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2018年8月31日 (金)

3496 7世代後の幸福

同じ様な表題で以前にも書いた様な気もしますが、なにしろ10年以上も続けて投稿していますので、繰り返しになるかも知れませんが、近年の自己チュー人間に警鐘を鳴らす意味で、書いておきます。これは多分、何かの本に書かれていたアメリカ原住民(Native Ameriacan)の話だった様に記憶しています。それによると、彼らが部族として何か重要な決め事が必要になった際には、部族の長が決める訳ではなく、かといって多数決に頼るのでも無いそうなのです。

彼らの決め方は、その決議が「果たして7世代後の子孫の幸福につながるか?」という問に、Yesでなければならないというものだと言うのです。それは、自分達世代の幸福を横に置いといて、子孫の、それもまだ見ぬずっと先の子孫の幸福を優先させるというのが彼ら部族の方針だという事なのです。これは、自己チュー世代が蔓延している現代社会に警鐘を鳴らす行動だと言えるでしょう。現代社会は、自己チュー社会と言うよりはむしろカネチュー社会だとも言えるかも知れません。現代は、経済(お金)中心で社会が回っていると感ずる場面も、実際にも報道などでも多く見聞きするところです。政治屋はと言えば、出来るだけ長く椅子に座り続け、憲法を改正して「歴史に名を残そう」などという「さもしい」自己チュー目標を掲げ、その他の重要課題(例えば、原発の廃炉問題や国の赤字体質や拉致問題や新産業興しなど)を塩漬けのままに先送りしてしまうのです。おっと、このブログではご法度の批判になりつつあります。

そうではなくて、私たちは借金や問題を子孫に先送りしてはならないのです。我々世代で起こした問題は、我々世代が生きている内に解決する努力をしなければ、後の世代から激しい「無責任の誹り」を受けてしまうでしょう。赤字が拡大している家計で、景気を良くするためとはいえ、更に出費を増やす事はしないでしょう。赤字の解消は、先ずは財布の紐を締める事から始めるしかないのです。政治屋の数を減らし、官公庁が率先して支出を減らす努力を見せれば、国民も少し重い税負担にも耐える姿勢を見せる筈なのです。税金を取り易いところから徴収し、一方では財布の紐の緩め続けて、財政赤字を垂れ流す現世代の行動が、7世代後の子孫を幸福にするなどとは、絶対に想像できないでしょう。

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2018年8月30日 (木)

3495 脳と心2

3494の続きの様なものです。脳は、情報処理装置である事は疑いがないのですが、進化の過程で心を持ってしまったのは、考えてみれば不思議でもあります。もし生き物としてのヒトが、お腹がすいたらエサを食べ、危険が近づいたら戦うかあるいはサッサと逃げてしまう、或いは何もしないでじっと耐えるだけを判断するのであれば、いわゆる脳の自動制御系か「反射行動」に任せておけば十分なので、心などは不必要でしょう。

しかし、生き物としてのヒトは、ある時期以降心を持ってしまい、結果「人間」に進化してきたのでした。ヒトと人間の違いは、ヒトは生物としての定義であるのに対し、人間とは社会的存在としての定義になるという点でしょう。たぶん人が他の人々との「間」で暮らすから「人間」という言葉が生まれたのでしょうか。人が他人と群れて暮らすためには、他の人の行動に注目し、良い行動をしていれば好きになったり真似たりし、悪い行動なら忌避し、或いはそれに反発し、排除しなければならないでしょう。その中間なら、あまりストレス無く行動を共に出来るかも知れません。

いずれにしても、ヒトが単独ではなく、他の人々と群れて暮らすためには、単なるOnOffあるいはYes or Noのフラグだけの単純な制御系では立ち行かなくなるのは目に見えています。それを調整するために、心があるいは言葉が(たぶん同時に)生まれ、不文律というオキテや明文化された法律も整備されていった筈なのです。つまり、脳の中に生れた心とは、取り得る値がOn(1)かOff(ゼロ)かのフリップフロップ回路ではなく、その間の限りないグラデーション値を選び取るためのアナログ性にあると思うのです。ある人やその人の行動が、好きか嫌いかではなく、何がどの程度好きで、逆に別のどの点がどの程度嫌いかを決める役目が心にはあると思うのです。

その結果、好きと嫌い、或いは正義と悪が同居する事にもつながり、人の心には「悩み」が生ずるのでしょう。心はアナログ性があると上に書きましたが、しかし脳の個々のシナプスはフリップフロップ回路である事の事実なので、最終的にはどちらかに決めなければならないのもまた間違いないのです。悩んで悩んで、最後には自分がどう判断するか(行動するか)決めなければならないのが心の役割であるとも言えそうです。

