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2017年7月23日 (日)

3326 ローテク三昧

随分久しぶりの投稿の様な気がします。引き受けてしまった3つの仕事に対して、頭を切り替えながら、日本狭しと走り回っていたので、なかなかブログを書く時間が無かったのでした。と言うより、心の余裕が無かったというのが正しいでしょうか。

さてその内の一つはバイオガスエンジンでの発電で、別の一つは昔取った杵柄の一つ、機械加工(切削)分野ですが、どちらも「ローテク」の代表と言っても良さそうな分野です。なにしろ、バイオガスエンジンの元となるのは、いわゆるディーゼルエンジンですから、振り返ってみればディーゼルさんによって発明されてから既に100数十年経過している技術なのです。一方、切削については、木材をロクロで削っていた時代もあったでしょうから、事実上人間が道具を使い、金属を利用し出した時代に遡るのかも知れません。

しかし、いくらIoTの時代になろうが、機械に賢いAIを搭載しようが、結局機械を動かし、モノを削るのは「ローテク」であることにはいささかの変化もない筈なのです。モノや刃物をモーターの力でぶん回し、硬い金属でできた刃物で材料を削ったり、穴を明けたりするしかないのです。航空機の材料だって、巨大な糸巻につなぎ目の無いカーボン繊維を巻き付けて胴体でも作らない限り、やはり部材を重ねて穴を穿ち、リベットでカシメる以外に胴体を作る良い方法は発明されてはいないからです。材料研究者は、今より更に軽く、剛性の高い繊維や材料を考え出してしまうでしょうから、それを加工する側も、更に硬い材料で刃物をこさえていくしかない訳で、そのイタチゴッコは当分続く事でしょう。

しかし、関わっていて思う事は、ディーゼルエンジンにだって、刃物にだって、改善する余地が山ほどに残っているという事実なのです。ドリルの様に、研究し尽くされたと思える分野にさえ、まだまだ改善の余地がある事に、今更ながら気づかされているのです。ローテクも、まだまだ奥が深いと感ずる今日この頃ですし、死ぬまでローテク三昧に浸ろうとも考えている今日この頃です。

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2017年7月12日 (水)

3325 異常高温

ここ秋田でも、内陸部では酷暑日が数日続いています。最低、最高気温ともに平年に比べても6-7℃高いという状態はやはり「異常高温」でしょう。確かに、天気は良いのですが、日射だけでこの高温は説明できないでしょう。何故なら、日射が一番強いこの時期には、その強い日射で気温はグングン上がるでしょう。しかし、日が暮れてしまうと気温は速やかに下がる筈なのです。晴天の日には、最高・最低の気温差が10℃くらい開くのが普通なのですが、明け方でも25℃以上のいわゆる「熱帯夜」なのですから話になりません。

その原因としては、確かに梅雨前線が南の湿った暖かい空気(湿舌)を引き込んでいるのは間違いないでしょう。その上で、集中豪雨はいわば水蒸気の凝縮であり、発熱現象であることを忘れてはならないでしょう。暖かく湿った空気から雨が絞り出されると、気温は当然の事ながら上がるのです。異常な高温の原因の一つは、異常な降雨にもあると思うのです。しかし、このことだけで異常高温が全て説明できる訳ではないでしょう。

他の要因として投稿者が疑っているのは、大気中のエアロゾルです。エアロゾルは、例えば海面の波立ちによる塩分を含んだミストによっても生じますし、PM2.5あるいはそれ以下の微粒子が核になってできるものもかなりの割合になるのではないか、と疑っているわけです。その微粒子の供給源には事欠かないでしょう。お隣の大国であるC国の発電所や車などで燃やす石油や石炭から大量の粉塵や硫黄酸化物などが、日夜大気に供給され続けているからです。それらが核となってエアロゾルが生まれる訳ですが、それらが大気中の水蒸気と温暖化効果ガスと相俟って、地球に熱の蓋をしてしまうと言うストーリです。その結果、日射で地表に入った熱は、夜間にも宇宙への放射が弱くなり、熱が蓄積する事につながると考えています。二酸化炭素やメタンガスなどのGHGも右肩上がりで蓄積していますので、どう考えても異常高温は、今後も持続すると考えて、異常が通常になるとの前提で、「適応策」を考えていくしかないのでしょう。残念ながら。

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2017年7月 7日 (金)

3324 バイオ燃料の課題

バイオ燃料の活用が特に難しいのは、それが固形燃料であれ、液体・気体燃料であれ、それが得られる地域やケースによって、性状が大きく異なる点でしょう。固形燃料であれば、比重や水分率、結果としての着火性や発熱量、また液体・気体であっても、発熱量に加えて含まれる不純物(SO2やシリコン化合物やタール分など)や不要成分(CO2N2など)の含有量が大きくバラつくのです。

これを上手く回避して使うためには、実はその利用設備(多くの場合はボイラや内燃機関ですが)に大きな調整代を確保しておく必要があると思うのです。場合によっては、不純物濃度を一定以下に抑えるために除去装置も必要になるかも知れません。具体的には例えば、消化ガスにおける脱硫装置や、乾留ガスにおけるタール除去装置などが挙げられます。また燃焼や内燃機関での利用に当たっても、加圧装置や空燃比を最適化するための混合器、燃焼や内燃機関の回転数を制御するシステムなどに多くの自由度を確保しておく必要もあります。

