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2018年6月24日 (日)

3470 再エネ応援団2

環境人間として活動を始めた50代のある時期、再エネへ取り組むを応援しようと決めたのは、大げさに言えば、それがこの国にとっての唯一の生きる道だと結論したからでした。この国は、かつては(つまり団塊世代が働き手であった時期)人的資源に恵まれた人材大国ではありましたが、資源には恵まれず、今やその頼みの綱の人的資源さえも先細りになりつつある、元気の無い国になりつつあります。少し、批判的な事を書けば、お国はその問題には目をつぶり、お金をジャブジャブにする何とかミクスだとか、十分な宿泊施設や地震対策も無いのに国外から観光客を無理やり誘致するなど、燃え尽きつつある焚火を、無理やり掻き立てて、少ないリソースを使い尽くそうとしている様に見えるのです。

省エネルギー機器の開発は、確かにこの国の企業のお家芸であるとは言えるでしょう。しかし、小手先の省エネだけでは、年々顕著になる温暖化や化石エネルギーの枯渇傾向に伴う混乱を考えると、化石エネルギーを今の半減あるいは数分の一にしなければならない社会にはとても間に合わないのです。エネルギーを今の数分の一にするためには、例えば今の車の延長線上でない、新しい移動手段を提案する必要がある筈なのです。つまり、現在の車、つまりはガソリン車やハイブリッド車やEV車を改良するという発想では、超省エネ時代の実現は無理だからです。そうでなくて、新しい時代の車(移動手段)は、結局は人力車(自転車に代表されます)からの発想でなくてはならないでしょう。自転車は理想的なZEV(ゼロエネルギー車)でもありますが、そこから発想すれば、省エネカーレースでは、何とガソリン1ℓで1,000㎞以上も走る車さえ作られているのです。それを実用化に向けて改良すれば、100/ℓの省エネカーの実用化はすぐにでも見えてくる筈なのです。

それが出来れば、それを動かすための僅かなエネルギーの転換もでき易いでしょう。少量の植物油で動くエンジンなら明日にでも作れるでしょう。木質資源に恵まれた地域なら、前の戦争中に実用化された「木炭自動車」だって再び動き出すかも知れません。効率的な「外燃機関」が実用化されれば、熱を発生させる全てのバイオマス資源が車の燃料に使えるでしょう。これらの挑戦は、決して大企業でなければ完遂出来ないものではないでしょう。数億円のプラントではなく、車程度の小さな規模の再エネなら、やる気と技術力のある中小企業が手を組んで事に当たれば、殆どの難題が解決できると思うのです。再エネ応援団でもある投稿者は、今後もそんな中小企業を応援し続ける事といたします。

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2018年6月23日 (土)

3469 再エネ応援団

昨日は、県境を越えて隣県の中小企業家同友会を表敬訪問した。以前の講演会で、ここの理事の講演を聴講して、投稿者と同じ方向を向いている人だと感じたので、すぐ名刺交換をしていたのでした。中小企業の集団ですから、基本的には大メーカーの様に大型風車だとか、メガソーラーだとか、投資額が大規模の大きなものに参入するのは基本的には不向きです。ですから、彼らが視野に入れるべきは、中小規模の再エネの枠組みになるのは当然でしょう。風車で言えば数kwクラス、小水力ならポンプ逆転水車、太陽光発電なら50kw以下で、直接電柱トランスに接続する規模、バイオマスなら出力50kw前後の中小以下の規模の熱利用かガス化発電などになるでしょうか。

小規模な再エネのキモは、実は標準的なサイズの機器をユニット化し、必要な規模に応じてユニット数を増やすというアプローチだと思うのです。面談した理事は、結構再エネ先進地域である欧州の視察にも複数回行っていて、海外の事情には詳しい方でしたが、国内はまだまだだろうとの認識でしたが、昨日の雑談では、投稿者も関わっている50kw規模程度の畜糞などをメタン発酵させるバイオガス発電やバイオマスを乾留するガス化発電などの国内における現状を説明し強い興味を持って貰えたようです。

投稿者は、「再エネ応援団」を自認していますので、同じ方向を向こうとしている中小企業を応援してきましたが、近くこの同友会メンバーとの雑談ミーティングを開催する事を約して帰ってきました。今日は短く。

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2018年6月22日 (金)

3468 非電化製品

表題の非電化を標榜する工房もある様ですが、3468に関連して、災害に強い非電化製品について考えてみる事にします。非電化ですから、電力は基本的には使わないという前提です。もちろん、小さな風力や水力や太陽光などを使って、化石燃料を使わずに便宜的に使う小電力は除外する事にしましょう。ですから、利用できるものとしては、人力を主体として、太陽光、太陽熱、小水力、小風力、地中熱、場合によっては畜力などなどですが、どこかの駅でも実験された様に、人々が歩く際の振動もエネルギー源にはなる様です。

さてそれらを利用した製品ですが、まだ少ないですがいくつかは既に実用化され製品として流通しています。代表的なものは「自転車」です。これは、ドライバー自身が足を動かして動力を生み出し、移動の動力とするもので、既に究極の形状や機能に近づいていると思われます。少し別の例ですが、体温で駆動する腕時計も非電化製品に分類しても良いでしょう。体温と外気の僅かな温度差を利用する熱起電力で省エネ型に設計された時計のムーブメントを駆動するものです。ハイテクを使ったややこしい製品を想像しなくとも、投稿者が子供の頃は、電力や内燃機関を使った動力源は限定的にしか使えなかったので、身の周りは非電化製品だらけだったのです。

