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2017年9月28日 (木)

3352 車文化のゴール?

ダイムラーベンツを嚆矢とするエンジンを積んだ、いわゆる車の文化も、電気自動車の「自動運転車」の開発で、一応一つのゴールを迎えるのでしょうか。もちろん、車産業やその裾野産業の勢いというかイナーシャは、そこで留まる事を許さないのかも知れません。膨大な設備投資を含む資本の蓄積や数えきれないほどの優秀な開発技術者は、兎にも角にも新しい車を開発せずには居られない、「流れ」を持っているからです。

では、それが「空飛ぶ車か」と言われれば、投稿者としてはそれは否定するしかありません。何故、A地点からB地点まで移動するのに空を飛ばなければならないのか、必然性が感じられないからです。確かに、車で移動するには遠すぎる距離であれば空を飛びたいところです。また、朝夕のウンザリする渋滞を思い起こせば、空を飛んで最短距離で移動したいかも知れません。しかし、この国には世界に冠たる鉄道インフラと鉄道技術があるではありませんか。敢えて、通勤などの近距離に空飛ぶ車など全く必要としては居ないでしょう。

百歩譲って、一人乗りの通勤用の空飛ぶ車が開発されたとしましょう。しかし、住宅が密集し、高低のビルが乱立し、地上を人や車が密集している日本の都市の上空を、数えきれないほどの空飛ぶ車が、何の交通(飛行)ルールも無しに飛び交う事は全く想像できない事態です。平面交差の道路でさえ、交差点では出会いがしらの事故が頻発しているではありませんか。その道路(空路)が立体的に交差している状況を考えると空中衝突事故の多発する映像しか思い浮かびません。空中衝突は、当事者だけの事故は終わりません。空から、重い大きな2つの塊と、二人の人間と、いくつかの細切れになった部品が地上に落下するのです。その巻き添えを食ってしまう地上の人達こそいい迷惑でしょう。

空飛ぶ車は、それらしいものが既に登場している様に、開発は出来るでしょう。でもそれは、特にこの国の様に人口密度が高く、かつ気象変化が激しい国では、全く使えないシロモノだと言うしかありません。それが使えるのは、精々砂漠に囲まれたアラブの金持ち国くらいでしょうか。ここでの結論は、3351と同じものになりそうです。即ち、そんなお金とマンパワーがあるくらいなら、問題山積の地上の、海の環境問題の解決に当ててくれ、というものです。

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2017年9月27日 (水)

3351 宇宙ロケット:花火論

B国大統領が、彼の国のリーダーをロケットマンと呼んだ話はさておいて、下町ロケットや月面到達レースなどを含めて、未だ「宇宙開発」を煽り立てる風潮には、眉をしかめるしかありません。というのも、掛けるマンパワーやコストに見合う果実が期待できない行動だと思うからです。町の企業が起業生命をかけて、宇宙空間への小さな衛星の打ち上げに成功したとしても、その衛星にどんな機能を持たせようと主張するのでしょう。また、いくつかのチームが、月にちっぽけな月面走行車を送りこんで、ささやかな賞金を得たにしても名誉以外の何の果実が期待できるのでしょう。ナショプロではない民間プロジェクトで衛星の打ち上げが可能となれば、また民生品を駆使した安価な月面走行車が実用化されれば、確かに宇宙開発のコストは画期的に低減するかも知れません。

しかし、問題なのはその「宇宙開発の目的」なのです。何のために、その衛星を宇宙空間まで打ち上げなければならないのか、何のためにちっぽけな車を月面で走らせなければならないのか、がさっぱり見えないのです。国の威信をかけた、宇宙レースはもう終わったと見るべきでしょう。その名残として宇宙空間に留まっている宇宙ステーションも、間もなく退役する事でしょう。太陽系の果ての土星までたどり着いたカッシーニも役目を終えて土星の土?になってしまいました。

そうであれば、今後の宇宙開発や競争は、企業の威信をかけたものなのでしょうか。

投稿者には、今の宇宙開発が、何か真夏の夜の花火の様に見えて仕方がないのです。確かに、花火は華やかで爽快な一瞬を多くの人々に提供している事でしょう。しかし、花火は年々華やかにして行かなければ、人々の関心を集め続ける事は出来ないでしょう。そんなお金やマンパワーがあるのなら、それを是非地上や海に向けて貰いたいと思うのです。地上や海には特に環境上の問題が山積している筈なのです。それらをホッタラカシにしたまま、空だけを眺めているという風潮には、やはりイエローカードをかざすしかありません。

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2017年9月26日 (火)

3350 紛争と無理な国割り

こんな事は、えらい学者が何度も指摘してきている様に思いますが、投稿者の視点でも考えてみます。多くの紛争は、国境(くにざかい)を巡るものである事は論を待たないでしょう。歴史時代を通じ、現在まで脈々と続く紛争や戦争の歴史が雄弁にそれを物語ってもいるでしょう。どんな紛争も、何らかの境界の移動を伴って、あるいは双方の疲弊の結果、一度は落ち着くように見えるものです。これまで、終わらなかった戦争や紛争は無かった筈です。

