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2017年5月31日 (水)

3303 最先端産業2

どの様な技術を磨けば、最先端産業のなるのかをもう少し掘り下げて考えてみます。先ずは軽量化技術です。航空機で多用される複合材ですが、何が「複合」かと言えば、それはカーボン繊維とエポキシ樹脂の融合なのです。繊維は引っ張り強度を受け持つ一方、圧縮に強い樹脂は剛性を保つのに力を発揮します。しかし、厚みの必要な構造の場合、複合材だけではまだ重いので、複合材を皮として「アンコ」の部分には、更に軽量で剛性アップに効果的な、コア材(例えばハニカムコアや発泡材であるロハセルコアなどです)を入れるのです。もちろん、樹脂にはPPPE等の量産品で安価な材料も存在はしますが、残念ながら現在のところエポキシ樹脂に勝る耐圧縮性に勝る、あるいは安価な樹脂が開発されていないのです。

つまり、複合材の分野でも。カーボン繊維の様に電気を通さず(CFRPには雷が落ちて燃えます)、しかも強度が高い繊維や、エポキシ樹脂に変る高い圧縮強度の樹脂やさらには、もっと軽量で歪に耐えるコア材が開発できれば、もう一段の軽量化技術を磨くことも十分可能なのです。繊維屋さんや樹脂屋さんにはもう一段のブラッシュアップを期待したいものです。

軽量化に関してもう少し話を広げれば、軽量化設計技術があります。航空機には、離着陸時や飛行時に種々の荷重が掛かります。例えば主翼の付け根には、駐機時には翼の内部にたっぷり入れられている燃料の重みが掛かりますが、飛行時には翼面の浮力でそれがキャンセルされて、逆に胴体の重みで逆向きの大きな荷重が作用するのです。それは、駐機時にはダランと下がっている翼が、飛行時には逆に上側にはね上がっている事でも分かります。また、翼は重いエンジンをぶら下げる強度も必要で、飛行中は気流や操縦によりねじりや振動する力も掛かるのです。それらの荷重に抵抗するために、翼の中には多数の骨材やリブ(肋骨)が配置されていますが、それを最適に配置し、しかし最軽量に納めるのは、コンピュータに支援された「設計技術」である訳です。荷重が入る場所に、適正な「必要かつ十分」の骨を入れ、外側を強靭な皮膚である新複合材で包めば、最強の構造となるでしょう。その際参考にすべきは、自然界の造形でしょう。タンパク質やカルシウムと言ったありふれた素材だけ出来上がっていて、何千キロも海を越えて移動する渡り鳥の羽根の構造には、いまどきの最先端技術なんかはチャンちゃらおかしい程の「秘密」が隠されている筈なのです。最先端のK/Wの一つは、間違いなく生物に学ぶbiomimiclyです。飛行の事は鳥に聞け・・・。

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2017年5月30日 (火)

3302 最先端産業? 

モノ造り産業で最先端と言えば、何故か「航空宇宙産業」と言う声が上がります。事実、元々その産業が集積している中部地域以外の複数の地方でも、この分野に参入しようと、勉強会やコンソーシアムの立ち上げが盛んな様ではあります。前職でもあり、昔取った杵柄でありませんが、投稿者のつたない航空機産業での経験談を講義をする機会も多いのですが、実はあまり乗り気ではありません。仕事なので、頼まれれば出かけますが、航空機産業には常に「最先端産業」と言う枕詞が乗っけられる事には違和感しかないのです。

航空機産業は、前の大戦での敗戦で、進駐軍により完全に葬り去られた筈でした。しかし、朝鮮戦争で多数投じられた米軍軍用機のメンテナンスは、前線に一番近い日本で行わざるを得ない事情もあり、背に腹は代えられない米国は、産業の復活を許したのでした。当然の事ながら、日本軍の軍用機は高い破壊されたり、少数は没収されたりして一掃されましたが、流石にエンジニアの頭に残った航空機工学の知識や軍用機を作った技能者のワザまでは消される事無く引き継がれたので、それがやがて戦後初の国産旅客機であるYS-11として結実したのでした。

そのプロジェクトで、技術としては成功しながら、ビジネスとしての失敗を経験した日本は、その後何度かのチャンスがありながら、結局MRJの開発までは、航空機産業としては、ひたすらB国の下請けに甘んじてきたのでした。

一方で、航空機素材としてのカーボン繊維やそれを使ったCFRP技術においては一定のシェアを確保して、基盤を作った事は事実でしょう。CFRPは、航空機の軽量化を図りながら、しかし高剛性を保つには、現段階では最良の素材なので、軽い事が命である航空機には不可欠の材料だからです。しかし、軽くて剛性が髙い材料を使う事が最先端技術なのではなく、構造として極限まで安全率をそぎ落とした設計技術こそがキモだと言えるのです。しかし、それなら、何も航空機に限った話ではない筈です。例えば、今の車の安全性や快適性を損なわないで、車重を半分に出来る技術があれば、大雑把に言えば今の燃費を倍に改善できる可能性もあるのです。今は、30/ℓ代の後半で業界最高燃費と言い張っている性能ですが、一気に50/ℓを大幅に上回る可能性がある事を意味します。燃料消費を半分にする技術では、2030年のCO2削減目標も簡単にクリアできるでしょうし、そのための新たな産業を起こす必要も出てくる訳です。

開発に苦労して、最初から負け戦覚悟の新型国産旅客機プロジェクトではなく、今得意分野の一つとなっている車技術を、最先端にピカピカに磨くのもアプローチとして有効でしょう。つまり最先端技術とは、どの分野でも磨く事が可能だと言いたいのです。

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2017年5月28日 (日)

3301 自然資本会計2

自然資本会計と似ているものに「環境会計」と言う概念がありますが、両者は多分異なる分野の専門家が定義したのでしょうが、重なる部分が非常に多いと言えるでしょう。つまり、自然資本会計が、水や空気や動植物や地下資源といった自然資本の消費に着目しているのに比べ、環境会計は、自然資本の消費の結果、環境ファクターつまりは気象や自然環境の変化に着目しているという違いだけの様に思うのです。言い換えれば、原因としての資源の消費に着目するのか、あるいは結果としての環境現象に着目するのかの違いだと言えそうです。

もちろん、前者の方が原因に直接アクセスする考え方なので、望ましいとも言えるのですが、果たしてそれが適切かどうかはもう少し議論する必要がありそうです。投稿者の立場は、兎に角あらゆる資源の消費を、今すぐシュリンクさせる必要がある、と言うものです。自然資本(資源)は、その採掘や輸送、精製から流通・消費は勿論、その廃棄処理に至るまで、多大な環境負荷を発生させるものだからです。実例として、石油1リットルの消費は、2.3㎏程のCO2を発生しますが、その採掘から実際に燃やされるまでの過程では、たぶんその数倍のCO2負荷を発生させていると推定されます。

