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2018年11月29日 (木)

3532 SDGs10:人や国の不平等をなくそう

この目標(ゴール)達成が一番難しそうな感じがします。というのも、この世の中や地球上にはありとあらゆる不平等が渦巻いているからです。その不平等は、地政学的な差から出てくるものや宗教、人種に起因するもの、性差によるもの、学歴や家柄によるものなどなど、不平等のタネは尽きません。例えば、生まれついての家柄の善し悪し(特に裕福な家か否か)によって、受ける教育にもおのずから差がついてしまいますし、同程度の家柄同士のカップルも生れ易いでしょうから、家柄の差の連鎖は世代を超えて継続するでしょう。

国の差は決定的とも言えるでしょう。つまり、工業化が進んだ持てる国と、農産物やや鉱物資源の草刈り場になっていて、持たざる国と呼ばれる国の間の格差は、むしろ年々広がっても要るからです。その差を埋めて平等を目指すのは、至難のワザではないでしょう。持てる国々は、持たざる国々から買う農産物や資源を今の何倍かに値上げする必要があるでしょうし、そうなると工業製品のコストが跳ね上がり、売れなくなってしまうでしょう。そうなると、モノが売れなくなり世界同時多発の不況が勃発してします事でしょう。

それを防ぐアプローチは多分たった一つでしょう。それは、誰もが気が付かない程度のジリジリとしたスピードで不平等を正す方向に、特にお金を動かす事です。もちろん、誰かがこれを「さあやるぞ」と叫んだ途端に、世界の経済は身構えて、その対策を打ち始めますので、その効果は消されてしまうでしょう。そうでなくて、誰もが気が付かない様な静かなアプローチでなければならないのです。例えば、ありとあやゆる取引の際に、誰もが気が付かない程度に(例えば日本円で言えば銭の単位で)お金を、富める者から貧しい者へのシフトを行うのです。しかし、塵も積もれば山となるので、無数の取引によって、徐々にですが確かに不平等が是正される方向に向かうでしょう。いわば、誰もが気が付かない自動的な富裕税の様なものです。これは、「有益な?」コンピュータウイルスの様に、あらゆる電子取引システムに潜り込ませる必要があるでしょう。全く無責任な予想ですが、電子取引が取引の大部分を占める様になった現代社会では、ホワイトハッカーが力を合せれば、たぶん実現可能となる企みだと見ています。 明日から出張のためしばらく休稿です。

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2018年11月26日 (月)

3531 SDGs9:産業と技術革新の基盤をつくろう

このタイトルに関しては、ややネガティブなコメントにならざるを得ません。と言うのも、何か技術革新さえすれば、自動的に産業が興り、世の中の景気が良くなり、全て丸く収まるといった様な風潮が見えるからです。さながら、技術革新こそが社会共通の目的でしかないと言い切っている様にも見えるのです。このブログでも繰り返し書いていますが、あくまでも目的(ゴール)とそれを実現するための手段としての技術革新は分けて考える必要があると思うのです。

従って、この表題を注釈無しにSDGsの目的(ゴール)とするのは間違いだと言うしかないのです。例えば、IoTやAIに用いるビックデータにしても、それをどの様な目的(ゴール)に向かって使うのかがはっきりしないまま、技術やデータ収集だけが先行する事には強い違和感があるのです。革新的技術も膨大なデータも、単なる技術やデータに過ぎず、それをどの様に使うかによって、良い技術やデータにもなるでしょうし、使い方を間違えると悪い(危険な)技術やデータにもなり得るからです。つまり、本稿のタイトルを生かそうとするならば、私たちは先ずは目的(ゴール)をもっと明確にすべきなのです。その上で、技術革新をそのための手段として位置づけし直す必要があるでしょう。

では、どの様なものが目的(ゴール)になり得るのでしょうか。例えば、IoTやAIやGPS技術やセンシング技術などを駆使した自動運転車の実用化が目的(ゴール)になり得るかを考えてみましょう。もしそれが、全ての人が享受できるものであり、かつそれが100年後のまだ見ぬ子孫の幸福につながり、かつそれが「持続可能」なものであれば、たぶんGO技術でしょう。そもそも、主に20世紀の技術であった車そのものが、果たして22世紀まで「持つ」技術であるかどうかの吟味は、まだ殆ど議論されていない様な気がするのです。その一方で、やれ空飛ぶタクシーだとか、ドローン配送だとかの技術だけが先走って勝手に踊っているとしか見えないのです。