しかし、一つの紛争で生じた目には見えない「ワダカマリ」は、世代を超えた火種となってくすぶり続けるのです。取り分け、国境が宗教や人種(部族)によって、濃く引かれている場合には尚更でしょう。同じ預言者?に端を発した宗教が、その後枝葉を生じて、ついには別々の宗派が覇を競った結果、長年の宗教戦争になったケースは、歴史上も決して稀ではありません。もちろん、古くは食糧の確保に関わり水資源をめぐるもの、近年では地下資源(とりわけ石油)をめぐる戦争や紛争のケースも多くなっています。中東をめぐる戦争や紛争もまさにこのケースでしょう。

しかし、投稿者が思うに、近年の紛争や戦争の最大の原因としては、「無理に引かれた国境線」にあると思うのです。イデオロギーの差異や部族の垣根をそのままにして、南北(東西)を分けるために北緯○○(東経XX)度に定規で引かれた国境線は、それが直線であるが故に、古からの地政学的・民族的な国割りを完全に無視してしまっている筈です。それもこれも、南北それぞれの陣営に肩入れしてきた、大国のエゴが招いた事態であるのもまた間違いないでしょう。武力のバランスの結果として引かれた近年の国境線は、当然の事ながら、そのバランスの崩れによって不安定に陥る筈なのです。超大国や欧州大国のパワーバランスが作り出した、アジアや中米やアフリカ大陸で引かれた直線的な国境地帯が、何時まで経っても紛争の火種になり続けている事には所以があるのです。

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2017年9月25日 (月)

3349 あるべきモノの輸送手段2

3346で書き忘れた事があります。それは、持続可能型の社会での理想は、可能な限りモノを運ばない事なのです。モノを運ぶのは、効率(≒コスト削減)を最大限追及をした結果、極端と言えるほどの「分業」が進んでしまったのでした。極端なのは、ある製品を国内でたった1ヶ所で製造し、それを全国に配送しているケースです。もちろんこれは例外ではないでしょう、むしろ食品など嵩や重さの割に安い製品こそ、分散した工場で作られているのでしょうが、電化製品などはむしろ極端なまでの工場集約が進んでいる筈なのです。

もちろん、輸送手段や輸送システムも効率化が進んでいるのでしょうが、それにしても嵩張る製品では、さながら空気を運んでいる様なトラックやコンテナも多いと想像しています。それも、これも今のシステムが、コスト最低を狙い過ぎているからあり、それは決して「環境負荷最低」ではない事は明らかでしょう。環境負荷最低を狙うなら、輸送のためのエネルギーは全くのムダという事になります。何故なら、製品を遠くへ運ぶ事によって、そのモノ(製品)には、1円の付加価値も付け加わっては居ないからです。逆に環境対しては、石油資源を減らし、CO2や窒素酸化物やPM2.5をまき散らし、道路を傷めつけ、沿道の人達には騒音と、時には事故の危険も引き起こしているではないですか。

昔はそうではありませんでした。殆どのものは、地元で製造し、地元で消費していたのです。もちろん高価だった家電や車などは昔も集中生産され、全国に配送されてはいましたが、輸送手段は鉄道貨車(後にはコンテナ)、あるいはトラックの「混載」で移送されていたのです。混載のメリットは、貨物をスペース一杯に詰め込める点でしょうか。もちろん、そのために輸送時間も人手も多く掛かってはしまいますが、環境効率は非常に高いのです。

私たちが狙うべきは、環境効率をコスト効率の上位に位置づけること、矛盾する場合も多いにせよ、可能な限り両者を同時に達成する努力でしょう。今日注文して、明日受け取るというワガママな利便性さえ放棄すれば、環境効率はもっとずっと高める(=環境負荷を低減する)事は十分可能なのです。

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2017年9月23日 (土)

3348 案ずるより2

少し前まで、バイオガスとりわけ乾留ガス(シンガス)はカロリーが低く、使いにくい燃料だと思っていました。そのまま燃やすのであれば、量で稼げば良いので、例えばボイラなどの熱利用には問題ないでしょう。しかし、ガスエンジンの燃料とするのは、そのままではカロリー不足で、十分な出力が期待できないと思い込んで居たのでした。

しかし、よくよく考えてみれば解決策は意外に単純なものだと分かります。ガソリンエンジンやディーゼルエンジンでは、同じ排気量でも出力を上げたい場合には、より多くの空気を送り込むために過給機(スーパーチャージャー)を使います。通常は排気ガスを使ってタービンを回す、ターボチャージャーか、エンジンの回転を利用してルーツブロアなどを回すいわゆるスーパーチャージャーを備えます。空気量を増やした分だけ、燃料も増やせますから、同じ排気量でも出力を、例えば数十%も増やす事も可能なのです。

ということは、同じことが、気体燃料にも応用できる事を意味します。カロリーの低い気体燃料でも、圧縮して密度を上げれば、例えば1/2に圧縮すれば、同じ体積当たりのカロリーは2倍に高める事も可能でしょう。嫌気性醗酵で生じさせる消化ガス(メタンガス)であれば2-5kPa、乾留ガスであれば、5-15Pa程度に圧縮してやれば、問題なく必要とされる出力を出す事が可能でしょう。これは、シンプルなルーツブロアを使えば実現できるレベルの圧力です。