自然資本会計であっても、環境会計であっても、同じ行動を異なる側面で眺めているだけなので、どちらが正しく、どちらが間違っているという訳でもありませんが、必要なのは先ずは今日使う筈だった石油(ガソリン)1リットルを、どうにか工夫して節約する行動を始める事だと思うです。先ずは、屋根に太陽熱温水器を上げて、夕方風呂に入るために燃やす筈だった灯油やガスを節約するのも良いでしょうし、今日車で出かける筈だった用事を、明後日の別の用事のついでにまとめて済ます、といった日常の工夫を重ねて、資源を節約し環境負荷を下げるのです。学者先生は、確かに色々な定義をし、学問に仕立て上げる訳ですが、必要なのは「実際の行動」である事には変わりはないのです。

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2017年5月27日 (土)

3300 自然資本会計

あまり聞き慣れない言葉ではあります。正確な定義はさておき、投稿者が理解している範囲では、それは、企業活動が自然資本(水や空気や土地や動植物や地下資源など)に与える負荷や、依存度を評価しながら経営する事を指す、といったものになるでしょうか。具体的な経営手法は、「自然資本プロトコル」で規定される様ですが、もっと単純にその手法に近づける考え方もありそうです。

それは、「持続可能性」で評価する方法です。あるメーカーで現状の工程と、自然資本会計を考慮した工程を考えたとして、どちらが100年後の環境を考えた場合に、持続可能性が髙いかを比較してみれば良いのです。もちろん最善の方法も考えられるのでしょうが、取り敢えずは「比較法」でチェックして前に進めば良いのです。より自然資本の持続可能性の高い工程を選び取って改善を進めて行けば、自然に望ましい方向に近づく筈なのです。

もちろん会計ですから、自然資本の食い潰しが年々小さくなる様な棚卸と見直しは欠かせません。ですので、少なくとも棚卸の手法は確立しておく必要があるのは当然です。企業活動全体の棚卸が難しいのであれば、取り敢えずは自然資本への負荷が大きいと推定される、いくつかの指標に限定しても良いでしょう。製造業の場合は、意外にも調達している原材料の負荷が大きいのです。同様に、加工するためのエネルギーが、もし再生可能型エネルギーを使わない場合は、化石燃料を消費する訳で、自然資本の食い潰しが大きいでしょう。意外に見えにくいのは、物流に要する負荷でしょうか。不必要に冗長な物流ルートは、徒に環境負荷を増長させる事につながるものだからです。続きます。

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2017年5月26日 (金)

3299 植物油エンジン:SVO時代?

SVOとは、Straight Vesitable Oilの頭文字です。文字通りに訳せば、生の植物油です。これは、バイオディーゼルオイル(BDF)に対応するもので、メチルエステル化など処理の処理を施さない、絞ったままの植物油を燃料を燃やせるエンジンが必要です。昨日のニュースで、Yンマー社が、25kw程度の出力を持つBDF発電機に、オプションとしてSVOが使えるタンクを追加したという報道がありました。価格は1,500万円程になる様です。1kw当たり60万円と言う勘定です。

しかし、そのオプションの中身を推定すれば、タンクと燃料配管に加温装置を追加しただけだと思われます。実際、アメリカではディーゼル車用のSVO改造キットなるものが販売されていますが、ネット通販で100ドル程度で他に入るものなのです。その中身はと言えば、温度コントロールが出来る様になっている燃料配管を加熱する電気ヒーターだけなのです。これで、エンジンに送られる植物油(コーン油など)を150℃程度に加熱してやれば、油の粘度が下がり、ノーマルのディーゼルエンジンでも問題なく着火するのです。

通常車のエンジンは、100kw前後ありますから、上記の1500万円の発電機の替わりに、中古の車用エンジンとSVOキットと適当な発電機を入手すれば、たぶん上記の1/10程度の価格で、出力4倍程度の発電機が入手できる事になります。つまり、kw当たりの単価を1/40程度に下げる事が可能なのです。何が言いたいかと言えば、結局大メーカーが乗り出すと、この手のシステムの価格は、軽く1桁は上昇してしまうと言う事実なのです。中小企業の生き残る道は、取り敢えずSVOの様にチャレンジングな分野にも踏み込み、大手ではとても真似出来ない価格でシステム提供を可能にする事だと思うのです。車にSVOを適用しようとすれば、山の様な規制に阻まれるのでしょうが、陸上用の発電機で、もし系統連系を考えないのであれば(オフグリッドであれば)、何をしても許されるでしょう。工場で大きな電力を消費する設備を切り離して独立させ、SVOの自家発電機で電力を賄えば、契約電力も大幅に引き下げられ、電力コストも低減できる筈なのです。もちろん、燃料は近くの外食産業や給食センターから出る廃食用油を貰ってくるのです。少し高級なフィルターで濾せば、そのまま燃料にする事が可能でしょう。

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2017年5月25日 (木)

3298 My strory

ラジオから流れてきた、「人は、自分の物語を作りながら成長し生きていく」と言うコメントに強く賛同しました。確かに、生まれてから物心がつくまでの幼少期の物語は、親や周囲から繰り返し聞かされて物語が出来るでしょうし、学校を出てから社会人となって、世の中を泳いできた物語は、それらを甘く、又は苦く、あるいは切なく思い返す事によって、自分の物語は補強されていく事になるのでしょう。

人は自分史を書いてみたいという潜在的な願望がある様に思います。波乱万丈の人生を歩んできた人で、もしその人に文才があれば、きっとワクワクする様な自伝が書けるのでしょうが、凡人で文才も無い投稿者の様な人間は、読む人も少ないブログでも書き連ねていくのが精々かも知れません。しかし、自分の様なささやかな人生であっても思い返してみると、結構色んなイベントがあり、分岐点があった様な気がします。ブログに書きたい事が無くなってきたら、それらの思い出の物語を少しずつ書いていくかも知れません。ボケない内に。

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2017年5月24日 (水)

3297 安全の品質2

安全の品質に関して、もう少し具体的に考えてみます。安全の品質に関しては、確かに公的機関が存在しています。言わゆるSマーク、STマーク、PSEマークあるいは食品で言えばJASマークなどが思い浮かびます。しかしながら、これらは適用される製品なり、業界が限定されたものであり、万能のマークは存在していません。業界基準がそのままスライドしてそれをお国が追認した様な規格も少なくないでしょう。