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2018年11月25日 (日)

3530 SDGs8:働き甲斐も経済成長も

残念ながら、働き甲斐と経済成長を両立するのは無理だと投稿者は感じています。何故なら、経済成長は間違いなく地球環境を悪化させる事が明らかだからです。この地球の富の殆どは、地下から資源を掘り出す事によって増加してきました。鉄などの鉱物、石炭・石油や天然ガスを掘り出す毎にそれに代価を支払う人(国)があって、GDPとして計上される訳です。それらの資源を使って作った工業製品が更に付加価値を積み上げて、工業国のGDPの元になっているという構図になっているのです。

従って、経済成長を促す事は、今より急なピッチで地下資源を掘り出す事の背中を押す事につながるのです。もちろん、経済成長の基盤を再生可能型資源やエネルギーに置けば良いのでは、という議論に持ち込もうとする人も要るのでしょう。しかし、現在の規模のエネルギー消費や工業生産を、再生可能型の資源だけで賄えると本気で思っている識者は存在しない筈なのです。何故なら、例えばバイオマスエネルギーを得るために、世界中の樹木を伐採しても、化石燃料の消費量には届かないでしょうし、もしそうしたにしても、全く持続可能ではない事は明らかでしょう。

その前提に立つと、私たちが指向しなければならない社会は、結局経済規模を徐々に縮小しながら、しかし人々の生活の質や働き甲斐を高める事しか考えられないのです。そのために考えるべきは、スモールビジネスでしょうか。大企業による、大量生産・大量消費の時代は間違いなく過ぎようとしていると思うのです。そうではなくて、個々の人々が日々の糧を得るために、小さな規模で事業を営み、しかし生き甲斐を感じながら暮らす仕組みは、知恵を絞れば実現できる筈なのです。それらのビジネスは、原料やエネルギーを地産地消に頼り、大規模な工場設備ではなく、道具や人力にベースを置くものになる筈です。一人当たりの「見かけ上」の生産性は低下し。GDPも下がるのは間違いないでしょう。しかし、人々の働き甲斐は飛躍的に向上する事は疑いないところでしょう。SDGs8個めのゴールは、経済成長は諦めて、生き甲斐の向上にこそ集中すべきだと思うのです。

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2018年11月24日 (土)

3529 SDGs7:エネルギーを皆に そしてクリーンに

これからのエネルギーを考える時に、キーワードとなるのは多分「ローカルエネルギー」となると思っています。ローカルエネルギーの対極にあるのは、極端に偏在している化石エネルギーでしょう。石油や天然ガスが出るのは、中東やRシアやアフリカや南北アメリカ大陸に加え東南アジアの一部などです。化石エネルギーの偏在こそが、第二次世界大戦勃発の背景にあったのでしょうし、現在でも地政学的な不安定の主原因ともなっている筈です。

一方、ローカルエネルギーの源は、それぞれの地域に分散して所在しますので、その所有権を巡って国々が争う心配もないのです。しかしながら、点火すれば直ちに燃焼し、または爆発的に燃焼する化石エネルギーとは異なり、ローカルエネルギー≒再生可能エネルギーは、エネルギー密度が小さい故の使いにくさがあり、利用に当たっては大いに工夫が求められる事になるのです。

例えば、風力エネルギーを例に引いてみましょう。風は、年間を通じてコンスタントに吹く北海沿岸地方の様にラッキーな場所は少なく、特に内陸部では殆ど役に立たないエネルギー源だと言うしか無さそうです。しかし、間欠的動けば良い目的、例えば揚水して、その水を蓄えておく場合などでは、たまにしか吹かない風だって利用は可能でしょう。太陽光も南北地域での偏在はありますが、極地方だって夏場は長時間の日射を享受できますので、南北で必ずしも極端に不公正という訳ではありません。とは言いながら、夜間や曇りや雨の日には、太陽光エネルギーは期待できませんから、そこに工夫する余地が大いにあるのです。