例えば、モノの移動にはリヤカーが活躍していました。市内のちょっとした引っ越しなどは、リヤカーで済ましていたものです。製品の運搬にも大活躍していました。少し距離が遠い場合には、頑丈な自転車の後ろにリヤカーをけん引して使っていたものです。その頃の暖房器具はと言えば、専ら炭火による火鉢か薪ストーブでしたので、リヤカーを使った燃料の運搬は重要な冬支度の一つでした。冬には、箱ぞりも活躍しました。近隣の農家は、冬には雪の下に貯蔵してあった野菜などを箱ぞりに載せて、町の中心で開かれる市場に運んできたのでした。そう言えば、雪の下(雪室)に貯蔵するのは、非電化冷蔵庫であるとも言えそうです。

未だに捨てられずに納戸に納まっている非電化製品に「タイプライター」があります。これこそ、人力だけを使って動かす「人力ワープロ」であり、非電化製品の代表例でしょう。もちろん、専門家は当時でも電動タイプライターを使ってはいましたが・・・。

非電化製品は、懐かしいモノ達ではありますが、実は新しい製品でもあり得ます。つまり、化石燃料(電力)を消費しないで、少しだけ便利な機能を手にする、環境に優しい製品だからです。病気の時以外は何時でも使える人力や晴れれば誰にでも利用可能な太陽光や、田舎ではそれなりに手に入る薪やバイオマスといった再生可能なエネルギー源を、必要最小限の形で、工夫の積み重ねで徹底的に効率を高めて利用するのが「最先端の非電化製品」だと言えるでしょう。

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2018年6月21日 (木)

3467 観光立国?

今回の大阪エリアでの直下型地震は、この国のあり方にまたまた多くの課題を突き付けた様な気がします。公共交通機関のマヒは、都市機能を完全に殺してしまったのです。新幹線、JR線、私鉄・地下鉄が動かなくなると、人も全く動けなくなります。高速道から一般道に降りた車で、道路は1ミリも動かないデッドロック状態に陥り、当然の事ながら事故対応の緊急自動車も動けなくなってしまう負の連鎖が起こるのです。

しかし、もし半数の人々が自転車で通勤したり移動していたとすればどうでしょう。自転車にデッドロックは無いでしょうし、最悪の場合は車の渋滞の間を縫って押してでも動けるでしょう。鉄道やエレベータなどの保守担当者も車ではなく、日頃から自転車を使う準備をしていれば、初期出動もスムースに運べたはずなのです。

その中で、地震に慣れていない外国人観光客の右往左往ぶりも報道されましたが、たぶん日本人の何倍ものひどいパニック状態に陥った事でしょう。お国も、ホテルの数が足りなくなって、民間アパートまで動員しなければならない程、外国からの観光客を急激に増やす政策ばかりに奔走せず、彼らの安全対策にも予算を割き、対策を打つべきでしょう。

対策にはすぐできるものと、時間が掛かるものがあります。考えてみると、電気や動力を使った「文明の利器」ほど災害に弱く、人力を使った原始的なものほどイザという時には役立つと結論できそうです。通勤する人々や観光客を、電車やバスやタクシーにばかり導かず、もっと自転車や歩きを推奨すべきだと思うのです。それよりなにより、受入れ態勢もロクに出来てもいないにも関わらず、観光客は何千万人来日したとかの「数字だけ」に一喜一憂すべきではないのです。観光立国とは、政府が誘導して無理に作り出すべき状況では決してなく、一度来日した人達から口コミでジワジワと拡大すべき「緩やかなブーム」である筈なのです。もちろん、彼らの安全対策やましてや宿不足問題は、事前に手を打つべき事柄である事は論を待ちません。観光立国を目指すこの国は、狭小な国土しか持たない災害大国でもある訳です。

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2018年6月20日 (水)

3466 地震の予知

大きな地震が発生し、被害が起こるたびに地震の予知が取り沙汰されますが、投稿者の感覚では、残念ながら地震の余地は殆ど無理ではないかと感じています。物体の中に貯め込まれている応力(内部応力)を測定する方法はいくつか存在します。詳しい原理はさておいて、例えば、X線を使ってその回折によって内部の応力をかなり正確に推定する技術は存在します。これは、例えば金属サンプルなどでは有効ですが、例えば地盤でも応用できるかと言われれば、そんな技術はまだ開発されてはいません。

もし、仮に何らかの有効な方法が開発されて、地盤内に生じている歪なり内部応力が測定出来たにしても、ではその結果地盤が破砕し、何時断層がずれて地震になるかまでは、知る手段は無さそうなのです。というのも、地盤の種類によってそれが弱い応力でも破砕し断層がズレるのか、あるいは地盤が強固でなかなか破砕しないのか、それを評価する基準がないからです。しかも、地震を起こす断層のズレは、ゆっくり進むのではなく、突然かつ急激に起こるのです。

これでは、いくら神様でも地震の発生を前もって「お告げする」ことは到底無理と言うものです。加えて、この国の地盤は、大陸プレートの移動による大きなズレ(構造線と呼ばれます)に加えて、数十キロに及ぶ長い断層や数キロ程度の短い断層が複雑に入り混じっている事もあり、熊本や今回の大阪北部地震の様なローカルな地震の予知など、科学者が束になって掛かっても無理だと言うしかありません。

結局、この国に住む限り、地震には比較的高い頻度で(具体的には一生の内では数回)遭遇するものだ、という前提で日頃から心構えをしておくしか方法は無さそうです。いわゆる、防災や減災と言った考え方ですが、それにしても3464にも書いた様に、都市への人口集中は、その意味からも早急に解消すべき重い課題である事は間違いないでしょう。