それらの公的安全規格やマークはそれとして、ではそれを満足していれば、全てOKなのか、と問われれば、それはそうではないでしょう。品質管理には、素材や工程のバラつきやヒューマンエラーと言った予期しないリスクも内在しているからです。どれかが、管理の幅いっぱいに振れ、それを瞬間的に逸脱したとしても、通常の品質管理ではなかなか発見できない可能性が髙いのです。例えば、食品工場で、何らかの原因で製品中の雑菌の数が、一時的に増加したとしても、ロットサンプリングに引っかかるとは限りません。何故なら、全数検査は「コスト的」に引き合わないため、最初から除外して工程が組まれているからです。そのサンプリングの「最低ライン」は確かにJASに既定されているのでしょうが、誰もその基準を超えた頻度でサンプリングを行う筈はありません。コストが許さないのです。

ではどうするのが、より高い安全の品質につながるのでしょうか。それには、不断のリスク管理の見直ししか近道は見つからないと思うのです。具体的に食品工場の例で言えば、例えば工程に雑菌が入るのは、原料そのものの汚染、洗浄殺菌工程の設備の汚染、殺菌薬品の濃度や温度低下、作業員からの飛沫、空気中のカビなどの胞子濃度増加など等、ざっと素人が考えるだけでもこのくらいは思い当ります。設備や建屋が古くなれば、逆にリスク管理のレベルは上げなければならないでしょう。それを、何の疑問も持たずに、十年一日の如き安全管理を続けて行けば、間違いなく品質事故を起こしてしまう結果に陥るのです。必要な行動は、日頃からのリスクポイントの把握と、管理手法の見直しなのです。それが、日常的にコスト管理に追われている企業でどの程度行われているかは甚だ疑問と言わざるを得ません。

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2017年5月23日 (火)

3296 安全の品質

経済性やコストパフォーマンスを追及すればするほど安全性は犠牲になってしまうという「逆比例」の関係にあることは認めなければならないでしょう。科学・技術の世界では、経済性を追求する中では、結局「安全率(Safety factor)」を減ずるしか有効な方法は見つからないからです。例えば、安全率を2.0程度まで高めた設計をした場合、旅客機は飛び上がるのがやっとで、乗客は殆ど乗せることが出来ないというシロモノが出来上がってしまうでしょう。安全率を、部位によって1.2程度まで削って、更に全体的な安全率のバランスを調整して、やっと乗客を載せられる「ペイロード」が確保できる事になります。

車も同じで、ハード面や事故を起こした時の安全性を考慮すれば、たぶん「戦車の様な車」になってしまう筈です。それ対して。コストと安全性の妥協をドンドン進めて、今ある様な薄い鉄板をスポット溶接で組立てる「モノコック構造」に至ったのでしょう。車の安全率については、専門家でもないので承知していませんが、鉄板の腐食や道路からの振動なども考慮して、それなりに髙く設定されていると想像しています。

しかし、問題になるのは、設計段階の強度余裕ではありません。製品を作る生産体制というか企業体質(あるいは企業文化)こそその核心だと思うのです。最近のニュースでも、企業の不良隠しが何件か報じられていますが、隠さずに公表されたリコール案件でさえ、実際の発表までは葛藤があった筈なのです。リコールの公表は、企業にとっては利益を減ずる大きな原因になり得ますし、大きなリコール公表は時に企業存続を脅かす問題にも拡大する惧れさえあるからです。そう考えれば、安全は、製品の品質と同様に企業文化の中で育む「品質」の一部であると言わざるを得ないでしょう。ポイントは、経営層やセールス部門、あるいはファイナンス部門の圧力に負けずに、企業活動の各関門で必要なチェックを重ねながら製品を作る事に尽きるでしょう。安全品質を無視したイケイケドンドンの企業体質が、これまでどれだけの企業を潰してしまったか思い出せば、それは自明なのです。やや抽象的になりましたので続きます。

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2017年5月22日 (月)

3295 将来への不信

いま、私たちの時代を覆っている空気は、間違いなく将来への不信感(あるいは不安感)ではないかと感じています。今60代の投稿者が若かった時代、社会を覆っていたのは、ほぼ「将来への期待」だけだった、と振り返っています。つまり、今は給料が安くて、欲しいものも買えないが、来年には大幅に給料もアップするし、ローンを組めば車にだって手が届くし、ドンドン値上がりする土地価格を考えれば、無理して家を買うのも賢い投資だ、などと普通のサラリーマンも希望に胸を膨らませていたものでした。実際にも、給料袋はみるみる厚くなり、同時に不動産や物価も負けじと高騰したのでした。その頃、官僚出身であった(決して二世政治家ではありません)お国のリーダーは、「所得倍増計画」なるものを打ち出しましたが、その後の10年で、そのホラは実現してしまったのでした。

しかし、その後失われた20数年を経験してしまい、この国の自身はすっかり萎んでしまい、かつての希望は、諦観あるいは絶望にとって代わられてしまった様な気がしています。その背景としては、いくつか考えられるのですが、背景というか時代の空気として、20世紀後半の「経済爆発」のエネルギーであった石油資源の半分を既に使い切ってしまったという暗然とした不安と、先進国では少し前から「人口減少局面」に入ってしまったという不安感がないまぜになっている様な気がするのです。少し余分にエネルギーを使おうとすると、直ちに「温暖化防止」のブレーキが掛かりますし、良い製品を開発したとしても、それが爆発的に売れることなど夢にも実現しないのです。何しろ、人が減りつつあるのに、モノは余っているからです。

それもこれも、結局は進歩のオーバーシュート(行き過ぎ)でないかと投稿者はみているのです。進歩のスピードが速すぎると、それについていけない人々は、間違いなくストレスや不安を感ずるでしょう。更に時代がスピードアップすると、最早それについて行こうとする努力さえ諦め、膝を抱えて座り込むのです。交通事故が2万人以上の犠牲者を出していた時代「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」と言う標語があった様な気がしますが、今まさに時代進歩のスピード違反に対して、同じ警鐘を鳴らしたいと思うのです。もっと、将来の青写真を明確にしてから、ゆっくり前に進みましょう、というのがここでの提案です。そうすれば、将来への視界がもう少し良くなると思うからです。

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2017年5月21日 (日)

