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2018年5月31日 (木)

3451 モノ造り

モノ造り(ものづくり)と言う言葉は飲み込むのに抵抗があります。そもそも、神でもない人にモノが作れる訳がありませんし、モノを作ってもショウガナイとも思うからです。モノを作れないというのは自明でしょう。例えば、製鉄業に関わる人達は、我々は鉄を作っていると主張するのでしょうが、鉄はそもそも地球上に存在した物質なのです。もちろん、鉄は隕鉄などの例外を除けば、酸化鉄として赤茶けた地層(地層ですから元々は海の底だった場所)に堆積していた物質であり、製鉄所はその酸化鉄をコークスを使って「還元」している工場に過ぎない訳です。還元をモノ造りと呼ぶのは、おこがましいでしょう。

いわゆる、モノ造り工場と言う言う存在は、原料を買ってきて、それに手を加えて(加工して)何らかの付加価値と利益を乗せて、客先に売り払うビジネスを指すと言えるでしょう。加工は、決してモノ「造り」でもましてやモノ「創り」でもなく、単に原料の形や見かけ上の性質を変える作業に過ぎないでしょう。この国の、「モノ造り産業」に展望が開けないのは、まさに加工と言う名のモノ造りに徹し過ぎているからだと感じています。材料を買ってきて、加工をすれば勝手にモノの付加価値が上がる筈だという思い込みが強過ぎるのです。なので、もし儲からない事態になれば、同じ加工をより安いコストで作るべきだと思い込み、ひたすらコスト削減にまい進する事になります。

この間違いは、結局モノの「機能」あるいは「働きの持つ価値」を考えていない事から始まるのです。例えば、ひたすらボルトを作る加工に専念している工場があるとします。今頃は、丸棒を削ってボルトを作るなどと言う工場は存在せず、転造と言う技術で作っている筈です。しかし、ボルトの持つ「機能」を考えてみると、それは「モノを締結する」事にあると定義できます。ボルトなので、当然の事ながら緩める事によって分解も出来るでしょう。しかし、分解の出来る締結はボルトと言う(古いアイデアの)部品にしか出来ないか、という問への答えはYesではない筈です。スナップピンやスナップリング、また分解を前提にしないのであれば接着剤や溶接やFSWだって考えられるでしょう。「ボルト」をモノを締結するという機能、「車」をドアからドアへ雨に濡れないで移動する機能を持つ手段、冷蔵庫を食品の腐敗を防ぎながら短期間保存する方法などと定義し直すと、全く新しいアイデアによる製品も生み出せると思うのです。モノ造り大国は、既に煮詰まってしまった幻想に過ぎないのです。今後は、機能創り(コト創り)大国へ脱皮・移行しない限り、決してこの国の展望は開けないと思うのです。

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2018年5月30日 (水)

3450 利便と代償

昨夜クロ現で取り上げていた、究極の「Aマゾン社会」を想像して、暗澹たる気持ちになりました。ここでは、AIスピーカを通じて注文すると翌日には商品が届き、子供が宿題の答えをAIスピーカから聞き出し、家から出ずに何でも手に入れる事ができる社会を「Aマゾン社会」と呼んでおきます。確かに、便利な社会です。足が不自由なお年寄りでも、買い物に不便はないでしょうし、交通が不便な山間地でも、近いうちにドローンか自動運転車で配送してくれる仕組みが完成するでしょう。

しかし、その様な超便利な社会が人々の幸福につながるか否かは全く別問題です。何より、人と人との交流がありません。注文はAIスピーカを通じてコンピュータが受付け、無人の自動搬送車が縦横に動く倉庫で箱詰めされ、直ちに宅配便業者に引き渡されます。トラックは、夜通し走り、翌日には注文主に届けられる事になりますが、人は殆ど介在していないのです。配送まで無人化された暁には、注文主はモノだけを機械から受け取る事になるのです。90年代に登場し、その後この国でも爆発的に増えたショッピングモールですが、B国では、Aマゾン等のネット通販に押され、次々に閉鎖に追い込まれているのだとか。小売り商店にシャッターを降ろさせたモールが、今度は通販によって閉鎖を余儀なくされるのは、皮肉な話ではあります。モールは、デパートとスーパーと小売り商店を集約した、人々の交流の場でもあった事を考えれば、ネット通販はその交流を全く断ち切ってしまうのです。

人間とは、読んで字の如く、そもそも人と人との間の関係(交流)無しには生きていけない存在だと思うのですが、通販社会によって人間関係がドンドン希薄になっていく結果、一体その様な社会にどんな病理が蔓延るか、恐ろしくて想像もしたくない程です。少なくとも、人と人との関係を、AIや自動機械に任せてしまう結果、人間関係を上手く築けない人達、今流行の言葉で言えば「コミュ障」人間が、飛躍的に増える事は間違いないところです。人の表情を読み、心情を汲み取るなど全く出来ない人間は、たぶん感情的には極度に不安定な筈なのです。コミュ障国家でもある北の隣国の行動を引き合いに出すまでもなく、人間同士の関係にも、既にその兆候はボチボチ表れてはいますが、今後「信じられない様な事件」が更に頻発する事を憂えます。(便利過ぎる)利便に対する代償としてはあまりにも大き過ぎる事に私たちは早く気付くべき時代に差し掛かっていると思うのです。

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2018年5月29日 (火)

3449 持続可能型企業

久しぶりに、投稿者と同じ方向を向いている企業と巡り合いました。同じ方向と言うのは、単に環境経営を指向してと言うだけではなく、持続可能な地域資源を使って、中小規模の持続可能な形でのビジネスを展開しているという意味でです。いわば、「持続可能型企業」とでも呼べるでしょうか。投稿者の住む、A田県にも大規模なバイオマスは発電所や生ごみをメタン発酵させるバイオガス発電所がありますが、いずれもが設備に多額の助成金を仰いでいる事や前者については燃料を輸入バガスに頼っている点など、ビジネスとして成り立っていない上に、燃料調達も持続可能とはなっていないのです。