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2018年6月19日 (火)

3465 目からうろこ 

イギリスで発明された、新エンジンに注目しました。これは、従来の内燃機関では、クランク軸からギヤやチェンを介して吸排気弁を駆動するカムシャフトを動かしていたものを、サーボモーターで適正なタイミングで直接駆動するという考え方のメカニズムです(IVAエンジンと呼ばれます)。燃料の供給に関しては、既に電子制御化され、燃費の低減に大いに寄与しましたが、吸排気のタイミングも負荷や回転数に応じて制御できれば、更に2-3割の燃費低減も視野に入ってくるでしょう。この例の様に内燃機関は、過去の「枯れた技術」だと考えられていて、既に多くのメーカーはEVにシフトしている中、古い技術だという思い込みが強すぎた、と元技術屋としては反省しきりです。

「目からうろこ」で連想した事に、乱流害悪論があります。航空機の世界では、翼面の乱流は揚力を消し去る害悪であり、失速の原因となるので忌避されてきました。確かに、翼型における揚力は、翼面の上下に流れる層流の速度差によって生ずるものであり、結果としての上下の圧力差によって機体の高度を維持させる揚力が発生するのです。

しかし、流体力学の世界では、これは正しい常識のですが、一方で熱力学の世界を振り返れば、これは非常識になってしまうのです。熱力学における多くの理論式は、理想的な乱流状態を前提に作られています。これが、もし層流の流体を扱う事になると、例えば熱交換器は殆ど役に立たないシロモノとなるかも知れません。エアコンの室外機を考えた場合、熱交換器のフィンを通過する空気流が層流である場合、高い温度になっているフィン表面から熱が殆ど放散出来ないのです。層流では、フィンの表面から空気の激しく流れる場所まで、空気流が層状になっているため、温度の分布も同じように層状になってしまう結果、相間の熱交換が上手行かないからです。

一方乱流に保てれば、フィン表面の高温は上手く空気に取り込まれて持ち去られるでしょう。つまり、熱交換器のキモは乱流を如何に上手く起こさせるかにある訳です。もし、この考え方を全ての熱交換に適用できれば、多くの熱を扱う機器、暖房機や冷房機や風呂や温水器や加熱器などなどの熱効率は、たぶん2-3割は向上すると見ています。人間の目は、幾重にも「ウロコ」で覆われてしまっている様です。特に、投稿者の様に技術者としてもバックグラウンドがあると、特に頭が凝り固まっている傾向がある様です。反省・・・。

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2018年6月18日 (月)

3464 地震列島

比較的強い震度の地震が続いています。それぞれ、震源の震度が比較的浅いいわゆる断層のズレであり、大きなプレート境界で発生する大地震とはメカニズムが異なります。とは言いながら、断層にズレを生じさせるのは、より大きな範囲に歪を加えているプレートの動きである事も間違いなく、大きな目で見ると日本列島は、まさに4つの大きなプレートの境界に出来て翻弄される島国ではある訳です。

さて、各地に網の目の様に走っている断層です。地面と地面のズレである断層は、もちろん独立したものではなく、互いに連動したり、時間差で動いたりする訳です。ある小規模な断層のズレは、隣接する断層には目には見えない歪を残します。その歪は、大きなプレートからのより大きな範囲の歪、或いは気温や雨水の浸透などの外的要因によって、突然ズレるのです。残念ながら、この目には見えない「地層の内部歪」を可視化する技術は未だ発明されていませんので、今のところ私たちは地震が起こってから慌てふためくしかない様なのです。

それにつけても、今の様な都市への人口の過度の集中は、地震列島であるこの国では、大災害が強く懸念される状況だと言えます。関東大震災や神戸地区の震災の例を引くまでもなく、人口密集地域での震災は、多くの人的被害が予想されるからです。投稿者の脳裏には、キラキラ輝く「構想のガラスビル」から、大小のガラスの破片が雨あられと降り注ぎ、その下で人々が逃げ惑うる地獄絵がちらつくのです。

一方、田舎で地震にまつわる心配の種はと言えば、例えば山際に寄り沿うように家が建てられている山村では、裏山の土砂崩れなどは懸念されますが、高層ビルも無いので、小さな災害の散発程度で済むのでしょう。訪問する度に胸が痛みますが、首都圏や大都市の過密度を見るにつけ、都市集中にピリオドを打って、地方回帰を進めるべきだと、田舎に住む投稿者としては、しみじみ思うこの頃です。

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2018年6月17日 (日)

3463 刹那的社会2

3462の続きです。ヒトをヒトたらしめているのは、脳の中でも[前頭前野]だと言われています。前頭前野は系統発生的にヒトで最もよく発達した脳部位であるとともに,個体発生的には最も遅く成熟する脳部位である一方、老化に伴って最も早く機能低下が起こる部位の一つでもあると言われています。この脳部位は、ワーキングメモリー、反応抑制、行動の切り替え、プラニング、推論などの認知・実行機能を担っていると同時に、高次な情動・動機づけ機能とそれに基づく意思決定過程も担っている様です。さらに社会的行動、葛藤の解決や報酬に基づく選択など、多様な機能に関係しているとも言われています。

