノンフロンのもの(炭化水素系)に交換するだけでも20-30%の省エネが可能だとされています。それに加えて、冷房や暖房温度を2-3℃押えれば、エアコンのエネルギー50%削減は十分視野に入ります。新しく家を建てるのであれば、温暖な地域でも断熱材をたっぷり使えば、それだけでエアコンに係るエネルギーを半減する事も可能となるでしょう。続きます。

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2017年3月29日 (水)

3254 巨大プロジェクト考

大T芝が存続の危機に瀕しているというニュースは、日々マスコミに踊っています。かつて、公共放送で人気のあった「プロジェクトX」で取り上げられたトピックスを思い起こすまでもありませんが、この国では高度成長期を通じて、いわゆるビッグプロジェクトが目白押しでした。新幹線網、都市や地方の高速道路網、それらに付随する長大橋や長いトンネル、更に雨後のタケノコの様な原発建設、都市を拡大させる沖合埋め立てや高層ビル建設ラッシュや空港の整備などなど、枚挙に暇がありませんでした。

さて、それらが経済の踊り場で一巡一段落し、私たちの注目はそれらの補修や維持に向けなければならなくなったこの時勢に、更なる原発建設へ向かおうと考えたT芝の積極策は、やはりと言うか結局というか大失敗に終わろうとしています。目を転じて、戦後二つ目の国産旅客機プロジェクトを眺めてみると、大苦戦を強いられている様です。かつて同じ業界に身を置いた立場で眺めると、やはりこのプロジェクトは、まだ経済に勢いのあった時代に開発しておくべきプロジェクトだったとコメントするしかなさそうです。少なくとも、経済の停滞から右肩下がりが始まっているC国や途上国、あるいは先進国での人口減少局面にぶつけるべきプロジェクトとはとても思えません。

ところで、JRのリニア新幹線のケースはどうなのでしょう。東海道トランクラインのバイパスとしてのリニア新幹線ですが、バイパスならば従来型の新幹線で一体何が悪かったのでしょうか。私たちは、ソロソロ20世紀型の夢から覚めなくてならないでしょう。手塚が描いた21世紀の鉄腕アトムの世界で、これまで実現されたものが殆ど見られない事に気が付くべきでしょう。21世紀に間に合ったのは、ハイブリッド車のPリウスや癒しロボットのPッパーくらいのものでしょう。20世紀の技術だけで私たちは十分に早い移動手段を手にし、かなりの程度の自動化や工業用ロボットを手に入れたではありませんか。これ以上「無理を押して」何を求めると言うのでしょうか。20世紀型の夢を追うのはソロソロ止めにして、今世紀は先ずは自分たちの足元を見回して、為すべき事を見出すべき時期ではあります。

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2017年3月28日 (火)

3253 付託と忖度

今回は、最新の流行語を取り上げます。文字にすれば、付と忖はニン偏とリッシン偏の違いだけなので、託と度の違いはあるにしても、一見ではどっちがどっちか分からなくなりますが、付託と忖度は、この国ではどうやら180℃すれ違う言葉の様なのです。前者は、例えば有権者が政治家にマツリゴトを「付託」するなどして使われる言葉ですが、ではその付託を受けた政治家が、有権者を忖度してくれているのか、と問われれば、そんなことはなく、政治家の取り巻き(=官僚)が票集めに協力するために、「先生」(ら)が望んでいる利益誘導の意向を忖度する程度の、狭い意味合いしか持たない言葉に成り下がっている様です。つまり、忖度は今や完全に「政治用語」になっているのです。しかも、付託に対する回答としての忖度ではなく、専ら政治家が利用する「権利」の様な意味になってしまった様なのです。

こうなっては、国語辞典の意味を改訂するしかなさそうです。つまり、

[名](スル)ひそかに政治家に有利なる様に状況を推し量ること。「先生の下心を―する」

などと改訂するしかない言葉になったというしかありません。今回の「事件」を通じて、上記の意味は完全に確定したのですから。忖度が政治用語になってしまったからには仕方がありませんが、本来の日本語では上記に意味においては「斟酌」を使うべきだったのでしょう。つまり、酒を酌み交わすときの様に、相手の杯が空になった時に、間髪を入れずに酒を注ぐか、あるいは少し間をおいて注ぐべきか、あるいはFAXを送るべきか、埋設物を過大に評価すべきかなどの、相手の意向を察知する、という行動を指す言葉だからです。

冗談はさておき、言葉は便利なものですか、使い方によっては怖いものでもあります。政治家はいわば言葉使いのプロでもある訳ですから、付託と忖度は互いに対の言葉として正しく使って欲しかったのですが、忖度の意味が今回の事件で「貶めらえた(捻じ曲げられた)」事を残念に思う者の一人です。

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2017年3月27日 (月)

3252 3Dプリンタ建築

何となく、3Dプリンタを大きくした様なもので、家が作れないかボンヤリ考えていたところ、ネットでそれを試行している動画を目にしました。それは、家の中心となる場所に柱(=回転軸)を立て、それから水平にアームを伸ばして、そのアーム上に少量の生コンを出すノズルを取り付けたものでした。いわばシンプルな「スカラーロボット」の様なものです。そのアームを回転・上下・出入りさせて、3Dプリンターの様に、基礎となるコンクリート床から、徐々に壁を積み上げていく工法の様です。しかしながら、コンクリートは圧縮力には強いものの、樹脂の様に接着力は大きくはないので、鉄筋を配してやらない限り、強度的には十分ではないでしょうから、小さな小屋程度であれば作れるでしょうが、人が住む家を作るには不十分だと言うしかありません。