一方で、製材屑やモミガラや稲わら、売りものにならない廃棄農作物や家畜のし尿・畜糞など、身の周りには、小規模であれば十分持続可能な形で、熱やエネルギーを手に入れる事ができる「資源」も見つかるのです。そこに着目して、小さくとも地域にお金が回る仕組みを作って行けば、それをコピーする地域も広がって、やがてそれが産業に育つと思うのです。何チャラ特区とか、6次産業化だとか、地域創生だとか、お役人が作った抽象的な念仏では、地域の活性化は半歩も進まないでしょう。もし本当に地域を活性化したいのなら、小金もありまだまだ元気な団塊世代が力を持っている今の内にバリバリ手を打たなければならないのです。と団塊直後世代の投稿者は思うのです。

持続可能型企業になろうとするなら、先ずは遠くではなく足元をじっくり観察する必要があるでしょう。着目点は、モノの収支と、お金の収支、加えて地域の困り事(ニーズ)でしょう。モノや、お金の収支が崩れている地域は、間違いなく持続可能ではないでしょう。地域の困り事を、持続的に解決できる企業は、100年後も存続できるポテンシャルを持っていると断言できます。最初に述べた、企業はそのポテンシャルを持ってはいますが、もし経営者が売り上げや利益重視に走った瞬間、持続可能性はガラガラと崩れるでしょう。企業の存続に適正な利益は重要な源泉ではありますが、売り上げや利益は、顧客とのWin/Winの関係を達成した上で、後からついてくるものと、順番を入れ替えて掛かる必要があるのです。繰り返しますが、利益は後からついてくるもの(ご褒美)に過ぎないのです。これは、目先の利に走る商売と「持続する生業」の違いであると言えるでしょうか。

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2018年5月28日 (月)

3448 休題(通奏低音)

バロック音楽の用語に「通奏低音」と言うものがあります。これは曲を通じて流される低音の旋律の事で、演奏者はこの低音に和音を乗せながら全体としての楽曲を完成させる訳です。それにつけても、MリだKケだと一向に収束しない政局にせよ、N大のひどいレイトタックル事件にせよ、この国の文化の底流に流れる、「通奏低音」に注目せずには到底理解不能だと思われます。

事の善悪を断ずるのであれば、実は[便宜を払った、払わない]或いは「指示した、しなかった」で決着する筈なのですが、この国では、一方が「匂わして(暗黙に示唆して=暗示して)」、他方が「それを解釈して(忖度して)」事が進む文化なのです。つまりは、ゼロか一かでは決着せず、一方がどの程度匂わしたか、他方がそれをどの様に受け取って忖度したかと言う程度問題が常に付きまとう社会なのです。この国のリーダーが、友人のために便宜を図る様に匂わしたのは間違いないでしょう。友人なので、その見返りとして現ナマは受け取ってはいないでしょう。もし、受け取っていればロッキード事件の再現になってしまうでしょう。しかし、示唆と受取り方の程度問題にしておく限りにおいては、何年議論しても解決しない堂々巡りに陥ってしまう事でしょう。実際にも、この問題は国民がアキアキするくらい長引いているではありませんか。

N大の事件にしても、確かに監督者は具体的な指示はしなかったのでしょうが、逆らえない程強力な示唆(暗示)があった事は間違いないでしょう。純真な選手がそれをどう受け取ったかが問題の本質であるにも関わらず、監督者は「言っていない」の一言で、罪を逃れようとしている様に見えます。

実はこの様な構図は、政治でも、学校や大学や研究機関でも、企業でも、警察などありとあらゆる組織で繰り広げられて来たことは、少し古い人間であれば、いくつでも実例を想起出来る筈なのです。この通奏低音を掘り起こす事無しに、問題の本質に迫る事は到底無理な相談だと断言できます。これまで、この国で一体いくつの問題が「ウヤムヤ決着」で幕が降ろされた事でしょう。原発問題然り、いくつもの学校におけるイジメ事件然り、と言うより、この国で起きた全ての事件が例外ではあり得ないとも言えるでしょう。暗示や示唆する側は、いわば確信犯で、忖度した側は被害者であるとも言えるでしょう。確信犯が、ウヤムヤに逃げおおせるこの社会は、どうにかして変えなければならないでしょう。長年積み重ねられた澱(おり)の様な文化を変えるのは、確かに並大抵の努力では無理だとは思いますが・・・。

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2018年5月27日 (日)

3447 宇宙開発の終焉

宇宙ステーションに暮らす幸運に加え、名誉まで手にしたアストロノーツや、月にマイクロ・ローバーを送ろうと必死になっている人達には申し訳ありませんが、3446に引き続き、今回も(いわゆる宇宙開発に対する)ネガティブな投稿です。将来性のある産業分野として、航空・宇宙産業などともてはやされ、何かと脚光を浴びる宇宙開発ですが、何度か書いた様に、宇宙に対しての夢は夢として現実を直視する事も大切でしょう。現実は何かと問われれば、私たち人類は地球以外では頑丈なシェルターや地上と同じ組成の大気や体に必要な適度な日射や植物食を含めた普通の食糧無しやには暮らせないという事実です。数か月か1年位の短期間なら、無重力であろうが、シェルターの中であろうが何とか暮らせるでしょうが、それ以上の長き及ぶ宇宙生活には人類はとても耐えられない筈なのです。

重力が小さな環境では、ヒトの骨は吸収されてスカスカになり、適切に日照を浴びない結果必要な体のバランス(ホメオスタシス)も崩れてしまうでしょう。宇宙空間や他の惑星でも人工栄養で、命を繋ぐ事は可能なのでしょうが、長期間に亘って新鮮な野菜や果物や醗酵食品の摂食無しに、それらを必要とする腸内細菌が結構な状態を維持できるとはとても思えません。

一体何のための「宇宙開発」なのでしょうか。地球の環境悪化や資源の枯渇や人口爆発に問題があるにしても、私たちは宇宙に逃げないで、この地球上で問題に立ち向かうしかないのです。百歩譲って、月や火星の探査の結果、そこに水や資源見つかって、その水と太陽光を使ってロケットの燃料が出来たと仮定しましょう。ではそれを使って、私たち人類は宇宙空間で一体何を成し遂げようとするのでしょう。

確かに、宇宙に何があるかさっぱり分からなかった時代は、それを探索するエクスプローラは必要だったでしょう。しかし、既に私たちは宇宙空間には絶対零度に近い暗闇と真空しかない事を確認済みですし、月や火星には赤茶けた土や岩石くらいしかない事を知ってしまったのです。無責任に子供に宇宙飛行士になる夢を見させるのは止めにしましょう。私たちには、足元を見つめ、そこにある私たち自身が作ってしまった数多くの問題を解決する責務がある筈です。上を見上げながらの宇宙開発などと言う言葉は封印し、足元の問題に一つずつ取り組むしかないのです。

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2018年5月24日 (木)

3446 空飛ぶ車は飛ばせない?