結論から言えば、必要な工夫の第一に挙げなければならないのは、「蓄エネルギー」システムでしょうか。電力で言えば蓄電池、熱利用であれば蓄熱、運動エネルギーであればフライホイールの様な仕組みの事です。残念な事ですが、化石エネルギーの価格レベルが低過ぎるが故に、蓄エネルギー技術を磨くインセンティブが高まらないのです。投稿者としては、化石エネルギーがジワジワと今の倍くらいに値上がりする事を期待しているのです。投稿者の様に古い人間は、前のオイルショックの跡に、再瀬可能型エネルギーの利用が、雨後のタケノコの如くに隆盛したのを思い出します。ローカルエネルギーは、間違いなくよりクリーンなエネルギーでもあるのです。

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2018年11月23日 (金)

3528 SDGs6:安全な水とトイレを世界中に

水分が2/3を占めるヒトの体には水が不可欠です。それも汚染や細菌フリーの清浄な水が必要です。水資源に恵まれているこの国では、上水道も完備されており、日常上水の供給を心配している人は殆どいませんが、災害や今般の橋梁破損事故などで上水道の供給を断たれた時、私たちは改めて水の重要性を意識せざるを得なくなります。基本的には多雨地帯であるこの国ですが、もしダムなどの貯水施設が無ければ山に降った水は数日で海に流れ下る筈です。もちろん、保水はダムだけに頼っている訳ではありません。山を覆う森林が作った臨床のフカフカの腐葉土が、水を抱え、それをジワジワと滴下させる事によって渓流の流れが保たれ、穏やかにダムに水を補給している事は忘れるべきではないでしょう。

渇水に悩んでいる多くの国々に不足しているのは、実はこの森林面積比である事は意外に重視されていない様なのです。森林の働きとしては水を抱える以外に、雲を呼び降雨をもらたすのです。森林が無い乾燥地域は、地球上の何処であれ「砂漠」と呼ぶしかありません。砂漠は雲を遠ざけ、今後も永久に砂漠であり続けるしかないのです。中緯度の砂漠は、実は人間によって作り出されたケースも多い筈です。開拓という名の森林伐採で、B国や中東や南米やアフリカで砂漠化が激しく進行しています。最悪のケースは、森林に火を放ち、その後の数年は焼き畑農業が出来ますが、やがて地力を失った耕地は放置され、それがやがて砂漠化するというパターンでしょう。G-グルアースで見る衛星写真で、それらの乱開発の詰め跡が生々しく確認できるでしょう。乱開発が砂漠化を引き起こし、その砂漠が周囲の砂漠化を促進するという、まさに砂漠化の悪循環が起こるのです。

そうではなくて、水を確保するためにダムを数多く作るのは間違ったアプローチであり、先ずは砂漠を草地に戻し、更にそこに木を植えて、緑化を推進すべきなのです。緑化は、その地域のアルベド(太陽光反射率)を変え、雲を呼び、やがて雨をより多く降らせるのです。乱開発は、そこから収入も得られるので、政府が許可さえ出せば自動的に進行するのでしょうが、それを逆回しする「緑化のサイクル」は、開発の何十倍もの努力が必要であることは政府も含め、改めて皆が認識しなければならないでしょう。

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2018年11月22日 (木)

3527 SDGs5:ジェンダー平等の実現

ジェンダーに関しては、以前から感じている事があります。それは、男と女という二つの性の間には、限りないグラデーションが存在するのではないかという仮説です。男らしい男から、女らしい女の間には、やさしい男や女性的な男、或いはさっぱりとした男前の女や激しい闘争心を持った女など、種々のジェンダー色のグラデーションがあると考える事も可能でしょう。一つの事実として、第二次世界大戦の末期、ドイツの空爆が過酷になった時期、その時妊娠していた女性から生れた子に、有意にホモセクシャルの男性が多いというのはよく知られた事実です。つまり、妊婦に降りかかった空爆による極度のストレスが、ホルモンバランスを崩して、結果としては女性的な男子が生まれる結果を招いた可能性が指摘されているのです。