3294 〇際問題

最近〇際と言う言葉が気になります。例えば、国際、学際、業際と言った言葉です。「際」には、何か境界と言った響きがありますので、国際と言っても、あくまでも境界(国境)を前提とした言葉ではある訳です。ヨーロッパでは、事実上国境を廃止すると言う「実験」が続いては居ますが、それとて「EU」と言う地域とそれ以外の地域との際が問題となって、ゴタゴタが絶える事はない状況です。つまり、〇際という言葉には常に「問題」と言う修飾語が後ろに付いていると考えねばならないでしょう。つまり、国際と言う言葉は常に国際問題を抱えている訳です。国際交流や国際交渉と言った言葉も、それらの諸問題を解決しようとする試みに過ぎないということでしょう。

さて、学際です。学問の世界でも、○○学と言ったそれぞれの象牙の塔に明確な境界線を引き、○○学者や専門家といったカテゴリーに属する事を是としてきたと振り返っています。では学際問題とは何かですが、それは「タコツボ現象」と言う言葉に集約できそうです。あるいは、「お山の大将現象」と言っても良いかも知れません。自分が活動するテリトリーでは専門家ではあっても、タコツボの外や他のお山の状態は与り知らないといった状況を指します。その結果起こる事は、言わゆる専門バカという困った状況です。ある出来事は、森羅万象の中でこそ正確に把握できるのに、専門領域の中で議論すると思いもよらない「偏見」に陥ってしまう事も多いのです。例えば乗り物(車や航空機など)の事故を、ハード面からだけ議論するのは問題の本質を大きく外します。事故は、その乗り物を操縦する運転者の真理面や健康状態、あるいは交通インフラとの関連、天候や運転席の環境などまで関連する筈だからです。つまり、真の事故原因は「学際的」に追求しなければ、全容は掴めないと思うのです。

では業際問題はどうでしょう。これこそ、今最重要課題として据えるべきテーマだと思っています。製品は、特にコンシューマープロダクトは、単に機能だけ満足すればそれで良しとするものではない筈です。消費者が手に取る製品であれば、見た目のデザインや細部の出来栄え、あるいは手触りと言った「官能的要素」、長年使っても飽きの来ない使い勝手の良さ、更に言えば所有し使うことの満足感などを総合した指数で評価されるべきでしょう。つまり、モノの製造は単に優秀な技術者集団が居れば済むといった単純なものではないのでしょう。形状デザイナー、消費者心理に明るい人材、いまどきのIoTの専門家、素材の専門家、環境負荷の専門家、更に言えばそれを総合的にコントロールするプロデューサーを忘れてはならないでしょう。この国の製品は確かに機能は優れてはいるのでしょうが、決定的に足りないものは学際、業際への考慮だと思っています。

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2017年5月20日 (土)

3293 問題発見力3

自分自身の反省を含めて、技術者の問題発見力についてさらに考えてみます。技術者とは、科学的知見を利用して、社会の課題を解決するモノやシステムを提供する人々だと定義しても良いでしょう。彼らは、一つの課題が与えられると、それを満たすための最良の解を出そうと、過去の知見や技術を組み合わせたり、全く新しい技術を開発したりしながら必死に努力します。通常企業は、利益を出すためのビジネスプランを立てて、それを達成するためのプロジェクトを立ち上げます。もちろん、期間がいくら長引いても、あるいは開発費が膨らんでも、それが許される訳ではありません。どちらにも厳しい「制約条件」が課せられるのが通常でしょう。

しかし、もし一技術者にこの国の、社会の、あるいは企業の置かれた課題や問題点は何か、と問うたとしても返ってくるのは???でしょう。彼らは、課題を上から与えられる事に慣れ過ぎて、問題を掘り起こす訓練を怠ってきた結果、いつの間にかそれが不得手になっているのです。それは、技術者が起業する例が、非常に稀である事でも明らかでしょう。統計を見た訳ではありませんが、この国では起業家の多くは、いわゆる文系出身者である事が多いのです。それは、技術者は科学技術の事だけ学んでおけば良い、と言う左右を眺める事を良しとしないいわゆる「競馬馬教育」に問題があった様に思うのです。

それは、中学校を卒業してから5年間に亘って、連続しての工学教育を施す学校を卒業した投稿者故の感想という訳ではなく、その10倍の数に上る大学工学部のOBにも当てはまると思うのです。小難しい理論や公式や演習問題がぎっしりと書かれた分厚い教科書と格闘し、苦労して及第点を取って学校を出ても、先ずは簡単な部品の設計と言う課題を与えられてエンジニアとしてのキャリアを始めるだろう多くの技術者には、問題発見力が極端に不足するだろうことは明白です。そうではなくて、良い技術者を育てるためには、先ず彼・彼女をアフターサービス等広く顧客や社会に触れる機会の多い部門に放り込むべきでしょう。そこでは、顧客のニーズや自社製品の弱点や、今後開発すべき製品のイメージを膨らますことが出来る筈です。その上で、現場でモノ造りの基礎を学んだ上で、やっと本格的な製品開発や設計が出来るエンジニアになってくれる事でしょう。

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2017年5月19日 (金)

3292 問題発見力2

現実の問題として、政治家や企業リーダーの問題発見力について考えてみましょう。リーダーたるものは、彼らを選んだ人達、あるいは(成り行きか順番で)なるべくしてなったとしても、国や自治体や企業の有権者や組織の構成員に対しての一定の責任が生じます。その責任とは、国や企業に、より正しかろうと思われる方向を指し示し、活動をリードする責任だと言えるでしょう。もちろん、国であれば経済運営や安全保障や外交の持続性の保証があり、企業では利益を上げて株主や従業員の生活を確保する責任もあるでしょう。

しかし、それもこれもリーダーについてくる人達をより正しかろう方向に導く、強い引率力が備わっていてのことなのです。引率力を指導力と言い直しても良いのでしょうが、いずれにしても国や社会や企業システムを上手く導くためには、常に生じている大小の問題を的確に把握し、それらに正しい優先順位を振った上で、より正しかろう解決策を打ち出していく責務が、リーダー(達)には課せられるのです。

国会や企業運営のジグザグぶりでも明らかですが、この国の政治家や企業経営者一般に欠けているのは、明らかに問題の核心を把握する能力ですが、同時に問題解決のためのプライオリティを付けたり、解決の期限を切る能力にも大きく欠けている様に見えてしまうのです。問題の解決など面倒な事は出来るだけ「先送り」し、そして問題解決に行き詰まると、引責辞任と言う名の「無責任辞任」をして、尻拭いをあっさりと後継者に押し付けてしまうのが、この国の政治家と企業経営者の歴史だったと振り返っています。いわゆる、政治の世界の椅子取りゲームあるいは回転ドアと呼ばれる交代劇や、幾度となく繰り返される企業経営者の謝罪会見の映像を思い浮かべれば十分でしょう。この国の政治史や産業史を少し眺めれば、問題は瞭然なのです。