投稿者が疑っているのは、この部位の老化が起こり易いという事は、逆に言えばこの部位は生まれ落ちてから発達すべき部位である筈で、刹那的行動を起こしやすい人達は、この前頭前野が未発達なのではないかという点です。例えば、長い時間ゲームに耽っている子供たちは、物事を深く考えたり、将来の事を考えたり・計画したりする訓練を怠っているとも言えるでしょう。一方で、違う年頃の子供達が群れて外遊びをしている時には、今日の遊びの「計画」や、誰がリーダー(或いはオニ)になるとか、日が暮れるまでにはあとどのくらい時間が残っているか、など等考えるタイミングも多いことでしょう。それは、まさしく前頭前野の訓練に他なりません。前頭前野は、危険に取り囲まれている野山で、弱い人間が強い野生動物の中で生き延びていくための「知恵」の引き出しだと思うのです。

そこを鍛える訓練も無く、空調の効いた室内で、モニター相手に何時間も過ごす子供達、或いは人生の殆どを人工的で清潔な都会で暮らしてきた大人たちの、前頭前野が未発達であるか、或いは非常に若い年代で退縮しやすい、という疑い(仮説)は否定はしにくいでしょう。つまり、刹那的な社会というトレンドは、このままでは歯止めが効かず、それにまつわる社会(や政治)の混乱や犯罪は、今後とも増加傾向が止まらない、と推測できるのです。これが、投稿者の杞憂に過ぎないのであれば幸いなのですが・・・。

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2018年6月16日 (土)

3462 刹那的社会

最近のニュースを眺めていると、背景が浮き上がってくるような気がします。キーワードとしては、「あまりに刹那的」でしょうか。つまり、前後の見境なく行動してしまって、様々な事件を引き起こすのです。ムシャクシャして、或いは収監されたいからという理由だけで人を殺傷する、社会に大きな混乱を与える形で自ら命を絶つ、僅かな金品を奪う目的で必要も無いのに相手を傷つける、ちょっとした事に腹を立てて危険な煽り運転を繰り返すなどなど、一体この国はどうなっていくのだろう、と心底心配になる事件が頻発しているのです。

それよりなにより、日々報道される世界情勢や国内のマツリゴトだって、決して自慢できるものではないでしょう。何より鼻につくのは、リーダー達の自画自賛です。痛いところを突かれれば、全く同じ言い訳を何度も繰り返す一方、少しでも手柄らしきものを立てれば、針先の様な中身でもを棒や大木の様に喧伝するのです。そして、いわゆる世論調査による支持率に一喜一憂し、それを1%でもアップさせる事に汲々とするのです。その際には、過去の野党の状況と比較し、少しでも上回っていれば、さも自分の代になってからの手柄の様にひけらかすのです。

刹那的と別な言葉で言い表すなら、動物的あるいは幼児的と言っても良いかも知れません。動物も、幼児も「今を生きる存在」だからです。どちらも、過去の自分を振り返ったり、或いは10年後の自分を想像して、今の行動を軌道修正する事などできないのです。情勢は、時々刻々変わります。その中に居て、10年一日の如き、産業の活性化と経済成長や景気対策しか口にしないリーダーを支持は出来ません。政治家なら、先ずは国家百年の計を論じて貰いたいものです。その上で、バックキャストした結果、今何を為すべきかを考えて行くべきでしょう。もちろん、百年後にどれだけの経済規模にしたいかなどという「低次元」の計では意味がありません。それは、国民の価値観や幸福感や達成感の問題であるべきなのです。

経済的に豊かになった結果、ほぼそれに相関する様に刹那的になったのだとすれば、私たちは額に汗して働いて、幸福度としてはマイナスの方向に走ってきたのかも知れないのです。必要な事は、立ち止まって足元を見つめてみる事でしょうか。その上で、視線を50年後100年後に向けて、この国を、ひいては世界をどの様な社会にしていきたいのかを、いま真面目に議論する必要があると思うのです。

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2018年6月15日 (金)

3461 マネー本位制社会

その昔社会科の授業で、金本位制という言葉を習った様な気がします。ある時期以降、兌換紙幣の代表であった$がそれを放棄し、その後はいわば「マネー本位制」の世の中になったのでした。それ以前の社会を含めて、「価値」の考え方を振り返ると、価値交換の手段としての貝や石貨や金属貨幣以前は、モノ本位制であった筈です。例えばこの国では、コメがその役目を果たしていた時代が長く続きました。さて、ものの価値ですが、それは一にも二にも「それ」がどの程度所有する人の役に立ち、所有する満足度を高めるかに掛かっているでしょう。しかし、贅沢品や装飾品に代表される様に、ある時期以降人々はそれを所有する満足度に酔う様になってしまったらしいのです。

その証拠には、例えば大金持ちは、めったに乗りもしない高級車を何台も車庫に並べて悦に入っているらしいですし、そうでない別の金持ちも、一生かかっても使い切れない程のマネーを銀行に預けて、ゼロの数を数えて満足しているらしいのです。その人にとっての価値とは、結局生活の役に立ついわゆる実利(実用)ではなく、所有欲の満足の様に見えるのです。それほど、極端ではなくとも、現代の社会で価値の基準になっているのはお金(マネー)になっている事は疑いないでしょう。若者は、職業の選択の基準として「給与」を最初に考慮するでしょうし、世の中での成功者、敗北者も持っているお金(お金に変えられる財産)の多寡によって判断される場合が殆どでしょう。

しかし、お金に換えられない価値、ここでは仮に「非兌換価値」とでも呼んでおきますが、はもっともっと重視されるべきだと思うのです。非兌換価値の例としては、美味しい空気や水、無農薬の野菜、国際や国内の平和、人と人或いは人と自然の間の愛情や幸福感、安全・安心感、信頼感、生き甲斐感、自身などなど、有形・無形のものが挙げられそうです。残念ながら、それらはお金に換算出来ないという理由で、あまり大切にされていないのが現状でしょう。取り分け、B国に代表されるマネー本位制社会では、それらは殆ど無視され続けているのです。それは、銃による犯罪が日常茶飯事となっている現在でも、それが殆ど規制されていない事でも自明です。

戦後一貫してB国のお尻を追いかけてきたこの国でも、事情はあまり変わりません。そうでなければ、児童虐待や僅かな金品を奪うために人を殺傷する犯罪、更には無差別の大量殺傷事件などに通底する根本部分の動機が説明できないのです。

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2018年6月14日 (木)

3460 電力輸入?