たぶん生まれついての傾向が強いと思われる、いわゆるLGBTの人達が差別を受ける所以は絶対に無い筈です。私たちが住むこの地球は、多くの(又は全ての事象に亘って)グラデーションに満ち溢れているのです。虹は決して7色ではなく、虹の各色の間に境界線など引けないでしょう。同様に、人間は都市を作り、自然と隔絶された人工的なエリアを築きましたが、そのエリアからは徹底して「天然自然」を排除してきたのです。山を削り、谷を埋め、木を切り倒し、草原は畑や住宅地変え、川を削って真っ直ぐに直したのです。この様ないわゆる「二分法」が、強いストレスや多くの問題を生んでしまっている事に気付いている人は少ない様です。例えば、イジメです。その根っこは、自分達のグループとそれ以外という二分法にあると思うのです。

ジェンダー平等を掲げるのであれば、先ずは(ジェンダーを含む)天然事象の前提であるグラデーションこそが自然であり、人工的な二分法こそが諸悪の根源であると言っておきます。

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2018年11月21日 (水)

3526 SDGs4:質の高い教育を皆に

常々教育を小中高や大学での「座学」に還元するのは間違いだと感じています。つまり、本や教科書の「知識」を詰め込んでも、若者が人生を上手く生き抜けるかは甚だ疑問である事は明らかです。上手く生きていくためには、知識の他に状況の変化に対応する知恵や、知恵を行動や形にするためのワザだって必要な筈なのです。知識だけを詰め込んで、他人と上手く付き合うための「形だけのコミュニケーション能力」を教え込んだとしても、果たして彼らが上手く世間を渡って行けるかを保証出来ないでしょう。学校で教える見かけのコミュニケーション能力だけで上手く行かない事は、イジメのタネが尽きない事でも明らかでしょう。

それは、人と渡り合うための知恵を身に付けさせていないのと、場合によってはそれが苦手な人は、それとして例えばワザで生きていく「職人」や自然が相手の「農林水産業」だって立派な生き方だと教える事も出来る筈なのです。ITOAAIの知識をいくら詰め込んでも、それで自動的にモノが作れる訳ではないでしょう。それらは、ビジネスやモノ造りの効率を上げるための補助的手段ではあるのでしょうが、主役ではありません。工場では、主役は設備であり、それを作りオペレートする人である訳です。全てのビジネスは、もちろん人が相手ですから、主役は当然の事ながら人でなければ務まらないでしょう。

従って、質が高い教育の大前提としては、より質の良い社会を築いていくために資するもの、という事が前面に押し出されなければならないのです。この時代、実はどの様な社会がより質が高いかという基本的な議論が横に置かれているのは残念至極というしかありません。何か、景気が良くなって皆が、潤沢にモノが流通しさえすればそれでヨシという風潮が蔓延してしまっている様なのです。それは、単なる物欲=消費行動ありきの拝金主義に他なりません。

そうではなくて、質の高い教育の目指すものとは、質の高い社会を実現するための、「実学」でなくてはならないのです。単に、IT教育やコンピュータ教育だけが質の高い教育などと吹聴し、社会全体をそれに染めるのは、明らかに間違いだと断ずるしかありません。

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2018年11月17日 (土)

3525 SDGs3:全ての人に健康と福祉を

実は、SDGsについてはこれまでも書いてきました。つい最近も書いた事を忘れて、また書いている様な気もしますが、書くたびに違う角度で書いているつもりなので、まあ良いでしょう。今回は、健康について考えてみます。人が病気になるのは、遺伝的なものを除けば、病原菌など外的な要因で発病する場合と、不摂生に起因するいわゆる生活習慣病的なもの、あるいは複合的なものもあり得るでしょう。しかし、運動をしない事による不活発病は、不摂生の中でも注意しなければならない悪習慣でしょう。

人が寝たきりになるのは、例えば骨折などで動けなくなった結果、床につきそのまま動けなくなってしまうケースが殆どではないかと想像しています。老人がどんなに歳を重ねたとしても、死ぬ間際まで、自分で歩き、摂食をし、排泄できる能力は維持する様に、社会全体の目標としなければならないでしょう。もし、老人を例えば数週間でも寝たきりにすると、筋力はドンドン衰え、重力から解放された骨格は、あっという間にスカスカになってしまうでしょう。ロコモティブ・シンドロームです。動けなくなったらすぐ車椅子を使い、もう少し弱ったらベッドに寝かせたままにする今の介護制度は、寝たきりで10年以上も人を生かしておく「拷問」と言っても良いかも知れません。自分だけの力で動き、食べ、排泄するのは、人として生きるための当然の能力であり、同時に喜びである筈です。それを奪ってしまうのは、あまりにも残酷というものでしょう。