もちろん、樹脂と硬化剤を混ぜたり、熱可塑樹種を使ったりすれば、補強材(例えば鉄筋など)は不要なのでしょうが、コストがかなりアップする事は間違いないでしょう。さてそこで上のシステムにもう一工夫加えましょう、コンクリートだけで、強度を高めるにはやはり生コンクリートに繊維状のものを添加する必要があります。例えば、繊維としてガラス繊維やカーボン繊維を使えば、確かに強力で壁の強度も上がるのでしょうが、リサイクル性に難があります。やはり、ここは天然繊維を使うしかないでしょう。天然繊維として、最も入手し易いのはやはりセルロース(紙繊維)に軍配が上がります。

適当な長さに切った紙の短繊維をコンクリートに混ぜて、上記の3Dプリンタもどきから吐き出させ、積層しながら固化すれば、強度的にも十分な壁構造が出来上がります。もちろん紙繊維には、簡単に風化しない様なコーティング処理なども必要でしょう。先人の知恵として、土壁にワラ繊維を混ぜて、十分に長い間の風雨に耐えている例もありますから、紙繊維にもそれ以上の耐久性が期待できるでしょう。座標の中心となる柱を徐々にリフトアップしていけば、多層階の建物も建設可能となる筈です。人手不足の建設業界ですから、設計図通りに自動的に建設が可能なこの様なシステムには、挑戦する価値が十分ある筈です。

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2017年3月26日 (日)

3251 レゴ建築

レゴブロックは偉大な発明だと思っています。小さなエレメント(ブロック)を組み合わせて、およそ形のある殆どのモノを創り出す事が出来るからです。最近のレゴはドンドン進化していて、部品の種類も増えて何やらPタゴラスイッチの様に、楽しく動くGadgetも作れる様になっている様です。しかし、ここで考えてみようと思っているのは、レゴの様なブロックを使った建築方法なのです。

かつて、間伐材として整理された小径木は、建築足場などの重宝されていましたが、今では殆ど使いみちがなく、山肌に切り捨てられたままになっていてココロが痛みます。そこで、この間伐材(たぶん直径で100-150㎜程度だと思いますが)を使って、木材ブロックを作ってみたらどうかと提案したいのです。例えば、断面で言えば100㎜角程度、長さで言えば軽くハンドリングできる300㎜程度に規格化し、レゴブロックの様に穴が開いていて、そこに同じく木製のダボ(ほぞ)を叩き込んで、互いにロックします。それを、さながらレンガの様に積み上げて壁を作るのです。開口部の上部は、少し長い部材で支えてやる必要があるのでしょうし、屋根を掛けるにはやはり部材の工夫や構造の工夫も必要でしょう。

しかし、基本的には誰でも日曜大工程度の道具で、倉庫や勉強部屋や事務所が作れる様なキットにすれば、自分で建ててみようとする人も増えると思うのです。そう思っていたら、FBの「Information Civil Engineering」と言うサイトに、面白い工法が紹介されていました。

https://www.facebook.com/Information-Civil-Engineering-383870055097958/?hc_ref=NEWSFEED 

それは、まさに発泡スチロール製の大きなレゴブロックを積んで家を建てるのですが、そのブロックの所々には、縦穴が貫通しており、そこに鉄筋を入れて生コンを流し込めば、壁がコンクリートの柱で補強されるという工法です。これだと、コンクリート柱で構造強度が確保できる上に、発泡スチロールはそのまま断熱材として機能する訳です。日本の様にがんじがらめの規制が無い(少ない)国ならではのアイデアではあります。しかしながら、投稿者の考えている木製のレゴブロックとは、少し主旨が異なるので、取り敢えずは「面白い工法」としておきましょう。投稿者が考えている木製レゴは、構造強度と断熱性能と木の温もりを同時に達成するものである点が異なります。暇が出来たら実際に設計してみようと思います。

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2017年3月25日 (土)

3250 エネルギー生産性

久しぶりに環境カウンセラーらしい投稿です(だと思います。)。エネルギー生産性とは、例えばGDPをCO2排出量で割り込んで、CO2排出量1トン当たりのGDP(生産高)を示す指標です。1980年代までは、実のところこの国は世界でもトップの指標を示していたのでした。1970年代以前のいわゆる「公害列島」を返上し、二度のオイルショックもくぐり抜けて、環境技術や省エネ技術の開発や投資を積極的に行ってきたからです。しかし、バブル時代を経て崩壊後の長いトンネルの中で、国や企業も委縮し、小さく縮こまっている間に、この指標でも他の先進国に追い抜かれてしまっていたのです。

風車ではヨーロッパ諸国に大きく置いて行かれ、シェアトップを取り優位を保っていた太陽光発電もDイツやC国にアッサリと抜き去られたのでした。原子力やクリーンな石炭火力などでは善戦はしていたものの、3.11以降は原発には強烈な逆風が吹き荒れています。日本の環境技術を使って環境負荷を比較的低く抑えた石炭火力においてさえ、今は逆風の時代でもあるのです。もちろん、環境負荷が小さいとはいえ、硫黄酸化物や他の有害物質が少ないものの、肝心のCO2量は変らないからです。つまりは、エネルギー生産性は全く改善していないのです。