その意味では、自己学習能力を持つ小型のコンピュータの活用は不可欠でしょう。また、それを可能とするセンサーやアクチュエータの開発も必須です。こう考えてくると、現在使われている石油系の化石燃料が如何に便利で使い易い燃料あるかが理解できるでしょう。何故なら、その性状はJISなどで、厳密にコントロールされていますので、燃焼や内燃機関はその性状に合せて「容易」に設計できるからです。一方で、性状のバラつきが大きな燃料を使うには、「複雑な」制御系が必要となる点、機器の設計は困難なものになる筈なのです。これは、再エネ燃料の使用が拡大しない所以でもあります。

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2017年7月 4日 (火)

3323 パワーマージン

表題は、別の言葉で言えばパワートレランス(出力余裕)の意味です。トラブルが多発しているあるバイオガス発電所を調査する機会がありましたが、原因としての結論は「パワーに余裕が無い」厳しい設定だという事になりました。発電機としての動力は、ディーゼルエンジンですので、小さな馬力のエンジンにフルに負荷を掛けるという状態は、さながら車をレース場で常にエンジンをぶん回し、タイヤを軋ませながら走る様なもので、もちろんエンジンの寿命を縮める事は間違いないでしょう。しかし、同じ車でも交通規則を守りながら、一般道をトロトロ走るならば、車だって例えば20万キロを超える様な距離だって走破してくれる寿命は十分あるでしょう。

つまり、設計負荷と機器の寿命を全うさせる常用負荷は分けて考えるべきなのです。元技術屋のカンとしては、設計負荷に対して、例えば70%以下の負荷を常用とするなら、十分に長い寿命を享受できるはずなのです。航空機の様に、安全率や強度余裕を極限まで削らなければならない場合は仕方がないのですが、陸上用で重量にあまり制限が無い場合、徒に余裕を削る必要など無いでしょう。

発電機であれば、負荷に対してたっぷりと馬力のある原動機(ディーゼルやタービンなど)を用い、十分なパワー余裕を持ちながらトロトロと回せば良いでしょう。負荷が低ければ、当然の事ながら機器は長持ちするでしょうし、故障発生も少なくて済むでしょう。潤滑に関して言えば、軸受けの荷重が小さければ、転がり軸受けでは寿命が延びるでしょうし、滑り軸受けでは発熱量が減るので、潤滑も楽になるでしょう。それは、潤滑油の劣化を抑え、交換の頻度も低くて済むことを意味するのです。「大は小を兼ねる」と言う格言は、この場合非常に重要な意味を持ちます。

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2017年7月 2日 (日)

3322 ゾーンニング

この国の街づくりで、行政が最も苦手としているのはたぶん「ゾーニング」でしょうか。つまり、ここは商業地区、ここは住宅エリア、ここは工業団地、ここは官庁・文教地区といった区割りが上手くできていない都市や町が殆どなのです。何故かと考えてみるに、この国では古よりまずは農地、とりわけ水田ありきで村や町が構成されていました。水田の特徴としては、引水と湛水のために等高線に沿った開発が行われてきたのでした。国土の狭いこの国では、工業化や市街化は、水田や畑を潰す形で始まり、高度成長期においては浅海の埋め立て地が造成されましたが、農家の土地に対する執着も強く、かつ工業用地や住宅地の開発に計画性を持たせる事もない「単なる許可制」だけで対処したため、無秩序な工場立地や無理な宅地造成が横行してしまったのでした。

もし、行政が「ゾーニング」の考えに立ち、将来の青写真を描きながら許認可をコントロールしていれば、現在の様なカオスは生じなかったでしょう。今日、典型的な地方市を眺めれば、中心部には、鉄道駅を中心として昔ながらの街道町の面影を残す道幅の狭い市街中心部があり、その街を迂回するバイパス道路が造られ、その周りに田んぼを埋め立てた工場が散在し、町の郊外には乱雑に開発されたいくつかの住宅団地と大きなショッピングセンターが忽然と生まれたりもしています。

ゾーニングに必要なのは、都市計画を専門とする人材と、行政の強力な指導力だと思うのです。土地は誰の「所有物か?」という根本的な問いが、時々議論されますが、土地は基本的には「公共財」であるという信念が必要でしょう。何故なら、元々誰のものでもなかった荒れ地を開墾したのは、確かにあるご先祖様だったでしょうが、それを封建時代のルールで代々の子孫が受け継いだにしても、戦後の混乱期の農地改革で、それは「適当に切り分けられてしまった」のですから、その際の権利を必要以上に重視するのは正しくないと思うのです。土地を利用するのは、基本的にはある代だけに限定された権利として認める一方、それは有期の借地権の様なものとして、用済み後は公共に返納すべきだとも思うのです。そして、土地は上手くリサイクルしながら、将来に向けて青写真に沿って、再開発すれば良いのです。確かに10年やそこらでは目に見えた変化は生じないでしょうが、50年、100年後には、理想的で住み易く、働き易い街に変化していくでしょう。職住が接近していて、子供を育てやすく、青年が学び易く、老人が安心して生涯を終える事が出来る街の理想を追求すべきでしょう。多くの地方都市や小さな町ではその理想の追求も可能だと思うのです。ゾーニングにほぼ失敗してしまった東京は、最早人の住む街ではなくなったと言うしかありません。

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