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2018年3月30日 (金)

3414 不安定⇒安定化

このブログは、基本的には環境ブログであり、暗黙にですが政治・信条には触れないことに決めています。しかし、最近の国内・国外の政治情勢を俯瞰して眺めるに、何かが起きている様に感じられ、それが何かを少し考えてみる事にしました。

さて、砂や砕石が入った箱を振動させると、それはやがて引き締まって嵩が減ってくることは日常的にも経験する現象です。英語ではSettle downと表現しますが、それは例えばログハウスなどでも、木材の間の隙間が小さくなって、安定するという意味でも使われます。さて、国内や海外の不安定要素ですが、例えば国内では、安定政権が終わりを告げようとしており、政局が不安定化に向かっている様に見えます。海外では、近隣国の独裁者やB国の「予測不能な」リーダーやEUの一枚岩を揺るがしているE国、或いはRシア包囲網などが、世界を揺り動かしています。もちろん、血を見る様な戦争にでもならない限りにおいてですが、流動的な情勢は決して悪い事ばかりではありません。

最初に述べた様に、今は流動的でも、やがて事態は落ち着くところに落ち着くものだからです。不安定な隙間は、揺り動かされて引き締まり、より安定的な状態に落ち着くのが、世の理だと見ています。それは、何より歴史が雄弁に物語っていて、終わらなかった戦争は無かったと言えるでしょうし、ざっくりと言えば数千年以上に亘って、安定的に存続し続けた国も無かったでしょう。もちろん、「国」という制度が出来てから歴史が始まったのでしょうから、有史以前の事は想像するしかありませんが・・・。

さて、今の不安定な状況が、上手く落ち着くのか、或いは更なる不安定を生み出すのか素人には分析出来ませんが、いずれにしてもその不安定もやがては安定に向かう事は疑いないでしょう。物騒な想像ですが、例えば核戦争が起きて地球上のいくつかの国が消えても、「死の静寂という安定状態」には落ち着く筈なのです。揺さぶり上手なB国のリーダーには、やや皮肉な意味においてですが、ある意味期待もしているのです。

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2018年3月28日 (水)

3413 PM2.5考

春先になると憂鬱になります。花粉や、黄砂や、いわゆるPM2.5なる浮遊状物質などが大挙して押し寄せてくるからです。3月の初め頃、鳥取県のスギの名産地を車で通過した際に、突然今年の鼻炎が発症しましたので、スギ花粉に対するアレルギーを持っている事は間違いなさそうです。一方、ここ数日の霞んだような空は、大陸からのプレゼントである黄砂+PM2.5の賜物の様なのです。投稿者は、これにもしっかりアレルギー反応する様で、目の痒みと鼻水の量が再びピーク状態となりました。

春は、移動性高気圧が次々に大陸からやってきますが、高気圧は下降気流のかたまりですから、お隣の低気圧が巻き込んだ黄砂やPM2.5をしっかり抱え込んだままこの国の上空に飛来するのです。かくして、この国に住む人たちの間に鼻炎が定着し、更に年々飛来物の濃度が高まるにつれて、「アレルギーのしきい値」を超える人も多くなり、患者の数も増え続ける事になるのでしょう。

PM2.5の怖さは、5ミクロン以下の粒子は、一度肺に入ったら最後なかなか排出されないという点にあります。大きな粒子は、いわゆる気管支などに密生している繊毛の働きにより排出されますが、それ以下だと肺の奥深くに沈着し、排出されにくくなるのです。黄砂は、いわば鉱物ですから高濃度の場合は塵肺の心配はあるのでしょうが、あまり問題は無さそうです。しかし、PM2.5には発電や化学工場やその他の工業生産プロセスから発生する、有害な物質も多く含まれている可能性があるので、問題は深刻です。例えば、発がん物質です。喫煙者は自業自得ですが、PM2.5吸引者?こそいい面の皮でしょう。PM2.5をブロックしようとすれば、殆ど「ガスマスク」レベルになるでしょうから、日常的に装着するのは現実的ではありませんし、ますます生き辛い世の中になってきました。

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2018年3月23日 (金)