さて最近注目されている、まるで2足飛びくらいに環境・省エネ技術を高めようと四苦八苦している水素利用技術ですが、莫大なインフラ投資を必要とする事もあって、多分今後とも歩みはノロいでしょう。加えて、そのインフラを造るために発生するCO2があり、何より水素を発生させ、運搬するために発生させるCO2量があり、システム全体としてみて、果たしてエネルギー生産性を今より低く抑えることが出来るかどうかは全く疑問です。

見かけは、確かに水素自動車や水素を燃料とする熱電併給システムからは、水以外は排出されないのですが、見えないところでのCO2排出が増え、一方でインフラ整備のためにGDPが増えるので、エネルギー生産性がそれほど改善する訳ではないでしょう。結局、必要な行動は「無理に」水素社会を造るのではなく、私たち自身のライフスタイルの見直しだと思うのです。質素に、慎ましやかに、必要かつ最小限の暮らしこそが、エネルギー生産性も低く出来る近道なのでしょう。

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2017年3月23日 (木)

3249 弱い連係と多様性

最近、またぞろ進化論に関係する本を読みふけっていますが、その中の言葉からの連想です。最近の知見では、どうやら細胞レベルの進化では、細胞内のエレメントや他の細胞との連係によって進化が進む様なのですが、連係には、多分強い連係と弱い連係が存在すると想像しています。それを人間社会に敷衍して考えてみようと思います。

さて、強い連係とは、例えば国レベルの法律や規制や、あるいは政治家を選択するための選挙などが思い浮かびます。政策で予算が付けば、その予算で交付した先を縛る事も出来るでしょう。また、罰則付きの法律を使えば強い縛りを設定できるでしょうし、逆に許可制度及び規制緩和とのアメ・ムチの両輪で転がせば、更に強いコントロールも可能となるでしょう。一方で、弱い連係と言うものが考えられます。これは、ボランティアや善意などを元にしたいわゆる「絆」の様なものが考えられます。

しかし、何が人間社会で人を強く動かすかと考えてみれば、それは間違いなく「弱い」連係だと思うのです。予算や法律や規制の縛りは確かに強いのですが、それは人が道路からはみ出すのを防ぐ事は出来るでしょうが、人を強く動機付けるものにはならないでしょう。一見、強い縛りに従っている様に見える人々も、心の中では反発を抱えている可能性も強いのです。でも、善意から出た行動はしっかりした意志に支えられていますし、例えばボランティアの経験は、人を変えてしまう原動力にもなるでしょう。

細胞レベルの弱い連係(さざ波)が、細胞自体を大きく揺さぶる大波に変る事もあるのでしょう。これを、変化の「共振」現象と呼んでも良さそうです。細胞や社会の変化は、決して強すぎる連係からは生まれず、変化しようとしている状況にピタリと波長が合った弱い連係によってこそ、大きな変化(進化)や多様性が生ずると思っています。何やら政治の世界では、さながら戦前に回帰でもしようとする動きもある中で、この国を変えるのは、やはり良く変わろうとするココロが、私たち自身の間に充満してくる必要があるのでしょう。

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2017年3月22日 (水)

3248 プログラム死

生き物の受精=発生、成長から死までを連続的に観察したとすれば、DNAに記述されたプログラムに従っている事が良く分かるでしょう。もちろん、生き物の一生はDNA「だけ」で一義的に定まるものではなく、成長過程では環境からの影響や相互作用により、かなりの程度変化しても来るのでしょう。その中で、注目すべきはDNA(と環境からの影響もあるかも知れませんが)による「プログラム死」と言う現象だと思っています。受精卵の分割が始まり、やがて胎児になる過程では、さながら太古の生物から霊長類に進化してきた過程を繰り返す様に成長を続けるのです。ある時期には、魚のエラの様な部分が現れたり、指の間にはカエルの様な水掻きまで出来て、それが妊娠のかなり後期まで残っていたりもするのです。

しかし、それらはDNAに仕組まれた「プログラム」によって、やがて消えてしまいます。プログラムによって,、エラや水掻きになるべき組織が死んで、吸収されてしまうのです。これを、細胞のプログラム死と呼びますが、およそ人間に限らず生き物の体や細胞の一生は、このプログラムとプログラム死によってコントロールされていると言っても過言ではないでしょう。プログラム死が無ければ、私たちは陸上では全く用がないエラや水掻きを抱えながら一生を送らなくてはならない羽目に陥るのです。

さて、生き物はDNAに繰られているとして、人間社会や文明は一体何にコントロールされているのか、時々考え込みます。歴史を振り返れば、絶える事の無かった紛争や戦争は、見方を変えれば、人類と言う生き物の「部分的なプログラム死」であったとも考えられるのです。それが一体何によって引き起こされているのか、色々な人が色々な見方で解説を試みてはいるのですが、なかなか納得する説に出会ってはいません。ここでは、個々人やコミュニテイを一つのDNAの切れ端と見做して、それで説明を試みてみましょう。DNAは、コピーを繰り返して情報(文化)を継承しようとしますが、いわゆるコピーミスや変異によって徐々に変質や劣化してしまうのは致し方の無い事でしょう。文化のコピーミスや劣化によって、例えば相応しくないリーダーに扇動され他のコミュニテイとの軋轢を生み出す事も度々あった事でしょう。

さて、出来るだけ世界を鳥瞰してみて、果たしてこの国や現代文明がプログラム死の過程にあるのかどうか、投稿者としても注目して観察を続けたいと思います。

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2017年3月21日 (火)