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2018年8月29日 (水)

3494 休題(脳と心)

環境題とは離れますが、これは自分自身の長年のテーマでもあります。何となく、脳は心の「座」である事は薄々感じてはいますが、では具体的にどの場所に、どの様な形で存在しているのかと問われれば、分からないと答えるしかありません。Y老孟司は、「唯脳論」の中で、形のある脳は「構造」で形の無い心はそこで働く「機能」であると説明しましたが、これでも何となく分かった様で、やはり判然とはしませんでした。

しかし、最近読んだM野隆司の「脳は何故心を作ったのか」で、完ぺきではありませんがかなりの程度納得できました。彼は、脳の機能をたくさんの小人(機能ユニット)の集まりとして説明しようと試みました。例えば、脳の中にはリンゴを赤いと認識するユニット、リンゴを丸いと感ずるユニット、リンゴを甘酸っぱいと感ずるユニットなどが存在し、全体として脳はリンゴを認識できるわkです。問題は、それら多くの小人を統率する「指揮者」が居るのかどうかですが、彼はそんなものは居ないと断言します。つまり、小人たちは勝手に蠢き、多数決で時々の機能を発揮すると主張するのです。これはある意味で非常に分かり易い説明だと言えます。つまり、私=私の脳が、リンゴを食べたいと欲した時、ミカンや梨やリンゴの入った籠の中から、視覚ユニットを駆使して、赤くて丸いリンゴを選び取ります。然る後に、それを口に運んで噛み砕き甘酸っぱい味を、味覚ユニットが感じ取ります。その時点では、既に視覚ユニットは活動を停止している訳です。

M野は、「私」の心を、それらのユニットをコントロールしている指揮者ではなく、それを眺めている「観察者」として位置づけているのです。観察者ですから、心は事態の成り行きに任せるしかなす術は無いのです。リンゴを食べたいと欲したのは、喉が渇いて、果物を食べたいと感じた小人と、過去にリンゴを食べて上手いと感じていた小人が、相談して多数決でリンゴを手に取るという行動に出たのであって、観察者である「私」は、単にそれを彼らの多数決の成り行きに任せただけ、とも言えるでしょう。

その考え方を認めると考えると、私=私の心は非常に気楽になれそうです。小人たちは、これまでの経験を元に、多数決の方向を決めるでしょうから、その成り行きに任せるという事は、自分のこれまでの経験則の方向に従って行動する事を意味します。つまり、自分の行動=自分の小人(脳ユニット)達の総意である訳です。もちろん、観察者の強い意志によって、小人たちの総意を変える可能性はありそうに思えます。ただし、その事自体も単に観察者=私にとって都合の良い小人のグループをえこひいきする事に近い様な気もするのです。たぶん続きます。

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2018年8月28日 (火)

3493 二季?

幸いな事に、この国には四季というものがあります。南の方の地域には、雨季と乾季しかない国々も多い事を考えると、やはりラッキーです。四季は、当然の事ながら23.5度という地軸の傾きと、地球の公転によって生まれますが、その天体としての動きに加えて、海洋や大気の動き、更にはそこに生きる生物などの活動が入り混じった全体的な結果だと言えるのです。

天体の動きだけを考えれば、夏至の時期が最も暑く、冬至が最も寒い筈なのですが、実際はそうはなっていません。実際には、6月下旬ではなく、7月末か8月初めに暑さのピークが来ますし、寒さのピークは12月末ではなく1月下旬か2月初めになっています。それは、地球の大地や海洋が暖まり、或いは冷えるのに時間が掛かる(時間遅れがある)事に加え、夏場の植物やプランクトンの活動、氷雪や雲による太陽光の反射率(アルベド)の変化なども絡んでくる訳です。この国の四季がはっきりしているのは、これに加えて極気団を取り巻く偏西風(ジェット気流)の存在も大きく関わっているのです。ジェット気流は、寒気を縛る鉢巻きの様なもので、それより北(南半球では南)では、冷涼で乾燥した大気が気候を支配し、それより赤道に近い地域では暑く湿潤な気候が支配しているからです。季節によって、極気団は増大したり、後退したりを繰り返しますが、それが中緯度地方にあるこの国を跨いで南北に移動するために、夏と秋、或いは冬と春の境目が明瞭に感じられるのです。