問題発見のためには、物事の本質を見極める能力が必須である事は当然です。そのために最適な方法は、たぶん物事を多面的に観察する力だと見ています。リーダーこそ、浅くとも良いので、森羅万象に興味を持ち、広い知識を身に付けている必要がある筈なのです。例えば、国や企業の経済危機を単に「ファイナンシャル問題」に「還元」してしまうのは簡単な話でしょう。財源を確保するために、増税や不採算部門の切り捨て、つまりは選択と集中と言う殺し文句です、それで一時は光が見えるかも知れません。しかし、問題の本質はそこにあるのではなく、国で言えば少子・高齢化による社会の成熟(から老化?)への移行問題であり、企業で言えば現状分析不足と長期戦略の欠落だった筈なのです。更に続きます。

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2017年5月18日 (木)

3291 問題発見力

この国の技術者(に限らず国民全般)に欠けているものを考えると、やはり問題発見力だと言うしかありません。それもこれも、結局この国の教育に中身に起因すると断ぜざるを得ません。この国の教育は、大学教育ですらTeaching/Learning Systemに染まっているとしか言えません。つまり、教師や講義者が一方的に授業を進め、生徒・学生はただ聞いて、ノートに取ると言ったスタイルが殆どなのです。そもそも「授業」と言う言葉がダメな根源です。先生が、生徒に知識を「授ける」と言っているのですから何をかいわんやでしょう。生徒は、先生を絶対に超えられないのです。

学問は、生徒・学生が自ら志して学び取るものであって、決して一方的に授けるものではないでしょう。望ましい教育とは、本来Education/Study Systemでなければならないとおもうのです。これは、教育者側は、生徒・学生の学ぼうとする意欲を掻き立て、学ぶ側も受け身の姿勢から一歩踏み出して「学び取り」に行くアプローチを指すのです。

では、どうやれば後者が可能となるかですが、そこで必要なのが「問題発見力」だと思うのです。人は問題にぶち当たると、それをどうにか解決しようと努力する存在でしょう。そもそも、問題意識も無しに、何かアイデアや提案などがポロリと生まれる筈もありません。必要が母となって発明が生まれる様に、社会的問題(課題)を特定して、初めて社会をより良くしようとする力も動き出すのです。若く可塑性が髙い学生の内に、この問題発見力を磨き、自分の身の周りに、あるいは社会システムに在る、大小の問題を嗅ぎ分けて、それを特定する能力を磨く必要があると思うです。

もちろん、そのためには授業のスタイルも一新する必要があるでしょう。教育者側は、現実の問題やそれを示唆する様なテーマを提示し、学ぶ側に徹底して議論させ、問題とすべき事を特定する能力を磨かせるべきです。その上で、その問題を解く議論もさせる事になります。もちろん、出た結論を否定や批判してはなりません。もし、明らかに間違っているとしても、それを気付かせる別の問題を提起して、議論を元のレールに戻すのは教育する側のテクニックになるでしょう。悩ましいのは、教育者がより確からしい知識や価値観を持ち合わせていない場合には、これらの問題発見力や解決のための議論をミスリードしてしまう事にもなってしまうので、彼らの責任が増してくる事です。長くなりそうなので続きとします

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2017年5月15日 (月)

3290 ピンチはチャンス

3289でも書いた様に、全てのピンチは裏を返せば事態改善のチャンスだと言えるでしょう。例を挙げましょう。例えば、過去の大地震は、間違いなくこの国の建築基準を引き上げ、地震に強いビルや住宅の増加に寄与した事でしょう。また、多くの交通事故も車の安全基準を大きく引き上げたのです。

さて原発です。あの過酷な原発事故は、この国に何をもたらしたでしょうか。確かに安全基準は引き上げられたかに見えますが、もちろんそれらは原子炉自体の構造改善に及ぶものではありません。ベントフィルターなどの付帯設備の追加や地震・津波対策で建物補強や非常用発電機を高い場所に移す、といった「小手先」の改善に過ぎません。そうでなくて、あの過酷事故でこの国は、脱原発に向けて、再エネ・新エネの優等生になるべく運命づけられたのだ、と考えるべきなのです。然るにです、今の政権は原発再稼働を推し進め、それに飽きたらず原発の輸出さえ進めようとしているではありませんか。何をかいわんやです。このピンチにやるべき事は山積でしょう。汚染水処理の効率的な方法の開発、放射性デブリの搬出ロボットの開発、廃炉技術の開発、それよりなにより放射能を弱め、無害化する技術は放射性廃棄物の処理問題でも待望される筈です。

臭いものに早く蓋をしたい輩は、国際的緊張やテロの危機を煽りながら、憲法問題や自衛力の増強問題に、問題をすり替えようと躍起になっている様に見えます。ピンチとそこから派生する問題に蓋をしたまま放置を続けると、当然の事ながら問題は拡大し続ける結果になる事は必定です。そうでなくて、いま為すべき事は諸問題の本質を見据えて、それらに優先順位をふる事でしょう。その上で、ダラダラ国会に終止符を打って、専門家を交えたボードを必要な数だけ立ち上げるのです。人材を集めて知恵を絞れば、どんな問題もチャンスに変える何かしらのアイデアが出る筈なのです。

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2017年5月14日 (日)

3289 2020年問題

この国の当面の課題は、2020年のオリパラを成功裏に開催する事だけ?の様に見えますが、環境問題に関心のある人ならば、別の2020年問題も気にかかる筈なのです。2020年には、実は先進国では、代替フロンを含め、冷媒や発泡剤としてのフロンの全廃する事が決定しているのです。つまり、2020年は脱フロン元年である訳で、HCFCを含めて速やかにフロンを全廃する義務を負っているのです。代替フロンは、あくまで当面の対策に過ぎないからです。最終的ゴールは、ノンフロンでかつGHG効果ミニマムでなければなりません。

欧米では、動きが素早く、既にHFOへの切り替えが始まっているのです。この国でも、大手流通業や欧米ヘの輸出車については、CO2を主体にした冷媒やHFOへの切り替えが始まってはいます。しかし、この国では未だに多量のフロンや代替フロンを抱えた、冷凍機や空調設備、冷蔵ショーケースや車・家庭用のエアコンに加え、発泡剤としても大量に使われているため、製造設備の切り替えや在庫の処分には大きな混乱が巻き起こると想像されます。