3247 進化

何故か進化論が好きです。それほど種類が多くはないたんぱく質類と、これもたった4種類の塩基で構成され、複雑な動植物の体の設計図(DNA)としては、意外に少ない遺伝子情報(4デジット)で、なぜこれほどまで多様な生物が地球上に出現し得たか、全く興味が尽きないからです。シェークスピアの著述の簡単なセンテンス、例えば「To be or not to be that is the question.」を、コンピュータが26文字+記号を、ランダムに選びながら組み立てると仮定したら、たぶん天文学的な時間が必要だと想像しています。数学で習った順列組み合わせの式は忘れてしまいましたが、確か26の階乗に比例するのでしょうから、やはり組み合わせの種類は天文学的な数に上り、上記の一文が再現されるためには、長い時間が掛かる筈なのです。

しかし、生物の進化は数億年という「信じられないほど短い時間」でほぼ完成してしまったのは、驚くべきという外は無いでしょう。とても、ランダムな小さな変化が数多く生まれ、環境に適応した選択によって「徐々に進化した」などという悠長な理論(例えばネオダーウィニズム)ではとても説明しきれません。それどころか、環境に適応できるように、都合の良い「数多くの突然変異」が、無駄なく続き、生物の系統樹に沿って順調に進化を続けない限り、現在の生物の多様性は説明不可能でしょう。

と言う意味では、進化はランダムな突然変異と選択の積み重ねだけで起こったのではなく、ある時期からは環境との相互関係の中で、「明確な目的」をもって進んできた様に思えるのです。カンブリア紀などの様に、生命が爆発的に増えた時期と氷河期などの生命の絶滅危機を繰り返しながら、その中で明確な「生存戦略」が、今ある進化の系統樹を完成させたのだと思っています。

翻って、文明を一つの生命と考える時、似たような感慨を抱かずにはいられません。文明の寿命は果たしてどの程度なのでしょうか。人間の歴史を振り返れば、過度の環境改変(例えば森林の皆伐)などが原因で滅んだ文明の何と多い事でしょう。森林の消滅と過密な農業が、それに続く環境悪化(例えば砂漠化)を招き、水や食糧の不足を引き起こし、そこに栄えた文明を消し去ったのです。つまり、文明の持続可能性は、その文明を取り巻く「環境の持続性」によって担保される筈なのです。話が大分ややこしくなってきたので、今回はこの辺で・・・。

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2017年3月19日 (日)

3246 多価社会への道2

3225では、具体的な方法を書き切れなかったので、続きです。多様な価値観を醸成するためには、何より強い思い込みを排除する事から始める必要がある様です。いわゆるイデオロギーなどと言うものは、狭い価値観への思い込みに他ならないでしょう。一般的な意味での神様や個人や偶像崇拝もイデオロギーと同じようなものでしょう。では、このブログでさながら「神様」の様に扱っている「環境」は偶像ではないのか、との突っ込みを受けそうですが、決してそうではありません。そうではなくて、ここでは私たちは環境にすっぽりと包まれて、どうにか生かされている、ちっぽけな存在に過ぎないとの想いを書き連ねているだけなのです。

さて、多価社会への道ですが、それぞれの価値観を持つ人たちが、垣根を低くして、出来るだけ緩く繋がるというアプローチが最善の様な気がしています。価値観に凝り固まってしまうと、異なる価値観の人達の間に「壁」を作ってしまいがちです。実際、海の向こうの新リーダーは、ナントカ令の頻発で往来の壁を築き、それでも足りずに国境に物理的な壁まで築こうとしているではありませんか。あのベルリンの壁崩壊の歴史的な意味は、一体何処にすっ飛んでしまったのでしょう。壁さえなければ、「お隣の価値観」をチラッと覗いたり、気楽に足を踏み入れたりするのも自由でしょう。

緩い繋がりはもっと大切でしょう。額に筋を立てながら、あるいは口角泡を飛ばしながらの議論からは何も生まれない事は、国会の様子を見ても明らかでしょう。言いたい事を言って、のらりくらりの言い訳を聞いて、最後は数で押し切る訳ですから・・・。そうでなくて、政党などと言うものは、もっと緩いものにして、自由に行き来が出来る様にすべきなのです。節操が無くなる訳ではないでしょう。是は是、非は非と言う態度を貫くだけの事なのです。法案ごとに、賛成・反対が大きく傾くなら、法案の作成ももっと少数意見も盛り込んだ「まとも」なものになる事は請け合いです。と言うより、何もかも盛り込んだてんこ盛りの法案などは出せなくなって、細切れの法案の山とせざるを得ない訳です。そうなると、国会も通年開催となり、議員と言う仕事も老体にはとても勤まらない若者の職業になる筈です。と言うより、今や議員は職業ではなく「身分」になり下がってはいますが・・・。残念ながら。

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2017年3月18日 (土)

3245 多価時代への道

3244で書いた一価社会からの多価社会への脱皮方法を引き続き考えてみます。キーワードは「縛り」でしょうか。つまり、一価社会では、強い宗教観なり価値観で、社会全体が縛られていると思うのです。例えば、国が地方自治体を「地方交付税」で縛るとか、金利で銀行を縛るとか、あるいは教育を助成金の多寡でコントロールするとか、あるいは教育を「何とか勅語間がい」で縛るとかを例示する事が出来るでしょう。国家と言う縛りが極限で突き進んだ結果は、第二次世界大戦時のいくつかの国々や戦後の赤い国を思い出すだけで十分でしょう。