発電の元となる化石エネルギーは輸入されているのですから、大陸と送電線網を繋いで、ロシアなどから電力を買う、という選択肢もあるだろう、と言うことで具体的に検討され始めた様です。確かに、「どちらもエネルギーの輸入である事に変りはない」、という議論は間違っていない様にも聞こえます。しかしながら、両者には大きな違いがあると思うのです。化石エネルギーは、確かに発電用のエネルギー源でありながら、同時に化学工業の原料でもありますし、かなりの部分は車や船や航空機などの輸送用エネルギー(ガソリンや軽油)に振り向けられており、またLPGLNGや灯油などの熱源エネルギーでもある訳です。

確かに電気にさえ変えれば、それは電気自動車のエネルギー源にもなるし、エアコンでは暖房や冷房にも使えるし、電灯やOA等の日常生活に不可欠となったコンセント電源など便利なエネルギー源にもなるでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、そのエネルギー効率です。火力発電では、発電の段階で化石燃料が持つエネルギーの6割程度は捨てなくてはなりません、加えて送電ロスもかなりの割合に上るでしょう。元々、エネルギーを電気にして使うのは、無駄の多い「贅沢な使い方」だと言うしかありません。

さて、電気を海外から輸入するとなると、海峡をまたいで繋ぐ送電で生ずるロスと、もしかすると接続する地点の周波数の違いによっては、周波数変換のロスも加わるでしょう。しかも、電力の貯蔵はコスト的に、原油やLNGの貯蔵より高くつくので、基本的には輸入と同時に逐次的に消費するしかありません。話は、机の上で考える程簡単ではないのです。

こんな事を検討する前に、先ず為すべき行動がある筈です。それは、徹底的な省エネです。確かに、この国では省エネは進んだレベルにあるとは言えるでしょう。但しそれは、相対的な意味においてです。例えば、冷蔵庫やエアコンなどの家電でも省エネはかなりのレベルである事は認めますが、では住宅の断熱状況はどうなのかと問われれば言葉に詰まるでしょう。暑い、寒い住宅を、冷房し、暖房しても省エネには限界があるでしょう。そのエアコンの冷媒だって、代替フロンより省エネになる炭化水素系のものだってある筈です。車にしたって、燃費競争も行き詰った様に見えますが、実は車体の軽量化をもっと進めれば、大幅な燃費向上も達成可能なのです。そんな努力を惜しんで、エネルギー不足を輸入で埋めるなどと考えるのは、まさに問題外の外です。そんな輩には、上杉鷹山の言葉でも煎じて飲ませるしかなさそうです。

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2018年6月13日 (水)

3459 地域(方)創生???

3458の続きです。屁理屈の様なものですが、「地域(方)創生」などとお役人言葉でわざわざ唱えなくとも、地方は都会なんかよりずっと古くから人が住んでいて、営みを続けてきた場所である事は間違いないでしょう。農林水産業を中心にして、決して豊かではなくともしっかりとした社会基盤を築いていた筈なのです。しかし、高度成長期に都市が、つまりは新しい産業が、農家の跡取り以外の若者をドンドン吸い取り、それでも足りずについにはその跡取りさえも吸い上げてしまったのでした。

しかし、少子・高齢化の加速もあり、もはや高度成長が止まってしまった都会に残ったのは、街に溢れる人々と、せせこましいしくバカ高い住宅事情と、長い通勤時間と、朝夕に限らない常に人にぶつからないでは歩けない人混みと、緑が無く照り返しがひどい夏場の気候と、人工的に手を加えた加工食品しか手に入らない食生活と、出会いが多い筈なのに実は独身や少子化が田舎よりひどい社会と、信号が無いだけでノロノロしか動けない高速道路と、地震の時には「破片落下地獄」となる筈のガラス張りの高層ビル群と、何処に行っても外国人だらけの街などなどでした。

地域創生などという訳の分からない「行政用語」はすぐにでも止めにして、必要な行動や政策はと言えば、スカスカになってしまった地方への「人の再移動」しかない筈なのです。既にあてがわれつつある地域創生予算で、地方に移住しようとする独身者やカップルや家族には、十分な助走資金が準備出来るでしょう。田舎では、住宅なんぞは、掃いて捨てる程有り余っています。少し手を加えれば、骨組みがしっかりしている古い住宅などは、この先もまだ長く住めるでしょう。そのリフォームの際には、大工や左官や配管や電気など多様な職人が必要ですから、間違いなく雇用も増える筈です。地域を活性化させ、飽和してしまった都市に余裕を取り戻すに必要な政策はたった一つ、人口の地方移動の誘導しかないでしょう。

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2018年6月12日 (火)