車の進化形のみならず、ドローンの進化形も含め、空飛ぶ自動車のニュースを見ない日はない程です。このブログは「対案」することを主体に書いているつもりですので、あまりネガティブな表題や中身はあまり好きではないのですが、「無駄なコト」に人材や資源を注ぎ込む無駄を看過する訳にもいかないと思い、この表題にしました。

さて、空飛ぶ車ですが、これは今ある小型飛行機(軽飛行機)とは事なるカテゴリーの乗り物だと定義するしかありません。飛行機は、基本的には翼の揚力を利用して飛行するものですが、一方で空飛ぶ車は、揚力を例えば浮上用のファンで生み出し、同じファンか又は推進用のファンで前進をさせるものであり、専門訓練を受けたパイロットではなくても操縦が可能な乗り物でもあります。極端に言えば、今ある小型のドローンを大型化し、キャビンをつけて人が乗れる様にしたものである、とも言うことも出来るでしょう。もちろん、軽量化した車に可動式の翼をつけて、道路から離陸できる様にした「翼付き茶車」やジャイロコプター型のコンセプトは古い時代からあり、実際いくつかの試作機も作られてはいますが、それらはとても実用機とは呼べないシロモノだったのです。

さて、仮に実用レベルのドローン進化形の空飛ぶ車が完成したとしましょう。では自由にそれを飛ばす事を許可するかと問われれば、誰にも二の足を踏むでしょう。何故なら、誰もその安全性を担保出来ないからなのです。車には、車検制度と言うものがあり、基本的に整備不良車は運行出来ない事になっています。車であれば、もし整備不良があったとしても、最悪はエンジンが止まったり、タイヤが外れて道路から飛び出す「程度」の事故で済むでしょう。しかし、空飛ぶ車では、整備不良は即運転者の死亡を含む重大事故につながるでしょう。なにしろ、地上数十メートル(現在の法律では高度150m以上の飛行は航空機の運航に当たる)から落下するのですから、高いビルから車ごと落下するのと何ら変わらない衝撃なのですから。全身を包むエアバッグが装備されていたにしても、墜落で巻き添えを食うであろう、地上を走行する車や通行人はたまったものではないでしょう。

データを示しましょう。およそ350機が生産され運用されている、V-22(愛称は、和名でミサゴと言う鳥)と言う、ヘリの様な飛行機の様な軍用の輸送機がありますが、ほぼ完ぺきに整備されている筈のこの機体でさえ、なんと年間10件前後の重大事故を起こしているのです。増してや、民間機でしかも個人所有となると、誰がどうやって安全性を担保するのか、と言う根本的な問には何人も答えを出せないでしょう。従って、たとえ空飛ぶ車が完成したとしても、法律上は飛ばす事ができないシロモノなのです。その開発は、人材とお金の無駄使いなのですから直ちに打ち切るべきでしょう。

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2018年5月23日 (水)

3445 この国の資源6

この項の最後として、地熱についても考えてみます。地熱エネルギーは、完全には冷え固まっていない地球内部の熱を利用しようとするものです。もちろん、見かけ上硬い岩盤で出来ている地殻にしても、薄い部分もありますし、何よりそれらは相対的に動き、摩擦し合って盛んに地殻変動=地震や火山活動も引き起こしている訳です。特にこの国は地殻で言えばユーラシアプレートの東の端にあり、そこに北米プレートや太平洋プレートに更にフィリピン海プレートが複雑に入り混じってぶつかっている、地球上も稀な地域に当たっています。

そこでは、地震や火山活動が日常茶飯事で、日常的に噴煙や噴気を上げている火山や数十年或いは数百年を経て大爆発を起こす火山も多いのです。同時に、それらの火山は温泉と言う恵みも与えてくれてもいるのです。東北に行けば、いくつかの県には全ての市町村に1ヶ所以上の温泉場がありますが、里に湧く温泉の多くは泉源の温度が低いため、加温しているケースも多くなっています。もちろん、山際の温泉の多くは、火山の恵みでかなりの高温の泉源を持ってはいるでしょう。温泉熱は、温泉として入浴する以外では、今は単純に温室や建物に導いて、暖房熱として利用するケースが圧倒的でしょう。

しかし、泉源が60℃以上ある場合は、エネルギー利用もかなり有望になってきます。つまり、60℃かそれ以上で「沸騰」する作動流体を用いて、温泉熱でタービンを駆動するのです。気化してタービンを回した作動流体は、空冷かあるいは水冷で液体に戻す必要がありますが、温泉場には渓流がつきものなので、地熱発電の適地ではそちらの心配をする必要はないでしょう。もちろん、湧出量が多い場所ではそれより低い温度の泉源でもパワー利用は可能です。より低い温度で沸騰する作動流体を使えば良いのです。アンモニアや炭化水素を主体とする作動流体では、例えば40℃程度の泉源と15℃の谷川の水の温度差を利用して、発電する事も十分可能です。温度差が小さい場合には、発電装置が出力の割に大型にならざるを得ない事は致し方ないでしょう。

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2018年5月22日 (火)

3444 この国の資源5

この国の資源として、水力(小水力)についても少し考えてみます。水力は、原理に立ち戻れば、山に降った雨が、海面に対しての「位置のエネルギー」を持ち、それが谷や川を流れ下る際のエネルギー(位置エネルギー+流れのエネルギー)を利用するものです。ここで注意を要するのは、エネルギーポテンシャルとしては、確かに位置のエネルギー(水頭)が重要なのですが、それを取り出す際には。どれだけの水頭の水が、どれだけの速度で、どれだけの量流れたかが問題にされる訳です。緩い傾斜だが水量が多く滔々と流れる川でさえ、その流れの持つエネルギーは、高いダムから導かれているが、しかし水量が限定的な発電所に匹敵するエネルギーを持っているのです。つまり、大河は水頭は小さいが、水量で稼げる可能性があるのです。