投稿者の意見としては、解決策はあると見ています。と言うのも、炭化水素系のガス、つまりはLPGなのですが、これを含む冷媒ガスは、上手く配合すれば、現在のフロンや代替フロンを直接に入れ替えても、装置の能力が損なわれないどころか、約30%程度の省エネ効果も期待できるのです。つまり、より安全で性能も高い冷媒が開発されるか、HFOの量産が加速して価格が低減するまでは、当面炭化水素系冷媒を使えば良いのです。もちろん、この冷媒が漏れると強撚性ガスですから非常に危険です。従って、この冷媒を使用しているエリアには、複数のガス検知器を配置する必要もあるでしょう。しかし、考えてみれば殆どの建物には、既に都市ガスやLPGの配管が設置され、ガスが使われていますから、それと同等の安全対策を構えておけば十分でしょう。

その意味で、2020年問題は、冷媒を用いる機器のメーカーとユーザーにとっては、大きなビジネスチャンスであり、大幅な省エネルギーのチャンスが到来したと。前向きに考える事も出来るのです。この2020年問題も、裏返せば(ビジネス)チャンスだと言っておきます。

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2017年5月13日 (土)

3288 クールビズのデタラメ

クールビスが取りざたされる時期になりました。しかし、その基準たるやデタラメというしかありません。その前提は、環境省もエアコンの設定温度28℃だとしていますが、この基準が納得できないのです。そもそも、人が感ずる暑さ寒さの程度は、1)気温、2)湿度、3)輻射温度、4)風速といった複数の要素で決まるものなのです。これらを総合的に示す指数としては、WBGT値がありますが、これは最近熱中症の指数として労働環境の管理に使われ始めています。

つまり、たとえ気温が28℃以下であっても、非常に湿度が高いとか、天井の断熱が悪く、夏場に過度の輻射熱が降ってくるとか、あるいは部屋の空気が殆ど動かないとかの条件が重なると、人は熱中症に陥るのです。

取り分け、湿度は重要です。湿度が高い環境では、せっかくかいた汗が蒸発しにくいため、体の表面からの放熱が鈍くなり、体内に熱が籠るのです。また、壁や天井が、気温より高くなっていると、体が輻射熱を受けて、放熱が鈍くなるので、やはり熱中症になり易いのです。

この国の夏の気候は、いわゆるモンスーン(高温多湿)なので、気温の割には高い湿度が、人の体にはキツイのです。従って、クールビスの基準は、温度は28℃でOKとしても、湿度に関しても基準を設けるべきなのです。加えて、窓や壁や天井を抜けて侵入してきて、体感温度を上げる輻射熱も考慮すべきなのです。熱中症の総合指標であるWBGTは、安価な計器で計測可能ですから、それぞれの事業所にはWBGT計を持つ事を義務付けるべきでしょう。その意味では、この国の夏を快適に乗り切るためには、是非とも除湿に重点を置いた、超省エネ型のエアコンの開発が待望されるところです。

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2017年5月12日 (金)

3287 見せる化

投稿者は、フリーランスになって以降、長く省エネルギーの方法について掘り下げてきました。その中で一番相手に対して説得力があったのはエネルギーの「見える化」だったと振り返っています。触ると(ビリビリして)分かるが、しかし目には見えない「電気」を、例えば電力量計で見える化してやれば、時間帯毎に変化する電力量の推移をグラフで見る事が出来ます。

同様に、自分がやってきた事、やろうとしている事を、どうやって自分や他の人に見える様にするか、最近気になっています。文字にしてきたという意味では、ほぼ10年間書き続けているこのブログも、言葉を見える化したものではありますが、そうではなくて図表や画像などを使って、一目で理解できる様にしたいのです。言うは易しで、行うは・・・です。なにしろ、サラリーマンからフリーランスになって、手がけた事が多過ぎますし、今後やりたい事も多いからです。かと言って、残された時間も多くはなさそうなので、取り敢えずは後継者を見つけてココロザシを引き継いでもらうしかないのかも知れません。

当面やりたい事を少し書いてみます。それらは、分かり易い形で、絵にもしてみようと思います。先ずは、自宅を使って始めた、再エネによる暖房・給湯システムをもう少しブラッシュアップしたいのです。熱効率の向上と、今は全手動のシステムを半自動にしたいものです。加えて、夏場の冷房を「デシカント」を使った、太陽熱冷房を実用化したいとも思っています。これは、もうすでにかなりの程度具体化しているので、DIYで出来る範囲で形にしてみようと思います。もう一つ、形にしたいのが、ペレット燃料の定量供給装置の実用化です。現在は、殆ど全てのストーブやボイラでは、スクリューフィーダ(オーガ)を採用していますが、完全に毎秒○○cm分のペレット燃料が送れるようにできれば、燃焼空気量もルーツブロアなどの定量型送風機を使えば、デジタル制御が可能となり、完全燃焼が実現できるでしょう。

結局、全体としては「小規模再エネ」の家庭レベルへの普及だと言っても良いので、先ずは自宅を実験場にして、実証試験をする事にしましょう。それが、他の人への「見せる化」につながるでしょうから・・・。

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2017年5月11日 (木)

3286 「小文字」の地方

国も、地方自治体も口を開けば、地方における「少子高齢者対策」や若い人達を引き付けるための「地方創生」などという抽象的な言葉を連呼します。これらの抽象的な言葉としての地方を「大文字」の地方と表現した場合、表題で言う「小文字」の地方とは、具体的に手に取り、感ずる事の出来る実体としての地方を意味します。つまりは、日常目にする小さな単位のコミュニティの事です。

大文字と小文字で何が違うかですが、それぞれの中で「自分」の占める比重が違います。投稿者が住む東北の県では、この春先ついに人口が100万人を割り込みました。その件で、投稿者の占める比重は1/100万に過ぎませんが、合併で一時は人口が9万人を超えたUターンした町は、元々は4万人弱の城下町だったので、その比重は1/数万と言うことになります。自分が占める比重が大きいということは、自分が何か行動するとその影響が少しは現れると言うことを意味するのです。

実際、Uターンして町中の企業を訪問する中で、ある企業で大量に余っていた木工廃材に着目し、お金を払って焼却処理していたものを、ペレット燃料に加工する事を進言し、県の助成金を得たこともありめでたくペレットプラントが導入されました。これによって、町にペレット燃料の供給基地が出来たのです。これによって、徐々にですがペレットストーブやペレットボイラの導入も進み、エネルギーの地域自給がささやかに始まったのです。また、地元の商工会に向けた新事業やアイデア出しのセミナーを引き受け、その際考えた事をまとめた「企業ハンドブック」を発行して貰い、会員企業に配布もしたのです。