さて国にはどちらに向かっているのでしょうか。再々に亘って国益と言う言葉を連発するこの国のリーダーは、果たして国民をある価値観で縛ろうとしているのかどうか、私たちは周囲深くウォッチする必要があるのでしょう。そのチェックポイントとしては、やはりリーダー(が属するFaction)が、他の意見に耳を傾けているか否かと言う点に尽きるでしょう。その際、テレビ映りを気にしての茶番に終始する国会中継はそれとして、またそれをネタに小さな問題を大きく膨らませるのが得意のマスコミや週刊誌はそれとして、私たちはそれらに惑わされない、個々人のブレない視点を持っておく必要もあるのでしょう。

ブレない視点とは、結局はその人自身の「個人的価値観」そのものである事は自明です。起こっている、あるいはこれから起ころうとしている事が、望ましく、また好ましいものであるかどうかの判断は、まさにその価値観に掛かっている訳です。価値観はバラバラで別に統一する必要はないのですが、しかし何かを決議する時には、何らかの形で意志を統一する必要があるのは勿論です。そのために、多数決などと言う「一見民主的」なプロセスも決まってはいるのですが、時には今のこの国の状況の様に数の論理が暴走する事もあるでしょう。

そこで、投稿者が折に触れてこのブログで推奨しているのは、決議にその決議を受け取る事になる将来世代を参加させる事なのです。もし、将来世代を直接参加させる事が現実的ではないのであれば、それを代弁する人の意見を聞き、それと矛盾しない形で決議を行うべきなのです。現世代だけの利益を考えて決議された法案の何と多い事でしょう。最近決まった税制や医療や介護や教育関連等の法制は、まさに殆どが「現世代エゴ」と呼ぶしかない状況でしょう。表題とは少しズレてきましたが、今回はここまで。たぶん続きます。

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2017年3月16日 (木)

3244 一価時代

投稿者は一応理系だったので、理屈で割り切れない、ココロの問題や宗教論などは不得手で、どちらかと言えば無意識に避けてきた様な気がしています。しかし、そうではあっても「一神教」に関しては、一言言って置かなければならないとも思ってます。別に得手ではないので、Cリスト教やB教やMスレムなどを論ずるだけの知識もありませんしそのつもりもありません。しかし、いわゆる一神教というものは唯一無二の神(これを価値観と言っても良いでしょう)を信じ、他を排斥する(しがちである)ことは指摘しておく必要があると思うのです。そうでなければ、歴史上絶える事が無かった「宗教戦争」などとても説明することはできないでしょう。

つまり、一神教社会とは言葉を替えれば「一価社会」でもあるとも言えるでしょう。それで何が悪いかですが、最も、マズイのは価値を共有できない人々やコミュニティを排除しようとすることだと断言できます。最悪の場合には、排他性は紛争や戦争の引き金を引く事にもなるからです。さて、この国の場合はどうでしょうか。神も仏も八百万の神々も、ご先祖様も、山も川も湖も全て受け入れて畏敬の念をもって接してきたこの国の価値観は、ある時期(敢えて絞り込むなら高度成長期)以降、神様としての「お金」を崇拝する様になってしまった様なのです。別の言葉で言えば拝金主義や(経済)成長神話社会とでもなるのでしょうが、いずれにしても国(地方自治体)が出来るだけ多くのお金を集めて、それをばら撒いて国民をコントロールするか、に集中してきた社会だと断じても良さそうです。

もちろん、個々人の幸福はお金の多寡だけに依存するものではない事は明らかです。人の数だけ、生き甲斐や価値観は異なるのかも知れませんし、それを実現する手段もお金やモノだけでは無い筈です。その意味で、私たちが目指すべきは「多価社会」であるべきだと言えるでしょう。宗教的にも価値観的にも異なる人達やコミュニテイを認め、お金やモノ以外のものに価値を認め、自然環境や生き物にも権利を認め、その中で環境負荷を最小限に留めて暮らす社会こそが、目指すべき社会だと、どうにか環境人間に脱皮できたらしい投稿者は言いたいのです。

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2017年3月15日 (水)

3243 新規性と進歩性

新規性とは、これまでに無かった何かが新しく付け加わることを指しますが、それが好ましい事であるかどうかは別の問題になるでしょう。一方、進歩性とは、望ましい方向に一歩踏み出すための何かを指すのであり、一定の方向性(ベクトル)を持つものと言えそうです。もちろん、そのベクトルとは望ましい変化の方向を意味するのですが、現代の様に人々の価値観がバラバラで、共通のベクトルが定まらない時代においては、それを定義すること自体が困難な作業だと言えそうです。

しかし、それでも私たちは将来あるべき社会の青写真を描かなければならないと思うです。そうでなければ、それは目的地が無い船に乗って、大海をフラフラ漂流しているのと何も状況は変わらないからです。船頭(船長あるいは政治家)が船の行き先を決める訳ではありません。彼(ら)の使命は、船を目的地に向けて、安全な航海を続ける事であるに過ぎないからです。行き先を決める義務と責任は、船に乗り込んでいる乗客自身の意志によって決められる必要があるのです。