3412 自動運転車事故

B国で、自動運転車による初めての人身(死亡)事故が起こった様です。公開された画像によれば、夜に自転車を押して横断していた人が、殆どスピードを落としていない自動運転車にはねられてしまった様に見えます。同時に、試験車に同乗していた人の映像も公開されましたが、人をはねてしまってから慌ててパニックに陥る様子が映っていました。これを見ると、自動運転車の実力は、まだまだこの程度なのか、と暗澹たる気持ちにさせられます。何を犠牲にしても、自動運転車による対歩行者や他車との事故は回避されるべきですが、今回の事故の映像は暗闇からぬっと出てきた歩行者を、機械(AI)は殆ど認識出来ていなかったとしか思えません。

同時に、AIに頼り切った同乗者はといえば、車が事故を起こすまで何も手を打てていない事も問題です。つまり自分がハンドルを握っている場合には、すぐにでもハンドル操作やブレーキ操作ができる様に常に準備状態にあるのでしょうが、単に自動運転のお手並みを拝見している立場に置かれると、人間の注意力レベルも最低になってしまっている様なのです。自分自身の事を考えても、連れ合いがハンドルを握っている車に乗る時には、最初の時間帯はつい「助手席でブレーキを踏んで?」しまう事も多いのですが、しばらく走って行くうちに諦めて居眠りしてしまったりすることを思い出しました。

兎に角、何がなんでも事故を起こしてしまっては、AIも自動運転も便利も何もあったものではないでしょう。自転車がふらついて車線に入って来ようが、子供が急に飛び出してしまおうが、AIは事前に危険を認識し、回避動作を起こさなければならないのです。もし、それが人が運転している場合には不可避な事故であったとしても、自動運転車のAIにはヒト以上の「安全意識」が求められているのは間違いないでしょう。試験の途中で、人命が失われたという事実は、開発のスピードをかなりの程度遅らせることになるのは致し方ないでしょう。人命は、全ての利便性に優先しなければならないからです。

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2018年3月15日 (木)

3411 煮詰まる

Y老孟司の近刊に、時代が「煮詰まる」という表現が何度も出てきます。バブル後失われた数十年があり、その間に人口減少が始まり、それに輪をかけての「少子高齢化」社会が加速し、震災や原発事故に見舞われ、社会の隅々に何とはない「閉塞感」が充満している現代を、流石に上手く表現していると感心します。

しかし煮詰まっているのは事実としても、その事をはっきりと認識するためには、誰かが画策して煮詰めているのか、或いは文明の汁気(可塑性)が失われて、自ら煮詰まっているのか、分析してみる必要はありそうです。その分析は投稿者には荷が重すぎるのですが、感想程度であれば何か書けそうです。結論から言えば、前者もあるのでしょうが、主には後者の比重が大きいと見ています。それは、曲がりなりにも今の文明の一員として現代文明が、経済や物質的豊かさを追求し続けてきた結果、文明が必要とする文化や宗教などといった「ココロ」の問題を置き去りにしてしまった、との後ろめたさがあるからなのです。「人はパンのみにて生くる者に非ず」とは、あの宗教者の最強のスローガンですが、まさにパンの偏重が、現代文明の「煮詰り」を加速したとみているのです。

この「煮詰り」を回避するためには、何は無くとも私たちはモノをドンドン捨てて(喜捨して)、精神的な満足に拠り所を見出すべきなのでしょう。これは、言うは易しで、実行はかなり困難である事は分かり切っています。人は、一度手に入れたものを手放すことが、本当に苦手な生き物だからです。動物であれば、目の前のエサを腹いっぱい食べた後は、たとえ好物のエサが目の前に現れても、興味を示さないでしょう。しかし、私たちは死ぬまでには使い切れない、或いは処分しきれないモノや財産を貯め込んでしまう生き物の様なのです。それもこれも、凡人は死を恐れ、死期が予測できないがために、必要以上のモノを手元に置こうと、それにしがみつくのでしょう。ココロを重視した、ユルユル文明の時代はいったい何時来るのでしょうか。

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2018年3月14日 (水)