問題は、川は公共財なので、それを勝手にエネルギー利用だけに振り向ける訳にはいかないという側面です。と言うより、長い歴史の中で、河川水は農業(とりわけ水田)利用を主体として位置づけられ、水力の利用は農業利用に組み込まれていない細い渓流程度に限られていたのでした。とは言いながら、田舎に行くとかつて電力供給が十分ではなかった時代に、地元電力とでも呼ぶべき水力発電所の痕跡なども見つかるのです。山間の渓流をせき止めて、小規模なダムを作り、そこから比較的細い導水管や開水路を組み合わせて発電所まで水を引き、数百キロワット程度(つまりは数百軒程度の家庭向け)の発電を行っていたのです。ダムや水路は、補修を重ねれば耐久性はあるので、後は発電機をメンテしたり交換したりして、今でも現役の発電所が投稿者の住む町でもいくつか見ることができます。

もう少し、小規模な水力発電を考えていくと、規模はいきなり10kw以下に落ちてしまいます。その意味で、数十kwの規模の発電所の適地は、殆ど存在しない事を意味するのです。と言うのも、この規模の発電所を動かす事ができる水路の殆どは、既に農業水利に組み込まれているからです。農業排水が川に流れ込んでいる所や沢水が無為に川に落ちている小規模な水資源も田舎ではそれなりに見つかりますが、それらは、例えば数kwの発電ポテンシャルしかないケースが殆どなのです。そう思って見回すと、小規模で効率の高い水車や発電機は殆ど開発されていない事に気が付くのです。理由は明快で、そのサイズの需要が極端に少ないからでしょう。

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2018年5月21日 (月)

3443 この国の資源4

ある研究会のメンバーと共に、県内の内陸にある農業コンサルが作っているモデル温室を見学しました。雪国秋田でもこの地域(内陸)は特に多雪地域で、通年で農業を行うためにはハウス暖房が不可欠です。通常の温室では、灯油か重油ボイラで行うのでしょうが、ここではもみ殻ボイラを使っていたのです。厳冬期には、もみ殻ボイラだけではハウス内温度と地温が保てない様で、小型の灯油ボイラも併用していましたが、熱量の6割以上はもみ殻の燃焼熱で賄っているとの事でした。

このもみ殻ボイラには副産物もあります。それは「燻炭」です。完全燃焼では、もみ殻は白い灰になりますが、空気量を絞って燃焼させるともみ殻の形が残っている黒っぽい「燻炭」になるのです。燻炭は、土壌改良材として理想的なので、結構な値段で農業資材として取引される様なのです。国の政策が代わって、これまでもっぱら田の暗渠排水用として使われていたもみ殻ですが、今は余り気味で、基本的にはもみ殻は農家が無料で運び入れてくれる様なのです。厄介もので無料の燃料から、燻炭と言う付加価値を生み、同時に発生する熱で灯油を節減した上に、温室を暖めて季節外れの作物を収穫する。いわば、もみ殻と言うバイオマスエネルギーを組み込んだ、「農業システム(ビジネスモデル)」に仕立てる事も十分可能だと感じました。バイオマス資源の活用を考えるに当たっては、単独で発電したり暖房目的でエネルギーを取り出したりするよりは、農業との組合せで多段階でエネルギーと付加価値を生み出すという「ビジネスモデル」にする事によって、十分な採算性も期待できるのです。一言で言えば、「再エネと農業は相性が良い」、という事になるのでしょうか。

林業や農業からは、多くの残さが排出されますが、問題は「水分率」にあると見ています。もみ殻は、そもそも乾燥させたモミを籾摺り過程から生れますので、そのまま屋内保管すれば十分に乾燥させた燃料が手に入りますが、一方で林業残渣や売り物にならない農業残渣などは、屋外保管でたっぷりと水を含んでしまっているので、その活用は厄介です。ここでの提案したいのは、農業ハウス(ビニールハウス)や使われていない建物を活用して屋内保管とし、更に太陽熱で乾燥させて燃料としての価値を高める方法です。バイオマスと太陽熱の組み合わせは、これまた相性が抜群なのです。

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2018年5月18日 (金)

3442 この国の資源3

太陽光は、どの国にも普遍的に降り注ぐ、まさに天からの恵みだと言えるでしょう。南極や北極の極地方でさえ、一年の中では陽の差さない季節があるにしても、反対の季節では一日中太陽光が降り注ぎ続けるのです。間違いなく、太陽光を最大限に利用しているのは、植物(プランクトンを含む)でしょう。植物は、太陽光を利用するために葉緑素を生み出し、光合成能力を磨くように進化してきた訳です。殆どの動物は、その植物が作る物質に依存して命を繋いでもいるのです。3440で取り上げたバイオマスにしても、結局は太陽光無しには手に入らない筈のもので、ほぼ全ての再生可能型エネルギーの大元は太陽光である事は論を待たないでしょう。

太陽光には、紫外光から遠赤外光まで含まれますから、その利用に当たっても、光のスペクトルを分けて考える必要があるでしょう。例えば、太陽光発電は、エネルギー準位の高い紫外光に近い波長を利用している一方、太陽熱の利用は専ら赤外光に近い部分を利用する事になるでしょう。そう考えてみると、もし光のスペクトルを上手く分解する事ができるのであれば、同じ面積の受光面で、太陽の持つエネルギーを多重的に引きだす事も可能となるのです。つまりは、太陽光のハイブリッド利用です。もし、多少効率が低くても透明度のある太陽光発電パネル(PV)が出来るのであれば、透過した赤外光を熱として利用すれば、約1kw/㎡と言われる太陽エネルギーのポテンシャルを、例えば30%利用できるかも知れません。現在の実用的なPVのコプ率は、20%前後ですから、ハイブリッドにすることにより割増エネルギーが手に入る事になります。