しかし、この国の風潮を見ていると、国民は、国の方向を決めてマツリゴトを進める権限をすべて政治家や行政に丸投げしている様にしか見えないのです。丸ごと受け取った筈のお国のリーダー達は、いつまでたっても、国会で「批判と言い訳の堂々巡り」を繰り返しているだけの様に見えます。一体、最近の国会の議論で心から喝采を送れるような議決がまとまったことがあったのでしょうか。少なくとも投稿者には、その記憶はありません。つまり、一見新しい議決ができたとしても、それは新規ではあっても進歩には繋がっていないと言うしかないのです。多くの議決は、目の前の問題の対策に過ぎず、進歩にはつながっていないのです。進歩の無い活動を指して「停滞」と呼ぶのです。今後この国を、どの方向に導くかを誰が責任をもって議論してくれているのでしょうか。60数年生きてきましたが、まだその様な人の存在を知りません。もちろん、かなり時代を遡れば、いわゆる骨のある評論家や論客もそれなりに存在したのでしょうが、最近はトンと見かけた記憶が無いのです。寂しい限りです。今日も批判ではありません。ため息です。

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2017年3月12日 (日)

3242 環境変化の幅

環境変化の幅を指して、私たちはしばしば「ストレス」という言葉を使います。例えば、殆ど温度変化の無い部屋にずっと住んでいると仮定すると、私たちには気温の変化と言うストレスが掛からない事になるでしょう。しかし、夏は35℃を超え、冬には零下に下がる地方が殆どを占めるこの国では、体に対しては結構な気温ストレスが掛かっていると言えるでしょう。もちろん、広く地球全体に視野を広げれば、砂漠地帯の様に、日中と明け方の一日の気温差(日較差)が50℃にもなる場所もありますから、この国でさえ比較的マイルドなストレスの地域だと言っても良さそうです。

もちろん、ストレスが全て悪い訳ではありません。それどころか、ストレスは必要だとさえ言えるでしょう。ストレスが無ければ、私たちの環境への適応力が弱まってしまうからです。宇宙空間に長期間滞在した宇宙飛行士は、多くの点でストレスフリーの「実験室内」に住む事になります。温度は、当然の事ながらほぼ一定です。もし、宇宙ステーション内の気温が、+/-5℃程度でも上下させているとするなら、かなり良い設計だと言っても良い程です。気温ストレスの他、湿度や重力のストレスからも解放されますので、体は怠ける一方になる筈です。加えて、「完全に」空調されている船内は、多くの細菌からも無縁な状態、つまりは無菌室状態に近く維持されてもいるでしょう。彼らは、私たちが日常晒されている「軽微な」細菌ストレスからもフリーな状態である続けるのです。

さて、僅か半年のストレスフリーの環境が何をもたらすかですが、言わずもがなの「極端にひ弱な」人間を創り出してしまうと言えるでしょう。宇宙飛行士は、取り敢えず横にされたまま無菌室の様な部屋に入れられ、地上の重力に慣れるまでは起き上がる事さえままならないのです。一週間もすれば徐々に動ける様になり、数か月のリハビリ期間の後にやっと「娑婆」に出して貰える事になるのです。ストレスが、如何に私たちにとって必要不可欠であるか、改めて認識する必要がありそうです。ストレスには、体に負荷を掛ける肉体的ストレスもありますが、精神的な苦痛にも耐える力を養う、精神的ストレスなどもあり得るでしょう。この他にも、チャンスをじっと待つストレスや、ままならない状況を地道な努力を重ねながらじっと耐えると言ったストレスもあり得るでしょう。現代人は、多くの面でストレスフリーを嗜好している様に見えますが、その様な状況に慣れてしまった人々の将来は決して楽観できないと言うしかありません。

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2017年3月11日 (土)

3241 用不用説

進化論に興味があって、時々関係する本を読みます。用不用説と言えば、すぐラマルクさんを思い出しますが、生まれてから必要となって獲得した形質は基本的には遺伝はしないので、進化論の歴史の中には必ず出ては来ますが、今や誰にも見向きもされない説となってしまいました。確かに、ミャンマーの首長属の女性の金属環を数多く嵌めて伸ばした首は、自分の子供には遺伝はしません。もちろん、生まれながらに首が長く、部族では「美しい」とされる女の子は、大事にされより多くの子孫を残す可能性はありますが、それとて一定の範囲の中での話でしょう。

しかし、社会や文化の話として敷衍する、ラマルク説はいまだに十分通用する理論ではないかと投稿者は思っているのです。というのも、社会や文化の持つ価値観は、世代を超えて受け継がれるので、「遺伝する」と言っても良いと思うからです。同様に、ある社会にとってある時期「有用」であるとされたシステムも世代を超えて受け継がれるでしょう。しかしながら、社会や文化の価値観は比較的短時間で変わってしまうのに対し、社会システムの変化は鈍いのです。この国の価値観は、例えば「東日本大震災」で、しかも短時間で大きく様変わりしてしまいました。それまでの経済や効率優先の社会が、数日の内に、原発のハイリスク性が強く認識され、「命」の大切さや「絆」といった言葉が社会のムードを飲み込んでしまったのでした。

しかし、社会システムはそうではありませんでした。官僚組織やそれに付随する行政システムは微動だにせず、原発を含めたインフラの殆どは(東北の一部を除いて)温存された結果、喉元を過ぎればまたぞろ「原発再稼働」などに走ったことでもそれは明らかでしょう。つまり、原発は20世紀型の社会システムの延長である現在の社会インフラでは、曲がりなりにも「必要」と判断されてしまった訳です。もちろん、国民投票にかけた訳でもないので、絶対多数与党の独走の産物であることは間違いありません。