3410 やるなら水上機

3409の続きです。百歩譲って、技術的なブレークスルーがあって、安くて性能の良い空飛ぶ車が出来たと仮定しましょう。しかし流石に「空飛ぶ車」であっても、いきなり道路上から離陸は出来ないでしょうし、ましてや路上に着陸する事など危な過ぎて到底出来ない相談でしょう。結局、それを運用する段階では、郊外の田んぼを潰して飛行場を作る必要があるのです。どうしても空を飛ぶ事にあこがれる輩が集まるのであれば、そのパワーを空飛ぶ車に注ぐのではなく、むしろ水上機に向かうべきでしょう。海に囲まれた、島国であるこの国を含め、東南アジアの国々は島が多かったり、海に開けている筈です。水上機であれば、内湾や大きな川の河口など波が静かな水面も確保できるでしょう。当然の事ながら、水上機には飛行場などの大きなインフラは不要で、単に桟橋や岸壁があれば十分なのです。

これは、まさに島国や島しょ国或いは途上国の交通機関としてはうってつけの「足」だと言えるでしょう。加えて、水上機だと海上や水域だけを飛ばす事により、事故発生のリスクを最小限に抑える事も可能なのです。つまり、陸上に部品を落下させたり、或いは飛行機自身が墜落すれば、地上での「巻き添え事故」も起こるのでしょうが、飛行ルートが水上であれば、墜落時に乗員が助かる確率も上がりますし、巻き添え事故も殆ど起こらない筈だからです。

水上機の欠点は、フロートをぶら下げている結果、速度が遅いですし、燃費もそれほど良くない事です。しかし、その欠点を補って余りあるメリットも多いのですコストの掛かる飛行場は不要ですし、沿岸ルートを使えばハードランディングといった重大事故のリスクも無くなり、万が一の不時着水時でも、プカプカ浮いてさえいれば救難のための時間は十分取れるでしょう。水上機は近距離の旅客輸送手段としては、まさに最適なのです。どうしても飛行機をやるなら水上機しかないでしょう。

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2018年3月13日 (火)

3409 空飛ぶ車を嗤う

ビジネスジェット機が日常のTVCMに登場し、自動車ショーに空飛ぶ車が展示される時代になった様です。しかし、考えてみれば、旅客機や軍用ヘリの小さな(時には結構大きな)落し物が大問題になる様な、市街地だらけのこの国で、一体空飛ぶ自家用車の飛行が許される日が来ると夢見ている企業や輩が居るのかと想像すると、つい嗤ってしまいました。可愛らしいドローンがお祭りで使われ、それがバランスを崩して下に居た子供達の中に突っ込んで、大問題になったのは記憶に新しいところでしょう。

空飛ぶ車を夢見ているノーテンキな輩には、日々何千便も飛んでいる旅客便の安全のためにどれだけの努力が傾けられ、コストを掛けているか考えてみていただきたいものです。機体やエンジンなどの定期点検や日常整備、パイロットの訓練や健康状態のチェックなどなど。空飛ぶ車の型式証明が取れたと仮定しても、その莫大な運用コストと想像できない程増大する、無関係な市民の危険を考えれば、少なくともこの国の国内での運用は全く現実的ではない事は、真昼間の太陽光より明らかでしょう。外れやすいボルトを全く使わない構造が実現できたと仮定しても、天候の急変によって飛行が不安定になって、或いはエンジン不調などで墜落する危険性が低くなる訳ではないでしょう。増してや、ロクに訓練を受けてもいない運転者の操縦ミスを考えれば、それが空を飛び回る時代は全く想像できないでしょう。

地上を走り回る車の事故でさえ「ゼロ」に出来ない社会に、空飛ぶ車を持ち込むなど以ての外と言うしかありません。そんな事に資源(カネと人)を向けるくらいなら、先ずは原発廃炉技術や再エネ技術を磨く方がよっぽど優先順位が高いでしょう。空飛ぶ車などバカバカし過ぎて、これ以上書く気にもなれません。

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2018年3月 7日 (水)

3408 モノの消費コトの消費

表題で「コト」は、かなりの部分「情報」と置き替えても良いかも知れません。モノとは、言わずもがなですが、形があって触れるモノを指しますが、一方でコト≒情報は、それ自体には形がありません。別の言葉で表現するなら、コトとは脳に痕跡を残す「経験」だとしてもそんなに間違いではないでしょう。その具体例を挙げるなら、例えば、モノとは車や家電や食べ物といった、ものになるでしょう。一方、コトとは、例えば旅行やテーマパークでの経験とか、書物やPCやスマホから得られる情報や或いはその他趣味上の楽しみなどといったものになるでしょうか。