内燃機関は古い技術ではありますが、その分ほぼ完全にこなれた技術でもあります。燃料と空気を完全燃焼できる割合で混合し、それを必要な熱量分だけ供給してやりさえすれば、20-30%の熱効率でエンジンを回す事ができるのです。今投稿者の頭の中にあるのは、家庭用のガスエンジンプラントです。燃料は、小型の乾留炉でシンガスを発生させ、それを改質してポータブルのガスエンジンを回すのです。問題は、これをどれだけ小型化できるかです。出来れば、ごく普通のサイズのスチール物置(例えば1坪程度)の中に設置できれば理想でしょう。ガスホルダーのサイズをどの程度にするかがスペース上は最大のポイントでしょう。これまでの常識では、例えば現在最もコンパクトな小型シンガス発電機は、Vルター社のパッケージでしょうが、出力が40kwで設置面積は2坪程度になっています。価格は、たぶん3千万円を超えると想像していますが、これを出力2-kwで、設置面積が1坪以内、価格で言えば低い方の数百万円に抑えたいのです。その際の燃料は、田舎では殆どタダ同然で手に入る木屑かもみ殻が適当でしょうか。

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2017年9月22日 (金)

3347 案ずるより

「案ずるより産むが易し」とは昔からの言い習わしですが、最近それを強く感じています。バイオガス発電事業に関わる様になってから数か月経過しましたが、それまでのバイオマス(バイオガス)発電のイメージとしては、助成金をたっぷり貰った数億円の発電プラント、それも発電能力は精々50kw程度といったものでした。しかし、それは国内の中手や大手が手掛けて、設計やコンポーネントも試作レベルでたっぷりとコストをかけた(積み上げた)プロジェクトですから、コストが高くても仕方がない、と思い込まされていた様なのです。

しかし、その様な発電プラントが、それこそ数千か所存在するヨーローッパの常識は、かなり違っているのです。例えば、畜糞や農業残渣からメタンガスを発生させ、それをガスホルダーに貯めて50kw程度の発電を行うプラントは、たぶん2-3千万円で建設出来るでしょう。日本で作る場合と完全に一桁違うのです。コンポーネントが、長年の改良でブラッシュアップされている上に、設計も標準化されているでしょうから安価に製造できるのです。

日本で同様のプラントを増やすのに、何もゼロから始める必要はないと思うのです。20年以上の歴史のあるヨーロッパなど優れたコンポーネントは、先ずは輸入するか、ライセンス料を払って国産すれば良いのです。この国の産業の歴史は、まさにライセンスを受けた見よう見まねの国産から始まったものが殆どなのです。それは、原発だって例外ではありません。WHやバブコックといった欧米企業のノックダウンやライセンス生産から国産により原発製造の力を蓄えて行ったハスなのです。ガス発生プラントやガスエンジンは確かにローテク技術です。C国やIンドなどの製品でも十分な性能と耐久性がありますから、先ずはそれらのコンポーネントを輸入して使えば良いのです。それによって、建設コストは多分数分の1に絞る事が可能でしょう。そうなれば、FIT価格の乗った買電価格で計算すれば、5-6年でコスト回収が可能になるでしょう。そうこうしている間に、この国が得意な技術改良を加え、量産化技術を駆使すれば、価格競争力のあるプラントに仕立て上げられるでしょう。続きます。

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2017年9月21日 (木)

3346 あるべきモノの輸送手段

注文した翌日に、欲しいものが配達される「行き過ぎた流通」には賛成できませんが、人が都市に集まって住まう以上、日常的にも必要最低限の輸送は必要な活動でしょう。概して言えば、全ての輸送手段は、結局は摩擦力との戦いだと言えるでしょう。つまり、陸上輸送であれば、車輪と路面(線路)と間の転がり摩擦、あるいはそれを動かす動力装置中の摩擦、あるいは車体が空気をかき分ける際の空気抵抗などと闘いながら、貨物を移動させる事になります。海上輸送や航空機輸送だって、摩擦の大部分が空気と機体或いは水と船体の間の摩擦にとって代わられるだけでしょう。

ならば、あるべき輸送手段のキモは、摩擦の低減だと言い切っても良さそうです。移動速度は、例えば100/時に近づくと空気との摩擦(空気抵抗)が急激に増加しますので、まあ80/時程度に抑えるのが妥当でしょう。そうでなければ、真空に保たれたチューブ状の輸送路を建設しなければならないので現実離れするでしょう。その上で、摩擦を減らす切り札としては、ここでは空気ベアリングを提案しておきましょう。十分に滑らかな輸送路に、下から少量の空気を吹き出す移動体(キャリア)を、薄い空気の膜に浮かべると言う構想です。動力は、キャリアに搭載のバッテリーか、輸送路の横に張られた架線から得る電力になります。しかしながら、移動する動力は「重力」に頼るシステムです。