3458 SDGs2(長期レンジ)

地域創生や働き方改革などと言った政治家が唱えるお題目も、SGDsに照らして考えれば、おのずと実際の行動に繋がってくる筈のものでしょう。先ずは、地方創生を考えてみましょう。これは、もちろんお役人が考えて、その時のリーダーに進言した「お役人言葉」である事は間違いないでしょう。お役人言葉の特徴としては、聞いて耳に心地よく、しかし抽象的で実際の絵が描きにくく、かつ税金を使わなければ決して動き出さないものが多いのです。その意味で、単なる掛け声やスローガンではない事だけは確かです。それは、お役人という存在が、計画=予算を立て、それを計画通りに消化してナンボであり、それ無しには存在価値が疑われてしまう人達だからなのです。

しかも、この国の予算制度は基本的には「単年度予算制度」なので、予算や計画を立てても、実際に使えるのは、その会計年度で言えば7月頃であり、年末・年始を過ぎる頃には慌てて財布(会計)の締めに掛からなければならないという忙しさです。地方創生関連でも、予算をばら撒き、人材が少なくそれを消化しきれない地方組織は、毎年帳尻合わせに四苦八苦を重ねるのです。

そうではなくて、SGDsの含まれる項目の全ては、長期のレンジで取り組まなければならない事柄ばかりなのです。こんな予算制度や行政組織のままでは、たぶん百年経っても良い政策には殆ど手つかずで、殆どが先送りになってしまう事は容易に想像できます。先ずは、計画や予算を、例えば5年、10年と言った中期や、20年、30年といった長期レンジに至るまで、柔軟に使える様に構える仕組みが必要でしょう。目先の景気の上下にばかり気を配り、民衆の支持率しか興味が無い、いわゆる「政治屋」には速やかに退場願わねばなりません。代わって、国家百年の計が議論できる、若い政治家の登場こそが待たれます。

ただ待って居ても、そんな政治家の登場が期待できないのであれば、今の内に若い人材を育てる場(決して政治テクニックを教える場ではなく)が必要なのかも知れません。最大の問題は、その先生を誰が務める事ができるかでしょうか。出来るならば、かつて国家百年の計を滔々と説いていた、古の政治家に生き返って貰いたいくらいです。叶わぬ夢ではありますが・・・。

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2018年6月11日 (月)

3457 SDGs(不便を楽しむ)

S井の「国体論」に触発された随想=休題が続きましたが、やっと本来の環境ブログの話題に戻ってきました。さて、SDGs(日本語では「持続的開発ゴール(目標)」などと訳されますが)については、既に何度かこのブログでも取り上げてきました。ここでは、SDGsの17項目のゴールの個々についてではなく、「持続可能性」について改めて考えてみる事にします。持続可能性(Sustainability)という如何にも難しそうな言葉ですが、もっと単純に言えば、「それが一体何時まで続けられるのか」という問に変えれば分かり易いでしょう。化石燃料を考えると、石油だと数十年、天然ガスも同様の「可採年数」でしょう。石炭は、その数倍あるにしても、持続可能性に照らせば、このまま化石燃料を消費し続ければ、資源の枯渇の前に地球の気象の変動が大き過ぎて、例えば農業や沿岸地域の都市環境が持続可能ではない(復旧できない程の甚大な)被害を蒙る事になると予測されます。

つまり、17個の開発ゴールは実はゴールなどではなく、今日からすぐにでも実行しなければならない項目達だと言うしかありません。私たちの一挙手一投足は、何らかの形で地球環境にキズを付けずには置かないでしょう。それは、私たちの生活スタイルそのものが、既に自然に同化したものではなく「人工的」なものになってしまっているからです。日の出と共に起き、日の入りと同時に寝るのではなく、私たちはすぐ照明やエアコンのスイッチを入れるでしょう。1時間以上歩いて移動することだって、日常生活ではもはや稀になっているでしょう。田舎でも都会でも同様に、ドアからドアへ、車や電車を使って移動する生活にすっかり慣れてしまっているのです。

持続可能性とは、結局先人たちが行って居た様な、自然のサイクルの中に組み込まれた生活に近づくか、という問に答え続ける事に相違ないのです。ひたすら歩き、少しの空き地があればそこで作物を育て、里山に分け入ってはその恵みをいただき、太陽と共に寝起きし、ひたすら歩くか自転車で移動し、それが手に入る場所では薪を割って風呂を沸かし・暖を取り、古い家や衣服をリフォームして使い続け、道具を良く手入れして長持ちさせ・修理を重ね、と言った生活スタイルに出来る限り速やかに移行しなければならないのです。

いわゆる、自然児という言葉があります。広い世界ですから、辺境の地では今でもこの様な生活を送っている地域や部族も多い筈です。彼らも、このままでは私たちの様な「文化的(=環境破壊的)」な生活に憧れて、その生活スタイルを変えてしまうかも知れません。そうなる前に、私たちは彼らから「持続的な生活スタイル」の一端でも学ばなければならないです。つまりそれは、私たちが、夏場の短時間のレジャーとしてのアウトドア生活で感ずる「不便を楽しむ」感覚を、日常にしなければならない事を意味します。

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2018年6月10日 (日)

3456 休題(平和ボケ)

この国の状況を一言で表すなら「平和ボケ」又は「経済ボケ」でしょうか。戦後長く続いた(勝ち取ったのではなく与えられた)平和の中で、外交・防衛はB国盲追、自分たちは経済活動に専念し、兎に角外貨を稼ぐ事にだけ努力を傾けてきたからです。朝鮮半島や東南アジアや中東での戦争・紛争でさえ、この国の経済発展を加速してきたのです。北の大国が崩壊するまでは、東西冷戦のバランスの中で、その後は宗教に絡むテロや北の隣国を仮想敵国としながら、B国お仕着せの武器を揃えながら、専守防衛や非核三原則などの御旗を掲げて、実際はB国の傘の下で専ら金儲けにまい進してきたのです。