来るべき社会の価値観として、しかしエネルギーの需要と供給システムへの要求は別の方向を向いていると考えるべきでしょう。Q州電力では、瞬間的には70%を超える再エネ電力で需要を満たした実績ができました。供給の中身は、太陽光発電と風力発電が大部分だったと想像していますが、やれば出来ることを証明した点では重要な一歩でしょう。必要なことは、既存インフラから見た用不用政策ではなく、多様な価値観からの要求であり、それを満たす供給側の多様性だと思うのです。それは、何も電力に限った話ではないのは当然です。

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2017年3月10日 (金)

3240 日の丸

日の丸について考えてみました。日の丸(日章旗)は、非常にシンプルなデザインで、古くからこの国(日ノ本)の象徴であった太陽をシンボライズした意匠は分かりやすく、好感の持てる旗だと言っても良いでしょう。しかしながら一方では、天皇制や日出国の民族であるとの民族意識とも相まって、過去の戦争の歴史も含めて、偏った思想のシンボルともなってきたのでした。それは、天皇制や神社信仰やいわゆるU翼活動などとも複雑に絡み合って、右寄りの人々のシンボルともなってきたのでした。

国旗の位置づけはそれぞれの国で多様なのでしょう。生まれたばかりの国、紛争を繰り返している国、苦労の末に独立を勝ち取った国、さらにはこの国の様にずーっと存在し続けた国などなど、国旗が重要なシンボルとなっている国々もあれば、そうでない国も、時にはそれが焼かれることもあるかもしれません。しかし、好ましくないのはそれを眺めた時、眺めた人々に、他の人々を排斥しようとする気持ちや、自分たちのグループの信奉するイデオロギーだけが正しいという偏った思想のシンボルとして扱われる場合でしょうか。彼らの集まりで、壇上に恭しく掲げられる日の丸に、何やらアヤシイものを感じてしまうのは投稿者だけではないでしょう。

そうではなくて、国旗は人々が集い、同じ方向を目指す「旗印=standard」でなければならないと思うのです。この国の目指すべき方向は、一体どっちなのでしょう。口を開けば、景気浮揚や国際的緊張やB国の顔色を窺う発言しかしない、この国のマツリゴトに関わる人達(一応リーダー達と呼んでおきますが)から、目指すべき国の理想像などいった言葉が一切聞かれないのは、全く寂しい限りです。今回も批判ではなく、単なる嘆息でした。

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2017年3月 8日 (水)

3239 フェイク・ツイッター?

そもそも、独り言である筈の「つぶやき」に一々反応したり、炎上させたりする必要があるのか、大いに疑問です。このブログにしたって、独り言と明言しているので、書いたことに関しての苦情は受け付けるつもりもないですし、特に誰かから褒めて貰いたいとも思っていません。敢えて、ツイッターやブログを書く人たちの気持ちを察するならば、できれば誰かの共感を得たい、といった程度の軽い気持ちなのでしょう。

しかるに、語調のきつい「あの人」のつぶやきと言ったらどうでしょう。誉め言葉などほとんど見られず、自分の気に入らない人々を攻撃する言葉であふれています。攻撃ならまだマシですが、そもそも謂れのない(事実無根の)つぶやきに至っては、何をかいわんやでしょう。フェイク・ニュースという言葉を流行らせた人へお返しするには、彼のツブヤキは「フェイク・ツイッター」と呼ぶしかなさそうです。

と言いながら、そのフェイク・ツイッターに反応してこんな独り言を書く自分自身にも何か割り切れないものも感じてしまいますが・・・。いずれにしても、現代人は他人のツブヤキに敏感になり過ぎであることは間違いないでしょう。それをわきまえた上で、では何を取り上げ、何を無視するのかという「情報フィルター」がますます重要になって行く筈なのです。投稿者がおススメしたいのは、何かに反応する場合でも、数日間をおいてリアクションする方法です。人々の怒りは6秒以内にピークに達し、その後は徐々に弱まります。しかしながら、他の人が怒りの対象に対してリアクションするのを見て、怒りが再度こみあげてくるものの様です。もちろん、3か月(75日)も経過すれば、怒りがあったことすら忘れてしまうのでしょうが、それでなくとも3日や1週間も経てば、物事を冷静に判断することも可能になると思うのです。いきなりリアクションしたり、他の人のツイートの尻馬に乗るのは厳に慎みたいものです。ましてや、根拠も示していない様なフェイク・ツイッターなんぞは、完全無視で良いでしょう。

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2017年3月 6日 (月)

3238 報道フィルター

どうも最近報道に変なフィルターが掛けられている様で、もどかしい。何やら、透明度が低いレースのカーテン越しにマツリゴトを見せられている様な、ひどいフラストレーションを感じているのは投稿者だけではないと想像しています。日々のニュースはと言えば、少し前は豊洲の話題、今は関西のの私立小学校への国有地の投げ売り疑惑だけで、たまにB国の西洋花札大統領のツブヤキへの過剰反応報道程度しか見当たりません。

しかし、その報道も中心がかなりズレていて、的を大きく外しているとしか見えません。例えば、豊洲問題ですがその核心は、地下空間ににじみ出てくる地下水の汚染濃度ではなく、そもそもあの地下空間にあったであろう、ひどく汚染された土壌を掘り出して、一体何処に処分したのか。その結果、それが埋設された先で新な汚染問題が生じていないか、という点だと思うのです。例えば、かつて豊島という瀬戸内海に浮かぶ島に、大量の産業廃棄物が埋め立てられ、目も当てられないほどの汚染問題を引き起こした過去の教訓を忘れるべきではないでしょう。