ここでの提案システムはと言えば、数キロ毎に設置される、高さ10mほどのタワーを、往復2本の輸送路が繫ぐと言うイメージです。タワーにはエレベータが設置され、キャリアを10mまで持ち上げます。次いで、ジェットコースター同様、急角度のスロープ状の輸送路にキャリアを放出するのです。空気ベアリングは十分に摩擦が小さいので、問題なく数キロ先の中継タワーに届く計算です。これを繰り替えす事により、海岸部に関しては輸送システムは、どうやら成り立つでしょう。問題は山越えです。新たなトンネルを掘るのは、コスト的にもペイしないと思われるので、そこは在来線の鉄道を活用するのが得策でしょう。山さえ越せば、海岸部にある都市に、標高差を利用して更に容易に輸送路が敷設できる事でしょう。もし100mの標高差が利用できるなら、たぶん数十キロ先まで、中継無しにキャリアを届ける事も可能でしょう。たぶん続きます。

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2017年9月19日 (火)

3345 人力アシスト自動車?

3344の続きの様なものです。電動アシスト自転車があるのであれば、人力アシスト自動車があっても良さそうです。1トンもの重量を持つ車を動かすには、少なくとも100kw弱の出力のエンジンかモーターが必要ですが、もしそれが100㎏前後の超軽量の車体であったらどうでしょう。1/1010kw以下の原動機でもそれなりにキビキビと走れると想像できます。そうであれば、頑張れば1kw弱の出力が出せる脚力でアシストしてやれば、車の燃費も大きく改善できる筈なのです。

想い起せば、排気量が360㏄しか許されていなかった昔の軽自動車は、20kw以下のエンジンしか積んでいなかった筈です。乗り心地を良くする事だけを狙った改良されたとはいえ、ドッシリと尻を落とせるバケット型の座席ではなく、自転車のサドルを進化させた様なチョン掛けの座席に尻を軽く乗せ、自由になった足でペダルを漕ぐ「人力アシスト自動車」を何故開発してくれないのでしょうか。アクセルとブレーキワークは、もちろんバイク式に手で行うのです。ペダルを逆転させてブレーキを掛ける「コースター式ブレーキ」も有効でしょう。

この人力アシスト自動車は、高速道路を走るのは流石に無理でしょうが、普通の公道であれば無理なく車の流れに乗れるでしょう。しかも、エンジンが故障したり、燃料(バッテリー)切れになったりしても、自転車並みのスピードでなら走り続ける事も可能なのです。馬力のある若い人なら、ガソリン1リットルで100㎞走らせるのも夢ではないでしょう。その上に、乗り手の健康増進にも役立つのなら、これに勝る乗り物は無いでしょう。タンデムや、子供も含めて乗れる4人乗りなどのバージョンも工夫できそうです。もちろん、乗り込む乗客もそれなりにペダルを漕いで、アシストするのは言うまでもありません。「漕がざる者、移動すべからず」です。

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2017年9月18日 (月)

3344 あるべき人の移動手段

来たるべき(持続可能な)時代に向けて、投稿者なりの、あるべき人の移動手段を提案してみましょう。人が移動するための最も「自然な形」は歩きでしょうか。ヒト(人類)が二足歩行という移動形態を獲得して以降、体の構造からも最も無理が無い「運動」にもなるでしょうから。一方、人類が発明した、殆ど全ての移動形態は、座席に尻を落として座る形態であるため、腰掛症候群に陥りがちになるのです。狭い座席に、長時間同じ姿勢で座る典型的な移動手段は、航空機ですが、ある時期知られる事になった「エコノミー症候群」がその代表でしょう。その他にも、尻や腰回りの血流が停滞する事が引き金となる循環器系や運動(筋肉)系の病気も多い事でしょう。

近年の「楽な」移動手段の問題は、まさに移動中姿勢が固定されているというなのです。異様な光景ですが、もし電車の中でも乗客がゾロゾロと歩いているとすれば、問題の大部分は解決される事でしょう。もちろん、急ブレーキを掛けた時に将棋倒しなるというリスクはありますが・・・。いずれにしても、移動中でも何らかの筋肉運動、取り分け第二の心臓とも呼ばれる下肢の運動が出来れば理想に近くなるでしょう。折角の移動という機会を、血流を停滞させる時間にしては、勿体ないし、体にも悪いというものでしょう。

その意味で、人の理想の移動形態は「歩き」ではありますが、次善の手段は多分「自転車」という事になるでしょうか。歩きも、自転車も移動中は必ず下肢を動かし続ける必要があるからです。心肺機能も向上するでしょうし、いわゆる化石エネルギーの使い過ぎや温暖化問題にも無関係な移動手段としては、この二つしかないと思うのです。足腰の筋肉が弱くなった人が、電動アシスト自転車を使うとか、バランス感覚に自信が無くなった人が三輪自転車に乗るのはご愛嬌でしょう。いずれにしても、ヒトが天から与えられた、骨や筋肉を、移動する際には最大限使うのは自然の摂理に則った方法である事は間違いないでしょうし、歳を取ってからの「ロコモティブシンドローム」も回避できる筈なのです。

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2017年9月17日 (日)