しかし、外交方針がB国盲追だけでは他の国々との関係が上手く行く筈もありません。経済援助でお金をばら撒いた途上国はいざ知らず、いわゆる先進国からは少し(かなり)低く見られていた事は否めないでしょう。B国は、身勝手な国でもあり、自国に有利になる事なら、かなりアクドイ作戦も敢行します。例えば、ドルを守るためであれば、レートの切り下げ誘導や関税の上げ下げによる輸出入のコントロール等、時にはルールは自分が作ると言った態度で暴れ回るのです。この国が、どれだけその身勝手に泣かされ、資本を巻き上げられてきたか、少し経済史を振り返れば、投稿者の様な経済の門外漢にだって理解できるのです。

この国は、一日も早く戦後の幼稚園児(被占領国)状態から脱する必要があるでしょう。もしそんな事はない、と言い張る人が居るなら、歴代のリーダー達のB国参りを説明しなければならないでしょう。彼らが、B国参りの度に頭を撫でられ、B国製品(特にJ衛隊の武器)を買わされ続けて来たかを思い出さなければならないでしょう。私たちは、ノウテンキなこの平和ボケをどうにかして叩き直さなければならないのです。それが時期的にはやや遅きに失したにしてもです。

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2018年6月 7日 (木)

3455 休題(見ない事に)

休題が続きます。この国の人々に通底する性癖として日頃感ずる事があります。それは、3454で述べた(特に政治的)無関心です。つまり、自分の利害に直接的に関係する事柄には、当然の事ながら興味を示しますが、そうでないものには極端過ぎる程無関心かあるいは無関心を装うのです。それが、古の時代からの習い性なのか、或いは長年の鎖国の時代の遺物なのか、或いは民族性なのか、正確な事は分析はできませんが、間違いなくその傾向は指摘できるでしょう。

それがどこから来るものなのか、私たちはよくよく考えてみる必要があると思うのです。この国では、戦前は軍の支配のもと(もっと古くは封建支配者のもと)、戦後はいわゆるGHQの支配の下、私たちの行動や言論はコントロールされ続けても来ました。その中で、人々は目立たない様に振舞うには、マツリゴトに無関心になるか無関心を装うしかなかったのでしょう。しかし、最初は意識しての表面上の装いであったにしても、装うにもそれなりのストレスを感じた筈なのです。しかし、それが無意識の「習い性」となれば、人々はストレスも小さく暮らせるようになるのでしょう。

その意味で言えば、私たちの社会は、「国体論」で、S井も指摘する様に、古の頃から今も変わらずに、何らかの支配社会であるのかも知れません。S井は、国体論の中でこの国の国民を「気の狂った奴隷」とまで呼んで蔑みますが、声なき被支配者はやはり「奴隷」と呼ぶしかないのかも知れません。

この国は、戦後70年以上も経過しているとはいえ、今日に至ってもB国の呪縛の中で動かされているとしか思えない政治の局面を頻繁に目にします。例えば、この国のリーダーは、リーダーになった途端(間髪を入れず)に訪米している筈です。そこで、B国のリーダーとの会見で、見かけ上の、First name bassisで呼び合う事を確認してやっと、帰国してからのマツリゴトに安心して取り組める立場に納まるのです。もちろん、移民の国であるB国では、自己紹介の後は誰とでもFirst nameで呼び合う暗黙の前提なので、それが国のリーダー同士の関係であっても同じになるだけの単純な話なのですが、Sンタローなどと下の名前で呼ばれた瞬間に、この国の人達は、何か特別に親しくなった様な錯覚に陥る様なのです。

さて「見ない事に」です。特に戦後の人口ピラミッドのコブである、いわゆる団塊の世代は、生まれてから現在に至るまで、大勢の同世代の人達の中で、One of them.という立場に、あまりにも馴らされ過ぎたと言うしかないと思うのです。その世代を、すぐ後から追いかけてきた投稿者には、それが痛い程理解できるのです。しかし、この国で相変わらずのマンパワーを持つ世代は、このまま黙して時代から消える訳にはいかないとも思うのです。奴隷から脱するためにも、声を上げて行動を始めるしかないのです。

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2018年6月 4日 (月)

3454 休題(戦後民主主義)

3452の続きの様なものです。この国の政治スタイルである民主主義は、戦後民主主義あるいは「民主主義もどき」と呼ぶべきで、他国の民主主義とは一線を画するものであると言うしかありません。何より、政治に民意が反映されにくいシステムであると同時に、民意を表明する国民が少な過ぎる、即ちいずれの選挙結果を眺めても投票率が余りにも低いという際だった特徴があります。たった3割しか支持率を集めていない政党が、議席の2/3を獲得してしまうという選挙制度も問題ではありますが、支持する政党なし層が半分近くを占めているという事態もかなり異常でしょう。

それは、今の政治システムが、戦後の占領軍(=B国)によって「与えられた民主主義」に基づくものであり、その後も大きな見直しされる事無しに、シームレスに(つまりは無意識に)現在まで引き継がれており、しかも誰もそれを問題として糾弾しようとしない風潮が支配的だったからでしょう。つまり、外交はB国任せ、政治は政治、市民の生活は生活として、割り切って考えるという風潮が完全に定着してしまった様なのです。