その意味で、光の屈折や反射、集光など、太陽光を最大限利用する技術は、まだまだ改善する余地が残っている分野だと言えそうです。例えば、反射材にしても、安価でしかも反射率の高い材料の開発は、まだ道半ばだと見ています。メッキ技術や金属研磨技術或いは防汚技術を磨けば、太陽光を多重に利用する技術にも弾みがつくでしょう。同様に、太陽光を選択的に透過させる膜技術も太陽光の利用には重要です。光は透過させるが、赤外光はシャットアウトする膜は、窓からの入熱を防ぎ、建物の夏場の冷房負荷を大きく低減させる事でしょう。逆に、冬場は窓から赤外光を積極的に取り入れたい訳で、夏冬で窓の機能を切り替えることができれば、冷暖房両方の負荷が低減できるでしょう。その意味で、私たちの知恵は、まだまだ未熟なのです。

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2018年5月13日 (日)

3441 この国の資源2

次いでこの国の資源として、風力を考えてみましょう。亜熱帯から寒帯まで南北に広がるこの国では、風力の利用と言う面ではかなり不利と言えるでしょう。基本的に、極低温の極地方には空気の溜まり(気団)ができ易く、そこから吹き出す風が、地球の自転の影響を受けながら、いわゆる季節風として冬場を通じて良い風を送るのです。しかし、熱帯や亜熱帯では、強い日射を受けて熱帯性低気圧、それが成長した結果の「台風」となって、毎年この国に大きな被害を及ぼすのです。

つまり、夏場のそよ風でも発電し、台風からの爆風でも破壊されず、冬場の季節風を受けて目いっぱい発電できる様なそんな「都合の良い風車」は、今のところ存在しないのです。一般的な、3枚羽のプロペラ型風車は、強い風で高速回転させると、遠心力で羽根がすっ飛ばされるため、一定風速(カットアウト風速)以上では、プロペラのピッチ(ひねり)を中立にして風を逃がすのです。強風にも耐え、どの方向からの風でも回る風車としてダリウス型風車が提案されましたが、微風では殆ど役に立たないため、主役にはなり得なかったのです。

低速でも回り、強風時にもそれほど高速にはならない風車として「抗力型」もありますが、残念な事に効率が低すぎるため、経済性(費用対効果)と言う面で、これも主役になる事は叶いませんした。しかし、効率を度外視しても、徹底的にコストを下げれば、この種の風車にも見直される日が来るかも知れません。構造をシンプルにして羽根の向きを固定し、卓越風(季節風)が吹く時だけ効率的に発電する様に設計するのです。横軸型にして、軸受を両持ちタイプにすれば、頑丈になりますので、台風も問題なくやり過ごせるでしょう。

要は、何も風況の良い欧州製の風車の真似などしなくとも、この国の風況合せて、この国独自の風車を開発し、改良を続ければ良いのです。オイルショック後は、一時風力発電も脚光を浴びましたが、その後の逆オイルショックで、再エネに目もくれずに突き進んだ結果、風力利用では欧州に対して20年以上水を開けられましたが、微風でも発電し台風にも耐える風車には、途上国にも潜在的なニーズがある筈なのです。

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2018年5月11日 (金)

3440 この国の資源

エネルギーに限らず、資源の利用に当たっては、その持続可能性と、地産地消にどれだけ近づけるかが問われます。そこで、投稿者の身の周りを眺めて、果たしてどの様な(エネルギー)資源が手に入るかを考えてみました。この項では、先ずバイオマスについて考えてみる事にしましょう。バイオマスとは、生物が(主に太陽光を利用して)固定した物質の総称ですが、狭義には植物が固定したものを指す言葉だと言えます。

その中でも、樹木が固定した、「木質バイオマス」が、量的には大きな部分を占めるのは間違いないでしょう。森林は、それが若木で構成されている場合1ha 当り5-7トン/年炭素を固定しますが、20年以上の成木では、その量が2-4トンレベルに低下します。一方で、森林の0.6%を占めると言われる竹林は、どの樹齢でも5トン程度の炭素固定力=バイオマス量を維持すると言われています。竹林は、投稿者の身近な里山でも、タケノコの採取を目的に移植されたものが、放置されて蔓延っている様です。その他にも、目につくものとして河川木や河原のアシやヨシも非常に良く繁茂しているバイオマスだと言えるでしょう。竹や、アシやヨシも、十分な熱量を持つバイオマスエネルギーではありますが、やや難点として挙げなければならないのは、灰の量(灰分の多さ)でしょうか。

投稿者が住んでいる町にも、廃れてしまったとはいえ、それなりの木材産業が存在します。山から降ろされた用材は、製材・乾燥した上で、住宅などに用いられますが、製材屑は現在のところ、然るべき施設まで運ばれて焼却処理されている様です。バイオマス利用の実例ですが、投稿者が6年ほど前にこの町にUターンした際に、見学させて貰ったフローリング工場の年間1000トン以上発生する廃材をいかにも勿体なく感じたため、これをペレット燃料に加工して付加価値を付ける事を提案し、その後県の助成金が付いた事もあって、ペレットプラントが立ち上がったのでした。バイオマス2トンで、およそ石油1klの熱量に相当しますので、1000トンのバイオマスを燃料に転換した結果、石油換算で500klのエネルギー資源が生まれたことになります。

河原に蔓延るカヤ・ヨシの類にしても、簡単な軽量の結果200㎡もあれば、毎年そこから住宅1軒分の冬季暖房に十分な量のバイオマスが手に入る計算になりました。そういう意味で見回せば、製材屑、もみ殻、厄介者の竹林など、田舎では身のまわりのバイオマス資源の何と豊富な事でしょう。エネルギーに関する限り田舎の将来は非常に明るいのです。

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2018年5月 9日 (水)

3439 休題(国、国民について)

このブログは「環境ブログ」ですので、政治やイデオロギーには触れないのが暗黙のルールですが、たまには国や国民について考えてみるのも、環境を別の角度で眺めるという意味では良いかも知れません。さて、国とは、言わずもがなですが国境で仕切られた地域を指します。その中に暮らす人々を、便宜上国民と呼ぶのです。しかしながら、多くの国の中には、いくつかの(又は数多くの)民族が分かれて(又は入り混じって)、仲よく(又は諍いを起こしながら)暮らしているケースも多いのです。中には、民族の独立をかけて、内戦状態にある国々も多いようです。

