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2018年8月29日 (水)

3494 休題(脳と心)

環境題とは離れますが、これは自分自身の長年のテーマでもあります。何となく、脳は心の「座」である事は薄々感じてはいますが、では具体的にどの場所に、どの様な形で存在しているのかと問われれば、分からないと答えるしかありません。Y老孟司は、「唯脳論」の中で、形のある脳は「構造」で形の無い心はそこで働く「機能」であると説明しましたが、これでも何となく分かった様で、やはり判然とはしませんでした。

しかし、最近読んだM野隆司の「脳は何故心を作ったのか」で、完ぺきではありませんがかなりの程度納得できました。彼は、脳の機能をたくさんの小人(機能ユニット)の集まりとして説明しようと試みました。例えば、脳の中にはリンゴを赤いと認識するユニット、リンゴを丸いと感ずるユニット、リンゴを甘酸っぱいと感ずるユニットなどが存在し、全体として脳はリンゴを認識できるわkです。問題は、それら多くの小人を統率する「指揮者」が居るのかどうかですが、彼はそんなものは居ないと断言します。つまり、小人たちは勝手に蠢き、多数決で時々の機能を発揮すると主張するのです。これはある意味で非常に分かり易い説明だと言えます。つまり、私=私の脳が、リンゴを食べたいと欲した時、ミカンや梨やリンゴの入った籠の中から、視覚ユニットを駆使して、赤くて丸いリンゴを選び取ります。然る後に、それを口に運んで噛み砕き甘酸っぱい味を、味覚ユニットが感じ取ります。その時点では、既に視覚ユニットは活動を停止している訳です。

M野は、「私」の心を、それらのユニットをコントロールしている指揮者ではなく、それを眺めている「観察者」として位置づけているのです。観察者ですから、心は事態の成り行きに任せるしかなす術は無いのです。リンゴを食べたいと欲したのは、喉が渇いて、果物を食べたいと感じた小人と、過去にリンゴを食べて上手いと感じていた小人が、相談して多数決でリンゴを手に取るという行動に出たのであって、観察者である「私」は、単にそれを彼らの多数決の成り行きに任せただけ、とも言えるでしょう。

その考え方を認めると考えると、私=私の心は非常に気楽になれそうです。小人たちは、これまでの経験を元に、多数決の方向を決めるでしょうから、その成り行きに任せるという事は、自分のこれまでの経験則の方向に従って行動する事を意味します。つまり、自分の行動=自分の小人(脳ユニット)達の総意である訳です。もちろん、観察者の強い意志によって、小人たちの総意を変える可能性はありそうに思えます。ただし、その事自体も単に観察者=私にとって都合の良い小人のグループをえこひいきする事に近い様な気もするのです。たぶん続きます。

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