3343 移動(輸送)依存症

以前、人間というものは、移動したがる(移動せざるには居られない)存在だ、と投稿しました。最初は自分の足で移動していましたが、やがては畜力(牛車や馬車)に頼る様になり、ついで風力に頼る帆船を、更には外燃機関の発明を利用して、蒸気船や蒸気機関車を実用化、やがてパーソナルな移動手段として、内燃機関やモーターを使った「自動車」を開発し、F-ドが開発した大量生産技術を用いて、一般庶民にも爆発的に普及させました。それにとどまらず、20世紀に入るとWrイト兄弟を嚆矢として飛行機を実用化し、やがて戦争と言ういわば強制的な技術革新を踏み台を利用して、その性能を飛躍的に高めたのでした。

移動手段の歴史を簡単に振り返っても、私たちは車や列車や飛行機といった移動手段、輸送手段無しには一日も暮らせない、最早「移動(輸送)依存症」としか呼べない状況に陥っているとしか見えないのです。あらゆる依存症から抜け出すのは、非常な努力を要します。何故なら、それは「病」だからです。アルコール、タバコ、ゲーム、薬物そしてネット、依存症のタネには事欠きません。その中で、移動依存症は今のところ「中度の依存症」に留まっていると言えるそうです。何故なら、高齢やその他の理由で、車の運転を止められた人たちも、それが理由で命を失ったり、重篤な禁断症状に襲われる事もなさそうだからです。

かと言って、多量のエネルギー消費を伴う「無為な移動(輸送)」の状況が、このままで良い訳もありません。そこで、数回に分けて、投稿者が提案する今後のより持続可能性の高い社会に向けて、あるべき移動(輸送)手段について、いくつかの提案を記してみる事にします。続きます。

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2017年9月16日 (土)

3342 空飛ぶ車?2

3341の続きです。手で軽々と持てるドローンとは違い、重い機体で有人の飛行物体を、たとえ高度150m以下とは言いながら自由に空を飛ばせるのは如何に危険かを皆が納得して、それを思いとどまったとしても、では地上から数(十)センチだけ浮き上がって移動する「浮き上がる車」だったらどうでしょう。いわば、ミニホバークラフトです。確かに地上の凸凹は拾わないので、乗り心地は良いでしょう。また、非常時にも数(十)センチの落下であれば、お尻にドスンと言う衝撃はあるのでしょうが、命に関わる事はなさそうです。

しかし、そうだとしても路面にタイヤが接触している車と違い、非常時に急ブレーキを掛ける事は出来ない相談でしょう。なにしろ、車体が接触しているのが空気だけですから、道路とタイヤの様に、固体同士の摩擦力が期待できないからです。摩擦を減らして、早く移動するために空中に浮き上がるのですが、停止しにくいというジレンマを解決する手段は多分見つからないのです。特定の場所で急停止したいのであれば、空母での航空機の着艦の様に、ワイヤを引っ掛ける方法は取れますが、不特定の場所ではこれも叶いません。

加えて、地上から車体を浮き上がらせるだけで、かなりのエネルギーを消費しますので、燃費性能を考えても地上を走る車には到底かなわないでしょう。唯一可能性がありそうなのは、非常に平滑な走行面(つまりは道路か軌道の様なもの)を作って、移動体を浮上させるのは1-2㎜に留めるアプローチがありそうです。重量物を移動させる際に用いる「エアスキッド」の様なものです。これだと、浮上に要するエネルギーも最小限で済むので、燃費でタイヤを有する車を超える事は出来そうです。しかし、ほぼ平坦で平滑な走路を建設するコストを考えると、あまり良いアイデアとなりそうもありません。ここでの結論は、結局「空飛ぶ車の開発なんぞモノにならないから無駄な努力はお止めなさい」となりそうなのです。関係者の皆様、悪しからず。

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2017年9月15日 (金)

3341 空飛ぶ車???

最近「空飛ぶ車」の話題がマスコミに露出する機会が多くなって来た様な気がします。3340の宇宙ビジネスに次いで、この分野でもネガティブな投稿になってしまいそうで、熱心にこれを推進している皆さんには申し訳ないのですが、仕方がありません。空飛ぶ車は、非常に危険だからです。危険な理由は、空飛ぶ車が十分危険な重量を持つ飛行物体である事、その物体に人間が乗ってほぼ自由なルートで移動すると言う事などです。空飛ぶ車のイメージは、たぶん多くのプロジェクトでは「有人ドローン」といったものでしょうか。前進のためにプロペラを回すのであれば、小型飛行機になってしまうでしょうし、浮力を確保するための翼が必要ですから、大きさ的にも「クルマ」とは呼べなくなるでしょう。従って、コンパクトに設計できる大型のドローンが選択肢となる訳です。