そこで、ここでは「国境」について少し考えてみる事にします。国境は、誰かが歴史の流れの中で恣意的に引いたものもあれば、海や大河や高い山脈などで隔てられた、天然の国境(環境国境?)もあるでしょう。投稿者としては、多くの国境問題の本質は、国境が「線」である事にある、と思っています。もし、国境に幅があって、その中は隣接する国が同等の権利を有する「共用地」であったなら、と想像することがあります。しかも、利用の目的を農業などに限る必要があるでしょう。例えば、そこから鉱物資源や石油が湧き出ても、諦めるルールを定めないといけません。そうでないと、権益争いの火種になるからです。たとえ農業であっても、「水争い」が考えられますから、そこにも天水利用を前提にしたルールが必要でしょう。

とは言いながら、共用地を設定した場合にはG.ハーディンも指摘したように、「共用地(コモンズ)の悲劇」も想定されるでしょう。ですので、その設定には万国が賛同できる「厳密なルール」の設定が必須なのです。その意味で、共有地を牧場にする事は出来ないでしょう。放牧した牛が、他の人が放牧した牛の群れと、餌場の草地を取り合うからです。もちろん、放牧した牛の持ち主を特定しないのであれば、問題は少ないのかも知れませんが、争いが消えるとも思えません。農業利用であっても、両国に機械力の差があっては諍いの火種に繋がりますから、例えば人力による農業だけに限定する必要があるかも知れません。

この様な、頭の中だけの勝手な想像(思考実験)も結構楽しいものではあります。

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2018年5月 8日 (火)

3438 再エネ考6

再エネでもっともっと活用しなければ、と感じているものが「太陽光(熱)」です。極端に言ってしまえば、全ての再エネの起源は「太陽光」に還元できるからです。正確に言えば、潮汐エネルギーは引力の変化を利用していて、地熱は地球内部のマグマの余熱利用なのですが、バイオマスにしても、水力(雨や雪)にしても、或いは太陽光発電にしても、結局は太陽光の直接的・間接的な利用になるのです。太陽光のスぺクトルのスぺクトラム(分布)を眺めると、大気によって吸収されて歯抜けにはなっているものの、紫外光から赤外光まで、幅広く分布している事が分かります。

紫外光に近い帯域は、エネルギーが高い光なので、太陽光発電(PV)や或いは光化学反応(光合成もその代表です)に利用するのが得策です。一方で、赤外光に近い帯域は、エネルギーとしてのポテンシャルは低くはなりますが、帯域自体が広いので、植物や動物の体温を直接的に上げるエネルギー源として、不可欠な帯域の光でもあるのです。その意味で、私たち人間ももっと太陽熱利用をすべきであると提言しておきたいのです。人間は、他の哺乳動物同様、恒温動物ですから、衣服や住居によって、暑さや寒さから身を守る必要があるでしょう。現代は、文明を享受している国々では、いわゆる暖房器具やエアコンなどの機器を利用して、室温を快適な範囲内に保とうとするのです。

しかし、考えてみれば、冬でも晴れてさえいれば太陽熱を利用して暖房することができますし、真夏でも太陽熱を上手く利用すれば、除湿や冷房も十分可能(例えばデシカント冷房)なのです。現在の衣服や住宅に最も欠けているのは、せっかく暖めた(冷やした)空気の温度を維持する保温、保冷性能だと思っています。保温・保冷性能高ければ、必要なエネルギーは間欠的に使うだけで済みますが、低ければ室温を保つためにはエネルギーを使い続けなければならないからです。まとめて言えば、私たちの体温を維持しやすくするためには、太陽熱をもっと利用し、同時に衣服や住宅の断熱(遮熱)性能を格段に上げなけなければならないという事になるでしょうか。この項一旦終わります。

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2018年5月 7日 (月)

3437 再エネ考5

多様なエネルギー資源がすぐそこにありながら、殆ど無視され続けている再エネが、バイオマスではないかと思っています。と言うのも、バイオマスと言ってもその種類が半端なく多様ですし、しかも個々のエネルギーポテンシャルの密度が小さ過ぎて、「ソロバン」に乗らないからではないかと思っています。多様という面では、一口にバイオマスと言っても、間伐材や流木や河川木や伐採竹、木工端材などの木質廃棄物、家畜し尿、刈り芝やカヤなどの処理雑草、下水処理汚泥、生ごみや廃棄食品などの食品残渣、もみ殻や廃棄される農業残渣などなど、少し考えるだけでも十指に余ります。

確かに資源は多様なのですが、問題は個々の資源がエネルギー賦存密度が低いために、収集運搬に費用やエネルギー(つまりは石油燃料です)が嵩む事が利用を阻んでいる最大の原因でしょう。投稿者が住むA田県にも、2Mwの大型バイオマス発電所や700kwの食品残渣発電所がありますが、原料を発電所に運び入れるためのコストはかなりの額に上るのではないかと想像しています。取り分け、前者は燃料の大きな割合を占めるヤシ殻(パーム油の搾りかす)を輸入に頼っていますので、運搬費用は、たぶん燃やして得られる発電料金の何割かに上ると想像しています。後者は、元々焼却処理するために収集運搬を行っていましたので、収集車の行先が、焼却場からバイオマス発電所に変っただけなので、大きな問題は無いでしょう。

しかし、問題なのはその発電プラントの規模や過剰な設備です。規模の拡大は、上に述べた様に収集運搬コストに、過剰な設備とは、何十年稼動させても、投資額が回収できない様な立派過ぎるプラント設計に問題があるのです。それを回避する方法は、たった一つでしょう。それは、原料の集まる規模に応じて、小さい規模で、シンプル=安価なプラントとする事でしょう。規模拡大には、最小サイズのユニット数を増やせば良いのです。補助金のタップリ入った大型のプラントを部分負荷で動かす無駄を考えれば、最小サイズのプラントを高い負荷=効率で動かす方が賢いのは自明です。再エネの場合、決して「大は小を兼ねない」のです。