そうではなくて、高齢者はたとえ「這ってでも」自分の事は自分で出来る様に、常に努力すべきでしょうし、もしその能力がひどく弱ってきた場合には、周囲は能力を可能な限り維持するためのリハビリを勧めるべきなのです。作るべきは寝たきり老人を作る、いわゆる現在の老人病院や老人施設に代わり、自立のための能力を維持させるための、老人向けジム+リハビリ施設でしょう。そこでは、彼らに生き甲斐を提供し呆けなくするために頭や手先を使う「軽作業」さえ必要だと見ています。

人を含めた生き物は、楽をし始めた瞬間から、能力の低下が始まる存在だからです。老人には、死ぬまで適当な負荷を与え続けなければならないのです。もし、彼らの人生を幸せに終わらせたいのであれば・・・。この小文を書いて投稿しようと思っていたら、なんとNスぺの「人生100年時代」を放送していました。ちなみに、この特集でも、この投稿とほぼ同じ趣旨の様でした。つまり、全ての高齢者施設の目指すべきは、入居者の要介護度を軽くする事を目的とし、高齢者のQOLを上げる事に注力すべきだと言うものでした。

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2018年11月15日 (木)

3524 SDGs2:飢餓をゼロに

今地球上に実際に飢餓状態にある人々は一体どれくらいいるのでしょうか。地域に定住している人達は、たぶん旱魃などの天候不順があれば短期的には飢餓に陥る事もあるのでしょうし、自分たちの土地を追われたいわゆる難民は、国連やNGOなどからの継続的な食糧支援を受けざるを得ないのでしょう。何は無くとも、私たちが生きていくためには、継続的に農業を営み、食糧を得るための最低限の土地が必要なのです。仮に、1反(300坪=約1000㎡=0.1ha)の土地があるとして、人一人が飢えずに暮らせるのでしょうか。この国には、400haの程の作付されている農地があって、食糧自給率は40%弱ですから、国内だけで自給しようとした場合、今の2.5倍の農地が必要と言う計算になります。その面積を、単純に人口で割り戻せば0.83haになりますから、1反程度の土地ではとても足りないという計算になってしまいます。

つまりは、この国はどこかの国の土地で食糧を作って貰い、それをお金で買ってどうにか生きて行っている国だとも言えるでしょう。加えて、私たちは肉を食します。牛肉を1㎏得るためには、たぶん10㎏の穀物を必要としますので、その穀物を直接食糧にする場合に比べて単純に計算すれば、約10倍の農地面積を必要とするでしょう。つまり、肉食は間接的には何処かの国の、飢餓状態にある人達の食糧を奪っているとも言えるのです。

私たちが日常で出来る事はと言えば、狭くても庭やベランダで野菜を作り、肉食を週一程度に抑え、タンパク質は豆や魚で得る努力をする程度しかないのかも知れませんが、少なくとも単に安いというだけの理由で、海外の農地を使って得られた農産物を可能な限り買わない様にする程度の「心掛け」だけは無くすべきではないでしょう。同様に、いわゆる「商品作物」、例えば油ヤシやココア、コーヒーなど、本来は食糧を作っていた畑を潰して、国際商品として取引される作物の購入にはやはり敏感になる必要がありそうです。チョコレート1枚分のココアパウダーを得るために、その国では一体どの程度の食糧農産物を諦めているのかを考えてみるべきなのです。飢餓ゼロの第一歩は、飽食の対極の行動にこそあるのです。

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2018年11月14日 (水)

3523 SDGs1:貧困を無くそう

今回から、たぶん17回に亘って、SDGs(持続可能な開発ゴール)に示される「各ゴール」について、では我々市民レベルでは何が出来そうか、考えてみたいと思っています。初回は貧困問題です。貧困は、たぶん個人財産や通貨等の「富」の概念が出来て以降、つまりは有史以降常に存在した社会問題だったと想像しています。つまり、貯め込む事が可能な「富」がある限り、それをより多く持っている金持ちグループと、殆ど持たない(持てない)いわゆる貧乏なグループが生まれてしまう訳です。理想を求めて例えば共産主義などという仕組みも試行されましたが、結局は一極集中は腐敗を生み、一部の特権階級とその他大勢の一般市民階級を生み出してしまっただけでした。国営工場や集団農場を作り、人々は配給を受けては居ましたが、慢性的なモノ不足から結局は皆慢性的な渇望感に苛まれていた事でしょう。