先ず考えてみなければならないのはその重量です。60㎏の人を乗せて飛び上がるには、機体重量が人の体重以下ではたぶん設計出来ないでしょう。もしそんなに軽く出来るなら、座席なんかは無くして、その機械を背中に背負って飛ぶスタイルでも似たような機能が実現できるでしょう。いくら羽根の様な軽い材料を駆使しても、機体重量は体重の数倍にはなってしまう筈です。人と併せて数百キロの物体が、ブンブンと空を飛び回る時代を想像すると、とても安心して道を歩く事などできないでしょう。飛行物体である限り、墜落は稀であるにしても、燃料切れの不時着や小さな部品の落下などは日常茶飯事だと想像されるからです。操縦者は自業自得でしょうが、地上で巻き込まれた人こそ災難でしょう。

さて、構造的には羽根の様に軽く完全無欠の飛行物体が出来たとして、それを動かすのは人間です。もちろんそんな時代が来るとすれば、ドローンと同じように自動運転技術が確立されているでしょう。しかし、自動運転といえども突然の気象の変化、例えばビル風や突風やつむじ風やダウンバーストといった狭い場所で発生する気象現象に追随するのは困難な筈です。結局、つむじ風に巻き込まれて「キリモミ降下=墜落」の憂き目に遇うのでしょう。十分な高度での事故であればパラシュートを使って難を逃れる事も可能でしょうが、低空飛行時は命に関わる事故につながります。続きます。

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2017年9月14日 (木)

3340 何故宇宙ビジネス?

東京で、宇宙ビジネスへの進出を夢見るベンチャー企業の経営者の話を聞く機会がありました。どうやら人間は、何かを始めなければ落ち着かない存在の様です。これからは、宇宙ビジネスの時代になるのだとか。他のビジネスでお金を儲けた人達が、宇宙ビジネスに乗り出したり、投資したりしているとのニュースが時々飛び込んできます。オンラインビジネスで財を成したビジネスマンが、SペースX社を起こしてゼロから宇宙ビジネスに乗り出す、といった事例が思い浮かびます。

しかし、以前もこのブログに書いた様な気もしますが、再使用可能なロケットを開発したとして、では一体宇宙空間でどの様なビジネスを展開しようと言うのでしょう。打ち上げ費用が安く出来るとして、これ以上周回軌道や静止軌道に衛星を送り込んで、そこで起こる衛星同士の干渉や衝突をどう防ぐつもりなのでしょう。既に、多くの軌道は用済みのゴミ衛星(宇宙デブリ)の溜まり場になっているのですから。ドローンの性能は日進月歩なのですから、数週間の滞空性能のあるドローンや成層圏に上げられる飛行船などを使えば、地球観測や通信などの性能や選択肢は格段に向上する筈なのです。

地球外に友人宇宙船や探査衛星を送るプロジェクトも、構想段階のものを含めればメジロ押しの様ですが、そもそも多くのコストとリスクを冒して、人類を火星くんだりまで送り込む意義が見出せません。単なるアドベンチャーなら地上や海底にだって人跡未踏の地はあるでしょうし、もし国威発揚なら時代錯誤と切り捨てるしかありません。学問的な興味だったら、無人の探査衛星を送り、ローバーを着陸させれば済む話でしょう。好奇心は、一度満足させられれば、二度と同じ探査をする意味はないでしょう。水がある事が分かってきて重力の小さな月に、ロケットの打ち上げ基地を作って、見つかった少ない水を分解してロケット燃料を調達すると言うアイデアも、面白いのですが、月から何処に向けてロケットを飛ばし、一体何を「商売」にするつもりなのかが、凡人の投稿者には全く理解できないのです。

そんなお金や人材が居るなら、この地球上には、出来る限り早く解決しなければならない問題は、それこそ山積していると思うのです。それらを放ったらかしにして、空ばかり眺めている人達は、見たくはない現実に目をつぶる「夢追い人」と呼ぶしかないでしょう。もし溢れ出るほどの情熱があるのなら、地に足を着けた(持続可能な地球)ビジネスでは何故ダメなのでしょう。

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2017年9月 6日 (水)

3339 ものの価値2

3338では少し話が反れましたので本題に戻します。ものの価値を決めるのは、個々人の価値観ではありますが、ではその価値観はどうやって育まれるのでしょうか。親によって育てられ、社会(世間)に揉まれて暮らす私たちの価値観には、親や社会の持つ最大公約数的な価値観が通奏しているに違いありません。もし、その価値観に反発して真逆の価値観に走ったにしても、所詮その価値観に支配されている事には変わりありません。その意味で、天才や悟りを開く様な聖人でもない限り、全く新たな価値観を創造する事など凡人に過ぎない私たちには出来ない相談でしょう。

しかしながら、枝葉の部分ではささやかながら何らかの価値観を付け足す事は出来そうな気もします。お金(の価値)に振り回され右往左往しながら生き、やがては石の下に入って終わるであろう人生ではありますが、その途中をどう生きるかは、やはりその人生を最後に振り返った時に、大きな違いが出るのでしょう。投稿者としては、50歳を少し超えた時、価値観をかなり変更した様な気がします。つまり、凡人故にそれまでの「平均的な」価値観はあまり変えられなかったものの、それに加えて「持続可能性」を新たな幹に育てようと決めたのでした。