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2018年5月 6日 (日)

3436 再エネ考4

再エネの利用を考える際に最も重要な事は、その安定性かも知れません。例えば、商用電源としての再エネを考えてみると、例えば風力発電や太陽光発電は、かなり使いにくいモノと言えるでしょう。無風の日や逆に台風の様な(カットアウト風速を超える)強風が吹いている日には風力発電は役に立ちませんし、太陽光発電も日照が無い日や日没後は殆ど電力が得られません。従って、これらを使う場合には、かなりの工夫が求められるでしょう。

工夫の一つはエネルギーの貯蔵でしょう。発電する場合には、蓄電設備に電力を蓄えるか、或いは風車で熱を発生させ、或いは太陽熱を蓄熱槽で蓄える方法、更には水素や他の化学物質に変換してエネルギーを蓄える方法などが有望でしょう。別の工夫は、刻々と変わるデマンドと、同じく刻々と変わる発電量を、コンピュータを介在させながら、地域を超えて細かくマッチングさせる方法で、ヨーロッパの風力発電システムでは、既に広く行われている方法でもあります。もちろん、この方法には例えば真夏の無風の日などは、冷房デマンドが非常に大きいのに、風力発電は殆ど出力出来ない等、本質的なシステムの限界もありますから、他の発電手段(火力発電など)との連係は不可欠です。

投稿者としては、第三の工夫を提案したいところです。それは、需要家自身がデマンドをコントロールする方法です。各戸や各ビルは、例えば1日分程度のデマンドを賄える蓄電設備を備え、商用電源からかなりの程度独立を果たすという選択肢です。例えば、事務所ビルであれば、非常灯や非常用電源やデータバックアップ設備等は常に商用電源と繋いで置きますが、その他の空調やOAや一般照明は、自前の蓄電設備と太陽光発電設備などとデマンドコントローラーで繋いで置くのです。もちろん、蓄電量が不足してきた場合には、商用電源から電力を買う事になります。その際にも、低く抑えた契約電力量を越さない様に上手くコントロールするのです。それによって、電力会社は発電所への投資が抑制できますから、電力料金を低く抑えることが出来るでしょうし、需要家は買電料金を極めて低いレベルに抑えることも出来るでしょう。この様なシステムを、投稿者の言葉で「セミ・オフグリッド」と呼んでいます。商用電源からの部分的な独立、と言う程の意味です。

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2018年5月 5日 (土)

3435 再エネ考3

再エネを考える上でキーになるのは、実は熱としてのエネルギー利用だと思っています。熱は、暖房、給湯だけではなく、工場のプロセス加熱や調理、更には熱を利用した(吸収式)冷房・冷凍に至るまで、およそ人間の生活を快適にするために、如何に熱が多用(一般家庭では凡そ6割が熱利用)されているか改めて考えてみて欲しいのです。しかも、その熱源として世界中に(特に低緯度地域に)遍く賦存してるのは、実は太陽熱しかないと思うのです。もちろん、この国の様に火山からの贈り物である地熱が利用できる国もいくつかは数えられますが、太陽熱こそ尽きることのない「再エネ」の代表だと言えるでしょう。

太陽熱に利用は、非常にシンプルです。熱を集める集熱器(コレクター)と熱媒体に加えて、熱を蓄える蓄熱体があれば十分だからです。コレクターは、全反射集光器を利用した高度なものから、単に黒く塗られた箱までピンキリです。利用温度でも平板吸収タイプでも80℃前後、集光タイプだと数百℃程度の高温を得ることも可能です。熱媒体も、最もシンプルなものは空気それ自体で、次いで水や鉱物油などの液体、高度なものでは、気体⇔液体の相変化や化学的潜熱を利用するものまで、数多く考えられます。蓄熱体としては、熱媒体自身を利用したもの(蓄熱タンク)が最もシンプルですが、例えば石材を使うもの、あるいは比熱の大きな固体を用いるもの、更には、化学的潜熱を利用するものや、果ては温度が上がると比重が重くなる液体を利用したソーラーポンドまで、多様な形態が考えられるでしょう。

投稿者の家では、最も単純な、不凍液を熱媒体とする平板型コレクター(約4㎡)と200ℓの貯湯タンクを組み合わせるシステムを入れていますが、夏場は半日程度の日照があれば、給湯・入浴には十分な熱量が確保できます。この他にも、壁面に黒く塗ったアルミ板などを取り付け、壁面との間の空気を加熱して太陽熱を得る「ソーラーウォール」もありますが、こちらは蓄熱目的にはあまり向きませんが、日照があるのに寒い冬場の日中には、暖房用途には最適の仕組みだと言えます。取り分け、日中にしか利用しない事務所ビルの暖房目的には最適でしょう。手元のデータによれば、上手く設計すれば冬場でも80℃前後の温風が得られると言われています。実際、冬場にはかなり気温が下がるB国中西部の砂漠にある工場で、このソーラーウォールの設置で、工場のエネルギー消費が半分に減ったという実績データも出ているのです。太陽熱は、それを使おうが使うまいが、毎日世界中に遍く降り注いでいるのです。

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2018年5月 4日 (金)

3434 再エネ考2

再エネとして、先ずは、優等生の太陽光発電を見ていきましょう。太陽光発電は、実は初期には宇宙開発用として開発が進みました。それまでは、いわゆる核分裂物質を人工衛星に積み、出てくる熱で「熱電発電」をして衛星のパワーを賄っていたのですが、人工衛星はやがて用済みになって高度を失い地球に落下するので、核物質を使った発電は危険過ぎたのです。そこで、シリコンやガリウム・ヒ素と言った物質を駆使して、太陽光発電パネル(PV)が開発され、次々に人工衛星に搭載され始めたのでした。