もちろん、これらは対象としたコミュニティが小さかったために、一個人の話を受け取ってくれたものでしょう。もし、県レベルであれば、然るべき肩書き、例えば大企業の経営者や大学教授と言った「肩書き」の人達が、然るべき委員会などで政策提言を行った後、予算取りが始まり、世の中の景気が良くて税収に余裕があれば俎上される、と言ったまだるっこしい経過になる事でしょう。ここで、言いたかったのは、先ずは小文字の地方で小さな行動を起こし、それを徐々に波及させていった方が、結局は大文字の地方を巻き込む流れを作る事が出来るのではないか、とい点なのです。

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2017年5月10日 (水)

3285 地球と自分の間

投稿者は、50代に差し掛かったある時期に「環境人間」を志しました。しかし、最近少し違和感を感じてしまう様にもなった気もしています。つまり、母なる地球があって、自分を取り巻く「環境」があるのですが、最近その環境の「巾」が気になりだしたのです。自分が認識できる環境の巾は、精々自分が日々活動する範囲か、時々旅行する際に車や列車から見える範囲内なのですが、地球環境と大上段に構えると、未だテレビで見たことさえない、世界の秘境や辺境も全て含まれる訳です。しかも、それは1万メートルを超える深海から、8千メートルの山々に留まらず、成層圏と呼ばれる数十㎞の大気圏の上端までも抱合するのです。

言葉だけで、「かけがえのない地球の環境を守りましょう」、「地球に優しい暮らしをしましょう」と呼びかけるのは簡単な話でしょう。しかし、では具体的に、何を、どの程度、いつまでに為すべきかを考え、決めて、それを実行に移すのは簡単な話ではありません。2030年までにGHGを3割減らし、2050年までに8割減らすことが出来たとしても、それは「焼け石に数滴の水」程度なのかも知れません。

どう考えても、私たちは今の生活スタイルを根本から変える必要があると思うのです。具体的には、高々10㎞に満たない通勤距離を、車で雨に濡れずに快適に移動する生活から、少し早起きして、雨の日には合羽を着て、自転車にまたがって通勤する生活スタイルへの移行するという訳です。車を10㎞転がすと2㎏強のCO2を出します、往復で4㎏、年間ではたぶん1トン以上に積み上がるでしょう。しかし、自転車通勤であれば8割減どころか10割削減が可能となります。

投稿者は、実際30年間のサラリーマン生活では、通勤距離はほぼ10㎞程度でしたが、ほとんどの期間を自転車通勤で通しました。走行した距離はたぶん地球を数回周回する距離になる筈です。そんな暮らしで得たものは、20代から殆ど変わらない体重と、人並み以上に強くなった心配機能、つまりは健康だと振り返っています。結果として、同じような距離の車通勤の人と比較すれば、数十トンのCO2を出さないで済んだ計算になるでしょう。

今後の暮らしでも、まずは自分で実行できる質素な生活を続けながら、出来れば水か空気か立木の様に静かに生きて行こうと思っています。自分と地球の間の比較的狭い環境を意識しながら・・・。

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2017年5月 8日 (月)

3284 小さな達成感

ある時期に気が付いたことがあります。それは、人間が生きていく最大の原動力は、実は達成感なのではないか、という事なのです。もちろん、幸福な人達は、いわゆるビッグプロジェクトに関わって、それが実を結ぶ様を眺め、大きな達成感を感ずることができるでしょう。しかし、投稿者の様な平々凡々な人間にも、小さな達成感は手にすることが出来る様に思うのです。小さな達成感とは、日々の小さな仕事が一区切りついた瞬間にも感ずる事が可能でしょうし、この人気のないブログを一稿書き上げる時にも少しは感じ得ていると思っています。そうでなければ、足掛け10年にも亘って、読んで突っ込みを入れてくれる人とて少ないこんな文章を、書き続けることなど出来ないはずなのです。

もちろん、誰かがこのブログを読んでくれたとして、何かが伝わって、その人にとって何かのヒントになってくれれば、それに越したことはありませんが、少なくとも、自分が生きた証として、自分を知る少数の人達や自分の子供達だけでも読んでくれれば、それで十分だと思って書いているのです。凡人の頭で考え、それを文章にしたところで、100題書いても、我ながら良いことを書いたと思えるのは、12題しかありません。しかし、振り返ってみればこのブログも既に3000題以上書き続けてもいるのですから、少しは他の人に参考になりそうなものも、控えめに数十個程度は含まれていたかも知れない、と言って置きましょう。

その一方、小さな達成感は、決して自己満足で終わってはならないとも思っています。人が生きる意味は、誰かに良い影響を与えるか、あるいは少なくとも他の誰かの役に立って、感謝されることが含まれなければならないでしょう。さて、これまでの人生で何か人の役に立てただろうかと考えてみると、いくつかの心当たりはありますが、もちろん中身としては不十分と言うしかありません。従って、今ボンヤリ考えているのは、残りの人生でどれほどの事が出来るかの「見積」とそれを実行に移す計画を立てることなのです。計画倒れにならない様にするためには、それが具体的で、かつ実行可能でなければならないでしょうし、大それたものではなく、小粒でしかも短い期間で達成できるものである必要があるでしょう。小粒の計画を、自分の残されている時間の限り、いくつか積み重ねていくのが、達成感を得るため凡人にできる最良のアプローチだと思うのです。

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2017年5月 6日 (土)

3283 これ以上何を

私たちの生活環境を見回すと、子供の頃は「夢物語」だったことの多くが実現されてしまっています。空を自由に飛び回る車はまだ実現できてはいませんが、代わりにドローンが飛び交い、腕時計型の端末は実用化されてはいませんが、スマホで通信はもちろんお金の支払いまでを含め殆どの機能が事足りる様になりました。ロボットの体内にも納められる小型の原子炉は、たとえ1馬力しか出力できなくても実用化される見込みはありませんが、バッテリーを背負った非力なロボットアトムなら、かなりのレベルまで進化した様です。その意味では、私たちが子供の頃に21世紀という時代に抱いていた、未来技術の殆どは、実現されてしまったとも言えるでしょう。

かつて人は、石や木の枝や簡単な道具を用いて、手指を拡張しながら、さらに種々の道具を作り出し、その道具を用いて機械を作りながら、頭脳と手業を磨いてきたのでした。その間、数知れない人々の小さな工夫と時々現れる天才のヒラメキによって、機械はさらに複雑なものに進化し、さらに電気・電子の発見・発達により、手のひらサイズのガジェットに信じられない程の機能を詰め込むことにも成功したのでした。しかし、投稿者が憂いているのは、世の中が便利になり過ぎて、その結果人間の能力が減退するのではないか、という事態なのです。