一方で、高い税金を徴収する代わりに、国民皆が高い教育や福祉水準を享受できる仕組みを指向した、例えば北欧の諸国の社会制度が生まれました。こちらは、それなりに上手く機能はしているとは思いますが、結局これらの国々が高い生活水準を維持していくためには、途上国などとの貿易で、「富」を稼ぎ出さなければならない筈なのです。つまり、全世界の国々やそこに住む人々が、全て北欧の様な水準の生活など送れる筈もないのです。どう考えても、地球の資源の限界や、温暖化を含めた環境悪化がそれを許さないでしょう。

ではどうするかですが、結局は夫々の国が、それぞれのレベルで可能な限り平等な水準で生活を送れる様な仕組みが必要だと思うのです。それは、たぶんこれまでどの社会システムでも、イデオロギーでも達成できなかった仕組みになるでしょうから、皆で知恵を絞って考えるしかないでしょう。少なくとも、先進国は途上国で産出する農産物や資源を安く買い叩く行為は止めにしなければなりません。それと、人口の都市集中が、富の格差の元凶である事は間違いないでしょうから、既に都市に生じているスラムを解消し、田舎での「通貨にあまり頼らない」仕組みの中で、人々が安寧に暮らせるモデルケースを実験してみる必要はあります。南ドイツでその様な実験を行っているレッテンバッハ村は、投稿者が知る限りその一つではありますが、先ずはその様ないくつかの例を真似て、実験してみる価値は十分にありそうです。この村では、村が発行する地域通貨が流通しており、それを介して(又は物々交換で)村内のモノを取引出来る様にしていますから、お金(ユーロ)を持たない人でも不自由なく暮らせるのです。ここでのキーワードは、人口の地方分散と通貨の要らない(物々交換)取引の拡大という事になるでしょうか。先ずは、自分が持っているモノと他の人のモノを交換する事から始めましょうか。

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2018年11月 8日 (木)

3522 ガバナンス

ESG(環境・社会・ガバナンス)ではないですが、近年よく企業のガバナンスが問題として取り上げられます。ガバナンスが統治や統御と和訳される場合もあるのですが、この場合どうしても上から目線のコントロールというニュアンスが強く出てしまいがちです。しかし、例えば近年の多くの企業の品質記録改ざんや手順無視の不始末を眺めると、どうやらこれらの企業はガバナンスの意味をはき違えているとしか思えなくなったのです。はき違えていると言うのは、ガバナンスは決して上意下達の一方向の概念ではないという点です。

本来の意味のガバナンスは、実は双方向でなければならない筈なのです。つまり、上からの指令が出たとして、それを受けた下部組織は指令を咀嚼した上で、必要に応じてリアクションを返さなければならないのです。よく、上下の風通しなどとも表現されますが、指令の妥当性や指令への対応状況についても、逐次の報告が必要なのです。風通しの悪い組織では、不始末が「内部告発」によって露呈し、やがてそれが根深いものである事が分かり、結果として隠しおおせないと判断したトップ3人?が、謝罪記者会見を開くパターンにハマるのでしょう。

そうではなくて、ガバナンスが上手く行っている企業や組織では、変だと感じた事は、どのレベルの人であっても、隠さず情報発信できるのです。従って、発生した問題もごく小さい内に露わになり、小さい内に対策も打てる事になるでしょう。車の検査手順破りや免震ダンパーの検査記録改ざんなど、一体どの様な組織なら長年隠し通せるものか、全く想像もできません。もし、ある個人んが不正を始めて、周りの誰もがそれに気が付かなかったとすれば、組織の作り方の問題でしょうし、もしそれを小さな組織の長が指示し、部下がそれに従っただけだったとしたら、何をかいわんやでしょう。もし後者だったとしても、内部監査かあるいは人事異動のタイミング等で、当然の事ながら告発されて然るべきなのです。つまり、件の不正をした企業内では、いずれにしても下から上への風通しが殆ど無かったか、あるいは内部監査が「形だけ」に留まっていたかだったのでしょう。内部監査に関しては、稿を改めます。