それで何が問題かですが、例えばこの国でリーダーの所業が気に食わないとしても、国民には直接働きかける手段は持たされていないのです。国民は、議員を選ぶ権利はありますが、議員は政党という名のグループを作り、その中の最大グループが政治を牛耳る事になります。しかも、自分の考えにやや近い支持政党があったとしても、現在の選挙制度では、3割の支持率しかない政党でも、2/3の議席を獲得出来てしまうのです。少なくとも、国民が支持割合に近い数字で、各政党の議席が揃わない事には、より正しかろうマツリゴトには近づかない筈です。

私たちは、もっと政治に関心を持ち、戦後民主主義の欠陥を正すべく行動を起こさなければならないでしょう。もっとも悪い行動は政治に対する「無関心」である事は自明です。

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2018年6月 2日 (土)

3453 休題(同根)

これは「環境ブログ」ですので、それ以外の事を徒然に書く場合は「休題」と言うことになります。ここでは、一向に収束しない国会での「MKけ問題」と、一応収束した様に見えるひどい「レイトタックル=潰しタックル問題」に同じ根っこを見てしまった様な気がしたので、それを書き残しておきます。さて、両者に共通する根っことしては、「ルール違反」が挙げられるでしょう。行政が特定の事業者に便宜を図るのはアウトですし、ましてやそれに政治の圧力が掛かってはならないでしょう。また、単純なラフプレーなどではなく、明らかに相手の選手を潰す(痛める)ための、プレー外でひどいレイトタックルは、ルール違反の範疇を大きく超えているでしょう。

しかし、もしこれらのルール違反を素直に認め、事件直後に謝罪会見を開いていたら、問題はこんなにも拡大しなかった事は間違いないでしょう。当然の事ながら、事件を引き起こす根っこの部分に居た政治家や監督・コーチは引責辞任をするという前提にはなりますが・・・。しかし、両方のルール違反を起こした当事者は、違反を認めるどころか、逆に言い訳をし、更には証拠を隠そうとまで画策したのですから放ってはおけません。マスコミや世論が黙っている訳にはいかなくなって、国会やSNSが炎上してしまったのでした。つまり、もう一つの問題の根っこは、「言い訳」あるいは「誤魔化し」であるとも言えそうです。

起こしてしまった事件を元に戻す訳には行きませんが、火事(問題)の拡大を小さくするコツは「初期消火」しかない筈です。もちろん、火事を起こさない「防火」や「リスク管理」も必要ですが、自分の立場に甘んじているリーダー達は、残念ながら脇が甘くなっている様なのです。しかも、初期消火を怠ってグダグタと言い訳した結果、炎上しこれほど事件が長引いているのでしょう。もちろん、政治家がささやかとはいえ「口利き」が表面化した場合には、責任を取らなければなりませんが、もしごく初期の段階でそうしたならば、この国ではむしろ「潔い」として称賛される事はあっても、訴追される事はない筈なのです。言い訳をしながらの居座り(居直り)は、この国では最も忌嫌われる行動であると、全てのリーダーは思い至るべきでしょう。

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2018年6月 1日 (金)

3452 休題(戦後の総括)

S井の「国体論」を読んで、一番強く感じたのは、人口ピラミッドのまさに塊りである団塊世代が、自分達自身が生きてきた戦後の時代を振り返り、十分に反省しているとは言えないなあ、という感慨です。団塊世代は、殆どが社会の第一線は退いている筈ですが、人生の余暇を楽しむ事に熱中する前に、自分たちの生きざまを冷徹な目で総括する必要があると思うのです。平成も終わりに近づきつつある今、昭和は既に「歴史」になりつつありますが、当事者が自分達自身の仕業を公平に評価しにくいのは確かですが、それはそれとして評価するという努力は必要でしょう。

人は、過去を振り返っての評価・反省無しには、実は将来の展望も描けないのです。だからこそ、歴史学があり過去の出来事の評価を繰り返し行う意味があると思うのです。その意味で、S井の書は、近現代史を明治維新後から戦前と、終戦を「分水嶺」として、戦後の70余年を均等に眺め、明治維新以降の近代化の盛衰?と戦後の高度成長の盛衰に相似なるものを見出すという新しい視点の嚆矢となるものかも知れません。それは、比較的若い世代の論客としてのS井だから打ち出せた論点なのかも知れません。何故なら、いわゆる団塊世代の論客に、同様の視点を持ち込んだ人を、寡聞にして知らないからです。

さて、団塊直後世代としての投稿者は、比較的団塊世代の仕業を身近に眺めながらも、一歩引いた立場で眺めて来たと思ってはいます。その中で感じた事を少し述べるならば、一言で言えば彼らは「夢中になって」突っ走ってきた集団であったとなりそうです。夢中になってと言うことは、周りを眺めたり、立ち止まって足元を確認し考えたりするという行動を殆どしてこなかった、という事を意味します。それは、例えばキチガイじみた工業化の中で、一時は人の命に関わるレベルまで悪化させた環境(公害問題)もあるでしょうし、批評無しに希求したアメリカ的な「文化生活」を、車や電化製品などと言った商品で実現したつもりになっている点も同根でしょう。

もちろん、ここで簡単に結論を出せるような軽いタイトルでもありませんが、いずれにしても私たち(戦後世代)には、戦後の70年余りを総括し、その中から今後あるべき社会システムの修正版を編み出す必然性があると思うのです。この国のリーダーも、確かに戦後世代ではありますが、S井の指摘する様に、彼は間違いなく戦前にもあった「国体」という言葉に相似した「戦後レジューム」の網に捕らわれ続けている人物の一人と言えるでしょう。団塊世代は、その責任(総括と反省を元に、今後社会のあるべき方向を指し示す)を果たさずして、早々と余生を謳歌する生活に入るのは許されないと思うのです。

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