国有地の投げ売り問題は、確かに国有財産への政治家が絡んだたたき売り事件ではありますが、そもそも戦前の時代錯誤教育を現代に持ち込もうとする輩に対し、何も手を打ってこなかった教育行政こそ問題の核心だと思うのです。教育勅語の全てが悪ではないのでしょうが、それを暗唱させられた子供の将来が、教育行政側は心配にならないのでしょうか。真の問題は、政治家を巻き込んで土地を安く手に入れたことでも、開校後の収支計算がデタラメである事でもなく、極端に右寄りの教育の中身の筈なのです。

おっといけない、そう言えばこのブログは批判はご法度にしていたのでした。とは言いながら、あまりにも弱腰で的外れの報道に対しては、批判ではないが「お小言」を書いておかない事には、ますますこの国が訳が分からない社会になってしまいそうで、本当に心配になるのです。老爺心ながら・・・。

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2017年3月 4日 (土)

3237 熱電併給

東京BSで開催中の、再生可能エネルギーの展示が多いイベントの最終日、バイオマス発電に注目しながら、駆け足で展示を見てきました。バイオマス発電は大きく分けて3種類ほどの方式に分けられそうです。一つ目は、古くからの技術ですが、バイオマスボイラで蒸気を発生させ、蒸気タービンを回す方式です。タービンで使った蒸気を、再度水に戻すための熱交換器(復水器)なども必要であるため、システムとして複雑で小型化が難しいという欠点があります。二つ目は、木質燃料をガス化(乾留)し、主には水素と一酸化炭素の混合ガスを発生させ、そのガスでガスエンジンを動かすという方式で、小型化も可能ですが、乾留ガス中のタール分の除去など、やはり少し面倒な点があります。もう一つは、バイオマス燃焼で得られた高温のガスで、外燃機関(スターリングエンジンであることが多いのですが)を動かす方式で、小型化には最も有効な方式だと言っても良いでしょう。

もう一つ投稿者が有効な方法だと思っているのは、例えばバイオマスボイラの煙道に、多数の熱電素子を貼り付け、直流電流を得る発電方式で近年素子の価格が下がってきたこともあり、かなりコストパフィーマンスが改善してきたと感じています。100ワット程度であれば、1万円以下の電源を得る事も容易に可能となってきています。その電源をバッテリーに蓄えておけば、ボイラ運転のための自立電源としても使えるでしょう。

いずれにしても、バイオマスエネルギーを発電目的だけで使うのは、無駄が多くて実用的ではありません、いわゆる「熱電併給」として、電源及び熱源の両方を供給する方式とすべきでしょう。理想は、半々ですが、効率最大を狙うのであれば、方式にもよりますが、電力:熱を1213程度にするするのが現実的な解となりそうです。そのうえで、総合的な熱効率として90%程度を目指すアプローチが期待されます。その意味でも、投稿者の推奨する熱電素子方式では、既に85%程度の熱効率を達成している温水ボイラに簡単に付加してさらに高い効率が容易に達成出るのおススメだと言っておきます。いずれにしても、小型のバイオマス発電は、やっと各メーカーが注目して出して開発し、トップランナーが市場にと投入してきた、というタイミングだとみています。

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2017年3月 2日 (木)

3236 将来への盲信

人はある時期から、将来への盲信を始めた様です。そうでなければ、例えばEギリスで始まった、高価な荷物を積んだ船が無事に帰ってくれば大儲けで、途中で沈没したらパアになると言った海運の「博打」の様なリスクを避けるための海上保険の引き受けや、あるいは企業の将来の利益を見越しての株式投資などはやれたものではないでしょう。今や、ほぼ全ての人は、将来も今の制度が続く事を100%信じて、株を買い、お金を預け、あるいはローンを組み、年金の掛け金を支払う訳です。

もちろん、銀行の金庫には、預金者から預けられた預金金額がそのまま残っている筈もありません。殆どは、投資先や貸出先に移動しているので、多分預金残高の1/10以下を大きく下回る「現金」しか「在庫」していない事でしょう。銀行の財産や預金残高は、デジタル化された数字として、コンピュータネットワーク上のサーバーに記録されているだけなのです。

しかし、盲信が不信に変わった時、一体何が起こるのか、時々不安になるのです。それを発行する国家の信用に裏付けられている「紙」でしかない通貨が、本当にただの紙になってしまう事が無いとは言い切れないからです。信用が極限まで膨らんだ時、それが破裂する場合もあるからです。価値をストックするには、お金にかえて貯蓄をするかタンスに隠しておくか、それを貴重なモノ(例えば貴金属や宝石)に換えるか、あるいは消費可能なモノ(例えば食料)、さらには動産や不動産の様な形のあるモノに換えるかなどの方法があるでしょう。現物であるモノは別にて、お金や貴金属などというものは、いわば時価であり、必ずしも絶対的な価値があるというものではありません。それは単に価値を表す「シンボル」に過ぎないとも言えます。

私たちのシンボルへの盲信、ひいては将来が現在の延長線上にあるという盲信がいつまで続くのかは分かりませんが、このまま盲信の膨張が続けば、やがてはそれが爆発を起こさないという保証はどこにも無いでしょう。その時は、たぶん価値観の大転換(意識の革命)が起こるのかも知れません。かつての「物々交換」の時代に少し戻るのか、あるいは別のシンボル(例えば新しい電子マネー=ビットマネー)の様な奇怪なものになるのか、見守ることにいたします。

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