持続可能性、つまりは「変らない事が価値だ」とする価値観ですが、それは自分が生きてきた20世紀後半の変り方が、あまりにも激しかった事への反発から来たものの様に感じています。戦後の殆ど全ての人が貧しかった時代から始まる投稿者の記憶は、あのバブル時代の狂喜乱舞の時代にも鮮明に続くのです。その落差のあまりの大きさに気付くのは、その後の長い踊り場に佇んでいた時だったのです。山登りに喩えるなら、下を見ないで急登を登り続けて、ちょっとした踊り場になっている場所に出た時、ふと下を振り返ると、あまりの急な登りであった事にビックリしている登山者の様なものでしょう。それは、子供の木登りでもまったく同様でしょう。最初元気に木に登っていた子供が、ふと下を見た途端恐怖に体がすくむ、といった状況と同じなのです。投稿者も50代に入った時、似たようなココロのすくみを感じてしまったのでした。

その「すくみ」を解消する方法は多くはなさそうです。確実な一つの方法は、ソロソロと後ずさりする事でしょう。登ってきた逆の手順で、手足を動かして少しずつ降りていくしかなさそうなのです。天才や宗教指導者でもあれば、新しい時代の新しい価値観でも創り出せば良いのでしょうが、その価値観を検証するには長い時間が掛かるでしょうし、リスクも大きいでしょう。後戻りであれば、そのリスクは回避できます。その上で、「より持続可能性の高い」道筋を選んで後戻りをすれば、間違いは少なくて済むであろう、と凡人である投稿者は信じているのです。

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2017年9月 5日 (火)

3338 ものの価値

時々、ものの価値について考えます。本来ものの価値は、個々人の価値観によって異なる筈のものなのでしょうが、近年はお金(通貨)を物差しと考える人が大多数だと想像しています。つまり、ソレやアレを諭吉さん何人分に相当するのか、と考えてしまうのです。食べ物で言えば、野菜や果物1個が、何円で売られているのか、それは例年に比べて安いのか高いのか、同じモノを他の店ではどれだけ高く(安く)売っているのか、などに拘る訳です。

野菜や果物は、旬になると豊富に出回り、値段は当然のことながら割安になる事でしょう。しかし、旬を外れた時期や、本来ある筈の無い季節にそれらを手に入れようとすると、たぶん旬の時期の何倍にも高騰する事でしょう。旬を外れて野菜や果物を市場に出そうとすれば、当然のことながらハウス栽培の様に、人工環境でそれを栽培する必然性があります。つまりは、それらはエネルギーの塊でもある訳です。しかも、産地は集中する傾向にあるため、市場に向けて輸送のためのエネルギーもばかにはなりません。

ものは、欲しい人にとっては高く売りつけられる傾向にありますし、一方で供給が多く市場で余り気味のものは値崩れするでしょう。しかし、例えば安い時に手に入れてストックするとしたらどうでしょう。例えば、野菜や果物であれば瓶詰やジャムにしてストックしてあれば、年中安いコストで食べる事ができるでしょう。日本の住宅では、坪単価が高いので、いわゆる「ストックルーム」は割愛される傾向にあります。同様に、肉や魚だって大型の「冷凍庫」や「燻製」という手段を使えば、安いタイミングでまとめ買いも出来る筈です。

結局、この国で高いものを買わされる原因は、年中トマトや気に入った野菜を食べようとする食習慣にあるのです。旬の食べ物を入手し、複数の保存方法(乾燥、瓶詰、冷凍、燻製などなど)で保存しておけば、食費は安く上がるでしょうし、災害にだって強くなる筈です。つまり、保存のための一手間さえ惜しまず、保存食のためのスペースさえ確保する努力をすれば、安いものの価値を高める事も容易なのです。近年、「手間惜しみの銭失い」が多くなった所以です。

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2017年9月 4日 (月)

3337 田舎の暮らし3

田舎の暮らしとは、即ち土と水と緑=植物への依存度の大きい、というよりベッタリとした依存した生活を意味します。コメや農作物は勿論、土と水と太陽に助けられた植物の賜物ですが、他にも木材やカヤなどのバイオマスがあり、田舎の田舎に行けば、し尿や家畜の敷料=堆肥まで有効に活用しているのです。つまりは、植物の徹底的な活用とそれへの依存度が非常に高い生活だと言えるでしょう。現代の牧畜や酪農は、輸入飼料への依存度が大きいのですが、それでも耕作放棄地や河原で牧草を育て、家畜の粗飼料として活用しています。

植物への依存は、何も食糧に限った事ではありません。田舎には、木材を使った産業も根付いているからです。分かり易い製材業もありますが、木材の端材を使った工芸品、また樹皮(例えばヤマザクラの皮)を使った樺細工、あるいは漆器、曲げ木細工(曲げワッパ)など、地域毎に特徴を出しながら伝統を繋いでいるのです。樹皮を使う樺細工であっても、実は木を切り倒して採取する訳ではありません。元気の良い若いヤマザクラの樹皮を丁寧にはぎとれば、数年で新しい樹皮が再生するので、実は持続可能な産業でもあるのです。結局田舎の産業は植物に頼り、その植物にある程度の手を加える事によって、上手にやれば100年でも200年でも持続可能である事がその特徴であると言えそうです。