それで何が言いたいかですが、私たちの生活上の消費割合が、年々着実にコトの消費の比率が増えて行っている、という事実の指摘なのです。それも、徐々にではなく、ある時期以降は急激に増えて行った、というべきでしょう。その加速時期を振り返ってみれば、1990年代後半からの急激な情報化社会化以降だと言えるでしょうし、更に近年の携帯・スマホやAI化やIoT化の進捗によって更に急加速するのは間違いないでしょう。若者や子供たちは、ゲームやネット漫画などによってモノとしては実体のないVRの世界に取り込まれ、それを多量に消費する事に生き甲斐を見出していますし、それはスマホの小さな字が見にくいが故に、PC上でのネット遊びにうつつを抜かす中高年でも事情は似たりよったりでしょう。

コトを消費しても、実は現実の世界に何の影響も与えない事には注目する必要があるでしょう。もちろん、事を消費する段階で、現実の世界に触ればそれは話は別ですが、特に情報を消費する限りにおいては、スマホやPC上で、通信回線をデジットが流れるだけなので、消費するモノと言えば、多少の電力と通信回線の使用料だけなのです。当然の事ながら、消費するコトを創り出している人達が居て、彼らが暮らしを立てるために、たくさんのモノを消費しているのも間違いありませんから、コトの消費が環境に対して何らの影響を与えないという主張は必ずしも正しくはありません。結局、モノに充足してしまった、先進国と呼ばれる国々に住んでいる私達は、やり場の無くなった消費の矛先を、今度はコトの消費に向けて、突き進んでいるのだ、と考えるしかありません。結局、私たちの今後の最大で喫緊の課題とは、旺盛な消費「欲」を如何に弱めるかになりそうです。

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2018年3月 5日 (月)

3407 仮想現実の怖さ(○○したつもり)

仮想現実(VR)という技術があります。つまり、最終的には人間の五感に訴えて、(そこには存在しない)現実を創り出す技術だと言えるでしょう。視覚と聴覚程度であれば、既に性能の高いゲーム機やゴーグル等の道具を使えば、かなりの程度レベルの高いVRが実現できているものと想像しています。(投稿者は未経験)

しかし、VRというものは所詮コンピュータ上で作り出された現実であり、もちろん真の現実ではありません。ではそのまがい物の現実を、私たちが「経験」したとして、果たしてそれは現実の経験と同じものだ、と主張できるのでしょうか。例えば、車や航空機や電車の操縦を、VRで体験できたとして、その経験を積み重ねれば、実際にもそれらを動かせるのでしょうか。フライトシムレータ等の機器を用いれば、より現実に近いVRを体験できるのでしょうが、しかしそれで「免許皆伝」とはいかないでしょう。何故なら、車の免許で言う路上教習が抜けているからです。実際に車で道路を走れば、道路から車に伝わる振動やタイヤの軋み、他に路上を動く人や他の車の動き、或いは天候の急変など、VRに設定されていない事態を経験は、車の免許を与えるためには必須だと思うのです。

最も怖いのは、今の若い世代が生まれてすぐVRに接してしまう事だと思っています。つまり、彼らの経験は実際の経験とVR経験が、頭の中でごちゃ混ぜになっていると想像するからです。ゲーム機の中のVRでは、パンチを受けても痛くないし、相手を剣で切って血が出ても何の感情も湧かないでしょう。つまり、実際の経験では必ず伴う、五感に訴える刺激やココロの動きが、VR体験には殆ど伴わない心配があるのです。高精細のテレビを見て、ある場所に行ったつもり、或いはゴーグルをつけて仮想空間を移動したつもり、或いは人を傷つけたつもり、など等「つもり」が積み重なった時、仮想と現実の区別がつけにくい(或いは完全につけられない)人間が出来上がってしまう事を危惧します。杞憂であってくれればそれに越した事はありませんが・・・。

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