具体的に言えば、キーボードによる文字入力と自動変換技術によって、私たちが漢字を書き順も含めて書き記す能力や文字そのものを形良く書く能力の多くが損なわれてしまいました。車の殆どがオートマ車化された結果、人は時々前進と後退を勘違いして、しかもアクセルとブレーキを踏み間違えるとミスを犯すようにもなりました。自動運転車は、一体人間のどんな能力を奪ってしまうのか、今は想像もできません。さらに言えば、超絶に便利に進化してしまったコミュニケーションツールとしてのスマホが、今後人間のコミュニケーション能力をどこまで奪ってしまうのかもまた全く想像できません。

さて私たちは、こんなに「便利」にこだわる飽くなき努力を重ねながら、果たして何処に向かおうとするしているのでしょうか。それは便利に囲まれながら、無能な人間を増産する社会なのでしょうか。「ちょっと待って」です。私たちには便利を捨てて、不便を楽しむという選択肢もあると思うのです。先ずは衣食住に関して、自分の手を動かして手に入れてみてはどうでしょうか。それは、衣類を縫い、山菜を採集し、庭やベランダで野菜を育て、住居に自分で手を入れて住み易くする小さな改善をしてみる事から始めるのです。DIYこそは、人類を退化と破滅から救う唯一の手段だと思うこの頃です。

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2017年5月 2日 (火)

3282 アイデア不足

3281の続きです。もちろん、技術力の凋落だけで、この国の閉塞感を説明する事は難しいでしょう。最近の、世界市場における連戦連敗を眺めていると、決定的に欠けているのは、市場との対話とニーズにぶつけるアイデアだと思うのです。確かに、Wlォークマン辺りまでは、得意の精密技術を駆使して、カセットテープサイズのテープレコーダメカで、世界に差をつける事が出来ていました。しかし、市場が求めていたのはその先でした。携帯している事を感じさせない程の小さな音楽プレーヤだった訳です。それがIポッドであり、同様の流れはパソコン(+携帯電話)→スマホの流れにも見つける事が出来るでしょう。

つまり、技術を洗練させて新たな製品を発想するのでは、現在の製品の延長上のモノしか提案できないでしょうが、一方で市場との対話とグッドアイデアが結びついた場合には、それまでのカテゴリーを超える画期的製品が生まれる事も多いのです。アイデアは、多分日常のデスクワークに追い立てられて、それに埋まって長時間残業をこなしたとしても、生まれるものではないでしょう。自由な雰囲気の中で、余裕を持ちながらのフリートーキングと言った環境からポンと飛び出すのです。

ある時期、アイデア発想法について深く考え込んだ事がありました。もちろん、凡人の凡庸の頭脳で考える事ですから、大した名案も思い付きませんでしたが、考え続けていると何となく頭の中に「アイデア」が点灯するイメージが徐々に出来てきました。その中で、自分なりに使えそうだと感じているのは、ニーズを絵で表示する方法の一つである「出来る出来ない分析」でしょうか。同様の手法では川喜多氏が考案したKJ法がありますが、これはフィールドワークのまとめ手法としては理想的ですが、必ずしもアイデア発想には向きません。出来る・出来ない分析とは、ある手段で実現できる事と、出来ない事をチャート上に言葉として順に並べていくものです。つまりは、出来る→出来そうだ→出来るかも知れない→出来ないかも知れない→出来にくそうだ→今は出来ない、などと順位を付けて並べてみるのです。例えば、コンビニショップで今は出来ていないのは、嵩張る衣服などを売る事などが考えられますが、真空パックで十分に小さく圧縮すれば、不意の寒さを感じた時に提供するダウンジャケットやカーディガンやセーターなどは在庫可能でしょう。今は出来ない(出来にくい)事を可能にするのがアイデアの本質だと思うのです。その意味で、必要は発明の母であり、技術は発明の父なのです。

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2017年5月 1日 (月)

3281 技術貧国?

ものごとの表面しか見ない人達が、この国は、モノ造り大国とか技術立国であると、呼ぶことがあります。正確を期すために投稿者なりに解説しておけば、「かつてはそうであった」とは言えるでしょうか。戦後の荒廃から、生活を二の次にしての経済優先で、先人が努力を重ねて、欧米の技術を取り入れ、それを改善して築き上げたモノ造り技術は、確かに一時は世界水準に駆け上がった事は間違いありません。必死にモノ造りに取り組む中で、モノを作る技術力やそれを支える「技能」レベルも十分に高まったのです。

しかしながら、いわゆるバブル崩壊やリーマンショック後の「停滞期」において、この国のモノ造り産業は、すっかり自信を失い、あるいは安易な海外展開を図る中で、「技能の部分」の凋落が著しかったと言えるでしょう。理由は、人から人への技術や技能の「伝承」が上手くできなかった事にあるのは明らかでしょう。特に、技能の伝承などと言うものは、書き物にしたノウハウや、あるいはビデオ映像等だけで伝えるものではないでしょう。技術を持つ先輩が実際にやって見せて、それを弟子や後輩が真似ながら、先輩の適切な助言も貰いながら徐々に腕を上げていくのでしょう。

しかし、例えば利益を追求するために自動化に集中的に資本を注ぎ込み、それに比べて人材の採用を抑え続けた結果、技術や技能の人から人への「伝承」の糸が途切れたり、弱まったりしたと想像しています。

具体例を挙げましょう。戦後、戦時中の航空機技術を受け継いだ成果物としてYS-11と言う旅客機が開発されました。戦闘機乗りの多くが戦死した一方、工場でモノ造りに携わった技術者や職人は、戦後も産業を支え続ける事が出来、その発露がこの旅客機だったと言えるでしょう。然るにです、その技術や技能は、結局は途切れてしまったのです。正確に言えば、海外の下請け仕事やJ衛隊向けの機体で、細々とはつながっては居たのですが、YS-11の後継機の開発は、MRJの開発まで50年間もの長きに亘り捨て置かれたのでした。その間、技術者も技能者も2-3回かそれ以上代替わりし、真の意味での「伝承」は途切れてしまったのです。歴史に「たら・れば」は無いのでしょうが、例えば1980年代にオールジャパンで後継旅客機の開発が行われていれば、この国は技術立国であり続け、カナダやブラジルを抑えて第三の航空機製造拠点になっていた筈なのです。失われた20年を取り返す事はかなり絶望的だと言うしかありません。返すがえすも残念ではありますが・・・。この国は、今後一体何で食って行けば良いのでしょうか。

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