しかしながら、近年は特にこの国の南側ではさながら熱帯の様に、暑い夏と冬の「二季」に近い状況が観測されつつあります。つまり、例えば夏が5月頃から10月頃まで続き、11月頃に突然寒さがやってくる様な極端な気候です。冬はそれなりに寒いのですが、春が短くあっという間に暑さがやってくる気候サイクルになってきた様なのです。これは、ジェット気流の位置で言えば、春秋にこの国の上に居座る期間が非常に短くなってしまった事を意味します。これは、森林面積の縮小や海洋温度の上昇傾向、何よりいわゆる「温暖化」傾向が大きく関与している事は疑いないでしょう。

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2018年8月26日 (日)

3492 チベット高気圧と太平洋高気圧

今年の夏の気圧配置の特徴として、「チベット高気圧と太平洋高気圧の重なり」が指摘できそうです。本来、大陸性の高気圧は寒冷な極地方や高山帯に生ずる下降気流によって形成され、一方太平洋高気圧は、夏季に相対的な温度差によって海洋に生じた弱い下降気流によって蓄積された気団であると言えます。本来、異質な2つの気団が重なるとはどういう意味を持つかを考えてみると、鍵はその高さにあると言えそうです。

つまり、チベット高原に発する高気圧、本来背が高く、一方で海洋に生れた高気圧は、比較的背が低い筈なのです。従って、両者は性質も異なり、高度も異なるので、重なったとしても長続きはしないで、別々の動きをしていたのでした。しかし、今年はそれらがくっついて、長く繋がり合っていたため、晴天が多く強い日射と相俟って南からの暖気を引き上げ続け、或いは熱帯低気圧の北上をブロックし続けた結果、酷暑で変化球台風を生み出していた様なのです。高気圧(低気圧も同じですが)、気圧さえ同等であれば、お互いにくっついて繋がってしまうのは、致し方ないのですが、気温や湿度が異なる高気圧の場合、大気が不安定になり易く、例えば背の高い積乱雲が発生し、結果豪雨や突風や竜巻やヒョウといった、過激な気象現象も起こり易くなるのです。

さて、問題はこれがこの夏だけの一過性の現象なのか、或いは今後も同様の傾向が続くのかですが、特に夏場の偏西風の弱体化は今後とも大きくは変らないと言われていますので、残念ながら今年の異常気象は、今後は「例年並み」になりそうだと思われます。これは、一にも二にも、北極海の温暖化(夏場の浮氷消失)により、中緯度地域との温度差が小さくなっていく事と密接に関連しているのでしょうから、今の異常気象もやがては平年並みと呼ばれる様にならざるを得ないのです。

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2018年8月18日 (土)

3491 旱魃と豪雨2

旱魃はさておき、豪雨に関しては地上の天気図だけを見ていても、その原因は分かりにくいものです。地上の気圧配置と併せて参照しなければならないのは上空の寒気です。寒気は、極地方に蓄積されていて、その縁を回るジェット気流によって「縛られて」いるのが状態ですが、そのジェット気流は、極気団から吹き出した寒気が、コリオリの力で押し曲げられて北半球では強い西風になるものです。従って、極地方の気温が上がって、中緯度地域との温度差が小さくなると、寒気の吹き出しやジェット気流も弱くなり、結果としてジェット気流の蛇行が起こり易くなるのです。つまり、寒気団を真上から見ると、円に近かった筈の気団が、さながら「クローバーの葉」の様に、3つまたは4つ程度に歪んでくるのです。この結果、突き出した葉の部分が回ってきた地域では寒気が南下しやすくなって、寒冷化や気候の急変(雷雨や豪雨や竜巻など)が生じ易くなり、逆に葉と葉の間の温暖域に入ると、南から暖気が上がってきて、湿気の多い熱波や旱魃が発生する事になるのです。

注意したいのは、この寒気のクローバーの葉は、極から見れば反時計回りにゆっくり移動するのですが、その回転スピードが数か月サイクルという長い周期を持っているという点です。これを利用して、長期の気象予報も行われる訳なのですが、一方でこれが猛暑や寒気の影響が長い期間に亘って続く原因ともなるのです。この夏の猛暑も、既に2か月に及ぼうとしていますが、9月も気温が高い予報となっているので、結局3か月程度持続した事になりそうなのです。極気団が円形ではなくクローバー型に歪む傾向は、既に20世紀後半には時々現れてはいたのですが、近年その頻度や歪みの程度がひどくなっている事は間違いありません。私たちは、今後ともこの激しすぎる気象と付き合って行かなくてはならないのです。残念ながら。

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2018年8月16日 (木)