一方で都市の産業はどうでしょう。金属類(希土類を含む)やプラスチック(石油)や電力に100%依存した産業が、100年後に安泰である筈もありません。地下資源の埋蔵量には限りがあるに違いないからです。その証拠に、希土類の埋蔵量のかなりの部分を握っているC国が、少し輸出を絞ると、たちまち家電業界やエレクトロニクス業界に衝撃が走るではありませんか。石油も、現在の瞬間風速としては供給や価格が安定している様には見えますが、国際情勢は不安定要素を抱えていて、予断は許さない状況が続くでしょう。結局、田舎の暮らし(産業)と都会の暮らし(産業)の最大の違いは、その持続可能性(安定性)だと言えそうです。

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2017年9月 3日 (日)

3336 田舎の暮らし2

田舎で暮らす幸せの第一は、緑に囲まれているという点でしょうか。森から生れ、森に依存して暮らしていたご先祖様を想う時、私たちは緑から離れては幸せには暮らせないのだと思っています。鉄骨とコンクリートで作られ、アスファルトで覆われた地面しかない都会でも、公園や街路樹などのささやかな緑で、癒される人もいるのでしょうが、大切なのは緑に囲まれ、緑の風を呼吸するという感覚なのです。山に分け入って、木々や草の「いきれ」を呼吸する時、あるいは飛び回る虫たちや時には動物の臭いなどを感ずる時、自分も森の民であった事を実感できるのです。

時々、仕事で都会に数日滞在する事がありますが、たいていは23日でギブアップ状態になります。人混みに疲れるのもありますが、何より「緑の空気」が吸えない事による「呼吸困難」を感じてしまうのです。一面の田んぼに隣接する場所に土地を求め、家を建てた投稿者ですが、実は欲を言えばもっと里山の裾で、木々に囲まれた場所が理想だったのです。裏の里山で、山の手入れをしながら薪を採集し、それを熱源とするのを一つの理想としていたのですが、連れ合いの理解が得られずやむなく断念・・・。

とは言いながら、家の東側の窓からは、手前に田んぼ、川を挟んで向こう岸には里山の連なりが見える、自宅の立地には十分満足しています。目の前には、時々面倒くさそうに草刈りをして手間の掛からない蕎麦を植えている明らかに農家専業でない人が来ますが、もう少し仕事が落ち着いたら(つまりは暇になったら)是非ここを借り受けて、ささやかな自給農業を試みるつもりです。土を耕して、食糧を得ると言うのが、森を出て暮らし始めた人類の基本の姿だと思うからです。FBでコメ作りをしている何人かの知人の投稿を目にしますが、農業は、まさにお天道様(天気)頼みである事がしみじみ伝わってきます。日本の津々浦々にある神社や、里から眺めて東の方向(太陽の上る方向)の山々に、祠が作られ、あるいは田畑の水源となる川や山間の池に水神様を祀り、人々の信仰を集めてきた所以です。田舎の暮らしは、そんな神々に近い暮らしでもあります。

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2017年9月 2日 (土)

3335 田舎の暮らし

3332の続きの様なものです。投稿者は、還暦到達を一つの契機に、生まれ故郷である秋田に足場を移しました。親はとうの昔に鬼籍に入りましたので、新たに住宅やネットワーク構築を含め足場固めをする必要がありました。その中で、不要なものを脱ぎ捨て、必要なものを取り込みながら、どうにか暮らしを維持する方法を確立する事も出来ました。田舎に戻って見えてきた事があります。それは、3332で述べた山の頂上に近い都市部での暮らしに比べ、緑豊かな田舎は、まさに山麓であると言う実感です。ここでは、その気になりさえすれば、食糧も(バイオマス)エネルギーも地域内で賄う事が可能である事も分かってきました。

働き口が多くあって、給料レベルも高い都市部では、しかし高い住居費や重い住宅ローンや高い食糧費などに苦しめられている筈です。衣食住・エネルギーに心配が少なければ、人生の見通しは結構良好になるものの様です。我が家では、値上がりしているとはいえ都市郊外に比べれば安い土地に新たに家を建て、晴れた日は屋根の太陽熱温水器で、雨の日や冬場は地元産のペレット燃料で風呂を焚き、余った熱で床下をほのかに暖めるという、必要かつ最低限のエネルギー費で暮らしを支える仕組みを取り入れました。

知り合いから貰う事も多い、安い旬の野菜や山菜の恵みを享受し、たまには市内に数多くある温泉場で癒されます。春先から秋口までは、少し足を伸ばせば、変化に富んだ山々や大自然の雄大な景色を好きなだけ満喫できます。これは、たぶん都市部に住む人達にとっては、年に数回しか楽しむ機会の無い「贅沢」なのでは、と想像しています。しかし、田舎ではこれが「日常」そのものなのです。もちろん、これらの楽しみを享受するためには、進んで体を動かし、汗をかく必要はありますが、都会で楽をしてロコモティブ・シンドロームに陥る高齢者を考えれば、それもまた田舎暮らしのメリットの一つと言えるでしょう。今後は、買い足して少し広くなった庭で、野菜でも育てるつもりです。

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