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2018年11月 7日 (水)

3521 ビジネス優先

品質管理や品質記録の誤魔化し(隠し)などの企業の劣化が止まりません。その根本原因を想像してみれば、経営層やビジネスサイドから現場に対しての「歩留まり最優先」というプレッシャーでしょうか。もし現場で、不具合が見つかったり手直し作業が多くなった場合、利益の低下や納期遅れによる損失などが発生してしまいます。そこで、製造現場としては製品の歩留まりを100%とすべく、小さな不具合を隠す様に行動してしまうのでしょう。小さな不具合隠しは、やがて常態化し、その不具合の記録や手直しの記録まで、完全に隠してしまい表面には出さない様に暗黙のルールが支配的になるのです。

実際、一般的に小さな不具合は、製品の性能には殆ど影響しないものが多い筈ではありますが、その不具合が隠される事により、それを無くすような改善努力も行われないまま、品質記録のみ誤魔化され、時間だけが流れるのです。その間、担当者や経緯を知る人達は、移動や定年で職場を去り、悪しき暗黙のルールのみが引き継がれてしまうのでしょう。

これは、明らかに企業倫理の崩壊と言わざるを得ない事態でしょう。そもそも、企業としては製品やサービスを社会に送り出して、その結果「顧客満足」を得て、その顧客がリピータになる事によって企業存続が可能になる筈です。リピータを得る原動力こそ、他社より優れたデザインや機能を「品質」を通じて顧客を満足度を高める努力に他ならないのです。それかあらぬか、現代の企業の風潮は、収益を可能な限り高めて企業価値を上げ、結果として「株主満足」を得ることのみ強調されている様に見えます。これは、いわば「ビジネスで勝って、現場が敗北する」情けない現象とも言えそうです。頑張れ技術者、踏ん張れ現場、です。

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2018年11月 5日 (月)

3520 小さく生んで・・・

企業にせよ、自治体にせよ、事業拡大や地域の活性化のために、何かしらの新規事業を模索している事でしょう。しかし、多くの場合、次のようなジレンマに悩んでいると想像されます。つまり、新たな事業を起こすのは喫緊の課題ではあるが、いざ実行に当たっては、新規投資や人材の手当てに不安があり、最初の一歩が踏み出せない。と言うものです。

しかし、考えてみれば大きなヒット商品や事業展開の成功例にしても、最初から大成功をおさめた訳ではないでしょう。最初の一歩は、それぞれささやかなものだった筈なのです。「小さく生んで大きく育てる」という言葉がありますが、この言葉こそビジネスの神髄を言い当てている様な気がするのです。つまり、初期の設備投資や人材の投資は最小限に抑えながら、先ずはスケールダウンしたビジネスモデルを作ってみるのです。自社に設備が無ければ、どこかの公設試や試作企業の設備を借りれば良いでしょう。人材が足りないのであれば、先ずは半日単位で今の業務から解放し、数人のグループからなる「ミニプロジェクトチーム」を作れば良いのです。ただし、それは上意下達ではダメで、あくまでもプロジェクトチームメンバーの熱い思いが無ければならないでしょう。

プロジェクトの大きさに応じて半年とか、1年(或いは数年)とかの年限を決め、ささやかでも予算を付けて、明確な行程(マイルストーン)を決めて、新たな製品なり事業を形にする訳です。もちろん、その事業の方向性の筋が良いかどうかは、経営者として確かな目利きが必要である事は間違いありません。その際のキーワードは単純です。それは、その新製品なり新規事業が果たして「持続可能性が髙いか否か」というものです。石油が無くなっても、電気料金がバカ高くなっても、海外から食糧や物資が潤沢に輸入できなくなっても、どんな時代になっても、根強い需要が期待できなければならないのです。これは、単純ですが非常に強力なフィルターであるとも言えるでしょう。このフィルターを通過できる新商品や新ビジネスは、最初は小さく始めても、非常に大きなものに成長する事は間違いないでしょう

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