3490 旱魃と豪雨

ある地域では旱魃で水不足、一方別の地域では、短時間豪雨による水害や土砂崩れなど、最近の気象は極端に走る傾向がありそうです。その原因を少し考えてみると、どうやらコリオリの力によるものの様な気がしています。地球の自転により生じ、流れに渦が生ずる原因がコリオリの力なのですが、台風の衛星画像を見ても気付く様に、それを取り巻く雲は、決して一様ではありません。筋状の雲が螺旋を描きながら、台風の周りに集まっている様に見えます。

これは、どうやら降水をともなう場合、大気中の水分が偏在し易い事を示している様な気がします。つまり、降雨とは雨粒の核になるエアロゾルに周りの過冷却した水分がくっつき、大きく膨らむ結果、上昇気流が支えきれなくなったサイズの水滴が落下してくるものですが、当然の事ながら雨粒を送り出したエリアの大気の「絶対的湿度」は下がります、しかし大気はコリオリの力によって旋回していますから、雲が描く形は筋状の雲の螺旋になる訳です。その螺旋に水分を供給するのは、海洋性の暖かい高気圧の縁を回る南寄りの風や、熱帯で水分を抱えて北上してきた熱低や台風である事は論を待ちません。

近年の温暖化傾向は、低気圧や高気圧のあり様にも変化をもたらし、より上昇気流の強い低気圧や、より温度の高い海洋性高気圧などを生み出してもいます。結果として、筋状(線状)になった雨雲に襲われた地域では豪雨に見舞われ、それが外れた地域では雨不足に陥る訳です。夏場は偏西風が弱いので、同じ気圧配置が続く時間が長い事もあって、各地で豪雨被害が続出する結果になるのでしょう。

ちなみに、線状の雨雲(線状降雨帯)が、川の流れと重なった時が最も注意を要する状況です。それは、川の上流から下流に至るまで雨が集中して川に大量の水を流し込む事を意味するからです。もちろん、一時的で大量の降雨は、脆い地盤を流動化させるでしょうし、洪水に加えての土砂崩れ被害も頻発する事になります。広島など西日本の豪雨被害や鬼怒川が氾濫した時などがまさにその状況に一致するのです。私たちは、この旱魃と豪雨の繰り返しにも対応できる、社会インフラのあり方を指向して行かなければならないのでしょう。例えば、被害が想定される短時間降雨量は、もはや多くの自治体が採用している50/時では不十分で、少なくとも100/時で考えて、それに耐え得るインフラとする必要があると思うのです。

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2018年8月13日 (月)

3489 休題(遠征雑感)

仕事出張のついでの、栃木・群馬の山遠征で感じた事を少しまとめてみます。今回、栃木の男体山から始めた遠征では、改めてこの国の山々が、激しい火山活動で形造られてきたことを強く感じました。コニーデ型の男体山と、火山活動の結果谷がせき止められて中禅寺湖が出来、華厳の滝が現れた古代の激しい景色を想像すると、ある種の感慨を禁じ得ません。引き続き登った、奥白根山でもやはり粘性の高い溶岩で出来たと思しきドーム型の山頂とそこに出来た爆裂の跡は印象的なものでした。

一方で、今回最後に登った至仏山では、山が出来てからそれが自然の中に同化していった姿を見る様で、尾瀬ヶ原と共に植物・動物が、岩だらけの自然に入り込んで行った様子が興味深かったです。最初は胞子で増えるコケ類やシダ類が、次いで鳥たちが種子を運んでくれた高山に適応できた植物たちが根を張り、やがてそこに昆虫や小動物が暮らす様になったのでしょう。そこに、何万年の月日が流れたのかは知りませんが、いずれにしてもヒトの歴史よりは十分に長い期間である事は間違いありません。

高い山々は、冬に深い雪を戴き、それが水源となって作物が水を必要とする初夏まで里に水を供給し続けます。しかし、近年の極端な降り方をする雨は、それらの雪(雪渓)を急激に減らし、山間の棚田でも渇水の危機に瀕する事も多い様なのです。やはり、地球全体の気温が上昇した結果、大気中の「絶対的な湿度」が上昇した事にその原因があると見るしか無さそうです。遠征の途中に出会う、道路脇の小規模な沢の崩落を目にするにつけ、ちっぽけな人間に何が出来るのだろう、と考え込んでしまいます。

雄大な自然に分け入るという事は、改めて自分の(人間の)ちっぽけさを実感する体験でもあります。大自然の大きさと、それを形成した悠久の時間に比べ、人間の非力な事と、長くても百年弱の人生を比べてみる時、人間はもっと謙虚に、自然に同化する形で暮らさなければ、と改めて感じた短い遠征でした。

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2018年8月 1日 (水)

3488 遠征休稿

明日(8/2)から仕事と引き続きの登山遠征のため、1週間以上休稿の予定です。

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