それらの特許が公開されるや、日本のメーカーがそれに飛びつき、ベース技術からの効率アップと量産技術を磨くことによってコスト削減にしのぎを削ったのでした。昔のメーカー名で言えば、Sャ―プ、Sンヨウ、M下電工、Kセラ、M菱、T芝など等です。そう言えば、私が在籍したK重工でさえ、B国企業を買収したりして、それなりに手を出していた事を思い出しました。そんな事もあり、この国の量産技術は飛躍的に伸び、世界に冠たるPV王国になったのでした。その王国に陰りが見えたのは、欧州やC国で、それまでの日本のメーカーに比べると一桁大きな量産工場が建設された頃でした。間もなく、PVのシェアは、Dイツに越され、次いでC国にも追い越されたのでした。たぶん、この国のPVメーカーの失敗は、PVの量産に必要以上に慎重になり過ぎた事でしょうか。確かに、国としても遅まきながらFIT制度などを整備して、応援は始めましたが、例えばC国の急速なシェア拡大にはついて行けなかったのでした。

しかし、そうではあっても、PVが最重要の再エネであり続ける事に間違いはないでしょう。何故なら、再エネの大前提である「エネルギーの地産地消」の理想に最も叶うものだからです。それは、潜在的な需要家である家屋やビルとしては、この国の全ての屋根がPVで覆い尽くされるまでは途絶えることは無いからなのです。PVの効率向上競争は、ほぼ打ち止めになった感がありますが、太陽が照っている間にしか発電しないPVをバックアップする技術として、安価で大容量の蓄電技術の改良・コスト削減こそが今後不可欠でしょう。

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2018年5月 3日 (木)

3433 再エネ考

サラリーマンを辞して、環境人間に脱皮して一番興味を惹かれたのは「再エネ」でした。もちろん、私たちの生活が原始時代の様に、先ずは食糧の確保が第一優先であったなら、興味も違っていたのでしょうが、自分の中では、取り敢えず食糧問題の緊急度は低いと思っているのかも知れません。エネルギー問題は、昭和の石炭から石油時代に移った時には、問題の中心は価格でした。兎に角、一番手に入り易く、価格も安いのが石油だった訳です。石油は、精製や備蓄さらには流通まで、液体であるが故の扱い易いという最大のメリットがあります。ガスであれば、それを圧縮して嵩を小さくした上で、加圧又は冷却しながら運ばなければなりませんし、使う時にはベーパライザーで再度気体に戻す必要もあるからあります。

もちろん、二度のオイルショックを通じて、この国でも再エネ開発への機運が高まった事もありました。それは、70年代の事なのですが、その時代に(1980年に)NEDOと言う組織もそのために作られたのでした。太陽光、太陽熱、風力、水素、小水力、バイオマスなどなど、種々の新エネん(再エネ)のアイデアが出され、多額の費用を掛けて実証試験も行われました。しかしながら、風力利用の例を見ても分かる様に、それらの多くは「お蔵入り」になり、この国の固有技術のなる事はなかったのです。太陽光発電は、例外的だと言うしかありません。それは、太陽光発電は工業的に量産が可能であるという点で、この国の産業構造にマッチしたためと想像できます。

殆どの再エネの工業化が失敗になった理由がいくつか考えられますが、たぶん大きくは国のリーダーシップと、企業の熱意の両方が弱かったためと振り返っています。新エネ(再エネ)を形とするために、国は補助金制度を作り、重工など大手企業がその補助金を狙って(使って)「高価なテストプラント」を作るまでは、勢いがありました。しかし、2番手3番手のプラントの助成金は絞られ、或いは廃止されると、アウトプットに比して高価すぎるプラントの採算性などとても確保できなかったのです。

一方で、その間海外では、例えば欧州では、風力発電やバイオマスの利用に息長く取り組んできたのでした。気が付けば、風力発電やバイオマス利用技術のシェアは、欧州勢に抑えられていたのです。どう考えても、この国の政策や企業家のマインドには、単年度の予算や利益に興味が集中し過ぎて、中長期のビジョンが殆ど無視されているという本質的な欠陥があると思うのです。再エネの各論については更に続きます。

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2018年5月 1日 (火)

3432 製品ジャンル6

もう少しこのテーマを続けます。そもそも「製品」と呼ぶからには、誰かが誰かにそれを売って代価を得るために、自然物に手を加えて(加工して)、素材(原料)に何がしかの「付加価値」を追加したものだと定義できそうです。それ以前は、ヒトは自分自身のため、或いは家族のために自給自足をして暮らしていた事でしょう。しかし、ある時期以降、人は自分たちが消費する以上の余剰を作り出し、それで物々交換するか、後には通貨なども媒介して交換する様になったのでした。

産業革命期以降の、規模を拡大した工業化が前提とされた社会システムの中では、工場を持つ企業家は、何より売れる製品を作って、企業に利潤を上げることに腐心した事でしょう。それが社会の仕組みであり、企業(株式会社)の株主に対する義務となってしまったからです。それが、更に戦後の高度成長期を通じて、消費者が求めるものを作るのではなく、企業が売り捌きたいものを提案して、市場に「押し込む」ことが普通になったのでした。これまでに述べた製品ジャンルは、まさにこの流れの中で出来上がってきた産物だと言っても良いでしょう。

食べ物にしても、家電にしても、車などの耐久消費財にしても、今私たちが目にしている市場は、結果的には企業の提案に、消費者が乗っかった果ての姿だと言うしかないでしょう。それで何が悪いかですが、やはり納得がいかないのは、消費者側に常に「買わされている感」が拭えないからの様な気がします。ある個人が本当に欲しいモノは、たぶん完全なオーダーメイドでないと実現できないでしょう。しかし、全てに効率やコストを優先する現代社会のシステムでは、そんな面倒くさくて、まだるっこしい事は現実的ではないと切り捨てられるのです。

ここでの提案は、先ずはある製品で徹底的にオーダーメイドに応えるモノ造りをやってみてはどうかと言うことです。ある製品が、使い勝手が良く、長く手元に置きたくなるモノであれば、それを見た別の人が、同じもの或いはそれを少しカスタマイズしたモノが欲しいと思う事でしょう。その様にして、やがて新たなロングテールの「定番製品」が生まれると思うのです。もちろんロングテールの製品などというものは、1年や2年で生まれる筈もないのです。生活の中で使われ、使い込まれる過程でそれが定番になっていくだけなのです。製品を開発する人達は、消費者が買いたくなるものを作るのではなく、使用者が「一度手にしたら手放せなくなる製品」を目指すべきだと思うのです。この項一旦終わります。

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